西鶴兵庫浮世草紙
西鶴[寛永十九(一六四二)~元禄六(一六九三)年]といえば、江戸時代の
上方を代表する浮世草子作家であることぐらいはご存知でしょう。
しかし西鶴は、日本の有名な小説家として、ユネスコでも顕彰されるなど
世界的にも広く知られている日本を代表する小説家であることまでご存知でしょうか。
英語、フランス語、ロシア語等々多くの言語で翻訳され研究されています。
ここで、あえて「浮世草子作家西鶴」としました。なぜでしょう。
その理由の前に、もう少し、西鶴について知ってください。
西鶴は若くして、俳諧の道に入ります。江戸時代の俳諧と言えば、何と言っても松尾芭蕉
[正保元(一六四四)~元禄七(一六九四)年]ですが、まったく同時代に生きた芭蕉が江戸で
本格的に蕉風俳諧を確立していくのは三十歳代からです。ところが西鶴は同時期すでに、全国的に
隆盛であった談林派俳諧、西山宗因のもとで、上方では誰もが知っている俳諧の
大師匠として活躍していました。
でもなぜか、西鶴は俳諧人生絶頂期のまま、初の浮世草子『好色一代男』を
板行します。四十一歳のときでした。四十三歳のときに、大坂住吉神社で
矢数俳諧を興行し、一日一昼夜二万三千五百句の独吟をするという大記録を
作りますが、これを機に西鶴は俳諧活動より浮世草子作家として活躍します。
五十二歳で病没しますので浮世草子作家としては実働約十年にすぎませんが、
没後の作品も含めれば、二十数作品もの優れた浮世草子作品を残します。作品は
いずれも短編集。代表的な作品は好色物として分類される『好色一代男』『好色二代男』
『好色五人女』『好色一代女』『男色大鑑』、武家物『武家義理物語』『武道伝来記』、
町人物『日本永代蔵』『世話胸算用』、奇談物『西鶴諸国ばなし』『懐硯』
、裁判物『本朝桜陰比事』、遺作に『西鶴置土産』『西鶴織留』「万の文反古』
『西鶴名残の友』など多大な創作活動の軌跡を残しています。
また浄瑠璃『暦』『凱陣八島』も書いています。
この驚異的な生産ペースは、
あの夏目漱石とほぼ同じです。
それらの作品の文芸性の高さは、江戸時代の昔から有名な文豪たちや
研究者たちを驚かせてきました。その面の研究はすすんでおり、
今さらここで言うまでもありません。
ともかく西鶴に対する驚きは、このような数の多さだけではなく、
登場人物が、当時実際に実在した有名な武士、町人、遊女、歌舞伎役者から
無名な市井の人々まで視野の広さにあります。
加えて、その人々が日本全国津々浦々にすむ諸国話となっていることも
注目できます。北は松前(北海道)や酒田から、南は鹿児島、長崎、南洋の島、
異界と多岐にわたる国々が舞台なのですから、空間的広がりは限りなく、奇想天外と
言わざるを得ません。
作品の素材という面から考えれば、いかに天才西鶴でも、その独創にも
読書圏にも限りがあります。どこかに情報源があったはずです。
その上、中にはニュースのような情報も多く、そこには特殊な取材ルートが必要です。
西鶴の伝記は定かではありませんので、自分自身で全国を取材した
可能性はあるでしょう。
しかし、常に俳諧、浮世草子作家として、
文学活動の第一線で活躍し続けた西鶴ですから、多年にわたる諸国
遊歴経験があったとは言い難いでしょう。やはり西鶴個人としての
情報収集量には限りがあるにもかからわらず、様々な作品を産み出せた謎は深まります。
そこで、私は西鶴を米商人ではないかと言う推論を行いました
(拙著『西鶴浮世草子の展開』)。なぜかと言えば、当時の多くの
地方の米は、天下の台所大坂に海運によって運ばれていたからです。
人と物とが流通すれば会話が生まれる。全国の経済情報とともに
文学情報も大坂にもたらされる。西鶴が米商人であれば、
居ながらにして、全国の文学情報を得られることになります。
しかし、この説は現段階では仮説の一つとしておきます。
ところで、それが隣国兵庫(丹波、摂津、播磨、但馬、淡路)の
場合はどうであったでしょう。一つめに芭蕉が『笈の小文』の中で
日帰りで須磨から明石まで往復したことを思えば、大坂人西鶴が
自身で歩いて文学の素材を集めた可能性があります。二つめに
先に述べた海運情報ルートが指摘できます。三つめに武庫川水系、
海運をはさんだ加古川水系などの川運情報ルートです。
四つめに畿内として十分に整備されていた陸運ルートがあります。
