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柳田国男館

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柳田国男を旅する

兵庫県福崎町で生まれた柳田国男は旅を通じて「民俗学」という新しい学問を創始した人です。
その出発点には、詩があり、文学がありました。故郷・福崎から”柳田国男の世界”を発見する旅を始めましょう。

旅の始まり

兵庫県と福崎

私は明治8年に兵庫県福崎町で生まれました。
13歳まで育った想い出の故郷を、まずは紹介しましょう。「私の家は日本一小さな家だ」ということを、
しばしば人に説いてみようとするが、じつは、この家の小ささ、という運命から、
私の民俗学への志も源を発したといってよいのである。

兵庫県福崎町地図 鈴の森神社 生家・松岡家 柳田国男・松岡家顕彰記念館 薬師堂 三木家 辻川の道 駒ヶ岩

鈴の森神社

……氏神の鈴の森神社があり、大きなやまももの樹があった。またを明神様ともいい、村人は赤ん坊が生まれると、みなその氏神に詣でて小豆飯を供えていた。その余りを一箸ずつ、集まって来た子供たちのさし出す掌の上にのせるのがならわしであり、村の童たちの楽しみでもあった。……私は後年この氏神様を偲んで、こんな歌を作ったことがある。
 うぶすなの 森のやまもも 高麗(こま)犬は
 懐しきかな もの言はねども(『故郷七十年』 鈴の森神社)

鈴の森神社
鈴の森神社
鈴の森神社の山桃の木故郷

生家・松岡家

辻川の街道に面して黒板塀があり、表の空き地には兄が永住の地と定めて、さまざまな花木を植えていた。白桃や八重桜などが、春ともなれば道ゆく人々の話題となるほどに、美しく咲ききそったものである。(『故郷七十年』 私の生家)
きっちりした形の小ささで、数字でいうと座敷が四畳半、間には唐紙があって隣りが四畳半の納戸、横に三畳ずつの二間があり、片方の入口の三畳を玄関といい、他の三畳の台所を茶の間と呼んでいた。(『故郷七十年』 私の生家)

生家・松岡家
写真提供:監修者
生家・松岡家2
生家・松岡家3

柳田国男・松岡家顕彰記念館

柳田国男は兵庫県福崎町の名誉町民第1号として選ばれました。そして生家の松岡家の建物が移転・保存されるとともに、生誕100年を記念して、「柳田國男・松岡家顕彰会記念館」が建てられました。記念館では松岡家5兄弟の著作や作品、原稿、写真など多数が収蔵・展示されています。
この記念館の隣には、旧神崎郡役所の建物を活かした「神埼郡歴史民俗資料館」があり、資料展示が行われています。

山桃忌

柳田国男と兄の井上通泰の命日にちなみ、毎年8月の第1ないし第2日曜日に、生家で「山桃忌(さんとうき)」が開催され、柳田国男ゆかりの方々が講演しています。「山桃」の名は、幼かった兄弟がよく遊んだ鈴の森神社のヤマモモの木に由来するもので、短歌にも出てくることから名付けられたものです。
※左の写真は第23回山桃忌(平成14年8月11日)、小嶋博巳ノートルダム清心女子大学教授の講演。

柳田国男・松岡家顕彰記念館
写真提供:監修者
柳田国男・松岡家顕彰記念館

薬師堂

薬師堂の床下は、村の犬が仔を産む場所で、腕白大将の私が見に行くと、いやでもその匂いを嗅ぐことになった。そのころ犬は家で飼わず村で飼っていたので、仔が出来る時はすぐに判った。その懐しい匂いがいまも在井堂のたたずまいを想い起すたびに、うつつに嗅がれるようである。(『故郷七十年』 鈴の森神社)

薬師堂について(解説)

この薬師堂には空井戸があり、地元では「在井堂」(ありいどう)という名で呼ばれています。足利時代の書とされる『峯相記』(みねあいき)にも登場するこの堂は、柳田の生家裏の竹藪をへだてた道端にあり、柳田自身が『故郷七十年』に「私がいつまでも忘れえない思い出の場所でもある」と記しています。

薬師堂

三木家について

柳田国男が11歳の頃に預けられた三木家は、江戸時代中頃から姫路藩の大庄屋を勤めていました。大庄屋とは代官・郡代の指揮のもと、十数カ村から二十数カ村もの庄屋(納税や事務を統括した村落の長)を統括する役職でした。
三木家の家屋敷は戦火に遭わず現在まで至り、当時の大庄屋の屋敷構えを知ることができる貴重な文化遺産として、「兵庫県指定重要文化財(建造物)」となっています。

三木家について
三木家について
柳田少年が本を読みふけったといわれる2階の間(非公開)

辻川の道

辻川の道は、文字通り交差しておった。北条の方から村に入って貫通する東西の道に、南方の長目(ながめ)や吉田(よした)の方から伸びて北上する道が交わっていた。私の旧家はその角の所にあった。……堰溝(ゆみぞ)という灌漑用水の掘鑿に伴って作られた、南北に溝と平行する道もあったという風に、辻川の道は幾度かの変遷を重ねているのである。
(『故郷七十年』 川舟交通)

辻川の道
写真提供:監修者

駒ヶ岩

辻川あたりでは河童はガタロというが、随分いたずらをするものであった。子供のころに、市川で泳いでいるとお尻を抜かれるという話がよくあった。それが河童の特徴なわけで、私らの子供仲間でもその犠牲になったものが多かった。毎夏一人ぐらいは、尻を抜かれて水死した話を耳にしたものである。市川の川っぷちに駒ケ岩というのがある。……高さ一丈もあったであろう。それから石の根本が水面から下へまた一丈ぐらいあって、蒼々とした淵になっていた。そこで子供がよく死ぬのである。私ももう少しで死にかかった経験がある。(『故郷七十年』 駒ヶ岩の河太郎)

駒ヶ岩
かつての駒ヶ岩
(『柳田国男アルバム原郷』より 写真提供:宮崎修二郎)
現在の駒ヶ岩
(平成14年撮影)
駒ヶ岩
旅のテキスト『故郷七十年』
柳田国男と松岡家5兄弟
故郷の今に生きる柳田国男
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見知らぬ土地へ 兵庫から関東へ

旅のテキスト

故郷七十年
故郷七十年

本書は、柳田の出身地である兵庫県の「神戸新聞」に、昭和33年1月から9月まで連載された記事がもとになっています。84歳の柳田が、神戸新聞の要請に応じて少年の頃のことやわが身の生い立ちを追想し、その語りを筆記したものです。
生まれ故郷の辻川の思い出や、家族のことなどが語られ、のちに柳田が民俗学への志を持つことに影響を与えた出来事などがうかがえます。

遠野物語
遠野物語

岩手県遠野市に伝わる河童やオシラサマ・山の神などの話を、遠野の人・佐々木喜善から柳田が聞き取り、その文学的な筆致で著した書です。明治43年、柳田国男が36歳のことであり、前年の『後狩詞記』出版に続き、日本民俗学の出発点と評されています。
柳田は出版の前年に初めて遠野を訪れ、その感慨を序文で叙情的に記しています。

後狩詞記
後狩詞記

明治41年、34歳の柳田は、法制局参事官の出張で、平家落人伝説が伝わる宮崎県の奥深い山村・椎葉村を訪れました。この旅が、彼自身が日本民俗学に目覚める契機となったといえます。その折、柳田は椎葉家の狩猟文書に心惹かれ、その写しとともに椎葉村村長・中瀬淳がまとめた狩猟の方法などを加えて序文を付し、本書を著しました。
本書名に冠された「後」は、15世紀中頃に記された狩猟の記録・「狩詞記」に因んだものです。

海上の道
海上の道

昭和36年、柳田87歳の最晩年に刊行された著書です。ニライカナイや常世の国など海上他界観について記した「みろくの船」「根の国の話」「海神宮考」、海を渡る移住について思考した「宝貝のこと」など、昭和25年から35年にかけて発表された論文が収録されています。
巻頭論文の「海上の道」は、日本人が稲を携え海上の道をたどって南方から移住してきたことを考察していますが、柳田は最晩年になって、日本人・日本文化の起源とその伝播についての著述をまとめました。本書の出版の翌年、柳田は88歳でその生涯を閉じました。

妖怪談義
妖怪談義

河童や天狗、化かし狸……。人々の間で語り継がれてきた、この世ならぬ不思議なものたちに、柳田は日本人の心意や世界観が表出されていると見て、民俗学の研究対象として扱いました。本書は昭和31年、柳田が82歳の時に出版されたものです。

野辺のゆきゝ

明治30年、新体詩集『抒情詩』(国木田独歩らとともに出版)に所収された、柳田の詩集。当時は結婚前であり、23歳の青年・松岡国男の名前でした。『野辺のゆきゝ』は恋愛詩ですが、その中にみえる他界願望は、のちに民俗学者としての柳田が、ニライカナイや常世の国など日本人の他界観について追求したことに通底すると考えられています。

先祖の話

太平洋戦争末期の昭和19年11月から翌20年7月にかけて執筆されました。柳田民俗学の中核である「祖霊信仰論」が集大成され、日本人の精神文化の基層に、先祖・祖霊への信仰が潜むことが提示されています。

妹の力

柳田は、日本人の生活の中で女性が果たしてきた役割に強く注目しました。本書では、女性の霊的な力に特に関心を示し、巫女(みこ)や南島において姉妹が兄弟を守護するオナリ神信仰などの紹介を通じ、女性が持つ霊力を抽出してみせました。

村の姿

多くの日本人が生活の舞台としてきた村には、家はもちろんのこと、田や山にもカミが宿っていました。そしてまた、先祖の魂が送られまた迎えられる空間が村であることを、柳田は著述しています。

こども風土記

「子どもは7歳までは神のうち」といわれ、カミに代わって人々に祝福や霊力を与える存在でもありました。そのことを看破した柳田は、子どもについて、また子どもに向けた著述を数多く遺しています。

山田国男と松岡家5人兄弟

松岡家について(解説)

柳田国男の生家・松岡家は、江戸時代の初めに播州地方の西部から辻川に移り住み、医学を家業とする家でした。国男は賢次(明治維新後に操と改名)とたけの6番目の子として明治8年に生まれています。父・操(1832年~1896年)は家業を継ぎ医者となりましたが、姫路の学校で漢学を教授する知識人であり、また国学に共鳴する神道家でした。母たけ(1840年~1896年)は、隣町の北条町(現・加西市)に生まれ、武家奉公をした後に松岡家に嫁ぎ、子供たちを育てました。
2人は明治22年、長男・鼎が住む茨城県利根町布川に移住・同居(後に次兄・井上通泰宅に同居)しますが、明治29年、相次いで他界しました。国男が22歳の時でした。こののち国男は明治34年、大審院(現在の最高裁判所)判事を務める柳田直平(なおひら)に養嗣子(ようしし:家督相続人となる養子)入籍して柳田姓を名乗り、明治37年には直平の4女、孝(たか)と結婚しました。

  • 松岡 鼎
  • 井上 通泰
  • 松岡 静雄
  • 松岡 輝夫
松岡 鼎
写真提供:姫路文学館
松岡 鼎(まつおか・かなえ) 医師 1860年~1934年

長男。師範学校に入り20歳で郷里の小学校長を務めましたが、23歳で東京帝国大学医学部に入学し、医師としての道を歩みました。28歳の時に茨城県布川町(現・利根町布川)で開業すると国男をこの地に引き取り、面倒をみました。その後、千葉県布佐町(現・我孫子市布佐)に転居して医業に携わる一方で、東葛飾郡会議員、布佐町長を務めるなど地方行政にも尽力しました(75歳で逝去)。国男は民俗学という学問へと向かった一因として、鼎の結婚の失敗を挙げています。

井上 通泰
写真提供:姫路文学館
井上 通泰(いのうえ・みちやす) 歌人 1866年~1941年

3男。12歳で医師・井上碩平(せきへい)の養子となり、井上姓になりました。東京帝国大学医科大学を卒業して眼科医としての道を歩みましたが、一方では森鴎外らと歌会を結成するなど歌人としても著名で、御歌所寄人(おうたどころよりうど)、宮中顧問官なども務めました。また史学にも造詣が深く、晩年には万葉集や風土記の研究に携わりました。著書に『南天荘歌集』『萬葉集新考』『播磨國風土記新考』など(76歳で逝去)。国男は通泰を通じて文学者たちと親しみ、鴎外などとも知遇を得ることができたのです。

松岡 静雄
写真提供:姫路文学館
松岡 静雄(まつおか・しずお) 言語学者 1878年~1936年

7男。海軍兵学校を首席で卒業し、日露戦争、第1次世界大戦に従軍し海軍大佐となりましたが、病のため41歳で退官します。その後は国男の協力を得て民族学や言語学、国学など幅広い学問をおさめ、多くの著作を著しました。主な著書に『太平洋民族誌』『日本言語学』『播磨風土記物語』『日本古語大辞典』などがあります(59歳で逝去)。言語学の分野で、国男に与えた影響も大きなものがあります。

松岡 輝夫
写真提供:姫路文学館
松岡 輝夫(まつおか・てるお) 日本画家 1881年~1939年

8男。雅号・映丘(えいきゅう)。東京美術学校日本画家を首席で卒業し、母校の教授となりました。西洋文化が席巻した時代にあって、大和絵の伝統を蘇らせることに尽力し、日本画の研鑚と発展にかけた生涯でした。日本画壇の重鎮として大きな影響を与え、門下から多くの画家を輩出しています。作品に「室君」「明治神宮舞楽の図」「大三島」など(58歳で逝去)。その門下には、のちに国男の指導を受け民俗学者となった早川孝太郎がいます。

故郷の今に生きる柳田国男

柳田国男・松岡家顕彰記念館
柳田国男・松岡家顕彰記念館

柳田国男は兵庫県福崎町の名誉町民第1号として選ばれました。そして生家の松岡家の建物が移転・保存されるとともに、生誕100年を記念して、「柳田國男・松岡家顕彰会記念館」が建てられました。記念館では松岡家5兄弟の著作や作品、原稿、写真など多数が収蔵・展示されています。
この記念館の隣には、旧神崎郡役所の建物を活かした「神埼郡歴史民俗資料館」があり、資料展示が行われています。

