摂津・播磨・淡路の昔話館

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摂津のむかしばなし

目次

神戸市東灘区

神戸市灘区

神戸市中央区

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神戸市長田区

神戸市須磨区

神戸市西区

菟原処女の伝説

今から千三百年もむかし、神戸の東部から芦屋付近は、大阪湾沿岸の湿地に芦がしげり、それを屋根にふいた民家が点在していたからであろうか、ひろく芦屋の里と呼ばれていた。 ここに芦屋の菟原処女(うなひおとめ)というかれんな処女(おとめ)があった。多くの若者が彼女に思いを寄せていたが、なかでも同じ里の菟原壮士(うなひおとこ)というのは立派な若者であった。ところが、和泉(いずみ)の国から来た血沼壮士(ちぬおとこ)という若者がいて、彼も処女を深く愛するようになっていった。二人の若者はいずれ劣らぬ立派なますらおであったが、処女を妻に迎えたいと、激しく争うようになった。 刀をぬき弓矢をとって争う二人の若者を見て、 「私のような者のために、あのような方たちを争わせては……。 いずれの方とも一緒にはなれない。私にも思う方はあるけれど……。 死者の国で待つことにいたしましょう」 と、思い悩んだ処女は身を投げ、死んでしまった。彼女の死を知った血沼壮士は、その夜、処女の夢を見た。そこで、 「彼女が思っていたのは、私のことだったのだ」 と、処女を追って自殺してしまった。これを聞いてくやしがったのは、残された菟原壮士である。 「私も遅れてなるものか……」 と、彼もあとを追って死んでしまった。

菟原処女の伝説

■処女塚古墳
■東求女塚古墳

このあと、三人に縁やゆかりのある人びとは、 「純粋な若者たちの心情を末長く伝えてやろう」 「いつまでも、彼らのことを語りついでやろう」 と、立派な墓を-処女の墓を中央に、そこから等間隔で東西に、処女の墓のほうを向いた二つの塚を-築いてやったという。東灘区御影塚町の処女塚(おとめづか)と、住吉宮町の東求女塚(ひがしもとめづか)、灘区都通の西求女塚は、これら若者たちのための前方後円墳だと伝えられてきた。 『万葉集』のなかには、この塚のそばを通りかかった三人の歌人、高橋虫麻呂・田辺福麻呂・大伴家持が、この伝説を長歌や短歌に残しているから、神戸地方でもっとも古い-奈良時代から語られていた伝説であることがわかる。 伝説はそのまま史実と考えてはならない。上記の三つの古墳も、考古学的には時代がそれぞれずれていて、あの物語のような若者のために造られたとは考えられない。この地方の豪族を葬った塚である。

『神戸の伝説 新版』 (著者 田辺眞人 発行所 神戸新聞総合出版センター 平成十年一月十日発行)より

→処女塚は阪神石屋川駅下車、南西へ徒歩十分。東求女塚址は阪神住吉駅すぐ、西求女塚は阪神西灘駅から東南へ五分。平安時代以降になると、二人の壮士は少女の親の提案で、生田川に遊ぶ水鳥を射て処女を競い、二人の射た矢が一羽の立派な水鳥の首と尾に当たったのを聞いて、処女はこの川に身を投げた、と伝えるようになった。 二人の若者もあとを追ってこの川に沈んでいった。水鳥の、また若い三人の生命をも失わせ、それでも生田川とは、つれない名だ、と人々は語った。

菟原処女の伝説

■西求女塚古墳

敏馬の神社

国道2号線と43号線の合流点から、少し西、国道2号線の北に敏馬(みぬめ)神社がある。神功(じんぐう)皇后は九州の熊襲(くまそ)討伐に向かうとき、尼崎の神崎(かんざき)の松原に神々を集めて戦勝を祈った。このとき、集まった神々のなかで、能勢(のせ)郡の美奴売(みぬめ)山に住む神が皇后に言われた。 「皇后よ。私の住む美奴売山から美しい杉を切り出し、船を造って、それに私を祭り、皇后も乗って戦いに出なさい。そうすればよい戦果を得られよう」 その通りに船を造って軍を進めたところ、神功皇后は新羅(しらぎ)との戦いにまで大勝利を収めたという。 一説には、この杉の木で造った船は、朝鮮半島へ向かう途中、しばしば牛が鳴くような吠(ほ)え声を上げたという。その船は、対馬の沖まで行くと急に動かなくなり、ついにはひとりでに東方へ帰りはじめた。瀬戸内海をへて灘の沖まで来ると、やがて船は止まってしまったという。占ってみると美奴売の神が現われ、この地に祭るように命じられた。そこで人々が祀ったのが敏馬神社のおこりだという。『摂津国風土記』に記されていた古い説話である。 国道から鳥居をくぐって境内に入ると、すぐ眼前に急な石段がある。それを登ると、社殿が台地上にあることがわかる。この台地は、敏馬神社のところでもっとも南に突出しており、その東西に低地が北のほうまでくいこんでいる。古代には、この台地の下まで海が迫っていた。したがって、神社は南に突き出た岬の上に祀られていたのである。岬の西の入江が脇(わき)の浜(はま)であり、東の入江のあとには味泥(みどろ)(深い沼地)の地名が残っている。

敏馬の神社

■敏馬神社
■閼伽井の霊泉

万葉の歌人・田辺福麻呂が歌った「八千桙(やちほこ)の神のみ代より百船(ももふね)の泊(は)つる泊(とまり)と八島国百船人(ももふなびと)の定めして敏馬の浦」は、大輪田(おおわだ)ノ泊(のちの兵庫)がにぎわう以前の、このあたりの古い港であった。「御津(みつ)(今の大阪)の浜びに大船に真楫(まかじ)しじ貫(ぬ)き韓国(からくに)に渡り行かむと直(ただ)向ふ敏馬をさして潮まちて……」という万葉の長歌は、大阪からこの敏馬に寄って外国へ向かった旅の様子をしのばせる。 古くからこの神社は、船人の守護神として信仰されてきた。その一方で、妙な信仰が寄せられてきた。縁切りの神さまとしてである。それゆえ、むかしから、若い男女はこの神社にはそろって参らず、嫁入り道具もこの神社の前は通ってはならぬと伝えられていた。いやいやながら縁の切れない男女があれば、こっそりと相手のはき物を盗んで、この神社にもうで、鼻緒を切ってそれを拝殿の裏に捨てておけば、必ず縁が切れると信じられていた。 また、境内に閼伽井(あかい)と呼ぶ霊泉がある。今も拝殿の前の石段を下りると、西の崖(がけ)すそに清らかな水がこんこんと湧いている。この水は、むかしから眼の病気に霊験あらたかだと信じられている。

『神戸の伝説 新版』 (著者 田辺眞人 発行所 神戸新聞総合出版センター 平成十年一月十日発行)より

→敏馬神社へは阪神岩屋駅から東南へ、徒歩五分。奈良時代の後半から大輪田ノ泊(のちの兵庫港)が利用されるまでは、難波を出るとまずこの敏馬ノ浦が、西に向かう航路の最初の港であった。

砂山と旭日の鳥居

新幹線新神戸駅の東背後に、姿のいい丸い小山があって、布引丸山とも砂山(いさごやま)とも呼ばれている。千年以上もむかし、生田の神さまはこの山上に祀られていたといい、当時この砂山は、神さまの力で一面に青々とした松の木が茂っていたという。 ある年のことだ。何日も何日も雨が降り続いた。六甲の山地を流れる河川は、各地で洪水を起こし、いたるところで山崩れが起こった。砂山の麓(ふもと)の生田の村人も心配顔であった。 「山上の神さまは、大丈夫だろうか」 しかし、生田川も苧川(おがわ)にも泥水がうずを巻き、砂山の山すそへ近づくこともできないのだ。そのとき、勇ましく名のり出たのは、刀祢(とね)七太夫という村人だった。 「わしが、神さまの様子を見てこよう」 濁流につかって川を渡り、七太夫は砂山の急斜面をよじ登っていった。山頂に着いて、ご神体を祠(ほこら)から出し、彼が背負ったときであった。ゴーッという地響きとともに、祠のあったあたりは崩れ落ちていった。生命からがら山を下り川を渡って、彼は神さまをいったん自分の家に連れ帰った。 やがて雨もあがり、明るい日差しがもどってくると、七太夫はご神体を背負って村内を歩きはじめた。あらためて神さまを祀るよい土地を探しはじめたのだ。それから八日目、生田川の西の深い森のなかを歩いていた七太夫は、妙な気分になった。 「おやっ、急に歩けなくなった。足が動かぬぞ。-ああ、きっとここにお祀りせよと、神さまが望んでおられるのだ」

砂山と旭日の鳥居

ご神体を背から降ろすと、七太夫はその森に新しい社(やしろ)を建てて、神さまをお祀りした。この森が今の生田の森で、社が生田神社のおこりだと伝えられている。 雲中(うんちゅう)小学校(中央区熊内町)の北西のはずれに、古い石鳥居(とりい)が立っている。この鳥居には元旦の朝、初日の光が当たっても、影ができないと伝えられるために、旭日(あさひ)の鳥居と呼ばれている。この鳥居は、生田の神さまが砂山の上に祀られていた頃の、一の鳥居だと伝説している。 洪水のあと、生田の神さまは松の木を嫌うようになられた。せっかく恩をかけて山一面に茂らせていたのに、山崩れにはまったく頼りにならなかったからである。それで、生田の森には今も松は育たぬそうだし、むかし神社にあった能舞台の鏡板(舞台正面の羽目板)にも、松の代わりに杉の木が描かれていた。今日でも、祭の日の神輿(みこし)唄まで、 (※)祝いめでたの若杉さまよ枝も栄えて葉も茂る と歌うし、生田神社では正月にも門松を立てずに、杉飾りを立てている。 伝説の伝える恐ろしい洪水がいつのことかは判然としないが、一説には延暦十八年(七九九)四月九日のことだと伝えている。 なお、旭日の鳥居は実際には、熊内八幡神社の古い参道の鳥居だと考えられている。 ※は、へに似た記号、唄の部分を表す記号。 (ホームページの文字変換にない記号は、※で表記しています。)

砂山と旭日の鳥居

『神戸の伝説 新版』 (著者 田辺眞人 発行所 神戸新聞総合出版センター 平成十年一月十日発行)より

→神戸市中央区 生田神社へはJR・阪急・阪神・市営地下鉄・ポートライナー三宮駅から徒歩三分。熊内八幡神社(熊内町九丁目二-十八)は新神戸駅から徒歩十分。

■熊内八幡神社の鳥居
■生田の森
■布引丸山(砂山)
■生田神社

木下長者と大亀

ずっとむかし。兵庫の西のはずれに大きな柳の木があって、あたりを柳原(やなぎわら)と呼んでいた。 その木のもとに、木下の源太兵衛という貧しい男が住んでいた。彼はたいそう貧しく、夫婦でわらじづくりをして暮らしていたが、非常に信心深く、毎日、観音経を唱えることをおこたらなかった。 ある年の暮れのことだった。見知らぬ僧がやってきて、一夜の宿を頼んだ。夫婦は、 「お泊めするのはよろしいが、こんな貧しい暮らし。たいそう冷えるのに、あたたかい夜具もなく、さしあげる食べ物もありません。しかも明日はお正月。どうぞもっと豊かな家にお泊まりください」 と言った。しかし僧は承知せずに、 「いやいや、お宅に泊めてほしいのじゃ」 と言って、その貧しい家に、むりやり泊めてもらった。 翌朝、夫婦はナズナの入ったそまつな食事を用意した。食べおえると僧は頼んだ。 「なあ、そのわらじを一足くださらんか」 こうして、新しいわらじをはいて、僧は、台所のかまどの後ろにあるヌカ味噌の入った桶のところに行き、 「慈眼視衆生福聚海無量」 と唱えた。そのあと、ていねいに夫婦にお礼を述べると、ふっとどこかへ姿が消えてしまった。

木下長者と大亀

その後、台所からプーンとよい香りが漂ってきた。どうも味噌桶からのようである。ヌカ味噌桶を開いた夫婦は、驚きの叫び声をあげた。 「あっ、ヌカみそが上等なこうじ味噌に変わっている」 この話を聞いた近くの人々は、そのおいしいこうじ味噌を求めてやってきた。無欲な夫婦は、おしげもなく皆に分け与えたため、ついに桶のこうじは、その日の内になくなってしまった。 しかし翌日、桶のなかを見た二人はまた驚いた。 「おや、また、こうじの味噌がいっぱいになっている。それではまた、求める人々にこれをあげることができるぞ」 何日たっても、桶の味噌はなくならなかった。そこで源太兵衛は戸口に看板をかけて、このこうじ味噌を売り始めた。おいしいこうじは飛ぶように売れ、何年かたつうちに彼らは大きな富をたくわえ、木下長者と呼ばれるようになった。 「これはひとえに、信心していた観音さまのおかげだ」 夫婦の信仰心は、ますます大きくなった。そんなある夜、二人の夢に、年の暮れのあの僧が現われて語った。

木下長者と大亀

「お前たちは、本当に真心こめて信心しているな。そこで、わしがこのりっぱな観音さまの像をお前たちにあげよう」 目ざめた二人が、たがいのふしぎな夢のことを話しあって、持仏堂のなかを拝むと、持仏堂のなかに、夢で見た仏像があった。二人は、 「この観音さまを祀るお寺を建てよう」 と決心し、いく隻かの船をやとって、建築用の木材を買うため、西国に旅立たせた。何日かのち、それらの船が帰ってきて、兵庫の和田岬の沖へとさしかかったときだった。にわかに大風がふき始め、木を満載した船はことごとく海にのまれてしまったのである。 「何ということだ」 木下長者は、ぼう然と浜辺に立ちつくした。と、そこに一人の旅の僧が現われたのである。 「拙僧は、可禅(かぜん)と申します。船が沈んだのは、海底の龍神さまが、長者さんの志を試そうとしておられるのじゃ。もう一度財産を投げ出して、立派な寺を建てようとなされ。拙僧は今から九州に用あっておもむくが、帰りにここに寄って、お前さんを助けてあげましょうぞ」 木下長者は、この可禅の言葉に従って、さらに何隻もの船を西国に送り、たくさん木材を求めさせた。

木下長者と大亀

それらの船団が、和田岬沖に帰ってきたときであった。とつじょ、大きな波のうねりが起こり、波間から前に沈んだ船が、木材をそっくり積んだまま、浮き上がってきたのである。見ると、それらの船は、大きな大きな鼈(うみがめ)の背に乗せられて上がってきたのだ。 やがて九州から帰ってきた可禅の協力で、木下長者はすばらしい寺院を建立し、あの観音さまを祭った。これが福厳寺の起こりである。寺は、巨大な鼈にちなんで、山号を巨鼈(きょごう)山と称することになった。 のち元弘三年(一三三三)五月三十一日、隠岐から京へもどる途中の後醍醐天皇が、この寺に立ち寄られた。天皇は、木下長者のこの話を聞いて感動され、観音さまに参拝されたという。

『神戸の伝説 新版』 (著者 田辺眞人 発行所 神戸新聞総合出版センター 平成十年一月十日発行)より

→神戸市兵庫区 福厳寺(神戸市兵庫区門口町三-四)は、JR兵庫駅下車東へ、徒歩十分。 当時の和田岬沖は、JR山陽本線・神戸市営地下鉄海岸線和田岬駅周辺。 柳原は、兵庫駅の南東周辺。

木下長者と大亀

■柳原の標識
■福厳寺
■和田岬沖

長田神社の鶏

高取(たかとり)山は、神戸の市街地のかなり遠方からでも眺められる美しい姿の山だが、ずっとむかしに大洪水があって、山頂まで水につかったことがあるという。水害のあと山に登った人々は、頂上の松の木に大きな蛸(たこ)がとまっているのを見つけ、取って帰った。それから蛸取(たことり)山と呼ぶようになり、それが訛(なま)って高取山になった、と、須磨や長田の古老の間に素朴に伝えられていた。 さて、山の南麓・長田の里にも神功皇后伝説がたくさん伝わっている。朝鮮出兵からの帰途、難波(なにわ)に向かう皇后の船団は、高取山の南の港に入ってひと休みした。そのため、以後の朝鮮からの使者は必ずこの港に上陸したので、そこは高麗(こま)の泊(とまり)と呼ばれ、やがて駒の泊、駒ケ林(こまがばやし)と変化したという。そこから船出して少し東に、皇后はまた船を着け、長田の里に上がってひと休みされた。むかし、長田区役所の北にあった御船(みふね)の森という小丘は、そのとき船を着けたところだといい、のちに皇后の船の金具と黄金の船を埋めたことから、御船の森という名が出たとも伝えている。御船通という町名はこの伝説にちなんでいる。 長田で休まれたとき、皇后がそばの大石を撫(な)でられると、その石は急にむくむくと成長して高い山となった。高取山を一名、神撫(かんなで)山というのは、神功皇后が撫でてできたので、この名があるという。ただ実際には、神撫は神奈備(かむなび)(古代の神祭りが行われた山)の転訛と思われる。古代から高取山は信仰の対象であったからである。

長田神社の鶏

さて、駒ケ林から務古(むこ)の泊を経て、大阪湾に漕(こ)ぎ出したところ、神功皇后の船団は同じところをぐるぐるまわって進まなくなった。そこで皇后が占ってみると、多くの神々が現われた。そのなかに、 「われは汝の航海を守ってきた事代主(ことしろぬし)の神である。われを御心(みこころ)長田の国の鶏の声する地に祀れ。そうすれば船旅を守り、その里にも恵みをたれよう」 と語る神があった。そこで皇后は、長媛(ながひめ)をつかわして長田に神を祀らせようとした。長田に来た長媛は、どこに社を建てるべきか迷っていたが、ある森かげに来たときである。 「クークー。コケコッコー」 とかん高い鶏鳴が耳に入った。 「ここが、神さまのお望みの地なのだ」 こう考えて長媛が事代主の神を祀ったのが、長田神社の始めだと伝えている。 弥生時代から、苅藻(かるも)川流域には長く大きな田が広がっていて、その農耕社会が、『日本書紀』などに「御心長田の国」と記されたのであろう。 後世、長田神社は航海・漁業の守護神とも信じられ、また祈願やお礼参りには、人々は鶏を奉納して放し飼いにした。境内には多くの鶏がいたため、明治の初めに当社を訪れた神戸の外国人の間では “Chicken Temple(鶏寺)”と呼ばれていた。

長田神社の鶏

■高取山
■長田神社

一方、高取山はその西麓に質の悪い石炭の層をもち、幕末に勝海舟が海軍操練所で使う石炭を掘り出したといい、当時、外国人に “Coal Hill(石炭山)”と呼ばれていた。

『神戸の伝説 新版』 (著者 田辺眞人 発行所 神戸新聞総合出版センター 平成十年一月十日発行)より

→長田神社へは、地下鉄長田駅・高速長田駅から、北へ約十分。

松岡城とハラキリ堂

板宿の西、須磨区大手町九丁目の勝福寺は、今から千年ほどむかしに、高取山の北麓の鹿松(かのししまつ)峠に出没した鬼人を退治した証楽上人が開いたと伝える古い寺院であるが、寺への急な坂道を登っていくと、山門前の石段の手前、参道西側の民家の裏に小さな墓地がある。これは証楽上人以降の歴代の寺の住職の墓域なのだが、土地の古老は付近を「ハラキリ堂」と呼び、足利尊氏が切腹しようとしたところだと伝えている。 およそ六百年前、鎌倉幕府を倒して、後醍醐天皇による建武の新政の実現に貢献した足利尊氏は、やがて貴族中心の後醍醐天皇の復古的な政治に不満をいだく武士を結集して蜂起し、湊川の合戦で楠木正成らを破って京に上り、一三三八年、征夷大将軍となって幕府を開いた。しかし、やがて足利氏内部に紛争が生じ、観応年間(一三五〇~五二)には尊氏は、弟の直義(ただよし)と衝突をくり返した。 観応二年(一三五一)二月十七日、打出(うちで)(芦屋市)、越水(こしみず)、鷲林寺(じゅうりんじ)(西宮市)に陣どった直義方の軍勢を攻撃しようと、尊氏は西方から二万の大軍を率いて御影の浜に布陣し、打出にかけて激しい戦闘がくりひろげられた。が、大軍で統制のとれぬ尊氏方は総崩れとなって、「二万余騎の兵ども勇気を失い、落つる方を求めてただ泥に酔いたる魚の小水にいきづく」(『太平記』)ように西方へと敗走した。

松岡城とハラキリ堂

■勝福寺付近

こうして彼らは須磨の松岡城へと逃げこんだ。が、四町(約四四〇メートル)四方にも満たぬ小城であり、主だった者のほかは入城もできず、しめ出された武士たちは「破れたる簑(みの)を身にまとい福良(ふくら)の渡(わたし)・淡路の迫門(せと)を船にて落つる人もあり、或は草刈男にやつれつつ竹の蕢(あじか)を肩にかけ須磨の上野・生田の奥へ跣(はだし)にて逃ぐる人もあり」と、『太平記』はみじめな敗者を描いている。 この松岡城というのが、勝福寺を中心に、その背後の小山に築かれていた中世の城砦で、その山城の南麓(ふもと)に大手(おおて)の地名がつき、近世の村名、現在の町名へと受け継がれているのである。 さて、ひどい敗戦に落胆した尊氏は、ついに、 「もはやこれまで。腹をかき切らん」 と、切腹の覚悟を決め、その夜、部下たちと別れの盃をかわしていた。と、そのとき、しんとした城内に、東の城門をたたく大きな物音が響いた。 「開門、かいもーん。直義さまとの和議が成りましたぞー」 その声は、逃げのびたと思われていた饗場命鶴(あえばみょうづる)という若者の声であった。彼は京にのぼって、直義方との和約を結んでやってきたのであった。あわやというところで切腹をとりやめ、やがて尊氏は松岡城をあとに、山陽道を京へともどって行った。 この尊氏が切腹しようとしたのが、勝福寺の南の「ハラキリ堂」の地だと伝えられているのである。

『神戸の伝説 新版』 (著者 田辺眞人 発行所 神戸新聞総合出版センター 平成十年一月十日発行)より

→勝福寺へは、山陽や地下鉄の板宿駅から西北へ徒歩十五分。

弁慶と金棒池

音声で聞く

むかし、神出(かんで)の里を弁慶が通りかかったことがあった。二つ並んだ雄岡(おつこ)・雌岡(めつこ)の山を見た弁慶は、 「この美しい二つの山を、わが家の庭の築山(つきやま)にしよう」 と考えた。ものすごい力持ちの弁慶は、二つの山の間に立つと、持っていた金棒の片方のはしを雄岡山に、もう片方のはしを雌岡山にぐさりと突きさし、金棒のまん中に肩を入れて、担ぎ上げようとした。 「えいっ。うーん」 グググッと、金棒はしなった。「うーん」と、もうひと息、弁慶が力をこめたときである。ボキッと金棒は折れて、足もとにころがってしまった。弁慶はあきらめて去って行ったが、このとき金棒の落ちたあとに水がたまったのが金棒池だという。池のなかには小さな二つの古墳があるが、伝説では、これは弁慶の足跡だ、といわれている。

『神戸の伝説 新版』 (著者 田辺眞人 発行所 神戸新聞総合出版センター 平成十年一月十日発行)より

→神戸市西区 金棒池(神出町古神)へは、大久保駅よりバスで金棒池下車。

弁慶と金棒池

■雄岡山(右)・雌岡山(左)
■金棒池

しばり地蔵

慶明の田んぼのなかに、りっぱな大きなお地蔵さまの石像が祭られていて、しばり地蔵と呼ばれている。 病気にかかった人は、このお地蔵さまに参り、縄や細い紐で、地蔵の体をぐるぐるとしばりあげるのである。そして、 「どうぞお地蔵さま。病気を治して下されば、縄をおときいたします」 と祈るのである。そうすると、必ず病気を治してくれると信じられていた。 ことにこの地蔵は、おこりがついたときに、それをすぐに治してくれるという。 もとは西向き地蔵といって、西に向いて安置されていたが、今では向きが変わって北に向いている。

『神戸の伝説 新版』 (著者 田辺眞人 発行所 神戸新聞総合出版センター 平成十年一月十日発行)より

→神戸市西区 しばり地蔵(平野町慶明)は、慶明寺(平野町慶明九十七)から南へ約二百メートル。

しばり地蔵

■しばり地蔵 ※

義経と大物の浦

十二世紀の末、神崎川の河口の今の大物のあたりは、“大物の浦”と呼ばれていました。 源平の合戦で平氏がほろび、源氏が政権をとりましたが、源義経は、兄の頼朝と不和になり、西国(四国・九州方面)へ逃げようと大物の浦へ来ました。追ってきた頼朝勢を合戦のすえ、退けた義経は、静御前や弁慶など数人の味方と大物の浦を船出しました。 (この時、静と別れたというようにも伝えられています。) その夜、嵐にあった義経一行は、住吉の浜に流れ着き、吉野へ落ちて行くことになります。 *謡曲「船弁慶」では、嵐の中に平知盛の幽霊があらわれ、義経を海に沈めようとしましたが、弁慶の法力で退散させられたとなっています。 (出典)吾妻鏡、玉葉、船弁慶、尼崎今昔物語 尼崎市史第10巻

『尼崎の伝説』(編集・発行 尼崎市立北図書館 平成三年十二月一日発行)より

→尼崎市 大物主神社は、阪神電鉄大物駅より南へ徒歩五分。

義経と大物の浦

■大物主神社
■義経弁慶隠家跡

大物くずれ

■大物くずれの碑

戦国時代、かねてから対立していた細川澄元と細川高国は、永正五年(一五〇八)、高国が澄元方の池田城を攻めたことからはじまり、西摂一帯を戦場に抗争を続けてきました。澄元は永正十七年に病気で亡くなりましたが、澄元方は子息の晴元を擁して高国と対抗しました。享禄四年(一五三一年)になると、いずれも二万騎をこえる軍勢だった模様です。 六月四日、晴元勢に敗れた高国勢は、尼崎へ敗走してきました。この戦いを「大物くづれ」といいます。 高国は、尼崎か大物のあたりで、染匠(紺屋)の大がめの中に隠れたと言い伝えられています。一つの説では、子どもたちにまくわうりをやって探させた、とも言われています。 翌日、高国は捕らえられて、八日に広徳寺で切腹させられました。

(出典)尼崎市史第1巻、阪神史話、新阪神史話 『尼崎の伝説』(編集・発行 尼崎市立北図書館 平成三年十二月一日発行)より

→尼崎市 大物くずれの碑は、阪神大物駅の北側。交番の西側。

茨木童子

昔、東富松のある家に男の子が生まれました。生まれながらに牙が生えて髪が長く眼光するどかったので、一族の人はおそろしくなって、茨木(茨木市)に捨てました。大江山の酒顛童子がこの子を拾い、茨木童子と名づけ、育てました。 ある年、父母が病気にかかっていることを知った茨木童子は、東富松へ見舞いに戻ってきました。父母は食べ物をだしてもてなし帰らせました。童子は、 「私は京都の東寺の門に住んでいます。また来ることはできないと思いますので、これが、この世でのお別れです。」となげきました。 父母は人を頼んで、童子の後を追いかけてもらいましたが、近道を狐のような速さで駆け抜けていくので、追っていた人は、ついに行方を見失ってしまいました。

(出典)立花志稿、尼崎市史、むかしと今と 『尼崎の伝説』(編集・発行 尼崎市立北図書館 平成三年十二月一日発行)より

→尼崎市 東富松は、阪急神戸線武庫之荘駅から北東へ約一キロ。

茨木童子

■東富松周辺

名月姫

尼崎(あまがさき)市の尾浜(おはま)の町にある八幡(はちまん)神社の境内(けいだい)に忘れられたように立つ、高さ五尺(約一メートル六十五センチ)あまりの石塔(せきとう)。その名は名月姫の塔といいます。 その塔は静かに語りました。彼女の昔々の悲しいものがたりを……… 「私はずい分昔に生れたのです。そうですね。ざっと八百年も前のことでしょう。まだ平清盛(たいらのきよもり)のお父さん忠盛(ただもり)が力を持っていたときです。私の父は三松刑部左衛門尉国春(みまつぎょうぶさえもんじょうくにはる)といってこのあたりの豪族(ごうぞく)でした。父は自分に子供がないことを悲しんで、いつも、子供が欲しい子供が欲しいという気持から、母とともにあの鞍馬山(くらまやま)に登って一週間の願をかけたのです。その七日目の夜、父国春は、夢の中でおつげをうけ、その後、しばらくして私の母は、私をみごもったのです。そして久安(きゅうあん)二年(一一五六)八月十五日、美しい月の夜に私は初声(うぶごえ)をあげたのです。父母は待(ま)ちに待(ま)った子供が生れたので、天にものぼる気持だったと、物にふれことにつけ語ってくれました。そしてこの名月にちなんで名月姫と名づけられました。 それから私たち一家は幸福(しあわせ)な日がつづきました。 年を経(へ)て、自分でいうのもおかしいですが、鏡にうつる自分の顔にうっとりするほどでした。でも悲しいことに幸福はいつまでもつづきませんでした。

名月姫

私は能勢(のせ)の蔵人家包(くらんどいえかね)に奪われて、その妻にされてしまったのです。その時のことは、思い出すだけでもぞっとするような気がします。やさしい父母から離れて、薄暗い牢(ろう)の中にいるような気持の毎日でした。そして涙に明け暮れした日を重ねていました。一体父母はどうしているだろうかと、心は絶えず父母の里のうえをさまよっていました。そうするうちの或夜のこと、夢にあらわれた父は自分の悲しい運命を語ったのです。 『娘、名月姫よ、わしは今、囚人(しゅうじん)の身として兵庫にいる、お前が去った後、わしは僧となって西国(さいごく)をまわっていたが、運悪く、清盛が兵庫に港を築(きず)こうとしたが工事がうまく行かない、そのため三十人の人柱(ひとばしら)を海神にささげることになったのじゃ、その時わしは三十人目の通行人として兵庫に入ったのじゃ、わしは間もなく海神にささげられる。娘、名月姫よ、兵庫にきたりて、わしを救え-。』 と、私は驚きと悲しみで胸をつきあげられ、ただ父に会いたいの一心からこわさも忘れて、一人家を抜け出して兵庫へ走ったのです。み仏は私を救ってくれました。清盛にかわいがられていた松王丸(まつおうまる)は、たった一人の名誉(めいよ)のためにたくさんの命が失われるのを嘆(なげ)いて、人柱を救(たす)けようとされていたのです。

名月姫

私は松王丸に会い、父を救けてくれることを願いました。松王丸はとうとう自分を犠牲(ぎせい)にして三十人の人柱を助けてくれました。私は父に会えた喜びと、松王丸を失った悲しみの二つの気持を抱いたまま御津松(みつのまつ)とよばれていたこの尾浜に帰ってきました。しかし、父は間もなく旅のつかれと、気のゆるみから病に倒れ、私に見守られて世を去りました。私は父を助けた松王丸も去り、心の柱とも頼む父も死に、家包のもとへ帰ることも自分で許せず、とうとう父の後を追って自害してしまいました。 現在は土台だけ残されたこの石塔の下で、八百年の歴史が眠っているのかと思うと、何か物悲しく感じられました。

『郷土の民話(阪神編)』(編集 “郷土の民話”阪神地区編集委員会 発行 財団法人兵庫県学校厚生会 昭和四十七年十一月発行)より

→尼崎市 尾浜八幡神社(尼崎市尾浜町二丁目)へは、JR立花駅から東へ徒歩約二十五分。

名月姫

■尾浜八幡神社
■名月姫碑

水争いを防いだ紋左衛門

これは田んぼへの「引き水」をめぐって、場合によっては死人ができるかもしれないと思われるような事件を、無事(ぶじ)に防(ふせ)いだ一老人の奇知(きち)をたたえたお話です。 当時の西宮は、多くの村にわかれていましたが、その中には水に不自由を感じない所もあれば、どうかすると水不足で困る村もありました。中でも甲東(こうとう)村は仁川(にかわ)の水を用水に使っていましたから、そう不自由はなかったのですが、大社(たいしゃ)村は池の水にたよっていましたので、日照(ひで)りが続きますと、たちまち水に不足するという所でした。 ところで、寛永(かんえい)十八年の夏は、ひどい日照りつづきでした。人びとは毎日つづく雲ひとつない空をあおいでは、「今日も雨は降らない……。」と、ため息をつくありさまでした。ことに大社村大字(おおあざ)中村では、田植えはどうにかできたものの一滴(いってき)の雨も降らないのですから、池の水も底をつき、稲田(いなだ)はカラカラ、あっちこっちにひび割れがはいり、稲は今にも枯(か)れそうになりました。何回か雨ごい祭もしましたが、いっこうにきき目はありません。村の人びとは最後のてだてとして井戸水を土びんにくみ、一本一本の稲にかけることまでしましたが、稲の枯れるのを防ぐにはあまりにも悲しいこころみでした。中村の人にとっては命にかかわる一大事になってしまいました。人びとは、天をあおいでこのまま稲の枯れるのをまつか、どこからか水を引いてくるかより方法はないと考えました。

水争いを防いだ紋左衛門

そして目をつけたのが仁川です。仁川もさすがの日照り続きで水量も少くなってはいましたが、その水を「引き水」としている北の甲東村の稲田は生き生きとしています。その水を少しぐらいもらってもいいだろうと、考えたのはむりもありません。しかし、そのころのお百姓さんにとって、水は命のつぎに大切なものだったのですから、たのみにいったところでわけてくれるとは思われません。中村の人びとは、ある晩、ひそかに手に手にクワ・スキ・モッコを持って一夜の中(うち)に仁川からの水路を掘ってしまったのです。水はどっと流れこんで中村の稲は生き返りました。ところが、首をかしげたのは甲東村の人びとです。 こんなに水が急に少なくなるはずがない。村人たちは総出で調べてまわりました。村のたよりのつなである仁川の水が、上流で別の方向に引かれていたのです。さて「水ぬすっと」のしわざと、さっそく水路を元どおりにしました。しかし、二日程たつとまた水量がへるのです。こんなことが何回かくり返されました。甲東村の人びとは、水どろぼうのあまりのしつこさにもうがまんができなくなりました。力じまんうでじまんの元気者が数十人クワ・カマなどの武器を持って、水路の分れ口近くの木かげで待ちかまえることにしました。 いっぽう、命がけの中村の農民たちはそんなこととは知るはずもありません。今夜中に閉ざされた水路を開通しなければ稲が全滅(ぜんめつ)します。一人の小声のさしずで、いっせいに工事を始めました。水どろぼうを目の前にした甲東村の若者たち、さてはこいつらのしわざであったかと、いっせいにおそいかかろうとしました。そのときです。ザワザワとおかしな音がしたのです。

水争いを防いだ紋左衛門

ふと目の前の岩を見あげたら、なんと、おりからの赤い不気味な月に照らし出された白しょうぞくの大男が、手に羽うちわを持ち、ものすごい目つきでにらんでいるではありませんか。 「わあっ、天狗(てんぐ)じゃ!。」「逃げろ!。」 甲東村の元気者はいっせいに逃げ出してしまいました。翌朝、甲東村では、天狗のしわざでは仕方がない。少しぐらいの水不足はがまんしよう。それより天狗のたたりのほうが恐ろしい。と水路をもとどおりにしないことにしてしまったのです。おかげで中村の百姓たちは、水に苦しまないですむようになりました。 この天狗、実は中村の人、紋左衛門だったのです。紋左衛門は仁川の上流からひそかに「引き水」をすると決心したときから、甲東村との間におこるにちがいない水争いで、たとえ命の次の稲を守るためとはいえ、同じ人間どうしが血を流しあうようなことは、さけなければならないと思っていたのです。 そこで、かれは一計を考えたのです。それは、当時の人たちが一番恐れていた天狗になって、人びとを恐れさせるということです。計画はうまくいきました。ひとりのけが人もなく、しかも中村にも水がくるようになりました。大社村の人たちは紋左衛門のこの智恵(ちえ)に感謝して、明治二十八年に広田(ひろた)神社のけいだいに石碑(せきひ)をたてました。「兜麓底績碑(とろくていせきひ)」と正面にほりこんであります。

『郷土の民話(阪神編)』(編集“郷土の民話”阪神地区編集委員会 発行 財団法人兵庫県学校厚生会 昭和四十七年十一月発行)より

水争いを防いだ紋左衛門

■紋左衛門岩(越木岩神社)
■仁川
■紋左衛門岩
■廣田神社

→西宮市 広田神社は、阪急西宮北口駅南口より阪急バス甲東園行き乗車、広田神社前停下車、またはJR西ノ宮駅北西より阪急バス乗車、広田神社前停下車。紋左衛門岩は、2つ説があり、それぞれ県道大沢西宮線の真ん中と甲山の西北にある樫ヶ峰の麓を通るドライブウェー沿いにある。

怪物の墓・ぬえ塚

『摂津名所図会』に、「鵺塚(ぬえづか) 芦屋川住吉川の間にあり。今さだかならず。むかし源三位頼政、蟇目(ひきめ)にて射落したる化鳥、「うつほぶね」(※)に乗せて西海へ流す。此浦に流れよりて止るを、浦人ここに埋むといふ」とある。 仁平三年(一一五三)の夏、近衛天皇は不可解な病に悩まされていた。毎夜丑(うし)の刻(午前一時ごろ)になると、京の東三条の森の上に怪しげな黒雲がわきあがり、それが御所の上空をおおうと、鵺(ぬえ)(とらつぐみという鳥)の声に似た不気味な鳴き声がひびくのだ。すると、決まって天皇は苦しまれる。徳の高い僧にご祈祷してもらっても、一向にききめがなかった。 迷信ぶかい貴族たちは、これはきっと妖怪変化のしわざにちがいない。その怪物を退治しなければならない、と話し合った。そこで百発百中の弓の名手、源頼政が御所に呼び出された。その夜、いよいよくだんの時刻がやってきた。東三条からわきあがった黒雲が紫宸殿(ししんでん)の上をおおった。 「頼政きっと見上げたれば、雲の中に怪しき物の姿あり。射損ずる程ならば、世にあるべしとも覚えず。さりながら矢取って番(つが)ひ、南無八幡大菩薩と心の中に祈念して、よっ引いて、ひょうど放つ」と『平家物語』が、この頼政の怪鳥退治を描いている。 みごと一矢で怪物はしとめられ、雲間から落ちてきた。そこを頼政の家臣、猪早太(いのはやた)がすばやく刺し殺した。人々はてんでに明かりをたずさえ、怪物の死体に近づいた。見ると、「頭は猿、躯(むくろ)は狸、尾は蛇、手足は虎の如くにて、鳴く声鵺(ぬえ)にぞ似たりける。怖(おそろ)しなども愚(おろか)なり」(同書)。今はやりの浅はかな怪獣と比べても、猿の頭、蛇の尾、虎の手足に狸の胴体というこの様相はすさまじい。