五つめに『西鶴名残の友』にある明石の俳友や、『好色一代男』の
跋文を書いた豊中市の水田西吟、『定本西鶴全集』に収められている
『近代艶隠者』の作者とされる岡山の西鷺軒橋泉など付近の俳友ルートも有力と言えます。
いずれにしても西鶴の情報収集力を持ってすれば、隣国兵庫県の
文学素材は自由自在に扱える格好の素材だったといえるでしょう。
事実、西鶴は多くの兵庫を舞台とした浮世草子を書いています。
そこで、以下『西鶴兵庫浮世草子』と勝手に銘打って、西鶴が小説
(浮世草子)として描いた兵庫の話を紹介していきます。
あくまでフィクションながらノンフィクションを伝える西鶴の妙技をお楽しみ下さい。
兵庫と西鶴
さて、兵庫の地にはさまざまな
ご縁がございます。
この「兵庫と西鶴」鳥瞰図で
「ゆかりの地名」をば入り口に、
いざ、私の作品ゆかりの地へと
ご案内いたしましょう。
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江戸時代、伊丹がいかに文学にすぐれた土地柄であったかは、柿衛文庫が今に伝えるところですが、西鶴の頃、伊丹は日本でも有数の文人に恵まれていました。伊丹の文人と言えば、まず俳人上島鬼貫ですが、この兵庫文学館「~江戸~兵庫名句館」の「鬼貫の巻」をご参照ください。また、『西鶴織留』巻一の一「津の国のかくれ里」のモデルとなった鴻池家もありました。銘酒『白雪』の小西家もそうです。
他にも百丸編『在岡逸士伝』[淡々跋、享保八(一七二三)年]が示すとおりです。西鶴との関係では、鬼貫は当然ながら、鴻池当主、談林俳諧の俳人山本西六があげられます。西鶴を自宅に招き、『西鶴五百韻』の亭主を務めています。
石川真弘氏は『もろはくの俳諧―元禄の酒都伊丹の文化―』(柿衛文庫 平成十六年刊)の中で(略)西六が、西鶴を迎えて、西鶴と渡り合えるだけの技量をもっていた点もまた見逃してはならない。旦那芸といえども、並みの腕前どころか、相当の域に達していたと判断できる。西鶴が伊丹にわざわざ出向いたのは、うまい酒目当てだけでなく、旦那衆との俳諧ということ自体に関心があったのだろう。伊丹に関する情報は、北摂の桜塚に住んでいた西吟あたりから聞き及んでいたかもしれない。
『西鶴織留』巻一の一「津の国のかくれ里」という一話は、そういう情報をもとに創作された物語であったにちがいない。とされていますが、とても事実に基づいたわかりやすい説明です。西鶴と情報源の関係は伊丹をもって知るべしでしょうね。 -
芭蕉は貞享四(一六八七)年四月二十日兵庫より須磨明石を遊覧し、明石より戻り須磨に泊まります。これは『笈の小文』に記されています。後に芭蕉が訪れなかった加古川、姫路に俳壇ができ、高砂でも盛んになります。その頃西鶴が浮世草子作家として絶頂期にありよく知られていましたが、芭蕉は播磨では、さほど有名ではなかったはずです。
芭蕉は明石に俳諧仲間を持つ(「西鶴と明石」参照。)西鶴や、明石の人丸山をたびたび訪れている西鶴の師宗因、岡西惟中、椎本才麿などの談林俳諧の勢力圏を意識して、明石より西に進まなかったのかも知れませんね。そう考えれば、高砂でも談林俳諧との交渉があり、俳諧仲間があったのかも知れませんね。そういう仲間が西鶴文学の情報源であったということになります。
高砂神社は古歌に詠まれた名刹です。謡曲『高砂』は万人の知るところですが、西鶴の頃の高砂は加古川水運と瀬戸内海水運を結ぶ流通の要でした。高砂神社の玉垣に干鰯商人の名前があるように、たくさんの商人が行き交う港でした。「西鶴と兵庫」の項でも説明しているように、このような商人もまた西鶴と交流があり、いろいろの情報を伝えてくれたのではないでしょうか。
西鶴の頃、すでに高砂城はありませんでしたが、高砂は相生の松の景勝地としてより、天竺徳兵衛や後に山片蟠桃を生んだように、潜在的な商魂のエネルギーが感じられる場ではなかったでしょうか。西鶴はそういう場を好んでいたと思います。 -
近世における三田は九鬼氏三万六千石の城下町として発展していました。城下町となる以前においても仏教・神祇信仰はあつく、加えて村落芸能『田楽』もとても盛んでした。そのような基盤に支えられて俳諧も盛んだったのでしょう。