柳田国男・松岡家顕彰記念館
山桃忌

柳田国男と兄の井上通泰の命日にちなみ、毎年8月の第1ないし第2日曜日に、生家で「山桃忌(さんとうき)」が開催され、柳田国男ゆかりの方々が講演しています。「山桃」の名は、幼かった兄弟がよく遊んだ鈴の森神社のヤマモモの木に由来するもので、短歌にも出てくることから名付けられたものです。
※左の写真は第23回山桃忌(平成14年8月11日)、小嶋博巳ノートルダム清心女子大学教授の講演。

見知らぬ土地へ

両親と別れ、故郷を離れた明治20年。
都会の光景に新鮮な驚きを覚えながら、第二の故郷へと向かいました。

北条から布川へ

今のメリケン波止場の辺かと思うが、そこからハシケの出る桟橋がつき出て、はるか沖の方に船がかかっていた。たしかそれは日清戦争にも働いた「山城丸」で、二千三百トンだった。「二千トン以上の船にのるのだ」という誇りめいた興奮から、船に乗りこんでも、船酔いどころかすべてが珍しく、よく眠れないほどで、立入禁止区域に入っては一等船室の西洋人をのぞき見したり、すべてが意外のことばかりであった。これが私の世の中を見たはじめであった。
(『故郷七十年』故郷を離れたころ)

メリケン波止場
(昭和6年 写真提供:平岡徳太郎)
第2の濫読時代を過ごした布川の小川家の土蔵
(写真提供:監修者)

はじめての東京

長い旅の疲れで、兄の下宿に着くとその夜はくたびれてゆっくり眠ってしまった。
翌朝は早く起きると、東京はどんな所だろうと、兄が眠っている間に本郷の通りに出た。いまもその本郷の朝の景色が記憶に残っているが、まだ当時は電灯がなく、ガス灯の時代で、脚立(きゃたつ)をもった人夫が点灯して回る時代であった。いまとはまるで違ったガス灯が夜明けのひっそりした街に点っている当時の光景が、私の東京風景の第一印象であった。
(『故郷七十年』東京の印象)

本郷三丁目(明治40年頃)
(図書刊行会 写真提供:真砂図書館)
本郷三丁目から中央会堂を望む(明治30年頃)
(図書刊行会 写真提供:文京ふるさと歴史館)

とまどいと驚き

私は十三歳で茨城県布川(ふかわ)の長兄の許に身を寄せた。兄は忙しい人であり、親たちはまだ播州の田舎にいるという淋しい生活であったため、私はしきりに近所の人々とつき合って、土地の観察をしたのであった。……
最初驚いたのは子供らがお互の名を呼び捨てにすることであった。トラ、クマといったような呼び方は、播州の方では従兄弟か伯叔父甥、あるいは兄弟でなければしなかったのであるから、私にすれば、彼らがみな親戚の間柄だと思ってしまったのである。ところがそうではなく、ただ一緒に育ったというだけである。それも子供同士であれば符号みたいなものでいいわけだが、大人たちもやはり、他家の子を呼び捨てにする。
(『故郷七十年』布川のこと)

写真集『利根川高瀬船』より
資料番号86「筑波山の眺望」
(写真提供:千葉県立大利根博物館)

絵馬のこと

約二年間を過した利根川べりの生活で、私の印象に最も強く残っているのは、あの河畔に地蔵堂があり、誰が奉納したものであろうか、堂の正面右手に一枚の彩色された絵馬が掛けてあったことである。
その図柄は、産褥の女が鉢巻を締めて生まれたばかりの嬰児を抑えつけているという悲惨なものであった。障子にその女の影絵が映り、それには角が生えている。その傍に地蔵様が立って泣いているというその意味を、私は子供心に理解し、寒いような心になったことを今も憶えている。
(『故郷七十年』布川のこと)

布川・徳満寺の子がえし(間引き)の絵馬
(写真提供:徳満寺)

詩と文学への旅

私も青春時代には詩や歌を書き、文学を志す仲間との交流をはかったものです。

幼少期・布川「ある神秘的な暗示」

小川家のいちばん奥の方にすこし綺麗な土蔵が建てられおり、その前に二十坪ばかりの平地があって、二、三本の木があり、その下に小さな石の祠(ほこら)の新しいのがあった。聞いてみると、小川という家はそのころ三代目で、初代のお爺さんは茨城の水戸の方から移住して来た偉いお医者さんであった。その人のお母さんになる老媼を祀ったのがこの石の祠だという話で、つまりお祖母さんを屋敷の神様として祀ってあった。

この祠の中がどうなっているのか、いたずらだった十四歳の私は、一度石の扉をあけてみたいと思っていた。たしか春の日だったと思う。人に見つかれば叱られるので、誰もいない時、恐る恐るそれをあけてみた。そしたら一握りくらいの大きさの、じつに綺麗な蝋石の珠が一つおさまっていた。その珠を、ことんとはめ込むように石が彫ってあった。後で聞いて判ったのだが、そのおばあさんが、どういうわけか、中風で寝てからその珠をしょっちゅう撫でまわしておったそうだ。……

その美しい珠をそうっと覗いたとき、フーッと興奮してしまって、何ともいえない妙な気持になって、どうしてそうしたのか今でもわからないが、私はしゃがんだまま、よく晴れた青い空を見上げたのだった。するとお星様が見えるのだ。今も鮮やかに覚えているが、じつに澄み切った青い空で、そこにたしかに数十の星を見たのである。昼間見えないはずだがと思って、子供心にいろいろ考えてみた。そのころ少しばかり天文のことを知っていたので、今ごろ見えるとしたら自分らの知っている星じゃないんだから、別にさがしまわる必要はないという心持を取り戻した。

……だれもいない所で、御幣か鏡が入っているんだろうと思ってあけたところ、そんなきれいな珠があったので、非常に強く感動したものらしい。そんなぼんやりした気分になっているその時に、突然高い空で鵯(ひよどり)がピーッと鳴いて通った。そうしたらその拍子に身がギュッと引きしまって、初めて人心地がついたのだった。あの時に鵯が鳴かなかったら、私はあのまま気が変になっていたんじゃないかと思うのである。
(『故郷七十年』 ある神秘な暗示)

野辺のゆきゝ

「夕ぐれに眠のさめし時」

うたて此世はをぐらきを何しにわれはさめつらむ、いざ今いち度かへらばや、うつくしかりし夢の世に、

(『野辺のゆきゝ』
夕ぐれに眠のさめし時)

「暁やみ」

君がかど辺をさまよふはちまたの塵を吹きたつる嵐のみとやおぼすらむ、其あらしよりいやあれにその塵よりも乱れたる恋のかばねを暁のやみは深くもつゝめるを、君がかきねの草の葉に
おきてはかわく朝露に力無きわが夜もすがら泣きし涙もまじれりと誰かは知らん、神ならぬ、とてもはかなき恋なれば月も日もなき闇の中をなきては帰り来ては泣きわが世は尽きむかくながら、……………………

(『野辺のゆきゝ』 暁やみ)

やしの実

「椰子(やし)の実」
名も知らぬ 遠き島より
  流れ寄る 椰子(やし)の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を 離(はな)れて
  汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき)
…………………(後半略)…………………
(島崎藤村「やしの実」)

…私は明治三十年の夏、まだ大学の二年生の休みに、三河の伊良湖崎(いらござき)の突端に一月余り遊んでいて、このいわゆるあゆの風の経験をしたことがある。
 ……
 今でも明らかに記憶するのは、この小山の裾(すそ)を東へまわって、東おもての小松原の外に、舟の出入りにはあまり使われない四五町ほどの砂浜が、東やや南に面して開けていたが、そこには風のやや強かった次の朝などに、椰子(やし)の実の流れ寄っていたのを、三度まで見たことがある。一度は割れて真白な果肉の露(あら)われいるもの、他の二つは皮に包まれたもので、どの辺の沖の小島から海に泛(うか)んだものかは今でも判らぬが、ともかくも遙かな波路を越えて、まだ新しい姿でこんな浜辺まで、渡って来ていることが私には大きな驚きであった。
 この話を東京に還(かえ)って来て、島崎藤村君にしたことが私にはよい記念である。今でも多くの若い人たちに愛誦せられている「椰子の実」の歌というのは、多分は同じ年のうちの製作であり、あれをもら貰(もら)いましたよと、自分でも言われたことがある。
(『海上の道』 海上の道 一)

文学者との交流

  • 森 鴎外
  • 田山 花袋
  • 国木田 独歩
  • 泉 鏡花
森 鴎外

医者で、文学に親しむというところから、井上の兄は森鴎外さんとつき合って『しがらみ草紙』『めざまし草』以来いろいろと協力していた。私が十代の子供のころ、秋元安民伝を『めざまし草』に寄稿したのも、兄との関係からであった。
………
森さんという人は、私どもには大きな影響を与えた人であった。……森さんはこちらの方に降りて来て、いろいろと相談に乗ってくれる人だったから、本当にありがたかったと思っている。たとえば本一冊読むのにも、こちらの立場まで戻って来て探してくれたりした。
(『故郷七十年』鴎外に知らる)

柳田国男は15歳の頃、実兄の井上通泰の紹介によって森鴎外のところへ出入りするようになります。森鴎外によって柳田国男は西欧文学に開眼し、文学的感性を磨いたばかりではなく、人間的にも「大きな影響」を与えた存在だと言えるでしょう。

田山花袋

田山の若い頃は、母親も兄も苦労している中で、花袋は英語だけを勉強した。いい男であったし、殊に私は歌の方で早くから松浦先生の所で相知り、一緒に紅葉会を作っていた昔馴染だから、終始後押しをしていた。
……
少し固すぎる位真面目な人間が、後生大事に小説を書いている、それが田山だった。
(『故郷七十年』 田山花袋の作品)

柳田国男は16歳の頃、正式に和歌を学び始めますが、そこで田山花袋と知り合いました。日本における自然主義文学の先駆者の一人である田山花袋の数々の作品に、柳田自身がモデルとして登場しています。

国木田独歩

……本郷の大学前にあった喜多床という床屋の前を私が歩いていると、後から田山花袋がやって来て、「おい」といって私の肩を叩いてから、「君に会いたがっている奴があるからいっしょに行かないか」という。「誰だい」ときくと、「国木田って男だ」「それは面白いねえ」といって、いっしょに会ったのが、たしか明治二十九年の秋だった。
(『故郷七十年』 国木田独歩の想い出)

自然主義文学の先駆者として評される国木田独歩について柳田国男は、「彼の生涯が一つの時代であり、彼の事業が一つの伝統として、永く世に留まるべきものであった」(国木田独歩小伝)と追悼しています。

泉鏡花

大学の一番運動場に近い、日当りのいい小さな四人室で、いつの年でも卒業に近い上級生が入ることになっていた部屋があった。空地に近く、外からでも部屋に誰がいるかがよく判るような部屋である。その時分私は白い縞の袴をはいていたが、これは当時の学生の伊達であった。ある日こんな恰好で、この部屋の外を通りながら声をかけると、多分畔柳茶舟君だったと思うが、「おい上らないか」と呼んだので、窓に手をかけ一気に飛び越えて部屋に入った。偶然その時泉君が室内に居合せて、私の器械体操が下手だということを知らないで、飛び込んでゆく姿をみて、非常に爽快に感じたらしい。
……泉君の『湯島詣』という小説のはじめの方に、身軽そうに窓からとび上る学生のことが書いてあるが、あれは私のことである。
(『故郷七十年』 泉鏡花)

ロマン主義文学に独自の世界を開いた泉鏡花は、柳田国男にとって「生涯懇意にした友人の一人」でした。また『夜叉ケ池』『山海評判記』などの泉鏡花の作品では、柳田国男がモデルであるとうかがえる人物が登場します。

旅への目覚め

宮城県の椎葉村を訪れました。「山人」の狩猟生活が、
民俗学に対する興味のきっかけとなったのかもしれません。

福岡から久留米に行き、矢部川を溯って肥後に入った。阿蘇から熊本、天草、鹿児島から宮崎に行き、近ごろ評判の椎葉山まで足をのばした。東京の人間で椎葉村へ入ったのは、私が最初のようにいわれたが、ともかくいたる所で大変な歓迎をうけた。その時の土産が、後に珍本になった『後狩詞記』である。今日ではこれが日本の民俗学の出発点のようにいわれているが、この本はその時の旅費がわずかばかりあまったので自費出版したものであった。たしか五十部ぐらいしか刷らなかったと思う。(『故郷七十年』九州の旅・北国の旅)

  • 狩猟と山の神祭
  • 焼畑
  • 稗ちぎり

山神祭文猟直しの法

抑(そもそも)山の御神数を申せば千二百神本地薬師如来にておはします観世音菩薩の御弟子阿修羅(あしゅら)王緊那羅(きんなら)王(まごら)王と申仏は日本の将軍に七代なりたまふ天の浮橋の上にて山の神千二百生れ玉ふ也此山の御神の母御名を一神の君と申す此神さんをして三日までうぶはらをあたゝめず此浮橋の上に立玉ふ時大摩の猟師毎日山に入り狩をして通る時に山の神の母一神の君に行あひ玉ふとき我さんをして今日三日になるまでうぶはらをあたゝめず汝が持ちし割子を少し得さすべしと仰せける大摩申けるは事やうゝゝ勿体なき御事也此わり子と申は七日の間行を成し十歳未満の女子にせさせてんから大にもくれじとて天上にあげひみちこみちの袖の振合にも不浄の日をきらひ申す全く以て参らすまじとて過にけり(『後狩詞記』狩之巻(椎葉家文書写))

(写真提供:椎葉民俗芸能博物館)
《解説》
猟師と山の神祭

四方を山に囲まれた椎葉村では、山の神への信仰は非常に厚く、正月・5月・9月の各16日に山の神祭が行われます。神木の根元に新しい山の神の御幣(ごへい)を立て、御神酒をかけるなどして祀ります。特に猟師からの信仰は厚く、定期的な祭りのほか猪などの獲物が捕れた時には、山の神に獲物の一部を捧げることが習わしとなっています。

(写真提供:椎葉民俗芸能博物館)
《解説》
椎葉神楽の板起こし

椎葉村では26カ所の地区に神楽が伝承され、冬の寒い時期に行われています。この椎葉神楽のすべてに「板起こし」という演目があります。これは神楽の開始に先立ち、包丁で鹿や猪の肉を切って参列者に分けるもので、椎葉村がいかに狩猟と深く関わってきたかをうかがうことができます。
(写真は大河内地区)