怪物の墓・ぬえ塚

■ぬえ塚の碑
■ぬえ塚橋

この武勇のほうびに、頼政が獅子王という剣を天皇から賜わったときには、宮廷の上空にはカッコウの鳴き声が二声三声。静けさがもどっていたという。 さて、京の都の人々は、殺された怪物の祟(たた)りを恐れて、その死体をうつぼ船(大木をくりぬいて造った船)に乗せ、鴨川に流した。淀川を下ったその船は、やがて大阪東成郡の滓上江村にいったん漂着した後、海上をただよって、芦屋川と住吉川の間の浜にうちあげられたという。人々はいつしか、この怪物の鳴き声が鵺(ぬえ)に似ていたことから、怪物をヌエと呼ぶようになっていた。芦屋の浜辺の人々は、この怪物の死骸をねんごろに葬った。これが「ぬえ塚」なのだという。 『摂津名所図会』では、住吉川と芦屋川の間にあったというが、塚の位置はわからない。今では、芦屋川の河口近く、東岸のテニスコートの近くの松林のなかに小さな土盛りがあって、「ぬえ塚」という石碑が立てられており、芦屋川のもっとも川下にかかる橋は、これにちなんで「ぬえ塚橋」と名づけられている。 ※は、ふねへんに兪で、兪の《の部分が り (ホームページの文字変換にない漢字は、※で表記しています。)

『神戸の伝説 新版』 (著者 田辺眞人 発行所 神戸新聞総合出版センター 平成十年一月十日発行)より

→ぬえ塚の碑は、阪神芦屋駅から川の東を徒歩十分足らず南に進んだ松浜公園の一画にある。

金兵衛車やけ車

六甲の山地に深い谷を刻んで流れる芦屋川が、平地へ出ようとするあたりに、今、「水車谷(すいしゃだに)」という地名がある。その地名は、江戸時代から米つきや菜種(なたね)油しぼりの多くの水車が、この川にかかっていたことをしのばせてくれる。 水車には丹波の国あたりから、出かせぎの働き手がたくさんやってきた。なかには、幕府や京の御所に献上する酒の酒米をつく水車もあった。それらは格式高い水車とされ、そんな水車場で働くことは、また大きな名誉と考えられていた。 ある年、丹波の一人の若者が、そのような格式の高い水車場の働き手に選ばれた。誇りとよろこびに、彼の胸ははちきれそうだった。が、その心のなかには、同時に不安もわきあがった。互いに思いあった幼なじみの娘を残して、故郷を離れねばならないからである。出発の日が近づくにつれ、若者も娘も別れの切なさを強く感じ始めた。やるせない心で、やがて二人は若者の任務を解いてほしいと願うようになった。けれども人々は、そんな望みに耳をかそうとしなかった。家族にとってもその村にとっても、格式ある水車場に若者をさし出すことは、名誉なことだったからである。 しかたなしに、若者は旅立った。丹波街道を南へ-六甲の北の麓(ふもと)から山を越えて、彼は芦屋の里を訪ねた。彼はそこで、金兵衛車(きんべえぐるま)と呼ばれる水車場に入った。その水車場の頭(かしら)は、まずその水車の高い格式と彼の仕事の名誉なことを語り聞かせた。

金兵衛車やけ車

「だから、水車場に入るときには、川の水で身を清め、米を全部つき終わるまで水車から出ることも、外部の人間と話をすることも、かたく禁ぜられておるのじゃぞ」 その日から、若者は一心に働いた。 一方、丹波の娘に突然、嫁入り話が持ち上がった。恩ある人からの申し出で、娘はそれを断るわけにもいかず、思い悩んだ。しかし、芦屋に行った若者への思いはつのるばかりであった。思いあぐねた娘はついに村を出、はるばる山を越えて芦屋の里を訪ね、金兵衛車にたどり着いた。が、娘の前に立ちはだかった水車の頭は言った。 「大事なお役目の若者に、言葉をかけてはならぬ。それより、お前は村に帰り、恩返しに嫁にゆくのが第一じゃ」 どう頼んでも若者に会わせてもらえぬ娘は、やがて半狂乱になって山に入り、青い葉のついた木の枝を手にして現われ、髪ふり乱してぐるぐるぐるぐる、水車のまわりを走りまわった。そのうち娘の体からあやしい炎が燃え出して、やがて彼女は一つの焔(ほのお)となって天に昇っていったという。 その夜ふけ、奇妙な光が金兵衛車を包み、水車も若者も頭も、一つの火の車になって夜空に高く昇っていったという。このときから芦屋の里では、子供たちも、 (※)金兵衛車やけぐるま と唄うようになったという。

金兵衛車やけ車

■水車谷
■芦屋川
■水車谷バス停

六甲山地を南流する中小河川の急流の水力は、ひろく水車産業を育(はぐ)くんだ。住吉川の四輌場、五輌場、六甲川の水車新田などという地名も、そのような水車の名残りなのである。 ※は、へに似た記号、唄の部分を表す記号。 (ホームページの文字変換にない記号は、※で表記しています。)

『神戸の伝説 新版』 (著者 田辺眞人 発行所 神戸新聞総合出版センター 平成十年一月十日発行)より

→芦屋川は平均斜角が二十度に近い急流で、大正時代まで水車が栄えていた。 阪急芦屋川駅から有馬行き阪急バスに乗ると、山間に入るところに水車谷のバス停がある。

黄金塚の伝承

むかしの西国街道(かいどう)は、京都から西国地方にいく大へんたいせつな道でした。せまい道でありましたが「さんきんこうたい」の時は西国の大名たちは「下(した)にー、下(した)にー。」と、いばってこの道を通って、京都へのぼり江戸へいったものです。 打出村(阪神電車・打出駅)の北に「打出の一本松」また「西国大名腰(こし)かけ松」ともいわれた大きな古い松がありました。大名たちの行列(ぎょうれつ)はここで、ひと休みするのが常でした。この大松は、昭和九年の大暴風雨(ぼうふうう)でかたむいてしまったので、のち切りとられて今はありません。黄金塚(こがねづか)は江戸時代の絵図(えず)によると、西国街道の北にそって円形の道をつくり、その中央に円い古墳(こふん)があり、その上に数十本の大きな松が天にそびえています。もとはよほど大きな小山のような、お墓で周囲(まわり)に「ホリ」をめぐらしていました。 西国街道を通る人たちは、みなこのお墓におまいりして、となりの打出天神社に詣(まい)り、阿保(あほ)親王のお墓におまいりしたものでした。 この大きな円(まる)い墳(はか)は「金津丘(かなつやま)・黄金塚(こがねつか)・金塚(かなつか)」ともいわれ、たいへん名高い、芦屋第一の古い大きなものです。伝説によるとこの地方を治(おさ)めていた、阿保親王がなくなるまえに「このやまに黄金(こがね)を埋(う)めておくから、もしこの里の人たちがうえ死にするような、ききんにおそわれたときは、これを掘(ほ)り出してしのぐように……。」とのおおせでありました。

黄金塚の伝承

■黄金塚

この里のわらべうたに 「朝日さす 入日かがやくこの下に こがね千枚 かわら万枚」 現在は墓所もしだいに、けずりとられ、大きな松も多くは風のためにたおされ、墓地は一面に小笹(ささ)が生えて荒地(こうち)となり、まわりには、高い住宅がつぎつぎにたって、ながめがわるくなりましたが、数百年もへたと思われる黒松が、昔を物語っております。 文化(ぶんか)年間の「あしかり草紙(そうし)」という本には、芦屋の藤栄(とうえい)が打出の金津山から、黄金(こがね)を掘りださうとしたそうですが、天罰(てんばつ)で手が動かなくなったそうです。おとしよりのお話しですと、いままでこの黄金をほりとろうとしたものは、たびたびありましたが、みな天罰により失敗(しっぱい)し、今でも黄金が、うずまっているとのことです。

『郷土の民話(阪神編)』(編集“郷土の民話”阪神地区編集委員会 発行 財団法人兵庫県学校厚生会 昭和四十七年十一月発行)より

→芦屋市 打出天神社は、阪神電車の打出駅を北に約二百メートル。 黄金塚は、阪神電車打出駅から北東に百メートル。

片目の行基鮒

むかしむかし、奈良(なら)に都があったころ、行基上人(ぎょうきしょうにん)という偉(えら)いお坊さんが、諸国(しょこく)を歩きまわっておられました。人のためになることをしようという、気高いりっぱなお考えだったのです。 ある日のこと、上人さまが有馬の温泉(おんせん)へ行くために、さみしい猪名野(いなの)の笹原(ささはら)を歩いておられましたが、道ばたに倒(たお)れているきたならしい男に目をとめて立ちどまりました。 「もしもし、どうなさいました。」 やさしく手をかけてたずねますと、さもめんどうくさそうに 「持病(じびょう)を治しに、有馬へ行こうと思うてここまで来たんやが、からだがしんどうなってしもうた。だれぞ助けてくれへんやろうかなあ、と思うて待ってたんや。もう三日もめしを食うとらへんし、ハラペコペコや。あんたはんは、なんぞ食うもん持ってしまへんか。」 というのです。 上人が旅のおべんとうの、ほしいいをとり出しますと 「あかんあかん、わしや、生の魚を食わんと、せいがつきそうにならんのや。」 と、うけつけません。 「そりゃ、悪かった。しばらく待っとくれ。」 上人は、そこからわざわざ遠くの浜辺(はまべ)まで行って、魚師(ぎょし)に取りたての魚をわけてもらって帰ってきますと、「料理もせえへん魚が、食えますかい。」と、えらそうにいうのです。

片目の行基鮒

上人は魚の片身を料理(りょうり)して食べさせ、片身を骨つきのまま、近くの昆陽池にはなしてやりました。すると魚は、そのまま泳ぎはじめました。今もこの池に「片目の鮒(ふな)」がいるというのは、この魚の子孫(しそん)だということです。 上人は、この行き倒れの男を、やさしくいたわりながら有馬へやって来ましたが、ある日のこと男はいいました。 「わしは、このとおりのひどい皮膚病(ひふびょう)や。温泉で洗うぐらいで治りそうにもないが、どうや坊さん、一ぺんわしの肌(はだ)をなめてもらわれへんかいな。ほたら、ちょっとはましになるように思うねんけどなあ。」 これには、さすがの上人も困りました。しかし、助けられるものなら助けようと思い、上人は、うみだらけの肌を少しづつなめはじめました。すると、なめたあとからあとから、そのなめたところが黄金色(こがねいろ)に輝きはじめ、やがて男の姿は金色(こんじき)の仏さまにかわってしまいました。 「あっ。」上人は思わず伏し拝んで、仏さまのおごそかなお声を夢うつつに聞くのでした。 「上人よ。わたしはお前をためすため、わざわざ病人に身をかえていたのじゃ。」 と、いったかと思うと、そのお姿は消えてしまいました。上人は、そのお姿を薬師如来(やくしにょらい)として木像(もくぞう)に彫(ほ)り、有馬の薬師堂におまつりして、人びとの病気が治るようにいのりました。 伊丹の昆陽野(こやの)にも昆陽寺(こやでら)を建てて、薬師如来をおまつりしたということです。

『郷土の民話(阪神編)』(編集“郷土の民話”阪神地区編集委員会 発行 財団法人兵庫県学校厚生会 昭和四十七年十一月発行)より

片目の行基鮒

■昆陽寺
■昆陽池

→伊丹市 昆陽寺(伊丹市寺本二丁目一六九)は、阪急伊丹線伊丹駅より、伊丹市バス・阪急バスで西方の昆陽里バス停下車、東へ百メートル。

柳の下から霊水

むかし、足利(あしかが)十二代将軍義晴(よしはる)の時代(今から五百五十年ほど前)に、宝塚にひとりの貧(まず)しい女が住んでいました。 女はたいそう信心が深くて、つね日ごろから中山観音(なかやまかんのん)さまにお参りしておりました。 ところが、女が五十才になった時、どうしたわけか、なんともしれないたちの悪いハレモノにとりつかれてしまいました。知る限りの薬はもちろんのこと、人にあれこれと聞いては治(ち)りょうをこころみてみましたが、いっこうに効(き)きめはなく、それどころか、ますますひどくなっていくばかり、女は、ほとほと弱りはて、日夜、身もだえて苦しんでいました。 ある夜のことです。女は今夜もハレモノのいたさで、寝つかれず、長い間苦しんでいましたが、そのうち疲れて、うとうとと、まどろんで(とろとろとねむる)いますと、枕もとにすーっと一人の坊さんがあらわれました。そして、じっーと女をみつめていましたが、やがてその坊さんのいうのには、

柳の下から霊水

「お前は、たちの悪いハレモノにとりつかれて苦しんでおるな。いくら薬でなおそうにも、なおるどころか、ますます苦しみが増すばかりじゃ。実はな、それにはわけがある。お前の前世のわざわいがきているのじゃ。お前は前世にはな、上流階級の身分であった。それに金持ちでな。なに不自由のないくらしをしておったのじゃ。ところが、お前は、心がおごって目下の者にはつらくあたった。なかでも下女には、ことさらひどいしうちをしたのじゃ。そこでつかわれていた下女どもが、みんなお前をうらみ、中にはうらみとおして果(は)てた者さえおった。そうした下女どものうらみが、現世のお前にたたってそのハレモノにあらわれているのじゃな。薬でもやくばらいでもなおらないのはそのためじゃ。このままでは、お前は、いずれ苦しみもだえた末、命を絶(つい)やしてしまうことになるじゃろう。ところで、お前は、つね日ごろから信心のあつい女じゃ。いっ心に観音をあがめているのは感心じゃ。そこでわしはその信心にめでて、ひとついいことを教えてやろう。 この武庫の川の上流に鳩(はと)が渕(ぶち)というところがある。そのそばに古い大柳が一本立っておる。その大柳の木の根元を掘ってみるがよい。清い水が湧(わ)き出るはずじゃ。それは観音の霊水(れいすい)でな。その水を湧かし、湯にしてからだをつけてみるがよい。ハレモノはたちまちにしてなおるであろう。」 坊さんはそういうとすーと消えてしまいました。

柳の下から霊水

■宝塚温泉付近
■塩尾寺
■塩尾寺から宝塚温泉街を望む

ハッとして目をさました女は、ありがたいお告(つ)げに大いに喜んで、その夜は夜通し観音さまの名を唱(とな)えつづけました。 夜が明けると、女は弱ったからだをひきずるようにして宝塚紅葉谷(もみじだに)にある十一面観音(じゅういちめんかんのん)の祭ってある塩尾寺(えんぺいじ)に行き、そのお寺の海伝(かいでん)というお坊さんをたずね、夢の話をしました。 それはそれはというので、二人連れ立って鳩(はと)が渕(ぶち)のそばに立つ大柳の根元を掘ってみますと、これはどうでしょう。ごぼ、ごぼ、ごぼごぼと清水が湧き出、こんこんと尽(つ)きることがありません。味は塩よりもなおからいものでした。 女は清水を汲(く)み、湯に沸かして入浴してみますと、どうでしょう。あれほどたちの悪かったハレモノは、すいすいとひいていき、たちまちもとのからだにかえっていきました。 その霊水が、今に伝わる宝塚旧温泉だと近在の人びとは語り伝えています。

『郷土の民話(阪神編)』(編集“郷土の民話”阪神地区編集委員会 発行 財団法人兵庫県学校厚生会 昭和四十七年十一月発行)より

→宝塚市 宝塚温泉は、阪急・JR宝塚駅からすぐ。塩尾寺(宝塚市伊孑志)は、阪急・JR宝塚駅から南西へ徒歩一時間。甲子園大学の西部。

木接太夫

いまから三百八十年前のころのことです。豊臣秀吉(とよとみひでよし)の家来(けらい)に山本荘司頼泰(やまもとのしょうのつかさよりやす)という武士がいました。 この武士は、しばしば戦陣(せんじん)に加わり、かの朝鮮(ちょうせん)の役(えき)にも従軍(じゅうぐん)して戦功(せんこう)があった人なのです。 年をとってから、故郷の山本郷(ごう)(宝塚市山本)に隠居(いんきょ)しました。この頼泰(よりやす)は、花や草木を友とするぐらいに、植物を愛していました。そして、一生けんめい研究もしていました。その研究が実(み)をむすんで、今までに誰もしなかった接木(つぎき)を発明しました。 接木法というのは、ある植物の一部を切って、他の別個の植物についで、新しい植物を作る方法でした。このつぎ木によって、品質を変える不思議なことができるようになりました。たとえば、モモやカキの木は種をまいて実がなるまで、何年もかかりました。その上に実が小さくておいしくありません。ところが、この接木法によって、実が早くでき大きいうえに味も大へんよいものができるようになりました。 昔から「モモ、クリ三年、カキ八年」のいい伝えをみごとに破った人であるといえるでしょう。

木接太夫

■山本郷付近
■木接太夫彰徳碑

頼泰は、後に山本膳太夫(ぜんだゆう)と名を改めました。接木の名人として膳太夫の名が広く伝わって、とうとう豊臣秀吉の耳にも入りました。秀吉はあのような名将でありましたが、もとは農民でしたからでしょうか、園芸(えんげい)に趣味(しゅみ)を持ち花を愛していました。山本村からたびたび花や盆栽(ぼんさい)などを献上(けんじょう)していたということです。膳太夫が接木(つぎき)に成功したことを知って大へん喜び、「木接太夫(きつぎだゆう)」という称号(しょうごう)をあたえました。 その当時は、大阪・京都間では、生活に必要な品物以外のぜいたく品の販売(はんばい)は、禁じられていましたが、秀吉のとくべつの思いやりで植木類の販売は許されていたというほどでした。

『郷土の民話(阪神編)』(編集“郷土の民話”阪神地区編集委員会 発行 財団法人兵庫県学校厚生会 昭和四十七年十一月発行)より

→宝塚市 宝塚市山本は、阪急宝塚線山本駅より東あたり。 木接太夫彰徳碑は、山本駅の北西。

頼光大江山の鬼退治

今から千年もむかし、源氏(げんじ)の祖先(そせん)に源満仲(みなもとのみつなか)という人がいて、その子に頼光(らいこう)というたいへん武勇(ぶゆう)のすぐれた武士(ぶし)がいました。 頼光は、父にたのんでりっぱな家来(けらい)を四人つけてもらいました。渡部綱(わたなべのつな)と卜部季武(うらべのすえたけ)と碓井貞光(うすいのさだみつ)と坂田公時(さかたのきんとき)であります。その家来を頼光の四天王(してんのう)といいました。 そのころ、このあたりでは、だれかれとなくゆくえ不明になるという変(へん)なことがおこっていました。 一日のうちに、五十人も七十人も消(き)えていなくなるというようになってきました。 「やれ、だれそれの殿(との)のお子様が見えられなくなった。」 「やれ、どこそこの貴族(きぞく)が見えなくなった。」 そのようすがさまざまなので、お上(かみ)でもおどろいて、国中残(のこ)るところなくたずねたところ、丹波(たんば)の大江山(おおえやま)から毎夜鬼(おに)の姿(すがた)をしたものが、うろつきまわり、石や木のかげにかくれていて、道行く人があると、つかんで大空へかけ上がるといううわさで、旅人(たびびと)も通らなくなったということでした。

頼光大江山の鬼退治

あまり不思議(ふしぎ)なことなので、大江山へ間者(かんじゃ)を入れて調(しら)べてみると、たくさんの石の城をかまえ、あやしい姿をした鬼どもがたくさんおり、力をもってはたやすく落(お)ちるとは思われないということでした。 またその城の鬼は、家来を城に残(のこ)しておいて自分は七、八人を引きつれ、この山の後にある千丈岳(せんじょうがだけ)という高い山のほらあなの中に身をひそめているということでした。 この鬼は、人間わざでない不思議な力があって、たやすく大空をかけるかと思うと、突然(とつぜん)姿が見えなくなり、雨を降らせたり風を吹かせたりして丹波、丹後(たんご)の人びとは、大そうなやまされていました。 「早く退治(たいじ)してしまわないと、たいへんなことになる。」 とみんなはあわて出しました。 この鬼を退治するには、源頼光(みなもとのらいこう)にまさる者はないと、そのころ日本の国を治(おさ)めていた藤原氏(ふじわらし)は頼光をよんで 「軍(ぐん)をすすめてこの鬼を退治せよ。」と命(めい)じました。 そこで頼光は、親せきの藤原保昌(ふじわらのほうしょう)と四天王と一千人のさむらいとを従えて出発することになりました。

頼光大江山の鬼退治

その日、杓子峠(しゃくしとうげ)をこえて無根坂(むこんざか)という所をすぎたころ、どうしたのか頼光は急にぐあいが悪くなり、宿(やど)をとって休むことになりました。そうして夜中のこと 「千丈岳には、大勢(おおぜい)でおしよせては不利(ふり)であろう。お前自身(じしん)がひそかにしのび入り、計略(けいりゃく)をめぐらしてこれを討(う)つようにせよ。住吉(すみよし)の明神(みょうじん)あたりからかならず案内(あんない)があるであろう。」 と不思議なお告(つ)げがありました。 頼光(らいこう)が家来たちにこのことを話すと、保昌(ほうしょう)が 「大江山の方を大勢でせめたら、千丈岳の方ではきっとゆだんするでしょう。また頼光公(らいこうこう)は大そうお疲(つか)れになって、ごようだいがよくないといううわさを世間(せけん)に流してはどうでしょう。そして、この間に頼光公とわたくしと四天王とが、ひそかに千丈岳に行き討つことにしてはどうでしょう。」 と、よい考えを出したので、頼光も四天王もさんせいしました。 さっそく長男の頼国(よりくに)をよんで 「急いで大江山を討つように。」といいわたし、頼国は家来たちと出発(しゅっぱつ)していきました。

頼光大江山の鬼退治

頼光は、病気(びょうき)がいよいよ重くなったといううわさを流し、千丈岳の鬼どもがさだめしこのうわさを聞いたであろうと思われるころ、千丈岳をさして出発しました。 その日、丹波についた頼光は 「このままの姿でしのび入れば、賊(ぞく)にみぬかれるであろう。みな山伏(やまぶし)(山にねおきして修行する僧)に姿を変えよう。」 と前から用意してあった装束(しょうぞく)に着がえることにしました。六人は、じょうだん口をかわしながら丹波の国府につきました。 そこへ向(む)こうの細道から顔のやせた老人がやってきました。 「そなたは何人(なにびと)か。」 と頼光が問(と)うと 「ここに小さなお社(やしろ)があって、わたしはその宮守(みやもり)でございます。」 と静かに答えました。 「ここの山奥(やまおく)というのは、どこのことかお聞きしたい。」 とひきとめて聞くと

頼光大江山の鬼退治

「あなた方は修行者(しゅぎょうしゃ)の方ですから、かくさずにいいますが、決して人にもらさないでください。実(じつ)は山上に『千丈岩屋(せんじょうがいわや)』があって、そこへ急ぎの用があるのでまいります。そこには大童子(だいどうじ)がおって、都からせめてきたら、大江山でたたかい、自分は千丈岳に身をかくしているのです。それにこのごろ有名(ゆうめい)な頼光がせめてくるとか、でも今は病気(びょうき)で多田へかえって養生(ようじょう)をしておられるとかいうことです。それでいろいろのようすを知らせるために行くのです。この鬼は、食物(たべもの)はけものだけを食べ、酒(さけ)をのんで、いつ酔(よい)からさめるともわからないほどのむのです。それで酒顛(しゅてん)といい、髪(かみ)にくしを入れないで子どもの姿をしているので童子(どうじ)といっています。」 と長々と話してくれました。 「われわれは修行の者、その酒顛童子にあって忍術(にんじゅつ)を教えていただきたいと思う。どうかそこへつれて行ってください。」とたのみました。 老人は、 「どうもわからないことを申される。あの峯(みね)に行かれたら、かならず命(いのち)をうしなわれることでしょう。それより大山(だいせん)への道を教えてあげましょう。」 と首をふっていうのを頼光は

頼光大江山の鬼退治

「もっともなことです。しかし法(ほう)のためには命をおしむわけにはいきません。ぜひ、つれて行ってほしいのです。」 と、いっしょうけんめいたのみました。老人は 「それほどまで思いつめられるのなら、その門のところまでご案内(あんない)いたしましょう。」 といいました。六人はよろこんで 「おたのみ申(もう)す。」 と足早についていって、その日の夕ぐれに千丈岳(せんじょうがだけ)のふもとに着(つ)きました。 そこからは、びょうぶのような絶壁(ぜっぺき)ばかりです。十二キロメートルばかり歩いた頃、二百メートルもあろうかと思われる岩あながあって、そのなかへ入って行きました。 そこは広くてはてしない野原(のはら)のようで、生(なま)ぐさい風が吹いていました。 老人は「ここで待(ま)っておられますように。」といって、中門の中へ入って行きました。 やがて使いの者が出てきて、山伏(やまぶし)姿の六人を酒顛童子の前へつれて行きました。

頼光大江山の鬼退治

六人は少しもさわがず、きちんとすわって一丈(いちじょう)(約三メートル)ほどの大男の酒顛童子を見つめていました。 童子は、大きなますのさかずきを持ち、けものの皮をはいだままの生々(なまなま)しい肉を引きさいて食べていました。 童子(どうじ)は六人にむかって 「どうしてここへ見えたのか。」 と聞きました。藤原保昌(ふじわらのほうしょう)が答えて 「わたしたちは都の山伏ですが、大山にまいるところ山道にまよい、困っているところをこの使いの方のおなさけでここにつれてこられました。あなた様にお目にかかれることができたのは、仏様(ほとけさま)のおかげとよろこんでおります。このうえは、一晩のやどと食事(しょくじ)をおゆるしくださいますように。」 と、おちついていいました。 童子は 「もっともなことである。しかし、お前は先達(せんだつ)(道案内者(みちあんないしゃ))のはず、どこの道でもよく知っているはずである。どうやら、わけがありそうに思われるが……。」

頼光大江山の鬼退治

「そのおことばこそ心に入りません。先達(せんだつ)とは、文学(ぶんがく)、修行(しゅぎょう)の先に立ってつとめるので先達と申します。山道をよく知っている者を案内者と申します。わたしたちはどのような深山(しんざん)へでも行き、仏道(ぶつどう)にくわしい人にあって法を聞き、また仏道を知らぬ者に法を教えるのがつとめです。」 童子はすかさず 「お前のいうことはわかる。しかし、仏様の道を学んでいるというのに、どうして頭を丸め黒の衣(ころも)を着(つ)けていないのか。どうして両刀(りょうとう)をもっているのか。」 頼光が進み出て次のようにわけを話しました。 「わたしたちは師(し)とするものもないので山に入り、松の実(み)を食べて忍術(にんじゅつ)を学び、三十年間山を出ることがなかったので、かみもそらず、法衣(ほうい)を着(き)ることもありませんでした。そまつな衣(ころも)を着て、刀をもっているのは、あらゆる欲(よく)をくだくためのものでございます。」 童子はだまって聞いていましたが、 「このような山中なので何もないが、あるものでもてなしをせよ。それぞれの者たち。」 そうしているうちに、酒や肉をもりならべだしました。

頼光大江山の鬼退治

そのとき、酒田(さかた)の公時(きんとき)が、大さかずきをもって出て一ぱい飲みほし、「こちらにも用意した酒がある。」といって酒をくみかわし、夜もたいそうふけたと思われるころ、童子は、たいへん深(ふか)よいしてそのままねてしまいました。 ところが、へやのすみには童子の家来(けらい)が一人ひかえていて、酒ものまず四方に眼をくばっています。 頼光が保昌に 「ころはよいぞ。」 というと保昌は 「もうしばらくお待ちください。あのくせものを生かしておいては、大事(だいじ)をしそんじます。」 といっているうちに 「山伏のかたがたは、こちらへ入ってお休みください。」 と、おくの一間を用意(ようい)し、六人をつれて行きました。 頼光(らいこう)はうなづき 「どなたかおられませんか。あまり飲(の)み食(く)いしたので、のどがかわきました。水を一ぱいください。」 というと、そのくせものが、うつわに水を入れて持って来ました。

頼光大江山の鬼退治

頼光がその水を取ろうとしたのを合図(あいず)に、公時がくせものにとびかかって引き組み、頼光は童子のねているところへふみこみました。 頼光は童子の腹(はら)のうえにとび上り 「いかに酒顛童子よ。この頼光のいうことをよく聞け。この日本の国にありながら、おおぜいの人びとをなやましたつみは、のがれがたいぞ。」 と、刀で心ぞうのあたりをさし、苦しまぎれに雷(かみなり)の落ちるような声を出したところを、宝刀(ほうとう)の鬼切丸(おにきりまる)でその首をうちとりました。 頼光をはじめ保昌、四天王は 「めでたく引きあげよう。」 と酒顛童子の首を長いほこにさし、公時がこれをもってまっ先に立ち山を出ました。 帰陣(きじん)すると、日本国中たいへん喜びあったということであります。

『郷土の民話(阪神編)』(編集“郷土の民話”阪神地区編集委員会 発行 財団法人兵庫県学校厚生会 昭和四十七年十一月発行)より

→川西市 源満仲、頼光等がまつられている多田神社は、能勢電鉄多田駅下車、徒歩約十五分。坂田金時(公時)の墓のある満願寺は、阪急電鉄雲雀丘花屋敷駅から、阪急バスで約十分、満願寺バス停下車。 →京都府福知山大江町 大江山へは北近畿タンゴ鉄道宮福線大江駅から福知山市営バス 大江山の家行きで二十分、終点下車、徒歩一時間。

頼光大江山の鬼退治

■大江山
■多田神社
■坂田の金時墓(満願寺)
■満願寺

幸寿丸の身代わり

音声で聞く

幸寿丸(こうじゅまる)は藤原仲光(ふじわらのなかみつ)の一人むすこでした。その仲光は今から一千年ばかり前の武士(ぶし)で、そのころ摂津守(せっつのかみ)として多田(ただ)地方をおさめていた源満仲(みなもとのみつなか)につかえた人であります。 ところで源満仲には、満正(みつまさ)・頼光(らいこう)・頼親(よりちか)・美丈丸(びじょうまる)・頼信(よりのぶ)と五人の子どもがいましたが、美丈丸(びじょうまる)だけは、武士にしませんでした。それは仏教(ぶっきょう)がさかんになったころでしたので、満仲は自分の子どものうち、一人だけはお坊さんにしたいと思っていたからであります。 そこで美丈丸を中山寺にあずけて勉強させることにしました。ところが美丈丸は、ほかの兄弟のように武士になりたくて、刀や弓のけいこばかりして、ろくろくお経(きょう)のけいこもしませんでした。 満仲は、美丈丸がお経のけいこをしないのは、お寺の人が美丈丸に気がねしてわがままを許(ゆる)しておくからであろうと思い、 「お弟子(でし)にさしあげたうえは、あなたの子と思い、こちらへの気がねはまったくご無用(むよう)、十分にしこんでいただきたい。」と申しいれました。

幸寿丸の身代わり

しかし、美丈丸のわがままは少しもなおりません。 「僧(そう)になるのは気に入らない。家で一大事(いちだいじ)がおこったときは、このようにふるまうぞ。」 といって刀をぬききって、いっしょにとまっている僧にとびかかろうとしました。みんなでひきとめましたが、このようすではどうにもしかたがないと、お寺から満仲(みつなか)に申しでがありました。 満仲は、すぐに家来(けらい)を中山寺につかわして美丈丸(びじょうまる)をつれもどし、家来の藤原仲光(ふじわらのなかみつ)の家にあずけておくことにしました。仲光の妻(つま)は、美丈丸がおさないころの乳母(うば)だったのです。 美丈丸のいたずらはますますひどくなり、美丈丸にきずをおわされ、そのために死んだ人もありましたが、だれもうったえようとしませんでした。満仲もとうとうおこり、 「美丈丸のあまりなふるまい、もう生かしておくわけにはまいらぬ。その方へたのむから美丈丸の首を切って持ってまいれ。」と命(めい)じました。仲光は、 「おいかりはもっともではありますが、若君(わかぎみ)はまだおさなくておられます。もういちど、おいさめしたら、あやまちをあらためられるかもしれません。しばらく私におまかせください。」 と、かさねがさねたのみましたが、満仲は頭をふって、

幸寿丸の身代わり

「いやいや、いま親子の情(じょう)にひかされて、むすこのつみをばっしなかったならば国がみだれる。くどくどいわず早く美丈丸の首を持ってまいれ。」と、そのままおくの間に立ち去ってしまいました。 仲光はどうすることもできず、深くもの思いにしずんで家に帰りました。美丈丸は、仲光のただならぬ気色(きしょく)をみてとり、 「じいの顔色なんとなくすぐれぬが、気にかかることがあればくわしく申せ。」 と心配(しんぱい)そうにたずねました。仲光は、 「若さまのこと、私から父君におわび申し上げましたが、お許(ゆる)しがないばかりか、私めに首をうちとるようにおおせつかりました。しかし、いくら命令(めいれい)でも、どうして若さまに刀がくわえられましょう。こうなってはかみをそってご修行(しゅぎょう)あそばされ、しずかに父君のお許(ゆる)しの日をお待ち申し上げるほかはございますまい。いざご決心くださいますように。」と、一生けんめいにいさめました。 仲光(なかみつ)のことばに動かされた美丈丸(びじょうまる)は、 「じいの親切はよくわかる。今は決心がつきかねるが、きっとじいのいうとおりにするであろう。」 と、なっとくしました。 そこで名の聞えた比叡山(ひえいざん)にいる源信僧都(げんしんそうづ)に、美丈丸をあずけてみっちり修行させることになりました。

幸寿丸の身代わり

それとも知らぬ満仲は、いっこうに美丈丸の首を持ってこないので、つかいを出し 「なにをぐずぐずしている。早くしなければほかの者にいいつけるぞ。」とさいそくしました。 このとき、美丈丸と同じ年の十五才になる仲光の子の幸寿丸(こうじゅまる)が、父の前に出て、 「このあいだからのごようすといい、今また若君のすがたの見えないのは……。」 とふしんがりました。仲光はあらたまって、くわしいことを話して聞かせました。 「父の身としてこういうことの切(せつ)なさは、じつに腸(ちょう)をちぎられる思いであるが、美丈丸の身代(みが)わりとして、この場でその方の一命(いちめい)を私にくれよ。若君のお首と申して殿(との)にさし出したい。」 と思いきっていいました。幸寿丸は、 「若君はご無事(ぶじ)でしたか、まずます安心いたしました。さて、ただ今の父上ののぞみ、承知(しょうち)いたしました。わが身ひとつをさし上げて、それが父上への孝行(こうこう)となり、そのうえ殿(との)への忠義(ちゅうぎ)ともなれば、ひとつの命をもってふたつの道にしたがうことができます。」 そのけなげなことばを聞いた仲光(なかみつ)の両方の目から、あついなみだがあふれ落ちました。

幸寿丸の身代わり

幸寿丸(こうじゅまる)は、きっとおもてをあげ、 「ぐずぐずいたして私が心をみだしたなら、末代(まつだい)までのものわらい、ときがたてば、くいがのこるでござろう。ごめん!」 というなり、父の腰(こし)から刀をぬきとるや幸寿丸、左の腹(はら)につきたて右手のわきに引き切りました。仲光は、ようやくの思いでその首をかき落とし、たえ入るばかりになき入ったのであります。 そのことがあって何年かたち、満仲(みつなか)の子の満正(みつまさ)が死んだとき、比叡山(ひえいざん)の源信僧都(げんしんそうづ)は満仲にむかって、 「先年、美丈丸(びじょうまる)をうしなわれ、つづいて満正どのにわかれられ、おさっし申します。自分の弟子(でし)に源賢(げんけん)と申す大そうりっぱな僧(そう)がおりますが、お子の代(か)わりにおもらいくださるまいか。」といい出しました。 「承知(しょうち)した。さっそくこれへ源賢をつれてまいられよ。」と満仲は申しました。 仲光が一人のわかい僧をつれてまいりました。源賢がつつしんで頭を下げているすがたを、満仲つくづく見つめておりましたが、美丈丸のおもかげに少しもちがいありません。満仲は、幸寿丸をもって美丈丸の命(いのち)にかえたことを、そのときはじめて知りました。満仲の目からは、なみだがはらはらと落ちました。

幸寿丸の身代わり

■中山寺付近
■川西池田付近

あらためて仲光(なかみつ)を召(め)し出し 「ひさしく幸寿丸(こうじゅまる)を見なかったので、どうしたのかとその方にたずねると、あれからほどなく病死したとの答え、ふびんなことよとのみ思ってきたが、今こそいっさいがわかり、おさな心のけなげさ、義(ぎ)をもって命(いのち)を落としたとは、何と礼を申してよいのかわからぬ。このたびなくなった満正(みつまさ)の子、三才にして父にわかれて、みなしごも同じ、これをやしのうて、そちの一家をつがせるように。」と申し深く頭をさげました。 このお子には乳母(うば)をそえ、そのうえ多田の百町(約九十九ヘクタール)あまりの田地を仲光にあたえました。 源賢(げんけん)は僧(そう)としてその一生を終りましたが、自分の身代(みが)わりに死んでくれた幸寿丸(こうじゅまる)をとむらうため、多田の領地西畦野(りょうちにしうねの)に寺をたて、忠孝山小童寺(ちゅうこうざんしょうどうじ)と名づけました。 のちに、境内(けいだい)には、美丈丸(びじょうまる)・幸寿丸(こうじゅまる)・仲光(なかみつ)の三びょうがたてられたということであります。

