企画展示
源三の家は代々この山の家で医者を続けていた。徳川時代から医者をやっているのである・・・・・・何だか自分の家ではないような気がする。まるで煤でも塗りつけたように黒光りのする梁や柱を眺めてさえ幾分重っ苦しい感じを受けるのに、親類の老人や大人が三十人近く固い表情でぐるりと取りまいているのである。葬式がすんでも、家主の居なくなったこの大きな家の後始末を、この人達は毎日相談して居たのだった。
主人公“源三”(=作者自身の投影)は中学5年生(旧制)で高校受験を目前に控えている。三年前父を失ったが運よく大学の医学部を卒業した兄が家業を継いでいた。ところがその兄が風邪をこじらせて突然死んでしまう。文科へ進もうとしていた源三の身に、いきなり医者になって家を継ぐべき運命が降りかかる。
「本家」や親類の重圧に母は息子の代弁もかなわず源三は窮地に立たされるが、そんな孤立無援の彼を優しく見守り支えるのが伯父夫婦の娘“道子姉さん”である。・・・・・・・
これは人物設定は変えてあるものの、父に続いて中学生の時突然母まで亡くした風太郎(誠也少年)が、一人息子の自分に医者を継ぐべく迫る大人たちとの暗闘を小説にしたもので、最後に源三が道子に励まされて、ついに文科への進学を決意する場面は“誠也少年”の叫びそのものを聞くようだ。
関宮の生家が舞台。江戸時代の本陣を移築したと言われる豪壮な母屋が今も残っている。ただ移築の際隣接して建てられた医院は最近(平成16年)取り壊された。この家については代表的なエッセイ集「風眼抄」の中の「わが家は幻の中」に詳しく書かれている。生家は旧山陰道の宿場であった関宮の中心街に近い。隣の酒造家や近くの“関神社”が当時の面影を今に伝える。旧街道も国道9号線が新しいバイパスに移ったお陰で、まだ風太郎(誠也)少年が暮らしていた当時の雰囲気を残している。
未だ雪深い山陰道の彼の故郷へ、その年の夏、宮様が御避暑になることになった。さう云へば彼の村は、白砂青松は勿論、十分寄勝と云ふに足る「西の洞門」や「獅子の青島」に彩られた長い岬が、魚の群れ透く遠浅の入江を抱いて、まるで鄙びた細工物のやうに美しい風景の中にあった・・・。
「み、見ろ。灯がついた。御別荘に灯がついた」
勘右衛門は震へる声を揚げて海の方を指さした。
村一番の旦那で村長の“勘右衛門”は“さる宮家”のために岬の上に宮殿のような別荘を建てて得意の絶頂にあった。片や“與吉”はその小作人で7歳の“雄一郎”はその息子だ。雄一郎13歳の時與吉が事故で半身不随の廃人となる。雄一郎は「馬車馬のように」働いた。だが援助する人があって彼は思いがけず中学へ進学する。勘右衛門は「水吞百姓の餓鬼が中学へ?」と激怒した。やがて戦雲急を告げる時局に、雄一郎は海軍兵学校の受験を決意する。これにも勘右衛門は「虫けらの與吉の小伜が海軍の将校様になれるかよ。」とあざ笑い、憎さの余り與吉に死の呪いを掛ける。実は勘右衛門最愛の娘を亡くし、また詐欺にかかって没落への坂を転がりつつあったのだ。與吉は死ぬが雄一郎は海兵に合格し、やがて少尉候補生として出陣の前夜帰省して落ちぶれ果てた勘右衛門老人を見る。そこで彼は老人の突然の死に立ち会い、その口から思わぬ“遺言”を聞くのだった・・・・・・・・・。
作者が小学校4、5年の2年間を過ごした山陰の漁村“諸寄”が舞台。母の里で、中学卒業後浪人中もここで受験勉強をした。現在もその“小畑医院”は、医者は廃業したものの外観はほぼ当時のまま残っている。主人公の“雄一郎”は、実際にも海軍兵学校に進んで後に将校となった同級生の姿を借りている。また諸寄は昭和4年から約10年間久邇宮家の避暑地とされ、村の大地主が別邸を提供したという事実もあった。
戦後諸寄の村も“近代化”の波に洗われて、作品に描かれた純朴さや封建的な因習は昔の話となった。宮家が滞在した“別邸”の跡形もない。しかし浜坂との境に横たわる“城山”から見下ろす諸寄は、昔と変わらぬ「鄙びた」漁村で、小さな美しい入江にはこれまた昔と変わらぬ一文字の波が穏やかに寄せている。
「真吾さん、達磨峠の二本松に首吊り女があるそうじゃ。・・・とりあえずあんた行って見てくれい」………………
僕は長靴が滑らないように、女中に縄切れでそこを括らせて、成瀬巡査と末次郎と一緒に夜明前の村路を、達磨峠に向けて急行した。
達磨峠というのは、僕のA村からその東方B部落へ越える峠で、B部落はそこの谷の中のどん詰まりにあたる戸数三十前後の小集落である。昨年の十月復員した発見者の末次郎は、そこの炭焼男で、また縊死したというお愛の父も同じ部落の兼農の鍛冶屋だった。………………
敗戦後間もない北国の冬、とある山奥の峠で若い娘の首吊り死体が発見される。たまたま村医の息子で東京医大の学生“真吾”が帰省しており、病気の父に代わって検死役をさせられる。真吾は死体の状況からそれが他殺であることを見抜き大騒ぎとなる。当夜その娘の他に峠を越えた者はなく、容疑者は頂上近くの炭焼小屋に寝泊まりしていた若者“末次郎”と“甚吉”の二人に絞られるが・・・・・・・・。ここから真吾の医学知識を駆使した推理が始まり、ついには死亡推定時刻と現実との矛盾の裏にひそむカラクリを見破って真犯人を突き止める、という話である。