焼畑

 かくのごとき山中にあっては、木を伐(き)っても炭を焼いても大なる価を得ることができぬ。茶は天然の産物であるし、椎茸(しいたけ)には将来の見込みがあるけれども、主たる生業はやはり焼畑の農業である。九月に切って四月に焼くのを秋藪(あきやぶ)といい、七月に切り込んで八月に焼くのを夏藪という。焼畑の年貢は平地の砂原よりも低いけれど、二年を過ぐれば土が流れて稗(ひえ)も蕎麦(そば)も生えなくなる。九州南部では畑の字をコバと訓(よ)む。すなわち火田のことで常畠(じょうばた)・熟畠の白田(しろた)と区別するのである。木場切のためには山中の険阻に小屋を掛けて、蒔(ま)く時と苅る時と、少くも年に二度はここに数日を暮らさねばならぬ。(『後狩詞記』 序)

(写真提供:椎葉民俗芸能博物館)
《解説》

山深い椎葉村は9つの峠に囲まれ、平地はごくわずかです。椎葉村の人々は、狩猟のほか、こうした山の斜面に火を放つ焼畑を中心とした暮らしを昭和30年ごろまで営んできました。山を焼くことによって畑地と肥料としての灰を得るほか、地力向上などの効果がありました。

(写真提供:椎葉民俗芸能博物館)
《解説》

椎葉村では26カ所の地区に神楽が伝承され、冬の寒い時期に行われています。椎葉神楽では、米のほか稗・粟・大豆・小豆(あずき)などをまく演目が多く見られますが、これは祓(はら)い清めの意味があると考えられています。写真は不土野地区に伝わる「みくま」の演目で、盆に盛られた米(かつては稗・粟など)をまくところです。稗・粟などをまく背景には、焼畑文化が息づいているといえます。

稗ちぎり

……その先には平和なる高山が聳(そばだ)って、椎葉村はその山のあなた中央山脈の垣の内で、肥後の五箇荘(ごかのしょう)とも嶺を隔てて隣である。肥後の四郡と日向の二郡とがこの村に境を接し、日向を横ぎる四の大川は共にこの村を水上としている。村の大きさは壹岐(いき)よりははるかに大きく隠岐(おき)よりは少し小さい。しかも村中に三反とつづいた平地はなく、千余の人家はたいてい山腹を切り平らげておのおのその敷地を構えている。……阿蘇から行くにも延岡(のべおか)・細島ないしは肥後の人吉(ひとよし)から行くにも、四周の山道はすべて四千尺内外の峠である。(『後狩詞記』 序)

(写真提供:椎葉民俗芸能博物館)
《解説》

焼畑は4年周期ぐらいの輪作で栽培作物を替えますが、栽培の中心は稗(ひえ)・粟であり、それらが長い間、椎葉村の人々の主食でした。「ちぎり」とは稗を根元から刈るのではなく、穂先で収穫する作業のことです。稗は、稗飯や稗粥、稗ズーシイー(雑炊)にして食されました。

(写真提供:椎葉民俗芸能博物館)
《解説》

椎葉は民謡「稗搗(ひえつ)き節」の里としても知られています。これは稗を踏臼(足で踏んで動かす杵で、穀物を脱穀などする臼)で搗き、殻をとっているところです。この労働のリズムに合わせて、また労働のリズムを整えるために「稗搗き節」が謡われました。

遠野への旅

土地に伝わる伝説や昔話をたくさん教えられました。
それらは実に印象深く、感じたままに書き起こしたものが『遠野物語』です。
昨年八月の末自分は遠野郷に遊びたり。花巻より十余里の路上には町場三ヶ所あり。
その他はただ青き山と原野なり。人煙の稀少なること北海道石狩の平野よりも甚だし。あるいは新道なるがゆえに
民居の来たり就ける者少なきか。遠野の城下はすなわち煙花の街なり。(『遠野物語』序文)

遠野地図 天ケ森 山人 サムトの婆 サムトの婆 遠野ふるさと村 オシラサマ ザシキワラシ オクナイサマ ダンノハナ ダンノハナ カッパ淵 カッパ淵 デンデラ野 デンデラ野 佐々木喜善 愛宕神社 とおの昔話村 伊豆権現

天ヶ森=天狗の森

松崎村に天狗森(てんぐもり)という山あり。その麓なる桑畠にて村の若者何某という者、働きていたりしに、しきりに睡(ねむ)くなりたれば、しばらく畠の畔(くろ)に腰掛けて居眠りせんとせしに、きわめて大なる男の顔は真赤なるが出で来たれり。若者は気軽にて平生相撲(すもう)などの好きなる男なれば、この見馴れぬ大男が立ちはだかりて上より見下すようなるを面悪(つらにく)く思い、思わず立ち上りてお前はどこから来たかと問うに、何の答もせざれば、一つ突き飛ばしてやらんと思い、力自慢のまま飛びかかり手を掛けたりと思うや否や、かえりて自分の方が飛ばされて気を失いたり。夕方に正気づきて見ればむろんその大男はおらず。家に帰りて後人にこの事を話したり。その秋のことなり。早池峯の腰へ村人大勢とともに馬を曳(ひ)きて萩(はぎ)を苅りに行き、さて帰らんとする頃になりてこの男のみ姿見えず。一同驚きて尋ねたれば、深き谷の奥にて手も足も一つ一つ抜き取られて死していたりという。今より二三十年前のことにて、この時の事をよく知れる老人今も存在せり。天狗森には天狗多くいるということは昔より人の知るところなり。
(『遠野物語』 九〇)

天ヶ森=天狗の森
天ヶ森

山人

 山々の奥には山人住めり。栃内(とちない)村和野(わの)の佐々木嘉兵衛(かへえ)という人は今も七十余にて生存せり。この翁(おきな)若かりし頃猟をして山奥に入りしに、遙かなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を梳(くしけず)りていたり。顔の色きわめて白し。不敵の男なれば直ちに銃(つつ)を差し向けて打ち放せしに弾(たま)に応じて倒れたり。そこに馳け付けて見れば、身のたけ高き女にて、解きたる黒髪はまたそのたけよりも長かりき。後の験(しるし)にせばやと思いてその髪をいささか切り取り、これを綰(わが)ねて懐に入れ、やがて家路に向いしに、道の程にて耐(た)えがたく睡眠を催しければ、しばらく物蔭に立ち寄りてまどろみたり。その間夢と現(うつつ)との境のようなる時に、これも丈の高き男一人近よりて懐中に手を差し入れ、かの綰ねたる黒髪を取り返し立ち去ると見ればたちまち睡(ねむ)りは覚めたり。山男なるべしといえり。
(『遠野物語』 三)

山人

サムトの婆

黄昏(たそがれ)に女や子供の家の外に出ている者はよく神隠しにあうことは他(よそ)の国々と同じ。松崎村の寒戸(さむと)という所の民家にて、若き娘梨(なし)の樹の下に草履(ぞうり)を脱ぎ置きたるまま行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、ある日親類知音(ちいん)の人々その家に集りてありしところへ、きわめて老いさらぼいてその女帰り来たれり。いかしにして帰って来たかと問えば人々に逢いたかりしゆえ帰りしなり。さらばまた行かんとて、再び跡を留(とど)めず行き失(う)せたり。その日は風の烈(はげ)しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、きょうはサムトの婆(ばあ)が帰って来そうな日なりという。
(『遠野物語』 八)

サムトの婆

スポット紹介
若い娘が神隠しにあい、何年も経った大風の日に、山姥(やまんば)に変わりはてた姿で現れた……。『遠野物語』でも特に有名な物語の舞台とされている場所がここで、明治維新前後、六角牛(ろっこうし)山の主に引き寄せられてのことと語り継がれています。
地元では、冬の前触れとなる風の強い日を「サムトの婆の帰ってきそうな日」と語り伝えてきました。

サムトの婆
サムトの婆の石碑、このあたりで実際にあった話と伝えられています
サムトの婆
石碑周辺の風景

遠野ふるさと村

スポット紹介
遠野の農村が昔ながらの姿で保存され、山里の暮らしが体感できる施設。
この地方特有の「曲り家」と呼ばれる、母屋と馬屋が一体となったL字型の住宅が数多く残されています。

遠野ふるさと村
遠野の典型的な曲がり家
遠野ふるさと村
遠野ふるさと村

オシラサマ

今の土淵村には大同(だいどう)という家二軒あり。山口の大同は当主を大洞万之丞(おおほらまんのじょう)という。この人の養母名はおひで、八十を超えて今も達者なり。佐々木氏の祖母の姉なり。魔法に長じたり。まじないにて蛇を殺し、木に止れる鳥を落しなどするを佐々木君はよく見せてもらいたり。昨年の旧暦正月十五日に、この老女の語りしには、昔ある処に貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜になれば廐舎(うまや)に行きて寝(い)ね、ついに馬と夫婦になれり。ある夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋(すが)りて泣きいたりしを、父はこれを悪(にく)みて斧(おの)をもって後より馬の首を切り落せしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇(のぼ)り去れり。オシラサマというはこの時よりなりたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にてその神の像を作る。その像三つありき。本(もと)にて作りしは山口の大同にあり。これを姉神とす。中にて作りしは山崎の在家権十郎(ざいけごんじゅうろう)という人の家にあり。佐々木氏の伯母が縁付きたる家なるが、今は家絶えて神の行方を知らず。末にて作りし妹神の像は今附馬牛村にありといえり。
(『遠野物語』 六九)

オシラサマ
オシラサマ(遠野ふるさと村)

ザシキワラシ

 旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二三ばかりの童児なり。折々人に姿を見することあり。土淵村大字飯豊(いいで)の今淵勘十郎(いまぶちかんじゅうろう)という人の家にては、近き頃高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、ある日廊下にてはたとザキシワラシに行き逢い大いに驚きしことあり。これはまさしく男の児なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物しておりしに、次の間にて紙のがさがさという音あり。この室は家の主人の部屋にて、その時は東京に行き不在の折なれば、怪しと思いて板戸を開き見るに何の影もなし。暫時(しばらく)の間坐りておればやがてまたしきりに鼻を鳴らす音あり。さては座敷ワラシなりけりと思えり。この家にも座敷ワラシ住めりということ、久しき以前よりの沙汰(さた)なりき。この神の宿りたもう家は富貴自在なりということなり。
(『遠野物語』 一七)

オクナイサマ

部落には必ず一戸の旧家ありて、オクナイサマという神を祀(まつ)る。その家をば大同(だいどう)という。この神の像は桑の木を削りて顔を描き、四角なる布の真中に穴を明け、これを上より通して衣装とす。正月の十五日には小字中(こあざじゅう)の人々この家に集り来たりてこれを祭る。またオシラサマという神あり。この神の像もまた同じようにして造り設け、これも正月の十五日に里人集りてこれを祭る。その式には白粉(おしろい)を神像の顔に塗ることあり。大同の家には必ず畳一帖の室あり。この部屋にて夜寝る者はいつも不思議に遭(あ)う。枕を反(かえ)すなどは常のことなり。あるいは誰かに抱き起され、または室より突き出さるることもあり。およそ静かに眠ることを許さぬなり。
(『遠野物語』 一四)

>オクナイサマを祭れば幸多し。土淵町大字柏崎(かしわざき)の長者阿倍氏、村にては田圃(たんぼ)の家という。この家にてある年田植の人手足らず、明日は空も怪しきに、わずかばかりの田を植え残すことかなどつぶやきてありしに、ふと何方(いずち)よりともなく丈低き小僧一人来たりて、おのれも手伝い申さんと言うに任せて働かせておきしに、午飯時(ひるめしどき)に飯を食わせんとて尋ねたれど見えず。やがて再び帰り来て終日、代(しろ)を掻きよく働きてくれしかば、その日に植えはてたり。どこの人かは知らぬが、晩には来て物を食いたまえと誘いしが、日暮れてまたその影見えず。家に帰りて見れば、縁側に小さき泥の足跡あまたありて、だんだんに座敷に入り、オクナイサマの神棚の所に止りてありしかば、さてはと思いてその扉を開き見れば、神像の腰より下は田の泥にまみれていませし由(よし)。
(『遠野物語』 一五)

ダンノハナ

ダンノハナは昔館(たて)のありし時代に囚人を斬(き)りし場所なるべしという。地形は山口のも土淵、飯豊のもほぼ同様にて、村境の岡の上なり。仙台にもこの地名あり。山口のダンノハナは大洞(おおほら)へ越ゆる丘の上にて館址(たてあと)よりの続きなり。蓮台野はこれと山口の民居を隔てて相対す。蓮台野の四方はすべて沢なり。東はすなわちダンノハナとの間の低地、南の方を星谷という。(以下略)
(『遠野物語』 一一二)

ダンノハナ

スポット紹介
村全体を見渡せる丘にある共同墓地。昔は囚人を斬った場所と伝えられています。

ダンノハナ
ダンノハナ
ダンノハナ
佐々木喜善の墓

カッパ淵

小烏瀬川(こがらせがわ)の姥子淵(おばこふち)の辺に、新屋(しんや)の家という家あり。ある日淵へ馬を冷やしに行き、馬曳(うまひき)の子は外へ遊びに行きし間に、川童出でてその馬を引き込まんとし、かえりて馬に引きずられて廐(うまや)の前に来たり、馬槽に覆われてありき。家の者馬槽の伏せてあるを怪しみて少しあけて見れば川童の手出でたり。村中の者集まりて殺さんか宥(ゆる)さんかと評議せしが、結局今後は村中の馬に悪戯(いたずら)をせぬという堅き約束をさせてこれを放したり。その川童今は村を去りて相沢の滝の淵に住めりという。
(『遠野物語  五八)