『郷土の民話(阪神編)』(編集“郷土の民話”阪神地区編集委員会 発行 財団法人兵庫県学校厚生会 昭和四十七年十一月発行)より

→川西市 忠孝山小童寺へは、能勢電鉄山下駅下車、徒歩二十分。満仲像は、JR川西池田駅前。 →宝塚市 中山寺は、阪急電鉄宝塚線中山駅から北へ徒歩約一分、JR宝塚線中山寺駅から北西へ徒歩約十五分。

幸寿丸の身代わり

■藤原仲光、美女丸、幸寿丸の墓と伝わる三廟(満願寺)
■忠孝山小童寺
■満願時

→満願寺は、阪急電鉄雲雀丘花屋敷駅から、阪急バスで約十分、満願寺バス停下車。

監修・協力一覧

監修者
田辺眞人
協力者
(以下アイウエオ順)
  • 芦屋市教育委員会
  • 尼崎市教育委員会
  • 尼崎市立北図書館
  • 塩尾寺
  • 大物主神社
  • 尾浜八幡神社
  • 河南堂写楽斎
  • 河南堂八宝斎
  • 小童寺
  • 多田神社
  • 田辺眞人
  • 長田神社
  • 兵庫県学校厚生会
  • 廣田神社
  • 福厳寺
  • 藤田晃三
  • 満願寺
  • 敏馬神社

監修者から

兵庫県は、播磨・但馬・淡路の全域と丹波・摂津の西半分弱を県域としています。つまり江戸時代名での旧五か国からなっているのです。その内の神戸市の約三分の二(西区・垂水区と北区淡河町を除く神戸市)と阪神地域が、摂津国でした。今この地域には兵庫県民の半分に近い人々が住んでいます。人家の密集する大都会です。しかし、騒がしい高速道路や鉄道路線のすぐそばに、かつてはたくさんの伝説や昔話が伝えられていました。 摂津は古代から瀬戸内海航路のターミナル地域であり、都から四国に向かう山陽道沿いの要地でした。また、武家の時代には源氏や平家とも関係の深い地域でした。近世には水運や六甲山を背景に新経済が発展した地域でもありました。そのような交通や、武士たちや、経済発展を反映した民話が、江戸時代に書かれた名所案内や、明治以降に発行された各地の地誌にはたくさん記録されています。最近ではこれらの記録から、各市・町の伝説や昔話の集成や解説書も出版されています。 そのような書物を原点に、極めてモダンな神戸市や阪神地域にも豊かな伝統文化があったことを伝えようと、ネットミュージアム兵庫文学館に「摂津のむかしばなし」が採録されました。「むかしばなし」といっても多くは民間説話の中の「伝説」に分類されるものですが、広く親しんでいただくために、このタイトルで統一・収録されることとなりました。 多くの皆様が神戸・阪神地域を、さらに兵庫県という地域を理解していかれる上で、このシリーズがお役に立つことを祈って、監修者としての挨拶に代えさせていただきます。

園田学園女子大学教授 田辺眞人

播磨のむかしばなし

目次

明石市

加古郡稲美町

加古川市

加古川市・佐用郡佐用町

三木市

姫路市・揖保郡太子町・
高砂市・加古川市

神崎郡

たつの市

赤穂市

化けダコとお后さま

むかし、林崎村の内(うち)、岸崎(きさき)(今の林崎の西の岸崎)に、西窓后(せいそうこう)・東窓后(とうそうこう)という二人のお后(きさき)が、おられました。また、海のなかには足の長さが八キロメートルから十二キロメートルもある大ダコが住んでいました。 この大ダコは、二人の美しいお后を、何とか海のなかへ引き入れようと、足をのばし、家のまわりをうろつくようになりました。お后さまは、おそろしくて、夜も昼も家の中にとじこもっておられました。 同じころ、二見の浦(今の二見町)に、浮須三郎左衛門(うきすさぶろうざえもん)という武士がいました。三郎左衛門は、天皇に申し上げ、その大ダコを退治(たいじ)しようと決心しました。 いろいろ工夫し、何度も失敗しました。そして、思いついたのがタコツボだったのです。 今のものと同じ形のたいへん大きなツボを、じょうぶにつくりあげて、藤江(ふじえ)の海にしかけました。 大ダコは、まんまとこのタコツボにはいってしまい生(い)けどられて、浮洲(うきす)に引きあげられてしまいました。 三郎左衛門は、はい出ようとする足を一本、一本切っていきました。ほんのはしの方を、ちょっぴり切っただけでも、その長さ十四メートル、足の太さが直径(ちょっけい)一メートル十センチもありました。大ダコは腹を立てあばれにあばれて、とうとうこの大タコツボをひっくりかえしてしまいました。

化けダコとお后さま

地上に立ちあがった大ダコは、たちまち山伏(やまぶし)に化(ば)け、北へ北へと逃(に)げだしました。三郎左衛門は、刀をふりかざして一生けんめい追(お)いかけ、林神社の東の谷に追いつめ、みごと四つにたたき切りました。 四つに切られた大ダコの山伏は、その場ですわりこみ、大きな石になってしまいました。天皇はこのことを聞かれ、大そうお喜(よろこ)びになり、三郎左衛門にたくさんのほうびをくださいました。そして、 「松岡のおとど源時正(みなもとのときまさ)と名乗(なの)るがよい。」 と、名前もいただきました。 村びとたちは、タコのうらみのこもった石をおそれて、近づきませんでした。その後、ある人が、この石を南へ移そうとしましたが、びくとも動きません。こんどは、北へ引こうとすると、木の葉のように、かるがると動きました。びっくりして、元(もと)にかえし、それからは、もうだれもその石に触(ふ)れようとしませんでした。 いつのころか石の間から、きれいな清水がわき出るようになりました。はじめは、林神社の祭(まつり)の日の神酒(おみき)だけをこの水でつくりましたが、後に、村の造(つく)り酒屋(さかや)の酒水(さかみず)になり、立石(たていし)の井(い)と呼ばれ、戦争前まではうっそうとした森の中にあり、夏のま昼(ひる)、この木かげにいこう人たちに、すずしい水をあたえたものでした。 (日本伝説叢書「明石の巻」から)

化けダコとお后さま

■立石の井
■林崎海岸
■立石の井

『郷土の民話(東播編)』(編集“郷土の民話”東播地区編集委員会 発行 財団法人兵庫県学校厚生会 昭和四十七年十二月発行)より

→明石市 林崎海岸は、山陽電車林崎松江海岸駅南へ徒歩約十五分。 立石の井(立石一丁目)は、山陽電車林崎松江海岸駅北側東へ徒歩五分。

海士塚

昭和二十年の空襲(くうしゅう)まで、明石川の川口のほとり、無量光寺(むりょうこうじ)の裏(うら)に、小さな塚(つか)があり、一株(かぶ)の松が残っていました。これを「海士塚(あまづか)」とか、「男狭磯(おさし)の塚」と呼(よ)んでいました。 むかし、允恭(いんぎょう)天皇が、淡路島にえものがたくさんいることをお聞きになって、狩(か)りにいかれたことがありました。鹿(しか)・さる・いのしし・うさぎなどが、野や山にうようよしていて、鹿の角(つの)は、まるで林のようでした。朝から晩(ばん)までけものを追い、矢を放っても、一ぴきもえものにすることができません。それで、ふしぎにお思いになり、うらない師(し)にうらなわせることになりました。 すると、「けものをとることができないのは、“自分の心”にある。明石の海底(かいてい)にある真珠(しんじゅ)をとり、自分にそなえたら思うぞんぶんえものはとれるだろう。」と、淡路の島の神さまのおつげが、ありました。 天皇は、さっそく大ぜいの海士(あま)たちを集めて、明石の海底をさがさせました。しかし、潮(しお)の流れが速く、しかも、深いのでだれひとりとして、海底までもぐることはできません。天皇は、役人たちを四方に走らせ、息(いき)の長い海士(あま)をさがさせました。そのかいあって、阿波(あわ)の国の海士(あま)で、おさしという人がえらび出されました。 役人から今までのことを聞いたおさしは、天皇の願いを一身にうけて、明石海峡の海底めざしてもぐりました。海の底(そこ)をあちらこちらさがすと、たしかにピカピカと、光るものがありました。

海士塚

近よってよく見ると、大きな大きなあわび貝の中から、光がもれているのでした。 おさしは、浮びあがってそのことを報告しますと、 「島の神さまのおつげの真珠にちがいない。いそいでその光るものをとってくるように。」 との天皇の命令です。 おさしは、つかれた身体(からだ)をやすませるひまもなく、また、もぐりました。しばらくして、その大あわび貝をかかえて浮きあがってきました。舟の中から、どっと、よろこびの声があがりました。しかし、それと同時におさしは息がたえて、死んでしまいました。 さっそく、大あわびを開いてみると、すばらしい真珠がでてきました。その大きさは、桃(もも)の実(み)ほどもある美しいものでした。 これを、島の神のほこらにそなえ、狩(か)りをすると、たくさんのえものがとれたということです。 天皇は、えものの多いのをよろこばれましたが、そのために死んだおさしをおしんで、この地に海士塚をつくられたと、つたえられています。 (明石市郷土史・日本書紀から) 『郷土の民話(東播編)』(編集“郷土の民話”東播地区編集委員会 発行 財団法人兵庫県学校厚生会 昭和四十七年十二月発行)より

→明石市 海士塚跡は、明石市大観町の無量光寺の裏手付近。 JR明石駅より徒歩約一五分

入が池

時は皇極天皇(こうぎょくてんのう)の六四四年のこと。大和朝廷に仕えていた藤原弥吉四郎(ふじわらのやきちしろう)が、西国へ仕事に行く途中、稲美の蛸草村で出会った老人に「この地を開拓したら、必ず末代まで栄えることであろう。」と言われ、仕事をすませたのち、この地に戻り、仲間と一緒に開墾(かいこん)しました。 たしかに老人の言ったとおり、数年のうちに農作物は増え、大宝元年(七〇一)頃には家も一六軒になりました。でも年々水不足で、ため池を築こうとしましたが、少しの雨でも堤が切れ、雨が降らないのに水がでて壊れました。仕方がないので、そのままにしていました。 ところが、それから十数年経った和銅(わどう)七年(七一四)のある日、弥吉四郎の孫、光太衛(みつだいえ)の夢に僧が現れました。 「おまえの祖父は、北谷の谷をせき止め、池を築いて失敗をした。これは水源のかかり水が強すぎたためじゃ。堤を六枚屏風(ろくまいびょうぶ)の形に築き、北の堤に排水口をつくるがよい。それから、池を造っているところに、一人の美しい女が通るから、その女を捕まえて人柱にすればうまくいくであろう。」 光太衛はさっそく池を築き始めました。やがて、本当に美しい女が通りかかったので、人々は女を捕らえて人柱にし、池は無事完成しました。

入が池

罪滅ぼしに、その女の名前「入(にゅう)」をもらって、この池の名前にしました。 それからというもの、どんなに大雨が降っても池は壊れず、水をいっぱいたたえていました。 時はたち、天平十年(七三八)四月に、入が池のそばを歩いていると、背丈二メートル、毛が真っ赤な鬼に出会いました。 「わたしは鬼ではない。ずっと前、この池の人柱になった五百年ほどここの山中に住んでいた蛇なのです。美女に姿を変え池の工事のようすを見に行ったところ、堤の人柱にされたのです。腹が立ったが、今では人々が恩を感じて喜んでくれているようで良かった・・・。でも、あれ以来、私の魂は池を離れずにさまよっています。どうか心を鎮めてくれないか。」 さっそく村人は言葉どおり池の下流に「川上真楽寺(かわかみしんぎょうじ)」を建ててまつりました。 参考「古代史の舞台を行く」 →加古郡稲美町 入が池(稲美町北山)は稲美中央公園の北西約一キロ。 入をまつった川上真楽寺(稲美町北山)へは神姫バス見谷山下車南東約一キロ。

入が池

■入が池
■真楽寺周辺

赤壁大明神

江戸時代中ごろのことです。加古川宿に住んでいる油しぼり職人の徳蔵(とくぞう)は、たいへん博打(ばくち)を打つのが大好きでした。 ある日のこと、たまたま家に猫が迷い込んできたので、 「おい、おまえもひとりか。独り身同士仲良う暮らそうやないか。」 と寂しさから飼うことにしました。 徳蔵はその猫を話し相手として可愛がっているうち、ある時その猫が、壷の中の賽子(さいころ)が「丁」の時は両目をあけ、「半」の時は片目をふさぐというふうに動作で的中させることに気が付きました。 「おまえ、すごいな…。よし、これはひと儲けできるぞ。」 さっそく、町外れの辰五郎(たつごろう)の家へ出かけ博打を始めました。賽子を振るたびに懐の猫をのぞき、片目を猫がふさいだので、「半!」次は両目。「丁!」という具合に、全員の持ち金八十両余りを巻き上げ、 「よし!はっはっはっー。うまくいったな。」 と気分上々で引き上げました。でも、帰る途中に吉松(よしまつ)、吉蔵(よしぞう)兄弟に金と命を奪われ、川に捨てられてしまいます。 翌日、下流で見つかった徳蔵の死体は自宅へ運ばれました。徳蔵には二人の若者がつきそっていましたが、そのうち掛けていた着物が捲かれ、腕が交互に上下しはじめました。 「うわ、なんだ…。名主さん、徳蔵さんが動いたー!」 と気味が悪くなった若者が大あわてで名主を呼びました。 そこに、数日前から逗留していた丸亀(香川県)の武士・吉岡儀左衛門(よしおかぎざえもん)も槍を手に掛けつけてきました。

赤壁大明神

「おのれ、化け物め!」と儀左衛門が槍を向けると、徳蔵に乗り移り、操っていた猫が表へ飛び出しました。 「まてい!」 猫は吉松兄弟の家へ逃げました。儀左衛門が追って行き、走り回る猫に槍を投げつけました。その槍が兄弟に刺さり、 「うわーお助けを!徳蔵の金を取って殺してしまいました。ご勘弁を…。」 と二人は死ぬ間際に徳蔵殺しを白状しました。 逃げ回っていた徳蔵の猫も、その後、儀左衛門に仕留められましたが、その血で家の白壁は赤く染まりました。 町の人々は主人の仇(かたき)をとった猫を哀れんで葬り、祠を建てて「赤壁大明神」としてまつりました。 参考文献『路傍の歴史再発見』 (編著者 橘川真一 発行所 神戸新聞総合出版センター 二〇〇一年七月一日発行) →加古川市 春日神社(加古川市加古川町本町三丁目)はJR加古川駅から寺家町・本町商店街(西国街道)を西へ二十分。加古川橋東詰から一つ東の筋を南へ。境内には小さな祠の丸亀神社がまつられており、壁が赤いことから「赤壁大明神」とも呼ばれている。

播磨の陰陽師芦屋道満

音声で聞く

むかし、暗闇(くらやみ)にひそんでいる鬼やものの怪(け)が信じられ、呪詛(じゅそ)が日常的に行われていた平安時代のことです。 当時は、そののろいの攻防役(こうぼうやく)として陰陽師(おんみょうじ)がもてはやされ、朝廷の陰陽寮(おんみょうりょう)には、天文、暦道(れきどう)の博士ら約100人もの陰陽師がいました。その陰陽師の中でも安倍清明(あべのせいめい)と芦屋道満(あしやどうまん)の二人は特に知られていました。 安倍清明は、花山天皇(かざんてんのう)の譲位(じょう)を予知(よち)したり、瓜の中の毒蛇を見破ったりして京の都で大活躍していました。一方、芦屋道満は天徳二年(九五七)、播磨国の西神吉村で生まれ、幼名は奇童丸(きどうまる)という名でした。奇童丸は占い術に興味を持っていたので、呪術で鬼神と呼ばれる式神(しきがみ)たちを使い、明石沖で海賊(かいぞく)を捕まえたりして活躍した播磨一の陰陽師、慶妙寺(けいみょうじ)住職の智徳(ちとく)に弟子入りし、占い術の力を磨きました。 そうして陰陽寮頭の賀茂保徳(かもやすのり)に見込まれた道満は、京の都で安倍清明とともに活躍することになりました。ライバルとなった二人が術比べを行うお話が、『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)』に伝えられています。

播磨の陰陽師芦屋道満

長和(ちょうわ)五年、法成寺(ほうじょうじ)を建てた藤原道長(ふじわらのみちなが)がそのお寺に参ったときのことです。寺の近くで連れていた犬が突然ほえはじめました。「どうしたのじゃ・・・。これは何かあるな。」 不審に思った道長は、「おい、晴明を呼べ。清明に調べさせよ。」 陰陽師の安倍晴明が現れ、占いの術で調べはじめました。 すると、なんとお寺の門の前の土の中から道長をのろうための恐ろしい呪文(じゅもん)の入った土器が出てきたのです。 「これを踏むとあやうく命を落とすところでした・・・。」と清明はつぶやきました。 「だれのしわざじゃ。」と驚いた道長が聞くと、 「こののろいの術を知るのは、芦屋道満ただ一人。」と清明は答えました。 それから、清明は白紙で鳥をつくりこれを式神(しきがみ)として飛ばすと紙の鳥は道満の家に入っていきました。 「道長の犬の件、おまえの仕業じゃな・・・。」 「見破ったか。さすが清明・・・。」と道満はうめきました。 そうして、道満は堀川左大臣顕光(あきみつ)に頼まれて、道長に呪いの術をかけたことがわかり、都から播磨に追放されてしまいました。

播磨の陰陽師芦屋道満

■現在の道満井戸(正岸寺)
■道満塚

その後、道満は、播磨の佐用に移り住んで亡くなり、その子孫は陰陽師として播磨一円に散らばり、三宅(みやけ)村などで占いをしたり、薬を作ったりして暮らしたと伝わっています。 道満の亡くなった所と伝わる佐用町には「道満塚」として地元の人々に祭られており、すぐ近くにある「清明塚」と今も対峙(たいじ)して建っています。

参考文献『はりま伝説散歩』 (編著者 橘川真一 発行所 神戸新聞総合出版センター 二〇〇二年一二月十日発行)、 『今はむかし伝説紀行』(ビジュアルブックス編 発行所 日新信用金庫 編集・制作 神戸新聞総合出版センター 二〇〇四年七月一日発行) →加古川市 道満石碑や道満井戸がある正岸寺(加古川市西神吉町岸)は神姫バスの西神吉停留所から西へ約五分。道満ゆかりのこけ地蔵、古墳(加古川市東神吉町天下原)へは正岸寺の北東約二キロ、平荘湖口バス停から北東へ約十分。 →佐用町 道満塚(佐用郡佐用町大木谷)晴明塚へは(佐用郡佐用町甲大木谷)中国自動車道・佐用インターから約六キロ。

播磨の陰陽師芦屋道満

■道満碑(正岸寺)
■道満屋敷跡と伝わる正岸寺

長い長い名前

昔、ある家に元気な男の子が生れました。この子が将来りっぱな人間になるためには、良い名をつけてもらわねばならないと、母は寺の和尚(おしょう)さんの所へ出かけて頼みました。和尚さんは、はじめ普通の子どもと同じように、短い名前をつけましたが、母親は気に入(い)りません。もっと長い名がほしいといいました。和尚さんは、さらに長い名前を考えましたが、それでもだめだというのです。しまいに和尚さんは、 「こんな名はどうじゃな。」 といって、次のような長い長い名前をつけました。 ヒイトコ ヒイトコ ヒイメガミ チキチキセイヨノ カメノチヨノ タバタバイッチ ヨンギリカチヨンギリカ チヨチヨラノ テンモク モクモク チヨツポイナ やっと母親は満足して、この名前をいただいて帰りました。この子は健(すこ)やかに成長して、五つか六つになったころ、友だちといっしょに野原で遊んでいました。どうしたはずみか、足をふみはずして、野井戸(のいど)に落ちこんでしまいました。友だちはびっくりして、ヒイトコの家へかけつけてさけびました。 「おばさん、おばさん、ヒイトコ ヒイトコ ヒイメガミ…………チヨポイナちゃんが、井戸にはまった。助けてあげて。」

長い長い名前

それを聞いた母親は、まっ青になり、力の強い若者を呼びに走らせ、自分は野井戸へかけつけ、 「おうい、ヒイトコ ヒイトコ ヒイメガミ…………チヨツポイナよ。しっかりせいよ。すぐ助けてやるぞオ。」 と大声でさけびました。若者たちも井戸の中へ、はしごをおろして引きあげましたが、もうその子の息は絶(た)えていました。 (山田宗作著[姫神の民話]) 『郷土の民話(東播編)』(編集“郷土の民話”東播地区編集委員会 発行 財団法人兵庫県学校厚生会 昭和四十七年十二月発行)より

長い長い名前

太閣渡し(たいこうわたし) ところどころ中洲(なかす)をのこし、曲がりくねった広やかな加古川は、清らかな水をたたえ、ゆるやかに流れています。その中流、河合(かわい)の川原に、新部(しんべ)の渡しがあります。四百年もの間、幾度も作りかえられながら「太閣丸」は多くの人たちを運んできたのです。この渡しのべつの名を「太閣渡し」ともいいます。 天正六年、織田(おだ)氏の名をうけた羽柴秀吉は、三木城を攻めるため、ひそかに東条(とうじょう)の安国寺に行こうと、この新部(しんべ)村の川原にやってきたのです。現在の北の大門橋、南の粟田橋のなかった昔のこと、東条に行くにもっとも適した場所でありました。船のなかったこの川、けらいたちはめいめい渡るにしても、戦(いくさ)の総大将である秀吉はそうはいきません。近づきのけらいは、ただちに村の百姓を集めて命令をだしました。 「皆の者、秀吉公がこの川をお渡りなる。大いそぎでいかだをつくって進ぜよ。」 村人たちは大いそぎで準備にかかりました。百姓の新助(しんすけ)もその中の一人でした。にわかのことで適当(てきとう)な材料もなく、彼らはそれぞれ家から、障子(しょうじ)、戸板(といた)、竹などをかき集め、やっとのことでいかだをつくりあげたのです。 秀吉を乗せたいかだは、新助らの船頭(せんどう)で岸を離れました。川の中ほどまでくると、人の重みでいかだの底から水がしみこんできました。竿(さお)をあやつる新助は、きがきでありません。その上、川の水をはね、秀吉の足もとを濡(ぬ)らしたのです。

長い長い名前

「おい船頭、水がかかるではないか。無礼(ぶれい)であるぞ。」 けらいの一人が新助らをたしなめました。 「へ、へーい。」 新助らは、恐る恐る秀吉の顔をうかがいました。秀吉は、何事もなかったかのように、静かに川の向こうを見やったままでした。いかだは無事向こう岸に着くことができました。新助らはほっとした面持(おもも)ちでわが家に帰りました。 その日の夕方のこと、ふたたび使いのさむらいがやってきました。 「きょう、いかだを渡したものども、お召しであるぞ。そうそうに、これへ出て参れ。」 これを聞いた村人たちは大騒ぎ。なにしろ封建(ほうけん)時代のこと、百姓が、いまをときめく秀吉の前に引き出されるのです。これはきっとお手打ちに違いないと思うのもあたりまえです。 「おーい大へんだー、大へんだー。きょういかだを渡した者を、みんなお召しだぞ。あのお使いのようすからみるとこれはきっと、お手打ちに違いない。」 「そうかも知れない。秀吉公の足を水で濡(ぬ)らしたからだろう。」 身に覚(おぼ)えのある百姓たちは、震(ふる)え上がって誰一人として出ていこうとしません。その時、新助は、 「どうせかくれていても、お検(しら)べがあればすぐわかることだ。よし、わしが行っておとがめを受(う)けてこよう。」

長い長い名前

太閤渡し跡

こういって使いの後ろについて、秀吉の前に出たのです。それでも心の中では、いまにお手打ちがあるのではないかと、ぶるぶる震(ふる)えていました。 しかし、呼び出された新助は、思いもよらず秀吉から、おほめのことばをいただき、ほうびとして次のようなお墨付(すみつき)(証明となる書きもの)をさずかったのでした。 一、租税(そぜい)や夫役(ふえき)を免除(めんじょ)すること。 一、渡(わた)し守(もり)世襲(せしゅう)の恩典(おんてん)をさずけること。 一、舟をつくる材料として山と、やぶをあたえること。 その後、新助は舟をつくり、新部(しんべ)の渡(わた)し守(もり)となりました。そして、舟の名も「太閣丸(たいこうまる)」と名づけ、子孫代代この業を継(つ)ぎ、四百年後の今日まで太閣渡しを引き継いできたのです。 近年、水防のため改修(かいしゅう)されて堤(つつみ)は高くなりました。堤に立つと、向こう岸に夏草の間を見えかくれして、太閣道(たいこうみち)が見えます。利用する人も少なくなったこの渡し、もう昔のおもかげはみられません。しかし、何代目かの「太閣丸(たいこうまる)」は、小さな釣舟(つりぶね)と共に、きょうも、ゆるやかな流れに浮かんでいます。 『郷土の民話(東播編)』(編集“郷土の民話”東播地区編集委員会 発行 財団法人兵庫県学校厚生会 昭和四十七年十二月発行)より

→小野市 新部渡しとも言われた太閤渡し跡はJR加古川線河合西下車北東一・五キロ。太閤渡しの石碑は新宮神社の東側の堤防上にあり、新宮神社へはJR加古川線河合西駅から徒歩約十五分。

長い長い名前

太閤渡し周辺

オコゼと山の神

「聞いたか。」 「うん。」 「太郎やんが腰をくじいたそうやな。」 「作やんは足を切ったし、お今(いま)はんもがけからおっこちたんや。」 「えらいこっちゃのー。」 「なんでこんなことが続くのやろ。なんとかせなあかん。」 むかしむかしのその昔、源義経(みなもとのよしつね)が三草山の平家を攻めたより、もっとまえのことです。ここ、丹波(たんば)と播磨(はりま)のさかいにある平木(ひらき)村は、そのうわさでもちきりでした。山からたきぎや炭をきりだし、また、おぼんやおわんを作ってくらしているこの村で、ちかごろ、山仕事にはいった人びとがたて続けにけがをしたのです。大さわぎをするのもむりのないことでした。このぶんだと、明日から仕事ができなくなってしまいます。生活ができなくなります。 村びとたちは、みなより集まっていろいろ考えました。ひとりでうなってみたり、ひそひそささやいたり……。その結果、つぎのようなことがわかりました。けがをした日は、いつも月の十日であること。場所は清水寺(きよみずでら)のふもとの芦原(あしわら)ふきんが多いなどです。

オコゼと山の神

その時、一人の老人が芦原の山すそにちいさな祠(ほこら)があったことをふと思いだしました。さがしてみますと、なるほど草にうずもれた石の祠がくずれかかったまま、忘れられているではありませんか。てっきり、この山の神さんの「たたり」だということになりました。そこで、みなは手わけをして祠のそうじをし、鳥居(とりい)をたてました。おみき・もち・季節のくだもの・やさいなど、いろいろのおそなえものがならべられました。村中そうでで、神霊(みたま)をしずめるお祭りや、おどりをしたことはいうまでもありません。みなはほっとしました。これで、山の神さんのたたりはおさまると思われたからです。 そのよく日から、山での仕事がはじめられました。 ところが、しばらくしてまた事故(じこ)がおきはじめました。こんどは女の人ばかり -それも美しい娘さんが多かったのです。みなは、はたと困ってしまいました。もう手のほどこしようがありません。平和をとりもどしたかに見えた村は、ふたたび不安のどん底に沈んでしまいました。村びとたちが頭をかかえこんでいますと、平(へい)やんという、すこし頭がよわいと評判(ひょうばん)されている若者がいいました。 「わし、ゆうべ夢をみたんや、芦原(あしわら)にぎょうさんの神さんが集まって相談してはった。そのまとめ役があのほこらの神さんや。あの神さん、女やで。それもひどい顔してはった。そいで、オコゼがほしいというとってやった。」

オコゼと山の神

■社町平木周辺

みなは心配も忘れてどっと笑いました。平やんの、このとっぴもない夢の話を、てんで頭から信用しなかったのです。 しかし、ほかによい思案(しあん)もないので、おぼれる者がわらでもつかむように、年よりたちの意見をいれて、平やんの夢を信じることになりました。若者たちが、高砂(たかさご)の港までオコゼを買いにいそぎました。そして、おそなえしました。山の神さまは自分よりもみにくいオコゼの顔を見て満足されたのか、そののちはたたりもなくなりました。 毎月十日は、女はもちろん男も山仕事をやすみ、山の神さんにかならずオコゼをおそなえすることにしたのです。オコゼをおそなえする風習は、いまでもつたわっています。 『郷土の民話(東播編)』(編集“郷土の民話”東播地区編集委員会 発行 財団法人兵庫県学校厚生会 昭和四十七年十二月発行)より

→加東市 平木村は、今の加東市平木あたり。舞鶴若狭自動車道(三田西IC)より約二十分。

あまんじゃこ

「天(あま)の邪鬼(じゃく)」というと、人のいったりしたりすることにわざと反対(はんたい)して、無理(むり)に片意地(かたいじ)をはるもの、つまりつむじまがりのことですが、播磨(はりま)の国(くに)にいた「あまんじゃこ」もやはりそのなかまのようで、ちょっぴりいたずらっぽくて、ものすごい力(ちから)もちで、とても体(からだ)の大きな男だったようです。 あまんじゃこは、あちこちの国をめぐり歩きましたが、のびのびと背(せ)のびをして歩ける土地はどこにもなく、いつも小さく小さくかがみこんで、はうようにして歩いていましたが、それでもどうかすると頭を、「ゴツン」と天(てん)にぶつけてしまい、いつも痛(いた)い思いをして、すっかり困っていました。 それが、たまたまこの地(ち)へとやってきましたところ、天がぐーんと上のほうにあがっているので、やっと背のびをして歩くことができました。あまんじゃこは、大喜(おおよろこ)びで、 「ここは、高いなあ……。」といいました。それからこの土地を「多可(たか)」郡というようになりました。また、あまんじゃこは、あまりのうれしさに、ほうぼうを歩きまわりましたので、その踏(ふ)んだ足あとが、たくさんの沼(ぬま)になりました。 あまんじゃこは、すっかりこの土地が気に入ったらしく、長い間住(す)むことにしました。そのあいだ、ずいぶんといろんないたずらをしました。

あまんじゃこ

あるときは夜の明けぬうちに、多可郡の西の端(はし)の神崎(かんざき)郡との境(さかい)の笠形(かさがた)山の岩を砕(くだ)いて、その岩に縄(なわ)をしばりつけて村村を「ゴロ、ゴロ」とひきずり歩きました。加美(かみ)町、八千代(やちよ)町らをとおり、中町糀屋(こうじや)まできたところで夜が明けたので逃げて帰りました。 また、山寄上(やまよりかみ)から、どの田んぼにもお供えをくばって、加美町、八千代町、そして中町曽我井(そがい)まできたところで夜が明けてしまったので逃げて帰ったともいわれています。 これらの、岩をひきずって歩いたところや、お供えをくばって歩いたところでは、田植(たうえ)がおわると田祭(たまつ)りという祭りをしていますが、あまんじゃこのとおらなかった村では、その祭りをしていません。 またあるときは、中町と加美町の境にある妙見山から、二里半(六キロメートル)ほど西の笠形山へ、夜のうちに橋をかけて村人たちをびっくりさせてやろうと思いたち、日が暮(く)れるのを待(ま)って、急いで土台(どだい)づくりを始めました。右の手で妙見山、左の手で笠形山というふうにどんどんと石を積(つ)んでいき、土台はみるみるうちにできあがりました。 「さあて、土台のつぎは丸太(まるた)を渡(わた)して橋はできあがりー」とそう思って、よく考えてみると、一里半ものそんな長い丸太がどこにもあろうはずがありません。さあて、困った、といろいろ考えているうちに夜があけてしまい、あわてて逃げて帰ってしまいました。そのために、土台はそのままおき去(ざ)りにし、いまもこれらの山の上には大きな岩の土台がのこっています

あまんじゃこ

またあるときには、これも夜のうちに中町にある岡(おか)山と大子(たいし)山の二つの山を同時(どうじ)にどこかへ捨(す)ててやろうと考え、長い石の天びん棒(ぼう)をつくり、 「よっこらしょ。」とになったところが、山が重すぎたため棒の片方の端(はし)が、山もろとも、「どさーっ」と落ちてしまいました。 そうこうしているうちに夜が明けだしてきたので、そのまま折れた棒の短い方をすてて、逃げて帰りました。それが中町奥中(おくなか)にある長石(ながいし)だそうです。 またあまんじゃこは、とても気みじかでしたから、少しでも気に入らぬことがあると、すぐにかんしゃく玉(だま)をばくはつさせて火の雨を降らせました。なんでもかんでも手あたりしだいに八つあたりにして、ごうごうという地鳴りや大じしんをまきおこし、天を真赤(まっか)にこがして、たつまきのような火の雨をいく日もいく日も降らせました。そのたびにほうぼうで、山くずれや火の海の大洪水がおこり、地面のようすがすっかりかわってしまうことがありました。 そんなとき、いつもめいわくをするのは人間のほうで、うっかりして逃げおくれ、火の海の大洪水にでもまきこまれようものなら、真黒こげに焼けただれて死んでいくよりほかありませんでした。ですから、人間たちは、地鳴りや地しんがおこりだし、あまんじゃこが火の雨を降らせそうな気配(けはい)がすると、なにもかもすてて、いちもくさんに安全なところへ逃げていき、じいっとかくれていました。

あまんじゃこ

■笠形山
■妙見山

中町の田(た)の口(くち)というところには、今もたくさんの古墳(こふん)がのこっていますが、それは、むかしの人があまんじゃこの降らせる火の雨をさけて、かくれ住んでいたところだそうです。 『郷土の民話(東播編)』(編集“郷土の民話”東播地区編集委員会 発行 財団法人兵庫県学校厚生会 昭和四十七年十二月発行)より

→多可町 笠形山へは神姫バス姫路発瀬加行きで「瀬加(寺家)」下車、 または西脇市駅発大屋行き終点下車。妙見山へは中国自動車道加西インターより北へ約二十五分。岡山は中町中学校の裏、太子山は中央公民館の南西、長石は奥中の交差点にあり、JR西脇市駅から神姫バスで約三十分中町役場前下車。

あまんじゃこ

■長石
■丘山(岡山)
■太子山

播州皿屋敷

永正元年(一五〇四)、姫路城主小寺豊職(こでらとよもと)が亡くなり、まだ若い十八歳の則職(のりもと)があとを継ぎました。城代の青山鉄山(あおやまてつざん)は、置塩(おきしお)城主赤松氏の城代浦上村宗(うらかみむらむね)と組んで互いに主家を乗っ取ろうと考えている悪臣でした。 「今が好機じゃな。鉄山殿。」 「うむ。たしかに・・・。増位山で花見の宴を開いて、則職(のりもと)を亡き者に・・・。」 そんな中、恋人である家老の息子衣笠(きぬがさ)元信に頼まれたお菊は、鉄山の侍女となって鉄山一味の動きを探っていました。 ある日お菊は、世話をしていた鉄山の三男小五郎から鉄山の悪企みを聞かされ、そのことを衣笠元信に知らせます。そのおかげで、増位山での主君襲撃は失敗しましたが、浦上氏が赤松氏を襲って幽閉に成功し、そうして鉄山に援軍を送ってきたため形勢は一気に逆転してしまいます。則職は忠臣の一人苦瓜(にがうり)氏を頼って家島へ落ちのび、ついに鉄山が姫路城主となりました。 かくして、鉄山は悪臣一味のもてなしのため祝宴を催しました。祝宴に用いたのが、小寺氏の家宝「こもがえの具足皿(ぐそくざら)」でした。しかし、十枚揃いの皿の一枚を悪臣のひとり町坪弾四郎(ちょうのつぼぜんしろう)が盗み取って隠してしまい、なんとその罪をお菊に着せたのです。それは、以前から想いを寄せるお菊を自分のものにしたい弾四郎の策略でした。 「おまえが盗んだのか。こわしたのか。白状せぬか!」 「知りませぬ。存じませぬ。」

播州皿屋敷

■姫路城
■お菊神社

しかしお菊はどう責められても屈せず、とうとう弾四郎は城へ引っ立てていき、鉄山の目の前でお菊を斬り捨て、井戸へ投げこんでしまいました。 それからというもの毎夜、「一枚、二枚、三枚・・・」と皿を数えるお菊の悲しげな声が井戸から聞こえるようになり、姫路城でも怪異なことばかり起こりました。恐れをなした鉄山は姫路城から逃げ出しました。 鉄山は在所の青山村にある城館へ逃げ戻り、ほどなく小寺家の忠臣たちが赤松氏と共に攻め寄せたので、ついに鉄山は自害となりました。 あわてた弾四郎は、隠しておいた家宝の皿を手土産に小寺家へ帰参しようとしましたが、則職の計らいで、室津で遊女をしていたお菊の妹二人に討たれてしまいました。 その後、小寺家ではお菊の忠義に十二所神社に祠を建てて手厚くまつったとのことです。 参考文献『はりま伝説散歩』橘川真一編著 →姫路市 姫路城は、JR姫路駅から北へバス五分、徒歩十五分。 十二所神社(姫路市十二所前町)へは北西へ徒歩十分。

どんがめっさん

それはそれは遠い大昔のことでした。この家島にうつくしい白髪(はくはつ)をたばねた長いひげをもつ気品の高いえらい翁(おきな)が、釣(つり)をしながら毎日のくらしをたてていました。どこから来たというのか朝々、大きな亀(かめ)の背にのって沖に出て釣をしては、夕方に島へ帰ってくることにしていました。するとはるか吉備(きび)水道をぬけだしてくる大集団の船が、播磨灘(はりまなだ)に向って東進してくるのが見えました。小豆島(しょうどしま)をのり越えて、家島海域に迫って来ます。その姿を見つけた翁はただごとでないとおどろきながら、しばらくようすを見ておりました。やがてチンカンドンドンとにぎやかな鳴りものではやしたてる船人たちの声がきこえます。そのさわぎにきき入っていますと船の中から、 「おい、おい、釣をしている翁よ、おまえはこの海の案内(あんない)を、事(こと)くわしく知っているか。」と、問い合わせの声がしました。 「ハイ、ハイ、この海のことなればどんなことでも心得(こころえ)ております。」と翁が答えました。

