企画展示
大正11年(1922年)、武良家の次男として生まれたしげる少年は、好奇心旺盛なガキ大将でズイタ(大食漢)で朝寝坊・・・。興味のあることしかしないマイペースな少年でしたが、絵画では抜群の才能を発揮しました。
また、島根県美保関町出身ののんのんばあの影響で、生や死、妖怪や幽霊に興味をもったしげる少年は、妖怪の世界に強くひかれるようになりました。
ぼくは健康でものすごくよく寝(ね)る子どもだった。そこへもってきて、人のいうことをきかない上、舌が厚くてしゃべれない。
しゃべれないくせに、自分の思いどおりにくらす、といった子どもだったから、三人兄弟のうち、兄と弟は幼稚園(ようちえん)に行ったが、どうしたわけか、ぼくだけは行かされなかった。たぶん、規格にはまらない子だし、朝寝ぼうだからと、両親が遠慮(えんりょ)したのだろうか。ここですでに、ある種の落第がはじまっていたようだ。
小学校は義務教育だから、何の心配もない。学校というものが、すべて小学校みたいであれば、それはそれでいいと思う。
小学校時代はガキ大将と趣味(しゅみ)の生活だった。
-略-
ガキ大将の仕事でいそがしかったから、勉強はやるひまがなかった。-略-
学校の勉強はしなかったが、自分の好きなことに熱中した。それが、ここにいう趣味である。
昆虫(こんちゅう)や貝殻(かいがら)や海草などをやたらとあつめて、押入(おしい)れの中にためこんだり、スケッチしたりして、その世界にいりびたることをたのしんだ。
メンコのふだに工夫(くふう)してつよいふだにしたり、凧(たこ)なんかも自分でつくった。
二十日ねずみや山羊(やぎ)などを飼(か)ったこともある。
それから、妖怪(ようかい)や伝説の研究。
これは、近所に伝説や宗教にくわしいばあさん(のんのんばあといった)がいて、いろいろ教えてくれたのだ。
-略-
のんのんばあは、山へつれていってくれれば山の妖怪、海へつれていってくれれば海の妖怪、というように、あたりに満ち満ちている自然の精霊(せいれい)というものについて話してくれた。
のんのんばあは、七夕になればその由来、とんどさんという正月のしめなわを焼く行事になればそのいわれ、そういったものをぼくに教えてくれた。
ぼくは、のんのんばあの話を聞きながら、祖先の霊が自分の心の中に入ってくるような感じがしていた。
-略-
『ほんまにオレはアホやろか』(水木しげる著 1978年9月 ポプラ社)
のんのんばあに連れられてたびたび正福寺にやってきたしげる少年は、正福寺の六道絵図(地獄極楽絵図)を見て霊の世界に興味をいだくようになった。
鳥取県立境港総合技術高等学校の前を流れる才仏川には昔、河童が住んでいたと伝わっている。
境水道に面とするところに水木しげるが育った家はある。建物は新しくなっているが、水木しげるの復員記念に植えられた楠は今も残る。
境水道の向こうにある島根半島に、しげる少年は妖怪的雰囲気を感じた。
水木しげるの漫画に登場する妖怪たちのブロンズ像120体が境港駅から商店街へと続く800メートルにわたり道沿いに並んでいる水木しげるロード。そこには水木しげる記念館をはじめ、妖怪神社、妖怪ポストなどがあり、水木しげるワールドが広がっている。
水木しげるの漫画に登場する妖怪たちのブロンズ像120体が境港駅から商店街へと続く道沿いに並んでいる。水木しげるロードの商店街では境港限定の鬼太郎グッズがたくさん売られている。
平成15年3月8日(水木しげるの81歳の誕生日)に開館した、水木しげるの世界が満喫できる水木しげる記念館
平成12年元旦にできた妖怪たちのふるさと、妖怪神社。
JR境港駅を鬼太郎やねずみ男などをペイントした鬼太郎列車が走る。
船体に巨大な鬼太郎のデザインが描かれた鬼太郎フェリー。
(境港と隠岐を結ぶフェリーしらしま)
妖怪の消印がついて届く妖怪ポスト。
鬼太郎交番、境港警察署境港駅前交番。
昭和13年(1938年)、16才のしげる少年は、父が兵庫県の篠山に転勤になったので、父と母とで家を借りて篠山に移り住み、ここから大阪の精華美術学院に通うことになりました。
当時、篠山には軽便鉄道が走っていて、通学は、その小さな汽車に20~30分乗って、国鉄篠山口で乗り継ぎ、大阪へという大変遠い道のりでした。
朝5時に起きての通学が合わないしげる少年は、「自習」と称して、篠山の山の中の植物や虫のスケッチをしながら豊かな篠山の自然の中で過ごしました。
山の中の虫や植物の研究に熱中したしげる少年は、熱心に、絵本や童画などを描きました。
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暗い小道をわけ入って、古ぼけた神社の裏山に行くと、何物とも知れない形のないものがたくさん群れなしている気配が感じられる。目に見える形があるわけではないから、これは昔の人のいう「気」というようなものかもしれない。これが山の霊(れい)とでもいうものかと、すさまじい感じがして、もはや「研究」どころではなく、あわてて逃(に)げ帰った。
また、小人に会ったこともある。
これは昼間だったが、うす暗い樹陰(こかげ)に小人が群れをなしているのを見つけた。あっと、声を発すると、小人たちはおそれをなしたように逃げていった。ほんの一瞬(いっしゅん)のことだから、リスを小人と見まちがったのかもしれない。アタマで考えてみればリスだったろう。だが、たしかに目にうつったものは小人だった。それからというものは、小人がいるかもしれないと思い、山へ入るたびに小人が発見できないものかときょろきょろしていた。
こういう山の霊とか小人とかに「会った」のは、そのころ、童話や伝説集を愛読していたからかもしれない。神秘的な体験をするには、雰囲気(ふんいき)と心の準備が必要なのだ。
こんなことをしながら、虫の観察はさらに進んだ。
ぼくは幼いころから虫に興味を感じていたが、それは、虫そのものをおもしろいと思うとともに、その生き方に共感するような面もあったからだ。
-略-
※「小人」の文字は原文では、両文字とも右横に「、」が打ってありますが、ウェブ上の都合で省略しています。
『ほんまにオレはアホやろか』(水木しげる著 1978年9月 ポプラ社)
しげる少年が、篠山から遠く離れた大阪の美術学校へ通学に使った篠山軽便鉄道(後に篠山鉄道と改称)は、マッチ箱のような客車を引っ張るとても小さな汽車で、篠山の中心部と省線篠山駅間約4キロを結んだ。大正4年(1915年)に開業し、昭和19年(1944年)の廃線まで29年間地元の人々に「ケイベン」と呼ばれ愛された。しかし、しげる少年は、早起きのためあまりに眠いので、駅のベンチで横になっていて、汽車についつい乗りそびれてしまう。
しげる少年は、汽車に乗りそびれて学校にいけないのといいことに、人にはあわないが、虫や蛇やイモリ、イノシシには出会える篠山の山野を歩きまわり、山の中の植物や虫の巣をスケッチし、「自習」に熱中した。
昭和15年(1940年)、西宮市の甲子園口に住んでいたしげる少年の休日は、散歩と写生と宝塚でした。動物園や少女歌劇が楽しみで宝塚によく訪れました。
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休日は、散歩と写生である。それと、宝塚(たからづか)。
宝塚は当時から、関西の総合娯楽(ごらく)場で、動物園と少女歌劇を中心に、いろんな遊戯施設(ゆうぎしせつ)があった。
ぼくは動物が好きだから、戦時下の休日を楽しむ家族づれにまじって、象や猿(さる)やオットセイや昆虫(こんちゅう)を一日中オドロキの目でながめていた。
動物とおなじぐらいウレシイのが少女歌劇。
歌舞伎(かぶき)は、女の役も男がやって、男だけの世界だが、宝塚は、男の役も女がやって、女だけの世界。しかも、観客も女ばかり。
男のくせに宝塚を見るなんてのは、よほどの変人なのだが、ぼくはこれが大好きだった。華(はな)やかで美しく、軍国調の世間とはえらいちがいだし、女だけの世界というものが存在しているのが異界のようでおもしろかった。
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『ほんまにオレはアホやろか』(水木しげる著 1978年9月 ポプラ社)
しげる少年は西宮市の甲子園口から動物園や少女歌劇を見に宝塚によく行った。
大正11年(1922年)に生まれた水木しげるは、鳥取県の境港の豊かな自然の中で育ちました。でも、漫画家水木しげるは、昭和26年(1951年)頃の兵庫県神戸市兵庫区水木通りで生まれました。神戸は漫画家水木しげるの画業の出発点なのです。
その神戸は水木通りで、昭和25年(1950年)、「水木荘」というアパートを経営をしながら紙芝居作家として作品を描きはじめた水木しげるは、その水木通りにちなんでペンネームを「水木しげる」としました。
