企画展示

三木露風館

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第一章 至福の幼年時代

詩情を育てた龍野の風光

1.故郷龍野

広く人々に愛唱されている童謡「赤とんぼ」は、三木露風の幼年時代の思い出を、故郷龍野の情景に託して歌われている。
露風は、「私に詩思を与えたのは、故郷の山川である」と後年に語るが、故郷の豊かで穏やかな風光は、幼くして別れた母のように暖かく、孤独な日々を送った少年・青年時代には、心の支えでもあった。
「播磨の小京都」ともよばれる龍野市は、兵庫県南西部に位置する、山懐に抱かれた小さな美しい城下町である。

故郷の山河

背後に、き城(亀)の山連峰から続く台山・的場山を負い、その名のごとく籠を伏せたようにこんもりとした鶏籠山がある。その裾を洗うように、紅葉谷から清流が、揖保川に注いでいる。

詩情を育てた龍野の風光
「母なる山 鶏籠山」

かつて山城があったことから、露風は「お城山」と呼び親しんだ風致林山で、「樹木は鬱蒼と茂り、松柏の間に山桜がまぢつて春はそれが美しく咲いた」(『我が歩める道』)と、讃える。多くの種(しゅ)が原生のままに保存され、小動物も多種生息する、母なる山である。

衝立の短歌

鶏籠の山の緑の色かへぬそれをば常に心ともせめ−露風

2.生家界隈と誕生

生家から龍野城跡へ

鶏籠山(けいろうざん)の麓にある城下町は、鉄道開通後、市の中心部が揖保川の西岸に移ったため、藩政時代の面影をそのまま残す。築地と白壁に夕日が射す頃、タイムスリップしたかのように、かつて露風少年が駆け廻った風景を見せてくれる。
龍野城大手門の坂を降りたところに検察庁があり、その前が、露風の生家である。明治22(一八八九)年6月23日、父三木節次郎(23歳)、母カタ(17歳)の長男として生まれた。本名は操(みさお)という。
三木家は、藩政時代には寺社奉行の家で、節次郎は次男であった。九十四銀行に勤務し、後年は神戸で過ごした。翠山と号し、漢詩を作り、書を良くした。
母は鳥取藩の家老和田邦之介の次女として生まれたが、和田家重臣、堀正の養女となる。後に看護婦・女性解放運動家として活躍した碧川(みどりかわ)カタである。

3.母の愛に包まれて

右:古橋 / 左:桜橋(母と歩いた場所)

母のカタは優しく聡明な女性で、短歌を作り、文学にも明るかった。母が、子守歌代わりに読本や長い詩を読んでくれたり、絵を描いて遊ばせてくれたことが、後の露風の豊かな言語や繊細な愛情を形成した。
明治28年春、節次郎の放蕩が続き、縁なく、母は弟の勉を連れて鳥取の実家に戻る。長男の露風のみが残された。
わずかに母と過ごした至福の日々、母と摘んだ桑の実や梅の実、手を引かれて歩いた桜橋や紅葉谷、聚遠亭(しゅうえんてい)の古橋、赤とんぼや夕焼けの情景が、かけがえのない思い出として記憶に残り、後年、露風文学の持つ懐かしさに繋がる。

母子像『真珠島』口絵 初山滋画

弟の勉を抱き上げ・笑いかけ・頬にキスする母のしぐさが、かつての自分の姿と重なる。母親の匂い、声の調子、差し込んでくる光の具合までもが脳裏に焼きついていたのだろう。後に童謡を読むようになってからは、とりわけこれらの光景が思い出されたという。

第二章 孤独な少年時代

母恋と文学の芽生え

4.母を待つ

露風は、祖父の制(すさむ)に引き取られた。制は漢学の造詣が深かったので、露風は6歳の時から漢学を、7歳には漢籍『大学』を教わり、神童と呼ばれた。
しかし、内面はまだ母が恋しい年頃である。屋敷の裏の畑からは、母が辿った因幡街道へ続く、両見坂峠のある紅葉谷に出ることができた。母が帰ってくるならばこの道からだと思い、露風は紅葉谷で遊びながら母の帰りを待っていた。この頃の母を待つ心境が、俳句や短歌、童謡「青鷺」「山彦」「山づたひ」「冬の歌」などに歌われている。

短歌を見る

われ七つ因幡に去りぬ おん母を又かへりくる人と思ひし−『文庫』三十巻二号

桑の実の黒きをかぞへ日数経る−『龍野まで』(6歳作句)

声あげて呼べば木だまと返り来ぬ あゝ天地に我領なきや−『低唱』

(「東京に居ます母を呼んでも何の返事もなし 哀れ母は今いかにしてけむ思へば哀れなりけり」の但し書きが付いている)

目ざめては潮の遠音に 母のなげき交じると惑はるる夜−『婦人世界』 露風

祖父制の屋敷跡

この地方の士族屋敷には、自家をまかなえる広さの菜園や果樹園があったという。三木家にも柿・梅・柚・栗・桑などの多くの木が植わっていた。その榧(かや)の木と枇杷(びわ)の木に父母のことを託して唱った童謡「きりきりばった」がある。

5.文学の芽生え

亀(き)の池畔
投稿新聞『鷺城新聞』

6歳で母と別れ、7歳で母親代わりの子守姐やを失い、10歳には祖母のトシが他界した。トシの枕元で号泣したというが、小さい魂には耐え難い別離の連続であった。山の向こうには、母が居る。子守姐やも居る。露風はいつしか、両見坂峠を越え、亀(き)の池に至るまでの山道を歩くようになった。池畔の美しさに魅せられ、何時間も山中で過ごす。その自然との交感の時間が、露風独自の幽妙な霊感や、繊細な詩情を育んだ。
12歳頃より俳句や短歌を『小国民』『中学文壇』「姫路新聞」「鷺城(ろじょう)新聞」に投稿するようになる。『秀才文壇』には16歳の若山牧水、18歳の相馬御風らに混じって、12歳の露風の作品が掲載されていた。

6.海を望む

遠く海と播磨平野を臨む
現在の県立龍野高等学校

明治36年(14歳)、県立龍野中学校に首席で入学した露風は、帰り道に学校の裏にある白鷺山へ登り、遠くで青く輝く海を見るのを好んだ。かつては高瀬舟の行きかったという揖保川は、大きな白いうねりを描いて海に注ぎ込んでいる。遠くに霞む家島諸島の島影は、初期の秀作『恋の家島』に、故郷の籬(まがき)から見える海は「紅椿」に、そして「初夏」「海の言葉」などの作品になる。故郷の情景には海が添うのだった。
「海と桜と母は大好きにて候」と言う露風は、別れた母のいる海辺の町の波音に思いを馳せ、そして、中央文壇の大海原に憧れながら、海の向こうに夢を託していたのだろう。この頃、詩歌の「緋桜会」、俳句の「柿栗会」を結成し、主宰した。

第三章 友情と恋を糧に-青年時代-

文学と恋と友情

7.閑谷黌への転校と友人

少年時代の有本芳水

主席で入学した龍野中学校であったが、文学に熱中するあまり、他の教科がおろそかになり、また、詩人を気取っていると先輩にいじめられるなどの事件が起き、明治37(一九〇四)年11月、岡山県和気(わけ)郡伊里村閑谷(しずたに)(現・・備前市閑谷)にある私学閑谷黌(しずたにこう)へ転校した。
岡山には、「鷺城新聞」の投稿仲間であった有本芳水がおり、2人は入沢涼月の血潮会(ちしおかい)の同人となった。会誌『白虹』には、川路柳虹、小山内薫、萩原朔太郎も寄稿し、全国に知られる雑誌だった。

8.「不言園」での創作

不言園(家森長治郎撮影)

翌春、寮の改築が行われるのを機に、露風は村の素封家が持つ瀟洒な「不言園(ふげんえん)」に移った。
「不言園」は山の中腹に建っており、周囲には南欧の雰囲気を持つ森と、澄み切った池があった。池にかかる夕月を眺め、夜を明かしてしまうこともあり、森の曙(あけぼの)の神秘性に魅せられた。その風情は、限りなく美しい詩情を露風に与え、後の詩集『寂しき曙』『信仰の曙』の原風景ともなる。
その頃、詩歌壇ではロマン派が隆盛を極めていた。露風も、明星派の詩に強く影響を受け、東京の『文庫』『新声』『白百合』などに投稿し、掲載されるのを励みとしながら、創作に熱中した。

ロマン派の隆盛

その頃、中央の文壇では、島崎藤村の『若菜集』が美しい抒情詩の世界を拓いて以来、土井晩翠は『天地有情』でロマン的な心情を漢詩調で歌い上げ、『文庫』に伊良子清白・横瀬夜雨・河井酔茗らが集った。さらに、与謝野鉄幹は新詩社を設立して、晶子夫人らとともに詩歌雑誌『明星』を創刊した。『明星』には、石川啄木・薄田泣菫・木下杢太郎・前田純孝、そして若き日の北原白秋などが集り、ロマン派の詩歌壇は絢爛豪華であった。

9.「ふるさとの」の恋人

もうひとつ露風を熱中させたのは、「ふるさとの」の乙女のモデルといわれる黒髪の美しい女性との恋であった。この恋は両想いとなり、閑谷の美しい自然の中で繰り広げられた愛の情景は、『夏姫』や『廃園』の「廿歳までの叙情詩」に多く描かれている。
二人の奔放な恋は、やがて学校や親の知るところとなり猛反対された。明治時代の父親の権力は大きい。父の怒りと、年上の女性との恋愛の板挟みになり、狂気して嘆くが、学生の身である露風に抗えるものではなかった。

短歌を見る

白百合の静香ことごと沁みてあれ 袖に御袖に興ぜむふたり
まろび寝の草野に星と恋語るゆふべの風よ 夢さそひ行け
『文庫』二十七巻二号 明治三十七年十月

ひぐるまの恋を驕りて寮のふたり かくてこの春をながしと思ひぬ『白虹』一巻三号 明治三十八年二月

われまどふ父のおほせと 情ある君が涙と 二つを思ひ『文庫』三十巻四号 明治三十八年十二月

春の王の恋を称へし日向葵や 我門遂におどろとなりぬ
あはたゞし 人を嫉みて狂ふ子の 吾れにもあらず 妻は女とらじ
『白虹』一巻三号 明治三十八年二月

ふるさとの

ふるさとの
小野の木立に
笛の音の
うるむ月夜や。
少女子は
熱きこゝろに
そをば聞き
涙ながしき。
十年経ぬ、
同じ心に
君泣くや
母となりても。
『廃園』より

10.一六歳の処女詩歌集『夏姫』

文学や恋愛に夢中になる露風は、親族の言葉にも耳を貸さず、文学で身を立てる決意をし、明治38年7月閑谷黌を退学した。かねて準備していた詩歌集『夏姫』(血汐(ちしお)会)を「閑谷を去る記念の集」として自費出版した。16歳の処女出版は、文壇でも珍しく「早熟の詩人」と言われ、『夏姫』は好意的に迎え入れられた。『国詩』誌上で、並木薫雨は、同年に出版された野口雨情(23歳)の『枯草』、石川啄木(19歳)の『あこがれ』よりも『夏姫』のほうを高く評価した。
8月、『夏姫』を手みやげに、憧れの中央文壇をめざして上京する。恋人とは、結婚の約束をしての切ない別れだった。

『夏姫』詩歌集

血汐会 明治38年(1905)7月15日発行体裁20×11.5p
定価20銭 発行部数300

表紙絵は詩人で画家でもあった津山出身の有松暁衣の描いたもので露風の言を借れば、「百合に人を配した初夏の頃の気分の物」で、「気持のよい三六版の詩歌集」。
短歌113首と詩10篇を収める。

第四章 美の追究と孤独の時代

都会の孤独

11.上京

「聚雲の会」同人
生田長江

翌春、寮の改築が行われるのを機に、露風は村の素封家が持つ瀟洒な「不言園(ふげんえん)」に移った。
「不言園」は山の中腹に建っており、周囲には南欧の雰囲気を持つ森と、澄み切った池があった。池にかかる夕月を眺め、夜を明かしてしまうこともあり、森の曙(あけぼの)の神秘性に魅せられた。その風情は、限りなく美しい詩情を露風に与え、後の詩集『寂しき曙』『信仰の曙』の原風景ともなる。
その頃、詩歌壇ではロマン派が隆盛を極めていた。露風も、明星派の詩に強く影響を受け、東京の『文庫』『新声』『白百合』などに投稿し、掲載されるのを励みとしながら、創作に熱中した。

生田長江と『芸苑』

再度上京した露風は、三島霜川方に離れを借り創作活動に励む。東京の久松学舎で舎監として勤めていた母カタの養父・堀正が、同郷の生田長江に義理の孫露風の指導を頼む。長江は、短歌から詩への転身を進め、指導し、自身が編集する雑誌『芸苑』に毎月(4月までに17篇)露風の作品を掲載した。露風は新進作家として、しだいに認められていった。

12.孤独と困窮生活

若き日の内海信之と露風
母カタからの手紙

明治40(一九○七)年3月、早稲田詩社の結成に露風も参加し、5月には、早稲田大学高等予科文科へ入学する。『芸苑』『早稲田文学』『新声』に次々と作品を発表した。創作面では充実していたが、勘当同然の生活は困窮を極め、さらに閑谷の恋人が結婚したと聞き、傷心する。都会にありながら孤独な日々を過ごす露風は、しだいに自暴自棄になって身も心も蝕まれていく。その心の痛みが悲痛な叫びとなって、作品が生まれていった。「その夜」「ふるさとの」は、この頃の作品である。
露風の心を支えたのは、再婚して遠く北海 道の小樽に住む母カタからの便りと、故郷の友人内海(うつみ)信之(泡沫=ほうまつ)の友情であった。

「若き日の内海信之と露風」

内海信之は、手紙に添えて故郷の百合を送るなど、厚い友情を示したばかりか、困窮と戦いながら学業と創作を続ける露風の懇願によって学費の立て替えもした。
また、早稲田鶴巻病院に入院した際は、入院費を立て替え、露子夫人が浴衣を縫って送った。一方、露風は、内海信之の詩集発行の労を取った。

「母カタからの手紙」

短歌

悲しき日雪国なれば日おくれて ぬれてとどきし母の文かな−露風

解説
孤独と貧困に喘ぎながら、創作に打ち込む露風のもとに、北海道の小樽に住む母から手紙が来た。母も多くの子供を抱えて、経済的な援助はできないが、巻紙に達筆な字で母の情を伝えてくる。友人が来ていたが、待ちきれずに封を切って読んでいた露風は、手紙に頬を押し当てて泣いた。露風が抱きしめている手紙には「汝の頬を当てよ、妾はここにキスしたり」と記されていた。

13.死との直面と創作

愛用の机と文具 「接吻の後」を書いたペンは筆塚に収められた

明治41年4月、会心作「接吻の後に」(『文章世界』)を発表したが、疲労が重なり、重態に陥って入院した。死に直面し、精神的にも絶望の淵にありながら「死は解決にあらずして遁逃也」「遁逃が口惜しく候」と言う。そして、病院傍の鳳山館に下宿して、通院しながら創作に打ち込み、「鉛の華」や絶唱「さすらい」3篇(『中央公論』)を発表した。
詩壇は、自然主義運動の影響を受け、口語詩の創作が始められており、露風も『早稲田文学』の5月号に口語詩「暗い扉」を発表し、相馬御風(ぎょふう)の「痩犬」と共に注目された。続いて「十月のおとずれ」「夜」などの口語自由詩の力作を『新生』に発表し、新詩境を開く。

『廃園』の成立

14.自然による癒し

『廃園』 正宗得三郎 挿画
序詩手書き稿

明治42年2月、都会の孤独に耐えかねた露風は、熱海や沼津の海岸に滞在した。
旅行当初は、自殺も考えるほど神経が衰弱していたが、少しずつ健康を取り戻した。5月、無断欠席と学費未納によって早稲田大学は退学になるが、東京へ戻り、6月に根津別邸「六合舎(りくごうしゃ)」の構内にある小宅に移り、世間の風評と離れて詩集の編集に取り組んだ。広々とした森のような古びた廃園の趣(おもむき)が、詩想を与え、再び露風独自の精気(イーサ)を取り戻させた。自然に癒されて、澄みきった心で『廃園』の編集が行われた。