貞門俳諧の二大発句集『玉海集』[安原貞室編 明暦二(一六五六)年刊](発句数二六二〇余句、付句数五八〇余句、作者数六五八人)には、「摂州三田之住 重香」「摂州三田ノ住松永氏 親次」「摂州三田住 無及」という三田在住の俳人の名前を認めます。これは西鶴登場前夜に、すでに三田地域に三田俳壇なるものが形成されていたことを物語っているのではないでしょうか。西鶴の属した談林俳壇は大坂中心で、京都中心の貞門俳壇から分かれたもの。同じ俳諧文芸を志す者同士に交流があったとしても不思議ではありません。
俳諧の門流が違っていても親交があったことは、『奥の細道』に登場する人々からも知ることができます。西鶴自身が三田を訪れた形跡は今のところ未見です。しかし、三田と大坂がいかに近かったかは当時の物流ルートから知られます。 -
古くから室津が瀬戸内海航路の拠点として栄え、その繁栄 とともに遊女らが多く集まってきていたことは、文献に見え る「室の遊君」、謡曲『室君』などで知られています。
西鶴の頃の室津がどのような様子であったかは定かではあ りませんが、『好色一代男』巻五の三「欲の世の中にこれは 又」で本朝遊女のはじまりは、江州の朝妻・播州の室津より事 起りて、今国々になりぬ。朝妻にはいつのころにか絶え て、しづの屋の淋しく嶋布を織、男は大網を引きて夜日 を送りぬ。室は西国第一の湊、遊女も昔にまさりて風儀もさのみ大坂にかはらずといふ。 と紹介されているのを信じるべきでしょう。
しかしよく、この箇所をして西鶴が遊女の始まりを室津だ としていると言われますが、引用部の最後に「といふ」とあ るように、すべてが伝聞内容として解釈できることに注目す べきです。『好色一代男』は世之介の好色遍歴の旅ですから、物語とし ては老舗の遊廓「室津」に立ち寄らざるを得なかったのでしょうが、実際は往時ほど色町としては栄えていなかったの ではないでしょうか。
むしろ、西鶴が「西国第一の湊」とするように、当時の上 方の人々は「室津」を瀬戸内海運の拠点として認識していた のではないでしょうか。朝鮮通信使を迎える施設をもった港 湾「室津」は、商人の海路を守る商業港であったはずです。 事実、船舶数も多く、海産物などの取引が行われていました。 ところが皮肉にも、西鶴が『好色一代男』や『好色五人 女』で「室津」の粋な遊女をとりあげることで、悪所として の健在ぶりをアピールしてしまったのではないでしょうか。
西鶴は『懐硯』[貞享四(一六八七)年刊] 巻五の三では 室津の遊女町で起きた大喧嘩を書いていますが、これは幡随 院長兵衛の事件を室津に置き換えたとされます。 -
江戸時代の出石は沢庵和尚や幕末の桂小五郎潜伏で知られていますが、中世では応仁の乱の西軍大将山名宗全の本拠地として名を馳せました。この戦いのため、山名四天王以下、因幡、備後の軍を加え、二万六千余騎が出石に揃い、京都に攻めいったというのですから、近世においても出石盆地はなかなかの武勇の地としてのイメージが強かったのではないでしょうか。
西鶴も『武道伝来記』[貞享四(一六八七)年刊]巻六の二では出石での敵討ちを書いています。また、同作品の巻三の二には、「但馬の国、入佐山の麓に、久松落月院(不明)といへる真言寺によしみありて」と出石が敵討ちに絡んでいます。『西鶴諸国はなし』[貞享二(一六八五)年刊]巻三の七「因果のぬけ穴」も敵討ちですが、「但馬の国片里にありし事」としか書いていません。ただ、ここにも「入佐山」が出てきます。
「入佐山」は枕詞として、古歌に多く詠まれています。『武道伝来記』巻六の二の場合などは、誤って半弓で人を射殺したことが敵討ちの発端となっていますが、「入佐山」は
あづさ弓いるさの山の夕闇に
月よりさきと照射をぞする(『新千載』)
とあるように「入る」と「射る」が掛詞となっている用例が多く、事実よりも俳諧の付合的な楽しみが隠されていたと言えます。ある意味、西鶴にちっての出石は武闘的前時代的なイメージと歌枕的雅なイメージとを持ち合わせた場所ではなかったでしょうか。 -
江戸時代の西宮は「新酒番船」が争われるなどして、酒の町として発展をとげましたが、西鶴の活躍した一六〇〇年代はまだ酒の町として繁栄していたのではありません。