ーーー略ーーー
ぼくはいったん神戸まででた。
とりあえず、旅館ともアパートともつかない宿に一泊(ぱく)すると、またも長雨にたたられてしまった。一泊のつもりが五泊になり、そこの女主人とも口をきくようになると、「どないだす、この家、二十万円で売りたいんやが」
「二十万円とはバカに安いじゃないの」
「いえ、ほかに百万円の借金がありまんね。そやけど、それは毎月分割(ぶんかつ)で払(はら)ってもろたらよろしいんですわ。つまり、わたいに二十万円、ほれから、百万円を月賦(げっぷ)ですわ」
二十万円の頭金(あたまきん)ということなら何とかなるだろうと、郷里の境港(さかいみなと)に連絡(れんらく)し、父に二十万円をつごうをつけて持ってきてもらった。そして貸間業をはじめたわけである。
神戸は空襲(くうしゅう)にやられていたので住宅難だったから、アパート経営がいいというわけだ。
一番はじめにあらわれた客が、運命のいたずらであろうが、紙芝居(かみしばい)画家であった。
-略-
「マントの下は褌」
-略-
聞くところによれば、勝丸先生は紙芝居を演じさせては日本一の人だという。
-略-
勝丸先生は独立するというようなことをいっていたし、相談かたがた訪問してみることにした。ところが、先生の話していたあたりに、いっそうそれらしい家はない。おかしいなあと思いながら、さがしまわっていると、先生の「家」は、家だと思ったのがいけなかった。小屋だったのである。
「やあ、いらっしゃい」
戸をあけると、勝丸先生の声。しかし、戸のすぐそばから、勝丸先生の座(すわ)っているところまでは、ヤカンやらチャワンやら、近寄ることもできない。先生はそれらをたくみにのけて道をつくり、ぼくを招いてくれた。
「じつは、水木さん」
「いや、私、武良(むら)というんですが」
ぼくの本名は、武良茂(むらしげる)というのだ。境港(さかいみなと)のあたりにだけあるめずらしい姓(せい)である。しかし、先生の方は少しも意に介(かい)さず、水木さんと呼ぶ。水木通りに住んでいるので水木さんということらしい。ヤクザの親分が、その地名で呼ばれるようなものなのだろうか。ともかく、これを機会に、水木しげるというペンネームが生まれることになったのだが。
「私、こんど林から独立してですね、阪神(はんしん)画劇社をはじめます」
「はあ」
「その時、どうしてもたくさんの絵かきがいります。水木さんにもやってもらいたいんです」
-略-
「さまざまな間借人(まがりにん)」
アパート業の方は、入居者がどんどんふえて順調(?)にいきそうになった。ぼくは、紙芝居(かみしばい)の方に力をいれだした。
はじめは、『雨夜傘(あめよのかさ)』などという怪談(かいだん)ものをやっていたが、そのうち、西部劇の方がウケルというわけで、そちら方面をやるようになった。ストーリーは、新開地(しんかいち)の映画館でジョン=ウェインの映画やなんかを見て即製(そくせい)でつくるのだ。『謎(なぞ)の西部王』とか、『アパッチ断崖(だんがい)』とか、五巻(五十枚)から十巻(百枚)ぐらいにまとめるのである。
-略-
「テレビ出現、紙芝居があぶない!」
-略-
ぼくは、それでもヒマを見ては絵の研究所へ通った(一週間四日ぐらいは通った)。
神戸市立美術研究所といって、北野小学校の校舎を夜間利用しておこなわれていた。小磯良平(こいそりょうへい)や田村孝之介(たむらこうのすけ)とか小松益喜(こまつますよし)とかいう人たちが先生になり、石膏(せっこう)デッサンが中心だった。ぼくは、小学校以外まともに卒業した学校はないのだが、この美術研究所に一番長く通ったことになる。
-略-
『ほんまにオレはアホやろか』(水木しげる著 1978年9月 ポプラ社)
紙芝居作家時代、週に4回ぐらい通った神戸市立美術研究所。ここは北野小学校の校舎を夜間利用して行っており、小磯良平や小松益喜などが先生で、石膏デッサンが中心だった。
水木通りの水木荘に住んでいるため、阪神画劇社の鈴木勝丸氏から「水木さん」と呼ばれたことから「水木しげる」というペンネームが生まれた。
東京から東海道募金旅行にでた水木しげるは、たまたま泊まった神戸の宿を「空襲後の神戸は住宅難だったのでアパート経営がいい」と考えて水木荘を月賦で買いとる。運命のいたずらか水木荘に一番はじめにあらわれた客は、紙芝居作家であった。
水木しげるがよく入りにいっていた銭湯「水木湯」。「水木荘」跡の右隣に今も残る。
昭和28年(1953年)、アパート経営がうまくいかず、「水木荘」を売払って、西宮市の今津水波町に小さな家を買う。この頃、鬼太郎(きたろう)が誕生。最初は「墓場(はかば)の鬼太郎(きたろう)」と名付けたが、なかなかうけなかったので「空手鬼太郎(からてきたろう)」を描いたところなんとかうけた。この作品は紙芝居として百巻描かれた。
ーーー略ーーー
ぼくはひたすら西部劇をかいたが、例によって、もうかるような仕事ではない。勝丸先生どころか、こちらがじりじりと貧乏(びんぼう)になりだし、とうとうアパートを手ばなさざるをえないようなフンイキになってきた。
ボロアパートに貧乏人のおかしな連中ばかりが入っているのだから、とてももうかるどころではない。本当にもうかるものならば、前の持ち主がぼくに売るはずはなかったのだ。現に、前の持ち主は、借金つきでこのアパートをぼくに売ったのだ。
-略-
とうとうアパートを売ることになった。百万円と値をつけたが買い手がなく、九十五万円にして、キングコングみたいなおばさんに売った。この金も、借金とりがむしるようにとっていき、手もとにのこったのは二十五万円。住む所がなくてはこまるので、この二十五万円で、西宮(にしのみや)の今津(いまづ)に、弟の友人(その後テレビ局の重役)が売りにだしていた家を買った。このあたりは商店街だったので何か店をはじめようかとも思ったが、その賃金もない。しかたがないので、そのままにしておいた。
そのころ鈴木勝丸氏と加太氏は、ぼくに、昔、東京で、伊藤正美という人の『ハカバキタロー』というのが、流行したことがあるから、それに似たようなものをやってみてはどうかといわれた。ぼくは『墓場の鬼太郎(きたろう)』と名づけてやったが、いわゆるこのころ、流行の因果物(いんがもの)というやつだったから、勝手がわからなくて、なかなかうけない。
とにかく、勝丸氏は、東京から絵が送ってこないから、ぼくの『鬼太郎』だけが、たよりだからボヤボヤしてられない。始めはグロテスクすぎて、失敗したのでこんどは、兄貴の子どもをモデルにして、『空手(からて)鬼太郎』として、沖縄(おきなわ)に行って空手をやる話で、いくらかうけて、ホッとした。その時、苦しまぎれに考えたのが、目玉が鬼太郎のポケットに入っていて、それが、実は父であった、としたところ意外に面白(おもしろ)がられ、以後レギュラーとした。
そのころは、ねずみ男なんかはいなかった。『空手鬼太郎』は、百巻で終わり、こんどはSFふうにやり、墓場の鬼太郎『ガロア編』というのを四十巻ばかりやったが、これは失敗だった。
しかたなく、『幽霊(ゆうれい)の手』というのを九十巻やったが、これもおもわしくなかった。
しかたなく、鬼太郎にチャンチャンコを着せて超能力(ちょうのうりょく)をつけることにして百巻くらいやった。
最後に、『小人横綱(よこづな)』というのをやったが、こいつはうけた。何回もつづけたが未完に終わった。なにしろ、紙芝居が『小人横綱』のころにカイメツしてたのだ。
『ほんまにオレはアホやろか』(水木しげる著 1978年9月 ポプラ社)
昭和15年(1945年) 仕事の関係でジャワに赴任していた父が帰国したので、 しげる少年は西宮の甲子園口に家を借りて、母と3人で住むことになりました。中之島洋画研究所という美術学校に通い、デッサンに明け暮れる毎日でした。
ー略ー
そんな時、父がジャワの勤務を終えて大阪へもどってきた。
甲子園口 (こうしえんぐち) に家を借り、 母もまた境港
(さかいみなと)からでてきて、 ぼくもいっしょに住むことになった。
兄と弟は、それぞれリッパに学校へ行っており、寮(りょう)などに住んでいる。
ー略ー
こうして読書にふけっていると、ごろごろして本ばかり読んでいるという、ウワサが親類のものの耳にはいり、心配まじりの忠告がでる。
「しげるさんも、絵かきになりはるのやったら、大阪には
『中之島(なかのしま)洋画研究所』
いうのがあるから、そこ行かはったらええのに」たしかに、ごろごろしているわけにもいかないので、洋画研究所に
通うことになった。
研究所には毎日通い、石膏(せっこう)
デッサン、家へ帰れば油絵の風景画をかく。
しかし、もう二、三年で戦争に行かなければならないという予感があるから、好きなはずの絵にも身が入らない。