どんがめっさん

■どんがめっさん

「そうか、そうか。それは嬉しいことだ。われわれは東国にまつろわぬ者たちを討つためにやって来た。ここから摂津までの水先案内(みづさきあんない)がほしいのだ。しばらくこの里で船を休め、部下の訓練(くんれん)や食料の補充(ほじゅう)をしたい。」と船の指揮者がたのみました。翁は、船団をその夜のうちに家島港へ案内し、それから数年が夢のようにたちました。 きょうは、船団を、いよいよ摂津(せっつ)へ案内する日です。翁はいつものように亀に乗って船団の先導をとり、東へ東へと、船をすすめていき、着いたところが、難波(なにわ)が崎(さき)でした。翁はこれによって、大手柄を立てました。亀さんも大よろこびでした。でも翁の手柄のかげに亀さんの力のあったことは、だれ一人考えてくれません。 忙しい主人をあとに難波からひとまず一人ぼっちで引きあげてきた亀さんでした。主人の帰りを今か今かと毎日、沖をにらみながら待ちこがれ、いつまでもなぎさからはなれませんでした。 ながい間の年月をへて、そのうちに、こり固って、亀さんは、とうとう、その場で石になってしまいました。 いま家島の真浦(まうら)さん橋で、船からおりた目の前の丘に「水天宮」として、玉垣(たまがき)をめぐらせて祀(まつ)りこまれ、島の人びとから「どんがめっさん。」と親しみよばれています。 『郷土の民話(中播編)』(編集“郷土の民話”中播地区編集委員会 発行 財団法人兵庫県学校厚生会 昭和四十七年十一月発行)より

→姫路市 どんがめっさんは、姫路港から船で約三十分。真浦港から徒歩約五分。家島町真浦区民総合センターの隣。

姫路の弁慶伝説

熊野を取り仕切っていた僧官、別当(べっとう)弁心(べんしん)には、五十歳なっても子供がいませんでしたが 「どうぞ、子宝に恵まれますように。」と若一王子(にゃくいちおうじ)に祈りようやく妻が身ごもりました。 でもその子はなかなか生まれず、三年三月たってようやく生まれましたが、なんと、三歳ほどの大きさで、髪も歯も生え揃い、虎のような目で辺りを見回し、「あら、あかや。」といいました。驚いた弁心は、その子を鬼子(おにご)として山奥に捨ててしまいました。 鬼子は、獣とともに育ちましたが、三十七日ほどたったある日、京の都の五条大納言(ごじょうだいなごん)が夢のお告げで、この子を拾い「若一(にゃくいち)」と名付け、比叡山に修行に出しました。でも、いたずらが過ぎるので山から追い出されてしまいます。 この時、比叡山の悪僧といわれた武蔵坊の名前を継ぎ、父の弁心の「弁」、師の慶俊の「慶」をもらって、「武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)」と名乗るようになりました。 その後、諸国を巡り、平泉寺や北陸道でも乱暴者として恐れられた弁慶は、あちこちでいろんな問題を起こしながら播州の書写山へやってきました。 弁慶は、書写山では静かな修行者として仏に仕えることにしました。

姫路の弁慶伝説

しかし、ある時、若い僧が寝ていた弁慶の顔にいたずら書きをしました。朝起きてみると皆が笑うので、弁慶はおかしいと思って蓮池に顔を映したところ、顔にはなんといたずら書きが書かれています。 「うぬっ。こんなものを書いたのはだれじゃ。」 怒った弁慶が大暴れして大騒動になり、心恩坊妙俊(しんおんぼうみょうしゅん)と激しい斬り合いになりました。しかし、力自慢の弁慶相手では勝負にならず、長太刀も太刀も奪われ、講堂の上に投げ上げられてしまい、妙俊は辺りにあった大きな燃え杭で打ち掛かりますが、これも講堂の屋根に上げられてしまいました。これを見た大衆が一挙に切り掛かりますが、弁慶の敵ではなく、五十余人が斬られて、逃げ散りました。折からの風で屋根の杭が燃え上がり全山が炎上してしまいます。 「伽藍(がらん)や仏には恨みはない。いずれは再建する。」と言い残して弁慶は立ち去ってしまいます。 そうして、書写山を降りてきた弁慶が地蔵堂の前で雨宿りをしていると、通りかかった若い女と知り合いました。 「村の娘か。」 「はい、玉苗(たまえ)と申します。」 玉苗は、福井村(別所町別所の旧名)の庄屋の娘でありました。この夜、二人は契りを結びました。 その後、玉苗は身籠もり、別れる際に弁慶の衣の片袖をもらったということです。その地蔵は、今も弁慶地蔵として村の人々にまつられています。

姫路の弁慶伝説

■弁慶鏡井戸(書写山円教寺)
■書写山
■書写山円教寺
■弁慶地蔵

参考文献 『はりま伝説散歩』 (橘川真一編著 神戸新聞総合出版センター二〇〇二年一二月十日発行) →姫路市 書写山は、JR姫路駅より市バス書写ロープウェイ行で終点下車。 書写山ロープウェイで山上駅へ行き、徒歩約二十分で本堂。 弁慶地蔵は、JRひめじ別所駅から徒歩五分。

播磨の宮本武蔵伝説

宮本武蔵の姫路城妖怪退治(みやもとむさしのひめじじょうようかいたいじ) 姫路の吉岡無二斎(よしおかむにさい)の次男、平馬(へいま)は、剣の腕を見込まれ、肥後の熊本で加藤家に仕えていた宮本武左衛門の養子となって、宮本武蔵(みやもとむさし)と名付けられました。 ある日のこと、剣の修業を続けていた武蔵は、実父無二斎が姫路で木下勝俊(きのしたかつとし)公の指南(しなん)役をしていた佐々木巌流小次郎(ささきがんりゅうこじろう)に殺されたことを知りました。城下での御前試合で負けた佐々木巌流が恨んで無二斎を闇(やみ)討ちにしたのです。 敵討ちのため、武蔵は熊本を発ち姫路へとやってきましたが、その佐々木巌流は修業の旅に出て、行方知らずとなっていました。 そこで、武蔵は瀧本又三郎(たきもとまたさぶろう)と名を変え、巌流の帰りを待つため、木下家の足軽として奉公することになりました。 その頃、姫路城の天守閣には妖怪が出るとの噂が立ち、天守番役の足軽たちが怖がっていたので、 「わたしがみなさんの代わりに天守番をいたしましょう。」と又三郎は天守番をすることになりました。 又三郎は一階の千畳敷きの間で番をしましたが、何事も起こりません。天守番をする代わりに昼間の務めのない又三郎は、暇を持てあまして足軽たちに剣術の指南をするようになりました。

播磨の宮本武蔵伝説

ある日、二刀流を使いながら足軽たちに剣術を教える又三郎の姿を目にした木下家の家老、木下将監(しょうげん)は、 「たしか…無二斎の息子武蔵は二刀流を使うと聞いた。武蔵は又三郎と名を変え、佐々木巌流への仇討ちを企んでいるのに違いない。」と直感しました。 でも、将監は武蔵を好人物と見て、「なんとか仇を討たせてやろう。」と考えました。 それからしばらくして、城主の木下勝俊公が近習(きんじゅう)を集め、 「あの姫路城の天守に妖怪が出ると聞くが、誰か肝試しに天守に上ってみる奴はおらぬか」と尋ねました。 しかし、祟りを恐れ、名乗り出る者は誰一人なく、 「これ、お前たちはわしのために命を捨てると申しておったのに、誰もいないのか。」 そこで、木下将監が「又三郎という足軽がおりまする。この者ならば、肝がすわっております。小奴ならば天守に上るかと思います。」と勝俊公に進言しました。

播磨の宮本武蔵伝説

「足軽か…。しかしながら、どんな妖怪がでるのか。」 その時、近習の者がでまして、 「妖怪は刑部(おさかべ)明神の妖怪でございます。足利将軍の時代、高師直の娘で刑部姫がある小姓と恋仲になりましたが、身分の違いから小姓は追放され、加古川から姫路へやってきて、ここで亡くなってしまいました。これを風のたよりで聞いた刑部姫は城を抜け出し、小姓の眠る塚で自害してしまいました。里人は不憫に思って小姓と姫を一つの柩(ひつぎ)におさめて埋葬し、刑部明神としてまつりました。その後、羽柴筑前守秀吉が、この祠のところに天守を建てようとしたとき、嵐が吹き荒れ、なかなか工事にかかれないので、刑部明神を天守にまつるということで嵐がおさまり、姫路城の天守閣にまつられましたが、築城以来、祟りを恐れて誰一人して天守に上る者はいません。」 「では、その又三郎にやらせることにしよう。」

播磨の宮本武蔵伝説

木下勝俊公から命じられた武蔵は、深夜、強盗(がんどう)提灯を手に天守へと向かいました。千畳敷きの間から階段を上って二階に降り立つと、湿気でひどい悪臭が漂っていましたので、その邪気を払うため、窓を開けて清らかな風を入れた後、三階でも同じように窓を開け放ちました。 そうして四階の間へ入ると「ゴロゴロゴロズシーン、ゴロゴロゴロズシーン」と城が壊れんばかりの音がとどろきました。 「これはもののけ、妖怪のたぐいに違いあるまい。」 武蔵は呼吸を整えどっかりと座敷の真ん中に座り、「エイ、デヤー!」と気合いをかけたその時、黒い影が飛び、窓を突き破りました。又三郎の気合いで妖怪が逃げ去ったのでした。 それから武蔵は、五階の天守の間に上がりました。音ひとつなくシーンと静まり返った部屋の中を提灯で照らすと、刑部明神があり、しめ縄は朽ちかけ、今にも落ちそうです。 「誰もまつらぬから、妖怪が住みつくのであろう。」 武蔵が提灯を横に置いて座ると、蝋燭がいきなり明るくなったり、暗くなったり・・・又三郎はなぜか眠くなってきました。すると、祠がギーッと音を立てて開き、十二単(ひとえ)を着た刑部明神が現れました。

播磨の宮本武蔵伝説

「なんじ、宮本武蔵と申すのか。よくぞこの天守に上ってまいった。天守ができてからというもの誰もまつる者はなかったのじゃ。帰ったならば、この刑部明神をまつるよう城主に伝えよ。我をまつってくれるなら、この姫路の地は安泰(あんたい)になることであろう。」 又三郎が「必ず主君に申し伝えます。」と答えると、 「そうか。よくぞ申してくれた。その方に褒美(ほうび)をつかわす。」と名刀を与えました。 無事もどった又三郎は、将監にことの始終を報告して名刀を見せました。 刀を見た将監は、「これは我が主君が太閤秀吉より頂いた郷義弘が鍛えた名刀、飛龍丸ではないか・・・。」と驚きました。 将監からこれを聞いた木下勝俊公は、「さては又三郎、我が家の名刀を盗んだが、持ち出すのが容易ではないので、刑部明神から拝命したと言うのか。」 「いやいや、あの者はまだここに来て日が浅うございます。飛龍丸がどこにあるのか見当もつきません。天守に上れと命じたのは我々のほうでございます。素性(すじょう)をしっかり調べて盗人とわかったなら、その時に手討ちになさって下さい。妖怪も追い出し、刑部明神の言葉も伝えたのでございますから、今は命をおとりになさることはおやめ下さいますよう。」 「しからば、奴の命はその方に預けてつかわす。」

播磨の宮本武蔵伝説

こうして又三郎の命は木下将監に預けられ、 「殿様はお前を盗人とお疑いじゃが、これは刑部明神の何かのお計らいのような気がいたす。我が屋敷にとどまって一歩も外へ出てはならぬ。ここにある万巻の書をしっかりと読むようにいたせ。」と将監は又三郎に命じました。 「はっ、わかりました。」 それから三年後、佐々木巌流が姫路に戻ってきたので、又三郎と巌流と御前試合をすることになりました。又三郎が二刀流を使うと聞いた巌流は、又三郎は宮本武蔵に違いないと見破り、杖の中に分銅を仕込んだ宝山流の振り杖を使いましたので、武蔵は巌流に負けてしまいました。 破れた武蔵は、武者修業に諸国を巡り、巌流島で佐々木巌流と決闘し、見事、父の敵を討ち果たしました。 参考 講談『宮本武蔵 姫路城の妖怪退治』旭堂南陵

播磨の宮本武蔵伝説

播磨の宮本武蔵伝説(はりまのみやもとむさしでんせつ) 剣豪、宮本武蔵が生まれた地と伝わる場所は三つあり、そのうちの二つが播磨にあります。 一つ目は、高砂市米田で、古くは「米堕(よねだ)」といい、山陽道や加古川から近く、交通の要所でした。ここで、天正十二年(一五八四)か、天正十年(一五八二)に武蔵は生まれたと伝わっています。武蔵自身も五輪書の中で「生国播磨」と書いており、また、武蔵の養子の伊織(いおり)が故郷の鎮守だった泊神社(とまりじんじゃ)の荒廃を聞き 地元の一族とともに社殿の修復をした時に奉納した棟札(むねふだ)に「私の先祖は播磨国守護赤松氏(はりまのくにしゅごあかまつし)の末裔(まつえい)で、播州印南郡河南庄米堕に住み・・・」と父、武蔵の米堕での出自を書き残していることなどから有力な説になっています。 もう一つは、揖保郡太子町宮本です。宝暦十二年(一七六二年)頃成立したとされる江戸時代の地誌『播磨鑑(はりまかがみ)』に「宮本武蔵は播州揖東郡いかるがの辺り、宮本の産なり」と書かれています。 また、その『播磨鑑』には武蔵の伝説が他にも書かれています。姫路の別所には、武蔵が播磨に居る間、別所村の桶居山(おけいやま)で天狗(てんぐ)に剣術を学び、修行に励んだというお話も伝わり、明石では、明石城主小笠原忠政公から依頼され、明石の城下町の町割りを武蔵が行ったとされています。

播磨の宮本武蔵伝説

■姫路城
■刑部明神

参考文献『生国播磨の剣聖 宮本武蔵を行く』中元孝迪編著 神戸新聞総合出版センター二〇〇三年五月五日発行) 『日本伝説叢書 播磨の巻』(藤沢衛彦編 大正七年刊) 『はりま伝説散歩』 (橘川真一編著 神戸新聞総合出版センター二〇〇二年一二月十日発行) →姫路市 姫路城は、JR姫路駅から北へバス五分、徒歩十五分。 桶居山は、JR姫路駅から神姫バス「夕陽ヶ丘」行き終点下車。 →加古川市 泊神社は、JR加古川駅から神姫バス稲屋停留所下車徒歩約五分。 →高砂市 宮本武蔵・伊織生誕の地碑は、JR宝殿駅から徒歩約十五分。 →太子町 宮本武蔵生誕の地碑は、JR網干駅下車、徒歩約二十分。 →明石市 明石城は、JR明石駅から徒歩三分。

播磨の宮本武蔵伝説

■宮本武蔵生誕の地碑
■桶居山(おけすけやま)
■宮本武蔵・伊織 生誕の地碑

埴の里

むかし、むかし大汝命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこのみこと)の二人が、日本の国を治めておられたことがありました。 大汝命は、「日本一の力もち」といわれた大柄(がら)な男で、いっぽうの少彦名命は、反対に、からは小さかったが、動作が機敏(きびん)で、しんぼう強さでは抜群(ばつぐん)でありました。二人は、大の仲よしでありました。 二人については、たくさんのことが語り伝えられていますが、ここに書くのは、そのうちでも一番ゆかいな話です。 少彦名命が大汝命にいいました。 「埴(はに)(赤土のねんど)の荷(に)を背負って遠くにいくのと、うんこするのをがまんして遠くへいくのと、おぬしなら、どちらを選ぶ。」 大汝命は、わらっていいました。 「おれなら、うんこをがまんするほうをとるな。」 少彦名命は、すかさずいいました。 「じゃあ、きょうそうするか。」 「よしやろう。」 小男の少彦名命は、ずっしりと重い埴(はに)の荷(に)を背負って、よたよたと歩きはじめました。大汝命は、にやにや笑っていいました。

埴の里

■初鹿野付近
■比延付近

「荷物を背負うた男と、何も持たずに旅をするのは、よいものだな。」 少彦名命は、まっ赤な顔をして汗を流していましたが、大汝命はおおまたで、ゆったりと歩いていきました。 何日か旅をしつづけて、神崎郡までやってきたとき、少彦名命の顔は汗でよごれ、日に焼けてまっ黒になっていました。が、大汝命はまっ青になり、ひたいからあぶら汗をたらしていました。 大汝命は、とうとうしんぼうしきれなくなり、道ばたの草むらのなかへかけこむと、いっ気に思いをはらしました。あまりの勢いに、うんこはささの葉にはねとばされて、とびちって石となり、つもって山となりました。はじか野村はこうしてできました。 それを見ると、少彦名命も、背負いつづけてきた埴の荷を、道ばたに投げすてました。赤土はかたまって埴の里ができました。 大汝命と少彦名命は、手をとりあって、「あっははっは。」と、笑いころげました。 『郷土の民話(中播編)』(編集“郷土の民話”中播地区編集委員会 発行 財団法人兵庫県学校厚生会 昭和四十七年十一月発行)より

→市川町 はじか野村は、今の市川町屋形初鹿野あたり。JR鶴居駅から徒歩約三十分。 →神河町 埴の里は、今の神河町比延のあたり。JR寺前駅から徒歩約十三分。

おなつ

西光寺野(さいこうじの)にしっぽの太い、大きなきつねがすんでいました。女にばけるのがうまいので、おなつとよばれていました。 そのころ西光寺野は、まだきり拓(ひら)かれる前で、いちめんの松林のなかに、すすきが生(お)い茂っていてそのなかを細い道が通っていました。夜おそくこの道を通った村の衆(しゅう)で、おなつにだまされないで帰ってきた者はいませんでした。 よめどりによばれて、夜中がすぎてから帰っていた若い百姓は、かんざしをさした娘が、道のそばに立っているのにであいました。こんな夜おそく何をしているのだ、というと、げたのはなおが切れて帰れなくてこまっているというのです。正月と村のお祭りにしか着ない、一張羅(ちょうら)の着物を着て兵古帯(へこおび)をしめていた百姓は、娘がかわいそうだと思って、兵古帯のはしをさいて、はなおをすげてやりました。娘は何度も礼をいって帰ってきました。 あくる日になって、このことを家の者にいうと、家の者はみんな、おなつにだまされたのだといいましたが百姓は、それでもまだ、ほんとうに困っている娘をたすけてやったと思っていました。帯のはしは、たしかに昨夜切りさいたままになっていました。 しかし、あまりに家の者がだまされたというので、おこった百姓は、ゆうべ、はなおをたててやったところへいってみました。すると、そこに桐(きり)の木が一本立っていて、その下に兵古帯(へこおび)のはしをゆわえた桐の葉が一枚落ちていました。

おなつ

また、ある時、たてまえによばれた大工が帰っていると、道ばたに若い女がしゃがみこんで、しくしくないていました。わけをきくと、おなかがいたくて、歩くことも何もできないといいます。松林をぬけたところに家があるというので、背中に負うて、つれていってやりました。 家というのは、門のあるりっぱな家で、家の前までくると、女はすっかりよくなったといってあがってあそんでいけといいます。大工は、こんなりっぱな家にあがるのははじめてなので、あがらせてもらってお茶をよばれたり、双六(すごろく)をしたりしてあそんで帰ってきました。 あくる日になって、どうもおかしいと思い、大工がきのう着て帰ったはっぴをしらべてみると、背中にきつねの毛がいっぱいくっついていました。 きれいな娘や、若い女の人にばけるというので、村の若い衆のなかから、一度だまされてみたいという者があらわれました。若い衆は、きつねずしのべんとうをこしらえ、徳利(とっくり)に酒をいれて、夜がふけるのを待って松林のなかへ出かけていきました。 松林のまんなかどころに大きな松の木があります。その木の下でべんとうをひらいて、酒をのんでまっていましたが、いつまでたっても、女の人はあらわれません。あほらしくなって、もう帰ろうと思い、べんとうをしまおうとすると、いつのまにかべんとうがなくなっていました。さすがの若い衆もぞくっとして、あわてて走りだそうとすると、うしろから手をつかまれました。ふりむくと、ふろからあがったばかりの島田(しまだ)にゆった女が立っています。

おなつ

■西光寺野付近

若い衆は女にいわれるままに、はだかになってふろへはいりました。からだのしんまであたたかくなり、何ともいえないよいお湯でした。ふろからあがって、若い衆は、女の人のもてなしをうけました。おわりに、女はぼたもちを出しましたが、あまりにおいしいので、こんなうまいぼたもちは、いままで食べたことがないというと、それならおみやげに持って帰ってください、といって竹の皮につつんでくれました。 あくる日の朝になってみると、田んぼのこえつぼのそばに、じゅばんとふんどしがぬいだままになっており、竹の皮のぼたもちは、牛のふんでした。 『郷土の民話(中播編)』(編集“郷土の民話”中播地区編集委員会 発行 財団法人兵庫県学校厚生会 昭和四十七年十一月発行)より

→神崎郡福崎町 西光寺野はJR福崎駅から徒歩一五分。

「龍野」の地名のおこり

いまから二千年ほど前のお話です。 出雲(いずも)の国の人で、学問にも力にもすぐれていた、野見宿禰(のみのすくね)という人がありました。その宿禰が、出雲から大和(やまと)の国へ行っての帰り、龍野の地で、重い病気となり、看護(かんご)のかいもなくなくなりました。 龍野(たつの)の人たちは、宿禰のえらいことを知っていましたから、宿禰の死を心から悲しみました。相談の結果、大きな墓(はか)を作り宿禰のこうせきをたたえることにしました。 このころは、古墳(こふん)時代ですから、えらい人や権力をもっていた人の墓は、みはらしのよい高い所に作り、水から守るしきたりでした。 そこで、村の人たちは、おとなも子どもも年よりも出て、揖保川の川原から一列にならび、石をひとつひとつリレーして運びました。 何日も、何日もかかって、やっと、もみじ谷まで運び上げました。そこから、もう一度ならびなおして、台山(だいやま)の中腹まで、また何日もかかって運びました。 このころの龍野の町は、家もまばらで野原だったのです。その野原に、たくさんの人が立って、石を運んだということから、「野に立つ人」「立野(たちの)」という地名がついたということです。 やがて、「立野」が「龍野」になるのですが、いつからそうなったかは、はっきりしないそうです。

「龍野」の地名のおこり

■龍野の風景

龍野城の研究家石原元吉(いしはらもときち)さんのお話では、三百七十年前には、まだ「立野」とよんでいたという資料があるそうです。 また、いまも、もみじ谷の近くから、その谷にある「ゴコウ岩」という石のほかに、川原の石だと思われる石が、たくさんでてくるということです。 『郷土の民話(西播編)』(編集“郷土の民話”西播地区編集委員会 発行 財団法人兵庫県学校厚生会 昭和四十七年十一月発行)より

→たつの市 野見宿禰神社は、JR本竜野駅から徒歩一時間。あるいは、JR網干駅または竜野駅からタクシーで約二十分。山麓から徒歩約三十分。

遊女友君

木曽義仲(きそよしなか)といえば、武将(ぶしょう)として名だかい源氏(げんじ)。平治(へいじ)の乱(らん)で平氏に追(お)われ、都から源氏一族が、東国(とうごく)(関東)から東北に落(お)ちのびました。 この義仲に寄(よ)りそっていた女性友君(ともぎみ)は、別れてただ一人の従者(じゅうしゃ)をつれて京をのがれ、難波(なにわ)(大阪)から、海路(かいろ)小舟で瀬戸内海を西へと、あてもなく漂流(ひょうりゅう)しました。 「ありゃ何だい。」 「女子(おなご)じゃないか。」 室(むろ)の浜辺(はまべ)では、そのとき漁(りょう)から帰ったばかりの舟(ふな)だまりで、奇妙(きみょう)な話し声がおこりました。やがて漕手(こぎて)が沖へ、 「そなた!何とて、これへこられたのじゃ?」 「やんごとない(とうとい)お方の奥方(おくがた)なるぞ。」 お供(とも)の者は答えました。 「何でもええわ、浜(はま)へこい!」 というわけで、間もなく老若(ろうじゃく)男女が、手をかざして眺(なが)めている浜辺(はまべ)へみちびかれてきました。

遊女友君

「何と、お美しい方じゃ。」 「気品(きひん)の高い女子(おなご)はんじゃ。」 と、口ぐちにいいました。あがめる心に、とりあえず、丘(おか)の上にある浄運寺(じょううんじ)に案内され、和尚(おしょう)さんのお許しを得て、そこに落ちつかれ、住まわれることになりました。 「えらいお方じゃ。かしこいお方じゃ。」 何でも知り、心得(え)ていました友君は、港の女たちに教(おし)えました。和歌(わか)の道、舞楽(ぶがく)(うたとまい)、書道、行儀作法(ぎょうぎさほう)など。 幾年(いくとし)かへたある年の暮(くれ)、法然上人(ほうねんしょうにん)が、讃岐(さぬき)(愛媛(えひめ)県)に流罪(るざい)される途中(とちゅう)、この港に舟をつけられました。 友君は、都からの徳(とく)の高い坊さんと聞き、すぐ上人をたずね、 「まちがい多く、迷(まよ)いの友君です。」 とざんげし、行末(ゆくすえ)にあてもない身の上をうちあけて救いを求めました。上人は、 「かりそめの色にゆかりの恋(こい)にだに あうには身をも惜(お)しみやはする」 との歌をしるされ、紺紙(こんし)、紺泥(こんでい)の名号(みょうごう)と袈裟(けさ)をそえて彼女に残されました。

遊女友君

■室津港
■友君の碑

友君はねんどをもって像(ぞう)をつくりました。これが上人のお姿で、今は重要文化財に指定(してい)され、同寺に安置(あんち)されています。昔を語るお話の多い室津での、エピソードのひとつとなっています。 『郷土の民話(西播編)』(編集“郷土の民話”西播地区編集委員会 発行 財団法人兵庫県学校厚生会 昭和四十七年十一月発行)より

→たつの市 室津港は山陽網干駅から「大浦」行きバスで約二十五分。 友君の墓がある浄運寺(御津町室津)は山陽電鉄網干駅下車、バスで室津行二十五分。 室津下車徒歩十五分。

蛸の足

赤穂御崎(あこうみさき)が、まだ、今のように有名でなく、さびしい漁師町(りょうしまち)だったころの話です。 ここに、昔から、「蛸(たこ)をたべることまかりならぬ。」という家訓(かくん)(家のさだめ)をもった家がありました。先祖代々、何百年もの間、それを守りつづけてきました。 そこで、そのわけを聞いてみました。 ある日のこと、この家の主(あるじ)が、御崎の北にあたる万五郎谷へ草刈りにいきました。ひと仕事のあと、少し休もうと腰をおろしますと、海岸のトリ石という岩の上に、大きな蛸(たこ)がひる寝をしているのが見えました。 あまり大きな蛸に見えたので、トリ石のところまで行ってみました。蛸は、人が近づいたのも気がつかずに、いびきをかいて寝ていました。 主は、ふと、こんな大きな蛸は、たべてもさぞうまいだろうと思ったので、いきなり持っていた鎌(かま)で蛸の足を切りとりました。蛸が怒って追ってきては大へんと、切りとった蛸の足を握って、一目散(いちもくさん)に走りました。家へ帰って、その足を煮(に)てたべました。とてもおいしい味がしました。 あくる日、主(あるじ)はまた万五郎谷へいってみました。すると、どうでしょう。トリ石の上に、足が七本になった蛸が、またひる寝をしているではありませんか。主は、きのうたべた蛸の足の味が忘れられず、足音をしのばせて蛸に近づき、また足を一本切ってもってかえってたべました。

蛸の足

■御崎の風景

こうして、そのあくる日も、またあくる日も、同じように、蛸の足を切ってもちかえり、煮てたべました。 八日目になりました。主がきょうもトリ石のところにいきますと、一本足の蛸がやはりひる寝をしておりました。そっと近づいて、八本目の足を切ろうとしますと、蛸がはじめて目をさまして 「蛸の足は、そんなにうまいか……」 と、いいました。 主はびっくりして、もう足を切るどころではありません。まっさおになって逃げて帰りました。 その晩から、高い熱がでて、 「蛸がものいうた、蛸がものいうた。」とうわごとをいいながら苦しみました。 それから、この家では「蛸を食べてはならぬ。」という家訓をつくって、代々まもってきたということです。 『郷土の民話(西播編)』(編集“郷土の民話”西播地区編集委員会 発行 財団法人兵庫県学校厚生会 昭和四十七年十一月発行)より

→赤穂市 御崎へはJR播州赤穂駅からバス十五分御崎下車すぐ、 山陽自動車道赤穂ICより車で約十分

カッパの証文

音声で聞く

昔、何時のころかわかりませんが、今の赤(あか)い花(はな)(赤岩鼻(あかいわはな))の下がまだ細い道しかなかったころ、一人の馬車ひきが、いっぱい荷物を積んで車を馬に引かせて通っておりました。 大へん疲れたので一服しようと、腰をおろして休んでおりますと、急に馬が高い声でいななくので、何事かとふりかえってよくよく見ると、一匹のカッパが馬の尻に頭をつっこんで、腸をひきずり出そうとしているところでした。 腕自慢(うでじまん)の馬車ひきは、「生意気(なまいき)なカッパめ!」とばかりにカッパを引き離し、にらみすえながらこらしめようとしました。カッパは泣いてあやまり、「赤松から有年の間には、私の仲間のカッパ族を、子子孫孫(ししそんそん)まで住まわせません。」と誓うので、証文を書かせ逃がしてやりました。カッパはお礼をいいながら下流の方に逃げて行きました。 そのカッパの証文が、上郡町市町の稲荷さんに保管されているということですが、誰も見た人はいません。 『郷土の民話(西播編)』(編集“郷土の民話”西播地区編集委員会 発行 財団法人兵庫県学校厚生会 昭和四十七年十一月発行)より

→赤穂郡上郡町 赤岩鼻は、今の建武橋付近で、千種川と鞍居川の分岐するあたり。JR上郡駅から徒歩一五分。馬坂は、大枝の手前で左の堤防に枝分かれするあたり。JR上郡駅から徒歩二十分。

カッパの証文

■赤岩鼻付近
■馬坂付近

上郡の大蛇伝説

野磨の駅家の大蛇(やまのうまやのおろち) むかしむかし、金峯山(きんぷせん)に転乗(てんじょう)という僧がいました。 幼い時から法華経(ほけきょう)を習い、昼も夜も読経(どきょう)して法華経を暗記したいと思っていたので、何年もかかって六つの巻を覚え、七、八の二巻も覚えようと思って読みましたが、いくら年月が経っても覚えることができませんでした。 そこで転乗は、吉野山の蔵王権現(ざおうごうんげん)に参って、夜ごとに三千回の礼拝を捧げ、この二巻の経を覚えられるように祈りました。すると、転乗の夢に龍の冠をした夜叉(やしゃ)の形の人があらわれて告げました。 「おまえは前世では毒蛇の身だったのじゃ。三尋(ひろ)半(五~六メートル)もある大きな蛇で、播磨の国、赤穂郡の山の中の駅家(うまや)に住んでおったが、そのころの宿縁(しゅくえん)で、七、八の二巻を暗唱できないのじゃ。」 「それは一人の聖人がその駅に泊まった時のことじゃ。毒蛇は棟(むね)の上から、聖人を食べようとして狙っていたが、それに気づいた聖人が、手を洗い口をすすぎ法華経を唱え始めた。毒蛇は、経を聞いて殺すことをやめ、目を閉じて一心に経に聞きいった。しかし、第六の巻になったとき夜が明けてしまい、七、八の二巻を唱えずに、聖人はその駅から旅だってしまったのじゃ。」

上郡の大蛇伝説

「その毒蛇というのが今のおまえのなのじゃ。殺そうとするのをやめて法華を聞いたことで、多くの年月を経て生を転じて人の体を得て、僧となることができたが、七、八の二巻を聞けなかったから暗唱することができぬのじゃ。一心に精進して法華経を暗唱し習得すれば、死後は生死を離れることができるであろう。」 それを聞いて転乗は夢から目覚めました。 転乗は、深く仏道を修め、仏果を求める心を持ち続け、ますます法華を唱え、ついに、嘉祥二年という年に尊くして亡くなったと語り伝えられています。 参考文献『今昔物語集第十四巻』「峯山の僧転乗、法華を持ちて前世を知りたる話」

上郡の大蛇伝説

■落地飯坂(おろちいいざか)遺跡

ヤマタのオロチと落地(やまたのおろちとおろち) 上郡町船坂の落地(おろち)にまつわる話です。 昔、船坂村を「舟坂村」と書いていたように、ここは湖(みずうみ)でありました。旅人は、ここを舟に乗って渡らなければならず、非常に困難をきわめていたといわれています。それというのは、湖の中の大蛇が住んでいたからです。 有名な「ヤマタのオロチ」と呼ばれる大蛇のことで、頭が八つ、尾が八つ、背中に苔(こけ)を生やし、大木が生い茂っていたといわれるヤマタのオロチを、すさのおの尊(みこと)が退治されたのは大へん有名な話ですが、この地方の人びとは、出雲(いずも)のことでなく、この地が本当の場所であると信じています。 名も大蛇(おろち)村といっていましたが、明治時代に落地と改名され、今もその名で呼ばれています。 『郷土の民話(西播編)』(編集“郷土の民話”西播地区編集委員会 発行 財団法人兵庫県学校厚生会 昭和四十七年十一月発行)より

赤穂郡上郡町→落地飯坂(おろちいいざか)遺跡は、JR上郡駅より車で約五分。

茶と栗・柿・麩

むかしあるところに、茶と栗(くり)と麩(ふ)を売りにまわる男がありました。 ある時、一日中まわったけれど、ひとつも売れずに帰ってきました。 「お前、どがいいうてまわったんぞ。」(何といって売ったのか) とある男が聞くと、 「なんにもいわずに、だまってまわった。」といいました。 「そりゃ売れんはずじゃ、持っている物を、大きな声でいわなあかん。」 と教えました。 「へえ、なるほど、持っとる物の名をいいながら歩いたら売れるんじゃな。」 二日目に、しょんぼり帰ってきて、 「きょうも売れなんだ。」といいました。 前に教えた男は、 「どがいないい方をしたんぞ。」 というと、男は 「持っとる物を一ぺんにいわなわかるまいと思うて、『チャックリカーキフッ。』『チャックリカーキフッ。』というてまわった。」 といいました。 「そがいないいよう(そんないい方)では、さっぱりわからん。売れんのはあたりまえじゃ。」 「そんなら、どんないいようがあるんじゃ。」

茶と栗・柿・麩

■現在の相生風景

「そりゃ、茶は茶でべつべつ、栗(くり)は栗でべつべつ、麩(ふ)は麩でべつべつにいわなあかんのじゃ。」 「なるほど、べつべつにな。あしたからよう売れるぞ。」 と、男は勇んで帰っていきました。 あくる日、男は朝早くから大きな声で 「茶ァは、茶ァでべーつべつ くーりは、くーりでべーつべつ ふーは、ふーでべーつべつ。」 「茶ァは、茶ァでべーつべつ くーりは、くーりでべーつべつ ふーは、ふーでべーつべつ。」 と、いいながら町々をまわって行きました。 はて、こんないい方で売れたものか、売れなかったものか。 『郷土の民話(西播編)』(編集“郷土の民話”西播地区編集委員会 発行 財団法人兵庫県学校厚生会 昭和四十七年十一月発行)より

わらすべ長者

むかし、仕合わせが悪るうて、「これじゃぁどもならん。どこぞぇ(どこかへ)いて一旗あげよう。」そぎゃぇ思って旅ぃ出て、寺でうつうつしよって夢ぇ見たんじゃ。 「お前はそのぅこれから仕合わせぇになるで、これから手の中ぇ入ったもんを大事ぃせ。」 って。それで、そっから出て歩きかけたら、つい転(ころ)んで、起き上ってみたら手の中ぇわらすべぇ(いねのわら)握(にぎ)っとった。 それからそのわらすべぇ持って歩いとったら、あぶぅが食いついた。 そのあぶぅ取って、けつ(お尻り)ぃわらすべぇつけてブイブイいわせて歩いとった。 そしたら、お大家の奥さんが、子どもぅ連れて通りよって、その子どもが「あれほしい。」いうて、それで、そのあぶぅやったら、そのう「みかんやる。」いう。 「いらん、いらん。」いうたが、「みかんやる。」いうてきかんので、みかんもろうて歩いとって、峠(とうげ)ぇ越しよったら、呉服屋のおかみさんが腹痛(はらいた)ぁ起してのどが乾(かわ)いたが水はなし、困っとった。 そこで、そのみかんやったら、その人は大阪の何とかいう木綿問屋(もめんどんや)のおかみさんで、木綿をくれた。そぇから、その反物(たんもの)持って行きよったら、道で馬が腹痛起して困っとる。そぇで、その馬の腰ぁくくらにゃぁいけん。そぇでその反物ぅ出ぇてやって、馬の腹ぁ巻いてやったら、そしたらその馬ぁ助かった。

わらすべ長者

■宍粟風景

ところが、その馬ぁ参勤交替(さんきんこうたい)で江戸へ行かんならん荷物運ぶ馬だって、それで「どうもしゃぁなぇ、わしらが戻るまでお前、番しとってくれ。」いわれて、そのえ(家)の番しとったが、いくら待っても戻ってこん。 そのえ(家)は畑も山もじょうさんある。そのえ(家)ぇもろうて住みついて、しやわせぇ暮したそうな。 『郷土の民話(西播編)』(編集“郷土の民話”西播地区編集委員会 発行 財団法人兵庫県学校厚生会 昭和四十七年十一月発行)より