カッパ淵

スポット紹介
常堅寺の裏を流れる小川の淵。この場所にはカッパが多く住み、人々を驚かせたと言われ、現在も訪れる人がたくさんいます。

カッパ淵
カッパ淵

デンデラ野

山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺(とうぜんじ)及び火渡(ひわたり)、青笹の字中沢並びに土淵村の字土淵に、ともにダンノハナという地名あり。その近傍にこれに相対して必ず蓮台野(れんだいの)という地あり。昔は六十を超えたる老人はすべてこの蓮台野へ追いやるの習いありき。老人はいたずらに死んでしまうこともならぬゆえに、日中は里へ下り農作して口を糊(ぬら)したり。そのために今も山口土淵周辺にては朝(あした)に野らに出づるをハカダチといい、夕方野らより帰ることをハカアガリというといえり。
(『遠野物語』 一一一)

デンデラ野

スポット紹介
姥捨て野、あるいは死者の霊が通ると語り継がれる地。
かつては高齢になるとこの地に移り住み、日中は里に下りて農作業を手伝い、食を得たと言います。そして野の小屋に帰り、寄り添うように暮らしながら、生命が果てるまで静かに待ったと伝えられています。

デンデラ野
デンデラ野

佐々木喜善と遠野物語

遠野に生まれ、小説家になることを夢見て上京した佐々木喜善は、明治41年ごろ柳田国男と出会い、子供の頃から聞かされてきた遠野に伝わる話を語りました。この話が元となって『遠野物語』が誕生し、序文にも「この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり」と記されています。(鏡石は、喜善の小説家としての筆名)
後に、佐々木は昔話の採集に情熱を燃やし、その集大成である『聴耳草子』(昭和6年刊)により、「日本のグリム」という賞賛を得ています。

佐々木喜善と遠野物語

愛宕神社

スポット紹介
愛宕様は火伏せ(火災を防ぐこと)の神様で、火災の際に和尚の姿になって火を消したと伝わっています。神社の入り口には「山神」の石塔があり、『遠野物語』九八話には「路の傍に山の神、田の神、塞の神の名を彫りたる石を立つるは常のことなり」と書かれています。

愛宕神社
愛宕神社

とおの昔話村

スポット紹介
『遠野物語』をはじめとする昔話の世界を、展示や語り部による昔話を通して体験できる施設。
明治42年に、初めて遠野を訪れた柳田国男が宿泊した高善旅館が「柳翁宿」として移築・保存され、現在も利用されています。また柳田国男が昭和37年に他界するまでの6年間を過ごした東京・世田谷にあった家が、「柳田國男隠居所」として移築保存されています。
近くには「遠野市立博物館」もあり、柳田国男の世界が体感できます。

とおの昔話村
柳翁宿
とおの昔話村
柳田が晩年愛用した机
とおの昔話村
明治42年柳田は花巻から人力車に乗って遠野を訪問

伊豆権現

 遠野の町は南北の川の落合(おちあい)にあり。以前は七七十里(しちしちじゅうり)とて、七つの渓谷おのおの七十里の奥より売買の貨物を聚(あつ)め、その市(いち)の日は馬千匹、人千人の賑(にぎ)わしさなりき。四方の山々の中に最も秀でたるを早池峯(はやちね)という、北の方附馬牛の奥にあり。東の方には六角牛(ろっこうし)山立てり。石神(いしがみ)という山は附馬牛と達曾部との間にありて、その高さ前の二つよりも劣れり。大昔に女神あり、三人の娘を伴いてこの高原に来たり、今の来内(らいない)村の伊豆権現(いずごんげん)の社ある処に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与うべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の娘眼覚(めざ)めてひそかにこれを取り、わが胸の上に載せたりしかば、ついに最も美しき早池峯の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神おのおの三の山に住し今もこれを領したもうゆえに、遠野の女どもはその妬(ねた)みを畏(おそ)れて今もこの山には遊ばずといえり。
(『遠野物語』 二)

伊豆権現
伊豆権現

語り部から聴く 遠野の昔話

語り部の菊池榮子さんから聞いた、遠野の昔話です。
『遠野物語』にも取り上げられている二つの話をご覧いただけます。

収録:2002年12月19日、とおの昔話村にて
語り部:菊池榮子

カミ・ヒト・ココロをめぐる旅

人は死ぬとやがてカミとなり、子孫の繁栄を見守るために、
故郷を見おろすことのできる里山などにとどまる…という民間信仰を、私は楽しく感じます。

春

お田植え祭り

日本の農業は稲作が中心です。その稲が豊かに実り、豊作であるように祈って、苗に神がやどることを願う行事が「お田植え祭り」です。農業に関係する「農耕儀礼」はたくさんありますが、お田植え祭りは特に大切な行事の一つです。
家々で田植えを始める前に、神社の田(「宮田」や「神田」)に苗を植える場合と、正月を過ぎた頃に神殿の前に仮の田を設け、早乙女(さおとめ)と田人(たびと)が華やかな衣装を着けて田植えの真似ごとをする場合とがあります。

お田植え祭り
(『兵庫探検民俗編復刻版』神戸新聞社より)
兵庫県姫路市広峯神社のお田植え祭
赤い羽織に衣笠をつけた早乙女が苗を植えます

三月節供

現在では3月3日にヒナ祭りをすることが恒例のようになっています。しかしヒナ祭りだけに限らず、浜や山へ子どもたちが遊びに行き、一緒に食事をするなどいろいろな風習があり、これらを「三月節供」と言います。旧暦の3月は農業が始まる前の大切な季節で、その節目を祝う行事が中国の習俗と結びつき、ヒナ祭りに代表される三月節供の習慣が始まったと考えられています。
ヒナ祭りが今のような形になったのは江戸時代からで、明治時代以降に一般の家庭に普及しました。そもそもは草や木で作った人形(ヒトガタ)で体をなでて、けがれや悪い霊を移すものが「ヒナ」で、平安時代に日本に伝えられた中国の行事と結びついて始まったとされています。

三月節供
三月節供のヒナ人形(写真提供:監修者)

五月節供

5月5日は「端午(たんご)の節供」や「菖蒲(しょうぶ)の節供」とも呼ばれます。今でもショウブやススキ、ヨモギを束ねて、屋根にあげたり、軒にさす風習が残る地方があったり、ショウブを風呂に入れたりもします。またコイのぼりを立ててちまきを食べる風習は、全国的なものです。こうした行事は、人に病気を起こす邪気を払うために行われた中国の端午節供が、日本に伝わって始まったと言われています。
昔の日本では、5月は「五月忌(や)み」と呼ばれていました。大事な行事である田植えを行うために、心身を清めて禁欲する期間だったからです。女性には早乙女(さおとめ)として田の神に奉仕する役目があり、一定の期間、宿にこもって生活する場合もありましたが、こうしたことにも日本古来の「田の神祭り」の習俗がうかがえます。

五月節供
たかだかと舞うコイのぼり(写真提供:監修者)

水口祭り

5月5日は「端午(たんご)の節供」や「菖蒲(しょうぶ)の節供」とも呼ばれます。今でもショウブやススキ、ヨモギを束ねて、屋根にあげたり、軒にさす風習が残る地方があったり、ショウブを風呂に入れたりもします。またコイのぼりを立ててちまきを食べる風習は、全国的なものです。こうした行事は、人に病気を起こす邪気を払うために行われた中国の端午節供が、日本に伝わって始まったと言われています。
昔の日本では、5月は「五月忌(や)み」と呼ばれていました。大事な行事である田植えを行うために、心身を清めて禁欲する期間だったからです。女性には早乙女(さおとめ)として田の神に奉仕する役目があり、一定の期間、宿にこもって生活する場合もありましたが、こうしたことにも日本古来の「田の神祭り」の習俗がうかがえます。

水口祭り
(『兵庫探検民俗編復刻版』神戸新聞社より)

左義長・トンド

正月飾りや門松などを野外で焼く行事を「左義長」や「トンド」と言います。正月に神に供えたもので煮たきをして、食べたことが始まりとも言われますが、それを裏付けるように、火であぶった鏡もちや団子を食べる風習が今も残っています。トンドという呼び方は、火祭りのはやし言葉に由来するもので、「ドンド」や「ドンドン」などと呼ぶ地域もあります。
但馬地方では「正月さまを送る行事」とされ、「正月の神さまは煙に乗っていかれるので、火を大きくしないとお帰りになれない」と伝えられています。

左義長・トンド
燃やされる前のトンドと、夜になり勢いよく炎をあげるトンド
(写真提供:福崎町教育委員会)

シリハリ

小正月を中心に行われる行事の一つに「シリハリ」があります。前の年に集落に嫁いできた女性のおシリをワラ鉄砲でたたいて、子どもが生まれることを願う行事です。今では実際にたたく所はほとんどなく、飾りとして置かれるほか、贈り物などにされるようです。

シリハリ
(写真提供:監修者)
ワラを編んで作られるシリハリ
地域によって、5種類ほどの形があります

キツネ狩り

小正月に、農作物を荒らすキツネを追い払う行事が「キツネ狩り」です。若狭から山陰地方にかけて行われ、兵庫県内では但馬、播磨、丹波の全域で見られた行事でした。この行事は1月14日の夜から15日の早朝にかけて行われ、子どもたちが木刀や竹ヤリなどを手にして、鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らし、「キツネガリそうろう」などと言いながら村の中を練り歩き、村の境まで行って帰ってきます。
キツネを退治するという意味から、全国各地にある鳥追いやモグラ打ち、シシ追いなどの行事と同じく、害があるケモノを駆除する行事だとされています。しかし柳田国男は、「以前はキツネを狩るのではなく、むしろそのありかを見つけ出して年の始めのめでたい祝詞を聞こうとした式だったのではなかろうか」(『狐猿随筆』)と述べています。

キツネ狩り
(『兵庫探検民俗編復刻版』神戸新聞社より)
兵庫県美方郡村岡町でのキツネ狩り
カネや太鼓に合わせて練り歩きます
夏

タマツリ

「タマツリ」は田の神を祀る行事の一つで、「タマツリシバ」と呼ばれるいろいろな草や木を山から取ってきて、庭や田の水口に立て、小麦粉の団子などを供えます。この行事に欠かせないものが、ススキ(カヤ)、クリの枝、オオギバ(シャガ)の3つです。稲がススキのように伸び、オオギバの葉が広がるように株や根が広がり、クリの実がはじけるように大きく実ってほしい……といった願いが込められているのでしょう。

タマツリ
(『兵庫探検民俗編復刻版』神戸新聞社より)
兵庫県多可郡加美町でのタマツリ
タマツリシバにお供え物をして稲の成長を願います

精霊送り

お盆の行事の「精霊送り」は、関西では8月15日か16日に行われます。この行事は、先祖の霊を山や川、また墓から家に迎えて祀った後に、再びあの世へ帰ってもらうために行われるものです。送り火をたいたり、精霊舟を作って川へ流したりします。

精霊送り
(『兵庫探検民俗編復刻版』神戸新聞社より)
兵庫県洲本市大浜海外での盆のトウロウ流し
初盆の家で祀っていたトウロウを船に乗せて海へ送ります

虫送り

神社の灯明(とうみょう)から取った神聖な火をたいまつに灯し、「サネモリさん」と呼ばれるワラ人形を担いで村の中を回り、カネや太鼓、ホラ貝の音で虫を驚かせて、村の外へ追い出す行事が「虫送り」です。
サネモリ人形は平安時代の武将、斎藤実盛(さいとうさねもり)を象(かたど)ったものと伝えられています。稲株につまずいて敵に打ち取られた実盛は「後の世に害虫となって日本中の稲を食い荒らす」と言い残したと言います。そんな「サネモリさん」に稲の虫をつけて、「おともせい」と言いながら大勢が行進します。この人形は悪霊を統率する御霊の一種だと考えられますが、後の時代に斎藤実盛の伝説が重なり、馬に乗る人の姿に変化していったとされています。

虫送り
兵庫県神埼郡大河内町川上での「虫送り」
(『兵庫探検民俗編復刻版』神戸新聞社より)

両墓制

お墓には一人の人に、二つの墓があることもあります。これが「両墓制」と呼ばれるもので、近畿地方には広く分布していました。お墓の一つは亡骸(なきがら)を埋めた墓(埋め墓)で、もう一つはお参りをするための墓(参り墓)です。
埋め墓は住居から離れた共同葬地にありました。参り墓は主に集落の近くにある寺にあり、先祖代々の霊を一つの墓石に一括して祀りました。こうした風習が成立したのは、埋葬地に広い土地をとれなかったからだとも想像されています。

両墓制
兵庫県津名郡北淡町野島の埋め墓
風で飛ばないように石が乗せてあります

七夕

近畿地方では、七夕のことを「七日盆」と呼ぶ所があります。これは先祖を迎える大切な行事である盆に先立って、この日から身を清めて暮らすこと(物忌み)を示しており、本来の七夕行事の意味ではなかったかと考えられます。
それが、中国から伝わった「星祭り」と、禊(みそぎ)、祓(はらい)を主とする日本古来の「農村信仰」、そして「盆祭り」という仏教行事が複雑に合わさって「七夕盆」になったともされます。しかし仏教の教えが広まるにつれて盆行事は独立した行事となり、また盆前の物忌みという考え方が薄れるにつれ、星祭りに近い行事になっていったと考えられています。

七夕
兵庫県姫路市白浜町宇佐崎での七夕
七夕人形やちょうちんも飾られています
(『兵庫探検民俗編復刻版』神戸新聞社より)

盆踊り

祖先の霊を迎え、慰めるために、音頭や歌謡にあわせて踊ったものが盆踊りの始まりだとされています。仏教が伝わってからはお盆の行事となり、室町時代の終わり頃から娯楽的なものへと変わっていきました。
お盆は仏教用語の盂蘭盆(うらぼん)を略した言葉で、先祖の霊を苦しみから救うための儀式です。盆棚(精霊棚)を作って数々の供物を捧げ、そこに祖先の霊を招きます。そしてお坊さんに棚経(たなぎょう)をあげてもらい、墓参りをすることが一般的に行われました。13日には盆灯籠(とうろう)に灯をともし、家の門口などで「迎え火」をたいて祖先の霊を迎え、16日には霊を送るために「送り火」をたき、灯籠流し(精霊流し)をしました。

盆踊り
(写真提供:篠山市商工会)
篠山地方の盆踊りとして定着した「デカンショ祭り」
戦後になって盆踊りにデカンショ節が取り入れられ、
兵庫県の夏の一大イベントとして知られています
春