これは周知のとおり雑誌「宝石」の懸賞に入選した風太郎のデビュー作であるが、選者が高く評価したのは作品の組立よりも「細かい人間観察が行き届い」た、その巧みな人物描写であった。風太郎は早くもこの作で「危なげない作家生活が送れることを保証」されたのである。
“達磨峠、A村、B部落”は作者の設定で、現実にそのままの峠や集落がある訳ではない。しかし書かれた時期や背景から、それは関宮から村岡へ越す八井谷峠をモデルとしたと思われる。事実近在の山上に「二本松」と呼ばれる松がかつて存在し、そこで首吊りもあったと伝えられている。炭焼や山村の実態は風太郎自身が関宮で見聞したであろうし、しばしば滞在した日高町神鍋の山村“河江”でもつぶさに体験している。八井谷峠は積雪も多く冬季は遭難者も出たが、昭和40年トンネル(国道9号線「但馬トンネル」)が開通し、かつての峠道は今荒れ果てて通る人影もない。風太郎の叔母“ちか”が居た山村“河江”からも若者の姿は消え、今は僅かに数戸が狭い谷間にひっそりと身を寄せ合っている。“ちか”の嫁いだ農家もその後町へ出て、今かつての屋敷跡にはただ無常の風が吹き渡るのみである。
―あなた「雪女」って怪談、知っていますか?・・・私の故郷―山陰の但馬国には、昔からこういう名の怪談が語り伝えられています。・・・実は私の家は近くの金雲寺という禅宗寺の・・・檀頭という奴なのですが、ここの和尚が絵が好きで、旅廻りの乞食絵師などをよく宿泊させていた。この坊主が・・・何処か遠い滋賀県の方の寺へ・・・急に夜逃げをするように行ってしまい、ちょうど泊まっていた絵師夫妻が―城貝白羊といいました―取残されて泡を喰い、途方にくれているのを檀頭のうちが引き取って、当分世話をしてやることになったのだそうです。
「私の家」に伝わる一幅の「雪女」の絵。その内函にはこれを見た者は「まなこ腐れ候」と書いてあった。家人は、この絵を描いた曾祖父が狂い死を遂げた事実に恐れをなして、ついぞ函を開けることはなかった。その「私の家」に画家の白羊夫妻が寄寓し、ある日白羊が禁断の絵を見てから次々と怪異が起きる。二カ月後、彼の妻・千恵の姿がこつ然と消えたかと思うと、間もなく女中のお絹が急に陰鬱になり、やがて肺炎に罹って死んでしまう。そのお絹が最後に漏らした謎めいた言葉。そこへ偶々帰省した「私」は怪異の真相を突き止めようとする。そしてある夜、雪女のような千恵の亡霊を見た白羊は「私」の前から一目散に遁走する。すぐに「私」と家人は千恵さんの死体を求めて地面を掘ってみるのだが・・・。最後に「私」の推理は事件の意外な全貌を明らかにする。江戸川乱歩はどこか鏡花の怪談を思わせるこの作品を高く評価した。
「私」は風太郎自身、「私」の曾祖父で鳥取藩の御抱絵師「水鬼」は風太郎の母方の曾祖父“小畑稲升”、「私の家」は関宮の生家、「金雲寺」は山田家の菩提寺で現・養父市中瀬の“金昌寺”、日本画家の「白羊」は実際に金昌寺に寄寓していた画家の“松雲”をモデルにしている。諸寄の母の実家には“稲升”の絵が、関宮の金昌寺には“松雲”筆の襖絵や衝立が残されており、風太郎も二人の作品を目にしたことがあったであろう。ところで金昌寺は風太郎が5歳の時、ここで会議中に父の太郎が脳溢血で倒れた因縁の寺である。なお作中重要な役割を演ずる「私の家」の近くの“火ノ見櫓”は残念ながら今は残っていない。しかし冬の但馬には今日でも、ふと雪女が現れてもおかしくはない雪の夜があるのは確かだ。
雲白き中国山脈、海抜二千尺の山のうえに、いつの昔から、なんの望みあって住んだのか。女は繭をつくり、男は柳をつくる。この柳は麓からちかくの町へ運ばれて名産の柳行李となる。・・・秋から初冬にかけて毎年但馬路を悪魔ばらいの獅子舞いとなって旅に出る習いは、その貧しさゆえの出稼ぎにはちがいないが、篝火村をひと呼んで平家の子孫という声もあるから、なにか古くゆかしい由緒でもあるのかも知れない。
但馬の山中、篝火村の獅子舞一座をめぐる哀しくも恐ろしい物語。一座の「ひょうきん爺い」=桐平老人は十八年前一座の親方に拾われた。その時連れていた赤子も今は十八。皿回しの鞠代である。桐平を助けた親方も既に亡く、息子の金五郎が親方だ。その相棒が美貌の若者「七郎」。相思相愛の鞠代と七郎に金五郎の黒い嫉妬の目が光る。今年も巡業の秋がやってきた。が、獅子の頭をかぶる七郎に、尾を受け持つ金五郎。その七郎が突然何を思ったか獅子頭をかぶったまま短剣を胸につき立ててこと切れる。嘆き悲しむ鞠代。その陰に、一部始終をじっと見つめる桐平の深く鋭い眼差しがあった・・・。巡業は止められない。桐平に励まされ健気に皿を回す鞠代。と、入れ替わった金五郎の“あやとり”のの短剣がスッーと落ちて・・・・・。忌まわしい事件と織りなす哀しくも愛しい人間模様を、美しい但馬の自然を舞台に描いた一遍。
