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山田風太郎館

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但馬の山田風太郎

小説・エッセイに見る風太郎の原風景

石の下(小説・昭和15年)

作品より

源三の家は代々この山の家で医者を続けていた。徳川時代から医者をやっているのである・・・・・・何だか自分の家ではないような気がする。まるで煤でも塗りつけたように黒光りのする梁や柱を眺めてさえ幾分重っ苦しい感じを受けるのに、親類の老人や大人が三十人近く固い表情でぐるりと取りまいているのである。葬式がすんでも、家主の居なくなったこの大きな家の後始末を、この人達は毎日相談して居たのだった。

勘右衛門老人の死(小説・昭和18年)

作品より

未だ雪深い山陰道の彼の故郷へ、その年の夏、宮様が御避暑になることになった。さう云へば彼の村は、白砂青松は勿論、十分寄勝と云ふに足る「西の洞門」や「獅子の青島」に彩られた長い岬が、魚の群れ透く遠浅の入江を抱いて、まるで鄙びた細工物のやうに美しい風景の中にあった・・・。
「み、見ろ。灯がついた。御別荘に灯がついた」
勘右衛門は震へる声を揚げて海の方を指さした。

勘右衛門老人の死(小説・昭和18年)
達磨峠の事件(小説・昭和22年)

作品より

「真吾さん、達磨峠の二本松に首吊り女があるそうじゃ。・・・とりあえずあんた行って見てくれい」………………
僕は長靴が滑らないように、女中に縄切れでそこを括らせて、成瀬巡査と末次郎と一緒に夜明前の村路を、達磨峠に向けて急行した。
達磨峠というのは、僕のA村からその東方B部落へ越える峠で、B部落はそこの谷の中のどん詰まりにあたる戸数三十前後の小集落である。昨年の十月復員した発見者の末次郎は、そこの炭焼男で、また縊死したというお愛の父も同じ部落の兼農の鍛冶屋だった。………………

達磨峠の事件(小説・昭和22年)
雪女(小説・昭和23年)

作品より

―あなた「雪女」って怪談、知っていますか?・・・私の故郷―山陰の但馬国には、昔からこういう名の怪談が語り伝えられています。・・・実は私の家は近くの金雲寺という禅宗寺の・・・檀頭という奴なのですが、ここの和尚が絵が好きで、旅廻りの乞食絵師などをよく宿泊させていた。この坊主が・・・何処か遠い滋賀県の方の寺へ・・・急に夜逃げをするように行ってしまい、ちょうど泊まっていた絵師夫妻が―城貝白羊といいました―取残されて泡を喰い、途方にくれているのを檀頭のうちが引き取って、当分世話をしてやることになったのだそうです。

旅の獅子舞(小説・昭和24年)

作品より

雲白き中国山脈、海抜二千尺の山のうえに、いつの昔から、なんの望みあって住んだのか。女は繭をつくり、男は柳をつくる。この柳は麓からちかくの町へ運ばれて名産の柳行李となる。・・・秋から初冬にかけて毎年但馬路を悪魔ばらいの獅子舞いとなって旅に出る習いは、その貧しさゆえの出稼ぎにはちがいないが、篝火村をひと呼んで平家の子孫という声もあるから、なにか古くゆかしい由緒でもあるのかも知れない。

天国荘寿譚(小説・昭和25年)

作品より

・・・断って置くが、これは七三にわけた頭をトンボびかりにひからせている、アブレゲールの中学生の話ではない。太平洋戦争まえの「野蛮時代」山陰地方のある山のなか―豊国中学の寄宿舎、青雲寮に起こった物語である。想えば、このあかるい、健康な風物詩のなかを、上野動物園の猿のごとく、飛んだりはねたりした悪戯な少年たちは、そのとき夢想だにしなかったその後の悲壮な嵐のなかに、ほとんど半ば、勇ましい姿を、永遠にこの地上から消してしまった。・・・・・

山童(やまわらべ)伝(小説・昭和26年)