亥の子

祖先の霊を迎え、慰めるために、音頭や歌謡にあわせて踊ったものが盆踊りの始まりだとされています。仏教が伝わってからはお盆の行事となり、室町時代の終わり頃から娯楽的なものへと変わっていきました。
お盆は仏教用語の盂蘭盆(うらぼん)を略した言葉で、先祖の霊を苦しみから救うための儀式です。盆棚(精霊棚)を作って数々の供物を捧げ、そこに祖先の霊を招きます。そしてお坊さんに棚経(たなぎょう)をあげてもらい、墓参りをすることが一般的に行われました。13日には盆灯籠(とうろう)に灯をともし、家の門口などで「迎え火」をたいて祖先の霊を迎え、16日には霊を送るために「送り火」をたき、灯籠流し(精霊流し)をしました。

亥の子
兵庫県姫路市木場の亥の子神輿
(兵庫県立歴史博物館蔵 写真提供:監修者)

御当渡し

神社の宮当番を引き継ぐ儀式です。宮当番とは、毎年交代で小さな祠(ほこら)を預かり、月2回ほど氏神を祀る神社の掃除をしたり、祭礼の世話をしたりする役です。
この役を引き継ぐ時に、新旧の宮当番らが神社の拝殿に上がり、1年間無事に当番をしたことや新しい当番に引き継ぐことを報告する儀式です。

御当渡し
兵庫県多可郡黒田庄町 瀧尾神社(写真提供:監修者)
御当渡し
拝殿の外では、町の人たちが盛大な祭りを行っている(写真提供:監修者)

ホガケ

その年に初めて収穫した稲の穂を、感謝を込めて田の神に供える行事を「ホガケ」と言います。「刈リゾメ」「トリゾメ」「イネカケ」「ホマツリ」「カケホ」などと呼ぶ地方もあります。
この行事は、稲を刈り始める時の「ホガケ」と、刈り納めの時の「カリアゲ」の行事の2回に分けて行われます。

ホガケ
(『兵庫探検民俗編復刻版』神戸新聞社より)
刈り取りを待つばかりの稲田のあぜで、
青竹を立ててホガケを行う
(兵庫県宍粟郡波賀町上野)

カカシアゲ

神は、春には里に降りて「田の神」となり、秋の収穫が終われば山へ帰り「山の神」となるという言い伝えは、全国的に聞かれるものです。
「カカシアゲ」とは、田の神が山へ帰るとされる日に、それまで田に置いていたカカシを神に見立てて、お神酒(みき)や収穫した稲穂などを供え、神に感謝する行事です。

カカシアゲ

月見

旧暦8月15日を「十五夜」あるいは「中秋の名月」などといいます。旧暦では1~3月が春、4~6月が夏、7~9月が秋、10~12月が冬になりますが、8月は秋の真ん中にあたるため「中秋」と呼ばれました。
古くから日本人は月の姿を好み愛でました。中でも中秋の時期は空気が澄み、美しい満月を見ることができるため、平安時代ごろから、すすきを飾り、月見団子や里芋、枝豆などを盛り、お神酒(みき)を供えて、美しい満月の姿を鑑賞する風習が始まりました。
月見の習慣が日本に定着したのは、「初穂祭」(秋の収穫祭)という行事がもともと日本にあったからだとされます。秋には作物が実り、人々をうるおしてくれます。この自然の恵みに感謝して、秋の収穫の時期には、いろいろな祭りが行われていました。特に多く祝われたのは里芋の収穫で、そのため月見に里芋を供える風習ができ、この名月を「いも名月」とか「いものこ誕生」と呼ぶ地方もあります。これらの行事は中国から伝わったとされますが、餅を食べる中国とは異なり、日本では広く団子を供え、また食べてきました。

月見
冬

湯立て

社寺の境内に大きな釜を据えてお湯を沸かし、ササを持った巫女(みこ)や神官、行者が、煮えたぎった熱湯をササで自分の体にふりかけたり、回りの人たちに振りまいたりして、厄よけや無病息災を願う行事です。
立ちのぼる湯気によって神秘的な雰囲気をかもし出し、太鼓や笛のリズムにのって巫女や神官が湯玉を散らしながら舞い、神がかりして神のお告げを受ける神事だとされます。

湯立て
(『兵庫探検民俗編復刻版』神戸新聞社より)
兵庫県神戸市灘区の六甲八幡神社での「湯立て」
巫女がササで湯をまき、無病息災を祈ります

トシオケ

30cmほどのオケに1年間の実りを納め、正月の神である「年神さん」に捧げます。これは豊作を願う農耕儀礼と深い関係があります。
トシオケは神棚(かみだな)とは別に、正月を迎えた年の恵方に向けて特別に作った年棚(としだな)の上にのせて祀られます。
トシオケを年棚から降ろして片づける日を「オトシオロシ」と呼び、正月11日の朝にされることが多いようです。その時にトシオケの中に入れた米などを食べます。

トシオケ
餅、干しがき、栗などを納めるトシオケ
(兵庫県養父郡養父町)

門松

兵庫県では門松のことを、「カドマッツァン」や「正月サマ」と呼ぶ地域があります。またコトハジメの日(12月13日)に山に入り、松などの木を伐(き)りますが、これは「門松迎え」や「正月サン迎え」と呼ばれています。
養父郡では、「正月サンは高い所からおいでになるから、村より高い所から伐り、高い木の上に結っておく」とか、「翌年の恵方で村より上の方から迎えて、足を洗い(根元を切りなおし)、きれいな所に立てて休んでもらう」と伝えています。正月三が日の間は、その木に三度三度ご飯や雑煮を供える場合もあり、これを「正月サンを祭る」と言います。
このように門松にする木は単なる飾り物ではなく、敬称をつけ、丁寧に扱われることから「正月の神=年神=年穀の神」を招くものだったと想像されます。

門松
(写真提供:監修者)
12本の丸太で幸木が作られている。丸太は、
12ヵ月を意味し、閏月のある年には13本となります
(兵庫県津名郡北淡町)

ジマツリ

作物を育てるために「土地の神」を祀る行事です。土で壇を作って田の数だけ青い葉を立てて祀ったり、ミテグラという幣(しきみ)を立てたり、米の粉汁を飛ばしたりする行事は、三原郡(淡路島)で今も続いています。
ジマツリの行事を詳しく調べると、同じ淡路島内でも家ごとに祀り方に違いがあるようです。津名郡では、青い葉のついた枝にご飯やシロモチなどを入れてワラでくくって供えることを「ミイレ」と呼んでいます。三原郡では、外に立てたシキミなどに米の粉を水でとかした汁をふりかける行事を「ミイレ」と呼んでいます。

門松
兵庫県三原郡三原町のジマツリ
田の数だけシキミを立てます

ヤマドッサン

「ヤマドッサン」は淡路島北部の農家にだけ伝わる神祀りです。ミノカサをつけた姿とされているほか、尉(おきな)と姥(うば)、またひげもじゃの神様というように、その姿は家ごとに異なります。この行事は多くは1月9日の夜に行われますが、ある家で行事をしていても、隣の家はそのことを知らない場合が多いようです。
ヤマドッサンは、夜に裏山から訪れてくると信じられています。この夜は、家の雨戸を少しあけておき、座ぶとんや膳(ぜん)を2人分並べて、見えない神を迎えます。そして稲穂を形どったジノミを供えます。その姿をミノカサによって表し、米の研ぎ汁を振りまいて、雨が多いことを祈る「ツキアゲ」という呪術を行うなど、農耕と深い関係があるのです。
もともとヤマドッサン(山年サン)は、尉と姥という言い伝えもあるように、正月に家々を訪れて幸福をもたらす「正月サン」(年神サン)とも考えられ、小高い山から毎年正月に家々を訪れる神であり、農耕の神だとも言えます。ヤマドッサンは播磨地方に伝わる亥の子神ともよく似ています。「田の神は異形の神」という言い伝えとも一致しています。

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ヤマドッサン(291KB 22秒)

ヤマドッサン
ミノ・カサの祭り淡路島のヤマドッサン

庚申塔

 庚申の夜には寝ないで語らって過ごす風習がありました。この日に眠ると、人の体内にいる三尸(さんし)の虫が天に上り、その人の犯した罪を仏や神に告げるので寿命が縮まる。だから虫が出ていかないようにと、徹夜したのです。
この夜、仏教を信仰する家では青面金剛(しょうめんこんごう)を祀ります。青面金剛は青い顔で怒った形相をした金剛童子です。この神は病を流行させる鬼神で、「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿(両手で目、耳、口をふさいだ三匹の猿)を従えているとされています。庚申信仰は平安時代に日本に伝わり、江戸時代に盛んになりました。

庚申塔
庚申塔(兵庫県但東町薬王寺 写真提供:監修者)

旅のテキスト

『先祖の話』

太平洋戦争末期の昭和19年11月から翌20年7月にかけて執筆されました。柳田民俗学の中核である「祖霊信仰論」が集大成され、日本人の精神文化の基層に、先祖・祖霊への信仰が潜むことが提示されています。
(昭和21年出版)

盆の先祖迎え

……自分の熟知する中部のある地方などは、今は世盛りの人の少年の頃まで、十三日の日の暮には墓の前で、火を焚き提灯に移してから、背へ手をまわしてじいさまばあさま、さあ行きましょうと、負う真似をしたものであったという。あるいはもっと具体的に、墓の前の小石を一つ拾って、手背負(てじょい)にして来る者もあった。それからやや離れた村の老人には、毎年の盆の墓参りに必ず新しい荷縄を作って、それを肩に掛けて行く者があった。何にするのかと人が尋ねると、ほとけ様を負うて来るのだと答えたということである。
(『先祖の話』六〇 小児の言葉として)

先祖が帰る山

無難に一生を経過した人々の行き処は、これよりももっと静かで清らかで、この世の常のざわめきから遠ざかり、かつ具体的にあのあたりと、おおよそ望み見られるような場所でなければならぬ。……村の周囲のある秀でた峰の頂から、盆には盆路を苅(か)り払い、または山川の流れの岸に魂を迎え、または川上の山から盆花を採って来るなどの風習が、弘く各地の山村に今も行われているなどもその一つである。霊山の崇拝は、日本では仏教の渡来よりも古い。……五月田植の日、田人(とうど)・早乙女(さおとめ)がいっせいに振り仰いで、山の姿を礼讃する歌をうたうような峰々は、いずれも農作の豊饒(ほうじょう)のために、無限の関心を寄せたまう田の神の宿りであった。春は降り冬は昇りたまうという百姓の守護者が、遠い大昔の共同の先祖であって、その最初の家督の効果が末永く収められることを、見守っていて下さるというような考え方が、あるいは今よりももっとはっきりしていたのかも知れない。
(『先祖の話』六六 帰る山)

『妹の力』

的な力に特に関心を示し、巫女(みこ)や南島において姉妹が兄弟を守護するオナリ神信仰などの紹介を通じ、女性が持つ霊力を抽出してみせました。
(昭和15年出版)

女性と霊力

自分たちの学問で今までに知られていることは、祭祀・祈祷の宗教上の行為は、もと肝要なる部分がことごとく婦人の管轄であった。巫(みこ)はこの民族にあっては原則として女性であった。後代は家筋によりまた神の指定に随(したが)って、彼等の一小部分のみが神役に従事し、その他は皆凡庸をもって目せられたが、以前は家々の婦女は必ず神に仕え、ただその中の最もさかしき者が、最も優れたる巫女(みこ)であったものらしい。……しこうして最初この任務が、特に婦人に適すと考えられた理由は、その感動しやすい習性が、事件あるごとに群衆の中において、いち早く異常心理の作用を示し、不思議を語り得た点にあるのであろう。
(『妹の力』妹の力 三)

田植えと女性

ある種のまじないには女を頼まねばならぬものがあった。年々の行事で最も著しいものは田植である。昔の人の推理法は興味がある。女は生産の力ある者だから、大切な生産の行為は女に頼むがよいという趣意であった。
(『妹の力』妹の力 三)

『村のすがた』

多くの日本人が生活の舞台としてきた村には、家はもちろんのこと、田や山にもカミが宿っていました。そしてまた、先祖の魂が送られまた迎えられる空間が村であることを、柳田は著述しています。
(昭和23年出版)

田植えの日に

春は桜が咲き種おろしの用意が整うと、苗代に注連(しめ)を張り、水口(みなくち)に斎串(いぐし)を立てて、そこに家々の田の神が迎えられる。田の神の恵みは、もっぱらその家の田産を豊かならしめるにあって、おそらくは遠い祖先の霊であろうと想像せられる。その苗代の緑がようよう濃くなって、いよいよこれを広い田に移す日が来ると、そこにこのワサウエという、第一次の感謝祭は営まれたのである。
(『村のすがた』 わさ植えの日)

霜月祭

田の神は冬になると、山に登って山の神となり、春はまた里に降りて来て、田の神として農作を御守りなされるというのは、変った言い伝えのようだが、日本では全国にわたって行われている。そうして春は旧暦の二月または三月に一度、秋の収穫が終るとまた一度、日は七日九日十二日十六日等、土地によってまちまちだが、たいていは両度とも同じ日に、同じような山の神祭を営んでいる。………北九州は一般に霜月初め丑(うし)の日に、田の神を田から迎えて餅を搗き、臼の上に箕(み)を載せてその上でお祭りする。それで丑祭ともお丑様ともいっているが、鹿児島県まで行くと同じ日の祭を、やはり東北と同じに山の神と呼んでいる。
(『村のすがた』 霜月祭)

『こども風土記』

「子どもは7歳までは神のうち」といわれ、カミに代わって人々に祝福や霊力を与える存在でもありました。そのことを看破した柳田は、子どもについて、また子どもに向けた著述を数多く遺しています。
(昭和17年出版)

正月とこども-1

そんなことまでして叱らなかったのは、正月ばかりは子供らが神主さんだから、というような考えがまだ幽(かす)かに伝わっている土地が多いためであった。そんなら何神様の神主かと問うと正月様だという人もあり、道祖神と思っているものもあって、結局はっきりとしないが、石城(いわき)郡の海岸一帯などには、七小屋参りと称して七つの小屋を巡拝し、またはその小屋を焼く以前に年寄たちが、御賽銭(おさいせん)をもって御参りする村があるのである。それを怠る者がだんだんと多くなって、いよいよこの小さな神主さんが荒れ出したのである。
(『こども風土記』 左義長と正月小屋)