15.『廃園』の成功

「去りゆく五月の詩」の自筆

そこはかとない憂愁を帯びた清雅な詩集『廃園』が、明治42(一九〇九)年2月に生まれた。
この詩集は、その年の3月に上梓された北原白秋の処女作『邪宗門』と並び称され、露風の詩名を文壇に確立した。この時、露風は弱冠20歳であったが、詩壇における彼の活躍に比べるとむしろ遅いぐらいの第2詩集であった。
永井荷風は「ヴェルレーヌの面影を伝えたり」と絶賛し、高村光太郎も「ハアブ(ハーブ)の一の銀線の様に感じ易い心を以て生を歌つてゐる半音楽(セミミュージカル)」な露風の作品は、「現代の日本の文芸界にとつて誇りとす可きもの」と祝福した。さらに、『廃園』の再版時には装幀も引き受けた。
「去りゆく五月の詩」「静かなる六月の夜」は、最もエレガンスな詩と言われている。

孤独の詩人

16.苦悩との対峙

京都相国寺内 長得院(外観)
京都相国寺内 長得院(内観)
文鼎和尚

露風は自然の力によって、自暴自棄な生活とも決別して自己の本来の姿を取り戻したが、苛酷な運命は続き、孤独と寂蓼が立ち去ることはなかった。一層深い、苦悩に満ちた寂蓼感に支配されていった。それを、露風は「ただの悲しみではない。自己の思想の底から湧きあがる悲しみ」と表現した。
新しい詩の思想と表現を追求し、さらに自己の内面を見つめるために、明治43年5月、露風は京都の相国寺内にある長得院に約一ヶ月滞留し、住職文鼎の下で僧坊生活を送った。

17.慶応義塾大学への移籍

永井荷風

明治43年9月、露風は上田敏の勧めで慶応義塾大学に入学する。西洋美術評論の草わけである岩村透の美術史、川合貞一の美学、2月に赴任した永井荷風のフランス文学を受講した。既に『寂しき曙』の刊行も予定されていたのを遅らせて、フランス象徴詩に深く関わる美の追求を望んだのである。しかし、慶応大への移籍は、事実上、早稲田文学からの離脱でもあった。私生活での孤独に加えて、文壇での孤独も辞さない覚悟で真実の美を追求しようとしたのだった。

早稲田大学と『早稲田文学』 慶應義塾大学と『三田文学』

明治43年、慶応義塾大学では、文学部の刷新を図り、永井荷風を教授に迎え、『三田文学』を創刊した。露風も『快楽と太陽』他6篇を寄稿した。

18.『寂しき曙』の刊行

「寂しき曙」、扉絵・川路柳虹画
序詩 「沼のほとり」より

『憂欝な懐疑的苦悩に満ちた心』(岡崎芳恵評)を集めた詩集『寂しき曙』が、明治43年12月刊行された。沈鬱な瞑想味を持った詩集のため共鳴者は少ないが、象徴詩としての評価は高く、この詩によって象徴詩人としての地位が確立された。
矢野峰人は、「詩壇にはじめて聞かれる新声であった。果して何人が今迄にあのように歌い出たか。観念派風の古衣を脱ぎ棄て、詩は一途に情調象徴の域に迫らんとする傾向を明かに示した。」と高く評価した。

序詩は「沼のほとり」の第三連から取られている。(語句は部分的に違う)

『寂しき曙』序詩

序詩 その面は憂愁のスフィンクス、
「過去」よりきたる悲しみの烙印あり
霊は雪に埋れても燃え、
荒きすゝり泣きの声、そこより聞ゆ。

19.沈黙の3年

北原白秋
ザムボア3巻6号『勿忘草』

象徴詩集として高く評価されるべき『寂しき曙』を世に送ったものの、早稲田文学を離れた露風に対し、かつての文学仲間は沈黙を守った。
北原白秋との共著『勿忘草(わすれなぐさ)』でその力量の差をはっきり示すまで、後日『白き手の猟人(かりうど)』に所収され高く評価された作品でさえ、雑誌発表時にはほとんど話題にされなかった。しかも、新聞の文化人動向欄にも露風の名は見えなくなってしまった。(森田実歳調査)
ところが、大正2年3月、『白き手の猟人』を刊行し、露風は文壇に帰ってきた。『寂しき曙』発行以来の9年間、新たな詩境を求めて、東北の湖畔に、東海道に、京都に巡行の旅をして苦悶体験をしていたのだった。

ザムボア3巻6号『勿忘草』

北原白秋主宰の雑誌「朱欒(ザムボア)」の第3巻6を合著詩集『勿忘草』として、明治45年6年に発行した。この企画は発行所の東雲堂の西村陽吉が、詩壇の両雄、白秋と露風を引き合わせ、特集号発行に漕ぎつけた。当時の夢の共演である。
白秋は詩歌作品31篇と余録を、露風は「現身」「月」「栴檀」「恋の囀(さえず)り」の4篇と書柬を書いた。わずか4篇だが粒揃いの絶品で、白秋の作品を圧倒した。中でも「現身」は詩集「白き手の猟人」を代表するのみならず、露風象徴詩の中で最高傑作といわれている。

20.『白き手の猟人』刊行

『白き手の猟人』東雲堂書 坂本繁二郎 装幀
金の朽葉
「詩よし、散文よし、金の葉描ける装幀もよし」と言われる象徴詩集の最高傑作。

瑞々しい抒情性を持ち、フランス象徴主義の枠を超えて、東洋的な幻想を用いて日本独自の象徴詩を完成させたと評される詩集『白き手の猟人』には、詩52篇と散文7篇(詩論)が収められている。
露風は、3年の巡行体験で、「懐疑」から脱却するために自己を見つめ直し、「物の精髄を考えた」結果、自然の見え方が違ってきたという。その成果は「白き手の猟人」の他に、「雪の上の郷愁」「灰色の女」「現身」「栴檀(せんだん)」「恋の囀り(さえずり)」「擢(かい)」などに華開いている。これらは、露風作品中でも最高傑作集として賛辞を得たばかりか、文学史上においても傑作とされる。

雪解け

21.春のきざし

妻 仲
雑司ヶ谷にて

『寂しき曙』が、冬枯れの荒野の光景だとすると、『白き手の猟人』は、雪に浄化された白銀の世界といえるだろうか。その雪の下には春を待つ緑の草が芽吹いていた。
詩人としては、更なる象徴詩の追求が望まれたが、それでは突き詰められていく詩人の精神が持たなかっただろう。露風個人にとって、栗山仲という女性にめぐり合い、閉ざされていた心に陽が射しはじめる喜びが訪れた。優しく家庭的な仲の愛情は、幼い頃からの孤独という根雪をとかし始めた。
『白き手の猟人』には、雪がとけて春の日差しにゆらゆらと立ち上る陽炎(かげろう)のような作品群「反影(はんえい)」「反響(こだま)」「海の上に」などがある。これらは、次に編まれる詩集『幻の田園』の方向を示していた。

22.池袋の新居と『幻の田園』

妻 仲
雑司ヶ谷にて

露風と仲は、新居を東京西郊外のまだ田園風景の残っている池袋に持った。露風は池袋の自然の中で、ゆったりと呼吸することができた。ここで生まれた作品集が『幻の田園』である。仲との新婚生活が、それまで露風を苦しめ深層にまで達していた愛情欠如、人間不信という大きな傷を癒してくれた。この心の変化は、大きな母性に包み込まれていく過程を表現した「緑」、おおらかな自然を背景に童話的な詩情を持つ「森」「沼の蘆(あし)」「古瓶」、悠久の営みに溶け込むような「紡車」「夕暮れ」「撓(たわ)める枝」など、心和らぐ作品に出ている。また、芭蕉の作品に影響され、枯淡的な雰囲気が田園の風景と溶けあって、作品集を包んでいる。

23.未来社結成

山田耕筰アーベント

大正2年秋、同志を集めて「未来社」を結成する。同人に川路柳虹、西条八十、山宮允、服部嘉香、灰野庄平、柳沢健、斉藤佳三などがおり、帰朝した山田耕筰もこれに参加した。雑誌『未来』を年4回刊行する予定であったが、断続的に16冊刊行された。この他、雑誌『高踏』の出版、山田耕筰の音楽晩餐会の協力、『未来』の集会、「露風詩会」を池袋宅で行うなど、露風の周囲には若い象徴主義の詩人や音楽家が集まり、生涯でも一番華やかで活発な時期であった。
大正4年、26歳になる新春、露風は詩壇のトップに輝いていた。3月には、「マンダラ詩社」の結成にも加わった。

山田耕筰アーベント

露風の生涯の友であり、童謡「赤とんぼ」の作曲者でもある山田耕筰が、ドイツ留学を終て帰朝したので、未来社一同で大正3年2月21日に築地精養軒において、音楽晩餐会(山田アーベント)を開催する。
第2回晩餐会は7月12日丸の内保険協会で開催された。

「象徴詩の全盛」

『日本象徴詩集』は、未来社同人が中心となり編集した象徴詩集。約400ページ。大正8年5月発行。
露風が、序文を付け、北原白秋・上田敏・北村初雄・堀口大学・日夏耿之介・河井酔茗・蒲原有明らを加えた32人の集徴詩を収めた、画期的な詞華集。詩壇の大方の詩人が名を連ねた。(『文章世界』で「露風一派の詩を追放せよ」[大正6年5月]を発表した、萩原朔太郎の名はない)

24.弟勉の死と『蘆間の幻影』

弟・勉
ポケット手帳(日記) 勉のことを悩む様子が伺える。

露風と仲は、新居を東京西郊外のまだ田園風景の残っている池袋に持った。露風は池袋の自然の中で、ゆったりと呼吸することができた。ここで生まれた作品集が『幻の田園』である。仲との新婚生活が、それまで露風を苦しめ深層にまで達していた愛情欠如、人間不信という大きな傷を癒してくれた。この心の変化は、大きな母性に包み込まれていく過程を表現した「緑」、おおらかな自然を背景に童話的な詩情を持つ「森」「沼の蘆(あし)」「古瓶」、悠久の営みに溶け込むような「紡車」「夕暮れ」「撓(たわ)める枝」など、心和らぐ作品に出ている。また、芭蕉の作品に影響され、枯淡的な雰囲気が田園の風景と溶けあって、作品集を包んでいる。

露風自筆『樽の歌』

ちょうど5月の末、鈴木三重吉が、『赤い鳥』童謡欄の選者を、露風に依頼してきた。勉のこともあるので露風は断り、北原白秋を推薦し、西条八十、斉藤圭三、山田耕筰などを紹介した。まさか、『赤い鳥』が成功し、童謡ブームになるとは思ってもみない露風であった。
弟の死に次いで、翌年には父の節次郎も亡くなった。露風は、従来の人生に対する懐疑に加え、人の生命や神仏について瞑想するようになる。この間の作品が、『蘆間の幻影』にまとめられている。「古橋」や「樽の歌」など、故郷の作品が混じるのは、勉とともに偲んだのであろう。

第五章 宗教と詩と童謡の時代

北海道のトラピスト修道院へ

25.新たな苦悩と求道

『廃園』『寂しき曙』『白き手の猟人』『幻の田園』などの詩集を次々に発表し、象徴詩人として文壇の頂点に立ちながらも、美に対する求道の止まない露風は、ある日、沼津天主公教会にビリング神父を尋ね、北海道のトラピスト修道院を訪問するよう勧められた。西洋の文学や精神のバックボーンを為すキリスト教には、強く心惹かれるものがあった。人生への懐疑と苦悩、そして愛するものを失っていく悲しさを信仰によって解したいという望みが、敬虔な道への憧れを強くしたのだろう。

燈台の聖母トラピスト修道院
トラピスト修道院

明治29(1896)年11月21日、北海道上磯郡の海を臨む見晴らしの良い山中に、ブリックベック修道院(フランス在)によって創設された。そこからの景色は、本国フランスに似て、それよりも絶景であると讃えられ、葛登志燈台が近くにあることから“燈台の聖母修道院”と名付けられる。フランスのシトーの地に起こったのでシトー派と呼ばれ、カトリックの教義と戒律を重んじる。
「祈り、働け」をモットーに、石だらけの痩せ地を開墾して牧草地となし、本国より乳牛を連れてきて、牛乳やバター精製などの酪農(雪印に技術を伝える)を始める。牛の堆肥により土地を肥やし、田畑を作り、果樹を植え、植林をし製材所を作るなど、自給自足の生活をする。
また、函館の湯川から来た孤児を「トラピスト学園」で、昭和初期まで2920人を養育する。言語・食物・風俗習慣・気候の違い、周囲の無理解、火災、戦争、経済困難などを乗り越え、100年を経て日本に根付いた。

26.トラピスト訪問と『良心』

タルシス修道士と露風

露風は、旅行を兼ねて大正4年8月に、トラピスト修道院を訪問した。
美しい大自然と「一番大きな声で祈り、一番重い鋤を握る」Dジュラール・プーイエ院長の生き方は露風に感動を与え、シャルル・タルシスとの出会いは喜びをもたらした。「大自然の中に神を感じ、神に拠って生活する」人々の訪問で得た感動をまとめ、11月に『良心』として上梓した。「修道士達に」「星夜茂別の浜にて」など45篇からなる。
この訪問で果たした石川啄木の墓参り(明治45年没)の折りに作った「啄木を弔う」も所収されている。険しい文学の道半ばで早逝した3歳年上の啄木を思い、北の果ての朽ちた杭一本の墓標の前で涙した露風だった。
大正6年7月の2度目の訪問の時、はまなすの美しさに感動して「賢きのばら」を創作する。最初にシャルル・タルシスが、次いで山田耕筰が作曲し、広く人々に愛唱された。

『良心』詩集
『良心』坂本繁二郎 装幀

白日社 大正4年(1915)11月20日発行
体裁 19×13p 上製本 箱付
装幀・口絵(牛)坂本繁二郎
献辞、目次、」本文164ページ、跋

「苦(に)がき懐疑と、神を求むる高き情熱とを以て」(露風による広告文)訪れた北海道トラピスト修道院での感動を作品化した。
巻末部に「津軽海峡」4編を置き、その中に「啄木を弔ふ」がある。

※挿画「聖布に映れるキリスト」の原画はイタリアのチュレン市に在る。

啄木を弔ふ

石川啄木の墓、函館湾の裏面にあり、一つの墓標に妻子四人永眠し、其墓標のうしろには「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」の歌一首を記るせり。 君が眠れる土を静にふまん
風吹き荒れて
日も暮るゝ畔を
葎生ひしげりて
雛菊の一つだに咲かぬ墓邊を。
・・・
秋風の北ぐに
君が奥津城どころ
あなあはれこゝの濱邊に
蟹とあそぶ人もなし
荒磯の波は
夕日のみ魂を洗ふ。
第一・五連 『良心』より

シャルル・タルシスと山田耕筰が作曲した「野ばら」

露風2回目のトラピスト訪問の時、いつもは函館から舟で行くのだが、この日は馬車で行った。左手に青々とした海を見ながら岸線を走る馬車の旅は楽しかった。空は高く朗々と晴れわたり、海岸にハマナスが咲いていた。その時、露風に一種の詩思がわき起こり、小さな花に託して、悟りを開いた小さな花のような聖テレジアへの思いを(後に、『小さき花を賛美する歌』[昭和3年]と成る)重ねて『野ばら』が生まれた。それをシャルル・タルシスが作曲した。また、山田耕筰に送る近況報告の葉書に、花の美しさと詩を書き添えて送ったところ、耕筰も曲を付け、広く歌われたという。

27.トラピスト修道院に招聘されて

ルルドの泉

雑誌『未来』『牧神』の主催者として、また児童雑誌『子ども雑誌』創刊の予定を持ちながらも、露風の心は、神の懐に抱かれたように豊かで美しい北海道の大自然から離れず修道院を再三訪問した。
修道院側でも、文壇で名声のある露風を国語や文学の講師に迎えたいと希望していたので、破格の待遇で依頼した。院長の熱意と自らの求道心により、周囲の反対を押し切り、大正9(一九二〇)年31歳の5月に、妻の仲を伴って赴任した。