唐突ですが、一六〇〇年代に上方が経済発展をとげた要因は米の流通だけではありませんでした。それと並んで、日本一の木綿生産地をひかえていたことによります。すなわち、河内における木綿生産です。この「河内木綿」という朝鮮系の品種は、十七世紀、大和川水系の豊かな水運を利用し、全国に流通し、上方に破格的な富をもたらしました。その河内木綿の最良の肥料は「干鰯」でした。当時、大量の鰯をとる漁法は地引き網、まかせ網、八手網などですが、これらは元来、近畿地方から出た漁法でした。河内木綿の量産は大量の肥料を必要としましたが、近畿地方の鰯漁法はその需要に見事に応えました。
したがって、近畿地方には富裕な漁師がふえ、各地の船の安全を祀る「住吉神社」、大漁の神様「えびす神社」は彼らの信仰の対象として、大変な賑わいを見せました。各地の「えびす神社」は大漁を願う、つまりは金儲けの神様、福の神として、あらゆる階層の信仰となりますが、西宮の浜に近い「西宮えびす」は本来である漁師の神様としての性格が根強いものがあったと考えられます。
西鶴の頃、上方の繁栄に漁業あり。漁業の繁栄に「西宮えびす」の繁栄あり。というイメージは強かったと言えるでしょう。 -
丹波の柏原と言えば、西鶴と同時期、著名な俳人「田捨女(でんすてじょ)」[寛永十(一六三三)年~元禄十一(一六九八)年]がいます。次の一句、
雪の朝 二の字二の字の 下駄のあと
は、あまりに有名ですね。
芭蕉の師にあたる、北村季吟、湖春らに俳諧や和歌を学びましたが、西鶴と接点があったかどうかは不明です。柏原藩主に仕えていた名門・田家ですから、身分違いであったかも知れません。晩年は「西鶴と姫路」の項で再三あげた「網干」の龍門寺ですごしました。
身分違いと言えば、西鶴以前の丹波には、一絲文守(いっしぶんしゅ)[慶長十三(一六〇八)年~正保三(一六四六)年]がいました。後水尾天皇の深い帰依を受けた名僧として有名です。また、その才能は詩文にすぐれ、能書の誉れも高く、絵画にも巧みでした。常に世俗を避け、亀岡市畑野町千ヶ畑の山麓に庵をむすび、大梅山法常寺を開基しますが、後年そこに文化圏が形成され、俳諧の土壌ができたとは聞き及びませんし、それが兵庫の丹波まで直接広まった形跡もありません。
丹波は京都文化圏であったとも言えますが、「西鶴と三田」の三田が摂津より丹波としての意識が強かったことや、西鶴作品における篠山や福知山の存在など、上方文化圏と隣接している身近さも感じられます。しかし、如何せん交通の便は悪く、山家の片田舎のイメージは否めないと言えるでしょう。 -
加古川に立派な俳壇が存在したことは、この兵庫文学館「~江戸~兵庫名句館」の「播磨の巻~加古川の俳諧~」をご参照下さい。
かくも文学の土壌豊かな加古川ですから、西鶴が訪れた可能性はあると思います。しかし、ここであげている『好色五人女』巻一の三では、お夏の店の「尾上の桜」での花見をあげています。姫路から高砂、曽根を通って尾上まで、「女中駕籠」で行ったというのですが、これは無理な話です。西鶴にしては、現実性に欠けていても名所尽くしのつもりでしょうが、このあたりの地理に不案内であったと言えるかも知れません。加古川を舞台とした作品が少ないのも気になりますが、可能性を否定はできません。
ところで、河川としての加古川は江戸時代の兵庫の生命ラインでした。加古川の舟運は江戸時代になって本格的に整備されましたが、池田輝政の播磨一国主義により、開発は急がれ、西鶴の頃には、丹波の氷上から高砂にいたる一大流通ネットワークが完成していました。この舟運ルートは、元来年貢米を大坂まで運ぶ目的で開発されましたが、そのルートを利用してさまざまな物資が大坂と兵庫を結びました。人も情報も動いたでしょう。高砂から三田から丹波からさえも加古川経由で情報が大坂まで送られてきたのです。
西鶴も、加古川からの文学情報ルートは欠かせなかったことでしょう。大切な拠点であったでしょう。 -
江戸時代の姫路は、池田輝政の播磨国五十二万石一国支配の拠点としてスタートしています。明石、高砂、龍野、赤穂などは支城にすぎなかったわけですから、完成した姫路城は、播磨国のシンボルだったといえるでしょう。
しかし、その一国支配体制もわずか五十年ほどで細分化され、西鶴の頃の姫路は、十五万石の城下町となっていました。西鶴は、姫路に足繁く通ったかどうかは不明ですが、姫路を舞台とした作品として『好色五人女』[貞享三(一六八六)年刊]巻一を書いています。目録題は「姿姫路清十郎物語」。いわゆる、お夏・清十郎の物語です。この物語は室津、尾上、飾磨などの城下町周辺も舞台にしていますから、西鶴は姫路の情報をよく把握していたといえるでしょう。