死んでしまうかもわからないのに絵どころではないような気がするのだ。
ー略ー
「ほんまにオレはアホやろか」 (水木しげる著 1978年9月 ポプラ社)
しげる少年は、父と母と3人で西宮の甲子園口に家を借り、中之島洋画研究所に通った。
借金のため「水木荘」を売った水木しげるは、西宮市の今津水波町に小さな家を買い移り住む。商店街にある家だったので、何か店を始めようかと考えたが資金もないので、そのままにしておく。しかし、1階部分をパチンコ屋にしたいという男が現われ、一階を貸すが、結局はやらず大損をする。
お金がないから、趣味は散歩だった。この頃スケッチブックを持って廃屋やガスタンクなどを描いた。
昭和32年、水木しげるは紙芝居作家を見切り、貸本業界へ。そして、昭和40年には、「テレビくん」で講談社児童漫画賞を受賞し、人気漫画家水木しげるとなった。
現在も東京調布市に住み、水木プロダクションも同市にある。
調布は水木しげるにとって第二の故郷となり、平成15年には深大寺門前に「鬼太郎茶屋」がオープンし、妖怪のフィギュアを展示しているギャラリーや妖怪グッズショップ喫茶コーナーがある。
水木しげるが住み、水木プロダクションもある町調布。鬼太郎茶屋は平成15年10月にオープンした。1階は鬼太郎グッズを販売、2階は妖怪ギャラリーとして妖怪フィギュアや作品が展示されている。
しげる少年は、神社や稲荷さんに誰も住んでいない“家”があるのを見て驚いた。
家のない人もたくさんいるのに、誰も使わない立派な家・
・ ・
誰もそのことを気にしないのも不思議だった。
そんなしげる少年は、“家”を観察することに没頭していく・
・ ・。
私は、子供の時、神社とか稲荷さんとかに、誰も住んでいない〝家〟があるのを見て非常に驚いた。
昔は家のない人もたくさんいたのに、誰も使っていない立派な家があるというのが不思議だった(これは今でも不思議なことだが……)
さらに、それを誰も気にしないことも不思議といえば不思議だった。
私は、学校の帰りとか、時たま夜出かけたような機会に、わざわざ廻り道をしたりして、神社や稲荷さんの〝家〟を観察していた。それは、夜、〝家主〟たちが集まって会議でもするのではないかと思ったからだ。
町に大火があって神社も焼けた時、そこからは一体なにが出てきたのかということを同級生に聞いてまわったところ、それはなんと、石だった。
私はそれを知って、神は〝石〟なのか、あるいは石が化けるのか、と思ったりしたものだ。
また、子供の頃〝妖怪〟にもかなり出会った。
それらは、その時は何だかわからなかったが、後年、柳田国男の本なぞを読んでそれとわかったわけだが、要するに、これといった形はなかった。
そして、戦争中に行かされていた南方でも、日本で知られている〝妖怪〟と同じ現象に二、三回出会っている。
そういうことから、いわゆる〝妖怪現象〟とも言うべきものは日本だけのものではない、と思うようになった。
さて、三十年くらい前から、私はマンガの他に〝妖怪画〟も描くようになった。
それは、「妖怪とはこういうものだ」と自分自身でつかまえたい、コレクションしたい、という願望の現れである。
そうして〝形〟にしてみると、私は満足するのだ。それは、子供が昆虫採集に熱中するのと似ている。
一匹ずつ捕えては箱に入れ、ながめるわけだ。
妖怪も百、二百、三百と集まってくると、自分の頭がそのようになるのか、〝妖怪〟というものがわかってくるような気になる。
それを形のないままにしておいたのでは何もわからない。
曲りなりにも〝形〟にすると、なんとなくわかったような気持ちになる。
それでも、私は「妖怪が本当にいる」ということは、なかなか信じられなかった(今でも、多少そうなのだが……)。しかし、「いない」と考えると、とても寂しい気分になってしまう。
とにかく、そのようにして日本の妖怪を五百ばかり頭に入れたうえで東南アジアとかアフリカ、ニューギニアや南米、南の島々といったところを歩き廻ると、予備知識もないはずのその国の妖怪現象が、見るだけで理解できるのだ。
さらに驚いたことに、労せずして、妖怪の方から私のフトコロに飛びこんでくる。それは、時には仮面であったり木像であったりして、そういうものは日本に持ち帰った。
要するに、日本の妖怪様たちと同じ方々が世界中にいるのだ。
私は驚いてしまった。あまり驚いていると、人に「少しおかしいのではないか」と言われる向きがあるので、表面は少ししか驚かないようなふりをしていたが、本当は倒れるほど驚いているわけだ。
ニューギニアで、森の精霊が太鼓とともにたくさん出てきた時などは、驚きのため、というか嬉しさのあまりに腰が抜け、酋長に支えられたほどだ。そして、彼らの鋭い〝妖怪感度〟にも驚かされた。
そんなぐあいで、日本に閉じこもって、本を読んでハナクソをほじくっていたのでは、妖怪のことなんかわかるものではない。妖怪の〝屍〟くらいはわかるだろうが……。
何しろ世界は広いから、いろいろなところに妖怪はたくさんいる。ちなみに、都会にもいるが、日本の都会はダメなようである。
宣伝するわけではないが、水木サンの本を見て、最低でも三年くらいかけて頭を〝妖怪化〟してしまえば、面白いほど妖怪が見えてくる。(いや感じられる)
もっとも、妖怪は大部分が〝霊〟らしいから、形は見れない。
やはり、猫なんかが人間の言葉を〝感じ〟でとらえるように、妖怪もまた〝感じ〟でとらえるものではないかと思ったりしている。
何にしても、この宇宙には(いや、地球には、と言ってもよい)未知な存在がまだたくさんあるような気がしてならない。
昔の人が不思議なことを書き残したのは、「こういう不思議なものがいるから、後世で解決してみてくれ」ということだったのかもしれないと〝空想〟している。
……というようなことで、水木センセイの使命たるや重大なのでアル。
『水木しげると日本の妖怪』展図録 『水木しげると日本の妖怪』カタログ編集委員会編 NHKプロモーション発行より
聞き手・上杉富之(成城大学文芸学部教授)
-略-水木さんに、妖怪とのつきあい方をうかがいたいと思います。-略-
水木さんのマンガに徹底的なワルはでてきませんよね。意識的にそうなさっているんですか。
水木 そういう妖怪のキャラクターをつくったりする場合は、自分でつくったようにみえるけれども、やっぱりけっきょくは目にみえないなにか妙なものの指示みたいなものが、暗黙のうちにあるようにおもうんですよ。それは、いわゆる祖先の意志が無意識下に隠されていて、ある程度指示したりするんじゃないかとおもうんです。
-で、「完全にこらしめてはいけないぞ」と。
水木 そうそう。けっきょく、わたしのヒーローは空をとんだりとか、スーパーマンみたいにしなかったわけですよ。鬼太郎の能力を、動物とか昆虫の能力程度にしたわけです。ヒーローをつくるときには、あんまり強すぎるとおもしろくないということから、わたしは昆虫とか動物の能力以外はあんまり採用しなかったわけです。だから、髪の毛がハリになるとかいう程度です。
そうすると、ひとりだと強い敵と戦えないから、ファミリーが必要になってくるわけです。より強い敵にたいして、ファミリーがいないと、鬼太郎だけではやっつけられないわけ。それで、ファミリーが、だんだんとほんとうのファミリー化していくわけですよ。そういうようなことから、子どもがうけいれやすくなったんじゃないですか、逆に。
-鉄腕アトムのようなすごいヒーローはおかんがえになりましたか。
水木 ひとりで何万馬力とか、ひとりでなんでもやっつけられる能力ではないんです。あんまり強いと味気なくおわるわけですよね。話が大きくなるいっぽうですよ。そういうことで、能力を小さくしたんです。敵にしても、日本の妖怪は敵側にまわっても、ある程度の限度の強さでしょう。それ以上強いというのは、外国の妖怪になってくるわけですよ。日本の妖怪はその場合だけ、みんなで全力で助ける。自然にそうならざるをえない。かんがえてみれば、それが逆によかったわけでしょうね。みんなに理解されやすいから。
〈お化けは世界共通の存在〉 -妖怪との出会いというのは、どんなふうだったんでしょうか。
水木 わたしは第二次世界大戦で、いまのパプアニューギニアのラバウルにいったわけですが、ああいう戦地にいくと、爆撃があるので穴のなかに寝ていますからね、日が暮れると寝ますね。そうすると、自然に日本のことをかんがえるわけですよ、なんにもないわけですから。すると、頭にテレビができますね。あれは、おかしなもんですよ。
-映像が、つぎからつぎへとでてくるんですか。
水木 そうそう。それで、小さいときのことなんか、みんな克明にでてきますよ。それで、わたしは小さいときのことをよく描いたりするのは、そのとき脳のなかから反芻してでてきたものですね。子どものころですが、あのときお化けに出会ったとかいうのは、みんなそのときわかったんです。