「篝火村」は関宮の“轟”集落をモデルにしたものと思われる。氷ノ山の長大な東尾根の一画、標高600mの山懐に抱かれるように、下界から隔絶された一集落がある。今は“轟大根”で有名だが、かつては養蚕や柳栽培も盛んであった。今でも見かける桑の老木や、湿地に残る柳にかつての生業の跡をしのぶことができる。冬は「獅子舞」ではなく杜氏などの出稼ぎに行った。村の由緒は、「平家の子孫」ではなく、その昔、藤原純友に連なる長門守秀貞という者が、純友滅びて後この地に逃れ来て住み着いたと伝えられる。なお獅子舞は毎年“伊勢の大神楽”と称する一行が但馬路を巡って来た。風太郎の家(山田医院)の前庭でも舞や曲芸が行われるのが恒例であった。なお作品では一座の親方が演技の最中短剣が胸に刺さって死ぬが、それは実際に但馬であった事故で、養父市の隣朝来市(旧山東町)の長栄寺には亡くなった演技者の墓が現存する。
・・・断って置くが、これは七三にわけた頭をトンボびかりにひからせている、アブレゲールの中学生の話ではない。太平洋戦争まえの「野蛮時代」山陰地方のある山のなか―豊国中学の寄宿舎、青雲寮に起こった物語である。想えば、このあかるい、健康な風物詩のなかを、上野動物園の猿のごとく、飛んだりはねたりした悪戯な少年たちは、そのとき夢想だにしなかったその後の悲壮な嵐のなかに、ほとんど半ば、勇ましい姿を、永遠にこの地上から消してしまった。・・・・・
戦前のとある中学の寄宿舎。風早、運野、頼、雨宮の四悪童が下級生らも使って、威張ったり気取ったりの教師連に思いもよらぬ“糞便攻撃”をしかけるという抱腹絶倒の青春小説。その一つ一つが巧妙なトリックや高度な心理作戦を使ったもので、作戦司令部となるのが寄宿舎の屋根裏部屋「天国荘」である。その詳細は種明かしとなるので実際の作品で楽しんでいただくとして・・・これは戦後に書かれたこともあって作品のそこここに風太郎の戦争に対する冷徹な見方や皮肉がちりばめられている。またユーモアの中に空疎な“権威”に対する反抗が見え隠れする。この点では河原の乞食・自称「アベマツ親王」の存在も意味深長であると言えよう。なお作者も言うように、この底抜けに明るい“悪童”たちの十年後の悲惨な運命を思い合わせると、ただ笑って済まされない別種の感慨が湧くのを禁じえない。
物語の舞台「豊国中学」は但馬の中心都市・豊岡市にあった旧制“豊岡中学”。寄宿舎「青雲寮」は風太郎がいた「和魂寮」である。「天国荘」とは風太郎たちが寮の天井裏に作り上げた秘密の部屋で、実際にも「天国荘」と呼んでいた。というのも風太郎たちの部屋の真下が舎監室で、これを“地獄”に見立てて秘密部屋を“天国荘”と名付けたものである。物語では悪童たちがここで教師をこらしめる作戦を練るのだが、実際にはそうした“悪事”だけではなく、消灯後も映画や文学や人生について心ゆくまで語り合える憩いの空間であったようだ。現在旧制豊岡中学は“豊岡高校”となり、建物はすべて鉄筋コンクリートに変わった。わずかに正門脇に残る木造の「達徳会館」のみが当時をしのぶよすがである。なお作中誇大妄想狂の乞食が小屋掛けしている「柳瀬川の河原」とは、学校の近くを流れる“円山川”の河原である。
慶長十七年の夏・・・(金山奉行・大久保石見守長安の)名大として子息の雲十郎が・・石見の大森銀山から山陰道づたいに但馬の中瀬鉱山へまわってきたところだった。
ところで、この付近の大屋郷の山中にあるといわれる天童という大瀑布。幅一丈八尺、高さ実に四十丈ときいたついでに、この十年あまり、そのあたりに「山童」という怪物が出没するという村役人のはなしから驕慢な雲十郎の横紙やぶりがちょいと機鋒をあらわした。・・・
山また山、西の方、蒼天を摩してそびえるその名も恐ろしい氷の山。そこからながれくだる水はしだいにあつまって、いま眼下四百尺の大断崖に凄まじいとどろきをあげている。
関ケ原の合戦から12年。西方の参謀で討ち死にしたはずの猛将島左近が、主君三成の遺児狭霧姫を奉じて但馬の山中深く“天滝”に館を築いて潜んでいた。左近の息子“右近”。少年とは言え密林を獣か鳥のように翔る怪童を、その正体が分からぬまま村人は「山童」と呼んで恐れていた。その天滝に徳川幕府の金山奉行・大久保長安の息子雲十郎がやってきて秘密の山館を発見する。ところで右近がさらった雲十郎の挟箱には大久保一族の重大な秘密を証する“あるもの”が隠されていた。お互いに急所をつかんだ左近と雲十郎。虚々実々のかけひきの揚げ句・・・にわかに持ち上がったのは狭霧姫と雲十郎の“結婚”。それを聞いてたちまち顔色を変える右近。片やわれを知らず雲十郎に惹かれる狭霧姫。二人の結婚を反対する息子を遂に左近は討とうとする。・・姫と左近がいつまでも子供と思っていた少年右近が最後に選んだ恐るべき結末とは?