28.信仰詩集

講師館(手前)とトラピスト修道院(奥)

トラピストでの露風の生活は、午前中は近くの講師館から松林を抜けて講義に行き、午後は創作に充てるといった日々だった。ルルドの泉までの山道や森に咲く蝦夷地の草花、ポプラ並木や牧場を渡る風が露風に大いなる創作の意欲を与えた。むろん、フランス流の修道院での生活や神の教義は、作品を深めた。元来寡黙であった詩人は、カトリックの無言の行に励み、その姿勢は作品にも影響し、贅語を持たない短い詩になっていった。それらの成果は、『修道院詩集・信仰の曙』『トラピスト歌集』『修道院詩集第二巻・神と人』の宗教詩集として実を結んだ。天国に一番近い修道院といわれる景勝の地で、瞑想の詩人露風が生まれた。

29.修道院生活の紹介と功績

シュバリエ・サン・セプルクル勲章とホーリーナイトの称号
修道院の牧場

詩集の他に、雄大な北海道の自然と、祈りと労働にいそしむ修道士達の姿を詩情豊かに描いた散文に『修道院生活』や『修道院雑筆』がある。この牧歌的な美しい作品が公表され、人々は修道士の敬虔で慎ましい生き方や、厳しい自然の中の美を知って驚いた。それまでの修道院は、人と接することも少なく、自給自足の生活をしていたので誤解されることが多かった。北海道の寒村の山中を外国人宣教師達が開墾し、巨大な洋館を建て、ヨーロッパ風の生活を始めたのであるから無理もない。露風は、文学を通して、地元の人々と修道院との橋渡しをしたともいえるだろう。 これらの宗教作品に対して、昭和2年3月(37歳)、日本で初めてローマ教皇からシュバリエ・サン・セプルクル勲章とホーリーナイトの称号が与えられ、功績が称えられた。

童謡という新たな詩形

30.子どもたちと童謡

教え子たちと露風(後・中央右)

修道院では、文学概論や美学概論を講義したが、修道士を目指す少年や村の子ども達のために、読み書きや手習いなども教えた。子どものいない露風は、「息子たち」と呼んで可愛がった。クリスマス劇の台本を書いたり、シャルル・タルシス修道士が曲を付けた童謡を皆で歌ったりした。この時期に多くの童謡が創作された。北海道の大自然や子供の姿は、ふるさと播州の豊かな自然や少年時代を思い起こさせ、修道院でのフランス的な風景と融合して、不思議で幻想的な世界が表現された。それは、象徴詩人としての露風の力量を、易しい言葉(口語)で示す新たな分野でもあった。

31.童謡集『真珠島』

『真珠島』 初山滋 装幀

露風が渡道する少し前に創刊された雑誌『赤い鳥』が契機となり、日本中に童謡ブームが興り、類似の児童雑誌が多数発行された。露風も『赤い鳥』以外に、『こども雑誌』『少年倶楽部』『少女倶楽部』『良友』などに発表の場を持った。『樫の実』にも毎号発表していたが、大正10年8月号に「赤蜻蛉(あかとんぼ)」が掲載された。 これらの雑誌発表された作品をまとめて、第一童謡集『真珠島』が、大正10年12月に上梓された。幻想的な作風を持つ初山滋の装幀で、淡緑色の繻子(しゅす=絹)張りの表紙に、天金の瀟洒な童謡集であった。「真珠島」「黄金の泉」「鶏頭の種」など、象徴詩人の名に恥じない佳作が並んでいた。

『真珠島』童謡集
『真珠島』扉

アルス 大正10年(1921)12月18日発行
体裁19×13cm 絹儒子張
献辞、目次、本文232ページ
装幀・挿画 初山滋
定価2円80銭

初山滋の装幀がたいへん美しい、淡緑色絹儒子帳で天金の童謡集。箱にも繊細な彩画が施されている。大正7年の6月から10年の6月までに、『赤い島』『こども雑誌』『少年倶楽部』『良友』『樫の実』に発表されたものをまとめた。各雑誌の特色が出て、多様な童謡が収められている。

32.名曲「赤とんぼ」の成立

『お日さま』 恩地孝四郎 装幀

雑誌『樫の実』に発表された「赤蜻蛉」は、数ヵ所改稿されて『真珠島』に所収された。
大正15年、露風は『真珠島』以降に創作した作品を内容別にまとめた。北海道の厳しい冬の寒さを経て春到来の喜びをうたった『お日さま』と、小鳥や小動物に関わる『小鳥の友』の2冊である。『小鳥の友』には「赤蜻蛉」が「赤とんぼ」として載せられていた。

「赤とんぼ」

『小鳥の友』は、新潮社から出た童謡詩人叢書の第3巻で、ポケットサイズの可愛い童謡集であった。これを山田耕筰に送ったところ、耕筰は通勤電車の中で童謡集を開き、気の向くままにメロディーを付けた。「赤とんぼ」の余白には五線譜と創作日が「Jan.29.1929」(昭和2年1月29日)と記されていた。親友で露風の詩の愛読者でもあった耕筰には、「赤とんぼ」に込められた心情が良く理解できたのであろう。歌詞に添ったしみじみとしたメロディーが付いていた。「赤とんぼ」は、当時の一流の詩人と音楽家が作った日本の心の歌であるといっても過言ではないだろう。

33.トラピスト下山

パウロ・羅風での署名の本 (『信仰の曙』坂本繁二郎 装幀)

大正12年9月1日、関東大震災が起こった。親戚や知人の見舞いのために上京するが、その惨事を目の当たりにして、露風は非常にショックを受けた。修道院に帰ると、昼夜祈り、方々に手紙を書いて震災復興への助力を求め、精力的に手を尽くしていたが、ついに心労のために倒れてしまう。重体の知らせを受けて駆けつけた母カタの介護で回復するが、精神の疲労は激しく、翌13年6月トラピスト修道院を下山した。当初は2年の約束であったが、4年も過ごしていた。その間に受礼して、露風はパウロ、仲はモニカと洗礼名を拝受した。雅号も羅馬(ローマ)にあやかり羅風と改名し、15年秋頃まで使用していた。

第六章 穏やかな余生

詩歌一筋の道だった

34.相次ぐ出版

東京に戻った露風は、憑かれたように作品集を発行した。関東大震災の崩壊を目の当たりにしたことや、自身の大きな病を経て、これまでの作品や詩論をまとめておきたかったのだろう。宗教詩集を2冊、随筆を2冊、その他に『美学草案』『長詩作法』『詩歌の道』『神への道』などの論集、童謡集を2冊、矢つぎ早に発表した。北海道での研鑽の成果を問うものであったが、驚くほどの量は、露風の勤勉さを物語っていた。

『我が歩める道』 松下春雄 装幀
『天賦と閑古鳥』露風から妻 仲へ

続いて、自己の生涯と作品を『我が歩める道』(昭和3年)に綴った。そこには「詩歌一筋の道であった」と記されている。その人生の主な作品は、『三木露風全集 全三巻』にまとめられたが、「天賦と閑古鳥」や平成2年・13年に多くの自筆稿が発見されるなど、未所収の埋もれた佳作がある。

その頃の詩壇は、口語自由詩が発達し、萩原朔太郎らの芸術派が近代詩を完成させていた。人づき合いの苦手な露風は、再び文壇に戻ることなく、三鷹に永住の地を求め、平安な余生を送ることにした。

35.栄誉の数々と突然の死

童謡「赤とんぼ」の歌曲碑
露風自筆「赤とんぼ」

詩壇の重鎮として、また童謡作家として講演に出かけ、雑誌に作品や随筆を寄稿する穏やかな日々が続いた。昭和33年(69歳)、龍野市名誉市民となり、昭和38年11月、紫綬褒章(しゅじゅほうしょう)を受賞し、詩人としての功績が認められ、栄誉が与えられた。
さらに、童謡「赤とんぼ」の歌曲碑を建設することになり、露風は快諾し、自ら筆を執り清書した「赤とんぼ」を龍野市に届けた。完成を心待ちにしていたが、見ることも叶わずに突然の死に見舞われた。

瑞宝賞

昭和39年12月21日、三鷹市下連雀郵便局から出たところをタクシーにはねられ、脳内出血のため、29日午後3時35分に永眠した。75歳であった。年が明けて、1月16日、勲四等瑞宝章が追贈され、翌日17日に西条八十が葬儀委員長となり、カトリック吉祥寺教会で葬儀が執り行われた。三鷹市牟礼(むれ)大盛寺墓地に埋葬される。法名は、穐雲院蜻蛉露風居士(しゅううんいんせきれいろふうこじ)と付けられた。まさに、「赤とんぼ 止まつてゐるよ 竿の先」と詠み、自らを一匹の赤とんぼに例えた詩人らしい、詩歌一筋の高孤な生涯であった。

露風をとりまく人々

露風の生涯の中で、さまざまな人々が影響を与えました。
身近にいた家族、友人。そして、文学者には誰がいたのでしょうか?

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露風の友人たち

龍野・閑谷・東京で、露風は生涯の友や創作のライバルを得ます。彼らは支え合い、励ましあって、良い作品を作っていきます。交友を深めた友人をご紹介します。

〜さまざまな年代を通じて、生涯はばひろい交友関係を築きあげてきた人々を紹介します。〜 ※名前をクリックすると詳細が見れます

文学関係者

露風と交友のあった文学者、先生、そして影響を受けた人々を関係図でご紹介します。

  • 交流のあった人々
  • 師事した人々
  • 影響を与えた人々

車前草社(聚雲の会)の仲間 <尾上柴舟が主宰する車前草社(社誌『水甕』)の若き門人たち>

前列左から3人目三木露風
前列左から3人目三木露風

広く人々に愛唱されている童謡「赤とんぼ」は、三木露風の幼年時代の思い出を、故郷龍野の情景に託して歌われている。
露風は、「私に詩思を与えたのは、故郷の山川である」と後年に語るが、故郷の豊かで穏やかな風光は、幼くして別れた母のように暖かく、孤独な日々を送った少年・青年時代には、心の支えでもあった。
明治38年、上京した露風は有本芳水の下宿に転がり込み、同宿して詩や歌を創作した。そして、39年早稲田高等予科に入学した有本芳水を通じて、先輩の北原白秋、若山牧水たちと知り合う。同年、尾上紫舟が主宰する車前草社(社誌『水甕』)の門を叩き、年末には加入を許された。若手の社友は、高田浩雲と前田夕暮が「聚雲」という回覧誌を形成し、聚雲の会を結んでいたので、駿河台の2人の下宿に出入りした。ある日、皆で食事をした後、写真屋に寄って撮影した。である。

早稲田大学の仲間<詩歌壇に革新的な業績を残した人物や創作の仲間たち>

鶏籠山(けいろうざん)の麓にある城下町は、鉄道開通後、市の中心部が揖保川の西岸に移ったため、藩政時代の面影をそのまま残す。築地と白壁に夕日が射す頃、タイムスリップしたかのように、かつて露風少年が駆け廻った風景を見せてくれる。
龍野城大手門の坂を降りたところに検察庁があり、その前が、露風の生家である。明治22(一八八九)年6月23日、父三木節次郎(23歳)、母カタ(明治37年、早稲田大学高等予科に、後の詩歌壇に革新的な業績を残した4人、若山牧水・北原白秋・土岐善麿・服部嘉香が入学した。彼らの上級には、片山伸・相馬御風・小川未明・窪田空穂らがいる。下級には、有本芳水、40年入学の三木露風・人美東明がいた。教授陣には、坪内逍遙・大西操山をはじめ、洋行帰りの気鋭島村抱月がおり、抱月の帰国(明治38年9月)を待ち望んで『早稲田文学』が復刊された(39年1月)。北原白秋は、38年には、『明星』や『スバル』誌上で活躍をはじめ、参加しなかったが、露風は同級の人美東明や先輩の相馬御風らの「早稲田詩社」結成に誘われ、参加した。
相馬御風が早大校歌「都の西北」を作詞したことは有名だが、考えあぐねている所に露風が居合わせ、2番の「ふるさとの森に・・・」の一節を考え、それが採用されたという。逍遙・抱月に美辞学を学んだ稲門生は共に文壇で活躍し、露風も、御風・白秋・牧水・嘉香・芳水ら先輩、同級の東明とは、創作の仲間であり、ライバルとして友好を温めた。
三木家は、藩政時代には寺社奉行の家で、節次郎は次男であった。九十四銀行に勤務し、後年は神戸で過ごした。翠山と号し、漢詩を作り、書を良くした。
母は鳥取藩の家老和田邦之介の次女として生まれたが、和田家重臣、堀正の養女となる。後に看護婦・女性解放運動家として活躍した碧川(みどりかわ)カタである。

未来社同人 <象徴詩の全盛期に「未来社」を結成した人々>

『寂しき曙』『白き手の猟人』で、象徴詩人の名声を確たるものにした露風は、大正2年秋、『未来社』を結成した。同人に川路柳虹・西条八十・山宮充・服部嘉香・灰野庄平・柳沢健・斉藤圭三などがおり、帰朝したばかりの山田耕筰も参加した。雑誌『未来』を発行し、同人企画・発行の『象徴詩集』は、当時流行となった象徴主義の詩人達がほとんど参加する豪華な顔ぶれと、圭作に溢れた400ページの美しい詩集だった。

生田長江 明治15年~昭和11年(1882~1936)

生田長江

評論家、小説家、戯曲家、翻訳家。鳥取県日野郡生れ。本名弘治。36年9月、東京帝大哲学科に入学。38年冬、夏目漱石を訪ねた。39年1月、上田敏、馬場孤蝶が『芸苑』を再興したさいに森田草平らとともに同人に加えられ、3月『芸苑』に発表した「小栗風葉」で文壇に知られる。この時、弁舌滔ゝとして長江の如しという意味で、上田敏から長江という号を与えられ、以後これを用いた。ニーチェの『ツアラトウストラ』の翻訳をするなど文壇批評から社会問題へと幅広く活躍し、平塚雷鳥の組織した青踏社も長江の命名になる。
露風が文学を志して上京してきたので、母カタの養父堀正が、同郷のよしみで、その教育を長江に託した。長江は露風を指導し、短歌から詩へ向かわせ、自身の編集する『芸苑』に毎号作品を掲載し、新進作家として育てた。

島村抱月 明治4年~大正7年(1871~1918)

早稲田大学の2期生。坪内逍遙・大西操山の薫陶を受け、美辞学を集大成する。明治35年から38年まで英独に留学。帰朝後教壇に復帰するとすぐに休刊中の『早稲田文学』を復刊し、主催した。『文芸上の自然主義』などを発表し、自然主義の発展に努めた。
露風の抒情性は、自然主義と相容れないものがあったが、抱月、稲門に流れる自然主義は、露風の象徴性に近代性と思想性を与え、前期象徴主義の詩人達とは隔絶した。

永井荷風 明治12年~昭和34年(1879~1959)

永井荷風 

東京生。本名壮吉。広津柳浪門下生でゾラの影響を受け、明治35年『地獄の花』を発表。荷風に実業家の道を歩かせようとした父の命で米、後、フランスに渡るが、父の意に反し、新時代の文学者として成長して帰国し、『ふらんす物語』(42年)などの作品を発表した。43年、森鴎外・上田敏の推挙で慶応大学の文科教授になり、雑誌「三田文学」を主宰した。
露風の『廃園』の頃の作品は、荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の影響を受け、翻訳調であるといわれ、さらに、荷風が慶応大の教授になった年、慶応大に移り、荷風主宰の『三田文学』にも寄稿した。

与謝野晶子 明治2年~昭和17年(1879~1942)