作品より

慶長十七年の夏・・・(金山奉行・大久保石見守長安の)名大として子息の雲十郎が・・石見の大森銀山から山陰道づたいに但馬の中瀬鉱山へまわってきたところだった。
ところで、この付近の大屋郷の山中にあるといわれる天童という大瀑布。幅一丈八尺、高さ実に四十丈ときいたついでに、この十年あまり、そのあたりに「山童」という怪物が出没するという村役人のはなしから驕慢な雲十郎の横紙やぶりがちょいと機鋒をあらわした。・・・
山また山、西の方、蒼天を摩してそびえるその名も恐ろしい氷の山。そこからながれくだる水はしだいにあつまって、いま眼下四百尺の大断崖に凄まじいとどろきをあげている。

山童(やまわらべ)伝(小説・昭和26年)
江戸にいる私(小説・昭和34年)

作品より

・・・薮井家は、但馬豊岡藩一万二千石、京極甲斐守のお抱え医師で、住居は深川藪の内というところにあり、父の庄斎はすでに隠居し、彼が現役で薮井庄庵という人間である。・・・・・。
・・・お抱え医師といっても、べつに京極家の藩医というわけではなく、どこの江戸屋敷にもある万一の際の予備の医者で、扶持はもらっているけれど、お呼びでなければ出勤する必要はなく、そのまま町医者をやっていて結構だということである。

江戸にいる私(小説・昭和34年)
わが家は幻の中(エッセイ・昭和54年)

作品より

私の生まれた家は、あると言えばあるし、ないといえば、ない。・・
その意味を明らかにするためには、わが家の歴史を語らなければならない。なに、大した歴史ではありません。
なにしろ、兵庫県養父郡(やぶぐん)関宮(せきのみや)村という―現在は町になっている―但馬の国の、すぐ南を中国山脈がふさぎ、西の方に遠く鳥取県境の1,510メートルの氷ノ山を望む、山中の村の話である。
「風眼抄」(1990年11月)中公文庫より

わが家は幻の中(エッセイ・昭和54年)
出石城
遠い夕日(エッセイ・平成元年)

作品より

母のことを想い出すと、遠い山に沈んでいった小さな夕日のような気がする。母は私が十三の年に死んでしまったからである。
― 略 ―
私のまぶたに残っているのは、いつも座って縫いものをしていた姿だけである。
― 略 ―
ただひとつ私にとって宝石のような想い出がある。
小学校六年の夏休みのことだと思う。私は友達と弁当を作ってもらって
― 略 ―
山の中へ遊びに出かけた。そして、まだ朝涼のうちに、ある場所で露にぬれた一本のすばらしい山百合を見つけた。
私は是非それを母にやりたくなった。そこで友達をほうり出して、その山百合がしおれないうちに、二、三時間山道を走りつづけて家にかけもどった。
― 以下略 ―
「半身棺桶」(1998年2月)徳間書店より

父の死(エッセイ・平成3年)

作品より

この冬私は、六十余年前の父の死について、私にとっては驚くべき一通の手紙をもらった。・・・・その手紙には、「ご父君の太郎先生は金ぶち眼鏡をかけられた、五千円札の新渡戸稲造そっくりの、堂々たるハイカラな紳士風でした」とあり、さてその次に私を驚かせた記述があるのである。
「先生が金昌寺で倒れられた噂は、話題に乏しい田舎のことですから、電光のごとく村内に伝わりました。私の聞いたところでは、往診ではなく寺の会議に参席され、当夜は寒い夜とのこととて、炭火で暖をとられていて、その一酸化中毒になられたらしい、とお聞きしていました。・・・

父の死(エッセイ・平成3年)
少年時代の映画(エッセイ・平成8年)

作品より

はじめて映画というものを見た記憶をたどってみると、それは学齢期以前の野天の映画である。私は山陰但馬の山村に生まれたのだが、小学校の校庭に幕を張り、野天で映画を映すのだ。・・・・・・
小学校にはいって四年五年になって、・・・山陰線で五駅ほど離れた祖父の家で暮らすことになった。・・・ある夏の夜・・叔父が隣町の映画館に連れていってくれた。・・・この隣町の映画館へは往復に三、四キロはある峠を越えなければならない。街燈などあるべくもないから、坊主頭の中学生と小学生が提灯を一つぶらさげて、暗い峠を越えてゆく光景を想像すると、これまた前世の話のような気がする。・・・・・・
やがて中学にはいった。豊岡という但馬第一の町だ。・・・中学三年のころから、映画館に出入し始めた。・・・私が出入したのは駅前の日活系のもので、もう一方は何系であったかよく知らない。
『あと千回の晩飯』朝日新聞社より