妖怪というのは、精霊とか、宇宙の目にみえない存在なんかとひじょうに関連が深いわけですよね。妖怪とはなにかということを突きつめると、その背後にあるもののところにいっちゃうんですよ、どうしてもね。妖怪を描いていてなにを頼りにするかというと、当時はもっぱら民俗学に助けてもらえるだろうとおもっていましてね。
-なにかヒントがあるかもしれないとかんがえていらした。
水木 そうそう。だけどね、伝承とかの背後になにかあるにはまちがいないんだけれども、ピンと生きてこないわけですよ。妖怪というのはほんとうにいるんだとおもわないと、元気がでなかったものですからね。それが、長いあいだなかなか感じとれなかったわけです。
-『ゲゲゲの鬼太郎』は、感じられて描いていたわけですか。
水木 そうそう。だけど、ゆるやかなんですよ。ほんとうにいるかという問題になると、証拠もないし、自分自身も納得いかないでしょう。だから、海外にブラブラ、インカとかニューギニアとかにいくわけですね。
-それが、水木さんがある著書で書いていらした、「スランプに陥った」という時期だったわけですか。
水木 そうそう。わたしは日本の妖怪を300とか500、絵に描いて頭にいれていましたから、外国にいっておなじものがいるので元気づいたわけです。アフリカでもみんなそうなんですよ。「これは、やっぱりほんとうにいるんだ」となったわけです。すなわち、彼らも感じているんだとおもったんです。 お化けでも日本のだけつついてもあまりわからんです。世界に目を向けたほうがよくわかりますね。日本のばっかりやってても、生きたお化けには巡り会えないですよ。お化けを500、頭にいれたときから世界共通だということがよくわかったんです。64か65歳のときです。世界は「常識」とちがってるんだなとおもったのは。 結論からいうと、宇宙の知性体みたいなものが大昔からいるわけです。目にみえないけどいる。それを、仮に「霊」と名づけてもいいですけれども、それは複雑にして怪奇、得体の知れない存在です。こういうことをかんがえているのはわたしだけかとおもったら、アルフレッド・R・ウォーレスという人が『心霊と進化と』(近藤千雄訳 潮文社)という本を書いているんです。彼はマレー半島でいろいろ研究して、進化論を発表するわけですけれども、宇宙の知性体というものを想定しないと、進化の謎は解けないというんです。わたしも60歳ぐらいまでは、いままで地球上にある知識、すなわちわれわれが教わったわずかな知識がすべてであって、なんでも解説できるというような幻想をもっていたわけです。65歳をすぎたころから、「いや、ちょっとちがうんじゃないかな」というかんがえが、浮かんでくるんです。ところが、自分みたいなものが、聖人といわれている人とか、ノーベル賞をもらったような人のいうことに反発するのはおかしい、となるわけですけれども、かんがえればかんがえるほど偉い人でもまちがったことをいうとわかってきますね。ぼけたのかな、ともおもうですけれども……(笑)。
-いや、それは大声でどんどんいっていただかなければ(笑)。
水木 先人が発見した知識以外のものがたくさんほかにあるわけですね。それを原住民は野蛮だとかいってあまりうけつけないでしょう。それはおかしいとおもうんです。だから、他人の目でみて、他人の頭でかんがえていたような気がするんですよ。それで、自分のかんがえに確信がもてるようになったのは、世界中をウロチョロして、妙な音なんかを聞いてからですよ。自分の目ではじめて感ずることができる、という感じなんですナ。
〈音のなかから精霊の声〉 水木 わたしがとくに元気づいたのは、いろんな民族の踊りや歌をみてからなんです。ああいう踊りは、みえないものについて比較的よく表現されているわけですから。-それが、水木さんの元気の源ですか。
水木 そうです。わたしは、2、3年まえにアメリカ・インディアンのホピ族のところにいって、それで、びっくりしたわけです。大地にかえる修行を穴のなかでやって、40人ぐらいの人が断食してね。踊るんです。断食をしているその元気のない声がおなじ声で合唱して、おなじ仮面で、ぜんぶそれがヤブにらみなんです。踊りは2時間だったけれども、ものすごい迫力のあるものですよね。その弱った声が、ひとつの声になるんですね。全員大きな目でヤブにらみしているのをみていると、おかしくなりますよ、みるほうもね。(笑)
その音楽を聞いていると、いろいろなことを、音のなかから幻想ともつかんものを聞くわけですよ。「おまえは、出雲におってなにをしているんだ」というわけですよ、声ではいえないけど、一所懸命聞いていると、感じでだいたいわかるんです。「おまえ、なにしているんだ?」というわけですね。彼らは精霊信仰で、ようするに3000年まえ、世界じゅうがそうだったということをいうわけですよ。精霊信仰にかえれというのはそれなんです。
-「おまえの指命は」と。
水木 そうそう、音楽で指示されるんです。もっとも、1回、2回聞いてもだめですよ。テープで何回も家で聞くんです。
明瞭に「あ、なにかのメッセージだ」ということを感じたのは、マレー半島に住むセノイ族の「バニソイの儀」でした。「バニソイの儀」という行事は病気の人を、精霊をよんで治してもらうのです。木と竹でひと晩じゅう演奏するんです。精霊にきてもらって癒すわけです。糖尿病みたいに、あんな贅沢な病は治さんわけですけれども(笑)、原始的な、というか初歩的な病というのか、そういうものの癒しはおこなうようなんです。
はじめにホピ族の音楽とかニューブリテン島のバイニング族の音楽とかいろいろ聞いて、階段をあがるようにあがってきたわけですけれども、バニソイの儀の場合は、はじめは単調な音をずっと聞いているうちにだんだんと、音でない音がでてくるんです、音のなかからね。それが、精霊の声なんでしょうな。無心になるわけですよ。そうすると、木になったり石になったりするような気もちになれるんです。そういうようなことから、わたしは悟ったような気になったわけですけどね。
けっきょくは、原始種族というと言葉はわるいけど、そういう人たちを接触して、はじめて元気づいたんです。
-いまの日本では、そういうエネルギーを感じさせるような人たちにはお会いになれませんか。
水木 田舎の盆踊りには多少あります。沖縄のマユンガナシをみにいったんですけれども、マユンガナシつまり神が家々をたずねて、祝いの言葉をしゃべるんですね。わたしは、あれは音だとおもっているんですよ。神の存在の一面を音で伝えるものだと。ウォーレスのいう、いわゆる宇宙の知性体なるものを次代に感じさせるのは音だなとおもってマユンガナシを聞いていたんです。だからあれは神とか霊とかというより、大きな神秘的な力を感じさせますよ。あの節回しといい、すごい迫力だなとおもったですけれども。なにか宇宙の知性体と直接感じあうなにかがあるような気がしますね。
〈みえないものを描く〉 -なるほど、音とか声ですか。ある人類学者の告白をおもいだしました。彼女は当初セノイ族の宗教研究をめざしていたのですが、彼らには言葉で語られるような体系的な宗教などないし、そもそもその必要がないことがわかったというのです。その点、水木さんは妖怪としてとらえることによってみえないものをあらわそうとされている。
水木 わたしは妖怪をかたちにする場合、これだ、という信号ははじめ0・1パーセントしかないんですよ。ただ、おもしろ半分にやっていたわけですよ。で、何十年ものあいだに、途中何回も、「どうしてこういうばかなものを描くんだろう」とかんがえたことあるんですよね。それは、将棋が好きだというのとおなじようなことで、べつにたいして理由はないんですよ。さっと妖怪のかたちが浮かぶわけですし。
オーストラリアのアボリジニが、霊との交信は絵でしかできないというんです。かんがえてみると、絵を描くということは、わりと無心になれるんですね。霊との交信というのは無意識を必要とするんだと、わたしはおもうんですよ。すなわち、知らないあいだに会話していたらしいんです。
-シャーマンは、音とか身振りで恍惚状態、脱魂状態になって霊と交信するといいますが、水木さんの場合は、絵を描きながらですね。
水木 ただ、わたしがそういうものをみれるとおもっている人がいるんです。ところが、そうじゃないんですよ。なにもみれないわけです。強いていえば「感じ」です。 「いる」といっても、かすかな感触ですね。だれも、そんなこといった人はいませんし、「治療でもうけたらどうか」という人もいないでもないし(笑)。自分だけで、アボリジニのように会話をかさねてきたわけですよ。
そういう方法があるということを、誰もいわないし、わたし自身も気づかなかったわけです。
-宇宙のリズムというか、パワーと同調するという感じなんですか。