兵庫県の最高峰氷ノ山、関宮はそこから流れ下る八木川に沿って東西に伸びる谷間の町だ。町の中心に位置する風太郎の生家から1kmほど上流に、かつて金山で栄えた中瀬鉱山があった。今はその跡に国内最大のアンチモン精製工場が稼働している。この中瀬から氷ノ山の尾根続きになる“杉が沢”を南に越せば、大屋の名勝“天滝”だ。落差およそ100m、「日本の滝100選」にも選ばれている。その杉が沢一帯は今は開墾されて大根畑が広がるが、反対の大屋側から渓谷伝いに滝へ入って行くとなお深山の趣きが色濃く残り、滝の下に立ってはるかな山嶺を仰げば、ふと巌頭に「山童」の黒い影が現れるような錯覚にさえ襲われる。
なお付近の横行渓谷には平家の落人伝説や砦の攻防をめぐる悲話も伝えられているので、風太郎はおそらくそれらを頭の隅に置いてこの物語を書いたのだろう。
・・・薮井家は、但馬豊岡藩一万二千石、京極甲斐守のお抱え医師で、住居は深川藪の内というところにあり、父の庄斎はすでに隠居し、彼が現役で薮井庄庵という人間である。・・・・・。
・・・お抱え医師といっても、べつに京極家の藩医というわけではなく、どこの江戸屋敷にもある万一の際の予備の医者で、扶持はもらっているけれど、お呼びでなければ出勤する必要はなく、そのまま町医者をやっていて結構だということである。
五十近いサラリーマン薮井庄一はある年の元旦、ひょんなことから江戸の田沼時代にタイムスリップする。そこで自分が但馬豊岡藩のお抱え医師で、父、女房、伜と江戸に暮らす“庄庵”という人間だと知らされる。時あたかも田沼意次の失脚を狙う松平定信の陰謀が渦巻く江戸。その政争に巻き込まれる庄庵と友人の天才児・平賀源内。二人に襲いかかる運命とは・・・。そして昭和に立ち戻った庄一を待っていた意外な結末とは・・・。江戸と昭和を自由に行き来しつつ展開されるスリリングで多彩な物語。歴史上の実在の人物や事件の間に巧みにフィクションを織り交ぜてみせる、後年“明治もの”で遺憾なく発揮される風太郎の手法がここで早くも開花している。われわれは奇想天外な物語を追いながら、風太郎の江戸文化に対する深い知識、透徹した歴史観・戦争観、夫・父親としての悩みにまで触れることのできる“贅沢な”一遍である。
題名のとおり舞台は但馬ではなく、江戸(と東京)である。ただ主人公は「薮井庄一氏」が但馬出身の医者の子孫で、現在東京に住んでいるという設定が風太郎自身の境遇と重なっている。われわれは主人公庄一の姿から、臍の緒は但馬につながれながらも東京に暮らす風太郎の日常や思いを汲み取ることができる。
私の生まれた家は、あると言えばあるし、ないといえば、ない。・・
その意味を明らかにするためには、わが家の歴史を語らなければならない。なに、大した歴史ではありません。
なにしろ、兵庫県養父郡(やぶぐん)関宮(せきのみや)村という―現在は町になっている―但馬の国の、すぐ南を中国山脈がふさぎ、西の方に遠く鳥取県境の1,510メートルの氷ノ山を望む、山中の村の話である。
「風眼抄」(1990年11月)中公文庫より
風太郎の代表的なエッセイの一つ。“故郷を捨てた作家”と言われて来た風太郎が、ふる里のわが家と早くに死別した両親への尽きせぬ思いを語って、“忘郷・棄郷の作家”から“望郷の作家”へと世間の評価が変わった一文である。文中の終わりに出てくる、屋敷内の畑の隅に大きな棗の木があり、秋、実が熟すると「少年倶楽部」を抱えて樹に上って、棗を食べながら雑誌を読んだこと、後年それを懐かしんで多摩の自宅に棗の木を植えてみたが、意外にもその実は思ったほど美味しくなかったという話は有名である。
ここにはまだ両親が健在であったころの、暖かい愛に包まれた幸せな幼児期の記憶が綴られていて、その後の“闇の時代”に比べて、“忘郷”と“望郷”のはざまをさまよう風太郎の切ない思いが痛いほど伝わってくる。
小説「石の下」の項で紹介したように、関宮の風太郎の「生家」は江戸時代の建築と思われる母屋が現存している。ただ文中で明らかにされているように、風太郎が実際に生まれたのはこの家ではなく、道を挟んだ斜め向かいにあった土岐医院である。今そこは空き地になっている。「生家」隣の安木酒造は当時のままに今も酒を醸造しているし、旧山陰道の狭い通りには古い宿も残っていて、一帯はまだ風太郎少年が遊んだ頃の面影を止めている。なお上の引用した箇所に続いて、山田家の先祖が庄屋と医者を兼ねていた神鍋(日高町)が出てくるが、そこ(太田=ただ)には現在も直系の子孫が在住されている。近くには山田家の墓地もある。ただ近年まであった古い屋敷は取り壊されて今はなくなった。
母のことを想い出すと、遠い山に沈んでいった小さな夕日のような気がする。母は私が十三の年に死んでしまったからである。
― 略 ―
私のまぶたに残っているのは、いつも座って縫いものをしていた姿だけである。
― 略 ―
ただひとつ私にとって宝石のような想い出がある。
小学校六年の夏休みのことだと思う。私は友達と弁当を作ってもらって
― 略 ―
山の中へ遊びに出かけた。そして、まだ朝涼のうちに、ある場所で露にぬれた一本のすばらしい山百合を見つけた。
私は是非それを母にやりたくなった。そこで友達をほうり出して、その山百合がしおれないうちに、二、三時間山道を走りつづけて家にかけもどった。
― 以下略 ―
「半身棺桶」(1998年2月)徳間書店より