諸寄村
諸寄村

但馬ゆかりの作品

ジャンル 作品名 作品の舞台 但馬の土地・風物 初 出 今読むには…(作品収録本)
小説 陀経寺の雪 作品の舞台 但馬の土地・風物 昭和16年1月「受験旬報」 光文社文庫「山田風太郎ミステリー傑作⑩」収録
小説 勘右衛門老人の死 関宮ほか 昭和22年1月「眼中の悪魔」(岩波書店)収録 光文社文庫「山田風太郎ミステリー傑作選⑩」収録
小説 雪女 作者の生家・金昌寺 昭和23年11月「受験旬報」 光文社文庫「山田風太郎ミステリー傑作選③」収録
小説 旅の獅子舞 関宮:轟?、但馬海岸の村々 昭和24年11月「新青年」 光文社文庫「山田風太郎ミステリー傑作選⑩」収録
小説 天国荘奇譚 豊岡:旧制中学の学生生活 昭和25年1月「宝石」 廣済堂文庫「山田風太郎傑作大全6」収録
小説 山童伝 大屋:天滝、関宮:中瀬金山 昭和26年3月「面白倶楽部」 廣済堂文庫「山田風太郎傑作大全14」収録
小説 青春探偵団 豊岡:旧制中学の学生生活 昭和32年11月~33年10月~「明星」「全国学生新聞」ほか 廣済堂文庫「山田風太郎傑作大全10」収録
エッセイ わが家は幻の中 関宮:作者の生家 昭和54年4月「小説現代」 中公文庫「風眼抄」収録
エッセイ 私の死ぬ話 関宮:金昌寺 昭和60年6月「野生時代」 徳間書店「半身棺桶」収録
エッセイ 遠い夕日 関宮:母の思い出 平成元年7月「私に母親が教えてくれたこと」 徳間書店「半身棺桶」収録
エッセイ 古川ロッパの話 出石 平成6年10月~8年10月「朝日新聞」連載エッセイ 朝日新聞社「あと千回の晩御飯」収録

主な作品

  • ミステリィより
  • 忍法帖より
  • 明治物より
  • 日記文学、
    エッセイより

瞳の中の悪魔 1948年(昭和23年)岩谷書店

作家デビューとなった作品、当時は医学生であった風太郎が医学的な知識を駆使して書いた、異常心理サスペンス、この作品と「虚像淫楽」とで、1949年、第2回探偵作家クラブ賞を受賞した。

夜よりほかに聴くものなし 1962(37年)東都書房

ひとりの老刑事が出会った折々の事件と犯人について淡々と語る作品。「それでもおれは手錠をかけねばならん」と刑事の一言で幕を下ろす鮮やかな手練もさることながら、人間の裏表、清純と汚濁がねじりあわさせたアイロニーなど、初期の傑作である。

太陽黒点 1963年(38年)桃源社

貧しい学生が富豪の娘と知り合ったことから、社会的成功へのし上がってゆく野望を描いた社会派、本格的サスペンス作品。

好異金瓶梅 1954年(29年)大日本雄弁会講談社刊

中国の好色文学「金瓶梅」を基に、金瓶梅の自由奔放な成り立ちをそっくりまねて、パロディ化しつつ、本格ミステリとして再構築した作品。

甲賀忍法帖 1959年(34年)光文社

甲賀と伊賀の忍者の精鋭、それぞれ10人ずつと闘わせて、徳川三代将軍の跡継を決めるという、荒唐無稽なルールによる、闘いのゲームが始まる。次々と立ち現れる忍者と、その忍法の奇想天外なトーナメント戦が最大の見せ場である。
この作品により忍法という言葉が広まった。