水木 そうそう。日本のむかしの人もそれを感じていたし、世界じゅうの人がそれなりに、みんな感じとっているようです。ただ、かたちのないものを人間にわからせないといかんでしょう。そこに、大きな問題があるんです。
セノイの場合、それは木彫りの像なんですが、人間に理解できる動物のようなかたちなんです。動物と人間がうまく融合した様が、ものすごくうまいんですよ。「ツタの精」は、いかにもツタらしい感じで、じょうずにつくっているんです。このまえもかなり買ったけど、もう一回いって、お化けを買いあつめようとかんがえているんです。そうしないと、つくる人はまもなくいなくなるんです。
セノイは、だんだん人口が減ってきたから、外国の人がわれわれの文化をもっていってくれることはひじょうによろこばしい、というんです。彼らの文化は、目にみえない精霊を伝えることしかないらしいんです。そういう貴重なものを、だれも褒めたたえないというのも、おかしな話ですよ(笑)。
-そうですね。オーストラリアのアボリジニの場合には、先住民の芸術として、いま見直されつつありますが。
水木 それで、こんど中国の雲南省にいくんです。雲南のお札をあつめている川野明正さんという方がいるでしょう。『季刊民族学』七二号に掲載されていますが、お札というよりも、お化けですよ(笑)。カッパだとか、神さまともお化けともつかぬいろいろな像が描かれたお札をあつめてるんです。『妖怪学講義』を書いた仏教哲学者の井上円了が中国の妖怪が日本に七割きているというものですから、わたしは中国の妖怪をあつめようとまえからおもっていたけれども、共産党政府の迷信打破政策でだめでしょう。ところが、雲南のほうには残っとるらしいんです。彼らは共産党がきらいらしいです(笑)。そのお札は、1000ぐらいあるんです。
-川野さんは、水木さんの妖怪1000体説にもとづいて、1000あつめようとがんばっておられるんですか。
水木 いや、偶然なんです。わたしもその場所にいってそれを感じとる必要があるとおもっているんです。これはかんがえようによっては宇宙の知性体にそそのかされているのかもしれません。というのは、70歳を過ぎればあまり動きたくないのです。しかしわたしは「いく」のです。そこが不思議なところですよ。
-カリブにもいかれたそうですが、どういうきっかけなんですか。
水木 わたしは、世界じゅうの妖怪をあつめようと思っているんです。それで、1冊500ページで20冊の『妖怪総鑑』というのをかんがえているわけです。その下に『日本妖怪大全』とか、『中国妖怪大全』がはいるんですが、国ごとにだいたい3冊ぐらいです。なぜかというと、世界はひろいでしょう、大局的にかんがえて予定をしないと、絵が重複するんです。日本は、『妖怪大全』は続と正と書いていますけど、あと神さまのものを加えて3冊でだいたいおさまる。それが偶然「1000」なんです。ヨーロッパから中近東、メキシコ、みんなやる予定なんです。一生涯で、できるかどうかわかりませんけど。
-すごいですね。宗教に関しては、世界的規模でまとめたキリスト教史とかイスラム教史はあるとおもいますが、世界妖怪総覧というのはないので、ぜひともお願いしたいとおもいます。
水木 もともとわたしはゆったりするのが好きだったから、65歳を過ぎたら仕事はやめて世界漫遊をしようとおもっていたんですよね。ところが、案に相違して仕事をさせられている。これはわたしのなかに、もともとの武良茂というのと水木しげるというふたりがいて、水木しげるのほうは、とりつかれたなにかがあるんじゃないかとおもうんです。「世界の妖怪をぜんぶやれ」とか、「世界妖怪総鑑を描け」という指示は、背後におるなにかわからないものがあたえるという気がするんです。
シャーマニズムを研究されている佐々木宏幹さんの本をよむと、人間が霊にとりつかれる場合には、霊はとりつかれている人間本人が判断したように仕向ける場合もある、と書いてありますが、自分自身というのは、宇宙から自動車をうけとって運転しているようなものじゃないですか。人体をみても、細胞とかものすごく細かくて、とても人間にはつくれないわけですね。それは、ちょうど自動車を頂戴しているのとおなじですよ。運転だけまかされているわけです。それもぜんぶではない。
-運転する「自分」というのは、どこにいくんでしょう。
水木 どこにいくかわからないけど、ただ走っているから運転して、自分のものだとおもいながら運転している。ところが70歳過ぎてから、助手席になにか妙なものがいるのに気づくわけですよ(笑)。ときどきちょっとハンドルをいじるんですね。自分の意思でない方向にいくんですよ。
-なるほど。70になるのが楽しみです(笑)。
水木 助手席におるのが、なにかほんとのもののようなんです。 そうなってくると、へんな気もちですよ。ひょっとするとこいつが目にみえない宇宙の知性体というやつかもしれませんな。
〈地球まるごとの共存へ〉 -最近は神さまを描きはじめられたそうですが、具体的にどういう神さまなんでしょうか。
水木 いっぱい描いてます。沖縄のタコのかたちをしたタコ神だの、わるさをする、なんでもない神などです。
-では、神さまは、絶対善ではなくて、わるさもするのでしょうか。
水木 けっきょくは、ある種の精霊なんですよ。目にみえなくてわからない存在だから、おおくの精霊をひっくるめて、人間がいろいろにかたちを刻んだんです。しかし、いるかというと、いないこともないし、いるわけです。これは世界共通のものです。ただ、民族などによってかたちが多少ことなっている。だから、妖怪とはなにかということを摸索していると、どうしても地球全体の精霊とかカミについて話がおよぶんです。
-略-
水木 問題は、人間の世界にいい人ばっかりいないのとおなじだとおもいますよ。神がみの世界といえども悪いのもいるんです。だから、神の世界もそんなに便利なものではないはずですよ。よく悟りを開いただの、神と接触しただのという人は、ものすごく便利な神をつくるでしょう。あれがまちがいなんです。
-ほんとの神さまは、つかいようがないということですね。
水木 つかいようがないんですよ。ほんとに神がいるんだったら、人間だけじゃなくてイヌ、ネコ、虫でも植物でも、おなじように愛しているはずですよ。人間だけ特別、しかもその国家だけ、民族だけとか、その個人だけを愛しておるというのは、おかしいとおもうんです。いわゆる「拡大解釈」というやつでしょう。あまりにも人間中心で、木を切ったり動物を殺したり、人間のしあわせばかりで、実用的にすぎるんですよ。そういうことから、地球自体もあやまった方向にいきかけているんじゃないかとおもうんですよ。キリスト教でも仏教でも、あまりにも人間中心のほうへいきすぎて、つい大きく根本(ねもと)でちがってしまったから、みんなは気づかないわけです。
従来の宗教というのはだいたい3000年ぐらいまえから、ちょっと道をあやまったんじゃないかとおもうんですよ。3000年まえはなんだったかというと、純粋な精霊信仰です。それは、ホピの音からだいたいわかったわけですけどね。
-いい方はちがいますが、民族の共生、共存とおなじようなことですね。
水木 そうそう。精霊信仰にかえすということなんです。そこから再出発するというわけです。
ところで、こんど妖怪協会をつくろうとおもっているんです。これは人間だけの協会じゃないんですよ。木とか、石とか、虫とか、動物も参加できる。彼らはカネがないから、会費はとらないですけどね(笑)。
-昆虫や植物が参加するときには、誰が代表になるんでしょうか。
水木 わたしもときどき会う人ですが、人間のなかに木と話をしたり虫と話をしたりする人がいるんです。わたしも驚いたんですが、そういう人に代理でしゃべってもらうんですな。そのつぎは、ネコか虫をよんで話そうと。要するに地球協会ですよ。そういう協会なり宗教なんかが、どうしていままでなかったんだろうなとおもうんです。
〈幸福指数をかんがえる〉 -略-
-水木さんの少年時代には、もうすこし生や死が身近にあったような気がするんですが、どうでしたか。
水木 イヌの死骸などはよくありました。死骸なんかがあると、やっぱりつよい衝撃をうけます。解剖学者の養老孟司さんがいわれるのには、江戸以前は死体がいろいろころがっていたという話ですね。だけど、江戸時代にもうちゃんと墓に埋葬してかたづけるようになったそうです。人間は、死をみたくないんですよ。けっきょく、死というものを意識すると、あまり愉快な気もちになれないですからね。
-ところが、わたしが調査したボルネオ島のムルット族では、死んだ人のまえで酒をのむんですよ。死ぬ直前にもう酒盛りの準備をする。悲しいことにはちがいないんですけれども、大往生したんだというので、みんなで盛りあげる-そういう感覚があるんじゃないかとおもいます。