大阪府堺市町の菓子職人駿河屋に生れた。本名しよう。新詩社の創設とともに入会、『花がたみ』6首を載せたのを手はじめに、熱心に投稿を続け注目された。与謝野寛(鉄幹)と会い、上京して寛のもとに走り、秋に結婚した。『明星』に毎月数十首の群作を寄せ、それらを集成して歌集『みだれ髪』が成った。はじめての女流による画期的な新派歌集で、その鮮烈な自我の昂揚と、多彩な美の乱舞は大反響を呼ぶ。寛との結婚生活は、経済的にも苦しいものであったが、生活臭はなく、絢爛たる絵画美と、幻想的な世界を構築し、豊富な語彙や比喩が駆使されていた。『みだれ髪』心酔の若い層から晶子調の模倣が新詩社内外に拡がり、いわゆる「明星調」形成の要因となった。
露風も小学生の頃は子規風の客観写生の俳句であったが、中学生生になるとより豊かな抒情が表現できる短歌へと移行し、晶子の作風に影響された華やかで王朝風の漂う作風に変化した。その影響は、『夏姫』に顕著で、書名『夏姫』も晶子の『みだれ髪』にある
「雲ぞ青き来し夏姫が朝の髪うつくしいかな水の流るる」
からとったものといわれる。

上田敏 明治7年~大正5年(1874~1916)

帝大(東大)英文科卒業。東京高等師範や東大、京大で英語や英文学を講じた。学生時代から雑誌『帝国文学』『文学界』などに参加。詩の創作もしたが、彼の功績は外国文学、特に詩の紹介と翻訳にある。小泉八雲が高く評価した英語力だけでなく、仏・独・ギリシア・ラテン語にも通じていた。高踏派・象徴派などは、彼が初めて日本に伝えたものである。中でも、明治38年刊行の訳詩集『海潮音』は原詩をも超えるというほどの名訳で、多大な影響を及ぼした。
露風もまた、深く影響され、有本芳水と諳んじあったり、自己の作品に短歌の本歌取りのように取り入れたりしている。慶応大学に移籍したのも、敏の勧めだという。

石川啄木 明治19年~大正2年(1886~1913)

岩手県生まれ。明星派の歌人として注目される。詩歌雑誌の投稿仲間でもあり、露風にとっては思い出深い処女詩歌集『夏姫』を出した年に、同じく『あこがれ』を出版していた。啄木が北海道で新聞記者をしていた頃には、母カタの再婚者である碧川企救男に影響され、自宅を訪問したこともある。同じく早熟の歌人と言われながらも、文学の道半ばにして果ててしまった啄木を思うと、早逝した弟の勉(新聞記者)の面影も重なってくるのだろう。北海道に渡って墓参を果たしたとき「ようやく・・・」という言葉が露風から漏れた。この時、詩「啄木を弔う」を作る。(私の町の露風の足跡 北海道函館 参照)

赤とんぼ以外にも動物がいっぱい usagi kakkou semi kani kojika batta koi hibari

※動物をクリックすると作品が出てきます

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【中級編】

「三木露風」とっておき情報

露風の好きな食べ物は?好きな色は?星座は?子どもの頃は、どんな遊び?
どんなファッション?フーちゃんへの、特別インタビュー。

Q1好きな食べ物は?

贅沢に育ったので、すき焼きや、鯛・鮎なども大好きだった。
仲夫人の話しでは、毎日牛乳は毎日飲んでいた。
「龍野まで」には、龍野から嘴崎屋の羊羹や、鮎最中が送られてきたのを喜んだのが記述がある。
お酒は少したしなむ程度。

Q2なりたかった職業は?

文学者、僧侶。
むろん詩歌一筋の道を歩み、後生に名を残した詩人となり、夢は達成できた。
僧侶に関しても、京都のお寺で僧坊生活を送ったり、トラピスト修道院で過ごし、願いの半分は叶ったようだ。

Q3好きな色は?

潮の藍、黄色、灰銀。朱と碧などが陶器に重く粘られて古くなった色合いを好んだ。

Q4好きな季節は?

夏の正午の幻想的な風情や、秋。

Q5好きな娯楽は?

旅行。
頼まれれば、何処へでも講演にでかけたり、海辺の町に旅したりしている。

Q6星座は?

6月23日生まれなので、かに座。

Q7好きな花は? 好きな木は?

「エンドウやスイートピーの花」とアンケートでは答えているが、仲夫人が庭に菊を作っていたので菊や、故郷の情景に現れる桜なども愛でていた。
木は、日本固有の常磐木を好んだ。周辺に木や森のない下宿は、交通の便が良くても嫌がった。

Q8あだ名は?

中学生の時のあだ名は「がまがえる」だった。
詩人になってからは、威厳正しく、威張った風だったので、西条八十は「小さい虎」と言っている。
体格は小柄で、顔はやや扁平だった。声はややかん高い張りのある声だった。

Q9子どもの頃の生活は?

着物を着て、草履を履く。小学校に行く時には羽織りを着るが、普段は着物だけ。露風は士族の出なので、学校へは、袴もはいて行った。
小学校では男の子と女の子は、別々の教室で勉強した。「男女7歳にして席を同じゅうせず」と言われた。もちろん登下校も別々。給食はないからいつもお弁当を持っていった。

Q10おやつは?

季節の果物(いちじく・びわ・柿・栗・桑の実などの木が屋敷の近くに植わっていた)。
干しさつまいも、おぜんざい、団子、あられ。

Q11遊びは?

自然が豊かだったので、昆虫や蛙を捕ったり、競争させたり、鳥の巣をのぞいてみたり、木に登ったり、木の実を取ったり、川で魚を捕ったり、船を浮かして遊んだ。龍野神社の石段の3連あたりが、露風らの遊び場だった。そこでこままわしをしたり、チャンバラごっこをしたり、兵隊さんごっこをして友達と遊んだ。
露風は一人で紅葉谷で遊んだり、山歩きをするのも好きだった。横笛を吹くことも好きだった。

童謡の歴史

童謡の歴史は、大きく分けると4つに区分されます。それぞれの区分と主な特長をご紹介しましょう。
各項目を開くと、さらに詳しい歴史的な意義と、代表作が紹介されています

「童謡」の語義
広義
広く子どもの歌すべてをあらわす。
狭義
大正7年創刊の児童雑誌『赤い鳥』以降に提唱された芸術性の高い子どものための歌を指し、北原白秋・三木露風・西条八十・野口雨情など一流の詩人によって作られた。
日本書紀の頃
神様へのお祈り、願いを託す。
室町から江戸時代
伝承童謡(わらべ唄)›

作者や作曲者不明。口承で伝わる。
子どもの生活に密着したことがらを謡う。遊びの発達に伴って増える。
かけ声や囃子詞(はやしことば)が多い。問答が多く、即興性がある。

明治時代
唱歌 ›

文部省が学校で歌わせるために作った→行事の歌が多い。学制(皆が学校に行くこと)の発達に伴い、全国津々浦々にまで同じ歌が流れた。西洋音楽のメロディーが採用された。

大正7年以降
童謡(芸術童謡・新興童謡・創作童謡)›

芸術性の高い作品を目指した→北原白秋や三木露風など一流の詩人や作曲家が作る。
子供の生活に密着し、楽しく歌えるうた→童語(話し言葉)でつくる。

昭和・戦後
子どもの歌 ›

新しい世界にふさわしい、新しい感覚のうた。
テレビの影響で、全国に一斉に流れる。アニメ・ソングなど増える。

※ボタンをクリックすると詳細が見れます

【上級編】

「赤とんぼ」の不思議

赤とんぼには不思議な謎がいっぱい。それを、1つずつ解明していくと・・・
易しい短い歌に、こんな意味が隠されていたなんて!

不思議その1「負われて」は、誰に負われているの?

「負われて見たのは」というのは、背中に負ぶわれてという意味です。では、「誰の背中に負ぶわれていたのか」。母親か子守姐やかということが、長い間論争されていましたが、新しい資料が発見されて、露風の場合は子守姐やに負ぶわれていたことがあきらかになりました。決着を付けた新資料は、日本蜻蛉学会事務局長の枝重夫氏によって明らかにされた「森林商報・新69号」(愛知県一宮市繊維商社、森林株式会社発行)昭和34年7月15日付の新聞です。そこには露風自らが「赤とんぼ」の成立について記し、

これは、私の小さい時のおもいでである。家で頼んだ子守娘がいた。その娘が、私を負うていた。西の山の上に、夕焼していた。草の広場に、赤とんぼが飛んでいた。それを負われてゐる私は見た。そのことをおぼえている。

と言っています。これは、当時武家の家では子守姐やを雇い、子守をしてもらい、明治になってからは、幼稚園へも子守姐やに連れて行ってもらったという龍野の風習にも合っています。

不思議その2「赤とんぼ」は、いつ・どこで作られたの??

「赤とんぼ」が、いつ・どこで作られたのかということも、さまざまに研究されてきましたが、「森林商報」には、次のように明記されています。

作ったのは大正十年で、処は、北海道函館附近のトラピスト修道院に於てゞあった。或日午後四時頃に、窓の外を見て、ふと眼についたのは、赤とんぼであった。静かな空気と光のなかに、竿の先に、じっととまっているのであった。それが、かなり長い間、飛び去ろうとしない。私は、それを見ていた。後に、「赤とんぼ」を作ったのである。関係のある【樫の実】に発表した。

この文章から、大正10年に、北海道のトラピスト修道院において作られたということがわかります。「ある日の午後4時頃、窓の外の赤とんぼを見て作った」とも書いてあります。
この露風館のトップページのとんぼが書斎に飛んでくる窓の外の景色は、この時の情景を元にして創作しました。

でも、ここでちょっと待った!「赤とんぼ」ができたのは、「大正10年の秋のある日、午後4時頃」と思うととんでもない間違いを犯すことになります。大正10年8月号の『樫の実』に、「赤蜻蛉」として発表されているからです。露風の創作の過程を研究すると(調べてみようの上級編を参照)、最初に思いついた詩をメモに取り、ノートに整理するという方法で作品を作っています。ですから、大正9年の秋(調査では11月)、赤とんぼを見て作品をつくりメモしておいのでしょう。その後は、新年号の詩や童謡を出版社に送ったり、12月のクリスマス劇の台本を書いたりで忙しく、ノートに整理するのは年が明けた大正10年になってからのことでしょう。露風はたいてい詩を先に整理していますから、童謡を整理したのは3月頃かもしれません。整理しながら、これぞと思う作品を原稿用紙に清書して、出版社に送ります。そして赤とんぼが飛び始める8月号に掲載されたのです。

不思議その3「赤とんぼ」と「赤蜻蛉」どっちがホント?

「赤とんぼ」には、漢字の題「赤蜻蛉」のついた童謡が2つと、平がなの「赤とんぼ」があり、3つとも少しずつ内容が違います。

「赤とんぼ」は、一番最初に、児童教育雑誌『樫の実』の大正10年8月号「赤蜻蛉」として発表されました。第1連は「夕焼、小焼の、山の空」となっていました。赤とんぼを見ていると故郷の夕焼けの情景を思だしたのです。露風の夕焼けの思い出は、いつも5歳の時に別れたお母さんに繋がっていました。「今日こそは帰るか、と思いながら待っていてもとうとう帰ってこない、見上げる西の空の夕焼け。あの山の向こうにはお母さんがいる」そう思う悲しい心と夕焼けの情景が結びついているのです。「春に出ていったお母さんは、梅の実る頃にも、秋になって桑の実がなっても帰ってこない。その上、お母さん代わりに露風の面倒を見てくれた子守の姐やも、嫁に行ってしまっていない。以前は、群れ飛ぶ赤とんぼのように、お母さんも姐やも弟の勉も居て楽しかったのに、今は、竿の先に止まっている1匹のとんぼのように独りぼっちだな」という気持ちをうたったのです。

次に、雑誌発表した「赤蜻蛉」を4箇所手直しをして、12月発行の第1童謡集『真珠島』に載せました。始めに作ったときの感動よりも、詩人としての文学的な考察が、より芸術的な作品になるように改稿させたのです。わずかな手直しで、すばらしく変わりました。

さらに、大正15年、童謡詩人叢書の第3巻の『小鳥の友』を発行するときに、小さな人向けに「赤とんぼ」に変え、リズムを重視した句読点を付けました。この頃、露風は幼い人のうたう童謡は「調子の好いものがよい」と考えていたからです。このポケット版の作品集を、親友の山田耕筰に送ったところ、耕筰は、通勤の電車の中で童謡集を開き、気が向いた童謡にメロディーを付けたのです。
ですから、山田耕筰作曲の「赤とんぼ」は、うたうのに調子の良い『小鳥の友』の「赤とんぼ」が使われており、本物と言えばこれが本物かもしれません。
しかし、象徴詩人として精魂込めて作った『真珠島』所収のものこそ、その文学性の高さからいうと最高で、詩人露風の作品としては、『真珠島』形の「赤蜻蛉」を本物と推薦します。

不思議その4「お里のたより」はどんな意味?「お里」って子守姐やの名前?

「お里」は、子守姐やの名前ではありません。実家の意味です。「お」が付いているのでお母さんの実家という意味でしょう。別れたお母さんからの手紙や様子を、姐やを通して聞いていたのでしょう。その姐やとも別れてしまって「たより」は「絶えはて」てしまったというわけです。「たより」は、手紙の「便り」と「頼る」のふたつの意味をかけています。露風は、わざわざ平仮名で書くことによって、1語に2重・3重の意味をもたせる技法を使います。短歌に精通していた露風は、短歌の掛詞の技法を、詩や童謡にも使ったのです。つまり、「お母さんからの便りも、心の頼りもみんな絶えはてて、ひとりぼっちになってしまった」という絶望の気持ちを表現しています。「絶えはてた」という鋭い文末もその気持ちを強く表現しています。

不思議その5「赤とんぼ」は、姐やへの思いをうたっているの?

「赤とんぼ」の主題を「母のいなくなった寂しさを埋めるように慈(いつく)しんでくれた子守姐やに対する思慕の情である」という説があります。
和田典子は、最初の『樫の実』に発表したものは、「母という字を一字も使わずに母への思いをうたったもの」。そして、『真珠島』に所収されたものは、4箇所の変更を加えて「母を恋する幼子から、独り立ちできるまでの子どもの心の変化をうたったもの」であると考えています。
主題が「姐やへの思慕の情」ではないと考える理由は、初出の『樫の実』発表では「ねえや」となっているのを、『真珠島』では、「姐や」とわざわざ漢字に改めているからです。これは、漢字の「姐や」という表現が、子守姐やのことであることを明確にし、「負はれる」という行為を強く連想させるために変更したのです。仮に、「姐やへの思慕の情」が主題ならば、親し味の強い「ねえや」を、わざわざ「姐や」に変えたりはしないと思うからです。

不思議その6「赤とんぼ」はとても懐かしい気がするのはなぜ?母恋のうただというのは、ほんと?

テレビで、「「『赤とんぼ』は、母恋のうただ」と、ご覧になった方もいらっしゃるでしょう。そんなことはご存じなくても、このうたを聞くと、故郷やお母さんの背中のぬくもりを思い出して懐かしい気持ちになるでしょう。それには、露風の強い母親への思いと、象徴詩人としての巧みな技があるからです。

図をごらんください。

それぞれの言葉の陰に「母」への思いがあることがわかるでしょう。「夕焼、小焼の、山の空」は、露風にとって夕焼けになるまで母の帰りを待っていた孤独な情景なのです。そして、桑の実を摘んで母と過ごした幸福な時間は、今ではまぼろしのようだったと思えるのです。子守姐やは、母代わりであったし、「お里のたよりも絶えはてた」という箇所では、姐やの向こうには母がいます。最後に「夕やけ、小やけの」で、再び母への情が繰り返されます。負われてと言う語で、多くの人は母の背のぬくもりを思い出し、子守姐やという語がさらに、 その思いを繰り返させます。

こうして、詩句全体は、それぞれ表面の言葉の陰に、母親を慕う露風の気持ちを背負っっているので、我々は一句読むたびに、その陰にある露風と母親の情景を見ていることになるのです。各詩句が、広げていく母恋いの波紋を次々と見ているので、この歌を聴いた時、何ともいえない懐かしい気持がします。
露風が母と別れて、とても母を恋しがっていたという状況を知らない人も、「夕焼け」・「負われて」・「お里」という言葉に、自分自身の幼い日を重ねて漠然とした懐かしさに包まれるのです。この漠然とした雰囲気を感じることが、象徴詩の目的でもあります。
露風は、「母」と言う字を1字も使わずに、「母恋のうた」を歌い上げていたのです。これは、「赤とんぼ」だけでなく、「山づたひ」という童謡でもなされています。

不思議その7「あかとんぼ」「赤とんぼ」「赤蜻蛉」など、バラバラなのは印刷ミス?