風太郎が13歳の時忽然と亡くなった母の思い出を綴った、哀切きわまりないエッセイである。風太郎が中学二年の春を境に「大不良少年」へと変わって行くきっかけとなる最愛の母の死であった。風太郎が「精神の酸欠状態」と呼ぶ「暗愁の時代」の始まりである。彼がそれから何とか抜け出すには母の死後十年ほどもかかったという。文中で風太郎少年が冷たくなった母の瞼を開いて小さい声で一言「お母ちゃん」と呼ぶところ、そして自身「人生の終局近」くなった今、「遠い夕日のような母」に向かって「お母さん、僕もなんとか生きてきたよ」と呼びかけるところは、誰しも涙なしでは読めない。これが書かれた原稿用紙にも彼の熱い涙が滴り落ちたのではなかろうか。
この追憶の中に出てくる山が一体どこの山であったか、風太郎亡き今となっては分からない。ただ弁当を持って出掛けていること、二、三時間山道を走ったとあることから、思い切って遠出をしたのだろう。風太郎たち少年がふだん遊び場としていたのは町のすぐ裏にある“愛宕山”と呼ぶ小山だった。多聞寺という真言宗の寺院裏から愛宕山に登ると15分ほどでちょっとした広場に出る。そこの展望台からは風太郎の生家や神社を始め関宮の町並み全体が見渡せる。風太郎少年たちが駆け回った広場だ。広場を離れて山道にもどると、それはなお林の中を上へと伸びており、さらに標高千メートルを越す妙見山の西尾根へと続いている。少年が山百合を手に母の元へと駆け下ったのはこの細道であったろうか・・・。なお多聞寺の裏手、愛宕山への登山口には風太郎の父が寄進した石仏があり、苔むした石に父の名“山田太郎”を読み取ることができる。
この冬私は、六十余年前の父の死について、私にとっては驚くべき一通の手紙をもらった。・・・・その手紙には、「ご父君の太郎先生は金ぶち眼鏡をかけられた、五千円札の新渡戸稲造そっくりの、堂々たるハイカラな紳士風でした」とあり、さてその次に私を驚かせた記述があるのである。
「先生が金昌寺で倒れられた噂は、話題に乏しい田舎のことですから、電光のごとく村内に伝わりました。私の聞いたところでは、往診ではなく寺の会議に参席され、当夜は寒い夜とのこととて、炭火で暖をとられていて、その一酸化中毒になられたらしい、とお聞きしていました。・・・
風太郎の元に関宮の古老から一通の手紙が来る。そこに書かれてあったことに心動かされて、亡き父のこと、出石の係累のことなどを綴った一文がある。風太郎五歳の時の父の死は、その後風太郎が作家への道を歩む遠因となった運命の出来事であった。風太郎が自分の運命を変えた父の死因に強い関心を持ったのは当然であるが、幼児の自分が覚えていない自宅の新築時の模様や父の風貌を知らされ、文中でこれを紹介している。
自身70歳になって突然故郷から舞い込んだ便りを読んで、自らの死の予想にまで思い至る風太郎の心の起伏が行間から読み取れるエッセイである。
風太郎の父・太郎が倒れて亡くなった金昌寺は、今は無住ながら、養父市(旧関宮町)中瀬の宝引山(ほうびきやま)の山腹に静かにたたずんでいる。風太郎は父の死因を脳溢血と聞いており、先のエッセイ「わが家の幻の中」にもそう書いたのだが、村の一古老の便りでそれが一酸化炭素中毒だったと知らされて驚いている。しかし事実はやはり会議中脳溢血で倒れたものであった。それはさておき、風太郎はこの手紙で明治の偉人加藤弘之が父の従兄弟にあたることを知ってこれにも驚いている。今出石の町外れには加藤弘之の生家が町の手で整備され一般に公開されている。一見これが藩士の家かと思われるほどの小さな平屋である。しかし財政難の出石藩が“仙石騒動”の処断で石高を半減されたことを思えば、藩士の窮乏ぶりもうなづける。まして弘之の母は“騒動”の「首謀者」仙石左京の義兄山田八左衛門(風太郎の祖)の娘で、有形無形の迫害に遭った。
はじめて映画というものを見た記憶をたどってみると、それは学齢期以前の野天の映画である。私は山陰但馬の山村に生まれたのだが、小学校の校庭に幕を張り、野天で映画を映すのだ。・・・・・・
小学校にはいって四年五年になって、・・・山陰線で五駅ほど離れた祖父の家で暮らすことになった。・・・ある夏の夜・・叔父が隣町の映画館に連れていってくれた。・・・この隣町の映画館へは往復に三、四キロはある峠を越えなければならない。街燈などあるべくもないから、坊主頭の中学生と小学生が提灯を一つぶらさげて、暗い峠を越えてゆく光景を想像すると、これまた前世の話のような気がする。・・・・・・
やがて中学にはいった。豊岡という但馬第一の町だ。・・・中学三年のころから、映画館に出入し始めた。・・・私が出入したのは駅前の日活系のもので、もう一方は何系であったかよく知らない。
『あと千回の晩飯』朝日新聞社より
風太郎とその文学に映画が影響の大きさは計り知れない。このエッセイで風太郎は幼児期から成人に至るまでの映画体験を縦横に語っている。記憶力もすごいが、映画にまつわる及ぼしたエピソードの数々も痛快だ。大ファンであった黒沢明作品も、確かな批評眼で分析してみせる。また彼が書いているように、雑誌「映画朝日」に投稿した「中学生と映画」という一文(中学生にも映画を解禁すべきだと文部省に文句をつけた)で初めて“山田風太郎”というペンネームを使った。なお文中次の一節は風太郎の面目躍如というところ。