正月とこども-2

小児は全体に木切れを持って遊ぶを好み、それを持つとかならず少しばかり昂奮(こうふん)する。何でもないことのように我々は考えがちだが、実は隠れたる由来のあったことかも知れぬのである。ことに目にたつのは正月の十五日前で、これを子供が持つと、ちょうど神主さんの笏(しゃく)や扇子と同じく、彼等の言葉と行いにある威力がある、という風に昔者は今も感じている。単に目に見えぬ害鳥虫をあらかじめ駆逐し、または果樹を叩いてその木を豊産になし得たのみならず、若い女性の腰を打てば、みごとな児を生むとさえ信じていた時代があった。
(『こども風土記』 祝い棒の力)

南の島への旅

稲が豊かに実ることから「瑞穂(みずほ)の国」といわれた日本は、南方から来た人々によって作られたのではないか。
そのような構想を考えたものです。日本の自然史を調べ、日本の国土の歴史を考えるとき、
昔からこれを豊富にして来たものは、何よりも風と潮であったことを、しみじみ感じる。
定期風が吹く。それ以外に強いの、弱いのさまざまな風が海と陸とに吹きつける。
潮流がたえず海岸を洗っている。この国土は年百年中風と潮とによって鍛えられて来たわけである。

南の島 鹿島踊 ミロク イザイホー 宝貝 稲積み 稲(イネ) ニライカナイ 海

鹿島踊

……印旛郡本野(もとの)村荒野(こうや)、十月十五日の雷公(らいこう)神社の祭日に、その年の新郎新婦が一組、特に盛装して社殿と寺、もとは庄屋の家へも廻って行って、男女それぞれに相伝したささげ歌というのを歌うことになっていた。ササゲは頭の上に物を戴くことをいうらしく、歌の詞(ことば)の中からもほぼその意味が汲み取られる。わずかばかりの記憶の誤りがあるようだが、まず男の方の辞句には、

まことやら鹿島みなとへ
弥勒(みろく)かな、よき(ママ)
舳艫(ともへ)には伊勢春日
中は鹿島の大やしろ
世の中はいつも正月
男が水汲む、女がいたゞく
その水を上げ下し見申せば
子持金がなゝ(ママ)九つ
二つを宿に置き候(そうろう)
  七つで倉を建て候
……………………
……………………
天竺(てんじく)の雲のあひから
十三姫がなゝ(ママ)米をまく
米まけば只もまけかし
みろく続けと米をまき云々
…………………………………………

などという文句が列(つら)ねられているのを見ると、かつて稲作の豊熟をもって、いわゆる弥勒出世の第一の奇端(きずい)と解し、米を祭場に撒きちらすことによって、その絶大の歓喜を表示しようとした時代が、あったということも想像し得られる。
(『海上の道』 みろくの船 二)

かつて鹿島の宣教が、今よりもずっと盛んだった時期があるにしても、人間の脚にはおおよその限りがある。鳥も通わぬとさえ言われていた南の南の島々に、今でも行われているという年々の弥勒踊が、この東国の同名の行事と、幾つかの類似をもっていて、しかも鹿島との因縁が捜し出せないのは大きな意味がある。これももとよりかくあれかしのわざおぎではあったろうが、その懐かしい幻影の種はどこにあるか。ことにミロクという名の起りは何によるか。八重山諸島の節祭(せちまつ)りの歌と行事、一方には宮古島の世積み綾船(あやふね)の古伝等に引き比べて、私は今改めてニライという海上の浄土のことを考えてみようとしているのである。
(『海上の道』 みろくの船 六)

鹿島踊

ミロク

弥勒(みろく)の出現を海から迎えるという信仰が、遠く隔てた南北の二地にある。一方は常陸(ひたち)の鹿島(かしま)を中心にした鹿島踊の祭歌、今一つは南方の八重山群島の四つ以上の島で、この方は明らかにニロー神、すなわちニライの島から渡って来たもう神を誤って、そういう風に解するようになったものと思う。鹿島の弥勒ももとはそれでなかったかどうかは、この中間の他の地方に、これに類する信仰があるか否かによって決する。中世の文学に幾たびか取り上げられた美々良久(みみらく)の島、亡くなった人に逢うことができるという言い伝えのあるその島は、果して遣唐使が船を寄せたという肥前五島(ひぜんごとう)の三井楽(みいらく)の崎と同じであったか、またはどこかの海上の弥勒の浄土を、こういう風に語る人があったものか。それを今私は考えてみようとしている。弥勒に対する古い信仰の名残は、思いのほかそちこちに分布している。海に接した他の地方にも、何かそういう類の話はないかどうか。
(『海上の道』 知りたいと思うこと二三 四)

ミロク
解説
柳田は論文「みろくの船」(『海上の道』所収)で、海上の彼方から来訪するという「ミロクの信仰」に注目しました。この写真は石垣市白保で旧暦6月のプーリイ(豊年祭)に登場するミロクで、その土地にユガフー(世の果報)をもたらすと信じられています。
(写真提供:桃原茂夫)

イザイホー

……久高の島では実は全部の成長した婦人がカミンチュ(神人)である。十二年に一度ずつ、午(うま)の年をもって行わるるイザイ法という式の日に、七つの木の橋を滞りなく渡って、一人より他の男は設けなかったことを、神と村人との前に証明しえた刀自たちは、ことごとくその日から神に仕える女となり、祭のたびごとに二日前から小屋に籠って、いたって重い物忌をする。
(『海南小記』 南の島の清水 八)

解説

沖縄県知念村久高島では、12年に一度、午(うま)年にイザイホーという神事が行われてきました。久高島では30歳以上のすべての女性が神女になりますが、イザイホーはそのための神事です。写真は新しく加入したナンチュと呼ばれる女性たちが、神アサギ(神域の建物)に入るため「七つの橋渡り」(建物手前に埋め込まれた橋があります)を繰り返し、神の世界へ入っていくという、イザイホー神事の最初の儀式です。

イザイホー
(写真提供:桃原茂夫)
解説

イザイホーの3日目に行われるスジ付けの儀式です。女性たちの兄弟が、神女になる祝いとしてスジ(しとぎ団子)を用意しています。このスジはノロ(島で最高の神女)に手渡され、ノロから女性たちにスジ付けがなされることで、神女として認められることになります。奄美・沖縄では、兄弟の生命や繁栄を姉妹が守護すると信じられている「オナリ信仰」があり、神女となった女性たちはオナリ神としての力を発揮していきます。

イザイホー
(写真提供:桃原茂夫)

宝貝

……どうしてそのような危険と不安との多かった一つの島に、もう一度辛苦して家族朋友を誘うてまで、渡って来ることになったのかということになるのだが、私はこれを最も簡単に、ただ宝貝の魅力のためと、一言で解説し得るように思っている。秦(しん)の始皇(しこう)の世に、銅を通貨に鋳(い)るようになったまでは、中国の至宝は宝貝であり、その中でも二重のシプレア・モネタと称する黄に光る子安貝(こやすがい)は、一切の利慾願望の中心であった。
(『海上の道』 海上の道 十六)

南方諸島において、最初この美しい宝の貝を緒に貫いて頸に掛けていたのは、君々すなわち厳粛なる宗教女性であった。そうしてこれがただ安産の守り、または児子(じし)の平安なる生育のみに、特効あるかのごとくには信じていなかったろうからである。
宝貝が大陸の奥の奥に流伝して、数十百年を経過するうちには、多分はあの採取時の美麗さは失われ、何ゆえにこれが宝であるかの理由が、海から遠く離れて住む者には、だんだんに不可解になったことは想像してよかろう。それを現今のように、単なる社会の約束と解することは昔の人にはできないから、次いで起るものは呪禁(じゅきん)の力、これを手に持つときは敵を制し、ないしは一身の生活を楽しく安らかにするという類の信仰でなければならぬ。世界の隅々に現れているこの観念の変遷については、すでに研究が進んでいるのだろうが、私はまだ知ることができない。少なくとも日本に関する限りは、私たちがこれから考えてみなければならぬ。
(『海上の道』 宝貝のこと 五・六)

宝貝
国名:ケニア
民族名:ポコット
資料名称:ネックレス
(写真提供:野外民族博物館リトルワールド)
宝貝
国名:インド
民族名:ラダック
資料名称:女性用腰飾り
(写真提供:野外民族博物館リトルワールド)
宝貝
国名:台湾
民族名:パイワン
資料名:称頭飾り
(写真提供:野外民族博物館リトルワールド)
宝貝
国名:モロッコ
民族名:ベルベル
資料名:ダンス用財布
(写真提供:野外民族博物館リトルワールド)

稲積み

今日のニホ場も田に近く家に遠く、形式配置共に、土地ごとの年久しい習わしはあったらしいが、近年いろいろの社会不安が加わって、穂のままでは永く屋外に積んで置くことができず、わずかな間に藁(わら)ニホばかりが多くなり、それさえこのごろはもうだんだんに罷(や)めようとしている。古い生活の痕(あと)の消えてしまうのも遠くはあるまいが、それでも自分などの旅をした頃までは、三河(みかわ)の作手(つくで)のような静かな山村でなくとも、四国九州の海辺や鉄道沿線にも、穂のまま稲を積む習俗はなお見られた。東北地方は一般にニホの形が大きく、また技術が念入りであって、近年は稲藁だけでなく、薪(まき)も枯草なども巧みにニホに積むようにはなっているが、なお多くの村々に穂ニホまたは本ニホという名称の存するのを見ると、ニホが本来は刈稲(かりいね)をそのまま積んでおく場所なることを、まだ意識しているのかと思われる。ニホを新穂の義と解している人が今もそちこちにある。
(『海上の道』 稲の産屋 ニホの名の起り)

 人が大陸から稲の種を携えて、この列島に渡って来たのも、たった一度の偶然ではなかったのかもしれぬが、結果は一つに帰するようだから、私は考えやすい方を考えてみる。………結局は私のいう海上の道、潮がどのように岐(わか)れ走り、風がどの方角へ強く吹くかを、もっと確実に突き留めてからでないと断定しがたいが、稲を最初からの大切な携帯品と見る限りにおいては、南から北へ、小さな低い平たい島から、大きな高い島の方へ進み近よったという方が少しは考えやすい。ともかくも四百近くもある日本の島々が、一度に人を住ませたとは誰も思っておらず、そのうちの特に大きな大切な島へというのも、地図ができてから後の話である。(『海上の道』 海上の道 二一)

ニライカナイ

鳥が大海を飛び越えて稲の種を運んだという言い伝えは、元からあったのでなくとも、次々と遠慮なくひろまって、今でも国頭(くにがみ)郡の田港(たみなと)の海神祭の神歌には、おし鳥がこの甘種(あまたね)白種を口にくくんで、畔(あぜ)から蒔き散らしたと唱えていることが、島袋源七君の『山原(やんばる)の土俗』に見え、遠く北に離れた奄美大島などでも、その鳥が鶴になっているだけで、やはり稲の種がニライカナイから運ばれたという話が、『南島雑話』には誌(しる)されてあると、伊波君は注意しておられる。捜せば他の島々にもまだ幾らもあるだろうが、考えてみるとこれは必ずしも運搬者のみの問題ではない。稲という穀物の根原がニルヤにあり、これを繁茂せしめて人間の力と幸福とを、豊かにすることが本来の機能であったのかも知れず、いわば南島の根の国が、単なる亡者(もうじゃ)の隠れ行く処であるに止(とど)まらず、絶えずこれから流れ出て、現世を楽しく明るくするものの、ここが主要なる源頭であることを、かつて我々は南北共同に、信じていた時代があったのではないか。それも改めてもう一度考えてみる必要があるように思う。
(『海上の道』 根の国の話 八)

いわゆるテダが末、すなわち日の神の後裔(こうえい)という想像は、この海上の国において承認せられやすかったので、それというのもその本源のニライカナイが、八重の波路の遙かあなたとは言いながらも、必ずしも往来しがたい処とまでは考えられなかったからであろう。実際にまた人がこの海中の国へ招かれて遊びに行き、いろいろ御馳走になり宝物をもらい、またはニルヤの大主のたった一人の娘を、嫁に所望して連れて還(かえ)ったというほかに、黄金をひり出す猫や小犬を、譲り受けて来たというような昔話が、あの島この島に数多く語り伝えられている。
(『海上の道』 鼠の浄土 七)

海は必然に日本の民俗学の大切な課題となるべきだが、その中にはまだこの島国でないと、探求し得られないものの若干が取り残されている。毎年おおよそ季節を定めて、諸処の浜辺に打ち寄せられ、大小さまざまの影響を土地人の生活に与えて来たものは、決して魚類や海獣の残骸だけではなかったのだが、これが文献記録から完全に近く締め出されていたのみか、数千年の過去にわたって、ほぼ一貫した繰返しであることすら考えてみようとした学徒は、他の部面にも少なかった。私は今まで主として椰子の実の壷や盃などの方から入ってみようとしたのだが、古くは「玉藻(たまも)刈るあま乙女ども」と詠ぜられたその海の玉藻の用途、「それもてこ」と歌われたいろいろの貝や石、さらに進んでは寄木(よりき)・寄石(よりいし)の汰上(ゆりあ)げの森のように、知らぬ洋中から運ばれた古来の信仰など、省みられずにおかれたものがまだいくらもあることを感じ始めているのみか、漁業の根源にもこの方面からもう一度観察すべき事柄が多かりそうな気がする。(『海上の道』 知りたいと思う事二三 一)

兵庫を旅する

人は昔から祈りや願い、カミである先祖の霊とともに喜びを祭礼として表現しています。
ここでは、兵庫県に伝わる民俗行事を見てみましょう。

兵庫地図

長田神社の追儺神事

追儺神事は一般的に悪い鬼を追い払い、疫病(やくびょう)を除く神事として行われています。同じような鬼払いは寺院でも行われ、この場合は修正会(しゅうしょうえ)、または修二会(しゅにえ)と呼ばれます。
年が改まるときに現れる鬼の正体は、本来祖先たちの霊=カミだったのですが、仏教の影響により地獄の鬼のイメージが強くなり、次第に悪霊と観念されるようになり、「福は内、鬼は外」と豆で追われる姿になりました。
毎年2月3日に行われる長田神社の追儺神事では、鬼は本来の姿に近く、神やその代理人とされています。松明(たいまつ)や太刀(たち)、鉾(おの)、斧(かま)、槌(つち)を持ち、天地や国土、そして人々に降りかかる災いを防ぐ存在になっています。これは鎌倉時代以前にあった「鬼への信仰」を、今に伝えるものだとされています。