『真珠島』の「赤蜻蛉」は、「赤蜻蛉」「あかとんぼ」「赤とんぼ」の三通りの書き方がされています(図1)。 これは、印刷ミスではありません。露風の気紛れでもありません。また、重複を避けたのでもありません。
驚くほど緻密に計算されたうえでのことです。しかもそれは、8月に雑誌発表されてからわずか数カ月の間に――編集・印刷の時間を差し引くとわずか数週間で――4箇所変更しただけで成されました。
変更された箇所は、下の通りです。
① 第1連の、「山の空」から「あかとんぼ」へ。
② 第2連と第2連の間で「まぼろしか」と「いつの日か」との入れ替え。
③ 第3連の、「ねえや」から「姐や」への書き換え。
④ 第4連の「こやけ」から「小やけ」への書き換え
ここでは、①と④の変更に着目します。始め、赤とんぼを見て思い出したのは、故郷の夕焼けであり、母への思いであり、寂しかった夕焼け空でした。その想い出を歌にしたのですが、雑誌発表したとき、多くの人はこの歌の主題を「母親代わりに面倒を見てくれた姐やとの別離のかなしさや姐やへの思い」と誤解しました。そこで、露風は、「山の空」を「あかとんぼ」に改め、主題が赤とんぼであることを強調しました。そして③の変更で「ねえや」は、あくまで子守姐やであるとしたのです。

では、どんな赤とんぼかというと、それは、赤とんぼに象徴される露風であり、子どもの心なのです。作品は各連ごとに、年齢的成長の情景を見せてくれています。この説明を、図1に書き足してみましょう(図2)。
第1連は、負われる赤ちゃんの頃だから、1歳か2歳頃の情景。第2連は、歩き始めてから子守りがいらなくなる頃までだから3歳から7歳頃まで。当時の幼稚園は、子守り姐やに連れられて行ったので、子守りがいらなくなったのは小学校に入った7・8歳くらい。母がいなくなった後、世話をしてくれた祖母の俊が、10歳の時に亡くなり、非常に悲しんだと記録されているので、おそらくここでも精神的な自立の坂を越したであろうから、10歳前後。そして、「赤とんぼとまってゐるよ竿の先」と、詠った12歳の頃ということになります。
この年齢に従って、平仮名と漢字が使い分けられているのです。漢字の「赤蜻蛉」の時点では、露風は、北海道の夕焼けの中で赤とんぼを見ています。森林商報には「赤とんぼはかなり長い間竿の先にとまっていた」と記されていますから、露風も長い間、赤とんぼを見ていたわけで、その間に、心は、遠い幼い日と懐かしい故郷の夕焼けの情景に飛んだのでしょう。眼前の夕焼けや赤とんぼの景色と、思い出の情景とが二重写しになりながら、次第に過去の世界に戻っていきます。そして3行目では、心が赤ちゃんの頃の情景に戻っていることを、平仮名書きの「あかとんぼ」が語っています。

第4連の「赤とんぼ」は、小学校に上がっているので、漢字仮名交じりで、同様に、「夕焼、小焼の」においても、大人の露風の場合は漢字で、小学生の露風の場合は「夕やけ、小やけの」と、漢字平仮名交じりで表現されています(④の変更はこのために必要だった)。
同じ1語に対して、漢字と平仮名を書き分けることによって、時間の差を表現したり、感情の強弱を表現するという方法は、露風の作品の中ではよく見られることで、詩「古橋」では、思い出の橋は「古橋」、眼前の橋は「ふる橋」と書き分けています。贅語を持たない露風の詩や童謡において、この書き分けの意味は、大きなウエイトを持っているのです。
このように考えると、『真珠島』形の「赤蜻蛉」の主題は、「各年代で見た赤とんぼの居る夕焼けの情景を通して、露風(=子供)の、精神的な成長(母恋も含めた自立の過程)を歌っている」といえるでしょう。そして、漢字や平仮名混じりの表現が、実に緻密に計算されて選ばれた語だと納得できるでしょう。

研究情報

三木露風の資料が、かなりまとまった形で発見されました。
平成2年度発見の分が、徐々に公開され、多くの研究成果をあげています。
どんな資料が見つかり、新たにどのようなことが分かったのか紹介します。

龍野まで

昭和30(1955)年と31年の11月に、龍野市に招待されて、露風は郷里龍野を訪れた。母校の龍野小学校の運動会に出席したり、講演をおこなったり、市民との親睦会に出席したり、大好きな菊花展を見に行ったりして過ごした。この旅行を機に以前に書いた自伝集「我が歩める道」のように、故郷の龍野にまつわるエピソードや作品について、整理して書き留めようとした。体裁は、旅行記の形を取っているが、思い出や作品の解説、新たに創作した作品と誕生の由来など、また通過した場所の歴史的な解説などが、盛りだくさんに記されている。露風の幼少期の龍野のようすや生活、露風が聞いた伝説や地名考などが言葉豊かに綴られている。

詩稿ノート

メモはさまざまな紙に書きつけられている。
メモがある程度たまればノートに清書する

詩や童謡の作品が書かれているので創作過程や、付けられた日付から創作年月日がわかる。また、清書されている作品が多いことから、はじめはメモの状態で詩想を書き留め、次にノートに整理したという創作手順がわかった。
※参考論文「三木露風の創作過程」和田典子

また、昭和期の作品が順に清書されているので、この頃の創作活動状況がわかる。さらに作品を寄稿した雑誌や新聞社名が記されているのもあり、初出が判明した。
※参考文献『三木露風研究』森田実歳
明治書店の露風年表は、この新資料に基づき森田実歳氏が丹念に新聞や雑誌にあたった研究の成果が記されている。

ポケット手帳

カレンダー付きの手帳なので、露風の行動やその日の所感がわかる。また、創作作品がメモされているので、露風の作品の創作日が限定されてくる。
例えば、大正7年春に、弟の勉が病で倒れ、兄の露風の元に来たいと手紙を書いてきたときの様子など、露風の心情を知ることができる。

私の町の露風の足跡

三木露風の人物像はわかったけれども、ちょっぴり、もの足りない方に。
山懐に抱かれた小さな美しい城下町のどんなところで露風は遊んでいたの?
詩情を育てた龍野を背景にどんな作品を作ったの?
小学生から一般、研究者まで楽しめる内容を、ここでご紹介します。

兵庫県 龍野市

夕焼け小焼けの赤とんぼ…「童謡の里」とも言われている龍野のまちを散策してみませんか?

兵庫県 龍野市

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「水」の詩碑

「水」の詩碑

平成11年3月27日除幕 揖西町中垣内大成池畔

露風が少年時代に、母や姐やを慕って山歩きした頃、魅せられた亀(き)の池の風情を詠った詩「水」が刻まれている。亀の池からさらに奥に進むと、嘉吉の乱の生き舞台である城山(きのやま)城がある。落城の哀話・城主の姫の恋物語・城趾のどこかに埋もれているという秘宝などの伝説を、露風は子どもの頃に胸躍らせて聞いたという。
途中の山道には、大きな亀の形をした岩があるが、これも謎めいている。さまざまな神秘を包み込んで深い緑の中に、豊かな水をたたえる池がそっとある。

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「ふるさとの」の詩碑

「ふるさとの」の詩碑

昭和15年11月24日除幕 龍野公園聚遠亭心字池畔

露風は、少年時代から笛を吹き、月の美しい夜などは、聚遠亭から龍野神社の杉木立のあたりを散歩した。この情景と、第二のふるさと閑谷の恋人を思う心が融合して作られた叙情詩が、「ふるさとの」である。明治40年12月「文庫」に発表され、第二詩集「廃園」に所収されている。露風18歳、東京で孤独な日々を過ごしている頃の作で、断ち切れない恋心と杉並木を渡る笛の音が、心にしみ入る。
多くの音楽家が曲を付け、国民歌謡として広く愛唱された。
除幕式には、東京から露風夫婦も参列し、紅葉の美しい秋深い晴天に、バイオリンの音と女学生らの「ふるさとの」の斉唱が響いた。
その光景は、太平洋戦争の足音が聞こえてくる(翌年勃発)最中の暗い世相を、しばし忘れる程、感銘深いひとときであったと、今なお語りぐさとなっている。

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三木露風立像

三木露風立像

平成元年6月23日除幕 龍野公園入り口三叉路から山手に30m北へ

露風の大好きだった桜並木に、等身大の立像が建っている。春には、桜吹雪に混じって、名残の赤い椿が、「ふるさとの、ふるさとの/家の籬(まがき)の紅椿/その葉を越して/海を見る」
という「紅椿」の一節を思い浮かべさせる。

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「赤とんぼ」歌曲碑

「赤とんぼ」歌曲碑

昭和40年5月28日除幕 龍野公園入り口三叉路右

高さ2メートル、幅6メートルの衝立のように建った煉瓦作りの壁に、露風の上半身の銅板、その下に「歌曲碑撰文」、中央に露風自筆の「赤とんぼ」の詞、左に山田耕筰自筆の「赤とんぼ」の作曲譜面がはめられている。

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筆塚と歌碑

筆塚と歌碑

昭和41年9月20日除幕 龍野町大手 如来寺本堂前

如来寺は、三木家の菩提寺であり、その本堂の前に筆塚がある。「ふでつか」の4字は、露風自筆の短冊と、詩碑「ふるさとの」から、写真家石原元吉氏が撮ったもの。除幕式には生涯の友、有本芳水も出席し、それより2年前に亡くなった露風を悼み、青春の日々の思い出と共に、露風愛用の筆10本を収めた。そのうち1本を名詩「接吻の後に」を書いたものと伝えられ、20歳の頃のものである。
歌碑には、「松風の 清きみ山にひびきけり 心澄むらん月明かけく 露風」と刻まれ、露風が墓参のあり、住職の求めに応じて作った短歌である。
如来寺は山号を松籠山といい、山号に因んだ歌になっている。

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北海道 小樽市・函館市

北海道の雄大な自然とトラピスト修道院でのフランス風の生活は、露風に新しい詩境を開かせました。
作品に残されているそられの足跡を辿ってみましょう。

北海道 小樽市・函館市

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母の居た町(小樽)

母の居た町(小樽)

露風は、かつて母の居た小樽の町を訪ねた。母からの手紙に認められた住所は、「小樽水天宮山田町」。夫の碧川企救男は小樽新聞社に勤めていた。(現在、小樽新聞社は、北海道開拓の村に移築。跡地には小樽新聞社玄関を形取った小さな店と碑がある。)ここには、小樽新報にいた石川啄木が、せみて小樽新聞に移りたいと、企救男を訪ねてきたという。
すぐ近くの水天宮への石段は、故郷の龍野神社の石段にも似ている。
境内からは、海と本土が眺められる。
「遠いこの海の向こうに手放した露風と勉がいる」と、母のカタは北海道で生まれた幼い子どもたちを遊ばせながら、そっと涙を流したのであろう。
後年、母の居た町を訪ねた露風も、この風景の中に立って、かつての母の思いを察したのであろう。

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トラピスト修道院

トラピスト修道院

(函館 上磯)

大正9年から13年までの4年間、文学の講師として赴任する。本土フランスよりも美しいと選ばれた山腹に建つ修道院からの眺望や、北海道の大自然、カトリックの教義やヨーロッパ式の生活が、新たな詩境を開いた。

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「呼吸」の詩碑

「呼吸」の詩碑

昭和46年5月30日除幕 上磯郡上磯トラピスト修道院正面松林 露風講師館附近

露風の住む講師館から、トラピスト修道院へと通じる道に広がる松林の中に建つ。露風は、この松林の中を通り抜けていくことが好きだった。当時は松も2メートルほどで、露風の作品にある「陽のあたる丘」から下ったこのあたりは、日当たりも程良く、緑の木陰で、露風は読書をし、詩詞を練ったのであろう。碑文は、「呼吸」(「寂しき曙」所収)の末節から。
詩碑の隣には、露風の略歴や建設の由来が刻まれた顕彰碑も建っている。

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「ルルドの聖母」の立て札

「ルルドの聖母」の立て札

ルルドの泉への山道

トラピスト修道院の小山神父による手作りの立て札で、森の緑に白い板がよく映える。病を癒す泉と聖母を讃えた露風の作品と、素朴な立て札が、清楚なマリア像のあるルルドの泉へ通じる道にたいへん良く似合う。

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「山鳩の声」の立て札

「山鳩の声」の立て札

ルルドの泉への山道

トラピスト修道院の小山神父の手作りの立て札。実は、ルルドの泉まではかなり距離がある。蝦夷地のめずらしい草花や小鳥のさえずり、木漏れ日や森の香り、踏みしめる木の葉や杉皮の音なども楽しいのだが、この立て札があるとほっとする。散歩が大好きで、毎日ここを歩きながら多くの作品を創作した思案顔の露風の幻が、そこに居そうな気さえする。

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啄木の墓(函館)

啄木の墓(函館)

住吉町立待岬

大正4年、北海道に渡ったおり、石川啄木の墓(当時は朽ちた杭一本の墓標のみ)に行き、文学の道半ばにして早逝した友の死を悼む。この時、詩「啄木を弔う」を作り、啄木に捧げた。また「石川啄木の人と芸術」(『詩歌の道』所収)を著し、業績を顕彰している。

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東京都 三鷹市

昭和3(1928)年~昭和39(1964)年に没するまで、後半生を過ごした第二の故郷である三鷹市のゆかりの地を案内します。

東京都 三鷹市

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三鷹市役所

三鷹市役所

この露風の資料は三鷹市の旧居に残されていたもので、現在、三鷹市が所蔵している。

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赤とんぼの碑(三鷹駅前通り)

赤とんぼの碑(三鷹駅前通り)

少女と赤ちゃんの像。
昭和57年、商店街の入口に建てられたものを平成5年に改修。

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玉川上水

玉川上水

露風がよく散歩していた玉川上水の脇道。当時の雰囲気が今も残る。

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三木露風旧居跡

三木露風旧居跡

昭和3年7月30日、北多摩郡三鷹村牟礼(三鷹市牟礼)に新築した家に移り、永住する。

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高山小学校付近

高山小学校付近

露風がよく散歩していた高山小学校付近。当時は田んぼが広がっていた。

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三鷹市立高山小学校

三鷹市立高山小学校

昭和39年、校歌を作詞。

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三木露風の墓(大盛寺)

三木露風の墓(大盛寺)

交通事故が原因で、昭和39年12月29日永眠。お墓は三鷹市牟礼大盛寺にある。

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牟礼コミュニティセンター

牟礼コミュニティセンター

三鷹市東部地区住民協議会が、三木露風の終焉の地である牟礼住区にちなみ、露風の業績を顕彰し、広く地域の文化の振興を図るため地域文化推進委員会を設置しており、三木露風展の開催(平成15年3月1日~7日)などを行っている。

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著書・作品紹介

三木露風の著書一覧や、主な著書についての解説などをご紹介します。
特にご紹介したい詩や童謡の作品は、ビジュアル化しています。

主要著書解説 ―初期作品集―

手書き『低唱』、詩歌集『夏姫』、詩集『廃園』

小学校・中学校時代の俳句や短歌を集め、露風が手書きした「低唱」。
文壇でも珍しく早熟な16歳の詩歌集『夏姫』。北原白秋に継いで文壇に詩名を確立した『廃園』など、20歳までの瑞々しい感覚が息づいている。

  • 『夏姫』詩歌集
  • 『廃園」詩集
  • 『廃園』再版

『廃園」詩集<血汐会 明治38年(1905)7月15日発行>

体裁20×11.5p
定価20銭 発行部数300

表紙絵は詩人で画家でもあった津山出身の有松暁衣の描いたもので、露風の言を借れば、「百合に人を配した初夏の頃の気分の物」で、「気持のよい三六版の詩歌集」。
短歌113首と詩10篇を収める。