「それはそうと、そのころ「映画朝日」にしばしば散見した映画評論家の名に「淀川長治」がある。当時十八歳であった山田風太郎が七十四歳になったというのに、その淀川長治氏がテレビではサイナラ、サイナラと手をふられるが、ちっともサイナラされないことこそ当代の奇蹟というべし。」
学齢期前に野天で映画を見た小学校の校庭は、今、風太郎記念館の建つ関宮小学校の跡地だろう。小学校四年で引っ越したのは日本海に面した諸寄村。峠を越して行った隣町は浜坂町である。豊岡で出入した(当時中学生は映画館への出入を禁止されていた)日活系の映画館というのは“有楽館”であるが、これは現存しない。映画の帰りに立ち寄って酒を飲みながら映画の話を続けた“うどん屋”も今となっては分からない。ただ田舎の小都市で空襲にも遭わなかったので、豊岡の街のそこここに風太郎少年が“徘徊”した当時をしのばせるたたずまいが残っている。風太郎自身別のエッセイ(「雨の国」)で「中学校のある町は、いま高等学校のある市となっているけれど、はじめてみるように可愛らしく、新鮮だった。しかしやはり歩いてみると、さまざまな憶い出がよみげってきて、ヒョイと涙が浮かぶようだった。」と書いている通りである。
ジャンル | 作品名 | 作品の舞台 但馬の土地・風物 | 初 出 | 今読むには…(作品収録本) |
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小説 | 陀経寺の雪 | 作品の舞台 但馬の土地・風物 | 昭和16年1月「受験旬報」 | 光文社文庫「山田風太郎ミステリー傑作⑩」収録 |
小説 | 勘右衛門老人の死 | 関宮ほか | 昭和22年1月「眼中の悪魔」(岩波書店)収録 | 光文社文庫「山田風太郎ミステリー傑作選⑩」収録 |
小説 | 雪女 | 作者の生家・金昌寺 | 昭和23年11月「受験旬報」 | 光文社文庫「山田風太郎ミステリー傑作選③」収録 |
小説 | 旅の獅子舞 | 関宮:轟?、但馬海岸の村々 | 昭和24年11月「新青年」 | 光文社文庫「山田風太郎ミステリー傑作選⑩」収録 |
小説 | 天国荘奇譚 | 豊岡:旧制中学の学生生活 | 昭和25年1月「宝石」 | 廣済堂文庫「山田風太郎傑作大全6」収録 |
小説 | 山童伝 | 大屋:天滝、関宮:中瀬金山 | 昭和26年3月「面白倶楽部」 | 廣済堂文庫「山田風太郎傑作大全14」収録 |
小説 | 青春探偵団 | 豊岡:旧制中学の学生生活 | 昭和32年11月~33年10月~「明星」「全国学生新聞」ほか | 廣済堂文庫「山田風太郎傑作大全10」収録 |
エッセイ | わが家は幻の中 | 関宮:作者の生家 | 昭和54年4月「小説現代」 | 中公文庫「風眼抄」収録 |
エッセイ | 私の死ぬ話 | 関宮:金昌寺 | 昭和60年6月「野生時代」 | 徳間書店「半身棺桶」収録 |
エッセイ | 遠い夕日 | 関宮:母の思い出 | 平成元年7月「私に母親が教えてくれたこと」 | 徳間書店「半身棺桶」収録 |
エッセイ | 古川ロッパの話 | 出石 | 平成6年10月~8年10月「朝日新聞」連載エッセイ | 朝日新聞社「あと千回の晩御飯」収録 |
作家デビューとなった作品、当時は医学生であった風太郎が医学的な知識を駆使して書いた、異常心理サスペンス、この作品と「虚像淫楽」とで、1949年、第2回探偵作家クラブ賞を受賞した。
ひとりの老刑事が出会った折々の事件と犯人について淡々と語る作品。「それでもおれは手錠をかけねばならん」と刑事の一言で幕を下ろす鮮やかな手練もさることながら、人間の裏表、清純と汚濁がねじりあわさせたアイロニーなど、初期の傑作である。
貧しい学生が富豪の娘と知り合ったことから、社会的成功へのし上がってゆく野望を描いた社会派、本格的サスペンス作品。
中国の好色文学「金瓶梅」を基に、金瓶梅の自由奔放な成り立ちをそっくりまねて、パロディ化しつつ、本格ミステリとして再構築した作品。
甲賀と伊賀の忍者の精鋭、それぞれ10人ずつと闘わせて、徳川三代将軍の跡継を決めるという、荒唐無稽なルールによる、闘いのゲームが始まる。次々と立ち現れる忍者と、その忍法の奇想天外なトーナメント戦が最大の見せ場である。
この作品により忍法という言葉が広まった。
「くの一」=女忍者という言葉を定着させた作品。真田幸村の命を受けた女忍者が、豊臣家再興のため秀頼の子種を宿そうと奮闘するエロティシズムの作品。
媚薬を作るため、次々と女を狩り集める松永弾正と果心居士に恋人を奪われた伊賀忍者が闘いを挑む。
柳生十兵衛がか弱き女たちの敵討ちの後ろ盾となり、会津40万石に挑む。
妖法によって死から蘇った天草四郎、荒木又右衛門、宝蔵院胤舜、柳生但馬守、宮本武蔵ら剣豪が次々と十兵衛を襲う。
大警視、川路利良は新東京の治安を一手に握っていた。その新警察庁に元南町奉行所の面々が面白半分の知恵比べを挑む。開化期を舞台に史実に忠実でありながら史実の綻びを見つけては、あり得たかもしれないもう一つの歴史を作ってみせている。
元会津藩士と孫娘の駆る辻馬車に、さまざまな乗客が事件を持って乗り込んでくる。事件に巻き込まれ、危険が迫るや、会津の戦いで戦死した孫娘の父親が現れては親と娘の危機を救う。
港から日本を出ていった者、日本にやって来た者、それぞれのドラマを描く。この作品は新時代の幕開けとともに、古き時代の良き慣習、生き方までもが失われていくことへのアイロニーである。