この物語にも出てくる、妖怪「於佐賀部狐」は姫路の有名な民間伝承ですが、西鶴も『西鶴諸国はなし』[貞享二(一六八五)年刊]巻一の七「狐四天王」で一話を形成しています。情報源があったのでしょうね。この情報ルートには、もちろん、明石の場合のような俳諧仲間が考えられるでしょうが、もう一つのルートとして、商業ルートがあげられるでしょう。
西鶴作品には、しばしば「網干衆」と呼ばれる商人の名があがります。『好色一代男』では、東北の酒田の問屋鐙屋の宿泊客として書かれていますが、酒田の本間家の当主が網干で修業したように、日本各地の買い付けにまわる「網干衆」は西鶴のよき文学情報源だったのかも知れません。
三浦俊明氏のご研究によれば、和船造りに必要な和釘の原料和鉄は、千種で製鉄され、網干の問屋から大坂の鉄商人泉屋(住友家)に送出された例をあげられている。上方と姫路は網干でつながっていたかも知れません。 -
西鶴の頃、兵庫つまり今の神戸は山陽道(西国街道)に沿い、西廻り航路の港として知られた天領でした。しかし、明石や姫路のような城下町でもなく、西宮浜のような賑わいや加古川、高砂ほどの川運、海運の要衝でもなかったようです。 西鶴は『一目玉鉾』[元禄二(一六八九)年刊]という旅行案内書を書いていますが、そこには兵庫のあたりも地図とともに記されており、「兵庫」については、
兵庫の津、民屋建てつづきて物の自由なる所也。湯屋風呂屋もあり、昔は湯女ありて船かかりの旅人浪枕を借し所也。
とありますので、「湯女」で知られていたとも言えます。
この頃、地誌『福原鬢鏡』[延宝八(一六八〇)年刊]というものも刊行されています。須磨寺の開帳にあわせたガイドブックであったそうです。他にもこのような兵庫に関する案内書があったはずです。
ところで、芭蕉が兵庫を通り抜け、須磨から明石まで歩を進めたことは「明石」の項にも書きましたが、西鶴も明石に友人がいる以上は兵庫を通ったでしょう。西鶴の師、宗因も訪れたでしょうし、街道ですから、他にも同時期の幾多の俳人が往来したと考えられます。住んでいた友人もいるでしょうが、西鶴は往来するだけで、いろいろな情報が得られたはずです。西鶴にとっても「兵庫」とは、兵庫県のどこよりも実際に歩いた地であったかも知れませんね。 -
江戸時代の明石は城下町として、山陽道の要衝、播州への東からの入り口として繁栄していました。海運、川運、陸運のどれをとっても大坂と一、二日の旅程でつながっており、明石と大坂は密接な関係にありました。
また、明石は万葉の時代からの歌枕の地で『源氏物語』、『平家物語』などの舞台となり、この地を訪れた文人は多く、西鶴以前の文学にも「明石」の地は多く登場します。芭蕉が明石を訪れ、有名な「蛸壺やはかなき夢を夏の月」の句を詠んだように、人麿山月照寺には、西鶴の師西山宗因やその談林俳諧で西鶴と双璧の岡西惟中が幾たびか訪れています。俳諧師西鶴も「明石」を文学の場と意識し、たびたび訪れたことでしょう。事実、俳友が西鶴を明石に招いたことは『西鶴名残の友』[元禄十二(一六九九)年刊]巻四の五に作品化されています。この話は西鶴が明石の亭主に招待され、友人たちと明石へ向かう舟中での楽しい会話が中心となっています。よほど心おきのない俳友か、仲のいい友人が明石にいたと思われます。
そう考えると、西鶴にとって明石は馴染み深い土地で、常に情報はたくさんあり、作品化したい素材は多かったはずです。
『西鶴名残の友』以外でも明石を舞台とした西鶴作品としては『男色大鑑』[貞享四(一六八七)年刊]巻二の二と同年刊行の『武道伝来記』巻二の一がありますが、ここでは『男色大鑑』の方を取り上げています。
西鶴の主な作品
【あらすじ】
但馬の国銀ほる里のほとりの夢介は、名古屋三左 や加賀の八と連れ立って京の遊里で遊び暮らしてい ました。やがて、都で今を時めく太夫、かづらき、 かおる、三タの三人を身請けし、そのうちの腹の中 から生れたのが世之介でした。七歳の夏の夜に小用 にたった時に、「恋は闇」と腰元に恋をしかけるなど、その早熟ぶりは徹底して、めざましいものがありました。それもそのはず、この世之介が五四歳 (正しくは六十歳)までに契った女は三七四二人、 男色の相手にした美童は七二五人と、手日記に記してありました。