『夏姫』詩歌集<光華書房 明治42年(1910)9月5日発行>

体裁19×13p カンバス・クロース上製本 天金 箱付
目次9ページ、本文324ページ
挿画 正宗得三郎
定価90銭

デーメルの詩集にならったというカンバス・クロースの上製で、表紙が本体を抱くように折れている前小口折り合わせ式。紅色と青色との二種類がある。天金で、題字の下に金の模様の入った豪華本。箱付。カットは、正宗得三郎。目次9ページ、本文324ページ。118篇の詩を収める。

この書によって、文壇に詩名を確立する。北原白秋と並び、世に言う「白露時代」の幕開けとなる書。書名の「廃園」は、雑司ケ谷にある東武鉄道の創始者の根津嘉一郎氏の別邸六合舎(りくごうしゃ)内の森のような庭の趣を映している。

『廃園』再版<博報堂 明治43年(1910)10月5日発行>

体裁20×14p フランス綴の上製本
目次9ページ、本文324ページ
装幀 高村光太郎
挿絵 正宗得三郎

巻頭に小松玉巌曲の「すすりなくとき」の譜、巻末に「書簡」として、初版に寄せられた小松玉巌、高村光太郎、相馬御風、永井荷風の手簡11ページが付いている。

主要著書解説 ―象徴詩集―

手書き『低唱』、詩歌集『夏姫』、詩集『廃園』

小学校・中学校時代の俳句や短歌を集め、露風が手書きした「低唱」。
文壇でも珍しく早熟な16歳の詩歌集『夏姫』。北原白秋に継いで文壇に詩名を確立した『廃園』など、20歳までの瑞々しい感覚が息づいている。

  • 『寂しき曙』詩集
  • 『白き手の猟人』詩集
  • 『幻の田園』詩集
  • 『盧間の幻影』詩集

『寂しき曙』詩集<博報堂 明治43年11月11日>

『寂しき曙』詩集

体裁20×13p クロース上製本
献辞、序詩、目次、本文146ページ
装幀、EX・LIBRIS 川路誠(柳虹)
定価60銭

「神と魚」「暗き地平」「不信」「我が憂愁」「快楽と太陽」「心の奥」など『廃園』以後の作詩61篇を収める。

詩集の題名『寂しき曙』は「心の姿を言へるもので「懐疑と憂愁との中に彷律しつゝ、神を求めんとする・・・・心の奥に神の誕生をほのかに感ずる薄明り」
(矢野峰人『日本現代詩大系 第4巻』「解説」)の意味である。

『白き手の猟人』詩集<東雲堂書店 大正2年(1913)9月25日発行>

『白き手の猟人』詩集

体裁19×14p 上製本 本文230ページ
白いラッパー付
装幀 坂本繁二郎
木版・藤野常夫
定価1円

藍地に金の葉を描いた坂本繁二郎の装幀が有名。「現身」など52篇の詩と、「芭蕉」など7篇の詩論を収める。
詩もよく、散文もまたよく、「藍地の金の葉を描ける装幀」もよいと、言われる象徴詩集の最高傑作

『幻の田園』詩集<東雲堂書店 大正4年(1915)7月1日発行>

『幻の田園』詩集

体裁・19×13p 上製本 箱付
序文5ページ、目次6ページ、本文179ページ
装幀、挿画・坂本繁二郎
定価1円

書名は、ヱ”ルアラン(Verhaeren)の詩集『幻の田園』‘LesCampagnes Hallucines’に由来すると言われている。
「春」など、大正2年秋より大正4年の初夏に至る詩56篇を収める。

『盧間の幻影』詩集<新潮社 大正9年(1920)11月15日発行>

『盧間の幻影』詩集

体裁・19×13p 上製本
序詩「自画像」、目次8ページ、本文212ページ
装幀 坂本繁二郎
定価1円30銭

本文の詩は、「蘆間の幻影」(詩21篇)「秣の桶」(童謡9篇)「黙って歌をうたふ世界」(詩15篇)「賢き野茨」(詩10篇)「青い鳥の唄」(詩3篇)5章に分かれ、「付録」として「夏野の歌」「トラピスト僧と愛のカ」など10篇の散文を収めている。様々な系統の作品が並び、絵画や音楽や哲学や心理学などと結びついた象徴主義性を発揮している。

主要著書解説 ―童謡集―

『真珠島』、『お日さま』
主要著書解説 ―童謡集―

大正7年、鈴木三重吉の薦めによって創作し始めた子どものための詩は、後にメロディーが付くことにより童謡として大ブームを招くが、もとより象徴詩は絵画や音楽と深く結びついた美しいリズムを持っていた。童謡の創始期を「白露」が担ったのも、決っして偶然ではない。

象徴詩人の面目に恥じない幻想的で瀟洒な『真珠島』、北海道の冬の厳しさを体験し春到来の喜びを表現した『お日さま』、小動物や昆虫の作品を集めた『小鳥の友』などがある。全6冊の唱歌集『小学生の歌』は山田耕筰作曲。

『真珠島』童謡集<アルス 大正10年(1921)12月18日発行>
『真珠島』童謡集

体裁19×13cm 絹儒子張
献辞、目次、本文232ページ
装幀・挿画 初山滋
定価2円80銭

初山滋の装幀がたいへん美しい、淡緑色絹儒子帳で天金の童謡集。箱にも繊細な彩画が施されている。大正7年の6月から10年の6月までに、『赤い鳥』『こども雑誌』『少年倶楽部』『良友』『樫の実』に発表されたものをまとめた。各雑誌の特色が出て、多様な童謡が収められている。

主要著書解説 ―宗教作品集―

主要著書解説 ―宗教作品集―
『良心』、『信仰の曙』

トラピスト修道院での作品群。初回訪問の感動をまとめた『良心』、カトリックの信仰に生き抜く決意を詠った『信仰の曙』『神と人』、心のままに詠った短歌集『トラピスト歌集』、修道院の生活を描いた随筆『修道院雑筆』『修道院生活』『神への道』、論集『日本カトリック教史』などがあり、宗教的な研鑽も深く、宗教詩人露風の一面を発揮している。

  • 『良心』詩集
  • 『信仰の曙』詩集
  • 『修道院雑筆』随筆・小品集
  • コーヒー・ブレイク

『良心』詩集<白日社 大正4年(1915)11月20日発行>

『良心』詩集

体裁・19×13p 上製本 箱付
装幀・口絵(牛) 坂本繁二郎
献辞、目次、本文164ページ、跋
定価1円

「苦(に)がき懐疑と、神を求むる高き情熱とを以て」(露風による広告文)訪れた北海道トラピスト修道院での感動を作品化した。
巻末部に「津軽海峡」4篇を置き、その中に「啄木を弔ふ」がある。

※挿画「聖布に映れるキリスト」の原画はイタリアのチュレン市に在る。

『信仰の曙』詩集<新潮社 大正11年6月25日発行>

『信仰の曙』詩集

体裁13×9p 天金アート紙使用
装丁 坂本繁二郎
自序、序詩「わが詩」、目次、本文145ページ
定価1円80銭

「苦(に)がき懐疑と、神を求むる高き情熱とを以て」(露風による広告文)訪れた北海道トラピスト修道院での感動を作品化した。
巻末部に「津軽海峡」4篇を置き、その中に「啄木を弔ふ」がある。

紙は白布地に、表は金で菱型の枠の中に雪の修道院をあしらった絵を捺し、裏には罪標と踏台を表わす重ね十字架をとり入れた坂本繁二郎の意匠による、天金仕立の豪華版。

「修道院に於ける1922年の詩集」と肩書きのある詩集。『寂しき曙』の彷徨いから、神々の試練を経て、心の平安「復活の天地」を見出した意を籠め『信仰の曙』と題したのであろう。

「修道院詩集の第二」は『神と人』である。

『修道院雑筆』随筆・小品集<新潮社 大正14年8月12日発行>

自序、本文164ページ
装幀 黒沢武之輔
定価1円20銭

出版は、下山後上京してからのものだが、作品はトラピスト修道院時代のもの。信仰に浸り、書かれた美しい散文詩集の趣があり、版を重ねて多くの読者を得た。露風の数少ない小説もある。

トラピスト修道院時代の露風はリッチ!

トラピスト時代の発行の本は、一流画家の意匠を凝らした天金の豪華本。
『信仰の曙』『真珠島』などは装幀や挿画を見るだけでも楽しい。

トラピスト修道院で露風は、破格に優遇されていた。午前中だけの講義で月給は60~70円(大卒の銀行員の初任給40円)、広い講師館が準備され、農夫が畑も耕作。その上、原稿料や選者料も入ってくる。子どももなく、修道士に習い質素な生活をしていたので、貯金は相当にあったはず。ところが、すべてを関東大震災の復興に注ぎ込み、トラピストを下山する時、費用を借金したという。いかにも露風らしい。

主要著書解説 ―詩論・評論―

『詩歌の道』

露風は、詩論を持つ詩人であった。フランス象徴詩に範を採りながらも、芭蕉や能に影響された日本独自の象徴詩の在り方を探求していった過程や、トラピスト修道院での信仰や研鑽の結果を綴った。日本近代詩上初と言われる詩論集『露風詩話』、以降の詩論『詩歌の道』、「文芸及思想講習叢書」の1冊として発行された『長詩作法』、そして露風美学の素描と評論『美学草案』がある。

主要著書解説 ―随筆・自伝―

新資料『龍野まで』

露風は筆まめで、批評や身辺雑記を、雑誌などによく発表している。思想的で社会的なテーマのものをまとめた随筆集『神への道』、自分史に作品を添えた『我が歩める道』、昭和30・31年の帰郷の折りの旅行記的な自伝「龍野まで」(未刊、新資料)などがあり、露風の歴史的研究の大きな資料となっている。

『三木露風全集』全三巻<日本図書センター>
『三木露風全集』全三巻

第1巻 昭和47年(1972)12月20日 詩集
第2巻 昭和48年(1973)7月20日 詩論・自伝・書簡・随筆
第3巻 昭和49年(1974)4月20日 随筆・童謡・短歌・俳句
未刊詩集6冊、未刊童謡集4冊なども含む。
装幀 坂本繁二郎

どんな作品があるのかな?

露風の詩を具体的にイメージさせる動画つきビジュアルを作品解説とともにご紹介します。

古橋

[解説]

古橋
古橋
古橋
古橋
古橋

廃園の古池には、朽ちた橋の杭が残っていた。それを見た時、かつて母と共に渡った古橋を思い出した。輝いては居るが、暑くはない、眩しくもない不思議な光の中に、私は母と過ごした日の幻を追いかけ、神々しいほど懐かしい、昔の日のことを思う。
第3連最終行の「そのかみの日」は、「その昔の日」と解釈してよいだろう。第2連の1行目の「古橋の在りし昔に」が、漢字であるのに対して、「そのかみの日」が仮名書きなのは、その音から連想される「かみ=神」というイメージを加えるため。ちょうど短歌の掛詞のような作用がある。かつて古橋には、黄桜が枝をのばし黄金の花びらが舞い散ったという。露風が見上げた母の笑顔は、その黄桜と、桜ごしに降り注ぐ光で、神々しく輝いたことだろう。忘れ得ぬ黄金に輝く幻である。最終行の「弱々し蝶」は、傷心した(今の=創作時)の詩人の心 。

現身

[解説]

現身
現身
現身
現身
現身
現身
現身
現身

北原白秋との合著詩集『勿忘草』に発表され、白秋の作品を圧倒した、露風の傑作。
伊藤信吉は「<破綻>というべきものがどこにもなく、美の情操そのものの詩的表現」と絶賛する。
春の午後の愁いと、倦怠の漂う雰囲気、やがて物憂く暮れゆく風景を描写している。連を追うごとに、重ねられていく情景の微妙な色調、静かに消えゆく蛾の生命の気配。それは題の「現身」が示すとおり、遙かなものに憧れつつやがては消えてゆく、はかない人間の存在の象徴でもある。

青鷺

[解説]

青鷺

池の汀にしょんぼり立ち尽くす青鷺は幼い露風の姿である。今日も、明日も、明後日も、母を待って立ちつくす。母は、三年待っても帰らない。池の水面には何度も母の面影が浮かぶのであろう。鷺という、当時(大正初期)の子ども達には身近な動物が使用されている。龍野地方は白鷺が多いが、あえて「青鷺」を使う。青の一字が一層悲しみを引き出している。蕪村の俳句「夕風や水青鷺の脛をうつ」の心境を童謡に融合させた佳作ともいわれている。

キリキリバッタ

[解説]

キリキリバッタ

引き取られた祖父の制の屋敷にある榧の木と枇杷の木に託して、父のいない悲しみ、母のいない寂しさをうたう。母を指す枇杷の花は、黄味を帯びた白色の花が咲く。第4連が切ない。「かげろふが白い日が白い」という、白いゆらめきの中に父母の幻影を見るのである。

草を籍き

[解説]

草を籍き

谷間の草の上に座って過ごしていたが、山々はもう暗くなってしまった。木霊が、枯れ木をふるわせて通りすぎていく。私の体もまた木霊にふるえる。「空にはふる」の「はふる」は「羽振る」であろう。鳥が羽を振って飛び発つように木霊が飛び去っていく気配を感じるその時に鳥の残す落羽のように落葉が私に降る。空の雲も羽をはいたように波立っている。

沼のほとり

[解説]

沼のほとり

水の面は、憂愁が埋もれている恋の墓を守るスフィンクスのようである。凍っている沼には、いるはずもないかつての恋人の顔が見えてしまう。過去の恋を諦めきれない若い心が、降り積もる雪のような孤独の中で、未だ燃えながら荒々しいすすり泣きの声をたてる。感情と理性のせめぎ合いの中で、暗鬱とした寂寥感に苛まれながらも、青年の心は泣きながら 曙の光を見いだそうとしている。

※「面」には、「水の面」「スフィンクスの面」という二重の意味があり、さらにその陰には「恋人の面」が見えるので、三重に解釈していかなければならない。

[解説]

緑

果てしなく広がる緑に抱かれることによって、母の愛を失って、孤独と寂しさに乾いていた心が、次第に癒されていく。母なる緑は、大きな手で詩人の心を抱き寄せ、赤子のように揺りあげる。目を開けると空に大きな花が開いていく幻想をみる。母の愛情が渇いた心に流れ込み、母の笑いが新しい世界を開いてゆく。心が癒され解放されていく過程を、豊かな緑、空に広がる赤い花と蘂、新しい世界を探る触覚などの象徴表現で、色彩豊かに描いてゆく。緑を渡る風の音、葉ずれの音、赤子の歓声、母の笑い声なども聞こえてくるようだ。明治41年にここまで深層心理を解き明かした作品があっただろうか。

紡車

[解説]

紡車

宇宙の永遠の営みを、薫りも色も染めながら、時の紡車がゆるく、たゆまずめぐる。永遠の時を紡ぐ姥の無心の姿は、夕焼けの光りが増すごとに、厳かに光っていく。

燈火

[解説]

燈火

くるくると回る燈籠は、不思議で、妖しい魅力がある。薄い絹の上に次々に現れては消える幻影。泳ぐように、そよぐように、遠くに、低くに、時には線のように流れ、時には踊るように。きらびやかに、赤く、青く、神聖に光る。つかの間の幻影に何を見るのだろうか。

水盤

[解説]

水盤

寺院にある蓮の水盤に湛えられた水が、縒りを作って、膨らんで流れ出る情景が、詩人の心を捉えた。水盤には夕日が射し、水はゆっくり涌き上がり、表面張力で膨れて流れ出すので、夕日の影もろともにたわみつつ姿を変えて落ちる。詩人が見るその水の中の幻影も縒れて、傾きながら落ちてゆく。視点が動いて、悟道を守護する青銅の獅身像は堅い鎧をつけ、水盤を捧げ、法の真実を支え続けている。長き年月に渡るその無心の行は、同時に水の「たた、たた」と響く無心の流れでもある。その幽かな水音が、詩人の魂の真底に響く。前2連の縒れつつ膨らみながら落ちる水と、後2連のただ一途に無心の行を重ねる獅子身像と無心に流れる水音との対比が、仏心の二面性を表し、瞑想深い。

やまびこ

[解説]