夜泣石

むかし、赤穂藩の御殿女中にあがっていた娘が、行儀見習いのため山崎の武家屋敷に身を寄せていました。 ある夜のこと、その娘が小川にかかる石橋にさしかかった時、黒い人影におそわれ、 「ええい!」 「ぎゃー!」 かわいそうに娘は石橋の上で何者かに殺されてしまいました。 それからというもの、娘の血に染まった石橋が夜な夜な「赤穂へいのう、赤穂へいのう。」と泣くようになりました。 その後、妙勝寺の境内に移して供養すると泣かなくなったと伝えられています。 参考文献 『バンカルNo二四 一九九七年夏号』(財)姫路市文化振興財団発行 『神戸新聞 はりま怪談めぐり』二〇〇四年八月二一日 →宍粟市 夜泣石がある妙勝寺(山崎町上寺)は最上山の山すそにある。 神姫バス山崎停留所から約五百メートル。

■妙勝寺
■夜泣石

監修・協力一覧

監修者
橘川眞一
協力者
(以下アイウエオ順)
  • 円教寺
  • (社)姫路観光コンベンションセンター
  • 兵庫県学校厚生会
  • 宮本武蔵・伊織顕彰会
  • 河南堂夏耶斎
  • 十二所神社
  • 別所地区
  • 宮本武蔵顕彰会
  • 河南堂八宝斎
  • 泊神社
  • 真浦区会
  • 妙勝寺 ほか

監修者から

播磨は“むかしばなしの宝庫”といわれています。それは大和(奈良)や平安京(京都)など都に近い豊かな大国だったうえに、古代の最大のハイウェーといわれる山陽道が通り、瀬戸内海を中心とする船運によって、さまざまな文化を吸収していったからです。そのため、日本でもっとも古い歴史書といわれる『古事記』(こじき)をはじめとして、朝廷が編纂した『日本書紀』(にほんしょき)、古い地域史の『播磨国風土記』などに、膨大な物語が書かれたのです。 むかしばなしの研究に初めて取り組んだのは、播磨出身の民俗学者・柳田国男です。多くの物語が残されていた辻川(神崎郡福崎町)で育ったのが、民俗学の道へのきっかけになったといわれています。つまり「風土」が生んだ人だったのです。この番組のなかでも数多くの“むかしばなし”が登場しますが、ほんとに多種多様なものです。そのなかには全国に知られたものも多く、播磨が重要な国だったことを証明しています。たくさんの人たちが、「ほのぼのとあったかい物語」を楽しんでほしいと思います。

播磨学研究所所長  橘川真一

紙芝居 はりま蛸ものがたりを見る

淡路のむかしばなし

目次

旧淡路町

旧北淡町

旧一宮町

旧津名町

旧東浦町

旧三原長

旧西淡町

旧南淡町

旧洲本市

旧五色町

旧緑町

別当の潮

岩屋(いわや)の町の高台にある観音寺(かんのんじ)別当坊さんの犬は、波打ちぎわで板きれをくわえてはあちこち走りまわっていた。毎日、毎日、板きれをくわえてきては波に乗せ、流れていく方向を見ている。 (潮は泉州堺(せんしゅうさかい)の方へ流れていくぞ。流れの速いとき、いっぺん板にのってみよう。きっと堺に行けるにちがいない。よし、ためそうや) 潮の流れに乗ろうと考えた別当坊さんの犬は、念入りに用意をしていた。海へ入って板きれを流し、その流れていく方をじっと見ては、また板きれを拾いに走る。 小首をかしげながら板きれを流すしぐさがおかしいといって、漁師の人たちは大声で笑った。別当坊さんの犬は、そんな笑い声など耳に入らないようだ。 (あの板きれの流れは速いぞ。潮の流れは毎日、変わるんだな、きっと) 同じことをくり返している犬のことが、せまい岩屋のことだから、すぐ評判になった。 「別当坊さんは知っているのかな。あんなことをしとるのを」 「なんぼかしこい犬でも、潮の流れを考えるなんて、できるはずがない」 「わしは、これでも四十年からこの瀬戸で漁師(りょうし)をしとんので、たいがいの潮のことならわかるがのう。いったい何を考えてあんなことをしとるんだろうか、犬がよう」 「岩屋の瀬戸は、人を食う流れの早いとこや。犬にまちがいでもなけりゃええがのう」 拾い集めた木を燃やしながら、浜辺の人たちはこんなことを話し合っていた。そんなみんなの見ている前で、板きれをくわえてきた犬は、その上に乗って沖へ乗りだしていった。

別当の潮

「おーい、えらいこっちゃ。別当坊さんの犬が沖へ出たぞ。おい、はよう助けらにゃ」 あわてた人たちは、波打ちぎわをあっちへ行ったり、こっちへ走ったり。 「さっきから、いぬにもどれようと呼ぼっているが、犬に人間のいいよることが、わかるはずがないしのう。どないしょう」 「とにかく、別当坊さんに知らせよう」 漁師のひとりがお寺へ走っていった。その間にどんどん犬は流されていき、人々の目の中にいなくなってしもうた。 こちらは板に乗った犬、潮の流れが速いんで、どんどん流れていく。 (この分なら思うていたより早(はよ)う堺に着きそうじゃよ。気分爽快(そうかい)なり) 板の上で犬はほくそえんでいる。 (冒険王のお犬様じゃ。人間がよう考えらなんだ潮路を、このおれさまが発見するんだからな。まあまあ、堺に着くまでゆっくり船旅を楽しもうかな) 腰をおろし、雲一つない青空をながめ、えつに入っとった。 そんなこととはつゆ知らぬ岩屋の人たち、 「ほんまにかわいそうな。こんなことになるんだったら、犬をつないどったらよかったんや。いまごろいうてもしゃあないことだが」 「かしこい、ええ犬やったんにな」 「どなやしょったら、人間よりかしこい犬や。ほんまにおしいことしたな」 と口々に話しながら、犬をおしんでいた。

別当の潮

それから数日後、岩屋の綱吉という人が商売のことで堺へ行き、町を歩いていると、向方から尾をふって近づいてくる犬がいた。 「おう、おまえは別当坊さんの犬だ」 綱吉はびっくりして、大声で呼ぼった。鼻をすりよせてくる犬を抱いて、 「おう、生きとってくれたか、よかったな。よかった、よかった、案じとったぞう」 頭をなでながら綱吉は、人に話しようにいってよろこんだ。 「なあ、わしといっしょに岩屋へ帰ろう。死んだと思うとった犬が、岩屋へ元気でいんでみい、みなびっくりするぞ」 綱吉は犬を連れて岩屋へもどってきた。浜の人はびっくりするの、しないのって。 「ほんまに別当坊さんの犬か」 「潮にのって堺まで、犬がひとりで行ったのだって。ほんまかあ」 「あの潮は速いのに、よう、まあ、無事(ぶじ)で」 犬に教えられて浜の人々は船を出し、ロもカイも使わず、流れにまかせてためしてみた。そうすると、何の心配もなしに、楽に堺に着くことができたのだった。 こうして、岩屋から堺まで開かれた潮路を“別当の潮”とよんでいる。 註)よぼって=大声で叫んで しゃあないこと=しかたがないこと どないやしょったら=どうかしたら いんで=帰って

細川のおやっさん

弥平(やへい)さんは、外に出て空を仰ぎながら 「卯(う)の刻(こく)雨にかさ持つな(朝六時ごろ降る雨はすぐやむ)と昔の人は、よういうたもんや。ええ天気になってきた。おい、おまき、遠田の方へ魚売りに行ってくるぞ」 といって、いつものように行商の用意をして出かけていった。その背中へ 「かべっとに気いつけていきや。おやっさんが近ごろようあばれよるというこっちゃ」 おまきさんは大きい声でよぼった。おやっさんいうたら、ここらでよう人を化かす狐のことや。 「わかっとるぞう」 弥平さんの声が返ってくる。 いつもは新村から遠田までまわらなければ売れないのに、今日は新村の金比羅(こんぴら)さんのお祭りとあって、せいろの魚がじっきに売れてしもうた。 「今日は値切(ねぎ)る人もなかって、ようけもうけたぞ。こんな日もなけりゃな」 弥平さんは、ホクホクしながら帰ってきた。枯木の浜では漁師の人が船をのぼしている。 「今日はどうやった」 「大漁じゃよ。ハマチやオオクチが釣れるんじゃ。たまにゃこんなこともないとな」

細川のおやっさん

「おお、そりゃよかった。ようもうけて温泉へでも行ってこいや。大漁だったらわしらもええからのう。温泉につかって一杯(いっぱい)きゅうっとひっかけてみいな、身にしみるやろな」 「ほんまに、いつかいかんかいや」 温泉の話に花を咲かせて、弥平さんはかべっとの坂をおりてきた。 だんだん温泉街に近づいてくる。ここの高台から見下ろす家並に、赤や青の灯がまたたき、どこかで一杯やっているのか三味線が鳴り、それにあわせての太鼓、黄色い声も入り乱れている。 (あれ、温泉だ。来たい来たいと思っていたら、こない早く来られるとは思ってもいなかった。温泉につかれるぞな) そこへ、美しい温泉街の仲居(なかい)さんが出てきた。 「あの申し、お泊まりはこちらへ。先に湯に入られますか、お食事になされますか」 「そうだな。腹はへってないから先に湯へ入り、それからゆっくり一杯といこうかな」 「それではそうなさいまし。てぬぐいはこちらに、湯上がりはここに用意してございます」 「おおきに、ゆっくりつからせてもらいまっさ。お大尽(だいじん)なみのもてなしや。悪い気はせんもんじゃよのう」

細川のおやっさん

ほくほく喜んだ弥平さんが、湯殿(ゆどの)の戸を開けると温泉のええにおいがいっぱい。 「わし一人ではもったいない。こんなんじゃ、おまきを連れてきたったらよかったが、ええまあ、ええや。こんど連れてったろうや」 裸(はだか)になった弥平さんは、湯のたちこめている温泉につかった。 「ああ、ええ湯じゃ。体の芯(しん)までぬくもるええ湯じゃ。体の痛(いた)いとこもなおるようじゃよ」 わき出ている温泉につかって、弥平さんは体中をごしごしこすった。 「小原庄助(おはらしょうすけ)はんの気持ちが、ようわかるというもんじゃ。てぬぐいはこうして頭の上へ」 とうとう、弥平さんは手をたたいて歌をうたいだした。 さてもみごとな淡路の島よ コリャコリャ 浮いた島なら流れもするが ドッコイコリャ 根から生えたか流りゃせん コリャコリャ あの歌をうたい、この歌をうたい、弥平さんはとうとう立って踊り出してしまった。湯船の横に、熱かんの酒がいっぱい出されている。 「うめえ。この熱かん、腹わたにしむわいな。へへへ、ひょっ、うめえな、うめえ」 弥平さんは、すっかり上機嫌(じょうきげん)で歌ったり踊ったりしていた。 「どうやら酔いがまわってきたようや。ちょっと寒うなってきたぞ。温泉がさめてきたんかな。おーい、どうしたんだ、温泉がよ」 その時。こっつん。 「いたたた、柱に頭をぶっつけたりして、こりゃ、だいぶん酔いがまわった。わしとしたことがよ」 その時、どうしたことかほっぺたをパチンとたたかれた。 いや、なぐられたようだ。

細川のおやっさん

「どうしたんだ、弥平。こら、何を寝とぼけとるんじゃ。くさい肥(こ)えだめの中へ入ったりして。こないくさいとやりきれん。頭も顔もどこもかも糞(くそ)まみれ、くそうてさわれない。いったいどうしたというんじゃ」 「そない怒らんと、どうや、一杯やろうやないか。つけつけどんどんは体の毒じゃ。さあさあ、一杯やりまひょ」 「ばかたれ、肥えだめの中で何いうとる。早(は)よあがれよ。おい、みんなバケツで水をくんだ、くんだ。もっと持ってこい。頭の上も糞まぶれや」 ようようにして、肥えだめから引き上げられた弥平さん。 「ハ、ハ、ハックション。ああ寒い」 「何いうとるんじゃ。夜通し肥えだめの中につかっとったもの、冷えきっとるがな。冷えとるよりもこのにおい、いったいどうすりゃとれきれるんかな」 てぬぐいがウンコの汁につかって茶色に染まっている。 「着物をほれよ、あ、くさい。ほんまによ」 おまきさんは、怒ったり笑うたりだった。 「わしゃ、温泉につかっとったのにな」 「何をいうとるんじゃ。魚を売りにいったきり戻ってこんので、ゆうべはみんな出ておまえさんを探しよったんや。細川のおやっさんにだまくらされたな。おい、しっかりせえや」 お旅所の上から見下ろしていたおやっさん、 「こりゃ、ちっと悪さがすぎたかな」 ペロッと舌を出し、長いたもとの袖をヒラヒラさせ、さっと山の方へ走っていったそうな。 註)かべっと=海の近くにある所の地名 のぼしている=船を陸に上げる いかんかいや=行ってみないか つけつけどんどん=ガミガミいう

イザナキ・イザナミの神様

昔、高天原(たかまがはら)という空の上に大勢の神様が住んでいなさった。 ひとりの神様が 「この雲の下は、どうなっているのであろうか。何かどろどろしたものがいっぱいあるみたいだね」 高天原から下をのぞかれて、こうおっしゃった。いっしょにのぞいていた神様が 「どろどろしたものというより、水ばかりではないのかね」 じっと下を見ていたほかの神様は 「どろどろや水というより、くらげのようなものがいっぱいいるみたい」 と、話された。すると、一番初めに下界をのぞいていた神様が 「何かわからないものが、ただよっている所へなど、おりていかれないね」 残念そうにいわれたので 「あら、どうして下へおりたいの」 不思議そうにたずねる神様がいなさった。 「はい、わたしは結婚をして家を建てたいのです」 顔を赤らめながら男の神様はこうおっしゃられた。この男の神様を、みんなはイザナキノミコトとお呼びしていた。 大勢の神様は、どうかしてイザナキノミコトの願いがかなえられるように、ご相談なさることになった。イザナキノミコトが結婚したいと思っている女の神様を、イザナミノミコトともうしあげた。 「一番初めにみた女の方で、わたしが心をひかれた人なのです」 熱心にいうイザナキノミコトの心にうたれた、高天原で一番年のいった神様が

イザナキ・イザナミの神様

「ここにアメノヌボコという槍(やり)のようなものがある。これは高天原ではとても大切にしているものです。これで下界を調べ、人の住める国にしてもらいたいのじゃ」 こういって、お二人にアメノヌボコをくだされた。大喜びのお二人は、高天原と下界との間にある天(あめ)の浮橋(うきはし)の上に立って、アメノヌボコで下界をかきまわされた。 「こおろ、こおろ、こおろ、こおろ」 それは大きい音がして、煮えたっているように白い泡がぶつぶつ、ぶつぶつ、ころころとあつまってきた。まるで塩水が塩にかたまっていくように。 お二人はヌボコを上げられた。 ポタッ、ポタッ、ポタッ、ポター、ポター。 塩のしずくがポタポタ落ち、やがてそのしずくがこり固まってきた。ただよえる海原の中にただ一ヵ所、しずくの固まった島ができた。この様子を見ていなさった神様たちはびっくり。 「あれっ、島ができたぞや。こおろ、こおろの音と共に、しずくが固まってよう」 「お二人の結婚をお祝いする、おのころ島ができなさったぞや」 うれしさいっぱいのお二人は、手をとりあって天の浮橋をかけおりていかれた。そこに、それは大きい柱を建て、八尋殿(やひろどの)というご殿をお造りになった。この大きい柱のまわりをイザナキノミコトは左から、イザナミノミコトは右からまわられた。

イザナキ・イザナミの神様

出会った所で結婚なされた二人は“みとのまぐはい”という結婚の行事をとり行なわれた。すると静かであった海が渦を巻いて、そこにぽっくりと島をお生みになった。これを淡路島といった。 それから四国、隠岐(おき)の島、九州、壱岐(いき)、対馬(つしま)、佐渡(さど)が島(しま)そして最後に大日本豊秋津島(おおやまととよあきつしま)を、その後、これらの国々に住む神様を次々にお生みなされた。イザナミノミコトは、最後に火の神をお生みになったとき、大やけどをおわれた。 「熱いよう、熱いよう、苦しいよう」 もだえ苦しみながら亡くなり、黄泉(よみ)の国(死の国)へ行ってしまわれた。イザナキノミコトは悲しみに耐えられず、黄泉の国へ会いに行かれた。 そして外から 「国造りが終わっていないから、いっしょに帰ろう」 と声をかけられた。すると中から 「もっと早く来てくださればよかったのに。わたしは、黄泉の国の食べ物を食べてしまいました。 それで今から黄泉の国の神様に帰ってもよいか、おうかがいしてきますから、その間このわたしをのぞかないでください」 イザナミノミコトが答えられた。イザナキノミコトはじっとお待ちになっていたが、あまり遅いので待ちくたびれ、火をともして部屋の中へ入っていかれた。中をのぞいたとたん 「あっ、うじ虫がいっぱい」 びっくりして大声を上げてしまった。 イザナミノミコトは、 くさり始めた体を起こしていわれた。 「あら、絶対見ないようにと申し上げたのに、このみにくい姿を見てしまったのね。 ああくやしい、悲しい。 わたしに恥をかかせて」

イザナキ・イザナミの神様

すさまじい怒りに、鬼たちに命じてイザナキノミコトを追いかけさせた。 イザナキノミコトが逃げながら櫛(くし)をお投げになると、 それがタケノコに変わった。 「食べてる、食べてる。その間に逃げよう」 投げつけた物が食べ物になって、鬼たちが食べている間に、イザナキノミコトは走った。しまいには、イザナミノミコトまでが追いかけてこられた。 ようよう出口まできたので、イザナキノミコトは大きな岩を立てて、ふたをしてしまわれた。岩戸を中にして二人はいい争われた。 「イザナミノミコト、これでお別れじゃ」 「まあ、わたしを離婚するのですか。まあむごいことを。ええ、よろしい。それならば覚悟があります。あなたの国の人を一日に千人ずつ殺していきますから、そのつもりでいなされ」 「おお、殺すならば殺しなされ。わたしは一日に千五百人ずつ子どもを産みましょうぞ」 それから、亡くなる人もあるが生まれる人が多いので、どんどん人間がふえていった。 国生みをなされ、大勢の人を生み、たくさんの仕事をなされたイザナキノミコトであった。そのなきがらは、多賀の森深くに葬(ほうむ)られて、永久の眠りについておられ、伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)と申し上げる。

浮亀丸

「おーい、孫六(まごろく)、紀州熊野(きしゅうくまの)の沖じゃ、風向きに気いつけとけや。ここはよう事故にあう所だからのう」 船長の伊右衛門が、大声で水夫の孫六によぼった。江戸へ向けて大坂を出た大津屋の船には、荷物がいっぱい積まれていた。この熊野沖は、波のよく変る所で、何十年ここを通っている船長でも、楫(かじ)を握(にぎ)る手に汗をするという。孫六は、みよしに立って、海をじっとみていた。 「風がのうて、今までたたみをしいたようにないでいても、ここへくるとうねりが高(たこ)うなるんじゃ。ほんまに妙(みょう)なとこじゃよ。魔の海とは、昔の人はよういうたもんや」 じっと腕を組んだまま、孫六は権八(ごんぱち)にいった。権八も心配そうに空を見上げながら、 「なむ八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、なむ八幡大菩薩」 口の中で、何回もお唱(とな)えを続けている。 「おかげで、無事に通ることができたぞ」 権八も孫六も顔を見あわせて、ホッと大息をつきながら、沖の方に目をやった。 突然、「おい、ありゃなんや。妙なもんが浮いとるぞな」 孫六は大声で叫んだ。船底にいたほかの水夫も、びっくりして上がってきた。 「なんや、なんや」 孫六の指さす方を見ると、 「ええ、ありゃなんだい」

浮亀丸

太い丸太棒(まるたんぼう)が波にただよい、その木にカキやワカメがいっぱい生えている。 「それにしても妙じゃ。あっ、何か動いとるぞな」 「どれどれ、動いとるいうてほんまか」 近づくにつれて、浮いているものがはっきりしてきた。 「うわあ、亀じゃ、亀じゃあ。亀じゃぞ」 木に乗っていたのは大きな亀であった。背中に貝や海藻(かいそう)をはやした亀が乗っていたのに、みんなびっくりさせられた。水夫らがみよしに集まってワイワイ騒いでいるので、船長の伊右衛門も窓をあけて首を出した。とたんに 「おーい、えらいもんが浮いてきたぞう。孫六、この楫(かじ)を持っとってくれ」 あわてて船長室から出てきた。 「亀が乗っとる木を家の守り神にしたら、大金持ちになるということや。昔からいわれとんのだが、なかなか広い海ではめったにないこっちゃ」 「えーえ、こんなんを霊木というんか」 「ほうりゃ、えらいこっちゃ。えらいもんがみつかったぞ」 「へえ、この木が霊木。霊木いうたら、金のなる木ということや。運が向いてきたぞ」 船乗りの人たちは、びっくりしたり喜んだり、しばらくはみんなおもいおもいのことをいい、なにをいっているのかわからなかった。 「この亀の乗っている木を、ほかの木と取り替えにゃあかんのじゃ。おーい、みんな来ておくれや」 こういう船長の声もうわずっている。 それもそのはず、何百年に一回、みつかるかどうかわからないという、まぼろしの霊木が目の前に浮いているのだから。

浮亀丸

海亀の乗っている木を取り替えるといっても、なかなか大変なことだ。 なにしろ長さが一丈(三メートル余り)もあり、木の直径が六寸(約二〇センチ)、それが長い間海中にあるので、水を吸うて重いのなんのって、大海亀を持つ人、霊木を取る人、ようよう新しい木を入れ、その上に大海亀を乗せることができた。それから霊木は、船霊(ふなだま)さんの所に祭り、毎日この話でもちきりだった。 それから、伊右衛門は江戸で荷をおろし、また大坂への荷を積み、大急ぎで帰ってきた。「緑毛(みどりけ)のいっぱい生えた亀が乗っていたって。そりゃ、海亀でなしに海神様や。海神様がわたしの家にきてくださったんだ」大津屋の主人の喜びようは、そりゃ大変で、はたの人がびっくりするほどであった。 「海神様が乗ってきたものだから」 りっぱな神棚を作って、ねんごろにお祭りを続けた。それから大津屋はとんとん拍子に出世し、大金持ちになっていった。屋号も大津屋を浮亀屋、船の名前も浮亀丸と改めた。 「昔の人はよういうとったが、やっぱりこんな話がほんまにあるんじゃわい」 それから船乗りの人たちは、航海のとき海をよく見るようになった。 同じ塩田の善兵衛(ぜんべいえ)も、海亀様に出会いたいと思いながら船に乗っていた。が、なかなか見つからない。 「太平洋へ出らんとあかんのかな」 と思っていたら、一の谷沖で見つけた。 「海亀がおったぞう。ありがたいことや」 善兵衛は、亀の乗っている木を取りかえ、家の神棚に祭っていると、やはり大金持ちになったという。

たこ石

「暑さ寒さも彼岸(ひがん)までや、と昔の人はよういうたもんやな。だいぶ涼しゅうなった」 秋の彼岸がくると、そよ吹く風がさわやかになってきた。 「お月見だもんな、秋風がたつわいな」 暑い暑いといっていた夏がすぎ、みんな一息ついたころのことであった。 太郎作が青くなって次郎作のところにとんできた。 「えらいこっちゃがな、せっかく作った芋(いも)畑が荒されてしもうて、つらいよう」 今にも泣き出しそうに頭をかかえこんでいる。次郎作がすぐ畑へとんで行ってみると、芋のつるが引きちぎられ、小さい芋があちこちにとんでいる。もう少し日がたつと芋も大きくなるというのに。 「いったいだれじゃな、トントン山の狸か、月の山のいのししだろうか。こりゃまたひどいこっちゃよ」 もう一ぺん芋のつるを土の中へうめてみたが、おそらくだめだろうよ。その翌日、八幡さんの下の方で田を作っている源やんは、朝起きて田を見に行ってびっくり。稲がふみ荒され、折れっちゃになっていた。 「うわあ、だれじゃ。こんなむごいことをしてよのう。二百二十日も無事にすんで喜んどったのになあ」 半泣きになっているわいな。だんだん集まってきた人も声が出ず、息をのんでいる。平作もやられた、三平も仲三も。 これはこのままほうっておけないと、村の人たちは交代に出て夜番をすることになった。やみ夜の晩は何の変わったこともなくすんだ。 「もう引きあげようか、何もこんのによ」

たこ石

「いや待て。月夜の晩も見張ってみんと、ほして、怪物というか、犯人の正体をあげにゃならんのじゃ。いったいだれなんじゃ」 みんな木のかげにかくれ見はっていた。 やがて、月が紀州路(きしゅうじ)より上り、ちぬの海の上にこうこうと光りを投げだしたころ、 ザザザッ、ザザザッ 急に波が高くなってきたと思うと、波に乗って大きい怪物がぬーとあらわれた。 「ヒイ」 太郎作はあわてて平作の口を押えた。勢いこんでいた人々は、みんなへたばりこんでしもうたんだ。砂浜に上がった怪物は、近くの畑へ急いでいる。平作は声をころしていった。 「た、た、たこ入道や」 八本の大足を立て、目にもとまらぬ早さで歩いていく。畑へついた大たこは、芽の出かけた大根畑を荒し回り、隣の稲田の稲を倒し回って、月を見上げて一休み。やがて月が西の山に入るころ、前の海へと帰って行った。人々は、ただ 「あれよ、あれよ」 声も出ず、目を見あわせてへたばりこんどった。足が動かんもんだったから。ようやく人々は我にかえり、どうしたものかと話しあっているうちに、夜が明けてしもうた。 次の日の夜、強力(ごうりき)で相撲(すもう)とりの虎吉が大だこ退治をすることになった。それは大きいくまでを持って、波打ちぎわで待っとった。ゆうべのように、まん丸いお月様がしずかな海を照らし始めたころ、うねりと共にたこ入道の頭が、ぬーと海面にあらわれた。

たこ石

「やいやいやい、このたこ入道め」 虎吉は、くまでをかまえて一突き。 「ギャア」 倒れたのは虎吉の方で、大だこの足に巻かれ、岩の上にかち投げられたのだった。大だこはそのまま海に帰ってしもうた。 たよりにしていた虎吉が、みんなの見ている前で大だこにやられてしもうたので、みんなは大変に悲しみ、村中の人みんなで大だこを退治しようということになった。大だこの一番の武器は、足のいぼ(きゅうばん)であった。いぼが役にたたなくなると何もできないことを知った村人は、大だこが通るであろう所に灰にまいておいた。そんなこととはつゆ知らぬ大だこは、次の晩も釜口の浜辺に上がってきたのだった。 「こりゃまた、どうしたというんや」 大だこはあわてだした。足がひとつも地につかず、歩けば歩くほど、もがけばもがくほど、足はぬるぬるしてすべってしまう。とうとう身動きができなくなったころ、村人は持っていた縄で大だこをしばり上げてしまった。 それから村は、もとのように平和がもどり、人々は田や畑に出てせっせと働いたんだと。大だこはそのまま釜ゆでにされてしもうたが 「こんな熱い目をするんやったら、田畑を荒すんじゃなかった」 と、目からポロポロ涙を流してくやんだそうな。 大だこが住んどった「たこ石」は、釜口八幡宮の鳥居のすぐ下の海にあったが、国道を広くしたりしているうちにわからんようになってしもうたということや。 註)折れっちゃになって=細かく折れて、もと通りにならない

蛇すり石

「あ、今日もあの女の人が、わたしの法話を聞きに来ている」 実弘(じっこう)上人は、大勢の村人の中から、美しい女の人の姿を目にとめた。毎日のように本堂へつめてくる人は、ほかにいなかったからだ。そしてその人は一心にお経をあげながら、お祈りをしている。その姿にうたれた実弘上人は、 「ほかのお方は、あいさにしかみえませんが、そなたは毎日のように来てくださる。どこのお方でございましょうか」 法話がすんで、みな帰りかけたとき呼びとめて聞かれた。 するとその女の人は 「はい、わたしはこの成相(なりあい)の谷の中に住む竜女です」 さびしそうな顔でいった。実弘上人は 「えっ、竜ですって」 びっくりして聞き返した。実弘上人は、高野山にいたころも、いろいろと迷い悩む人々に出会ったが、竜女というのは初めてであった。 「はい、わたしはこの谷に長いこと住んでおりまする。どうぞ、わたしをお助けくださいませ。どうぞ、お願いいたします」 悲しそうな顔をして、必死に実弘上人にお願いをしている。 「竜女を助けたいのはやまやまだが、これはわたしの力が及ばないところです。竜女と聞いて、そなたにお願いがあります」

蛇すり石

今まで気になりながら、どうしょうにもなくそのままになっていたのは、お寺の前に大きな岩がでーんとすわっていることだ。そのために、雨が降ると水が道路にあふれ、道行く人がなんぎをしているのだ。 また、その水がお寺の境内にまでいっぱいになり、なかなか水がひかなくて困っている。その岩が大きすぎるので、手のつけようがなかった。そのために同じ苦しみをくり返しているのだった。 「それは、おやすいことです。わたしはその岩をうちくだいて、水が流れるようにしましょうぞ。ご安心くだされ、必ず実弘上人の願いをかなえましょうぞ」 竜女は、約束して帰っていった。その夜、 「ドカーン、ガラガラ、ドカーン」 竜女は大きい体をのたうちまわして、固い岩をくだきとばしていく。 ものすごい力だ。 実弘上人は、竜女が無事、大岩をくだけるようにお経をあげてお祈りをしていた。 「なむだいしへんじょうこんごう」 実弘上人の声は、夜通し成相の谷にこだましていた。やがて明け方になると、さしもの大岩も竜女によってぶち抜かれ、水が流れている。実弘上人は

蛇すり石

「やれうれしいことだ。これで大勢の人々が助けられたぞや。 竜女、ありがとう」 目に涙を浮かべながら、深々と頭をさげお礼をいった。体中傷まぶれになった竜女は、かわいい子どもの姿になって、実弘上人の前にひれ伏した。 実弘上人は手にもっていた、とっこというお祈りのときに使う先のとがった金具を高く上げたかと思うと、 「ヤァー」 前に座っている子どもの頭を目がけて投げつけた。 「ポキーン」 竜女の頭にあった角に当たったので、折れてしまった。喜んだ竜女はそのまま成相の山へ帰っていった。その夜、竜女は実弘上人の夢枕に立って 「長いこと苦しんでおりましたが、上人のおかげで角がとれ、天上へ帰ることができました。これから幸せに暮らすことができまする。ありがとうございました。上人様もどうぞおしあわせに」 にっこりしてお礼を申し上げた。 今も成相寺の前に、竜女が身もだえしながら大岩をくだいたあとが残っている。大きいうろこのあとも。 註)あいさに=ときどき

鳴門の大カニ

鳴門の大カニ(なるとのおおかに) 「ええ時候になってきた。このごら鳴門(なると)も大潮や。どや、いっぺん観潮に行けへんか」 泰作の飲み友だちが、四、五人連れ立って渦(うず)を見にいくことになった。重箱に煮〆(にしめ)をいっぱい入れ、酒徳利(さけどっくり)も七、八本用意して船に乗り、津井の港を出た。 海から見ると山々はつつじが咲き、まるで花模様の着物を着たようだった。丸山の弁天島、伊毘(いび)の沖の島は、こぢんまりと海に根をはっている。泰作は 「淡路島に島ありで風流じゃ。島の風情というもんはのう」 せまい島国に住んでいることを忘れ、どこか大国にいるような大尽気どりでいうのが、おかしかった。みんなそれぞれ好き候のことをいっている。 「たまにゃ気のおうたもん同志、遊山(ゆさん)に出るのもええこっちゃのう。いっぱいさげて」 遊山とは、山に行くこっちゃ。今日は海へ遊びに出とるから遊海じゃ。アハハハ」 そういっているうちに、門﨑(とざき)の鼻に来たので大岩に船を寄せた。待ちかねていた人々は、大岩に上がり重箱をひろげ、盃をくみかわしだした。 「天下に名高い鳴門の渦じゃ。すごいやないか。百雷がとどろくというが、ほんまに潮のぶちあう音のすさまじさよ」 だんだん酒がまわってくると、話も大きくなってくる。そのとき、何気なしに泰作は、止めてある船の下を見た。何やらうごめいているので、じっとすかして見るに、大カニだ。背中の甲が畳七、八枚敷ぐらい、それがなんと二メートル余りもある爪を、開いたりすぼめたりしているのだ。泰作は

鳴門の大カニ

「は、は、はよ船を出せえーい」 ようようこれだけいって、船を出させた。ほかの人は、何が何だかわけがわからない。 「おめえ、どうしたというんや。ええ、今からええとこやと、はずんどったのによう」 すっかり酔ってしまったんで、足がフラフラになっている人に、泰作は体をのり出して指さした。何かいおうにも声が出ない。トロンとした目で、泰作の指さす方を見た吾平は、 「うわあ、ああ」 手を空に上げて泳いだと思ったら、尻持ちをついて、それでも手をふりふり船に乗ろうとしている。二メートル余りもある大カニの爪にかかれば、泰作らの乗ってきた小さい漁船はたまったものではない。バリバリとちょんぎられてしまう。そんな大カニを見たことがない。カニというより怪物だ。 みんなは、ようようにして鳴門を離れたが、伊毘まできても、丸山まできても、真っ青になった人々は、まだふるえが止まらず声も出ない。いったい天下に名高い鳴門の渦の底には、何がおるかわからない。まだまだ、どんな怪物が出てくるかわからないぞや。

しょうじょうばえ

「朝から糸を垂(た)れとんのに、なかなか魚が釣(つ)れらんもんや。こんじゃ家へいんだら、かかあがやかましいにどなるやろな」 三郎太夫は、漁(りょう)が少ないんでよわってしもうとった。 「釣れらんもんを釣れというても、そりゃ無理というもんや。しゃないこっちゃ」 開きなおった気で、三郎太夫は糸を垂れとった。が、やっぱり漁のないのんはつらいことだ。ようけ釣って銭(ぜに)もうけをしよる人もあるというのに。 「もし、そこなおんし、もしおんし」 何やら呼ぶ声が聞こえるんで、ひょいと三郎太夫が振り向いた。 「うわあ、怪物じゃあー」 大声をあげた三郎太夫は、すってのことで海にはまりそうになったので、必死になって船ばたにしがみついた。三郎太夫がおどろくのも道理、見たこともない怪物が太短い二つの後ろ足で、ぬうと立ちはだかっていた。 身の丈(たけ)は三郎太夫よりだいぶ高かった。足のわりにはとても長い手をふらふらさせている。怪物の落ちこんだ二つの大きい目をじっと見ていた三郎太夫は、 「あっ、こりゃ、古いじいさんから聞いとったしょうじょうに違いない。そや、しょうじょうや、しょうじょうや」 三郎太夫は、見たこともなかったまぼろしのしょうじょうに目を見はっていた。三郎太夫は、だんだん落ちついてきた。 「お、お、お、おまや、い、い、いったいなんじゃ」 三郎太夫はふるえながら、指さしもってきばっていうた。

しょうじょうばえ

「すまんこっちゃが、酒をめぐんでくだされや。うめえ酒をひょうたんに入れてくれ」 「な、な、何をいう。おらあの方が飲みたいんじゃ。ほれが漁がでけへんやろ、ほんでおらあのかかあがどなりちらして、一しずくの酒も飲ましゃがれへんのや」 「そりゃわかっとんのや。どないぞ、いんで酒を持ってきてくれ。 頼(たの)むさかいにな」 「あかん。あかんいうたらあかんのじゃ」 「銭をなんぼでも出すよってに、頼む」 あんまりひつこくいうんで、三郎太夫は根負(こんま)けがしてしまい、船で酒を取りにもどった。五升、持ってこいというても、ひょうたんに入らんので酒樽(さかだる)のまま酒を持っていった。ほしたらひつこいもんじゃ、大岩の上で待っとった。三郎太夫はおとろしいんで 「ほら、持てったぞ。飲みゃがれ。ほんまにこちとらの気も知らんとよう」 大岩の上に桶(おけ)の酒を差し出した。 「うえー、うめえ。この酒の味、なんともいえんのじゃ。うめえや、うひゃあ、うめえ」舌つづみ打ちながら、ピチャピチャ飲んでいるしょうじょうだ。三郎太夫はつい 「おっとっとっと」 長い舌を出し、口のまわりをなめまわしながら、口を上げたり下げたりしとった。 「おんしもいっぱい、やれえや」 のどから手が出そうなほど、ほしかった酒や。三郎太夫は、ゴクリ、ゴクリ、のどを鳴らしもって、しょんばんをした。根がすきな酒や、酒が腹わたにしみとおるがな。 「うえ、うめえ。こちも長生きできる」

しょうじょうばえ

桶の酒をまたたく間にあけてしもうた。 「ほんじゃ、またな。おおきに」 しょうじょうは、そのまま海に入ってしまおうとした。 「おいこら、ちょっと待て。銭を払うというたやないか。酒代を払え、やい」 それは大きな声でさいそくをした。ただでさえかかあにどなられ、ぼろくそにいわれとんのに、まだこの上酒代を踏(ふ)み倒されては立つ瀬がないわいと、三郎太夫はしまいに半泣きになっていうてこました。 「ウェーッ、ヒュヒュ、そ、そや、銭払うのん忘れよったわい。アハハハハ」 しょうじょうは、すっかり酔うて、ええ機嫌(きげん)になってしもとった。 「おまや、酔えても、おらあ酔えるかい。銭こもらわにゃ、いんでみい、えらいこっちゃ」 「おお、銭こは、エビスさんの神棚(かみだな)見てみい、置いてあるぞな。いんで早よ見てみい」 そのまま、しょうじょうは海へいんでしもうた。三郎太夫は、力えっぱい船こいでいんでエビス棚見たら、銭こが百銭(せん)置いてあった。 「ほんまじゃ、あったわいな」 ほれがまた、みょうなことに、使(つこ)うても使うても、ちょっともへらんのや。ほれからだれがいい出したもんか、しょうじょうが上がって酒を飲んだ岩を「しょうじょうばえ」と呼ぶようになったそうや(ばえとは、海の底からはえている岩をいう)。 註)いんだら=帰ったら ひつこく=しつこく しょんばん=相伴 力えっぱい=力いっぱい