鹿鳴館に集まった、明治の元勲たちとその妻たちのドラマであるが、特に彼らの妻たちの人生に焦点が当てられている。
北海道の樺戸・空知両集治監獄で起きるさまざまな出来事を、薩摩出身の有馬四郎助が見聞・体験する。囚人と看守、獄内と獄外を問わず多くの曲者が入り乱れての恩讐の物語。
初のエッセイ集。
元会津藩士と孫娘の駆る辻馬車に、さまざまな乗客が事件を持って乗り込んでくる。事件に巻き込まれ、危険が迫るや、会津の戦いで戦死した孫娘の父親が現れては親と娘の危機を救う。
さまざまな人間の死に際の記録だけを集めた特異な形のノンフィクション。刊行するや、全国的な話題となる。
最後の執筆となったエッセイ。
昭和20年、敗戦の年の一年間の日記。
昭和20年8月15日(水)炎天
帝国ツイニ敵ニ屈ス。
昭和17年~19年の日記。
昭和21年の日記。風太郎の死後1年を経て出版される。この日記のあとも昭和22年~23年の日記戦中派闇市日記も相ついで出版された。
山田家の菩提寺。昭和2年12月。この金昌寺で会議中、実父太郎が脳溢血で倒れる。三日後、意識不明のまま他界。この時風太郎は五歳だった。父の死後大きく風太郎の運命が変わっていくことも知らず、幼い風太郎は寺の庭でボール投げをして遊んでもらっていたという。
風太郎少年が毎日のように遊んだ神社。うっそうと巨木が繁り、昼でも暗く、別世界をかもし出す。ここで忍者物などの構想が生まれたと思える。
大正11年(1922)1月4日、山田誠也は、山田医院(当時は関宮村に一軒のみであった医院)の長男(戸籍上は三男、長男、次男は幼少時死亡)として生まれた。実は土岐(とき)医院(建物は今はなし)にて生まれたのだが、風太郎が五歳の時、土岐医院の斜め前に山田医院が建ち、そこで育った。
山田医院は、隣村(吉井地区)にあった本陣を移築したもので、築200年ほどにもなる、大変貴重な家でもある。現在関宮町に残る江戸時代の本陣屋敷、唯一つの家である。
この家で風太郎は19才で上京するまで育った。後にエッセイ「風眼抄」に詳しくこの家のことを書いている。
山田医院隣の造り酒屋。
この家も、山田医院と同じくらい古い建物で、築150年位経っている。
風太郎の酒「風々」を新しく造って、売っている。風太郎の日記にもよく記述のある酒屋である。
少年風太郎は、親友前田一男氏と学校から帰ると、きまってこの裏山の愛宕山に登って遊んだという。細い山道が二とおりについており、競争で走って登っていったという。
途中の坂道には実父山田太郎の寄進したお地蔵さんが第5番目に立っている。
小高い山に建っており、関宮の村が一望できる。豊岡中学生の頃、受験雑誌「受験旬報」(後に「螢雪時代」)に投稿して一等に入選した小説、「陀経寺の雪」のモデルにしている寺である。
平成15年(2003年)4月1日オープン。風太郎が学んだ旧関宮小学校の跡地に建つ。風太郎の小学校、中学校時代の同級生や関宮町在住の有志約15名で「山田風太郎の会」を設立し、当時の関宮町(現在は養父市)に働きかけ、3年間の運動により建設した。町の委託事業として、「山田風太郎の会」が記念館を運営し、風太郎の顕彰活動をやっている。
館内には、風太郎愛用の品々、書斎のコーナー、初版本約300冊のコーナー、直筆原稿、映画化のポスター・書簡、系図、年譜等のコーナーがあり、約1,200点が展示してある。
展示室のほかに、交流室があり、無料で、風太郎の映像ビデオ、DVDなどが見れる。又、「風太郎文庫」のコーナーもあり、無料で本の貸し出しも行なっている。
旧関宮町小学校の正門横に建っている文学碑である。「風よ伝えよ幼き日の歌」
書は風太郎が6年生の時の担任であった、風信会主宰故細川泰翠の書である。
関宮小学校100周年の記念として、当時校長をしていた同級生前田一男氏の要請で文を寄せたものである。
風太郎の実母(寿子)は浜坂町諸寄(もろよせ)に生まれた。やはり関宮と同じく当時の諸寄には唯一軒しかなかった、小畑医院の一人娘だった。小畑家はもともとは、鳥取藩のお抱え絵師であった小畑稲升(とうしょう)を祖としている。小畑稲升は鯉の絵を得意とし、「鯉の稲升」と呼ばれる有名な絵師であった。風太郎は、幼少時より絵ばかり描いており、指に絵を描いたためのペンダコが出来ていたという。小説家になろうとは思わず絵かきになりたかったと話している。風太郎には、小畑稲升の才能が流れていたのかもしれない。小畑医院は、寿子のほかに男ばかり6人もの弟がいたがそのほとんどが、優秀な医学校の卒業生であったが、戦死したり、病死し、医院は絶えてしまった。
諸寄村(当時)500戸ほどの小さな村のただ一軒のみの医院だった。母寿子は医師小畑義教の長女。実父が風太郎5歳の折死去したため、祖父義教の世話を受ける。
小学校4年生の時、母の実家に引きとられる。(母と風太郎、父の死亡後生まれた妹昭子の三人で。)4年生、5年生の二年間を諸寄小学校に通う。
かかっている掛軸は風太郎に絵を教えた祖父の絵。祖父(小畑義教)の祖父は鳥取藩お抱え絵師小畑稲升。
鯉の絵で有名な“鯉の稲升”と呼ばれた。
風太郎の実父山田太郎は日高町太田(ただ)の山田医院の二男として生まれた。太郎の姉里子が、関宮の土岐(とき)松吉医師と結婚し、三子をもうけたが、松吉医師は早くに死亡する。姉一家を助けるために、太郎が土岐医院の医者となり、そこで、浜坂町諸寄の小畑医院の一人娘寿(ひさ)子と結婚、誠也(風太郎)が生まれた。