やまびこ

母を待つ露風は、母の里に通じる山道を何度も歩いた。その時、思わず「おかあさーん」と呼んでみると、「おかあさーん」とやまびこが返す。谷のあたりで音がするから、のぞいてみても、誰もいない。木々の間で赤い着物が動いたような気配がしたので、急いで行ってみるが、落ち葉がはらはらと降ってくるばかり。夕方になり、山を下りて山裾の道をぐるりとまわって戻りながら、今まで登っていた山を見上げると、船のような雲が浮かんでいる。「ああ、雲よ。船の雲よ。僕を乗せてお母さんの所へ連れて行っておくれ」少年は何度そう願ったことだろう。
各行末の「・・・何の声」「・・・山の声」「・・・谷の声」「・・・ばかり」などのリフレーンが、やまびこの繰り返しのおもしろさ(子どもは繰り返しを喜ぶ)と、作品に一層の哀しさと誰もいない空しさを与えている。

黄金の泉

[解説]

黄金の泉
黄金の泉

『こども雑誌』大正8年10月号に発表され、後に『真珠島』に所収された。
象徴的な作品である。光が差し込める森にある泉から、ぶくぶく水が涌き出ており、その水しぶきが飛び散るさまは、光を受けて小さな黄金の精が飛んでいるように見えるという情景に、幻想的なイメージを重ねていく。その心象風景は、かつて愛した女性が泉の姫となって、髪を梳(す)き、唄を歌い、あたりはその雲母(きらゝ)の姫から溢れでる愛情で充ちている。その愛の泉には人の知らない宮があり、至福の幻想が湧き出る。
母親との思い出、少年時代の無心に遊んだ日々、友達、やさしかった祖母、厳格だったが露風を愛してくれた祖父、そして激しい恋、さまざまな悩みの日々、過ぎし日の思い出が次々に泉に映っては消えて行く。
その光景を雲母の姫が織物に織っていく時の流れ。
「梭(くさ)」は、織物の横糸を通す操作に用いる舟形をした付属具である。
「日輪」「月輪」の語により引き出された宇宙観と、永遠の時間の営みは、「紡車」の世界を継承している。
「雲母」は、「きらゝ」とルビがふられ、音の美しさだけでなく、黄金の泉の水しぶきのイメージと重なる。さらに「雲母」と漢字をあてた「母」はそのまま母の幻想を引き起こす。この用法は、平仮名書きで二重の意味を持たせる掛詞の用法とは逆発想でおもしろい。露風の言語感覚の豊かさと遊び心を感じさせる。

去りゆく五月の詩

[解説]

去りゆく五月の詩

「そこはかとない憂愁を帯びた清雅な詩集」と評される『廃園』を代表する詩。
今まさに去っていこうとする五月(春)の後ろ姿に、青春や恋の追憶を重ねてうたう。
静かな風のあゆみ、やわらかな空の色、地を這う小さな虫、ものうい蜜蜂の羽音、音もなく散ってゆく花びら……廃園の奧に広がる夢のように美しい五月の風景は、今まさに去って行こうとする。季節が去っていこうとするのを、止められないのと同じように自分の青春の日々も恋の思いでも去ってしまうのは止められない。ただひそやかに涙を流しながら、その後ろ姿を見送るしかない。後ろ姿を見つめているのは、蜻蛉で、「ひたとただひたとみつむ」。置いていかれる蜻蛉は、詩人(露風)でもある。
秋に咲く鬱金の花は、黄色。ここでは、「紺」の字をあてて、「空…青みわたり」「青き蜻蛉」とともに、五月に青というイメージ(青色のグラディエイション)を重ねていく。

三木露風年譜

※満年齢で記載しています

年齢 年代 詩歌・童謡関連事項
明治22年(1889) 0歳
  • 6月23日、兵庫県揖西郡龍野町(現:龍野市)に、父三木節次郎、母カタの長男として生まれる。
明治14年
『小学唱歌』初編
明治22年
『於母影』(森鴎外他訳)
明治25年(1892) 3歳
  • 5月、弟勉、生まれる。
明治28年(1895) 6歳
  • 母カタ、節次郎の放蕩に悩み、鳥取の実家堀家へもどる。操は、祖父制の家に引き取られる。
  • 6月、龍野尋常小学校に入学。
明治30年
『若菜集』(島崎藤村)
明治32年
『天地有情』(土井晩翠)
明治33年
『鉄道唱歌』
明治34年(1901) 12歳
  • 回覧誌「少園」を、従兄や弟友人らと発行する。
明治34年
『みだれ髪』(与謝野晶子)
明治35年(1902) 13歳
  • 『少国民』『秀才文壇』「鷺城新聞」などに作品を投稿し、掲載されるようになる。
明治36年(1903) 14歳
  • 3月、高等小学校を卒業。
  • 4月、県立龍野中学校に首席で入学する。詩歌の「緋桜会」、俳句 の「柿栗会」を結成し、主宰する。
明治36年
『独絃哀歌』(蒲原有明)
明治37年(1904) 15歳
  • 『新声』『文庫』『新潮』などに詩、短歌・俳句、漢詩などをさかんに投稿する。創作熱が高まったため、学業に身が入らなくなる。
  • 11月4日、岡山県和気郡伊里村閑谷の私立中学閑谷黌に転校する。
明治37年
『藤村詩集』(島崎藤村)
明治38年(1905) 16歳
  • 小荘“不言園”を借りて創作にはげむ。
    7月1日、閑谷黌を退学。『夏姫』出版。
  • 8月20日、上京。回覧雑誌「聚雲」に参加して北原白秋、若山牧水、前田夕暮らと知り合う。車前草社に入門する。
明治38年
『海潮音』(上田敏訳)
明治39年(1906) 17歳
  • 1月、商業学校に入るが、退学。父の勘気にあい送金を失う。美濃新聞の記者になるが、退社して再び上京する。
明治39年
『白羊宮』(薄田泣董)
明治40年(1907) 18歳
  • 2月、生田長江の助言によって『芸苑』に毎月寄稿して注目されるようになる。
  • 3月、相馬御風、野口雨情・人見東明らと早稲田詩社を結成。
  • 5月、早稲田大学高等予科文科に入学。
  • 9月、学費未納のため退学。
  • 12月、「ふるさとの」を『文庫』に発表。
明治41年(1908) 19歳
  • 3月、早稲田大学高等予科文科に再入学。病のため入院
  • 5月、口語詩「暗い扉」を『早稲田文学』に発表。
明治41年
『有明集』(蒲原有明)
明治42年(1909) 20歳
  • 2月、早稲田大学を無届欠席・学費未納により除名される。
  • 6月、目白高田村雑司ヶ谷、根津嘉一郎別邸の「六合舎」内に転居。『廃園』の想を得る。
  • 9月、詩集『廃園』(光華書房)刊行。北原白秋と並び称されて“白露時代”が詩壇において始まる。
明治42年
『邪宗門』(北原白秋)
明治43年(1910) 21歳
  • 5月、『三田文学』創刊号に「快楽と太陽」他6篇を寄稿。
  • 9月、上田敏のすすめで慶応義塾大学予科に入学。
  • 10月、『廃園』再版(博報堂)
  • 11月、詩集『寂しき曙』(博報堂)刊行。
明治43年
『一握の砂』(石川木)
『尋常小学読本唱歌』
* 山田耕ドイツにて『廃園』所収の詩に曲をつける。
明治44年
『思ひ出』(北原白秋)
明治45年(1912) 23歳
  • 6月、白秋と合著『勿忘草』に「現身」他4篇を寄稿して、称賛を得る。
明治45年
* 石川木死去。『悲しき玩具』
(3年後、露風の「木を弔う」成る)
大正2年(1913) 24歳
  • 1月、『文章世界』詩選者となる(大正6年12月まで担当)。
  • 9月、詩集『白き手の猟人』(東雲堂)、坂本繁二郎の装幀で刊行。
  • 11月、『独歩詩集』(東雲堂)編者となり、刊行。
  • 12月、『露風集』(東雲堂)刊行。
大正2年
『珊瑚集』(永井荷風訳)
『どんたく』(竹久夢二)
『桐の花』(北原白秋)
『赤光』(斎藤茂吉)
大正3年(1914) 25歳
  • 1月、栗山仲(なか)と結婚。池袋に新居を構える。
  • 2月、露風が主宰し未来社結成。『未来』を創刊。同人は、川路柳虹、西条八十、服部嘉香、柳沢健、山田耕筰ら。
    独逸より帰朝の山田耕筰の音楽晩餐会を開催する。
    『大西博士の西洋哲学史』(敬文館)刊行。
大正3年
『道程』(高村光太郎)
『芳水詩集』(有本芳水)
『果樹園』(柳沢健)
大正4年(1915) 26歳
  • 1月、第二次『未来』を出すが、2号で休刊。
  • 3月、マンダラ詩社を結成。「帆綱」他4篇を発表。
  • 7月、『幻の田園』(東雲堂)刊行。トラピスト修道院を訪問。後、たびたび訪問する。
  • 9月、『露風詩話』(白日社)、11月『良心』(白日社)刊行。
大正4年
* 柳沢健「輓近の詩壇を論ず」発表。白秋門下生に反感を買う。
大正6年(1917) 28歳
  • 1月、第三次『未来』を刊行(12月まで毎月刊行)。
  • 7月、トラピスト修道院再訪。
大正6年
『月に吠える』(萩原朔太郎)
山田耕筰歌曲集『露風の巻』刊行
大正7年(1918) 29歳
  • 8月、『赤い鳥』に童謡「毛虫採」を発表。
  • 7月、9月、「浮世絵板画傑作集解説」Ⅰ・Ⅱ刊行。
  • 9月、弟勉、露風の元で養生するが亡くなる。
  • 11月、雑司ヶ谷へ転居する。
大正7年
『赤い鳥』創刊(鈴木三重吉)
『抒情小曲集』(室生犀星)
大正8年(1919) 30歳
  • 1月、未来社同人編『日本象徴詩集』(玄文社)刊行。
  • 9月、『こども雑誌』の童謡欄選者となる。
大正8年
* 5月『赤い鳥』に「かなりや」(西条八十)の曲譜(成田為三曲)が始めて載る。
6月赤い鳥第1回音楽会
『とんぼの眼玉』(北原白秋)
大正9年(1920) 31歳
  • 1月、牧神会結成。
  • 5月、トラピスト修道院に文学講師として赴任。この頃より童謡を『良友』『少年倶楽部』『金の舟』『女学生』に寄稿する。
  • 10月、『牧神』を創刊(8号まで刊行)。
    『生と恋』(アルス)刊行。父節次郎死去。
  • 11月、詩集『盧間の幻影』(新潮社)童謡9篇収録を刊行。
大正10年(1921) 32歳
  • 8月、「赤蜻蛉」を『樫の実』に発表。以後同誌の童謡欄選を受け持つ。
  • 11月、『良友』の童謡欄選評を引き受ける。
  • 12月、童謡集『真珠島』(アルス)刊行。
大正10年
『殉情詩集』(佐藤春夫)
『まざあ・ぐうす』(北原白秋訳)
* 童話・童謡雑誌さかんに発行される。
『鸚鵡と時計』(西条八十)
『十五夜お月さん』(野口雨情)
大正11年(1922) 33歳
  • 4月、夫妻で受洗、名は、パウロ、モニカ。
  • 5月、『象徴詩集』(アルス)刊行。シャルル・タルシス作曲『野茨の教』(アルス)刊行。
  • 6月、『修道院詩集第一巻・信仰の曙』(新潮社)刊行。
  • 7月、『青き樹かげ』(新潮社)刊行。
大正11年
『祭の笛』(北原白秋)
『赤彦童謡集』(島木赤彦)
* 童謡大流行
大正12年(1923) 34歳
  • 8月、唱歌集『小学生の歌』(開成社)4巻刊行。5、6巻は昭和2年刊行。
  • 10月、9月1日におきた関東大震災の見舞いのため上京し、11月に修道院にもどる。震災によって、一時、大きな精神的衝撃を受ける。母カタと灰野庄平が見舞に来る。
大正12年
『青猫』(萩原朔太郎)
大正13年(1924) 35歳
  • 5月、論集『美学草案』(大阪毎日新聞社)刊行。
  • 6月30日、トラピスト修道院を辞し、上京する。北豊島郡戸塚町住む。この春より15年頃まで羅風の号を用いる。
大正13年
『春と修羅』(宮沢賢治)
『西条八十童謡全集』(西条八十)
大正14年(1925) 36歳
  • 1月、『長詩作法』(松陽堂)刊行。
  • 7月、『詩歌の道』(アルス)刊行。
  • 8月、『修道院雑草』(新潮社)刊行。
大正14年
『純情小曲集』(萩原朔太郎)
『月下の一群』(堀口大学訳)
大正15年(1926) 37歳
  • 1月、『修道院生活』(新潮社)刊行。
  • 6月、『トラピスト歌集』(アルス)刊行。
  • 7月、『修道院詩集 第二巻・神と人』(新潮社)刊行と、修道院での創作を次々に発表する。
  • 8月、戸塚町上戸塚に転居。雅号を露風に戻す。
  • 10月、童謡集『お日さま』(アルス)刊行。
  • 11月、『三木露風詩集 第1巻』(第一書房)、童謡集『小鳥の友』(新潮社)刊行。
    詩歌・童謡関連事項
大正15年
『からたちの花』(北原白秋)
『童謡集 凧』(竹久夢二)
昭和2年(1927) 38歳
  • 3月、ローマ教皇からシュバリエ・サン・セプルクル勲章とホーリーナイトの称号を贈られる。
  • 12月、第2次牧神会(のち高踏詩社)始める。各地で講演を多くする。
昭和3年
昭和3年(1928) 39歳
  • 5月、『小さき花を讃美する歌』(チマチ作曲、西宮市夙川カトリック教会)を刊行。
  • 7月30日、北多摩郡三鷹村牟礼(三鷹市牟礼)に新築した家に移り、永住する。
  • 8月、自伝『我が歩める道』(厚生閣書店)刊行。・11月、『高踏』創刊。安部宙之助、服部嘉香ら寄稿する。
昭和3年
『第百階級』(草野心平)
昭和4年(1929) 40歳
  • 3月、『日本カトリック教史』(第一書房)刊行。この頃より、全集に作品が収録される。数種類の雑誌に作品発表続く。
  • レコード
  • ラジオに作品多く流れる。
昭和4年
『月と胡桃』(北原白秋)
昭和5年
『測量船』(三好達治)
昭和9年
『氷島』(萩原朔太郎)
『山羊の歌』(中原中也)
『中等音楽教科書』(山田耕筰編)に「赤とんぼ」収録。
昭和13年
『蛙』(草野心平)
昭和15年(1940) 51歳
  • 龍野市龍野公園に「ふるさとの」詩碑が建ち、除幕式に夫婦で帰郷。
昭和16年
『智恵子抄』(高村光太郎)
昭和19年(1944) 55歳
  • 三鷹の日本無線株式会社、青年学校の教師を勤める。
昭和28年(1953) 64歳
  • 10月、新潮文庫『三木露風詩集』(解説岡崎義恵)刊行。
昭和27年
『二十億光年の孤独』(谷川俊太郎)
昭和30年(1955) 66歳
  • 11月3日、龍野市より招かれて帰郷。「龍野まで」が成る。
  • 12月、『現代日本文学全集』(筑摩書房)に自筆年表が着く。
昭和30年
* 5月、立川基地拡張反対の砂川闘争が始まり、9月13日の夕刻、対峙する学生、主婦から「赤とんぼ」が歌われ、双方合唱となる。
昭和33年(1958) 69歳
  • 12月24日、龍野市名誉市民となる。
昭和36年(1961) 72歳
  • 映画「夕やけ小やけの赤とんぼ」(大映)クランクイン。
昭和36年
* 山田耕筰編の音楽教科書などに、露風、白秋の童謡が収録され普及する。
昭和37年(1962) 73歳
  • 1月14日、母90歳で死去。「赤とんぼの母比処に眠る 露風」の墓碑建つ。
昭和38年(1963) 74歳
  • 11月1日、紫綬褒章を受ける。
昭和39年(1964) 75歳
  • 12月21日、三鷹市下連雀において、交通事故にあう。脳内出血のため29日午後3時35分に永眠する。
昭和39年
* 山田耕によって、クラシック音楽を広める「赤とんぼの会」発足する。
昭和40年(1965)
  • 1月16日、勲四等端宝章を追贈される。18日、カトリック吉祥寺教会にて葬儀。葬儀委員長西条八十。
    三鷹市牟礼の大盛寺に埋葬される。
  • 5月28日、龍野市龍野公園入口に「赤とんぼ」歌曲碑建つ。
昭和47年・48年・49年
  • 『三木露風全集』全3巻、各年に刊行。
昭和49年(1974)
  • 妻仲、死去
    詩歌・童謡関連事項昭和2年*1月「赤とんぼ」耕筰によって曲がつけられる。『山田耕筰童謡百曲集』この後、童謡はレコード化され、ラジオでも放送されるようになる。
平成元年
* 11月NHK放送「日本のうた・ふるさとのうた」で「赤とんぼ」が第1位の票を集める。
参考文献