長田神社の追儺神事
長田神社の追儺式に登場する鬼
(写真提供:監修者)

三田本庄百石踊

三田市上本庄の駒宇佐(こまうさ)八幡神社で、2年に1度、11月23日に奉納される祭が「三田本庄百石踊」です。室町時代に、元信という僧侶がこの神社にこもって雨乞いの祈願をしました。その時に見た夢のお告げによって始まった祭だと言われています。一度、祈願すると氏子全員が神社にこもり、満願を迎える日まで終日踊り続けたので、食べ物や燃料、衣装などに米百石分ほどの費用を必要としたことから「百石踊」と名づけられたと言われています。
菅笠(すげがさ)をかぶった幡(はた)踊り子、背中に御幣(ごへい)を背にした太鼓踊り子、僧侶に扮装した大親法(おおしんぼ)、小親法(こしんぼ)、鬼、鉄砲方、山伏が登場し、「世の中踊り」「小鷹(こたか)踊り」などを奉納

三田本庄百石踊
幡踊り子や太鼓踊り子が舞う三田本庄百石踊

節分

節分とは、立春・立夏・立秋・立冬の前日のことを言いますが、立春が1年の初めと考えられることから、春の節分が最も重視されてきました。そのため、単に「節分」といえば、春の節分を指すものとなっています。
立春を新年と考えれば大晦日(おおみそか)に相当する日にあたるため、もちをついたり、正月の神だなと同じように飾って神祭りを行う行事があるほか、年神さんと同じくトシオケを供えたり、迎えトンドをたく地域もあります。
節分の「豆まき」「鬼追い」は、前年の邪気を全て祓(はら)うための行事で、中国の明時代の風習が室町時代に伝わったものだと言われています。

節分
節分祭の豆まき(写真提供:湊川神社)

灘のけんか祭り

姫路市で10月14日、15日に行われる「灘のけんか祭り」は、松原八幡神社で行われる秋の例祭の通称です。「灘」とは姫路市の南東部で、播磨灘に面した地域を指し、けんか祭りは灘地区の中でも旧七ヶ村の氏子が行う祭りです。
本宮(ほんみや)の日は、日の出とともに海水で身を清めた練り子たちが、3つの神輿(みこし)をかつぎ、神輿かけ歌を歌いながら練り歩きます。そしてお旅山(妻鹿山)のふもとにある練り場に入ると、激しく神輿合わせをします。この時、ケンゴという青竹で神輿をたたいたり、足で踏んだりしますが、「暴れるほど神の意向にかなう」とか、「勝ったほうが豊作を約束される」などと伝えられることから、「けんか祭り」という名前が付いたと言われます。

灘のけんか祭り
ケンゴが支えながら神輿がぶつかる灘のけんか祭り
(写真提供:瀬川カメラ)

播磨國総社の三ツ山大祭

20年ごとに行われる播磨地方最大の祭りが、姫路市の播磨国総社(射楯兵主神社:いだてんひょうずじんじゃ)の「三ツ山大祭」です。3月31日から4月7日まで毎日神事が行われ、さまざまな奉祝行事も催されます。最近は平成5年に開催されました。
この祭りでは、直径10m、高さ18mという大きな三つの「置き山」が飾られます。これは自然の山を模したもので、この上に神が降りることを願って置かれるものです。
古代から山は信仰の対象であり、神祭りの最初の姿は、山そのものをご神体とするものでした。山は神が降りて来る神聖な場所であり、また水や自然の恵みを与えてくれる源として、大切な場所だったからです。
三ツ山大祭では、昔の衣装に身を包んだ一行が神輿(みこし)とともに歩く渡御や、競馬(くらべうま)、流鏑馬(やぶさめ)などの五種神事が有名です。馬を走らせたり、馬上から的を射ることで、稲作の豊作や、その年の吉凶を占うものです。

播磨國総社の三ツ山大祭
三ツ山大祭に登場する「置き山」。山には色鮮やかな布や衣装が巻かれています
(写真提供:兵庫県立歴史博物館)

上鴨川住吉神社の神事舞

社町にある上鴨川住吉神社で行われる祭りで、兵庫県は初めて国の重要無形民俗文化財の指定を受けました(昭和52年)。毎年10月4、5日に行われ、立ち舞いのほか田楽(でんがく)、獅子舞などが奉納されます。
上鴨川住吉神社には、平安時代に有名な部将であった坂上田村麿が参拝し、太刀(たち)を献上したという言い伝えが残っています。この神社が作られたのは、鎌倉時代の1316年ごろだとされていますが、少なくとも、その時代に前後して、この神事が始まったのではないかと言われています。

上鴨川住吉神社の神事舞
御礼の中心となる立ち舞いと囃子方。長い練習を経て舞うことが許されます
上鴨川住吉神社の神事舞

室津の小五月祭り

4月の第1日曜日に、御津町室津の賀茂神社で行われます。平安時代から続く古式豊かな祭礼で、室の長者の娘が、室君として「棹の歌」を唄い、舞いを奉納したことが始まりと伝えられています。
現在では32人の少女が袴(はかま)、裃(かみしも)、鳥帽子、御幣(ごへい)などを身に付け、鼓、笛を奏でながら歩きます。この時に唄われる「棹の歌」は、中性の語りものから近世の唄いものへと移り変わる過渡期のもので、日本の音楽史上で貴重なものとされています。

室津の小五月祭り
小太鼓を囃しながら奉納場所へ
この祭りは、女性が主役となって行われます
(写真提供:監修者)

ざんざか踊(ざんざこ踊)

但馬で行われる代表的な太鼓踊に、「ざんざか踊」あるいは「ざんざこ踊」と呼ばれる踊りがあります。そろいの衣装を着た若者たちが、腰に太鼓を付け、5色の短ざくを飾った大幣をかつぎ、歌に合わせた太鼓をたたきながら踊ります。
「ザンザカザットウ、ザンザカザン」といった太鼓の音に似た声をかけ合いながら、激しく、またやさしく太鼓をたたくところから、この名前が付いたと言われています。太鼓踊や鬼踊、盆踊という呼び方もあり、五穀豊穣(ごこくほうじょう)と氏子の安泰(あんたい)を祈る祭りです。

地蔵盆
大屋町の「大杉ざんざこ踊」
「鬼踊」とも言われる勇壮なもので、8月26日に二宮神社で演じられます
(写真提供:大屋町教育委員会)

地蔵盆

子どもたちがお地蔵さまをちょうちんなどで飾り、だんごやお菓子を供えるお祭りとして広く知られる行事に、8月24日を中心に行われる「地蔵盆」があります。子どもに縁が深く、どのような願い事も聞いてくれるお地蔵さまの縁日が24日にあり、これを供養することが始まりとされます。
今日では盆の終わりが16日になったため、盆行事と関係がないように思われがちですが、もともとお盆は24日までありました。この盆の最終日とお地蔵さまの縁日が合体して、地蔵盆と呼ばれるようになったと言われています。

地蔵盆
(化粧されたお地蔵さま(出石町の地蔵盆で 写真提供:監修者)

テコノボウ神事

篠山市の波々伯部(ほうかべ)神社で行われる祭礼に「デコノボウ神事」があります。8月4、5日に行われ、宮年寄によって「キュウリヤマ」と呼ばれる曳山(ひきやま)が出され、その上で「デコノボウ」という木偶(でく)=操り人形が謡曲に合わせて舞わされます。
曳山を神前に迎える時に、先導してお祓(はら)いをするのが「お迎え太鼓」で、少年がシャグマをかぶり、締め太鼓を腰につけてたたきます。

テコノボウ神事
胡瓜に似せて曳山の先をとがらせたキュウリヤマとデコノボウ
(写真提供:篠山市役所)

伊勢の森神社のはしご獅子

淡路島の津名町中田にある伊勢の森神社で、毎年4月11日に行われる例祭では、珍しい「はしご獅子」が奉納されます。この祭りは、江戸時代の享保年間に牛馬の病気が流行した時に、伊勢神宮に祈願して獅子舞を奉納したことが始まりとされます。江戸時代の終わりに、余興としてはしご獅子を奉納したところ人気を集め、現在まで受け継がれています。
約10mの高さがあるはしごから60mに及ぶ太い網が張られ、この上を2頭の獅子などが、太鼓と三味線の囃子にのって渡っていきます。

伊勢の森神社のはしご獅子
猿に追われてはしごをのぼる獅子と、獅子が放った御幣を手にしようとるす観客
(写真提供:篠山市役所)
伊勢の森神社のはしご獅子

翁三番

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淡路人形浄瑠璃(写真提供:財団法人淡路人形協会)

三番叟は、三番猿楽(さるごう)と呼ばれて古くからあった舞です。すでに鎌倉時代に、呪師(のろんじ)が行う悪魔払いの呪術とともに紹介され、芸能というよりは呪術の一種であったと考えられています。
三番叟の中心は、三つの舞いの中でも翁にあるとされます。翁とは春先になると山からやってくる山の神であり、悪霊をしずめて幸福をもたらし、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を約束する神だと言われています。
淡路では新年に、デコ回しによる三番叟が全島を歩きます。元禄時代に伊弉諾神宮(淡路一宮)の祭で三番叟が行われたことがわかっており、明治時代以前は、もっと広い範囲で大切な神事として演じられていたと考えられます。

翁三番
淡路人形浄瑠璃
(写真提供:財団法人淡路人形協会)

旅の終わりに

東北を旅した紀行文を書きました。ちいさな漁村の盆踊りを見ていて、
人の生涯とその行く末について、私は静かに思ったものです。

「清光館哀史」について

昭和3年に出版された『雪国の春』の中の1編が、「清光館哀史」(せいこうかんあいし)です。柳田は大正8年に貴族院書記官長を辞任して官僚生活に終止符を打ち、翌年、朝日新聞の客員(後に顧問論説担当)となります。最初の3年間は自由に旅をするという条件だったと言われますが、この大正9年から翌年にかけて、東北へ、三河方面へ、そして九州・沖縄へと3度にわたる長い旅をしました。そして、この旅から、それぞれ『雪国の春』『秋風帖』『海南小記』という紀行作品が生まれています。
東北への旅から6年後、柳田は偶然にも小子内(おこない)という漁村を再び訪れます。その時のことを、かつて見た盆踊りの情景とともに描いた作品が「清光館哀史」であり、教科書にも登場した名作として知られています。
おとうさん。今までの旅行のうちで、一番わるかった宿屋はどこ。
そうさな。別に悪いというわけでもないが、九戸の小子内の清光館などは、かなり小さくて黒かったね。……
ちょうど六年前の旧暦盆の月夜に、大きな波の音を聴(き)きながら、この淋しい村の盆踊を見ていたときは、またいつ来ることかと思うようであったが、今度は心もなく知らぬ間に来てしまった。あんまり懐かしい。ちょっとあの端の袂(たもと)まで行ってみよう。……
来てごらん、あの家がそうだよと言って、指をさして見せようと思うと、もう清光館はそこにはなかった。……
(『雪国の春』 清光館哀史 一)

何を聞いてみてもただ丁寧なばかりで、少しも問うことの答のようでなかった。しかし多勢の言うことも綜合してみると、つまり清光館は没落したのである。月日不詳の大暴風雨の日に村から沖に出ていて還らなかった船がある。それにこの宿の小造りな亭主も乗っていたのである。女房は今久慈の町に往って、何とかという家に奉公をしている。二人とかある子供を傍に置いて育てることもできないのは可愛そうなものだという。……
(『雪国の春』 清光館哀史 三)

……私はまた娘たちに踊りの話をした。今でもこの村ではよく踊るかね。……
あの歌は何というのだろう。何遍聴いていても私にはどうしても分からなかったと、半分独り言のようにいって、海の方を向いて少し待っていると、ふんといっただけでその問には答えずにやがて年がさの一人が鼻唄のようにして、次のような文句を歌ってくれた。
なにヤとやーれなにヤとなされのうああやっぱり私の想像していたごとく、古くから伝わっているあの歌を、この浜でも盆の月夜になるごとに、歌いつい踊っていたのであった。……要するに何なりともせよかし、どうなりとなさるがよいと、男に向って呼びかけた恋の歌である。
(『雪国の春』 清光館哀史 六)

……この日に限って羞(はじ)や批判の煩わしい世間から、遁(のが)れて快楽すべしというだけの、浅はかな歓喜ばかりでもなかった。忘れても忘れきれない常の日のさまざまな実験、遣瀬(やるせ)ない生存の痛苦、どんなに働いてもなお迫って来る災厄、いかに愛してもたちまち催す別離、こういう数限りもない明朝の不安があればこそ、はアどしょぞいなといってみても、あア何でもせいと歌ってみても、依然として踊りの歌の調べは悲しいのであった。
(『雪国の春』 清光館哀史 六)
-柳田国男“発見の旅”終わりー

妖怪のお話し

私は各地を旅するなかで、新たな発見をたくさんしました。
さあ、一緒に旅を始めましょうか…。

天狗

今昔時代にはただの鬼と天狗とは別種の魔物と考えられておって、おのおの偉大なる勢力を振るっておった。その後鬼党は次第に零落して、平凡なる幽霊亡霊の階級まで退却してしまったが、これに反して天狗国は久しく隆々として、田舎(いなか)及び山間を支配しておった。
(『妖怪談義』天狗の話一)

ザシキワラシ

明治四十三年の夏七月頃陸中上閉伊(かみへい)郡土淵(つちぶち)村の小学校に一人のザシキワラシ(座敷童)が現れ、児童と一緒になって遊び戯れた。ただし尋常一年の小さい子供等のほかには見えず、小さい児がそこにいるここにいるといっても大人にも年上の子にも見えなかった。遠野町の小学校からも見に往(い)ったが、やっぱり見たものは一年生ばかりであった。毎日のように出たという。