水木 そのほうが正しいかもわからんですよ。死をおそれる文化があまりにも繁栄しすぎて、おかしくなっているんじゃないかとおもうんです。やっぱり死はあるんですから、自然につきあうのがほんとじゃないかとおもうんです。そのほうが、素直な感じがしますよ。彼らは怖いものとつきあっているわけです。妖怪もまた怖いけれども、つきあっているわけですよ。存在をみとめて、怖がりながら毎日生活しているわけです。ところが文明社会になると、怖いものがすくない-まあ、人間が怖いというと、怖いですけど(笑)。
ニューギニアなどでは、お化けの親分などが、ちゃんといるんです。親分のいる場所は、避けて通らなければならないとかいわれたりします。
風の音を聞いたとかいうようなことで、しょっちゅうある程度怖がりながら生活して、単調のようにみえるけれども、同時に楽しくなるようなふうでしたね、みていると。で、彼らは時間をたっぷりもっているんです。日本だと1億円ぐらいないと、あれだけのゆったりした生活はできないというほど心豊かな生活をしているんです。ものはないですけれども、あれだけ贅沢に時間をつかう人間は、ちょっとないでしょう。あるいはバリ島の、儀礼に忙殺されて一生を終わるというのも、いいのかもしれないですよ。
だから、わたしは10年前には、「幸福観察学会」というのをつくろうとおもっていたんです。というのは、われわれが不幸だとおもっている民族でも、いってみるとかならずしもそうでない、幸福度の高い人びとがいるんです。そうしたことから、どのような生き方がいちばん幸福な状態なのかをさぐろうとおもったんです。だから幸福指数をかんがえたほうがいいんですよ。
-GNPよりもですね。どうもありがとうございました。
※展示上の都合で、文章の一部省略や漢数字を算用数字へ変更しています。
『月刊みんぱく5月号』-みんぱく・いんたびゅう30 水木しげる-
平成8年5月5日発行 編集 国立民族学博物館 発行 財団法人 千里文化財団より
本年譜は膨大な資料である平林重雄氏の「水木しげる詳細年譜」を展示の都合上、平林氏の了解を得て大幅に短縮したものを掲載しました。
文中敬称略。
年 | 年齢 | 事項 |
---|---|---|
1922 | 0歳 | 3月8日。当時、父が働いていた大阪府西成郡粉浜村(現・大阪市住吉区東粉浜3丁目)で父・武良亮一、母・琴江の次男として生まれる。本名は武良茂。生後1ヶ月で母と共に鳥取県境港市入船町に帰郷する。 |
1927 | 5歳 | 兄弟や近所の子供らと遊び回る。かけっこや水泳等スポーツが好きな活発な子であった。祖父の代から賄い婦として出入りしていた景山ふさ(のんのんばあ)にかわいがられ、妖怪の話や伝説について教えられ、正福寺の「地獄極楽絵」を見ることで不思議なものへ関心を持つようになる。 |
1929 | 7歳 |
4月、1年遅れで境尋常小学校に入学。 小学校入学時にしげると言えず「げげる」と訛ったことからゲゲと呼ばれる。ガキ大将でイタズラ好きであった。また、朝寝坊でズイタ(大食漢)であった。 |
1935 | 13歳 | 4月、無試験であった境高等小学校に進む。成績不振のため(とくに算術が苦手)進学コースをとらなかった。 |
1937 | 15歳 | 3月、境高等小学校卒業。 |
1938 | 16歳 |
精華美術学院(専門学校)に入学。 父親が保険会社の仕事の都合で大阪に住むことになり、桃谷という所のアパートに同居することになる。学校の授業は一日おきでしかも一時間程度で終了してしまい時間が余るので、グリムやアンデルセンの童話を絵本にしたりしていた。 しばらくして父が兵庫県篠山支店長として転勤することとなり篠山に一軒家を借りる。境港から母親も出てきて三人で住むこととなる。当時、兄・宗平と弟・幸夫はそれぞれの学生寮で生活していた。しかし学校までの距離が遠くなったため、より学校に足が向かず、山の中に入り昆虫などの生き物の研究を熱心に行っていた。その成果で「天昆童画集・地上の巻」を描いた。 |
1940 | 18歳 | 新聞配達所で働きながら日本鉱業学校採掘科を受験し合格する。しかし専門科目にまったく興味がわかず、成績不振かつ欠席が多く半年で退学する。父がジャワから帰国して甲子園口に家を借り、境港から母も上京して3人で生活する。 |
1941 | 19歳 |
日本大学附属大阪夜間中学に入学。昼間はアルバイトと中之島洋画研究所という美術教室に通って、デッサンに明け暮れる。 休日は散歩と写生をし、宝塚の動物園と少女歌劇を見に行くのが楽しみだった。 |
1943 | 21歳 |
夜間中学校3年の春、召集令状が来る。 南と北どちらがいいかと尋ねられ、暖かいほうがと答えた結果、南の激戦地ニューブリテン島(ラバウル)に岐阜連隊の補充兵として送られる。 |
1944 | 22歳 | 現地では地獄のような軍律生活を強いられ、理不尽な体験をさせられる。前線小隊が敵軍に襲撃されて水木はただ一人助かるが、マラリアを発症する。そして寝込んでいるとき、連合軍機の空爆に遭遇し左腕を失う。水木はこの瀕死の状態の中で奇跡的に助かる。この経験が戦後一貫して水木の価値観の根底となる。 |
1945 | 23歳 | ニューブリテン島内ナマレの野戦病院に移され、現地のトライ族と親しくなる。 |
1946 | 24歳 | 3月に帰国。 |
1947 | 25歳 | 東京・月島の引揚者の寮に落ち着く。ここで傷痍軍人の圧力団体「新生会」の一員として都内の戦災ビルを不法占拠したり、街頭募金や魚の配給業を行う。 |
1948 | 26歳 | 武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学。当時は専門学校)に入学。輪タクを安く購入し、運転手に貸して収入とする。 |
1949 | 27歳 |
吉祥寺に部屋を借りて住む。卒業後も絵では食えないだろうと考え、輪タク業も先細りとなったため、「新生会」の元副会長と共に帰省を兼ねて東海道募金旅行に出る。しかし、おもうように金は得られず、結果として失敗に終わる。 旅の途中でたまたま一泊した神戸市兵庫区の安宿の女主人が、「この建物を買わないか」と持ちかけてきた。二階建て10室の安普請で百万円の借金付きだが頭金20万円でとの話だった。月賦で買うことにし、東京の生活を整理して引き払う。管理人として父を呼ぶ、父は巣鴨プリズンに入っている兄の嫁を連れて来た。しばらくして弟も神戸の会社に勤めることとなり同居することになる。 |
1950 | 28歳 |
買った建物でアパート経営をはじめる。名前は所在地の水木通りから「水木荘」とする。これが後の「水木しげる」のペンネームの由来となる。 住人の一人に久保田という紙芝居絵描きがいて、その技術を教わり習作を描く。水木荘の住人には奇妙な人たちが住んでおり、ストリップのおばちゃん、国際ギャング団一味、さらには空き巣まで住んでいた。 |
1951 | 29歳 |
紙芝居業のトモエ画劇社、林画劇社を経て、紙芝居演者の名人鈴木勝丸の経営する阪神画劇社の専属作家となる。鈴木勝丸の紹介で加太こうじと知り合う。 鈴木勝丸が水木荘の武良のことを「水木さん、水木さん」と呼ぶので、そのまま「水木しげる」を筆名とする。当時、原稿料は一巻(10枚)で200円だった。 |
1952 | 30歳 | 新開地の映画館で見たジョン・ウェインの西部劇をヒントに「拳銃王」「謎の西部王」「アパッチ断崖」やSF作品の「キングコング」などを描く。 |
1953 | 31歳 |
アパート経営もうまくいかず、売り払って西宮に二階屋を買って引っ越す。B級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘留されていた兄が出所したので同居する。 金がかかるので階下は人に貸すこととした。水木は管理人の仕事が無くなったので少しヒマになり、本格的な絵の勉強をすべく神戸市立美術研究所に夜間週3日ほど通ってデッサンの勉強をする。 この頃、紙芝居でグロ悲劇物の「猫娘」「ガマ令嬢」や人間が異形の物に変身する悲劇を描いた大作「巨人ゴジラ」などを描く。このアイデアは貸本漫画家の時代に『ロケットマン』や『怪獣ラバン』『ないしょの話』に使っている。 |
1954 | 32歳 | 鈴木勝丸から、昔東京で伊藤正美原作の「ハカバ奇太郎」という因果物があったが、こういう不況の時代は因果物が当たるとアドバイスを受けて、後の人気漫画「鬼太郎作品」の前身となる「蛇人」「空手鬼太郎」「ガロア」などを描く。「蛇人」での鬼太郎は蛇の腹から生まれ、迫害した人間に復讐するという陰惨な話の主人公で、その姿もグロテスクなキャラクターであった。それゆえ子供たちにはあまりうけず、その反省から「空手鬼太郎」では、兄の長男をモデルにしてかわいい鬼太郎を登場させて、当時流行していた空手を組み込んで構成していた。本作品にすでに目玉親父が登場する。 |