【作品解説】
ここにあげた『好色一代男』巻一の一は、まさしく主人公世之介の誕生秘話です。 父夢助は当代きってのプレイボーイ。母は都きっての太夫。夢助は生野銀山で大儲けした成金と想像出来ます。と言うより、想像させられます。そうでなければ、片田舎から出てきた男が遊興の上、都で全盛の太夫三人をすべて身請けできるはずがないのです。そして、また「入佐山」の出石。このイメージは、はじめに述べたように前時代的なイメージと歌枕的雅なイメージとを持ち合わせた場所なのです。前時代のプレイボーイ夢助と雅な太夫との間に生まれた世之介。案外、世之介のモデルは光源氏でも在原業平でもなく、但馬に実在したのかも知れませんね。
【版本】
好色一代男 巻一の一挿絵
関西学院大学図書館蔵
【その他写真】
【あらすじ】
十二歳になる主人公世之介は八月十三夜の月、須磨の月は殊更だと貸し切りの小舟を寄せました。兵庫の名所を廻り、宵のうちは京都の銘酒を飲んで騒いでいましたが、一夜も女なしでは過せぬと若い海女を招かせました。しかし磯くさくて、あの行平の心は理解できませんでした。翌日は兵庫に向い、湯女と遊びましたが、ここの女たちは座敷の中でもあくびをするやら蚤を取るやらと、さもしい有様でした。昔、江戸で丹前風呂というものがあった頃、湯女勝山は情愛もこまやかで、吉原の太夫にまで出世して身分のある方と添い臥しましたが、その伊達な髪型や衣装などは、世間でも流行しました。こんな湯女はもういないものでしょうか。
【作品解説】
元来、『好色一代男』は五十四章からなっているなど『源氏物語』のパロディですから、主人公世之介が須磨の月を見るのも必要な場面でありました。さらに『平家物語』に登場する敦盛、熊谷、忠度を登場させるのは、兵庫といえば、一ノ谷の合戦であるためですが、美男子敦盛に戯れかかるのは、『西鶴諸国ばなし』[貞享二(一六八五)年刊]巻四の一でも描かれていることです。ただし、この話の場合は浄瑠璃の井上播磨掾の正月興行「一の谷坂落とし」に絡めてのことなので、兵庫の名所話という趣向ではありません。ところで、湯女は宮崎アニメ『千と千尋』にまで出てきましたが、そこでも「千尋」という名が取り上げられて、「千」という源氏名が与えられていましたが、江戸時代に入浴客相手に春を売る代表的な風俗でした。ここにとりあげた本文は章の前半ですが、後半では、その兵庫の湯女の接客態度が批難された上、それに比べ江戸の湯女勝山が賞賛され、そのため彼女のファッションまでが流行したことを書いています。これは本当に兵庫の遊女の態度が悪かったというよりも、かつて兵庫の遊女たちが「兵庫髷(ひょうごまげ)」という髪形を全国的に流行させたとされることと、新しく勝山が流行させたとされるのが「勝山髷」であるということを踏まえているのでしょう。神戸はやはり、昔もファッションリーダーだったのですね。
【版本】
好色一代男 巻一の六 挿絵
関西学院大学図書館蔵
【その他写真】
【あらすじ】
播州室津の裕福な酒造業者、和泉清左衛門の子息清十郎は容姿端麗で、一四歳の秋から遊郭での遊びに没頭し、遊女からの様々な贈り物を、「浮世蔵」に詰込む程の人気ぶりでした。ある日遊郭の座敷で昼間から豪遊の最中、業を煮やして乗り込んだ父に、突然勘当された清十郎は、急に冷淡になった周囲の態度に絶望します。馴染の遊女皆川と心中を決意しますが、制止され、皆川を抱え主へ預けられ、一九歳の清十郎は、永興院で出家させられることになります。
【作品解説】
はじめに書いたように西鶴は室津を老舗の遊女町として印象づけています。
清十郎はそんな前時代の遊女町にある、酒造りの「商人」の家に生まれた美男子です。その清十郎が室津の遊女たちを夢中にさせ、いわば室津の遊女町を支配するのです。
やがて、室津の遊女皆川との悲恋を経て、お夏に巡り会うのです。このお夏は「姫路」の項で本文を紹介していますが、都の嶋原の遊女より美しい女性でした。そのお夏に清十郎は恋をします。お夏に支配されたのです。
そのように考えると、室津の遊女は嶋原の遊女より格下であったといえないでしょうか。これで都の遊郭に負けた地方の遊女町の構図を見るのはうがち過ぎでしょうか。
【その他写真】
【あらすじ】