……遠野の小学校がまだ御倉(南部家の米倉)を使用していた頃、学校に子供の幽霊が出るという噂があって、皆が往ってみたことがあった。友人にこれを見たという人がある。夜の九時頃になると、玄関から衣物(きもの)を着た六七歳の童子が、戸の隙(すき)より入って来て、教室の方へ行き、机椅子の間などをくぐって楽しそうに遊んでいたという。それも多分ザシキワラシであったろうと思う。
(『妖怪談義』ザシキワラシ(二))

<音で聴く妖怪>
ヌリカベ

筑前遠賀(おんが)郡の海岸でいう。夜路をあるいていると急に行く先が壁になり、どこへも行けぬことがある。それを塗り壁といって怖れられている。棒をもって下を払うと消えるが、上の方を敲(たた)いてもどうもならぬという。壱岐(いき)島でヌリボウというのも似たものらしい。夜間路側の山から突き出すという。出る場処も定まりいろいろの言い伝えがある(続方言葉)。(『妖怪談義』妖怪名彙)

カッパ

おかしいことには名前や外貌が少しずつ違っていながら、角力のすきな点のみが特別に一致している。九州では通例ガワッパだのガアラッパだのと呼ばれ、色も東北とはちがって半透明の白色だといい、一つの水溜りに千疋(びき)もかたまって住むなどと言われているが、やっぱり人を見ると「おい角力とれ」といって近づいてくる。取って負けてやればキキと嬉しそうな声をしてもう一番といい、負けるとくやしがって何疋でもかかって来る。……他人が通りかかって傍から見ると、相手の姿は少しも見えず、大の男がただ一人相撲を取っているのであった。それがしまいには取り疲れて、夜が明けるとまるで病人のごとく、または熱が出たり稀(まれ)には発狂してしまう者もあって、あの地方でゃこれを川童憑(つ)きといい、修験(しゅげん)を頼んで加持(かじ)してもらうことになっていたそうだ。
(『妖怪談義』盆過ぎメドチ談二)

タヌキバヤシ

狸囃子、深夜にどこでともなく太鼓が聞こえて来るもの。東京では番町の七不思議の一つに数えられ(風俗画報四五八号)、今でもまだこれを聴いて不思議がる者がある。東京のは地神楽(じかぐら)の馬鹿ばやしに近く、加賀金沢のは笛が入っているというが、それを何と呼んでいるかを知らない。山中ではまた山かぐら、天狗囃子などといい、これによって御神楽岳(みかぐらだけ)という山の名もある。
(『妖怪談義』 妖怪名彙)

<音で聴く妖怪>
ベトベトサン

大和の宇陀郡で、ひとり道を行くとき、ふと後から誰かがつけて来るような足音を覚えることがある。その時は道の片脇へ寄って、
ベトベトさん、さきへおこし
というと、足音がしなくなるという(民俗学二巻五号)。
(『妖怪談義』 妖怪名彙)

<音で聴く妖怪>
コナキジジ

阿波の山分の村々で、山奥にいるという怪。形は爺だというが赤児の啼声(なきごえ)をする。あるいは赤児の形に化けて山中で啼いているともいうのはこしらえ話らしい。人が哀れに思って抱き上げると俄(にわ)かに重く放そうとしてもしがみ付いて離れず、しまいにはその人の命を取るなどと、ウブメやウバリオンと近い話になっている。木屋平の村でゴキャ啼キが来るといって、子供を嚇(おど)すのも、この児啼爺のことをいうらしい。ゴギャゴギャと啼いて山中をうろつく一本足の怪物といい、またこの物が啼くと地震があるともいう。
(『妖怪談義』 妖怪名彙)

スナカケババ

奈良県では処々でいう。御社の淋しい森の蔭などを取ると砂をばらばらと振り掛けて人を嚇す。姿を見た人はないという(大和昔譚)のに婆といっている。
(『妖怪談義』 妖怪名彙)

アズキトギ

また小豆洗いとも、小豆さらさらともいう。水のほとりで小豆を磨(と)ぐような音がするといい、こういう名の化け物がいて音をさせるともいう。その場処はきまっていて、どこへでも自由に出るというわけでない。大晦日(おおみそか)の晩だけ出るという処もある(阿哲)。あるいは貉(なじむ)の所行といい(東筑摩)、または蝦蟇(がま)が小豆磨ぎに化けるともいう(雄勝)。不思議はむしろその分布の弘い点にある。西は中国、四国、九州、中部、関東、奥羽にもおらぬという処はほとんとない。何ゆえに物は見もせずに、磨くのを小豆ときめたかも奇怪である。あるいはこの怪を小豆磨き婆様、または米磨ぎ婆と呼ぶ例もある(芳賀)。信州北佐久郡の某地の井では、大昔荒神(こうじん)様が白装束で出て、
お米とぎやしょか人取って食いやしょかショキショキ
といいながら、コメを磨いでは井の中へこぼしたと伝え、今でも水の色の白い井戸が残っている(口碑集)。この言葉も全国諸処の小豆磨きの怪が、口にするという文句であってその話の分布もなかなか弘い。
(『妖怪談義』 妖怪名彙)

ツトヘビ

またはツトッコという蛇がいるということを、三河の山村ではいい伝えている。あるいは槌蛇とも野槌ともいい、槌の形または苞(つと)の形をしていて、非常に毒を持ち、咬(か)まれると命がないと怖れられていた(三州横山話)。あるいはまた常の蛇が鎌首(かまくび)をもたげて来たところを打つと、すぐにその首が飛んで行ってしまう、それを探してよく殺しておかぬと、後にツトッコという蛇になって仇(あだ)をするともいっていた(郷土研究三巻二号)。見たという人はあっても、なお実在の動物ではなかった。
(『妖怪談義』 妖怪名彙)

ミノムシ

越後では評判の路の怪であるいは鼬(いたち)のしわざともいう。小雨の降る晩などに火が現れて蓑(みの)の端にくっつき、払えば払うほど全身を包む。ただし熱くはないという(西頸城郡郷土史稿二)。信濃川の流域にはこの話が多く、あるいはミノボシともいう。多人数であるいていても一人だけにこの事があり、他の者の眼には見えない(井上氏妖怪学四七九頁)雨の滴が火の子のように見えるのだともいう(三条南郷談)。越前坂井郡でも雨の晩に野路を行くとき、笠の雫(しずく)の大きいのが正面に垂れ下り、手で払おうとすると脇へのき、やがてまた大きい水玉が下り、次第に数を増して眼をくらます。狸のしわざといい、大工と石屋とにはつかぬというのが珍しい(南越民俗二)。秋田県の仙北地方で蓑虫というのは、寒く晴れた日の早天に、蓑や被(かぶ)り物の端についてきらきら光るものでいくら払っても尽きないというから、これは火では無い(旅と伝説七巻五号)。『利根川図志』に印旛(いんば)沼のカワボタルといっているのは、これは夜中に出るので火に見えた。これも越後のミノムシと同じものだろうといっている。
(『妖怪談義』 妖怪名彙)

ノリコシ

影法師のようなもので、最初は目の前に小さな坊主頭で現れるが、はっきりせぬのでよく見ようとすると、そのたびにめきめきと大きくなり、屋根を乗り越して行ったという話もある。下へ下へと見おろして行けばよいという(遠野物語再版)。
(『妖怪談義』 妖怪名彙)

キツネタイマツ

狐火と同じものらしいが、羽後の梨木羽場(なしぬきはば)という村では、何か村内に好い事のある際には、その前兆として数多く現れたといっている(雪の出羽路、平鹿郡十一)。どうして狐だということが判ったかが、むしろより大きな不思議である。中央部では普通に狐の嫁入というが、これは行列の火が嫁入と似ていて、どこにも嫁取がないからそう想像したのであろうが、それからさらに進んで、狐が嫁入の人々を化かし、または化けて来たという話も多くできている。
(『妖怪談義』 妖怪名彙)

オイテケボリ

置いてけ堀という処は川越地方にもある。魚を釣るとよく釣れるが、帰るとなるとどこからともなく、置いてけ置いてけという声がする。魚を全部返すまでこの声が止まぬという。本所七不思議の置いてけ堀などは、何を置いて行くのか判らぬようになったが、元はそれも多分魚の主が物をいった例であろう。
(『妖怪談義』 妖怪名彙)

テンピ

天火。これはほとんと主の知れない怪火で、大きさは提灯ほどで人玉のように尾を曳(ひ)かない。それが屋の上に落ちて来ると火事を起すと肥後の玉名郡ではいい(南関方言集)、肥前東松浦の山村では、家に入ると病人ができるといって、鉦(かね)を叩いて追い出した。あ◆驍「はただ単に天気がよくなるともいったそうである。
(『妖怪談義』 妖怪名彙)

サガリ

道の傍らの古い榎樹(えのき)から、馬の首がぶら下るという話のある場処は多い。備前邑久郡にも二つまであって、その一つは地名をサガリといっている(岡山文化資料二巻六号)。
(『妖怪談義』 妖怪名彙)

オクリイヌ

また送り狼ともいうも同じである。これに関する話は全国に充ち、その種類が三つ四つを出でない。狼に二種あって、旅犬は郡をなして恐ろしく、送犬はそれを防衛してくれるというように説くものと、転べば食おうと思って跟(つ)い来るというのとの中間に、幸い転ばずに家まで帰り着くと、送って貰ったお礼に草鞋(わらじ)片足と握飯一つを投げて与えると、飯を喰い草鞋を口にくわえて還って行ったなどという話もある(播磨加東)。転んでも「まず一服」と休むような掛声をすればそれでもう食おうとしない。つまり害意よりも好意の方が、まだ若干多いように想像せられているのである。
(『妖怪談義』 妖怪名彙)

ワタリビシャク

丹波の地井(ちい)の山村などでは光り物が三種あるという。その一はテンビ、二は人ダマ、三はこのワタリビシャクで蒼白(あおじろ)い杓子形のものでふわふわと飛ぶという。名の起りはほぼ明らかだが、何がこれになるのかは知られていない。
(『妖怪談義』 妖怪名彙)

ヤギョウサン

阿波の夜行様(やぎょうさま)という鬼の話は『民間伝承』にも出ている(三巻二号)。節分の晩に来る髭(ひげ)の生えた一つ目の鬼といい、今は嚇(おど)されるのは小児だけになったが、以前は節分・大晦日・庚申(こうしん)の夜のほかに、夜行日という日があって夜行さんが、首の切れた馬に乗って道路を徘徊(はいかい)した。これに出逢うと投げられまた蹴殺(けころ)される。草鞋(わらじ)を頭に載せて地に伏していればよいといっていた(土の鈴一一号)。夜行日は『拾芥抄(しゅうがいしょう)』に百鬼夜行日とあるのがそれであろう。正月は子(ね)の日、二月は午(うま)の日、三月は巳(み)の日と、月によつて日が定(き)まっていた。
(『妖怪談義』 妖怪名彙)

クビナシウマ

首無し馬の出て来るといった地方は越前の福井にあり、また壱岐島にも首切れ馬が出た。四国でも阿波ばかりでなくそちこちに出る。神様が乗って、または馬だけで、または首の方ばかり飛びまわるという話もある。
(『妖怪談義』 妖怪名彙)

その他

著作リスト
抒情詩
明治30年4月(宮崎八百吉編 民友社)
山高水長
明治31年1月(石橋愚仙編 文学同志会)
遠野物語
明治43年6月(聚精堂)
海南小記
大正14年4月(大岡山書店)
山の人生
大正15年11月(郷土研究社)
雪国の春
昭和3年2月(岡書院)
民謡の今と昔
昭和4年6月(地平社書房)
明治大正史世相篇
昭和6年1月(朝日新聞社)
秋風帖
昭和7年11月(梓書房)
女性と民間伝承
昭和7年12月(岡書院)
桃太郎の誕生
昭和8年1月(三省堂)
一目小僧その他
昭和9年6月(小山書店)
郷土生活の研究法
昭和10年8月(刀江書院)
地名の研究
昭和11年1月(古今書院)
昔話と文学
昭和13年12月(創元社)
木綿以前の事
昭和14年5月(創元社)
国語の将来
昭和14年9月(創元社)
食物と心臓
昭和15年4月(創元社)
民謡覚書
昭和15年5月(創元社)
妹の力
昭和15年8月(創元社)
伝説
昭和15年9月(岩波書店)
こども風土記
昭和17年2月(朝日新聞社)
日本の祭
昭和17年12月(弘文堂書房)
村と学童
昭和20年9月(朝日新聞社)
笑の本願
昭和21年1月(養徳社)
先祖の話
昭和21年4月(筑摩書房)
毎日の言葉
昭和21年7月(創元社)
口承文芸史考
昭和22年1月(中央公論社)
氏神と氏子
昭和22年11月(小山書店)
婚姻の話
昭和23年8月(岩波書店)
島の人生
昭和26年9月(創元社)
なぞとことわざ
昭和27年10月(筑摩書房)
不幸なる芸術
昭和28年6月(筑摩書房)
年中行事覚書
昭和30年10月(修道社)
妖怪談義
昭和31年12月(修道社)
故郷七十年
昭和34年11月(のじぎく文庫)
昭和49年3月(朝日選書)
海上の道
昭和36年7月(筑摩書房)  
定本柳田国男集
昭和37年1月~39年11月(筑摩書房)
新編柳田国男集
昭和53年4月~54年4月(筑摩書房)
監修・協力
監修者
近藤雅樹
協力

荻野裕子

柳田冨美子

柳田國男・松岡家顕彰会記念館

三木家

宮崎修二郎

姫路文学館

成城大学民俗学研究所

平岡徳太郎

真砂図書館

文京ふるさと歴史館

国書刊行会

千葉県立大利根博物館

徳満寺

椎葉民俗芸能博物館 永松敦

椎葉村役場

遠野市役所

遠野市立博物館

遠野ふるさと村

とおの昔話村

菊地栄子

野外民族博物館リトルワールド

神奈川県教育庁生涯学習文化財課

神奈川県民俗芸能保存協会

沖縄県立博物館 桃原茂夫

玻座真保幸

八重山広域市町村圏事務組合

神戸新聞社

神戸新聞総合出版センター

福崎町教育委員会

篠山市役所

篠山市商工会

瀬川カメラ

大屋町教育委員会

兵庫県立歴史博物館

湊川神社

財団法人淡路人形協会

粕渕宏昭 

高橋寛樹

中野輝良

ほか

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