1955 | 33歳 | これも後の漫画の前身となる「河童の三平」を描く。水木は「人間の世界へ大勢の河童を出しすぎたことが失敗だった。それゆえ漫画化する際には一匹に変更した」と回想している。また、鬼太郎ものの「幽霊の手」や、年に一度妖怪の国からやってくる妖怪たちの中で、一つ目小僧だけがブランコで遊んでいて帰れなくなってしまい、一年間人間界で過ごすことになる「一つ目小僧」、貸本漫画の「金太とピン子」のオリジナルとなる「小人横綱」を発表して好評を得る。 |
1956 | 34歳 | 紙芝居「チビ武蔵」「化鳥」「人鯨」「小人横綱」などを描く。テレビの普及が進み、紙芝居業界も低落傾向がはっきりとしてくる。 |
1957 | 35歳 | 貸本漫画に活路を見出すべく単身上京。 |
1958 | 36歳 | 2月25日、デビュー作『ロケットマン』(兎月書房)を刊行。 |
1961 | 39歳 | 1月20日、鳥取で見合いをし、1月30日には挙式。妻・布枝はすぐ上京する。 |
1963 | 41歳 | 『悪魔くん』全3巻の刊行が開始。 |
1964 | 42歳 | 9月から月刊誌『月刊ガロ』を創刊。 |
1966 | 44歳 | 多忙のためプロダクション制をとり、調布の自宅を水木プロとした。 |
1968 | 46歳 | 「ゲゲゲの鬼太郎」のテレビアニメの放映が開始。 |
1971 | 49歳 | 26年ぶりにパプア・ニューギニアのニューブリテン島ナマレを訪れ、トライ族の歓迎を受ける。 |
1977 | 55歳 | 少年時代のエピソードをエッセイ化した『のんのんばあとオレ』を刊行する。 |
1989 | 67歳 | 『コミック昭和史』で第13回講談社漫画賞(一般部門)を受賞する。 |
1991 | 69歳 | 紫綬褒章受章。8月、NHKで「のんのんばあとオレ」がドラマ化。翌年3月テレビ部門で文化庁芸術作品賞を受賞した。 |
1993 | 71歳 | 7月18日、鳥取県境港市で「水木しげるロード」第1期工事完成除幕式が行われる。妖怪ブロンズ像23体が完成し、町おこしの一端となる。 |
1996 | 74歳 |
6月、第23回日本漫画家協会賞・文部大臣賞を受賞する。 8月24日、「水木しげるロード」完成記念式典が行われる。妖怪ブロンズ像は80体となる。 境港で「第1回世界妖怪会議」を開催。 |
2003 | 81歳 | 3月8日、ついに境港市に「水木しげる記念館」が開館する。 |
2004 | 82歳 | 4月29日、鳥取県立博物館で「大(Oh!)水木しげる展」が開幕する。以後、1年半をかけて全国12会場を巡回。 |
水木しげるの原点ともいえる島根半島を主とする山陰文化。
同じ島根半島出身の二人のみずきファンのインタビューから水木しげるを生んだ風土と作品の原点を探ります。
英国からやってきて〝松江〟が気に入った「小泉八雲チャン」
八雲チャンは、あの松江の奇妙な落書きみたいなところが気に入ったのだろう。
水木サン(編集部注:これが水木氏の一人称です。)は松江に近い鳥取県の境港で生まれたが、島根県と鳥取県の感じの違いを五、六歳でよく感じていた。
この感じというのは、どうも五、六歳が最高でその後あんまり五、六歳の気分にならないせいか感じない。
私は、五、六歳の頃というのはなんとなく、〝昔の神々〟を感ずるのかなあと今でも思っている。
さて、八雲チャンだが、彼はそういう〝松江〟の奇妙な落書きを感じ、ヒザをたたいた一人なのだ。
私も小学五年生の時、松江に「修学旅行」で行ったが、たしかに境港とか米子では感じられないようなものがあった。
八雲チャンは、それをストレートに感じ、それにほれて同化しようとした人なのだろう。
いや、そういう気持ちは悪いものではない。
とにかく、八雲チャンが感じたように〝松江〟には奇妙なフンイキがあるのだ。
だいたい松江は出雲の首都だから目にみえない神々も寄ってきているのだろう。
私の母は米子からきた。妻は島根県の安来からきている。
やはり、母と妻をそれとなく比較すると母は近代的な米子商家出の感じだが、安来からきた家内は少し違う。
古代の出雲の神々を背後につけているみたいに鳥取県の神とは少し違う。これは形があるわけではなく一人で勝手に感じているものだから人に相談したりも出来ず自問自答のままで今日に至っている。
八雲チャン位感受性が強くてあの松江のフンイキを全部吸い込むとなかなか松江を逃げきれないというか、松江にアタマを占領される。
私もベビイの頃そういうものを感じた。
それに伴い、伴奏の〝出雲弁〟がなかなか一朝には出来ない舌廻りだからよけい異次元の世界に来たようで、ついカミサマの夢までみてしまう。
おっと、八雲チャンのことだった。外国人としてはマレな感覚の持主で逆に我々に〝出雲〟を教えてくれるというのか。八雲チャンの出現でもう一度出雲を感じなおした人も多いだろう。それほど神々の住む出雲は広くて深い。
『湖都松江』8号より
Q1:まずは水木さんとの関わりについてお聞きしたいのですけれども。
佐野:僕は昭和30年生まれですからね、1955年…戦後ちょうど10年ですね。僕の世代だとだいたい小学校4年生くらいじゃないですか、東京オリンピックのあった年ぐらいからだったと思いますが、記憶によると。少年マガジン、ゲゲゲの鬼太郎、墓場の鬼太郎ですか、最初は…。その頃からじゃないですかね、読み出したのは。まぁさすがに貸本時代とかはちょっと記憶にないですけれども…。
少年マガジンをみんなで回し読みしたような…。そこから始まって。
佐野:週刊誌の時代ですね。その前は、漫画はだいたい月刊誌で『少年』とか『少年ブック』『ぼくら』『冒険王』なんていうのを読んでいるわけですけれども、僕はまぁ『少年』派で。白土三平さんは何描いていたかなぁ…三年寝太郎とかね、そういうのが白土三平さんの作品にあって。水木さんの作品を最初見たとき、白土三平さんとの関わりというか、そんなこと全然考えてないんですけれども、どこか同じような…匂いが。
まぁ土着的なというか、手塚さんたちとは違う。そういう空想科学ものも好きだったんですけれども。手塚治虫、横山光輝、桑田次郎といった、そういう漫画家も確かに好きだったんですけれども。水木さんはやはり鬼太郎、悪魔くん、河童の三平。
Q2:その当時は、たぶんどういう魅力が、なんていうのはわからなかったと思うんですが、今考えてみて水木さんの世界の魅力といったらどういったものですか。
佐野:いろんな風にみなさん水木先生の作品のことを好きだと思うんだけど。もちろん妖怪も好きなんですけれども…。妖怪よりも、妖怪のそういうキャラクターが好きなわけではなくてでして。嫌いじゃないんですよ、非常に興味はあるんですけれども。
目に見えた形のものよりも、物語がね、お話が好きなんですよね。オリジナルのものももちろんですけれども、特に貸本時代から何回もリメイクして描いてらっしゃるような題材。その多くのものは原作があったりもするんですよね。幻想怪奇文学を原作としてお描きになっていたものや単行本になってからのものは、それはそれは…繰り返し読みましたね。
Q3:佐野さんは幻想文学とか怪奇文学マニアということで知られていますが、その原点は漫画やコミックですか。
佐野:そうですね。やはり江戸川乱歩の小説…少年探偵団シリーズですけども。
それ以前でいくとね、やっぱりテレビメディア…まぁテレビっていうと普通昭和28年、家庭に普及したのが皇太子と美智子妃殿下の結婚式が34年ですか。やっぱり2、3年にまずは家庭にテレビが広まって。その頃にやっぱりテレビでやってるものっていったら、まぁ月光仮面であるとか、まぼろし探偵であるとか、海底人8823であるとか、海外のものでもスーパーマンとか、透明人間とかですね、幻想怪奇的なものはものすごいあったんですね。たくさんあったし、映画でも、怪獣映画…僕が生まれた頃にゴジラの第一作目ですからね。そのあと東宝映画さんは、円谷英二特撮監督が次々と名作を生み出していくわけで。
Q4:松江、島根県だとか、山陰のあのあたりだとかというところで、何か感じる、色濃く何かあった、というのは。
佐野:それに気が付くのは随分後になってですね。そんなことはもう当たり前だと思っていましたから。ただ、どうも…まぁ出雲大社があって、八百万の神々が十月に集まってくるんだと、神有月だと言うんだということは、もう刷り込まれていますから、ちっちゃいときから…。
特別な水の都で、水のある所にはそういった霊魂が集まってくるんだとか、神社に岩があるのは、石と樹木と水とそういったところに霊魂が集まってきたり、何か目に見えないそういうものが宿るんだと、神社とはそういうもんだ、とかね。いろんなことを吹き込まれるわけですよ。ここは特別な場所だと、出雲地方というのは。それはみんなそうやって聞かされて育っているんですよね。