『好色五人女』巻一全体のあらすじは以下です。―室津の造り酒屋の息子、清十郎が姫路の但馬屋に奉公し、そこで主人九右衛門の妹、お夏と恋に落ちます。主人の妹と奉公人の恋愛。成就するため飾磨港から駆け落ちしたものの追っ手に捕まえられ連れ戻されてしまします。その上清十郎は、盗みの濡れ衣まで着せられ処刑されてしまいます。残されたお夏は清十郎の死を知り、悲しみのあまり気がふれてしまいますが、やがて心を鎮め、尼となり、清十郎の菩提をとむらいました。― 全体的には悲恋物語ですが、巻一の二は明るい場面が大半です。巻一の一で清十郎と室津の遊女皆川は引き裂かれますが、本章では、皆川は絶望の末に自殺、清十郎は説得され死を思いとどまります。知人の紹介で、姫路の但馬屋九右衛門の手代として奉公し、実直な勤務態度によって、主人の信頼を得ます。主人の妹お夏は十六歳。類い稀な美貌で、都の太夫格の遊女にも負けない洗練された女性でした。仲居が清十郎の帯をくけ直した時、中から室津の遊女の恋文が多数出て来たのを見て、興味を引かれ、清十郎のを熱愛します。女奉公人達も、それぞれ清十郎の気を引こうとあの手この手でアプローチします。モテモテの清十郎でしたが、自然とお夏にひかれていきます。しかし、店では人目も多く、密会の機会を得られず、互いに悶々としていました。
【作品解説】
姫路のお夏清十郎物語が、西鶴の『好色五人女』[貞享三(一六八六)年二月刊]と
五十年忌にあたるとされる宝永六年(一七〇九)一月二日に初演となった
近松門左衛門の浄瑠璃『五十年忌歌念仏』で取り上げられたのはあまりに有名です。
そのため、姫路では二つの話の影響が強く、お夏が但馬屋九右衛門の妹やら、
米問屋但馬屋九左衛門の娘やら、元来、誰の娘であったのかさえ断定できなくなっています。
『玉滴隠見』[宝暦十(一七六〇)年編]には、姫路の商家但馬屋の手代清十郎と
娘お夏が密通し、清十郎は主家を追われ、お夏も跡を追って逃げたと記されています。
後年の地元の見聞記『諸記視集記』には、清十郎は主人を恨んで仕込刀で主人を
斬りつけて傷つけ、処刑されたとしています。
西沢一風の浮世草子『乱脛三本鑓』[享保三(一七一八)年刊]には、
清十郎は、お夏と大坂まで逃げたが、主人の娘をかどわかした罪で打ち首。
お夏は出家もせず、今も老醜をさらして生きているとしています。
どれが実説なのかわからなくなりますね。
しかし、『好色五人女』には、里の童が「清十郎殺さばお夏も殺せ」と、
はやり唄を歌っていた話をあげていますが、西鶴の頃、すでに歌謡として、
お夏清十郎の物語が流行していたことは事実のようです。
逆に、西鶴は実際の事件を知りすぎていて、本当のことが
書けなかったのかも知れませんね。姫路の慶雲寺には、今も
「お夏清十郎」の二人の霊をなぐさめる比翼塚がひっそりとまつられています。
【その他写真】
【あらすじ】
但馬屋の女達は、春の一日、加古川の尾上の花見に出掛けます。男としては清十郎が
一人だけ世話役として同行します。皆、野遊びや酒盛りに興じる最中、大神楽の獅子舞が来て、得意の曲芸を披露し、但馬屋の女達もその見物に夢中になってしまいます。
一方、お夏は一人、花見幕の内に残り、清十郎と逢引を待ちます。清十郎は幕の内に忍び入り、二人は初めて契りを交わします。この獅子舞は、皆を花見幕の外に止めて密会するための、清十郎の企んだ手段でしたが、但馬屋の誰も気が付きませんでした。
【作品解説】
加古川の尾上の桜は、『後拾遺和歌集』に
高砂の尾上の桜咲きにけり
外山の霞たたずもあらなむ
とある古歌で有名です。この歌は『小倉百人一首』に入っています。当時すでに『百人一首』は愛好されていましたから、近世の読者には「尾上の桜」で満足できると思います。しかし、中世以来、高砂、曽根、加古川と言えば、松林の名勝地です。特に尾上の長田の住吉神社の老松は有名でした。そのため、本文に「高砂、曾祢の松も若緑立ちて、砂浜の気色、又あるまじき詠めぞかし。」とあるのです。また、「尾上」を普通名詞にとる説もありますが、ここは名所尽くしの方法と言えますので、「加古川の尾上」でいいでしょう。
いずれにせよ、お夏と清十郎が初めて契りを交わす場面ですから、ドラマチックでなければなりません。『好色五人女』の演劇的構成はすでに能や浄瑠璃との関連で指摘されていますが、まさに劇的な場面なのです。