くノ一忍法帖 1961年(36年)講談社

「くの一」=女忍者という言葉を定着させた作品。真田幸村の命を受けた女忍者が、豊臣家再興のため秀頼の子種を宿そうと奮闘するエロティシズムの作品。

伊賀忍法帖 1964年(39年)東都書房

媚薬を作るため、次々と女を狩り集める松永弾正と果心居士に恋人を奪われた伊賀忍者が闘いを挑む。

柳生忍法帖 1964年(39年)講談社

柳生十兵衛がか弱き女たちの敵討ちの後ろ盾となり、会津40万石に挑む。

魔界転生 1967年(42年)講談社

妖法によって死から蘇った天草四郎、荒木又右衛門、宝蔵院胤舜、柳生但馬守、宮本武蔵ら剣豪が次々と十兵衛を襲う。

警視庁草紙 1975年(50年)文芸春秋社

大警視、川路利良は新東京の治安を一手に握っていた。その新警察庁に元南町奉行所の面々が面白半分の知恵比べを挑む。開化期を舞台に史実に忠実でありながら史実の綻びを見つけては、あり得たかもしれないもう一つの歴史を作ってみせている。

幻燈辻馬車 1976年(51年)新潮社

元会津藩士と孫娘の駆る辻馬車に、さまざまな乗客が事件を持って乗り込んでくる。事件に巻き込まれ、危険が迫るや、会津の戦いで戦死した孫娘の父親が現れては親と娘の危機を救う。

明治波涛歌 1981年(56年)新潮社

港から日本を出ていった者、日本にやって来た者、それぞれのドラマを描く。この作品は新時代の幕開けとともに、古き時代の良き慣習、生き方までもが失われていくことへのアイロニーである。

エドの舞踏会 1983年(58年)文芸春秋社

鹿鳴館に集まった、明治の元勲たちとその妻たちのドラマであるが、特に彼らの妻たちの人生に焦点が当てられている。

地の果ての獄 1977年(52年)文藝春秋社

北海道の樺戸・空知両集治監獄で起きるさまざまな出来事を、薩摩出身の有馬四郎助が見聞・体験する。囚人と看守、獄内と獄外を問わず多くの曲者が入り乱れての恩讐の物語。

風眼抄 1979年(54年)六興出版

初のエッセイ集。

幻燈辻馬車 1976年(51年)新潮社

元会津藩士と孫娘の駆る辻馬車に、さまざまな乗客が事件を持って乗り込んでくる。事件に巻き込まれ、危険が迫るや、会津の戦いで戦死した孫娘の父親が現れては親と娘の危機を救う。

人間臨終図巻上・下 1986年(61年)徳間書店

さまざまな人間の死に際の記録だけを集めた特異な形のノンフィクション。刊行するや、全国的な話題となる。

あと千回の晩飯 1997年(平成9年)朝日新聞社

最後の執筆となったエッセイ。

戦中派不戦日記 1971年(昭46年)番町書房

昭和20年、敗戦の年の一年間の日記。
昭和20年8月15日(水)炎天
帝国ツイニ敵ニ屈ス。

滅失への青春―戦中派虫けら日記 1973年(昭48年)大和書房

昭和17年~19年の日記。

戦中派焼け跡日記 2002年(平成14年)小学館

昭和21年の日記。風太郎の死後1年を経て出版される。この日記のあとも昭和22年~23年の日記戦中派闇市日記も相ついで出版された。

ゆかりの地めぐり

関宮

1金昌寺

山田家の菩提寺。昭和2年12月。この金昌寺で会議中、実父太郎が脳溢血で倒れる。三日後、意識不明のまま他界。この時風太郎は五歳だった。父の死後大きく風太郎の運命が変わっていくことも知らず、幼い風太郎は寺の庭でボール投げをして遊んでもらっていたという。

2関神社

風太郎少年が毎日のように遊んだ神社。うっそうと巨木が繁り、昼でも暗く、別世界をかもし出す。ここで忍者物などの構想が生まれたと思える。

3風太郎の生家

大正11年(1922)1月4日、山田誠也は、山田医院(当時は関宮村に一軒のみであった医院)の長男(戸籍上は三男、長男、次男は幼少時死亡)として生まれた。実は土岐(とき)医院(建物は今はなし)にて生まれたのだが、風太郎が五歳の時、土岐医院の斜め前に山田医院が建ち、そこで育った。
山田医院は、隣村(吉井地区)にあった本陣を移築したもので、築200年ほどにもなる、大変貴重な家でもある。現在関宮町に残る江戸時代の本陣屋敷、唯一つの家である。
この家で風太郎は19才で上京するまで育った。後にエッセイ「風眼抄」に詳しくこの家のことを書いている。

4生家隣の造り酒屋「銀海」

山田医院隣の造り酒屋。
この家も、山田医院と同じくらい古い建物で、築150年位経っている。
風太郎の酒「風々」を新しく造って、売っている。風太郎の日記にもよく記述のある酒屋である。