製作にあたって

ネットミュージアム 兵庫文学館 三木露風館の製作にあたり、多くの方々のご協力を頂きました。ここに記してお礼申しあげます。
とりわけ、三木露風のご遺族の方々(代表:著作権者三木豊晴氏)、碧川家の方々には、本企画をご快諾いただき、著作・写真等の使用に際し、ご協力いただいたこと深謝申し上げます。多くの作家のご遺族の方々にも、同様に作品・写真の使用をご承認くださいましたことお礼申し上げます。
また、資料の多くは、(財)霞城館(龍野市)の管理されているものを使用しました。閲覧・取材に関し、館長苗村樹氏をはじめ館員の皆様にはお手をわずらわせました。お礼申し上げます。

「三木露風の生涯」「露風をとりまく人々」「露風について調べてみよう」などの文章は、和田典子『三木露風 赤とんぼの情景』を元に、新たに書き下ろしたものですが、紙面の関係上、引用文などの出典を明記できませんでした。ここにお詫びし、以下に参考文献を掲げます。歴史的研究に関しましては、多くの先覚のご研究に負うところが大きいのですが、とりわけ、『三木露風全集』解題年譜、松村緑氏「三木露風年譜」 (『三木露風全集』所収)、家森長治郎氏監修『三木露風 図録』、森田実歳氏『三木露風研究』巻末年譜を参考にさせていただきました。

参考文献

(敬称は略させていただきます。掲載順序は、参考頻度の高いものから掲げています)

『三木露風全集』
日本図書センター 三木露風全集刊行会 1972~1974

和田典子
『三木露風 赤とんぼの情景』神戸新聞総合出版センター 1999

家森長治郎 監修
『三木露風』図録 財団法人 霞城館編集・発行 1997

森田実歳
『三木露風研究ー象徴と宗教ー』明治書院 1999

森田実歳
『三木露風研究「廃園」の成立』明治書院 1977

安部宙之介
『三木露風研究』『続三木露風研究』木犀書房 1964 1969

福島朝治
『三木露風人と作品』教育出版センター 1985

岡崎義恵
『日本詩歌の象徴精神』岡崎義恵著作集8 宝文館 1959

家森長治郎
『若き日の三木露風』泉書院 2000

吉田精一
『近代詩』新潮日本文学アルバム別巻2大正文学アルバム 至文堂 1950

伊藤信吉
『近代詩の鑑賞 上』新潮社 1952

矢野峰人
「三木露風」(『日本文学講座9新詩文学篇』)改造社 1934

『螻蟻』
三木露風追悼号 1965

柳沢健
「大正初期の詩壇・三木露風氏の踏める道」(『現代の詩及詩人』)尚文館 1920

萩原朔太郎
「三木露風一派の詩を追放せよ」『文章世界』 1917

吉田精一
『日本近代詩鑑賞 明治篇』三木露風篇 新潮社文庫 1953

中島洋一
『象徴詩の研究 ー白秋・露風を中心としてー』桜楓社 1982

和田典子
「三木露風『赤蜻蛉』の解釈」(『児童文学研究』32号 日本児童文学学会) 1999

和田典子
「新資料 三木露風詩稿ノートの解題と細目」(兵庫大学短期大学部研究集録33集) 1999

和田典子
「三木露風の作品創作過程について」(兵庫大学短期大学部研究集録33集) 1999

和田典子
「三木露風研究『赤い鳥』発表期を中心にー」(兵庫大学短期大学部研究集録35集) 2001

『日本の名詩歌集成 三木露風』
学燈社 1996

灯台の聖母トラピスト修道院
『当別トラピスト修道院』百周年記念誌 1996

小山昭
「聞き書き 三木露風 ーラファエル山野師に語ってもらうー」

『少年の日の春は行く 有本芳水』
姫路文学館 2000

北原白秋展専門委員会編集
『近代日本の詩聖 北原白秋』図録 1983

内海繁編
『内海信之の生涯』 私家版

石原元吉
『龍野物語』巌潮社 1991

竹藤 寛
『青木繁・坂本繁治郎とその友』福岡ユネスコ協会 1986

『日本近代文学大事典』1~3巻 講談社 1977

和田典子
「唱歌から芸術的童謡へ」『はじめて学ぶ 日本児童文学史』鳥越信編 ミネルヴァ書房 2001

長峰敬子
「碧川カタとその子三木露風のこと」『歴史散歩』7号 茅ヶ崎地区歴史散歩の会会報

山下清三
「赤とんぼのうたー碧川カタの生涯」日本海新聞連載 1985

堅田精司
「碧川企救男小伝」『碧川企救男論説集』 碧川企救男 1973

吉田熈生 監修
「三木露風展 ―詩と宗教―」図録 財団法人 三鷹市芸術文化振興財団 1998

文献資料の他、龍野市民の方々、トラピスト修道院の小山昭神父には、貴重な聞き書きを取らせていただきました。

監修・協力

監修 (敬称略)

和田典子

協力 (敬称略)

三木豊晴
財団法人霞城館
龍野市
三鷹市
財団法人 三鷹市芸術文化振興財団
北海道トラピスト大修道院
社団法人日本楽劇協会
三鷹市立高山小学校
姫路文学館
如来寺
坂本暁彦
恩地元子
生田夏樹
永井永光
山本節郎
家森佳子
新潮社
相国寺長徳院

監修者から

監修者:和田典子からのメッセージ

三木露風館にようこそ。
童謡「赤とんぼ」の作者として有名な三木露風は、北原白秋と並び称される詩人でもありました。
「白露時代」と呼ばれるその時代は、最も円熟した美しい詩が作られた時代でした。
開国以来、西洋に追いつけ・追い越せと、がむしゃらに突き進んできた明治が終わろうとする頃、人々は、ほっと息を付きつつ、一冊の本を開けました。そこには、西洋から伝わった新しい詩という形に、青年のひたむきな情熱・恋・失恋・孤独・嘆き・希望・思想が綴られていました。ひとつひとつの言葉が、水面に波紋を作っていくように、連続して広がって、心を満たしてゆきます。それは、夢のような外国の情景でもあり、遠い昔の記憶のように懐かしくもあります。人々は夢中になって、読み、曲を付けて歌いました。
その美しさは今でも損なわれていません。銀のハープが奏でる半音階のような美しい言葉とイメージ。日本の詩の中で、最もエレガンスと言われる詩。大正ロマンの息づかい。それらを、動く映像を添えてご紹介します。
そして、兵庫県龍野市で生まれた三木露風が、どのようにして、それらの美しい詩境を拓いていったかという、生涯の物語も、写真と共にお楽しみください。
数多くの童謡を作った三木露風にちなみ、童謡の歴史や作品の紹介、子どもにも楽しめるページも用意しています。
赤とんぼと、フーちゃんが、案内してくれますよ。ゆっくりお楽 しみください。

監修者 プロフィール

和田 典子(わだ・のりこ)

1955(昭和30)年、兵庫県三田市に生まれる。少女時代を宝塚で過ごす。
結婚して、三木露風の生家のある龍野に近い、姫路市に在住。
大阪教育大学大学院 教育学学科 国語国文学専攻科卒業。
保育士、小・中・高の教員免許を持つ。
3人の子育てをしつつ、教育・文学の研究をする。
1988年から教壇に立ち、現在、兵庫大学短期大学部非常勤講師。
近代文学学会・日本児童文学学会・阿部知二研究会 会員。

主要著書
「三木露風 赤とんぼの情景」神戸新聞総合出版センター 1999年
日本児童文学学会奨励賞、兵庫県「半どんの会」文化賞、及川記念賞 受賞。

露城館所蔵資料使用リスト
掲載ページ 図版名 掲載されている書籍名 出版社名 発行年月
オープニング 三木露風肖像

第一章 至福の幼年時代

掲載ページ 図版名 掲載されている書籍名 出版社名 発行年月
詩情を育てた龍野の風光 1故郷龍野
「母なる山 鶏籠山」
衝立の短歌

第二章 孤独な少年時代

掲載ページ 図版名 掲載されている書籍名 出版社名 発行年月
母恋と文学の芽生え 5文学の芽生え 投稿新聞『鷺城新聞』

第三章 友情と恋を糧に -青年時代-

掲載ページ 図版名 掲載されている書籍名 出版社名 発行年月
文学と恋と友情 7閑谷學への転校と友人 少年時代の有本芳水
8「不言園」での創作 不言園

第四章 美の追究と孤独の時代

掲載ページ 図版名 掲載されている書籍名 出版社名 発行年月
都会の孤独 11上京 「聚雲の会」同人
生田長江
12孤独と困窮生活 若き日の内海信之と露風
母カタからの手紙
13死との直面と創作 愛用の机と文具
『廃園』の成立 14自然による癒し 廃園 『廃園』 光華書房 明治42年
(1909)9月5日
序詩手書き稿
15『廃園』の成功 「去りゆく五月の詩」の自筆
孤独の詩人 16苦悩との対峙 京都相国寺内長得院 外観・内観
文鼎和尚 外観・内観
17慶応義塾大学への移籍 永井荷風
18『寂しき曙』の刊行 寂しき曙 『寂しき曙』 博報堂 明治43年
(1910)11月11日
19沈黙の3年 ザムボア3巻6号『勿忘草』 ザムボア3巻6号『勿忘草』(雑誌) 東雲堂書店 明治45年
(1912)6月
20『白き手の猟人』の刊行 白き手の猟人、金の朽葉 『白き手の猟人、金の朽葉』 東雲堂書店 大正2年
(1913)9月25日
雪解け 21春のきざし 妻 仲
雑司ヶ谷にて
22池袋の新居と『幻の田園』 幻の田園、金の牛 『幻の田園』 東雲堂書店 大正4年
(1915)7月1日
23未来社結成 山田耕筰アーベント
24弟勉の死と『蘆間の幻影』 ポケット手帳
弟・勉
露風自筆「樽の歌」

第五章 宗教と詩と童謡の時代

掲載ページ 図版名 掲載されている書籍名 出版社名 発行年月
北海道のトラピスト修道院へ 26トラピスト訪問と『良心』 タルシス修道士と露風
『良心』 『良心』 白日社 大正4年
(1915)11月20日
『良心』詩集 『良心』 『良心』 白日社 大正4年
(1915)11月20日
29修道院生活の紹介と功績 勲章とホーリーナイトの称号
童謡という新たな詩形 30子どもたちと童謡 教え子たちと露風
31童謡集『真珠島』 真珠島 『真珠島』(童謡集) アルス 大正10年
(1921)12月18日
真珠島の扉 『真珠島』(童謡集) アルス 大正10年
(1921)12月18日
32名曲「赤とんぼ」の成立 お日さま 『お日さま』(童謡集) アルス 大正15年
(1926)10月10日
「赤とんぼ」のページ見開き 『小鳥の友』 新潮社 大正15年
(1926)11月25日
33トラピスト下山 パウロ・羅風での署名の本 『信仰の曙』 新潮社 大正11年
(1922)6月25日

第六章 穏やかな余生

掲載ページ 図版名 掲載されている書籍名 出版社名 発行年月
詩歌一筋の道だった 34相次ぐ出版 『我が歩める道』 『我が歩める道』 厚生閣書店 昭和3年
(1928)8月18日
『天賦と閑古鳥』露風から妻仲へ
35栄誉の数々と突然の死 露風自筆「赤とんぼ」
瑞宝章

露風をとりまく人々

掲載ページ 図版名 掲載されている書籍名 出版社名 発行年月
トップページ 三木露風肖像
カタ
家族集合写真
露風の友人たち
文学関係者
露風の家族
カタ
正夫
三木制 三木制
カタ(後、碧川カタ) カタ(後、碧川カタ)
正夫 正夫
仲(旧姓 栗山仲) 仲(旧姓 栗山仲)
露風の友人 トップページ 三木露風肖像 5点
山田耕筰 山田耕筰
文学関係者 トップページ 三木露風肖像
車前草社(聚雲の会)の仲間 車前草社(聚雲の会)の仲間
生田長江 生田長江
永井荷風 永井荷風

露風について調べてみよう

掲載ページ 図版名 掲載されている書籍名 出版社名 発行年月
トップページ トップページ 愛用の机と文具
-初級編-露風の遊び場 学校 本箱
-上級編-「赤とんぼ」の不思議 不思議その1「負われて」は、誰に負われているの? 森林商報・新69号
-上級編-研究情報 トップページ 龍野まで
詩稿ノート
ポケット手帳
詩稿ノート さまざまな紙のメモ
ノート中面

私の町の露風の足跡

掲載ページ 図版名 掲載されている書籍名 出版社名 発行年月
北海道 函館市・小樽市 啄木の墓(函館) 啄木の墓

著書・作品紹介

     
掲載ページ 図版名 掲載されている書籍名 出版社名 発行年月
北海道 トップページ 廃園 『廃園』 光華書房 明治42年
(1909)9月5日
寂しき曙 『寂しき曙』 博報堂 明治43年
(1910)11月11日
白き手の猟人 『白き手の猟人』 東雲堂書店 大正2年
(1913)9月25日
幻の田園 『幻の田園』 東雲堂書店 大正4年
(1915)7月1日
蘆間の幻影 『蘆間の幻影』 新潮社 大正9年
(1920)11月15日
露風集 『露風集』 東雲堂書店 大正2年
(1913)12月1日
象徴詩集 『象徴詩集』 アルス 大正11年
(1922)5月20日
真珠島 『真珠島』(童話集) アルス 大正10年
(1921)12月18日
お日さま 『お日さま』 アルス 大正15年
(1926)10月10日
良心 『良心』 白日社 大正4年
(1915)11月20日
信仰の曙 『信仰の曙』 新潮社 大正11年
(1922)6月25日
詩歌の道 『詩歌の道』 アルス 大正14年
(1925)7月15日
龍野まで
-初期作品集- 廃園 『廃園』 光華書房 明治42年
(1909)9月5日
『廃園』の本の構造 廃園 『廃園』 光華書房 明治42年
(1909)9月5日
-初期作品集- 寂しき曙 『寂しき曙』 博報堂 明治43年
(1910)11月11日
白き手の猟人 『白き手の猟人』 東雲堂書店 大正2年
(1913)9月25日
幻の田園 『幻の田園』 東雲堂書店 大正4年
(1915)7月1日
蘆間の幻影 『蘆間の幻影』 新潮社 大正9年
(1920)11月15日
露風集 『露風集』 東雲堂書店 大正2年
(1913)12月1日
象徴詩集 『象徴詩集』 アルス 大正11年
(1922)5月20日
-童謡集- 真珠島 『真珠島』(童話集) アルス 大正10年
(1921)12月18日
お日さま 『お日さま』 アルス 大正15年
(1926)10月10日
-宗教作品集- 良心 『良心』 白日社 大正4年
(1915)11月20日
信仰の曙 『信仰の曙』 新潮社 大正11年
(1922)6月25日
-詩論・評論- 詩歌の道 『詩歌の道』 アルス 大正14年
(1925)7月15日
-随筆・自伝- 我が歩める道 『我が歩める道』 厚生閣書店 昭和3年
(1928)8月18日
龍野まで
『三木露風全集』第1巻 『三木露風全集』第1巻 三木露風全集刊行会 昭和47年
(1972)12月20日

露風データ

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トップページ 三木露風肖像3点
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