芝右衛門狸

芝右衛門狸(しばえもんだぬき) 三熊山がまん丸いお月様に照らされて、くっきりと浮かび上がってきた。下の大浜の海は、たたみをしいたようにベッタリコとないでいる。三熊山をねぐらにしている芝右衛門狸(しばえもんだぬき)は、芝居が三度の飯よりも大好きであった。 松の木の下で、つれあいのおますを相手に、ゆうべ見てきた芝居のまねをしていた芝右衛門は 「これ、沢市っつぁんえのう」 おますは口三味線、手三味線をひきながら、じっと聞き入っていた。 「壺坂寺(つぼさかでら)の芝居は、いたわりあう物語や。お里の心に観音様が心をうたれ、沢市っつぁんの目をあけてあげたんや」 こういいながらおますは、目頭を押えた。芝右衛門もおますも情にもろい方だった。荷物を積んだ車が坂道で動きがとれなくなっていたら、芝右衛門は後から押してやったりすることもたびたびあった。 芝右衛門は、満月になると心がうかれてくるので、すぐ大浜が見下ろせる大きな岩の上にいって、 ポンポコ ポンポコ ポンポンポン おますといっしょに、大きな腹つづみを打っていた。 「あしたは、また芝居があるということじゃ。一升どっくりいっぱいにしといてくれや、のう、おます」 「あいよ」

芝右衛門狸

こうしてふたりは、淡路中にかかる芝居をかかさず見てまわっていた。 ある日、芝右衛門はおますに話しかけた。 「なあ、おますや、浪速(なにわ)へ行ってった人の話を聞いたんやがな、浪速の中座(なかざ)ちゅうとこでな、そりゃごっついええ芝居をしよるということじゃ」 「おお、そりゃまた、ほんでどんな」 おますもひざをのりだしてきた。 「衣装(いしょう)にしてもくたぶれとらん。舞台も広いし、明るいし」 「ほりゃまた、ええがな」 「第一、役者が違うがな。大根役者はひとりもおらんじゃと。みな千両役者や」 「いっぺん見たいな、そんなええ芝居を」 「おますもほない思うか。わしも見たいんじゃ。その話聞いたときから、ワクワクしょんのじゃ。どや、おます、いけへんか」 「ほんないい方したら、わても行きたなるや。千両役者の顔を見るだけでもええから」 「よし、決めた。顔や衣装だけでなしに、立ち回りも見てこう。こんなこたあ早い方がええ、昼からの船に乗りこもうや」 話がとんとんきまって、ふたりはム・ム・ム・ドロン、木の葉をドロンとお金にして船に乗った。 初めて見る浪速の町のにぎやかなことにびっくりした。中座のあたりの人通りの多いこと、洲本の町とは比べもんにはならん。 「看板てえもんは、よう考えとるがな、洲本でもちったあ、まねすりゃええんや。きれえなもんや」 芝右衛門は、ついつい調子にのってきていった。

芝右衛門狸

「おます、芝居が始まるまで時間があるがな。どや三熊山ばあで化けくらべすっより、ここで一ぺんやってみいへんか。へてな、浪速の人のどぎもぬいたらんか」 「ほんまやな。ほなしまひょ。何でも経験や、いんでのみやげ話にな」 おますは、きれいなおいらんに化けた。高いげたをはき、前に結んだ金らんどんすの帯の、これまたきれいなこと。 「江戸の吉原(よしわら)におとらぬ、きれいなおいらん道中や」 道行く人々は目を見はり、びっくりして見ている。 「よし、こんだらわしの番や。負けへんぞ。あの高いとこから見とりや」 しばらくすると、向方から 「下にい、下にい」 お殿様の行列が続いてくる。みんなすまして、咳(せき)ばらい一つせずに、しずしずと進んでくる。いつも芝右衛門が化けるのを見なれているおますでさえ、びっくりするほど本物のような行列や。 「ええぞ、ええぞ。うまいこと化けた。本物そっくりや。ええぞな、ええぞな」 おますはしまいに、そりゃ大きな声を出し手をたたいて殿様行列をほめた。 ところが、この行列は芝右衛門の化けたものではなく、本物の殿様行列であったからたまらない。すぐさまおますは引きずりおろされ、殺されてしまった。かげから見ていた芝右衛門は、その場に出ることもできず、息をころして見ているだけであった。 「つらいこっちゃ。こんなんなら化けくらべやこと、せなんだらよかったんに」 いくらくやんでも、とり返しがつかない。 つらがっとっても仕方がないんで、芝右衛門は一ぺんだけ、中座の芝居を見て帰ろうと、木戸口をくぐった。 ところが、根が好きな芝居、淡路では見られない芝居だけに、芝右衛門をとりこにしてしまった。 「もう一日だけ。もう一日だけや」 そういいながら中座へ通った。

芝右衛門狸

「おます、芝居が始まるまで時間があるがな。どや三熊山ばあで化けくらべすっより、ここで一ぺんやってみいへんか。へてな、浪速の人のどぎもぬいたらんか」 「ほんまやな。ほなしまひょ。何でも経験や、いんでのみやげ話にな」 おますは、きれいなおいらんに化けた。高いげたをはき、前に結んだ金らんどんすの帯の、これまたきれいなこと。 「江戸の吉原(よしわら)におとらぬ、きれいなおいらん道中や」 道行く人々は目を見はり、びっくりして見ている。 「よし、こんだらわしの番や。負けへんぞ。あの高いとこから見とりや」 しばらくすると、向方から 「下にい、下にい」 お殿様の行列が続いてくる。みんなすまして、咳(せき)ばらい一つせずに、しずしずと進んでくる。いつも芝右衛門が化けるのを見なれているおますでさえ、びっくりするほど本物のような行列や。 「ええぞ、ええぞ。うまいこと化けた。本物そっくりや。ええぞな、ええぞな」 おますはしまいに、そりゃ大きな声を出し手をたたいて殿様行列をほめた。 ところが、この行列は芝右衛門の化けたものではなく、本物の殿様行列であったからたまらない。すぐさまおますは引きずりおろされ、殺されてしまった。かげから見ていた芝右衛門は、その場に出ることもできず、息をころして見ているだけであった。 「つらいこっちゃ。こんなんなら化けくらべやこと、せなんだらよかったんに」 いくらくやんでも、とり返しがつかない。 つらがっとっても仕方がないんで、芝右衛門は一ぺんだけ、中座の芝居を見て帰ろうと、木戸口をくぐった。 ところが、根が好きな芝居、淡路では見られない芝居だけに、芝右衛門をとりこにしてしまった。 「もう一日だけ。もう一日だけや」 そういいながら中座へ通った。

芝右衛門狸

芝右衛門のうわさをあちこちでしだした。すると浪速へ行ってきた人が 「中座へ芝居を見に行っとった狸が、なんでも殺されたそうや」 こんなことをいう人がいた。洲本の人たちは 「あれ、ほんなら芝右衛門と違うんやろかな。芝右衛門はこのごろ、ちっとも姿見せえへんしよ。ほんまやったらかわいそうに、みんなでお祭りしてやろうよな」 祠(ほこら)を建てて、てあつくほうむってやった。 近年、佐野トントン山の下にも芝右衛門ら一族を祭る狸公園を作って、ねんごろなお祭りが続けられている。 註)ばあ=ばっかり へてな=それで いんで=帰って こんだら=今度は せなんだら=しなかったら

善光寺の阿弥陀様

仏像ぬすっとは、昔からようあったものじゃ。 ある夏の夜、まん丸いお月様が、こうこうと下界を照らしていた。どこからともなくほおかぶりをした盗人が、坂を上がってきた。 「ここの金仏さんは値打ちがあるということや。善光寺(ぜんこうじ)、というと“牛に引かれて善光寺参り”で名高い善光寺様といっしょの名前や」 盗人は、牛に引かれて善光寺まいりをしたおばあさんの話を思い出した。 昔、信濃(しなの)(長野県)に、お寺参りなどしたことのない胴欲(どうよく)なおばあさんがおったそうや。あるとき外に干してあったおこし(腰巻き)が、どうしたはずみにか牛の角に引っかかった。牛はびっくりしてそのまま走り出したんで、おばあさんは 「おこしを返せ、こら返さんかい」 どんどん走る牛を追いかけた。善光寺の山門をくぐっているのも気がつかないおばあさんは、そのまま本堂へかけ上がっていった。ひょいと気がつくと、目の前にニッコリした阿弥陀(あみだ)様がいなさった。 「うえー、阿弥陀様、こらえてくだされ。こんなとこへ上がってきたりしてよ。今まで仏様の前で手を合わしたりしたことがないんで、牛が連れてきてくだされたのや。本当に罰当りのわたしを、どうぞお許しくだされ」 それから、牛に引かれて善光寺参りというようになったのだ。だれかに誘われてお寺参りする時も、牛に引かれて善光寺参りというんだ。

善光寺の阿弥陀様

ええ、善光寺なんぞというお寺やったんで、いらざることを思い出して手間どった。さあ、商売、商売」 お坊さんのおらんお寺ということで、盗人も入りやすかったんだ。暑うてやりきられんので、本堂へ入ると、ほおかぶりを取ってしもうた。 「盗人もらくではないわいな。暑い辛抱(しんぼう)や寒い辛抱、そのうえねむたい辛抱もせにゃあかんからな」 盗人は、ひとりぶつぶついいもって、阿弥陀様の入っていなさる、おずしの戸をそろりそろりとあけていった。 「こないだ入ったお寺では、あわてとったもんで、さっとおずしをあけたら戸がドサッと落ちてきて、びっくりしたのなんのって、ほんまに古いおずしは危いわい」 古い戸は、それでもギーギー音がする。 「おお、あるある。仏様がすわってござらっしゃるわいな。ごめんなすって、これ仏様、そんな難しい顔をしなさらんと、ちっとは笑うてみてくだされな」 仏様を出しかけると、なかなか重とうて、ちょっとやそっとで出てこない。盗人は仏様を抱きかかえたら、おずしにあたってチーン、 これはいかんと向きをかえるとゴーン。 「仏様いうたら、なんとせせこましい中におりなさるんやな。時には外の空気も吸いなさらんと体に毒でおますよってにな」

善光寺の阿弥陀様

おずしのあっちへ当て、こっちへ当て、ようよう本堂のまん中へ抱いておろした。 「まあまあすまんことですが、ちっとまふろしきの中で辛抱しといてくだされや」 大ふろしきをひろげて包み、背中にせたりおうて外に出た。本堂の前の草むらをおりていくと、早やしっとりと夜露がおりとった。 浜から船に乗って逃げる用意をしとったんで、岩かげにつないどる船へ急いだ。 「船に乗りさえすれば大じょうぶや。よっこらしょっと」 仏様を船に乗せて、ろをこぎかけたが、どうしたことか船が動かない。 「こりゃまた、どうしたこっちゃ。どないなっとんのやろな」 船の下を見てもどうもなっとらん。どんだけ力を入れても、どないこいでも、やっぱり船は動かん。そのうちに東の空が白みかけ、漁に出る人は早や浜へおりてきよった 「せっかく持ってきたんに、しゃないな。仏様や、水の中は冷たいが辛抱してな。わしの命の方が大事でおますよって」 仏様を海の中へ、ドブーン。仏様をほうってしまうと、妙なことや、船がいごき出したぞな。ほれで盗人は、どこやら知らんけど逃げていんでしもうた。

善光寺の阿弥陀様

それからしばらくすると、漁師の人の間に、魚がとれんという噂(うわさ)がしだした。 「お寺の下の崖(がけ)っぷちのとこの海は、魚がようけとれよったんに、このごろはさっぱりとれん。どないなっとんのやろ」 明法寺(みょうほうじ)のおじゅっさんに拝んでもうたら、海の底になんや光るもんがあるさかいに、というんで、漁師の人は網を入れて引いた。ほしたら、盗まれた善光寺の仏様が網に入ってきなさった。ほりゃ、漁師の人がびっくりしたそうや。もったいないがな。早(はよ)うきれえな水で洗(あろ)うてお祭りをせにゃいうて、船瀬のきれえな湧き水で洗うて、善光寺様へ元の通りにお祭りをしなさった。 それから、仏様が沈んでいたのを引き上げたあたりを、だれがいいだしたもんか「仏崎」と呼ぶようになったそうや。 註)ほしたら=そうしたら

大蛇退治

「えらいこっちゃ。朝起きたら馬屋につないどった栗毛の馬が、くぐすが渕(ふち)のおおぐちなにやられとった」 「えっ、伝八さんとこもやられたか」 兵作さんは、びっくりして伝八さんとこの馬屋へとんでいった。馬は、おおぐちなにしめられてのまれたのか、足があちこちに落ちていた。きのうは、せっかく作った芋(いも)畑をのたうちまわり、さんざん荒して芋をだいなしにしてしもうた。 「こんなことでは、これから先が案じられる。領主様にお願いして退治してもらおう」 「そうしないと、生きていけないぞ」 みんなが連れだって、領主の船越左衛門定氏(ふなこしさえもんさだうじ)にお願いにいった。村人の苦しみをじっと聞いていた定氏は 「よし、必ず退治してあげよう。おのれ大蛇め、今にみておれ」 そういって倭文(しとおり)八幡宮に七日間おこもりをした。 「どうぞ、大蛇をぶじに退治できるよう、お守りくだされ。領民が安心してくらせる里にしてくださるよう、願いたてまつる」 一心にお祈りを続けた。 いよいよ大蛇退治に出かける朝、水風呂にはいり、身を清めた定氏は、芦毛(あしげ)の馬にまたがり、重藤(しげとう)の弓に矢をそろえ、家来を連れてくぐすが渕にやってきた。

大蛇退治

定家が池の堤(つつみ)をまわり、水面をにらんで 「やいやい、くぐすが渕の主、今まで領民をいじめた罰に、領主定氏がじきじきに退治をしにきた。さあ、出(い)でませい、渕の主」 大声で呼ばわったら、小さい蛇が出てきて池の水面をぐるぐるまわりだした。 「なんじゃい、こんなこんまい体で馬など殺すことができまいぞ。正体を見せい、本物の大蛇よ。出てきませい、さあさあ」 定氏の声が池の底に聞こえるか聞こえないうちに、池の水面がボコボコもり上がり、それが大波にかわりグルグル大渦になってまわりだした。それまで晴れわたっていた空が急にかきくもり、ビュウビュウ大風が吹き出した。 「どうした大蛇、なんとする」 大木が根こそぎぶっ倒れそうな荒れようで、小さい蛇はいつの間にか消えていた。定氏がじっと水面をにらんでいたら、やがて天と地がひっくり返ったかと思うほどの大音を立て、水がさかまく中に大蛇がぬうっと姿をあらわした。びっくりした家来は 「ひゃあ、うわあ」 悲鳴をあげ腰をぬかさんばかり。おおぐちなといっても、それはごっつい大蛇で、定氏は予想だにしていなかった。長さが二〇尋(ひろ)ぐらい(三〇メートル)、太さが一抱え余り(二メートル)もある大蛇が、目をランランと光らせ、燃えるような舌をペロペロ出し、よらばひとのみという構えを見せた。

大蛇退治

定氏は、すばやく弓に矢をつがえると、満身の力をふりしぼって矢をはなった。 「グサッ」 大蛇は水面に高くとび上がった。手ごたえがあり、見るとのどの奥の方へ突きささっていたのだ。 「グァラ、グァラ、ドーンドンドンドン」 地震、雷、台風がいっぺんにきたようで大荒れに荒れ、定氏の乗っていた馬がびっくりして 「ヒヒーン、ヒヒーン、ヒヒヒヒーン」 あばれ出して止めようがない。定氏は馬に一ムチを当てた。家来は、馬のしっぽにつかまっていたが、あまりの早さに目をまわし、引きずられていた手を離してしまった。 「ビビビ、ビビビ」 のどに矢のささった大蛇は、大きくあけた口から火を吹きながら、定氏を追っかけてくる。逃げきれぬと思った定氏は、近くの家に逃げこんです早く戸をしめた。大蛇は窓の横にあった大楠(おおくす)に登り、じっと家の中の気配をうかがっている。 やがて定氏も窓をあけ、大蛇の様子をうかがった。すきあらば飛びかかろうと身構えていた大蛇は、定氏を見るなりいっそう目をランランと燃やし、定氏をにらんでいる。 「執念(しゅうねん)深い大蛇め、おぼえしれ」 定氏は、大蛇ののど元めがけ、二発目の矢をはなった。 「ググググッ、ググググッ」 大蛇は、はーっと毒気をはきながら大楠の上で息が絶えた。 「うわぁっ」 定氏は、大声をあげてその場にうずくまった。大変だ。 定氏は大蛇の毒気に当ったのだった。

大蛇退治

それから二日間、定氏は大蛇の毒気にもだえ苦しみながら亡くなった。 「領主様に申しわけがない。大蛇退治をお願いしたりして。小さい蛇なら毒気もかからぬが、大蛇の毒気だもの、苦しかったであろうに、領主様」 村人は、泣きながら定氏のおとむらいをすませた。 「領主様を殺し、村人を苦しめた大蛇は、切りきざんで埋めよう」 村人は、その大きい大きい大蛇を切っていったが、なかなかしまいにはならなんだ。 「こうして切ってみると、ごっついもんじゃ。うろこ一枚の上に人間がすわれるぞな」 「にっくい大蛇だが、こうして切ってしまうと、かわいそうな気もするしな」 村の人たちは、大蛇を安住寺の蛇渕の谷底へ、行列をして運んでいった。大蛇が登っていた大楠は、これも毒気にあたって枯れてしもうた。だれかが 「そうじゃ。この楠の木で松本の井戸の井戸わくを作って残そう、この大楠を」 といったので、みんなが相談をして六角井戸のわくにして残すことにした。 松本の井戸は ようでる井戸じゃ 松葉に飯(まま)さして やっことかやりましょ このまりつき歌は、今も古老の間にうたわれている。 註)おおぐちな=大蛇

淡路むかしばなしマップ 淡路むかしばなしマップ

むかしばなしマップ

旧淡路町のおはなし

谷山の薬師様(たにやまのやくしさま)
旧淡路町のおはなし

久作と与七郎は浜の庄屋さんのところにこも包みを届けに行った帰り道、海辺にピカピカ光るものが浮いているのを見ました。おそるおそる近づいて見ると、それは薬壺(くすりつぼ)を持っている薬師(やくし)様でした。ふたりは薬師様を谷山まで背負って帰ってお祭りすることにします。ロウソクがなくなるかもしれないと心配しながら山道を登っていましたが、ふしぎなことに半時間たっても1時間たっても、ロウソクはいっこうに小さくなりませんでした。人々は温泉の湧(わ)き出ていたすぐ近くに薬師堂を建てました。いつのころからか温泉はだんだん温度が下がり、このあたりを「ぬるい温泉郷」と呼ぶようになり、今も、背中が砂でこすれ貝がらがついているという温泉寺のお薬師様に、お参りする人が絶えません。

旧淡路町のおはなし

鬼神山の八畳岩(きじんやまのはちじょういわ)
旧淡路町のおはなし

鬼神山(きじんやま)に畳(たたみ)80枚(まい)ぐらいしける岩があります。ここに、浜から人をさらって食べるおそろしい鬼が住んでいましたが、平家(へいけ)の落人(おちうど)が退治してしまったそうです。鬼神山にそんな恐ろしい鬼が住んでいたかわかりませんが、この八畳岩(はちじょういわ)あたりに貝がらがたくさん落ちていたということから、だれかが海の幸、山の幸を食べながら住んでいたのでしょう。淡路島にもこんな別天地、秘境(ひきょう)があったのです。

旧淡路町のおはなし

別当の潮(べっとうのしお)
旧淡路町のおはなし

岩屋(いわや)の町の高台にある観音寺(かんのんじ)別当坊さんの犬は、潮の流れに乗って堺(さかい)に行こうと考えて、毎日板きれを波に乗せて流れていく方向を見ていました。そしてみんなの見ている前で、犬は板きれに乗って沖へ出て行ったのです。犬は人間が考えられなかった潮路を自分が発見できたとほくそえんでいましたが、人々は犬が間違えて沖に出てしまったと思い、かわいそうだと話しました。数日後、岩屋の綱吉という人が商売で堺に行くと、しっぽをふって近づいてくる犬がいました。別当坊さんの犬だとわかった綱吉が犬を岩屋に連れて帰ったところ、岩屋の人たちはたいへんびっくりしました。犬に教えられて浜の人々は船を出し、ロもカイも使わず流れにまかせてみると、堺に着くことができました。こうして岩屋から堺まで開かれた潮路を今も“別当の潮”とよんでいます。

旧淡路町のおはなし

松王丸(まつおうまる)
旧淡路町のおはなし

平清盛(たいらのきよもり)が作った大輪田(おおわだ)の泊(とま)り(今の神戸港)は何回築いても流されてしまいます。そこで清盛は、生田(いくた)の森に関所を作り、そこを通る人をのこらずひっとらえて牢(ろう)にいれ、その中から人柱をたてることにしました。とらえられてしまった人の牢から泣き叫ぶ声に胸をいためていた清盛の小姓の松王丸(まつおうまる)は「わたしを人柱にしてください」と清盛にいいました。清盛は松王丸をかわいがっていたので反対しましたが、松王丸が「わたしが人柱になれば、牢の中の人が全部助かります」と熱心に頼むので、とうとう清盛も承知して、松王丸は経石を抱えて海の底深くへにっこりしながら入っていきました。松王丸の心が竜神さんに通じたのか港はりっぱにできあがり、清盛は松王丸と絵島の美しさをよく語りあったことを思い出して、港の見える絵島の上に鳥居と宝篋印塔(ほうきょういんとう)をたて、松王丸をお祭りしました。

旧淡路町のおはなし

宇治川の先陣争い(うじがわのせんじんあらそい)
旧淡路町のおはなし

鎌倉(かまくら)の源頼朝(みなもとのよりとも)は、天下をとるために、善兵衛(ぜんべえ)が開鏡(かいきょう)の山で育てた名馬、生月(いけづき)を手に入れました。ある日、頼朝は、生月をほしがった梶原景季(かじわらかげすえ)はではなく、「生月をくだされば戦いには1番乗りをいたします」と熱心に頼んだ近江(おうみ)の佐々木高綱(ささきたかつな)に生月をあたえました。木曽義仲(きそよしなか)を倒すため、生月に乗った高綱と麿墨(するすみ)という名の馬に乗った景季は、宇治川(うじがわ)のほとりで敵地に1番乗りをするときをうかがっていました。景季は自分にくれなかった生月には負けたくないと思い、一方高綱は頼朝との約束のために1番に渡らなければならないと思っていました。そして2頭の馬は同時に宇治川に乗り入れました。どちらも先をゆずりませんでしたが、高綱が「景季殿、馬の腹帯が」と声をかけ、景季の気合いがゆるんだそのすきに高綱が景季を追い抜きました。その2人のあとに兵士たちは宇治川に乗り入れていき、義仲勢はさんざんにうち負かされたのでした。現在、開鏡観音寺の境内に「名馬生月出生之地」の記念碑がたてられています。

旧淡路町のおはなし

石の寝屋古墳(いしのねやこふん)

獲物がまったくとれなくなったので、允恭天皇(いんぎょうてんのう)は狩をやめて占ってもらったところ、島神のイザナキの神様が出て「明石(あかし)の海にある大きなあわびの貝の中の真珠(しらたま)をわたしに祭りなさい」と告げました。天皇はさっそく海底にもぐる海人(あま)をあつめ、阿波(あわ)の国(徳島県)の長邑(ながむら)の男狭磯(おさし)という海人が、選ばれ腰に綱を巻き、流れの早い海に入っていきました。綱が60尋(ひろ)(約90~100メートル)ものばされたところで、男狭磯は大きなあわびを抱えて上がってきました。あわびの中から桃色の美しい真珠が出てきてみんなは大喜びでしたが、男狭磯はそのまま息絶えてしまいました。島神にその真珠をお祭りすると、いままでのようにたくさんの獲物がとれだしましたが、天皇は男狭磯をあわれに思い、明石海峡が見える高い山の上に大きい石組みをした古墳を築き、男狭磯を手あつく葬(ほうむ)りました。淡路には古墳が百基余り分かっていますが、古墳の主がわかっているのは、この石の寝屋(ねや)古墳だけであるといわれています。

旧津名町のおはなし

便所(べんじょ)でひらめいた最後(さいご)の一手(いって)
旧津名町のおはなし

米蔵(よねぞう)は、碁(ご)うちにかけては淡路1番の腕前。村の人々にすすめられ、日本1の碁打ちと言われている江戸の本因坊丈和(ほんいんぼうじょうわ)に、勝負を挑みにいきました。 本因坊丈和はこころよく対局を受け入れ、10番勝負をしましたが、4勝5敗1持碁(じご)(引き分け)で米蔵は負けてしまい、すっかり落ち込みながら浜松まで帰ってきました。そこの茶店に入ったところ大勢が碁を打っていました。ついついのぞきこみ、碁の手について大きな声で意見を言ったものだから、みんなに無理やり碁盤(ごばん)の前に座らされてしまいました。5人ほど打ち負かしたところで、最後にご隠居(いんきょ)が相手になりました。かんたんに勝てるだろうと思った米蔵は深く考えずに一石を打ち、どうにも身動きができなくなってしまいました。 考え込んでいる米蔵にご隠居は、もしもこの勝負に勝ったら5両の大金をくれるといいます。米蔵はあまりの大金にびっくりして体の震えが止まらなくなり、便所にかけこみました。何か勝てる手はないかとけんめいに考えますが、なかなかいい案が浮かびません。ご飯を食べていなかったので思わず、「米、飯が食いたいわい」と大きな声でどなると、さっと妙案(みょうあん)が浮かび、白石を手に取り黒の陣地のまん中にパチリと置きました。そこからどんどん白石が生き返ってきて、ついにふんぞりかえっていたご隠居も負けを認めました。こうして米蔵は5両を手に入れ、東海道を帰っていったということです。

旧津名町のおはなし

浮亀丸(うきがめまる)

船長の伊右衛門は、大津屋の船に乗って江戸へ向かう途中、紀州熊野(きしゅうくまの)の沖に差しかかりました。ここは波のよく変わる所で昔から魔の海と呼ばれており、そこを無事通り過ぎてホッと息をついたとき、水夫の孫六(まごろく)が沖に妙なものが見えると叫びました。みんなが集まって見ると、背中に貝や海藻(かいそう)をはやした大きな亀が丸太棒(まるたんぼう)に乗っているのでした。亀が乗っている木を家の守り神にすると大金持ちになる、という言い伝えを知っていた伊右衛門は、何百年に1回みつかるかどうかわからないまぼろしの霊木を持って帰ろうと思い、ほかの木と取替えることにしましたが、長さ3メートル余り直径20センチほどもある木がたっぷり水を吸っているので大変な作業になりました。それから霊木を船魂(ふなだま)さんの所に祭り、積み荷を運びおえて帰ってきました。 その亀は海亀ではなく海神様だ、海神様が家にきてくださったと大津屋の主人は大喜びして、熱心にお祭りを続けたところ、とんとん拍子に出世して大金持ちになり、屋号も大津屋を浮亀屋に、船の名前も浮亀丸と改めました。 それから船乗りの人は航海のとき海をよく見るようになりました。同じ塩田の善兵衛(ぜんべえ)も一の谷沖で見つけた海亀の乗っていた木を家の神棚に祭っていると、やはり大金持ちになったそうです。

旧津名町のおはなし

伊勢森(いせのもり)のはしご獅子(じし)

三吉が慌てた様子でかけこんできて、牛がものすごく苦しがってうなっていてこのままほうっておくと死んでしまう、と平助に助けを求めてきました。平助は牛のもとにかけつけ、背中をこすってやりますが苦しそうにうなり続けています。洲本まで薬を買いに走った喜平が薬の入ったバケツを下げて帰ってきて、その煎(せん)じ薬を飲ませようとしますが、牛がなかなか口を開けてくれません。やっとのことでバケツの薬を流しこみ、なんとか牛は助かりました。ところが三吉の家だけでなく中田の村中の牛や馬が、急に病気になりだしました。みんなが拝んでもらったり占ってもらったりしたところ「お伊勢さんを祭ると、牛馬がわずらわんようになるぞな」と神さまのお告げがあったので、すぐに伊勢の神様を迎えてお祭りすると病気がころっと治りました。村人たちは喜び、神様に奉納する獅子舞(ししま)いを舞って感謝をささげました。 このお祭りは綱渡りの芸をする難しい獅子舞に発展し、今でも「伊勢森(いせのもり)のはしご獅子」として神様に奉納されています。

旧津名町のおはなし

引攝寺(いんじょうじ)の十三重塔(じゅうさんじゅうのとう)
旧津名町のおはなし

真夜中に、庭の方から不気味な音がします。阿波(徳島)蜂須賀(はちすか)のお殿様は、ユッサユッサという地ひびきで目が覚めました。すぐに家来を呼びましたが家来たちは地震などおきていないというので、お殿様は不思議に思いながら夢でも見たのだろうとまた横になりました。 次の日、お殿様は書院から庭を眺め、どっしりとした風格をたたえた十三重の塔に見とれていました。この塔はもともと志筑(しづき)の臨池庵(りんちあん)のそばに立っていました。鎌倉時代の石造りの塔は数少なく貴重でした。それをお殿様がぜひほしいと言って、大庄屋忍頂寺氏に運んでもらったものでした。 その夜、草木も眠る丑満時(うしみつどき)、ヒューヒュルルルという音と共に足の下がゆれはじめ、ゆれが大きくなるにつれて人の泣き声がしてきました。「地震じゃ」と飛び出した殿様でしたが、また何の物音もしない静かな庭にもどっています。 それから毎晩、真夜中になると庭から泣き声が聞こえてくるので、家来がその正体を調べたところ、なんと十三重の塔が泣いていたのです。これにはお殿様も大変驚き、石にも心があり、やっぱり十三重の塔の魂は志筑に帰りたかったのだと思い、志筑の引攝寺の庭へ塔を戻したということです。

旧津名町のおはなし

回(まわ)り弁才天(べんざいてん)
旧津名町のおはなし

目が不自由な城喜代(じょうきよ)は、佐野朝霧山(さのあさぎりやま)のふもとのあばらやで一心に平家物語を弾いていました。平家物語を好んで弾くのは、涙をふりしぼって力いっぱい生きていく心に強くひかれるからでした。突然雲の上から光りがさし、城喜代がその場にひれ伏すと、雲の上に琵琶を持った美しい弁天様がにっこりとして立っています。弁天様はおごそかな声で「城喜代の琵琶を弾ずる技がじつに見事なので、城喜代のいる淡路島に渡りたく思う」とひれふす城喜代につげました。 同じ時刻、高野山青巌寺(こうやさんせいがんじ)にいる城喜代の伯父の旭昌法印(きよくしようほういん)は、不思議な夢にはっと目が覚めました。本堂にお祭りしてある弁天様が軸の中から出てこられ、淡路島に行くので甥の城喜代にこの軸を上げてくださいと言われたのです。不思議なこともあるものだと城喜代と使いの者はすぐ高野山に登り伯父に会いました。 城喜代は目が不自由なのに今まで仏様を拝む心がなかったことを恥じ、旭昌法印は「わたしが高野山の高座にいられるのは仏様のおかげだから、城喜代も仏様におすがりしなさい」と言ってその軸を渡しました。城喜代が佐野に建てたお堂で朝夕一心にお祭りしていると、目が少しずつ見えるようになりました。それを伝え聞いた人々がお参りしたいと熱心に頼みにくるので、淡路真言宗約130ヵ寺のお寺を回るようになりました。これが、淡路巡遷弁才天(あわじじゅんせんべざいてん)(回り弁天)の祭りの始まりだそうです。今でも淡路3大祭りの1つとして信仰を集めています。

旧津名町のおはなし

枯野(からの)の船(ふね)
旧津名町のおはなし

兎寸(とのさ)(大阪)河(がわ)の西に、朝日が出ると木のかげが淡路島までうつるほどの大きな木があり、夕日の影は高安(たかやす)(奈良の境)の山を越えるほどでした。 村の人々がこの大木を伐(き)り倒して船を作ると、びっくりするほど早い船ができあがり、みんなで船の名前を考えました。昔は「早い」ということを「かるい」といっていたから、鳥がとぶように早い「かるの」に決まり、いつのまにかこれがなまって「枯野(からの)」と呼ばれるようになりました。 佐野の小井(おい)の清水が美味しいと応神天皇(おうじんてんのう)の耳に入り、差し上げたところたいへん気に入られたので、それから朝晩鳥のように早い枯野で佐野まで御料の水を汲みにきたそうです。こうして長いあいだ使っていた船も古くなり役だたなくなったので、天皇はほかの使い道を考え、塩作りに使うたきものに利用することにしました。淡路の海人(あま)族が塩を作ってみると全部で500かごの塩ができ、まだ船の木がのこっていたので、今度は何を作ろうかと由良(ゆら)の海人たちは考えました。そうして琴(こと)ができあがり、そのすばらしい音色は海の上を遠くまでひびいていったということです。

旧東浦町のおはなし

おさい狸(だぬき)
旧東浦町のおはなし

孫の一平は、おとくおばあさんが大好きで、どこに行くにも連れていってくれとせがむほどでした。ある晩方、おとくおばあさんはお寺に拝みにいって夜遅くなるので、一平は留守番で家に残ることになりました。お寺でお経をあげ、よもやま話に花をさかせて帰るころには夜も更けていました。おとくおばあさんがちょうちんを忘れたことをくやみながら帰り道を歩いていると、向かいからちょうちんの火が近づいてきます。一平が気をきかせて迎えにきてくれたのです。大喜びしながら2人で帰ってきて、おばあさんは一平にお礼を言い、くたびれただろうから早くねるようにと後ろをふり向くと、一平がいません。もうふとんに入ったのかと思いながら奥の間に入ると、一平はグウグウいびきをかいて寝ています。そのうえ、背の低い一平の届かない棚の上にちょうちんがありました。 あれは、おさい狸だったのかもしれないなぁ、とびっくりしながらおばあさんは一平の寝顔をじっと見ていました。

旧東浦町のおはなし

三升狸(さんじょうだぬき)
旧東浦町のおはなし

喜平さんは、およばれに行って1杯飲んだ帰り、ごちそうを提げ家路を急ぎました。ところがいくら歩いてもなかなか家に着かないので、夜が明けたのも知らずいつのまにか松の根本で眠りこけていました。ほっぺたをたたかれて起こされた喜平さんは、みんなに連れられて家にもどりました。 重箱をあけてみると、なんとごちそうどころかぞうりの切れはしと牛の糞(くそ)が入っていたのです。「これは三升(さんじょう)狸にやられた。はやくお参りしなければ」とうろたえたばあさんは、酒三升とおこわを作って三升狸の巣へもっていきました。三升狸に祭る酒は三升いるのです。喜平さんは、昼ごろになってようやく正気にもどりました。 ある日、ばあさんが富島(としま)の浜へ買い物にいった帰り、中持(なかもち)の背の1本松のところに家で飼っている猫が迎えに来ていました。ばあさんはうれしくなってミイの頭をなでてやりました。すると家にもどってすぐ、すごい熱が出てうなされ寝こんでしまいました。家のものが一本松の狸にやられたのだと気づき、一本松の根にお参りにいくと熱は引いたそうです。 浦の中持の人はよく化かされたものですが、あの狸たちはいったいどこへ行ってしまったのでしょう。

旧東浦町のおはなし

通盛(みちもり)さんの大石仏(おいしぼとけ)
旧東浦町のおはなし

お米さんは、子どもの久平の顔にほうそうのようなぶつぶつがいっぱいできているのを見つけびっくりしました。きのうまでは何ともなかったのにと思いながら、背中におんぶして大石仏(おいしぼとけ)へお参りにいき、「顔にでこぼこが残らないようにきれいになおしてください」と毎日通盛(みちもり)様にお願いし続けました。そのおかげで久平もすっかりよくなりました。 大石仏というのは--。むかし源氏と平氏が戦争していたとき、一の谷の戦いで平家の通盛という人がこの中持(なかもち)へ逃げてきて、追いかけてきた源氏と血闘が始まりました。かわいそうに、通盛は追手に殺されてしまったのです。これを見ていた家来たち5、6人も腹をかき切って通盛の後を追いました。 中持の人たちはあわれんで、大石仏として通盛様をお祭りし、ちょっと下の方に小石仏として家来たちを祭りました。それから長い間お祭りを続けてきましたが、観音様のような仏様が彫ってあった小石仏は10年余り前に開墾したときに、どこにいったかわからなくなってしまったということです。

旧東浦町のおはなし

松帆神社(まつほじんじゃ)の曲(まが)り松(まつ)
旧東浦町のおはなし

神無月(かんなづき)(旧10月)になり、1年に1回、淡路の八幡様が出雲大社(いずもたいしゃ)へそろってお参りに出かけるときがきました。待ちに待った出発の日、八幡様が一同に船着場のある浦の港へ集まり、おおかたみなそろったが港の近くの松帆八幡様の姿がまだありません。近くなので岩屋の八幡様が迎えにいくと、ほかの八幡様もぞろぞろとあとに続きました。松帆八幡様はすぐ用意をすると言って奥へ入っていったまま、なかなか出てきません。みんなは待っている間に境内を散歩していましたが、歩き疲れたので松の枝に腰(こし)かけて休んでいました。長い間そうして待っていると、八幡様が腰かけている松はじわじわ地面をはうように曲がってきました。こうして、松帆八幡の境内の松の木は全部地面をはうように曲がってしまったということです。

旧東浦町のおはなし

仮屋(かりや)のえべっさん
旧東浦町のおはなし

仮屋(かりや)の漁師の平作は、漁がよくできるようにと、えべっさんを拝んでいました。ある日、ひょいと裏をのぞくとえべっさんがいません。庄屋さんや役人も来て調べましたが、どこに行ったのかわかりませんでした。日がたち、平作はえべっさんがもどってきているのを見つけましたが、こんどは同じえべっさんが2つも来ていたのです。色のぬり方も大きさもいっしょで、どちらを祭っていたのか区別もつきません。けれど、げんがいいことなので、お二人ともお祭りすることにしました。それで、仮屋は漁でよくとれるのだそうです。

旧東浦町のおはなし

足利尊氏(あしかがたかうじ)をまつる妙勝寺(みょうしょうじ)