5愛宕山(あごたやま)公演

少年風太郎は、親友前田一男氏と学校から帰ると、きまってこの裏山の愛宕山に登って遊んだという。細い山道が二とおりについており、競争で走って登っていったという。

途中の坂道には実父山田太郎の寄進したお地蔵さんが第5番目に立っている。

6多聞寺

小高い山に建っており、関宮の村が一望できる。豊岡中学生の頃、受験雑誌「受験旬報」(後に「螢雪時代」)に投稿して一等に入選した小説、「陀経寺の雪」のモデルにしている寺である。

7山田風太郎記念館

平成15年(2003年)4月1日オープン。風太郎が学んだ旧関宮小学校の跡地に建つ。風太郎の小学校、中学校時代の同級生や関宮町在住の有志約15名で「山田風太郎の会」を設立し、当時の関宮町(現在は養父市)に働きかけ、3年間の運動により建設した。町の委託事業として、「山田風太郎の会」が記念館を運営し、風太郎の顕彰活動をやっている。
館内には、風太郎愛用の品々、書斎のコーナー、初版本約300冊のコーナー、直筆原稿、映画化のポスター・書簡、系図、年譜等のコーナーがあり、約1,200点が展示してある。
展示室のほかに、交流室があり、無料で、風太郎の映像ビデオ、DVDなどが見れる。又、「風太郎文庫」のコーナーもあり、無料で本の貸し出しも行なっている。

8風太郎記念碑

旧関宮町小学校の正門横に建っている文学碑である。「風よ伝えよ幼き日の歌」
書は風太郎が6年生の時の担任であった、風信会主宰故細川泰翠の書である。
関宮小学校100周年の記念として、当時校長をしていた同級生前田一男氏の要請で文を寄せたものである。

諸寄

風太郎の実母(寿子)は浜坂町諸寄(もろよせ)に生まれた。やはり関宮と同じく当時の諸寄には唯一軒しかなかった、小畑医院の一人娘だった。小畑家はもともとは、鳥取藩のお抱え絵師であった小畑稲升(とうしょう)を祖としている。小畑稲升は鯉の絵を得意とし、「鯉の稲升」と呼ばれる有名な絵師であった。風太郎は、幼少時より絵ばかり描いており、指に絵を描いたためのペンダコが出来ていたという。小説家になろうとは思わず絵かきになりたかったと話している。風太郎には、小畑稲升の才能が流れていたのかもしれない。小畑医院は、寿子のほかに男ばかり6人もの弟がいたがそのほとんどが、優秀な医学校の卒業生であったが、戦死したり、病死し、医院は絶えてしまった。

諸寄

母の実家

諸寄村(当時)500戸ほどの小さな村のただ一軒のみの医院だった。母寿子は医師小畑義教の長女。実父が風太郎5歳の折死去したため、祖父義教の世話を受ける。

諸寄

風太郎の通った小学校

小学校4年生の時、母の実家に引きとられる。(母と風太郎、父の死亡後生まれた妹昭子の三人で。)4年生、5年生の二年間を諸寄小学校に通う。

諸寄

実母寿子、妹昭子と三人で暮らした部屋

かかっている掛軸は風太郎に絵を教えた祖父の絵。祖父(小畑義教)の祖父は鳥取藩お抱え絵師小畑稲升。
鯉の絵で有名な“鯉の稲升”と呼ばれた。

日高町

風太郎の実父山田太郎は日高町太田(ただ)の山田医院の二男として生まれた。太郎の姉里子が、関宮の土岐(とき)松吉医師と結婚し、三子をもうけたが、松吉医師は早くに死亡する。姉一家を助けるために、太郎が土岐医院の医者となり、そこで、浜坂町諸寄の小畑医院の一人娘寿(ひさ)子と結婚、誠也(風太郎)が生まれた。
風太郎5歳の時、太郎が急死し、太田の太郎の弟孝が今度は父となったのである。
日高町の実家は、長男禎蔵が山田医院を継ぎ、弟の太郎、孝を医学校に出すなど援助して、関宮の山田医院を支えたが、禎蔵の代で医院は絶え、美術大学を出て教師となった、山田誠が住んでいる。
墓所も近くになる。