Q5:今、佐野さんは東京に住んでいらして、何か東京から見て感じるものというのもいろいろおありだったんでしょうね。
佐野:僕がずっと抱えている問題で、東京から昭和30年代に松江に、出雲地方に転校したというのは、ものすごく大きな出来事で。今の地方と東京との差はないって言ったらあれですけれども。まぁ情報もね、こうやってテレビだけじゃなくて、ネットも含めていろんなことがわかるわけだけれども。
当時はまだ風景から違うし、言葉ももっともっと違うし、言葉もわからない、住んでいるところも違う、風景が違う。もう外国に行ったまでは言わないけど、まぁすごいカルチャーショックですよ。
Q6:もうひとつ、妖怪についてちょっとお伺いしたいんですけれどね。「妖怪をなんか感じるな」という時ってどんなときですか。
佐野:今のようなものの考え方をしているので、妖怪というのは、ある意味いないと思ってもいるんですね、一切。
でも別の言い方をすると、そのことは妖怪なんだと。水木さんにとっては、水木さんが感じる妖怪は、ああいう姿にあってわかりやすく描いて…。ひとりひとり感じ方は違うので、僕はああいうふうに絵は描けないので、妖怪がどんな妖怪がいるかというのは実はわからないですけど。見たことないし。
ただ感じられることはありますよね、不思議なことをね。言葉にできない何か触覚みたいなことで、「なんだろ、この…こうやって触れているわけでもないけど、もやっと…どういったらいいんだろう」というような…
Q7:佐野さんの好きな妖怪はどんなのですか。
佐野:娘はね、「うわん」というのが好きなんですよ。特に何がというわけじゃないですけど。これはね、水木先生のところに遊びに行かせていただいたとき、家族で3人で。先生が娘の八雲に「妖怪で何が好き?」と、水木先生が八雲に聞いたわけです。八雲はその頃ずっと妖怪図鑑読んで育っていますから、僕なんかよりずっと詳しい。「うわん。」て言ったんだよね。水木先生は喜んでくださって「うわんか、うわんはね、僕は好きなんだけどね。なかなか人気がないんだな。でも、なかなかいい妖怪だ。」と褒めてくださったのと、僕自身は、便所の妖怪で「頑張り入道」というのがいるんですが、「あかなめ」とか汚い系が好きで。
Q1:先生は、水木さんに実際お会いになったことがあるそうですね。
小泉:そうですね、はい。もう十年ぐらい前になると思います。私はその頃はすでに松江に住んでいまして、松江に水木先生がおいでになったんですね。井村君江先生と一緒に来られまして…。井村さんという方は、アイルランドやイギリスの妖精の研究をしている方で妖精学の日本での第一任者です。その時に初めて水木先生とお目にかかって、妖怪や妖精の話でしばらく盛り上がったんです。
驚きました。西洋の妖精や世界の妖怪たちに、あんなに造詣が深い方だとは思っていなかったんですね…。やっぱり井村先生とも一緒にイギリスやアイルランドをまわられたことがあるようで、その時の話や、アイルランドの妖精についての深い知識を披露してくださいました。
それから、水木先生の醸し出す雰囲気そのものが、妖怪を呼んできそうなですね、いい意味でそういう雰囲気をお持ちの方だなと思いました。
Q2:やはり先生も妖怪は感じるものだという実感はおありですか。
小泉:ありますね。ただ水木先生ほど感受性が強くないですから…。
でもアイルランドに行って何度かそういうこと感じたことありますね。去年もお化けが出る城として名高いレップ城いうところに行ったんですけれど、ほんとに何か感じましたし、実際、そこで撮ってきた写真に山ほど不思議なものが写っていて…。デジカメで撮ったんですけど、パソコンで編集している3週間の間に次々と場所を移動していくんですよね。それをまた、城の主が日本にやって来たときに見せたら、「こんなことはごく普通にあることだ。でも浮かばれない魂でなく、ハッピーゴーストがいっぱいいるんだ。」といわれました。そんな話を聞いていると、ごく自然にこういうものはあってもいいんじゃないかな、人間が豊かになれるんじゃないかなと思いますね。
Q3:小泉八雲さんと水木しげるさんとの共通点というのもいろいろあると思うんですけれども。
小泉:そうですね、まず一つは、子供の頃、ふたりとも霊的な風土、霊性が強い風土で育っているということがあると思うんですよね。水木先生は言うまでもなく境港で生まれ育たれて、その近くにのんのんばあという異界のことを語れる、あるいは民間伝承にすごく詳しいおばあちゃんがいて、その方から様々な妖怪や異界の話を聞いて、どんどん関心を深めていかれたわけですよね。山陰という場所自体がやはり霊性の大変強いところだなという感じがするんですが
Q4:先ほど話がありました、霊性の強いという山陰地方なんですけれども、兵庫県にも山陰地方がありますけれども、どういったところがそうなんでしょうか。
小泉:そうですね。但馬も因幡も伯耆も出雲も石見も…。それぞれ個性を持っていると思うんですけれども、やはり共通して言えるのは、陰がある風景、風土、そういうことかなというふうにぼくは思いますね。
石見の益田出身の田畑修一郎という作家がいるんですけれど、「山陰地方は暗いようで明るく明るいようで暗い。」というふうに表現しているんですね。ぼくも松江に18年住んでいますが、まさに、そういう感じがしますね。
Q5:では、何か他にも山陰から出た文人だとかにも、何か似たようなものって感じられますか。
小泉:そうですね…ぼくはそんなには存じ上げないですけれども、ちょっとしばらくお付き合いしていると、これは山陽の方ではないなというふうな感じはすることがありますね。なんというか…。非常に気さくにコミュニケーションをするタイプではないんですよね。一瞬とっつきにくいかなと思うんだけども、親しくなると非常に心を開いて話してもらえる。つまり奥深いホスピタリティをもった、そういうところがあると思いますね。
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監修 中元孝迪(姫路獨協大学副学長、元神戸新聞論説委員長)
「なんで、そんなことをするのか」。「なぜ、こんなことが起こるのか」。不可解なことだらけである。そんな現象について、一応の背景や、理由は説明され、なんとなく納得はするものの、いや待てよ、本当にそうなんだろうかと、首をかしげて考え込むことの多い昨今。ひょっとして、この世のものではない、とんでもないパワーが悪さをしているのではないかとさえ思ってしまうことがある。水木さんは、それを「宇宙の知性体」と呼ぶ。つまり、水木作品に登場する妖怪の“本名”なのだろう。残念ながら、その存在は証明されないが、日本人の多くは、感覚的に、妖怪のうごめきを信じている。例えば、鉄腕アトムのようなスーパーヒーローについては、架空の存在としての親近感を持つが、その対極にある鬼太郎やねずみ男については、現実感を伴った愛すべき身近な存在として認めてしまう。古代から人々が抱いてきた自然への畏れは、今も確実に存在する。水木さんの作品が、現代人の心に染み入り、強い共感を呼ぶのはそのためだろう。民俗学の柳田國男や折口信夫を「古代人のメッセンジャー」と呼ぶなら、水木さんもまた「古代DNAの発現者」である。その「水木ワールド」の揺籃地が、兵庫県であり、鬼太郎の“生誕地”が西宮であったことを、この企画で初めて明らかにすることができた。そんな新発見とともに、妖怪の世界を堪能してください。
記
本サイトに掲載した原典には、今日の人権意識からすれば、人種や身分、職業、
身体障害などに関する語句や表現で、不適切であるものも含まれると考えます。
しかし水木しげる氏の作品世界を考える時、語句や表現のみを捉えるのではなく、大きな文脈のなかで読むことが必要であると思います。
そのため本サイトでは、水木しげる氏の世界をそこなうことなく提供するという観点に立って氏が著した語句・表現をそのまま転載しました。
『大(Oh!)水木しげる展』図録 朝日新聞社発行
『水木しげる記念館公式ガイドブック』 朝日新聞社発行
『水木しげると日本の妖怪』展図録 『水木しげると日本の妖怪』カタログ編集委員会編
NHKプロモーション発行
『のんのんばあとオレ』水木しげる著 筑摩書房
『ほんまにオレはアホやろか』水木しげる著 ポプラ社
『ねぼけ人生』水木しげる著 筑摩書房
『妖怪天国』水木しげる著 筑摩書房
『妖怪になりたい』水木しげる著 河出書房
『なまけものになりたい』水木しげる著 河出書房
『生まれたときから「妖怪」だった』水木しげる著 講談社
『水木サンの幸福論 妖怪漫画家の回想』水木しげる著 日本経済新聞社
『水木しげる伝 完全版 上中下』水木しげる著 講談社
他
中元孝迪 原口 尚子