足利尊氏(あしかがたかうじ)は、京都を追われ九州へ落ちのびていく舟の中で、必ず天下をとってみせると誓っていました。ちょうど岩屋の瀬戸にさしかかったとき、このまま進むとしけにあうかもしれないという家来の進言に、東浦(ひがしうら)海岸に舟を寄せました。 夜になり、ふと山上に目をやると火がゆらいでいるので家来に尋ねると、あれは妙勝寺(みょうしょうじ)だと答えました。尊氏がすぐにお参りすると、妙勝寺にいた大覚上人は「今は運悪く九州へ行かれているが、必ず尊氏の天下になるだろう」といいました。尊氏は刀を奉納し、いつの日か天下をとれますようにと手を合わせました。 4月の初め、それから2ヶ月もたたずして九州を制覇した尊氏は、舟7千、20万人の兵を連れて京都に攻め入りました。尊氏は妙勝寺のおかげでこの戦いでも勝ち、いままで以上に信仰を続けお祈りし、天下をとり幕府を開いた後も、釜口庄を寄進したりお寺を直したりしました。妙勝寺には尊氏の書が残り、お墓とともに今でもお祭りされています。

旧東浦町のおはなし

たこ石(いし)
旧東浦町のおはなし

暑い夏がすぎたころ、太郎作の芋(いも)畑が何者かに無残に荒らされていました。翌日にはほかの人々の稲や作物もやられており、村の人たちは交代で夜番することにしました。やみ夜の晩は何も変わったこともなかったのですが、月夜の晩、月が紀州路(きしゅうじ)より上ったころ、急に波が高くなってきたと思うと、波に乗って大きい怪物がぬーとあらわれました。砂浜にあがり近くの畑に急いでいるのは、巨大なたこ入道だったのです。みんな恐ろしさにその場にへたばりこんでしまい、足がすくんで動けません。たこ入道は荒らし回ったあげく、海へと帰っていきました。 村人たちは相談し、相撲(すもう)とりで強力(ごうりき)の虎吉に大だこ退治を頼みましたが、虎吉は大だこの足に巻かれ岩の上に投げられてしまいました。大だこの1番の武器は足のいぼ(きゅうばん)であることを知った村人たちは、大だこが通りそうなところに灰をまいておきました。 次の晩も釜口の浜辺にあがってきた大だこでしたが、足が地につかず歩くほどに、もがくほどに足がぬるぬるしてすべり、ついに身動きができなくなったところを、村人たちは縄でしばりあげました。大だこはそのまま釜ゆでにされ、村には平和がもどりました。 大だこが住んでいた「たこ石」は、釜口八幡宮の鳥居のすぐ下の海にありましたが、今ではわからなくなってしまったそうです。

旧北淡町のおはなし

円照坊様(えんしょうぼうさま)
旧北淡町のおはなし

富島(としま)の浜を「机浦(つくえうら)」とよんでいた昔のこと、机浦のお寺に円照(えんしょう)というお坊様が、おかあさんといっしょに住んでいました。おかあさんは意地悪(いじわる)で、円照坊は「生きているうちに善(よ)いことをしておかないと、亡くなれば地獄へ突き落とされ、針の山を登ったり血の池を泳がなくてはならないのだ」と心配していましたが、おかあさんは善いことを1つもしない間に亡くなってしまいました。円照坊はおかあさんを手厚く葬(ほうむ)り、杖の頭にお地蔵様を刻(きざ)んで、ぞうりと共にお墓の横において、極楽(ごくらく)へいけるように祈りました。ある日おかあさんの友だちが円照坊をたずねてきて、おかあさんが夢に出てきたと言いました。「おかあさんはえんま様に地獄へ落とされてしまったけれど、針の山を登るのに円照坊のくれたぞうりと3尺の杖がとても役に立ちました。でも意地悪をしてきたという心の苦しみはなかなかとれないので、円照坊にお地蔵様を作ってお経をあげてほしい」と言ったというのです。円照坊はお地蔵様を作り一心にお祈りを続けると、おかあさんが夢枕(ゆめまくら)に立って「円照坊のおかげでお地蔵様の弟子(でし)になることができ極楽へいくことができます。ありがとう」と言い、円照坊は空高く上っていくおかあさんをうれし涙をうかべながら見送ったのでした。

旧北淡町のおはなし

のうせんぎょ
旧北淡町のおはなし

室津(むろづ)には狐がたくさんいて、昔はよく化かされていました。ふろしきに包んでいた重箱の中のごちそうを取って食べてしまって、かわりに牛のふんやぞうりのきれはしをいれておくのです。またこんなこともありました。漁(りょう)に出たおじさんが船の上でひっくり返って目をむいて口から泡(あわ)をふき出したのです。いっしょにいた人はびっくりして家に連れて帰って寝かせますが、「油あげを買って来い。天ぷら買え」とおかしなことを言うので、狐につかれたと思って高台に住む幸七を呼びにいきました。幸七が刀を抜いて力を入れて拝むと、おじさんから狐は落ちました。それで、毎年冬になったら狐が餌(えさ)がなくて困るので、幸七が浜の子どもを連れて狐のいそうな巣に食べるものを置いてきてあげます。「のうせんぎょ(納施行)、のうせんぎょ」と大声で言いながら、浜のこんぴらさん、あたごさん、山の明神さん、大森さん、観音さんと行くのです。

旧北淡町のおはなし

臼売ったもん(うすうったもん)
旧北淡町のおはなし

西浦でおばあさんがいつものように木臼(うす)で米をついていました。むかしは機械などがないので全部人の力でしていたのです。そこへ見なれない商人が通りかかり、おばあさんの様子をしばらく見ていて、「臼で米つきも大変ですね。よければこの臼を十貫文でわたしに売ってくれませんか」と言いました。おばあさんはびっくりしましたが、十貫文もあれば臼がいくらでも買えるのでその臼を売ることにしました。商人は臼を持って船に乗りこみ、船頭さんに言いました。「この臼は伽羅(きゃら)といういい木で作った臼で、何千貫もするでしょうね。何も知らない人は商売しやすいです。いい買い物ができました」船頭さんからこの話を聞いたおばあさんは大変くやしがりました。それから、何も知らないことを「臼売ったもん」というようになったそうです。

旧北淡町のおはなし

春日の鹿と八幡の牛の競争(かすがのしかとはちまんのうしのきょうそう)
旧北淡町のおはなし

室津(むろつ)八幡様は生穂(なまりほ)の春日大明神に「春日大明神は鹿に、わたしは牛に乗って、同時に生穂と室津から出発し、出会ったところを村境(ざかい)にきめてはどうでしょう」と相談しました。春日大明神はすぐ賛成し、翌日、同時に両方から出発しました。鹿は足がひじょうに早く牛はゆっくりなので、大坪の坂を登りきらないうちに春日大明神と出会ってしまいました。これでは室津分がとても狭いので、八幡様は「こんどは矢を放って、矢のつきささった所を境にするというやり方で、もう1度やり直してもらえませんか」といいました。八幡様はとても大きい弓を持ち出し、力いっぱい放ちました。矢は室津の浜からどんどん飛んでいき、大坪の坂を越し、三笠松(みかさのまつ)のある釈迦堂(しゃかどう)の棟(むね)につきささりました。前より広くなったので八幡様は大よろこびし、春日大明神に「無理(むり)なお願いを引き受けてくれてありがとう。春日大明神の心のままに、室津分にある物をさし上げましょう」とていねいにお礼をいい、それから毎年6月のお祭りには、生穂の人が大勢、室津の浜にきて潮浴びをするようになりました。その後、木の枝を折って薪(まき)を作ったり、浜の砂や石を生穂に持って帰るようになりました。これは神様どうしの約束なのです。

旧北淡町のおはなし

細川のおやっさん(ほそがわのおやっさん)
旧北淡町のおはなし

おやっさんとはこのあたりでよく人を化かす狐のことです。弥平(やへい)は遠田の方へ魚を売りに出かけるとき、おまきに「おやっさんのいるかべっと(海の近くにある所の地名)は気をつけるんだよ」と言われました。いつもは新村から遠田までまわらなければ売れないのに、今日は新村の金比羅(こんぴら)さんのお祭りで魚がすぐ売れてしまったので、弥平は枯木の浜で漁師と温泉の話をして、かべっとの坂をおりていきました。温泉街に近づき、「温泉に来たいと思っていたらこんな早くに来られた」と弥平が思っていたら、美しい仲居さんが出てきて温泉に案内してくれました。弥平はわき出ている温泉につかって体をごしごしこすり、手をたたいて歌をうたいだし、お酒を飲んでとうとう立って踊り出しました。そこへおまきがやってきて「くさい肥えだめの中に入ったりして何を寝ぼけているんだい。頭も顔も糞まみれ。くさくてかなわない」と怒ったり笑ったりしました。それをお旅所の上から見ていたおやっさんは「こりゃ、ちっと悪さがすぎたかな」とペロッと舌を出し、長いたもとの袖をヒラヒラさせ、さっと山の方へ走っていったそうです。

旧北淡町のおはなし

蜂須賀稲荷大明神(はちすかいなりだいみょうじん)
旧北淡町のおはなし

斗(と)の内(うち)では納屋(なや)のわらや便所の落としわらが燃える火事がたびたび起こっていました。若い衆が寝ずの番をしましたが、火事は止まらないので、何かの祟(たた)りだと拝んでもらったら狐が出てきました。その狐は斗の内城主に仕(つか)えていた家来でしたが、城主が播州(ばんしゅう)へ行ってしまって城は荒れ放題になり、住む所がなくなって浜におりて来て住んでいたら、犬にかみ殺されてしまったというのです。そして海で死んだこの浜の船乗りの霊が浮かばれていないので、狐に乗りうつって祟っているのだといいました。どうしたらいいかと聞くと、狐が「蜂須賀稲荷大明神(はちすかいなりだいみょうじん)を祭ってくれれば、わしが火をしずめてやろう」といったので、浜の人がすぐ浜の恵比須さんの横にお祭りしたところ、火事がピタリと止まりました。それから稲荷大明神の祭りを怠(おこた)ると、夜中に太鼓をたたき続ける音がして寝られないので、人々は今でもお祭りを続けているのです。

旧北淡町のおはなし

大ぐちな退治(おおぐちなたいじ)
旧北淡町のおはなし

八郎次が山へ仕事をしにいくと、人間のいびきとは違う大きないびきがきこえました。「黒谷の山奥には大蛇がいて人を飲むらしい」と兄の七郎兵衛がいっていたのを思い出し、岩を上がって下をのぞいたら、たくさんの大蛇が頭をもたげて眠っています。八郎次はこの大蛇を退治することにしました。あたりを見わたすと、8斗目(約120キロ)ぐらいの大きな石があったので、その石を持ち上げ大蛇の頭をめがけて投げつけました。ところが大蛇は頭がつぶれるどころか、大口をあけ、八郎次に怒ってかかってきたのです。八郎次はなたで切りつけたり谷間へ突き倒したりしましたが、大蛇は血をふきながらもおそいかかってきました。浜に逃げたとき、浜辺で網をすいていた漁師の1人が「首が急所だ」と叫んだので八郎次が大蛇の首筋に切りかかると、さすがの大蛇も息絶えました。八郎次は潮を浴びて身を清め、この大蛇をていねいに埋めたので、その後、何のたたりもなかったそうです。

旧一宮町のおはなし

夜泣石(よなきいし)
旧一宮町のおはなし

大町の山の中の立派な大石に、お題目(だいもく)を書いて妙京寺(みょうきょうじ)へお祭りしようと、村の人々が総出で運ぶことになりました。題目石を綱でくくり、棒を通して前と後ろをかついで、妙京寺の馬場の松並木が見える落合橋までたどりつきました。ところが前をかついでいた仁平さんの足が突然土にへばりついてはなれなくなり、いろいろ試してやっと足がうごきだしたと思ったら、石をくくっていた綱が切れてしまいました。日も暮れたので、橋のたもとに題目石をたてかけてみんな帰っていきました。 その夜中のこと、橋の近くに住んでいる金兵衛さんやその近所の人が、熱でうなされ苦しみだしました。題目石を見つけた五兵衛さんが石の向きを変えたところ、金兵衛さんはけろっと良くなりましたが、今度は石を向けられた方にある家々で急病人が出だしたので、石を立てかけるからよくないのだ、いっそ寝かしておこうということになりました。ところがしばらくすると橋のたもとから赤ん坊の泣き声がしてきました。なんと題目石が泣いているのです。みんなはびっくりして石に向かってお題目を唱(とな)えると、だんだん泣き声はやんでいきました。 どの村の人々も不気味な夜泣石はいらないというので、話し合いの結果、村境の真ん中に天向けにして祭ることになりました。夜泣き石は、赤ちゃんの夜泣きやむずかしい病気をなおしてくれるといい、多くの人にお参りされています。

旧一宮町のおはなし

札場(ふだば)のおまん狸(だぬき)
旧一宮町のおはなし

夜中に戸をたたく音と誰かの呼ぶ声で、源さんは目を覚ましました。戸口に武士が立っていて、供の者が急病になり困っているので、急いで荷物を下司(くだし)まで運んでほしいというのです。源さんは頼まれた毛槍(けやり)をかつぎ、前には向かいの孫やんがはさみ箱をかつぎ、助やんが先箱をかついで歩いています。しずしずと行列は続き、源さんも武士になったような顔で歩きました。やがて1番どりが鳴き空が白み始め、ふと前を見ると行列がなくなっていて、塔婆(とうば)を背負っていたり、はさみ箱だと思っていたのは墓のい垣(がき)でした。どうやら札場のおまん狸にだまされたのだと気づいた札場の人たちは、怒ったり笑ったりしながら戻ってきたのでした。 それからしばらくたったある晩のこと、源さんは庄屋さんに洲本(すもと)の稲田九郎兵衛様のところへ急ぎの届けものを頼まれます。源さんは隣の孫やんと供にはさみ箱を受取り道を急いで進んでいたのですが、城下町の炬口(たけのくち)でふたりとすれ違うひとがみんな妙な顔をして通りすぎていきます。その中の1人が、朝っぱらから墓のい垣や塔婆を背負ってどうしたんだと言うので、ふたりはびっくりして肩にかついでいる物を見ました。急いで柳沢まで帰り庄屋さんに確かめるとまったく知らないといい、また札場のおまん狸にやられたかと、2人は悔しがったということです。

旧一宮町のおはなし

勘気いや、糞を食うぞ
旧一宮町のおはなし

妻のおまきは、「勘気(かんけ)いや、糞(くそ)を食う」となにごとも定規のようにきっちりしすぎて神経質な人のことを言うけれど、いい加減にしないと娘の嫁にいくところがない、と亭主の吾作に怒りました。娘のお米は、 18歳で生まれつきの器量よし、そのうえ気だてがよく嫁のもらいてが多いのですが、親父(おやじ)さんは方角を聞いただけで片っ端からことわっていきます。 東の方は、天道(てんとう)様に罰(ばち)が当る、南の方は岩上さんの石や夫婦岩、秋葉山さんや俵石の巨石があるからあかん、北の方は権現北山薬師だからこれもあかんというので、とうとう今まですすめに来た人もあきれかえってしまいました。それならどこがいいのかと聞くと、うちから見れば西がいいのだといいますが、西は広い播磨灘(はりまなだ)があるだけで、海なのだからだれも言ってくるはずがありません。吾作の勘気にみなはあいた口がふさがりません。すると、それをもじった歌がはやって、これにはかんけいいの吾作もさすがに参ったそうです。

旧一宮町のおはなし

明(あ)けずの間(ま)
旧一宮町のおはなし

千代は隣村の百姓作右衛門の娘で、年は18、生まれついての器量よしで賢い娘でした。そんな千代をお殿様は片時もそばから離しませんでした。江井浦(えぶら)のお屋敷に泊まった夜、女中部屋にいた千代はお殿様に呼ばれました。殿が「予の相手をいたせ」と嫌がる千代を無理にてもとへ引き寄せたので、千代は手を払いのけ廊下に出ようとしましたが、腹をたてたお殿様は千代のえり首をつかんで部屋の中に引きずりこみ、部屋のふすまを荒々しくしめて、床の間にあった刀をギラリと抜きはなちました。千代は必死になって命乞いをしましたが、お殿様の虫のいどころが悪かったのか、その願いも通じず千代の悲鳴があがったと思うと、血しぶきが天井やふすま、あたり一面に飛び散り、千代はそのまま息絶えてしまいました。お留守居役(おるすいやく)がとんできたときにはどうにも手がつけられないほどでした。 それ以来、ま夜中になるとこの部屋から千代の泣き声が聞こえるので、しめきったまま明治を迎え、明治10年代にお屋敷を改造して桃江(ももえ)小学校にしましたが、天井にしみついたどす黒い血の跡は消えませんでした。窓のない薄暗いこの部屋に、悪さをした子が時々押し込められ、こわがられていたといいます。

旧一宮町のおはなし

鯛中李長(たいなかりちょう)
旧一宮町のおはなし

草香(くさか)の鯛中家(たいなかけ)の主人の李長(りちょう)は風流な人で、俳句を作ったり絵を書いたりしてのんびりと暮らしていました。新年も明けた15日の朝のこと、ひとりのお巡礼さんが各戸口に立って拝んでまわっていました。李長が表玄関で鳴らしている鈴(りん)の音を聞き出ていくと、お巡礼さんは「家内安全、家運長久、チーン」と鈴を鳴らしたので、風流人に通ずる何かを感じた李長は、膝を折り礼をして奥へ入り、お粥さんに入れるつもりだったお餅(もち)を半分ちぎって、お巡礼さんに渡しました。李長の風流な心が通じたのか、お巡礼さんは「このところ十五夜、三日月まだ始め」と歌にして返しました。これを聞いた李長は、さっとふすまのかげにかくれ、半分にちぎった残りの餅をさし出し、「雲にかくれて、ここに半分」とにんやりとしながら渡しました。 また、村中でお祭りしている方神様(ほうがみさま)に供える白だんごを作るかわりに、白い石を拾ってきてお供えしました。だんごを食べにやってきたたくさんのカラスが、李長の供えた白だんごを食べかけましたが、固くてかむことができません。カラスは「鯛中白餅、あんかた、あんかた」といって、あきらめて森の方へ飛んでいったということです。

旧一宮町のおはなし

寝(ね)すぎた観音様(かんのんさま)
旧一宮町のおはなし

室町(むろまち)時代の終わりごろに、淡路を治めていた養宜館(やぎやかた)の城主細川成春(しげはる)が、淡路中の観音様に「淡路の観音霊場三十三番の札所を作るので、明日の正午ちょうどに千光寺に集まってほしい」というおふれを出しました。この知らせは尾崎の岡堂観音様にも届き、朝早起きして行こうと思うと夜中に何度も目が覚めてしまい、次に目を覚ましたときには正午を過ぎていたのです。悔やんでも取り返しがつかず、岡堂は大きいお堂を建てているのに番外だなんて恥ずかしい、と岡堂の観音様は泣いていらっしゃったということです。 淡路西国三十三番の札所にははずれましたが、力のある限り、お参りにくる人だけでなく来ることができない人の力にもなりましょう、といって困っている人を助けたりおこもりの人に力を与えたりしました。この観音様は、今も大勢の人々の信仰を集めています。

旧一宮町のおはなし

イザナキ・イザナミの神様(かみさま)
旧一宮町のおはなし

昔、高天原(たかまがはら)という空の上に大勢の神様が住んでいて、下界をのぞいていたイザナキノミコトという男の神様は、イザナミノミコトという女の神様と結婚してそこに家をたてたいと夢を語りました。それを聞いた一番年をとった神様が、とても大切にしているアメノヌボコという槍(やり)のようなものを2人にあたえ、これで下界を調べて人の住める国にしてもらいたいといいました。 2人は高天原と下界の間にある天(あめ)の浮橋の上に立ち、アメノヌボコで下界をかきまわすと白い泡があつまってきました。2人がヌボコを上げるとしずくが落ち、海原の中にしずくの固まった塩の島ができたので、神様たちは2人の結婚を祝うおのころ島ができたとおどろきました。2人はそこに大きい柱を建てて八尋殿(やひろどの)というご殿を造り、その大きい柱のまわりをイザナキノミコトは左から、イザナミノミコトは右からまわり出会った所で“みとのまぐはい”という結婚の行事をとり行うと、静かだった海が渦を巻き淡路島が生まれたのです。それから四国、隠岐(おき)の島、九州、隠岐(いき)、対島(つしま)、佐渡(さど)が島(しま)、最後に大日本豊秋津島(とよあきつしま)を生み、その後、国々に住む神様を次々に生みましたが、最後に火の神様を生んだときにイザナミノミコトは大やけどをして亡くなり、黄泉(よみ)の国(死の国)に行ってしまいました。 イザナキノミコトが連れ戻しにいくと、「すでに黄泉の食べ物を食べてしまったが帰ってもよいか黄泉の国の神様にきいてくるので、その間わたしを見ないでください」とイザナミノミコトはいいましたが、イザナキノミコトは待ちきれず中をのぞいてしまい、くさった体を見られたイザナミノミコトは怒って鬼たちに追いかけさせました。イザナキノミコトが逃げながら投げた櫛がタケノコに変わり、鬼たちがそれを食べている間に走りましたが、イザナミノミコトまでもが追いかけてきました。出口まできたので大きな岩を立ててふたをして、ここでお別れだと告げるイザナキノミコトに、「あなたの国の人を1日1,000人ずつ殺していく」とイザナミノミコトは言いました。「それならば、私は1日に1,500人ずつ子どもを生もう」とイザナキノミコトは答え、それから亡くなる人もあるが生まれる人のほうが多いので、どんどん人間が増えていったのです。国生みをされ、大勢の人を生んだイザナキノミコトは、多賀の森深くの伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)に眠っています。

旧一宮町のおはなし

『水夫弥吉(すいふやきち)』南支那(みなみしな)へ漂流(ひょうりゅう)
旧一宮町のおはなし

今から180年前のこと、長泉寺の前に弥吉(やきち)という船乗りがいました。彼は1万500石(こく)積みの天徳丸の水夫で、船には船長と水夫13人、合わせて14人が乗っていました。大阪から江戸にいった帰りにたくさんの荷を積み、11月17日に江戸品川(しながわ)を出帆(しゅっぱん)、 21日の昼ごろには志摩(しま)半島の大王崎へさしかかりました。ここは海の難所で、昼すぎになって台風のような雨風になり身動きが取れなくなってしまいました。この嵐で帆柱が折れ、命は助かったものの船は漂流し続け、2月になりお正月もすぎていました。ついにお米も水も底をつき絶体絶命でしたが、3月14日、夢にまでみた島が見えたのです。船が流されて103日目のことでした。 琉球に着いたのかと思いましたが、言葉が通じず中国の服装をした人がいて、どうやら台南(タイナン)のようです。その後、台湾(タイワン)へ行き上等の服を着た役人のもてなしをうけ、支那(シナ)(中国)へ渡り、福州(フクシュウ)の王様の前に通され、王様はめずらしいごちそうと見たこともない反物をお土産にくれました。さらにあちこち訪ねたあと、7月にはサホで日本へ帰る船を待つことになりました。 12月4日、日本の漂流民40名とともにサホから長崎まで海上3600里(約1万4000キロ)を渡り、12月21日に長崎に着くとすぐ奉行所に連れていかれました。密貿易の目的で支那へ渡ったのではないか、キリシタン信者ではないかと、厳しい取り調べを受け牢屋に入れられてしまいました。7月3日、洲本へもどってからも取り調べを受け、漂流したことはだれにも話さないよう口止めを受けて、尾崎に帰ることができたのです。長泉寺の過去帳には「転運帰邦信士、難船渡唐三ヵ年にて帰国後、文政六癸末五月一日」と記され、何事もなかったように共同墓地の片隅に祭られています。

旧五色町のおはなし

滝(たき)のお不動様(ふどうさま)
旧五色町のおはなし

喜八は幼いころからおばあさんにつれられて、お不動さまにお参りしていました。体が弱かった喜八は年をとってからも、下のお不動さんを拝んでは上の滝に打たれてお祈りをしていました。 ある日、お不動様にお祈りをしてから滝に打たれようと山を上がりかけましたが、お不動さまに吸いつけられたようになって足が進みません。そこで、お不動様を背負って上がってみようとすると、お不動様は石でできて重いはずなのに軽々と背負うことができて、急な山道を登るのに足が軽くはずんでいました。ところが、滝についてお不動様をおろそうとすると、背中にひっついたようにおりてくれません。仕方がないので背負ったまま滝つぼに入ると、お不動様はすうっと背中から離れて滝つぼの上の方へとあがっていき、手の届かない高い所にある岩にひっついて、それっきり下におりてきませんでした。 それから何百年たった今も、お不動さまは山奥の滝の岩にすいついたまま、滝にうたれながらお祭りされています。

旧五色町のおはなし

善光寺(ぜんこうじ)の阿弥陀様(あみださま)
旧五色町のおはなし

善光寺(ぜんこうじ)の仏像を盗みに入った盗人は、おずしの戸をそろりと開け、すわっていらっしゃった阿弥陀様を持ち出そうとしましたが、なかなか重いのであちこちぶつけながらやっとのことで盗み出しました。 浜に用意していた舟に仏様を乗せて逃げようとしましたが、どうしたことか船が動きません。どんなに力を入れてもこいでも舟は動かず、空が白みかけたころ、ついに盗人はあきらめて仏様を海の中へ投げ入れました。そのとたん船が動き出し、盗人は逃げていきました。 しばらくして、猟師の間でお寺の下の崖(がけ)っぷちの海は魚がとれなくなったという噂(うわさ)が流れ、明法寺の住職さんに拝んでもらったところ、海の底に光るものがあるというので、網を入れて引いてみると、盗まれた善光寺の仏様が網に入っていました。 驚いた猟師は、仏様を船瀬のきれいな湧水で洗(あら)い、善光寺に元通りにお祭りしました。 それから、仏様が沈んで引き上げたあたりを、「仏崎」と呼ぶようになったということです。仏様を洗った水を閼伽井(あかい)の水といって、今も湧き出ています。

旧五色町のおはなし

万琳(まんりん)の獅子(しし)

吉田村の総代さんが、鮎原(あいのはら)天神のお祭りで使う新しいだんじりに飾るらんまを万琳師匠(まんりんししょう)に彫ってほしいとお願いにきました。斉藤万琳は、江戸時代の終りごろには、淡路の左甚五郎といわれた有名な彫り師です。 静かなところで制作したいという万琳の望みに、仕事もはかどるだろうしいつの世までも残るりっぱなものが仕上がるだろうと総代たちは期待していました。ところが、万琳はこんぺい糖(とう)やせんべいを買ってきてほしいと毎日のように言います。何日かたち、仕事場をのぞいた総代はびっくり。たくさんの犬にせんべいを投げ与え、取りあいやかみつきあいをしている様を、万琳は横になってじっとながめていたのです。仕事がはかどっていると思っていた総代はカッとなって怒りましたが、万琳は引き受けたものは必ず仕上げるので安心してください、と涼しい顔です。いよいよ練り込みの前日、万琳は体を清め、夜通し仕事場で音を立てていました。 夜が明けると同時に、見事ならんまができあがり、総代たちはそのできばえをほめちぎりました。今では“せんべい一石万琳の獅子(しし)”といわれ、お祭りには私たちの目を楽しませてくれています。

旧五色町のおはなし

堺寺の観音様(さかいでらのかんのんさま)
旧五色町のおはなし

南の方の海に何か光っていたものが、南淡(なんだん)に流れつきました。それは、とても重く大きな香木でした。その香木の評判を聞いた偉いお坊さんがそれを見にきました。奈良の都に持っていくと、聖徳太子(しょうとくたいし)は「天子様がほしいと願っておいでの木です」と申されました。すぐ天子様にお見せすると探していた木にぴったりで、百済(くだら)の仏師が観音さまを作り、比蘇寺(ひそじ)にお祭りされました。その後、その観音さまはいつのころか淡路に戻ってきて、堺寺(さかいでら)のご本尊としてお祭りしたのです。堺寺は津名郡と三原郡のちょうど真ん中にあるお寺です。

旧五色町のおはなし

白芝山(はくしざん)の絵馬(えま)
旧五色町のおはなし

お百度参りをしにきた太郎作は、絵馬の中の白馬がいないので驚きのあまり腰(こし)を抜かしてしまいました。この絵馬は白芝山(はくしざん)という絵書きさんが奉納したものでした。家に戻(もど)っておかみさんにその話をしたが、なかなか信じてくれません。次の日の朝2人でお参りしてみたところ、馬はちゃんと絵馬にもどっていて、太郎作は不思議でなりません。 それなら、と次の日の夜中、太郎作はおかみさんを連れてお参りに行きました。そしてちょうちんを高く上げていくと「馬がいない!」とおかみさんはへたばりこんでしまいました。拝殿から続く足跡を追っていくと、白馬は野原でゆうゆうと青草を食べていました。 この噂(うわさ)が白芝山の耳に届き、絵馬に草の絵を書き足し、馬にも綱を書いたので、それからはもう馬が出歩くこともなくなったそうです。

旧五色町のおはなし

菊水(きくすい)の井戸(いど)

左大臣藤原時平におとしいれられた菅原道真(すがわらみちざね)は、無実の罪を着せられ九州の太宰府(だざいふ)に旅立ち、その道中、明石海峡を抜けるあたりで一休みしようと岬のかげに船をよせました。そして、都にもう1度志すことを決心したその浜辺を都志(つし)と名づけたのでした。 のどがかわいた道真は、魚を干しているおばあさんに水がほしいといいました。おばあさんは水のいれものを探しましたが見つからなかったので、タコ壺(つぼ)に水を注ぎ差し出しました。おいしそうに水を飲み干す道真に、もう1ぱい差し上げようと湧き水をしゃくですくったとき、水がこぼれそばに咲いている野菊にかかっているのを見て、「だれにもえんりょ気がねもせず、美しく咲きほこっている野菊よ。なんとすばらしいことか。それで水がよけいにおいしいのだ」と道真は感動した様子でした。それから、この井戸を「菊水の井戸」と呼ぶようになったということです。

旧洲本市のおはなし

鮎屋(あいや)の滝(たき)のお不動様(ふどうさま)
旧洲本市のおはなし

淡路国1番の滝といわれる鮎屋(あいや)の滝は、滝つぼに落ちる水の高さが約20メートルあり、うす暗い滝つぼの中の奇岩怪石がはねかえす水音は、百雷(ひゃくらい)が落ちたようで、地獄絵図のような不気味さがただよっています。 この滝を見物にやってきた武士とお供の者は、すっかり見とれていましたが、武士が滝の上の不動堂で酒宴(しゅえん)をすれば格別の風情があると言ったので、酒もりが始まり、飲んだり食べたりおどり出す人まで現れて、どんちゃんさわぎになりました。 すると突然、グラグラグラとお堂がゆれはじめました。そのうちに止まると思った地震はいよいよ大きくゆれ、大雨になりものすごい暴風になって稲光りが走り、やっとのことで命からがら逃げ出しました。近くの田で働いていた人たちは、天地が割れるような天気にびっくりぎょうてん。不動堂から逃げ出す武士たちを見て、行者さんがおこもりをする不動堂で酒もりなどして天罰がくだったのだ、と口々に言いました。武士たちも、お不動様のこわさを身にしみて感じたということです。

旧洲本市のおはなし

千光寺(せんこうじ)の観音様(かんのんさま)

千年ほど前のこと、播磨国(はりまのくに)に忠太(ちゅうた)という弓の名人がいました。ある日狩人(かりゅうど)の忠太がいつものように山に入ろうとすると、降りてきた狩人が今日は上野の山奥に行くのはやめたほうがいい、ものすごい猪(いのしし)があばれ回り田も畑もむちゃくちゃにしているというのです。猪は小山のように大きく、背中に笹をいっぱい生やし竹やぶのようなので、人々は「いざさ王」と呼んでおそれていました。忠太はその悪い猪を退治してやると心に決め、いざさ王の足跡を追って山奥へと登っていきました。突然大きな山鳴りがして地震で小山がくずれてきたと思ったのは、いざさ王がおりてきていたのです。忠太が体中の力をふりしぼって放った矢は、いざさ王の胸にグサリと突きささりましたが倒れるどころかそのまま走りだし、明石(あかし)の海に飛び込むと泳ぎはじめました。忠太が後を追うと、野島(のじま)に泳ぎ着いたいざさ王は先山の頂上めがけてかけ登り、古い大木の根元の穴に入っていきました。忠太が穴に入ると、急に目の前がまぶしく光り輝いてにっこりなさっている観音様が立っており、その胸には矢がささっていたのです。忠太は息が止まるほど驚き「罰あたりなわたしをお許しください」と泣きながらわびました。 忠太はすぐ名前を寂忍(じゃくにん)とかえ、観音様を山の上にお祭りしました。その千光寺は淡路富士と呼ばれる美しい先山の上にあり、今も人々の信仰を集めています。

旧洲本市のおはなし

芝右衛門狸(しばえもんだぬき)

三熊山をねぐらにしていた芝右衛門狸(しばえもんだぬき)は、芝居が3度の飯よりも大好きで、今宵はつれあいのおますを相手に、ゆうべ見てきた壺阪寺(つぼさかでら)の芝居のまねをして口三味線、手三味線をひきながら、情にもろいふたりは涙するのでした。芝右衛門は、荷物を積んだ車が坂道で動けなくなっていたら、後ろから押して手伝うような心根のやさしい狸でした。ふたりは淡路中で公演される芝居をかかさず見てまわっていました。 ある日、芝右衛門は浪速(なにわ)の中座(なかざ)というところでよい芝居があると聞き、おますもそんないい芝居なら見てみたいといい、早速昼から船で出かけることにしました。木の葉をドロンとお金にかえて船に乗り、初めて目にする浪速の町のにぎやかさに驚きながらも、芝居が始まるまでまだ時間があるし、浪速の人のどぎもを抜いてやろうと考えました。 おますはおいらんに化け、道行く人々は江戸の吉原におとらぬきれいなおいらんに目を見はりました。次は芝右衛門の番で、「下にい、下にい」とお殿様の行列がしずしずとやってきたのが、本物そっくりの見事な殿様行列だったので、おますは大きな声を出し手をたたいてほめました。ところがこれが本物の殿様行列で、おますは殺されてしまいました。芝右衛門は化けくらべをしたことをくやんだけれど取り返しがつきません。中座の芝居をせめて1度だけでも見ようと行くと、根が大好きな芝居なのですっかりとりこになり、あと1日だけといいながら中座に通いつづけたのでした。 毎日銭箱に木の葉が3枚入っているので、狸がいるのではと疑った木戸番は大きな犬に見はらせていて、最後にもう1度芝居を見て淡路に帰ろうとやってきた芝右衛門は、出るときに犬に見つかりみんなに追いつめられ、とうとう殺されてしまったのです。 しばらくして、洲本では市村でも志筑(しづき)でも誰も芝右衛門を見ていないとうわさが広がり、中座で狸が殺された話を伝え聞いた人々は「きっと芝右衛門にちがいない、かわいそうに」と祠(ほこら)を建てててあつくほうむったということです。

旧洲本市のおはなし

巌性上人(がんしょうしょうにん)
旧洲本市のおはなし

承応2年のころ、宇原の里に原因不明の流行病(はやりやまい)が広がりました。清水寺(せいすいじ)の巌性上人は、毎日のように流行病で亡くなる人がいることに心を痛め、自分の命にかえて悪病をとめなければと決意します。巌性上人が生きたまま土中に入り村の人々のために祈願するというので、村人は必死になって巌性上人を止めましたが、上人の心は固く決まっていました。 新年を迎えたある日、巌性上人はお寺の墓地の高台に穴を掘り、弘法(こうぼう)大師さまがご入定された21日にあわせて穴に入りました。真言をくる声と鉦(かね)の音が穴から聞こえ、村の人々も巌性上人の読経にあわせてお経を唱え、大勢の人々の命をうばった悪病の退散と、明るい平和な大野の村にもどってほしいという願いをこめ一心にお祈りを続けました。 穴の上には石のふたがしてあって上人様は息ができず苦しいだろうと、村人たちは石ぶたをこつこつたたき穴を開けはじめました。8日後小さな穴があき、最後の力をふりしぼって一心にお経をあげている上人様に、穴から竹筒をさしこんで水を流し入れました。 2月2日の朝、鉦の音が止まり何の音もしなくなったので、村人たちが急いで石のふたをとると、巌性上人はにこやかな笑みを浮かべ、こときれていました。 その日を境に、病にかかっていた人が次々と治り、村人たちは命にかえて村人たちを救ってくれた上人様に両手をあわせ、入定された穴の上に穴のあいたふた石を立ててお祭りをしました。お参りは今も続いており、不思議なことにお墓の水鉢の水がなくならないといいます。

旧洲本市のおはなし

藍問屋(あいどんや)の大番頭(おおばんとう)

武士の世の中が700年続いたあと明治になって、今井真左衛門は徳島藩(とくしまはん)で武術を教えていたが仕事がなくなり、淡路の中川原(なかがわら)に渡って来ました。そこで空家を借りて、ぞうりやすきな俳句を作ってくらしていました。 ある日、真左衛門は何を思いついたのか、大きい帳面に「楽しみ帳」と書いて軒先につるしておきました。その帳面には「一金百両を庄屋へ貸しつけたによって、その利子の取り立て日、5月3日」とあります。それを知った庄屋はいくら楽しみ帳でも信用にかかわるからと、真左衛門のいい値でその帳面を買いとりました。 真左衛門はそのお金で人力車を買い、車引きになって毎日洲本と福良との間を人力車を引いて走りました。ある日、日がどっぷり暮れてから藍(あい)問屋の主人源兵衛(げんべえ)を福良から洲本へと運ぶことになりました。中山峠にさしかかったとき、突然山の上から大男が出てきて立ちはだかり、有金をそっくり出せとどなりました。真左衛門はおいはぎに「1人に盗らせはしない、客人の金を山分けするのはどうだ」と持ちかけます。武術を教えていた真左衛門は、安心しきったおいはぎの隙をついて胸おちをなぐり失神させました。源兵衛にお金をすべて返し、役人を連れて中山峠をもどるとおいはぎはまだ気をうしなっており、それはお尋ね者の「野嵐の虎」と呼ばれる悪人で、真左衛門はお上(かみ)からたくさんのほうびをもらい、源兵衛からは店の番頭さんになってほしいといわれ、四国で指折りの藍問屋の1番番頭になって幸せに暮らしたということです。