日高町
日高町

豊岡

風太郎は昭和10年(1935年)豊岡中学に入学した。
これまでの年譜には昭和11年とあるが、これは誤りである。
入学した当時は成績優秀で、真面目な生徒であったが、中学1年から2年に上る年、母の寿子が急死する。
5才にて実父をなくしていた風太郎にとって、優しい母の愛情だけが支えであった。しかし、その母も失ない、孤独のどん底につき落とされた。当時のことを後に、「母の死後私にとって薄闇の時代が始まる。この年齢で母がいなくなることは、魂の酸欠状態をもたらす、その打撃から脱するのに、私は十年を要した。……」と書いている。母の死後、優等生から、不良学生(?)へ転落していく。
「風」「雨」「雷」「想」などの暗号を使って、さんざん寮で、学校であばれまわることになるのである。
その時の暗号の風が終生のペンネーム風太郎となった。
旧制豊岡中学は、現在兵庫県立豊岡高等学校となり、当時をしのばせるものは「達徳会館」のみであるが、当時のままに残っている。

豊岡
豊岡

出石

風太郎の祖先は、出石藩士山田八左衛門に始まる。
江戸時代の三大お家騒動の一つに仙石騒動と呼ばれた大きな事件があった。山田八左衛門は、その仙石騒動の主役をつとめた、仙石家の筆頭家老であった仙石左京の姉の婿であり、年寄であった。
左京は打ち首、八左衛門は追放処分となり、自害した。
八左衛門には三人の子どもがいた。
熊太郎、加藤正照の妻となった錫子、理吉である。
錫子はその事件の折、身ごもっていて、後に生まれたのが、加藤弘之である。
弘之は、初代東大総長となり、明治を代表する思想家である。出石の城跡近くに加藤弘之生家がきれいに補修されて現存している。
加藤弘之と風太郎は遠い親せきとなるのである。加藤弘之については、生家近くの出石町立明治館に展示されている。

出石
出石

紙芝居「八犬伝」

紙芝居「八犬伝」

もっと知るために

作品名 出 版 作 者
「もうひとりの山田風太郎」 2000年 砂子屋房刊 有本倶子著
「山田風太郎疾風迅雷書簡集」 2004年 神戸新聞総合出版センター 有本俱子著
「戦中派天才老人山田風太郎」 1995年 マガジンハウス 関川夏央著
「風風院風風風居士、山田風太郎に聞く」 2001年 筑摩書房 森まゆみ著
「戦中派不戦日記」 1971年 番長書房 山田風太郎
「戦中派虫けら日記」 1973年 大和書房 山田風太郎
「戦中派焼け跡日記」 2002年 小学館 山田風太郎
「戦中派闇市日記」 2003年 小学館 山田風太郎
「戦中派動乱日記」 2004年 小学館 山田風太郎

監修者から

山田風太郎記念館が、オープンして間もなく東京の人より、記念館に電話がかかってきた。
「これから記念館に行きたいのですが、何線に乗ったらいいんですか」「新大阪か京都で山陰線に乗り換えて、八鹿駅下車です。」「えっ、東京にあるんじゃないんですか」「ええ、ここは、兵庫県、但馬です。」「東京から何時間かかるんですか」「約七時間ほどです。」「えー、そんなに、今日中は無理ですねぇ、風太郎さんは東京の人じゃなかったんですか」いかにも残念そうに、電話は切れた。この人のように、風太郎は東京人と思っている人は意外と多い。又、地元でもつい最近まで但馬人とは知らなかった。と言う人が多い。それほどに、作家風太郎と彼の故郷但馬とは遠い関係にあった。しかし、めったに帰らなかったけれども、風太郎の生涯にわたっての望郷の想いが、その膨大な、傑作の数々を生み出させたのではないかと思う。今回のミュージアム「山田風太郎」では、風太郎ゆかりの地から、又、但馬を舞台とした作品から、但馬人風太郎にスポットをあててみたものである。
作家・歌人・山田風太郎の会副会長 有本倶子

監修・協力
監修者
有本俱子
協力者
山田啓子
山田風太郎の会
養父市
山田風太郎記念館
多聞寺住職 増谷慈法
養父市教育委員会
養父市中瀬金昌寺
銀海酒造株式会社
出石町教育委員会 ほか
関連リンク
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