風太郎5歳の時、太郎が急死し、太田の太郎の弟孝が今度は父となったのである。
日高町の実家は、長男禎蔵が山田医院を継ぎ、弟の太郎、孝を医学校に出すなど援助して、関宮の山田医院を支えたが、禎蔵の代で医院は絶え、美術大学を出て教師となった、山田誠が住んでいる。
墓所も近くになる。
風太郎は昭和10年(1935年)豊岡中学に入学した。
これまでの年譜には昭和11年とあるが、これは誤りである。
入学した当時は成績優秀で、真面目な生徒であったが、中学1年から2年に上る年、母の寿子が急死する。
5才にて実父をなくしていた風太郎にとって、優しい母の愛情だけが支えであった。しかし、その母も失ない、孤独のどん底につき落とされた。当時のことを後に、「母の死後私にとって薄闇の時代が始まる。この年齢で母がいなくなることは、魂の酸欠状態をもたらす、その打撃から脱するのに、私は十年を要した。……」と書いている。母の死後、優等生から、不良学生(?)へ転落していく。
「風」「雨」「雷」「想」などの暗号を使って、さんざん寮で、学校であばれまわることになるのである。
その時の暗号の風が終生のペンネーム風太郎となった。
旧制豊岡中学は、現在兵庫県立豊岡高等学校となり、当時をしのばせるものは「達徳会館」のみであるが、当時のままに残っている。
風太郎の祖先は、出石藩士山田八左衛門に始まる。
江戸時代の三大お家騒動の一つに仙石騒動と呼ばれた大きな事件があった。山田八左衛門は、その仙石騒動の主役をつとめた、仙石家の筆頭家老であった仙石左京の姉の婿であり、年寄であった。
左京は打ち首、八左衛門は追放処分となり、自害した。
八左衛門には三人の子どもがいた。
熊太郎、加藤正照の妻となった錫子、理吉である。
錫子はその事件の折、身ごもっていて、後に生まれたのが、加藤弘之である。
弘之は、初代東大総長となり、明治を代表する思想家である。出石の城跡近くに加藤弘之生家がきれいに補修されて現存している。
加藤弘之と風太郎は遠い親せきとなるのである。加藤弘之については、生家近くの出石町立明治館に展示されている。
週刊読売昭和54年2月2日~昭和55年6月15日連載。その後、加筆「ラスプーチンが来た」と改題して昭和59年12月文藝春秋より刊行。
「室町の大予言」と改題して平成元年3月「小説新潮」初出。
裏には「合格記念 歐文社」と刻まれている。
後に「滅笑への青春」「戦中派不戦日記」として出版される。
作品の素材を調べ、編年体でまとめている。(個人蔵)
当時、ランドセル使用は風太郎のみであり、好奇な目で見られ、仲間はずれにされた。
この剣道具にふとんをかぶせて夜な夜な町へぬけ出しては酒を飲んだ。(大谷氏提供)
友人の筆立てに風太郎が彫刻し自作の俳句を書き添えたもの。『竹のゆき おちて夜なく すずめかな』(実母が急死した直後の作)(多田 好諒氏蔵)
巻末に原稿名が記されている。
当時、高価な医学書が買えず、懸賞小説に応募し、賞金、原稿料で買ったと記されている。
東京医科大学を卒業したものの、三回生の時より作家としてデビューしており、国家試験は受けず、作家への道を進む。
生前、最も愛用していた姿。
生前、最も愛用していた姿。
生前、ずっと書いていた愛用の机と椅子。そのまま書斎を再現。
山田風太郎の原稿用紙。筆記類、参考にした書籍など、そのままを再現した。
実母(寿子)の手作りの服、帽子、遊び着など。
作品名 | 年 | 出 版 | 作 者 |
---|---|---|---|
「もうひとりの山田風太郎」 | 2000年 | 砂子屋房刊 | 有本倶子著 |
「山田風太郎疾風迅雷書簡集」 | 2004年 | 神戸新聞総合出版センター | 有本俱子著 |
「戦中派天才老人山田風太郎」 | 1995年 | マガジンハウス | 関川夏央著 |
「風風院風風風居士、山田風太郎に聞く」 | 2001年 | 筑摩書房 | 森まゆみ著 |
「戦中派不戦日記」 | 1971年 | 番長書房 | 山田風太郎 |
「戦中派虫けら日記」 | 1973年 | 大和書房 | 山田風太郎 |
「戦中派焼け跡日記」 | 2002年 | 小学館 | 山田風太郎 |
「戦中派闇市日記」 | 2003年 | 小学館 | 山田風太郎 |
「戦中派動乱日記」 | 2004年 | 小学館 | 山田風太郎 |
山田風太郎記念館が、オープンして間もなく東京の人より、記念館に電話がかかってきた。
「これから記念館に行きたいのですが、何線に乗ったらいいんですか」「新大阪か京都で山陰線に乗り換えて、八鹿駅下車です。」「えっ、東京にあるんじゃないんですか」「ええ、ここは、兵庫県、但馬です。」「東京から何時間かかるんですか」「約七時間ほどです。」「えー、そんなに、今日中は無理ですねぇ、風太郎さんは東京の人じゃなかったんですか」いかにも残念そうに、電話は切れた。この人のように、風太郎は東京人と思っている人は意外と多い。又、地元でもつい最近まで但馬人とは知らなかった。と言う人が多い。それほどに、作家風太郎と彼の故郷但馬とは遠い関係にあった。しかし、めったに帰らなかったけれども、風太郎の生涯にわたっての望郷の想いが、その膨大な、傑作の数々を生み出させたのではないかと思う。今回のミュージアム「山田風太郎」では、風太郎ゆかりの地から、又、但馬を舞台とした作品から、但馬人風太郎にスポットをあててみたものである。
作家・歌人・山田風太郎の会副会長 有本倶子