旧洲本市のおはなし

御石権現様(おいしごんげんさま)

生石崎(おいしざき)では、度々船が壊れる被害が出ていました。政吉の船が港へ入ろうとすると、急に海鳴りがして雷が1度に何百も落ちてきたような音がドーンとしたとたん、船が底からさけていました。そのとき、八兵衛さんが何かの祟(たた)りではないだろうか、古いおじいさんから聞いた話だが…と話しはじめました。 むかし、阿波(あわ)の細川の殿さまが家来の主膳(しゅぜん)にいいつけて、堺(さかい)の町へ弓矢を買いにやらせました。船に弓矢をいっぱい積んで阿波の国に帰る途中、和泉(いずみ)や淡路の海賊船(かいぞくせん)に襲われて、船の荷物をわたせと脅されます。そこへ紀州の海賊までやってきて、海賊船がぐるりから主膳の船に矢を放ち続けたので、主膳も戦いました。お互いに大勢の死人がでましたが、とうとう主膳の船に積んでいた矢がなくなり、主膳も大傷を負い、これ以上戦えないことが分かったとき大声で「武士の最後をようく見ておけ」と言って腹を十文字にかき切り、まっさかさまに海の底へ落ちていきました。家来も船に火をつけ焼け死んでしまいました。それからというもの、生石崎の海はしけたり海鳴りがやまないのだそうです。 八兵衛さんの話に聞き入っていた人々は、そのときの人たちが浮かばれず、うらみが海に残っているのだと感じ、御石(おいし)権現社を建ててねんごろに法要をしました。それからは海は静かになり、船の事故もなくなったということです。

旧三原町のおはなし

法華寺の一本松(ほっけじのいっぽんまつ)

法華寺(ほっけじ)の高台にあった松の木はだんだん傾いてきていました。下の家の人は、家の上に倒れてきたらこまるからきりたいと思っていましたが、蛇の住み家なのできったらたたりがあるかもしれないと、だれもきることができません。そのうちに台風があり、木は横になってしまいました。こうなったらきるしかないと、近くに松の木を植えて蛇にはそちらにうつってもらい、洗い米(よね)と塩とおみきを祭って拝んでお払いをしてもらって、木挽(こびき)を呼んできてきってもらいました。まもなくすると木挽は死んでしまい、この大きな一本松には毒の強い蜂がたくさんわいて、牛や人間までさすようになりました。そこで偉いお坊さんが拝んだら、一本松から光が出てこの蜂を追い払(はら)ったのでした。蛇がいたというだけではなく仏様の宿っていた木をきったたたりだったのでしょうか。

旧三原町のおはなし

水牢(みずろう)

志知城主(しちじょうしゅ)野口長宗(のぐちながむね)は、年貢が納められないと女をとらえて牢屋(ろうや)へいれ、耐えられない責め苦にあわせます。去年も日照り続きで米がとれずなかなか年貢が納められなかったので、六兵衛のおくさんのお雪は牢屋にいれられてしまいました。六兵衛はお雪の身が心配になって牢屋の近くへ行ってみると、なぐられたり拷問を受けたりしているのでしょう、お雪の悲鳴が聞こえてきたのです。年貢が払えないのは、おくさんが質素にしないからだと責めたてられ、とうとう水牢へいれられてしまいました。水牢は堀のようになっていて水がいっぱいたまっており、後手にくくられているお雪の顔を、水の中へ押さえこむのです。六兵衛は村長(むらおさ)の家にかけこみ、「年貢は必ずお払いします」と約束して、お雪は水牢から出してもらいました。そして年貢をおさめるために寝ずに働いたのでした。今でも「牢の前」「水牢」の地名が残っています。

旧三原町のおはなし

淡路人形芝居(あわじにんぎょうしばい)
旧三原町のおはなし

百太夫という漁師が沖へ出ると急にあたりがうす暗くなり、向こうの方に浮いている船に稲光がピカピカ当っていました。百太夫が近寄ると、船に乗っていた子どもが、自分はエビスだが住むところがないので海辺に宮殿を作ってほしいといったので、百太夫はさっそく西宮(にしのみや)に宮殿をたててエビス様をお祭りしました。西宮の道薫坊(どうくんぼう)という人が毎日エビス様をていねいにお祭りしていたので、海はおだやかで魚もよくとれ、漁師の人はとても喜んでいましたが、道薫坊が亡くなり、だれもエビス様の心にかなうお祭りをする人がいなくなってしまったので、海が荒れたり大雨が降ったりするようになってしまいました。百太夫が都の役人にこれでは漁師の人は生きていけないというと、「道薫坊によく似た人形を作り、その人形でエビス様を祭りなさいと天皇様がおっしゃっている」と役人はこたえました。百太夫はすぐに人形を作り、その人形がエビス様をお祭りすると、前のように海がおだやかになり魚がとれだしました。百太夫は天皇にいわれて、その人形をもって日本中をまわって国々の神様をお祭りすることになり、淡路島へもやってきました。三原の三条村の人たちに人形の使い方を教えているうちに、百太夫は菊太夫の娘と仲良くなり結婚しました。百太夫の子は源之丞(げんのじょう)といい、淡路で初めて淡路人形芝居の一座を作ったのだといわれています。そこから人形芝居が盛んになり、最近ではこの伝統芸能をたやさないようにと子どもたちが浄るり、三味線、人形つかいなど練習に励んでいます。大きくなると人形座へ入り、プロとして毎日厳しいおけいこが続きます。

旧三原町のおはなし

蛇すり石(じゃすりいし)

実弘上人の法話を毎日聞きに来る女の人がいました。その女の人は、自分は長く成相(なりあい)の谷に住んでいる竜女で、助けてほしいと実弘上人にお願いしましたが、実弘上人はそれは自分の力が及ばないことだといいました。そして実弘上人は竜女にお寺の前の大きな岩をのけてほしいとお願いしました。この岩があるために、雨が降ると水が道路にあふれ、その水がお寺の境内にまではいってくるので、みんな困っていたのです。竜女は必ず実弘上人の願いをかなえましょうといって帰っていきました。その夜、竜女は大きい体で岩をくだきとばしていきました。実弘上人は竜女が無事大岩をくだけるようにお経をあげておいのりしました。明け方になると、大岩は竜女によってくだかれたので、実弘上人は深々と頭をさげてお礼をいいました。竜女が子どもの姿になって実弘上人の前にひれ伏すと、実弘上人はもっていたとっこというお祈りに使う先のとがった金具をその子どもの頭に投げつけました。すると、竜女の頭にあった角に当たり、角が折れ、竜女は喜んで成相の山へと帰っていきました。その夜、竜女は実弘上人の夢枕に立ち、角がとれたことで天上へ帰ることができたのでこれからは幸せに暮らせますとお礼をいったのでした。今も成相寺の前には竜女が大岩をくだいたあととうろこのあとがのこっています。

旧三原町のおはなし

九本足の馬(きゅうほんあしのうま)

淡路の国分寺あたりで九本足の馬が生まれました。後足が4本、前足が5本の馬です。この話が鎌倉(かまくら)の源頼朝(みなもとのよりとも)の耳にも入りました。頼朝は領主の横山時広に九本足の馬を鎌倉へ連れてくるようにいいました。鎌倉でも九本足の馬の話でもちきりです。鎌倉の鶴岡八幡宮の広い境内を九本足の馬は走ってみせ、頼朝は大変喜び「この馬は鎌倉で大事にするので心配するな」といいました。こうして九本足の馬は鎌倉でくらし、その足跡は「馬蹄石(ばていせき)」として、今も国分寺境内に残されています。

旧三原町のおはなし

観音堂の松(かんのんどうのまつ)
旧三原町のおはなし

小井の観音堂の前に高さが約30メートルもある大きな松の木があり、村の人々はその松に観音様が宿っているのだと誰もきったり傷つけたりしませんでした。ところが脇坂洲本(すもと)城主の家来の福原半左衛門は、松の木に観音様がいるわけがないと松の木をきり倒し、その木で自分の家を新しく建てかえてしまいました。ある日、9歳になる半左衛門の娘が急に腹痛をおこし、熱にうなされもがき苦しみながら「私は観音だ。境内にあった大切な木をきってしまったかわりに、おまえの娘を苦しめてやる」と叫んで、とうとう亡くなってしまいました。半左衛門は怒って観音様の悪口をいい続け、それでもおさまらないので観音堂へ行き、鉄砲で観音様の胸をめがけて打ちましたが、なぜか傷がつきません。そこで半左衛門は観音様の足もとの蓮(はす)の花のある台座にうんこをかけたので、村の人々は半左衛門を口々にののしりました。その後半左衛門は城主から追い出されてしまい、志筑浦(しづきうら)の方へ働きに出て暮らしていましたが、大阪城で豊臣秀頼(とよとみひでより)が城を守るために諸国の浪人を集めていたので、半左衛門も大阪城へ行ったそうですが落城と共にどうなったのかわかりません。また半左衛門の母と嫁は働くすべもなく乞食になっていましたが、日照りが続いて物もらいができなくなると、嫁は母を連れていると自分も死んでしまうと思い、母を海岸近くに連れていって海に突き落としました。ところが嫁は病気になり、看病をする人もなかったのでのたれ死をしたという噂(うわさ)がありましたが、本当のところはだれも知りません。

旧西淡町のおはなし

勝算和尚(しょうざんおしょう)
旧北淡町のおはなし

勝算和尚は300年ほど前に国清庵(こくせいあん)を禅宗のお寺に開山した人で、いつもふごの中に持ち物を入れ歩いていたので、人々からふご和尚と呼ばれ親しまれていました。ふご和尚は、何でも自由自在にできる不思議な力を持っていました。 ある日和尚さんは魚屋の前を通りかかり、いきのいい魚をさし身にして食べたいといって魚の片身をペロリと平らげました。それを見た人が、お坊さんは生き物を殺して食べないと思っていたのにと言ったので、勝算和尚は「坊主は殺生(せっしょう)はいかぬことじゃ。」と残っていた魚の片身にまん中の骨をひっつけ、食べたさし身を手のひらにもどしました。目の前で魚をつなぎあわせ、海にポーンと投げいれ両手を合わせると魚はヒラヒラと泳いでいってしまいました。 またある日は、阿波(あわ)(徳島)の竹林院から使者がきて、竹林院が火事で燃え続け困っていると聞いた勝算和尚は読経が続く中、水をかきまわし徳島の竹林院の方に向かって水をかけ続けました。ほどなく徳島地方に大雨が降り竹林院の火は消えたということです。 また、勝算和尚が「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と書いた軸を、医者が見放したような重病人の人の枕元にかけると快くなる人はどんどん病気がなおり、治らない人はどんどん悪くなり亡くなってしまうということです。その軸は今も残っているということです。 和尚さんが亡くなって100年ほどたったころ、国清庵に住む人が四国の霊場巡りをしていると、目の前にふご和尚が表れて村で大変なことがおきているから帰りなさいというので、大急ぎで帰ると国清庵の禅堂が焼失していました。人々は勝算和尚の偉大さをあらためて感じたということです。

旧西淡町のおはなし

お局塚(つぼねづか)
旧北淡町のおはなし

通盛卿(みちもりきょう)が一(いち)の谷(たに)の戦いで戦死したという知らせが、平家の船で屋島(やしま)に向かっていた小宰相(おざいしょう)の局(つぼね)のもとに届きました。夫・平通盛に出会ったとき小宰相の局はまだ16歳。若い2人は激しい恋をし、3年越しの恋愛でやっと結ばれたのでした。19歳になったばかりの小宰相の局は、離ればなれになってもまた会える望みがあるのならこの苦しさにも耐えていこうと決心します。けれど通盛が戦死した今となってはもう、生きる望みもなくし涙もかれはてた小宰相の局は、極楽浄土(ごくらくじょうど)がある西の方に向かい、「愛する通盛様と1つの蓮(はす)の上に座らせてください、なむあみだぶつ」と祈りながら入水(じゅすい)し、6人の家来もその後を追いました。 やがで小宰相と家来たちのなきがらが丸山の浜辺に打ち上がり、浜辺の人たちは小宰相の悲運に同情を寄せ、船型の棺(かん)に入れて山の上にてあつくとむらいました。このお墓は「七つ塚」として、お参りする人の胸を打っています。

旧西淡町のおはなし

叶堂観音(かなどかんのん)の釣鐘(つりがね)
旧北淡町のおはなし

播磨国新山寺(はりまのくにしんさんじ)の良道和尚は、体の具合がよくなくて本堂で寝ていました。お寺にお参りに来た人が鐘をつき「ゴオー、かーなーどーこーいーしや」と鳴り響くと和尚さんは身ぶるいをしました。よい釣鐘があるということで古物商から買い入れてから、次から次へと悪いことがおこるのです。「かなど恋しいや、かなど恋しいや」という気味の悪い鐘の音を聞いた村人たちも、毎日鳴らされると病気になってしまうからなんとかしてほしいと和尚さんに懇願しました。良道和尚も悩んでいたのでどうすればよいのかといって、村人たちと相談しました。 ある夜、釣鐘をこっそり船に積みこみ播磨灘を淡路の西浦ぞいに下って、湊(みなと)の叶堂(かなど)沖の海の中に釣鐘を投げこんで帰りました。何も知らない湊の猟師の人たちは、その場所に来ると海鳴りがして魚もとれないので拝んでもらったところ、海の底から驚くようなものが出てくるというので、網を入れて引き上げたら釣鐘がでてきました。それは叶堂が探していた釣鐘だったので、叶堂の観音様にお返しし、もどってきた釣鐘は「ゴオーン、ゴオーン」とうれしそうな音色をひびかせていたということです。

旧西淡町のおはなし

小便(しょうべん)を清(きよ)めた神様(かみさま)
旧北淡町のおはなし

平六は孫を連れて、すもうの見物をしていました。孫がおしっこをしたいと言っていたのに、すもうに夢中になっていた平六はなかなか気づきません。急いでおしっこする場所を探しましたが、人が多くて川の方には出られないので、仕方なく伊勢明神様にあやまりながら拝殿のすみの方でおしっこをさせ、少しだけ柱がぬれました。翌日の明け方、伊勢明神の拝殿が燃えているのが見つかり、近くの人が火を消しとめたので大事にはいたりませんでした。平六がふと拝殿の柱を見ると、燃えていたはずのところがくすぶっておらず、そこは昨日孫が小便をかけたところだったのです。小便をかけた柱が火もないのに燃えしかも燃えた跡がないので、神様が小便のあとを火できれいにお清めしたのだ、と驚いたということです。

旧西淡町のおはなし

幽霊(ゆうれん)との約束(やくそく)
旧北淡町のおはなし

兵八が太郎作を連れて、慶野(けいの)に行った帰り道、松原にさしかかったところで「兵八や、せんどぶりじゃ」と声がするので振り向くと、だれもいません。だれかが呼んでいるには違いないと思い一休みして待っていると、やせおとろえ白い着物(きりもん)をつけ、髪の毛をさんばらがみにした人がよろよろと出てきて、それは二月(ふたつき)も前に死んだはずの湊(みなと)の文蔵でした。 兵八が、病気のときも看病してもらい十分な供養もしてもらったのに何が不足で幽霊(ゆうれん)になって出てきたのかとたずねました。文蔵は、自分を長田(ながた)に埋めてあるがそれを自分が住みなれた所へ移し、それから、値打ちのある着物を質に入れてあるのでこれを売った銭(ぜに)で2年分の年貢を払い、余った分はお寺にあげてくれと頼みました。兵八が間違いなく言ったとおりにすると約束すると、文蔵は本当にうれしそうに帰っていきました。兵八は家に着くなり倒れて気を失いなかなか正気にもどらないので、おかみさんが太郎作に何があったのか聞くとゆうれいの話をしたので、拝み屋さんに拝んでもらうと兵八は正気にもどり、すぐに文蔵との約束を果たしました。それからは、1度も文蔵の幽霊は出てこなかったということです。

旧西淡町のおはなし

鳴門(なると)の大(おお)カニ
旧北淡町のおはなし

泰作は飲み友だち4、5人をさそって、鳴門(なると)が大潮なので渦(うず)を観に行くことになりました。煮〆(にしめ)を入れた重箱と酒徳利(さけとっくり)を7、8本用意して船に乗り、津井の港を出発し門﨑(とざき)の鼻の部分にある大岩に船を寄せました。大岩にあがって重箱を広げ盃をくみかわし、鳴門の渦をおおいに満喫(まんきつ)していました。 泰作がふと何の気なしに止めてある船の下を見ると、何やらうごめいているので、じっと見ると大カニがひそんでいるではありませんか。それも背中の甲が畳7、8枚敷きぐらいあり、2メートル余りもある爪を開いたりすぼめたりしているのです。びっくりした泰作は、「はよ船を出せえーい」とさけんで船を出させました。今からいいところだったのにどうしたんだ、とすっかり酔っている人たちに説明しようにも声が出ない泰作は体を乗り出して指さし、大カニを見たみんなは仰天(ぎょうてん)して真っ青になりました。2メートル余りもある怪物のような大カニの爪にかかれば、小さい漁船などバリバリとちょんぎられてしまいます。天下に名高い鳴門の渦の底には、まだまだどんな怪物が出てくるかわかりません。

旧西淡町のおはなし

恩(おん)を知(し)ってた狸(たぬき)
旧北淡町のおはなし

丸山の猟師権八(ごんぱち)が、漁に使う道具を福良(ふくら)で買って帰ろうとすると鳴門の潮がさかさまに流れていたので、流されないよう岸辺に碇(いかり)をおろし潮待ちしていました。すると、1匹の犬が木の上を見上げて吠えており、狸が木の上に上がっていて、権八に助けてくれと目で訴えていました。権八が石を投げて犬を追い払うと、狸は喜んで帰っていき、権八はいいことをしたなぁと思いながらまた居眠りを始めました。目を覚ますと船の上にものすごいごちそうが並び、水引きのかかったご祝儀(しゅうぎ)の包みまで置いてあります。権八はびっくりして、狸に化かされているのかとほっぺたをひねると痛いし、包みの中には本物の札が入っているので、いったいどうなっているのか、いくら考えてみても分かりません。そのうち潮の流れも変わり、そのまま丸山まで船をこいで帰りました。 丸山に帰ると浜の人たちが騒いでいて、神代(じんだい)で嫁入りがありそのごちそうとご祝儀の包みがなくなったというのを聞き、「船の中にあったのは、ほんものだった…さては、狸が…」と思いましたが、まさか浜の人には言えないので、何かの間違いだろうと思って、ごちそうとおみきをいただいたということです。

旧南淡町のおはなし

しょうじょうばえ

三郎太夫は、朝から漁に出ているのにまったく魚が釣(つ)れません。後ろから三郎太夫を呼ぶ声がするので振り向き、のけぞるほどびっくりしました。見たこともない怪物がぬうっと立っていたのです。身の丈は三郎太夫よりもだいぶ高く、太くて短い足と、足のわりにはとても長い手をふらふらさせて、落ち込んだ大きい目をしています。じっと見ていた三郎太夫は、これは古いおじいさんから聞いていたしょうじょうに違いないと思い、まぼろしのしょうじょうに目を見はりながらなんの用かと尋ねると、うまい酒をひょうたんに入れてくれといいます。いや、絶対にやらんと言っても、銭を払うからお酒をくれ、とどこまでも食い下がるので、三郎太夫はとうとう根負(こんま)けして船で酒を取りにもどりました。 酒樽(さかだる)を持ってもどるとしょうじょうは大岩の上で待っていて、うめえ、と舌つづみを打ちながら飲みます。三郎太夫もお酒をすすめられてのどを鳴らして飲み、またたく間に桶の酒が空っぽになりました。しょうじょうは、酒代はエビスさんの神棚(かみだな)に置いてあるからと言い残し、海に帰っていきました。エビス棚には銭(ぜに)こが百銭(せん)置いてあり、使ってもへることはなかったそうです。その後、しょうじょうが上がって酒を飲んだ岩を「しょうじょうばえ」と呼ぶようになったということです。(ばえとは、海の底からはえている岩のこと)

旧南淡町のおはなし

古水(こすい)の浦(うら)の赤猫(あかねこ)

きれいな娘さんが八兵衛さんのかた船に乗ろうとやってきて、船の水を飲ましてほしいからひしゃくをかしてほしいといいます。それは気の毒な、と言って水桶の所まで来たとき、最近古水(こすい)の浦のずるい赤猫が娘に化けて寄ってきて、かりたひしゃくで船に水をいっぱい入れて沈めてしまうという話を聞いたのを思い出しました。あぶなかったと思いながら八兵衛はひしゃくの底を抜き、赤猫が化けた娘に渡してさっと船から逃げました。 娘は船に飛び乗り、すぐ海の水をいっぱい船に入れようとひしゃくでくみ続けましたが、底が抜けているのに気づいて怒り狂い、美しい娘の姿だったのがとうとう恐ろしい赤猫の正体を現しました。赤猫が真っ赤な口をあけてギャオ-とわめきたてるのを、八兵衛さんが茂みから息をころして見ていると、あきらめて帰っていきました。 それからというもの、沼島(ぬしま)の人は船に底の抜けたひしゃくを持っていて、海の難所を通るときにひしゃくを海に投げ入れ、難にあわないおまじないをするようになりました。また、沼島には海坊主(おんぼうず)という怪物もいて、それを見て熱を出し亡くなった人もいるということです。

旧南淡町のおはなし

狐(きつね)の恩返(おんがえ)し

夜中に武左衛門(ぶざえもん)の名を呼ぶ声がしてふとまくら元を見ると、白い髪を長く垂らした老人が座っていて悲しそうな顔で言いました。明日お殿様がこの辺りの山で狩をするので、2匹の子狐(ぎつね)を1日だけかくまってほしい。実は自分は母狐なのだと明かしました。子狐を思う心にうたれた武左衛門は引き受けることを約束し、翌朝母狐がつれて来た2匹の子狐を裏の離れ屋敷にかくして、子狐と遊んだり食べ物をやったりしてぶじ1日を過ごしました。夜になり、母狐は子狐を連れて帰っていきました。 ある日、武左衛門は山で枝ぶりのよい松の木を見つけたので持ち帰ろうと、松の根に鍬(くわ)を入れたときに、蛇(へび)の首を切ってしまったのです。蛇を殺すとたたるので、大変なことをしたと思い草の中を探しましたが、首はどこにも見つかりませんでした。その夜あの母狐がまくら元に立ち、首を切られた蛇がうらんでいてかたきうちのために水がめに入っているから水を飲んではいけない、と武左衛門に忠告しました。そして、田の近くに水がいくらでも湧き出る場所があるからそこを掘るようにと教えました。すべて狐の言ったとおりで、八兵衛がこんこんと湧き出る水を飲んでいると、水にうつっている母狐が「子狐を助けてもらってありがとう」と礼を言いました。武左衛門は、門先に祠(ほこら)を建て、稲荷(いなり)大明神をお迎えして長くお祭りしたということです。

旧南淡町のおはなし

お松(まっ)つぁんの嫁入(よめい)り

賀集(かしゅう)の大王の森に住んでいるお松という雌(めす)の狸は、魚屋の増さんが魚の入ったせいろをかついでやってくるのをじっと待ちかまえていました。そんなこととはつゆ知らぬ増さんはいつもの道とは反対に曲がり、天王の森をグルグルまわりはじめました。今日は家までの道がなぜか遠いなぁと思っていると、田で仕事をしている人が「お松さんにやられとるな」といって増さんの肩をドーンとたたいたので、初めて増さんはだまされていたのに気がついたのでした。 これを見ていた、南辺寺の治兵衛(じへえ)狸は、お松つぁんに化けくらべを申し込みました。治兵衛は、若い娘ならだれでも飛びついていきそうな前髪姿の若殿に化けました。お松はお姫様になろうと念には念を入れてお化粧(けしょう)を始め、あまりに念を入れすぎてとうとう夜が明けてしまいました。 この話を聞いた人間たちは、間に合わないときに「天王のお松ほどひまがかかるのう」「お松つぁんの嫁入りで遅うなって」などど言うそうです。プリプリしていた人も、こういわれると笑い出してしまうんですって。

旧南淡町のおはなし

郷殿社(ごうどのしゃ)

阿万(あま)城主郷丹後守重朝(ごうたんごのかみしげとも)は、沼島(ぬしま)に勢力をはっていた梶原氏を攻め滅ぼそうとしている矢先、反対に梶原氏に阿万城を攻めたてられました。重朝の家来はちりぢりになり、重朝は阿万の正福寺(しょうふくじ)に駆け込んみました。しかし了海和尚(りょうかいおしょう)が、ここは安全ではないから福良(ふくら)まで逃げたほうがいいと言い、福良まで逃げてきた重朝は村人にお金を渡し、敵が探しにきても絶対に黙っていてくれと頼み、村人も絶対知らせないと約束をしました。 郷殿を探す梶原氏は福良までやってきて、城主らしき人が来なかったかと村人にたずねました。答えにつまった村人は大枚のお金をにぎらされ、つい重朝をかくまっていることをしゃべってしまいました。重朝は約束をやぶって話してしまった村人に恨みをいいながら、敵の手にかかるは恥と切腹して果ててしまいました。その後、阿万城主のたたりか、村に悪病がはやり村人は苦しみだしました。そこで村人たちは郷殿さんを祭る社を建ててねんごろに供養し、悪病もなくなったということです。

旧南淡町のおはなし

二月堂(にがつどう)のご本尊(ほんぞん)

播磨の国(はりまのくに)から朝夕淡路をながめていた聖徳太子(しょうとくたいし)は、弟子を連れて、淡路島に遊びにこられました。小さく見えていた淡路島が思いのほか大きいことにびっくりなさり、あまりに美しい島なので福良のはしまで来ました。せっかくなので有名な鳴門(なると)の渦潮(うずしお)を見て帰ることにし、すばらしい景観に見とれていた聖徳太子は、波間に木がただよっているのを発見しました。拾い上げてみると、釈仙壇(しゃくせんだん)というめずらしい香木だったので二月堂のご本尊にちょうどよいと考え、それに十一面観音像を刻んでお祭りしました。播磨国によく来ていた聖徳太子は、淡路の国や四国など、その道々その地の人々に仏教のありがたさを教えました。仏像を作り、お寺を建て、仏教を広め、世の平和と人々の幸せを祈られたのです。

旧南淡町のおはなし

所払(ところばら)いになった栄左衛門(えいざえもん)

御留野(おとめの)にはたくさんの鶴(つる)がとんできていました。御留野の中の鳥はどんな小鳥であっても絶対に取ってはならないとう厳しい決まりがありました。ところが、1度でいいから鶴の肉を食べてみたいと思った栄左衛門は、1羽ぐらいよいだろうと鶴を射殺してしまったのです。いざ鶴を前にすると、事のおそろしさに良心を責め続け、耐え切れず妻のオトクに打ち明けました。妻は驚き涙しましたが、殺した鶴は生き返るわけもなくどうにも取り返しがつきませんでした。 このことはだれも知らないと思っていたのに、栄左衛門は役人に捕まって問いつめられ、とうとう御留野での出来事を正直に話した栄左衛門は、一生の間所払いを命ぜられて淡路から追放されてしまいました。 オトクは栄左衛門の無事を願って1日も休むことなく南辺寺の地蔵様にお祈りを続けました。そのお地蔵様は、淡路に流された淳仁天皇の守り仏だといわれます。ある日、見知らぬお遍路(へんろ)さんが、淡路の国の栄左衛門とは出雲の国の宿で会い、大変元気だったと教えてくれました。オトクは喜び、武士の世の中がなくなり明治になってから、お遍路さんに聞いた道順に栄左衛門をたずね歩いて、播磨の寺々を回っていた栄左衛門と再会することができたのです。30年ぶりに出会った2人は、100万回も光明真言を唱(とな)えてお礼参りを続けました。栄左衛門の娘が父のために建てた供養塔は今も残っています。

旧南淡町のおはなし

鳴門(なると)の大太鼓(おおだいこ)
旧南淡町のおはなし

ものすごい地震が起き、足下がグラグラゆれ雷が1度に何十も落ちたような音がして、弥平(やへい)じいさんは気を失いました。やっと気のついた弥平じいさんに、みんながほっとしたとき、こんどは村の若者の吉助がまっ青になってかけてきて、鳴門の潮が干上がってしまったというのです。まさか、と村人たちは鳴門海峡の水を確かめようと門崎(とざき)に走ると、ほんとうに水はなくなっていました。人々はあまりのおそろしさにその場にへたりこみ、ふるえがとまりません。水のなくなった海を見ていると、海の底にあった大岩の上に怪物があらわれました。周(まわ)りが30メートルもありそうな石太鼓(いしだいこ)が大岩の上にのっかっています。鳴門の大渦のものすごい音は、この太鼓が鳴り響いていたのです。太鼓の周りの胴は青石、両面は水牛の皮で作られ、渦の模様(もよう)がはっきり出ています。これが鳴門の主で、さわるとたたりがあるというので誰も近寄らなかったのですが、ひとりの武士が罰などあたるはずがないと言って、福良のお寺で借りてきた太い撞木(しゅもく)でその石太鼓をたたきました。耳のこまくがさけそうな音とともに門崎の山がくずれ落ち岩はふっとび、鳴門の底から潮がふき出て、みるまに人びとは全部海にのまれ、石太鼓も潮にのまれて行方(ゆくえ)が分からなくなってしまいました。これは、630年ほど前のできごとだそうです。

旧緑町のおはなし

大蛇退治(だいじゃたいじ)
旧緑町のおはなし

くぐすが渕(ふち)におおぐちな(大蛇)がいて、朝になると馬が食べられてしまっていたり、芋(いも)畑をのたうちまわって荒らされたりと、村人たちを困らせていました。村人たちは領主の船越左衛門定氏(ふなこしさえもんさだうじ)に大蛇を退治してほしいとお願いにいき、定氏は必ず退治してあげようと言って倭文(しとおり)八幡宮に7日間こもり、一心にお祈りを続けました。 いよいよ大蛇退治をしに、定氏は家来を連れてくぐすが渕にやってきました。大声で渕の主を呼ぶと、小さい蛇が出てきて池の水面をぐるぐるまわり、本物の大蛇の正体を見せろと叫ぶと、池の水面がもり上がり大波が立ち、大渦になってまわりだしました。空も急にかきくもり大風が吹きはじめ、小さい蛇は消えて、天地がひっくり返るほどの大音とともに大蛇がぬうっと姿をあらわしました。腰をぬかすほど大きく、長さ30メートル太さ2メートルもある大蛇です。定氏が満身の力をふりしぼり矢をはなつと、のどの奥の方へと突きささりました。すると地震・雷・台風が1度にきたように荒れ、定氏の乗っていた馬はあばれて走り出し、大蛇が大きく口をあけ火を吹きながら追いかけてきます。定氏は近くの家に逃げこみ、大蛇は窓の横の大楠(おおくす)に登って中の気配をうかがっています。窓をあけ、大蛇ののど元めがけ2発目の矢をはなつと、はーっと毒気をはきながら大楠の上で息絶えました。定氏はそのときの蛇の毒気に当たって2日間もだえ苦しんで亡くなり、村人は泣きながら定氏のおとむらいをすませました。そして大蛇を切りきざんで埋めようとしましたが、途中でかわいそうになり安住寺の蛇渕の谷底へ運んでいきました。大蛇が登っていた大楠も毒気にあたり枯れてしまいましたが、六角井戸の枠にして残され、その井戸をうたったまりつき歌は今も古老にうたわれています。

旧緑町のおはなし

かっちん様(さま)
旧緑町のおはなし

中筋村大丸(なかすじむらだいまる)では、毎晩のように火事が起きていました。半鐘(はんしょう)がはげしく鳴らされ、火消しの組の人たちが消火にあたります。なぜこんなに頻繁(ひんぱん)に火事が起こるのか誰も心当たりがなく、20件ほどの村で既に13件も焼けてしまっていました。中には誰かがつけ火をしているのではないかと思うものや、狸か狐がついているのではないか、いや、神さんに悪いことをした罰だと言う人もいました。 ある雨の日にみんなで集まって、どうすれば火事がなくなるかを相談しました。ある村人が、京都に火の神様がいらっしゃると聞いたことがありそれは火ぶせの神様だというので、村人たちはすぐに神さんの火をもらってきて祭ろうと決めました。1番年をとったおじいさんが、火を絶やさずに持って帰るには火縄(ひなわ)に火をつけるのがよいと言って、布切れとわらををより合わせて長い長い縄を作りました。 火縄を持つ人たちは、白装束の姿で京都の目ざすお宮さんにたどり着き、わけを話しました。神主さんに神前でつけてもらった火を消さないように気をつけながら大丸まで火を運んで帰り、火をしずめる神様として祠の中にお祭りすると、1度も火事はおこらなくなったということです。火を鎮(しず)める神様を「火鎮」と書き、「かっちん様」とよんで今でも年に2回ここに集まってお祭りを続けています。

旧緑町のおはなし

枕返(まくらがえ)しのお不動様(ふどうさま)
旧緑町のおはなし

川底を掘りおこす作業をしていた五平さんは、鍬の先に何かがあたったので、音のしたところを掘り出してみました。驚いたことにお校に彫った不動様がでてきたのできれいに洗い、長田(ながた)の観音寺(かんのんじ)へ持っていきました。お寺さんもびっくり、すぐ洗って長いこと川底にいたお不動様を一心に拝み続けました。あるとき、高野山(こうやさん)からえらいお坊さんが観音寺の近くの平等寺(びょうどうじ)にいらっしゃったのでお不動様を見てもらったところ、弘法大師(こうぼうだいし)がお作りになったお不動様だとわかり、てあつく供養(くよう)をしました。みんなで回向(えこう)をした夜、弥平さんは南に頭を向け足を床(とこ)の方に向けて寝たはずが、朝目を覚ますと床の方に頭が向いているので驚きました。 20人みんなが知らないあいだに寝返り、くるっと向きが変わっていた、といううわさがだんだん広まり、物ずきな人が4、5人集まってお不動様に足を向けて寝たところ、朝起きると頭の向きがうわさどおり変わっていました。それから、この不思議な「枕返しのお不動様」をありがたがってお参りする人が遠方からもきているそうです。

旧緑町のおはなし

安住寺(あんじゅうじ)の薬師様(やくしさま)
旧緑町のおはなし

安住寺の村は小作が多く、食べるのにも困るほどでした。じいさまとばあさまの田は、稲が虫にやられ枯れてしまい、今年も年貢が払えそうにないのですっかり困っていました。じいさまは声をひそめ、安住寺の薬師様を売ってそのお金で年貢を払おうと思っている、と打ち明けました。ばあさまはびっくりしてとめたのですが、のたれ死にするよりは…というじいさまのせっぱつまった話に納得するほかありませんでした。 ある夜、ばあさまに見張りをさせ、安住寺の本堂から薬師様を盗み出したじいさまは、薬師様に謝りながらこっとう屋に売り、そのお金でたまっていた年貢を払いました。北方(きたかた)のお坊様がこの薬師様を買って持って帰ったところ、病気になって寝込んでしまい手当てをしてもよくなりません。薬師様が怒っているのだということで、高野山のお寺で預ってもらうことにしました。 それから夜中になると、寝ているお坊様の枕元に薬師様があらわれて「安住寺へ帰りたい」と言い続け、また「我は淡路国安住寺の本尊である」と言ったので、高野山のお坊様はびっくりして、すぐ安住寺に薬師様をお返しになったということです。 それから300年余りおまつりされているが、ある年の台風で本堂はつぶされたときも、薬師様はかすり傷1つ負いませんでした。現在も千体地蔵と共に本堂におまつりされています。

動画で見るむかしばなし

出演:濱岡きみこ(郷土史家)旭堂南陵(講談師)
場所:野の花工房

あわじのむかしばなしを動画で見られるよ、4つのなから選んでね

「札場のおまん狸」伝承地:淡路市(旧一宮町)

「叶堂観音の釣鐘」伝承地:南あわじ市(旧西淡町)

「狐の恩返し」伝承地:南あわじ市(旧南淡町)

「芝右衛門狸」伝承地:洲本市(旧洲本市)

監修・協力一覧

監修者
濱岡きみ子
協力者
(以下アイウエオ順)
  • 旭堂南陵
  • 佐藤忠昭
  • 野の花工房
  • 淡路市役所
  • 安住寺
  • 伊弉諾神宮
  • 開鏡山観音寺
  • 河南堂八宝斎
  • 国清弾寺
  • 堺寺
  • 慈雲山光明院観音寺
  • 慈光山引摂寺
  • 長泉寺
  • 松帆神社
  • 松帆山感応寺
  • 蓮台山八浄寺
  • ほか

監修者から

淡路島は、周囲が海に囲まれ、気候温暖な瀬戸内の島国で古くより海・山里の産物に恵まれました。そのため「御食国(みけつくに)」として天皇の食料を淡路の海人が運び、献上をしてきました。 これらにまつわる話も数多く『記・紀』にも記されている通りです。 海国淡路は明石・紀淡・鳴門の三海峡があり、これらは畿内へ入るのど首にも当り、それらに関する物語にも目を見張るものがあります。など国生み物語など神話と共に数多くの昔話が語り継いでこられました。これらを聞き歩いているとまさに文化遺産の豊庫だと思うようになりました。真っ黒にくすんだ太い大黒柱にもたれ藁(わら)仕事をしていた手を休めて語り聞かせてくれる古老です。笑おうが、どう語ろうがビクともしない額の深い溝に見入りながらメモをとり続けて参りました。古老の祈り、願い、孫や子の代までを案じる心のぬくもり、祀り続ける民間信仰の路傍の石仏。 「書いといてくれえや」私は一心に歩き続けています。発表した昔話は一〇〇〇話を超え、野帳にもそれくらい残っています。 知らぬまに六十年は、とうに過ぎました。今は採集を続けながら書き、機会のあるごとに語り続けています。足許の狸や狐話に児童だけなく施設の人も目を輝やかします。目の色を変える聞き手に夢中になって語ります。現在の世相を少しでも明るくするためにと願いながら伝承文化の記録、語りの行脚を続けていきます。

郷土史家 濱岡きみ子

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