春の陽ざしの中に満開の尾上の桜。そこにやって来る曲太鼓、大神楽の賑やかさ、人々の笑いが囃し立てます。それをよそ目に忍び会うお夏と清十郎。そして契りを結びます。初めての契りを結んだ、お夏のことを「思ひなしか、はやお夏、腰つきひらたくなりぬ」と表現しますが、この表現は『好色五人女』の現代語訳も手がけた作家、吉行淳之介の作品にも散見できます。一度、お探し下さい。
【その他写真】
【あらすじ】
京都でも無類の美女おさんは「今小町」と名高い室町の令嬢でしたが、やがて暦を扱って金持ちの大経師に求められ、何不自由のない生活を送ります。ある日、下女たちと律儀者の手代茂右衛門をからかってやろうと、彼に恋する腰元りんの恋文を代筆し、おさんの床へ誘います。そこを皆で取り押さえて、笑いものにする計画でしたが、おさんも皆も寝てしまっていて、茂右衛門と契りを交わしてしまいます。間違いに気づいたおさんでしたが、いまさら取り返しもつかず、本気の恋となって、二人はのめり込んでいきます。(巻三の一、三の二)
おさんと茂右衛門は石山寺のご開帳にかこつけて五百両持って家出し、投身自殺にみせかけた書置をして、駆け落ちしてしまいます。(巻三の三)
丹波越えの疲労でおさんは衰弱しますが、茂右衛門の「親戚宅でゆっくり語らうつもり」との言葉に力を得ます。途中茶屋で休憩しますが、主人は一両小判も見た事がないほどの田舎でした。柏原の伯母宅で茂右衛門は、おさんとの仲を聞かれ、口から出任せで妹と紹介してしまいます。伯母はこれを喜び、早速一人息子、岩飛の是太郎というあばれ者との縁談をすすめ、その夜のうちに祝言まであげさせられます。その夜、おさんと茂右衛門は、是太郎が寝込むと逃げ出し、丹後路切戸の文殊堂にたどりつき夜を明かしますが、おさんは夢の中で「出家すれば、命は助かるであろう」との文殊菩薩の御告げに反発し、二人の愛欲はますますつのります。(巻三の四)
京都ではおさんの法要が営まれ、茂右衛門は自ら様子をさぐりに出かけ、自分たちが無事逃げおおせたことを知りますが、大経師屋出入りの丹波の栗売りが、旦那に切戸のあたりで二人を見かけたとの情報をもたらし、二人は捕らえられて、不義密通などの科で粟田口において処刑されます。(巻三の五)
【作品解説】
『好色五人女』のおさんと茂右衛門の場合、実際に天和三(一六八三)
年九月二十二日に京都粟田口の刑場で磔になったとされますから、
モデル小説です。『好色五人女』の刊行時に事件よりまだ
二年余りしか経っていないわけですから、事実を知る人は多く、
作品化しづらかったでしょう。
そこで緩衝装置となるのが、「丹波」なのです。
小判を見ても知らない茶店の主人は誇張しすぎですが、
これ以外にもユーモラスな場面が多く登場します。
山家の片田舎というカルチャーショックによる笑いとともに「丹波」の場面はおおらかな性表現もあり、
凄惨な結末を忘れさせてくれます。「丹波」は精神的なやすらぎを得られる場所かもしれませんね。
【その他写真】
【あらすじ】
昔、播州の城を修理したおりに、石垣の上の高塀を補修するため若い左官を籠に乗せたところ、恐怖のあまり半時ほどで老人の姿になってしまいました。
ところが、女房は不実にもこのようになった亭主を見捨てて家出してしまいました。残された亭主は哀れにも妻の名を呼びながら息を引きとりました。女房は亭主が死んで三十五日もたたずに再婚したので、左官の親はこれを恨んで奉行所へ訴え出ました。この女は離縁状もなく家出し、仲人も立てずに再婚したことが判って、奉行は女は尼に、男は遠国へ追放、女の親は所払いという、まことに慈悲深い判決が下されました。
【作品解説】
左官の高所恐怖症と妻の不実と浮気、さらには奉行の名裁判まで、『新可笑記』の中では比較的うまくまとめた話といえます。
播磨の城としか書いてありませんが、高砂の左官ですから姫路城か明石城の普請と考えられます。しかしプロがここまで恐怖をいだいたのですから、天下の姫路城でしょう。
「古代」と書き出していますのでとても古い話だと思ってしまいますが、元和三(一六一七)年に完成をみた姫路城ですので、「播州の一城久しくなりて、修理加へらるる時」として、その白壁の大補修工事となると一六〇〇年代も後半と考えられるのではないでしょうか。そうなると西鶴の頃、それも『新可笑記』の出版時期[元禄元(一六八八)年刊]にかなり近い時期となります。西鶴はその作風として、よく韜晦性が指摘されますが、ここでは、その手法を指摘しても仕方ありません。
おそらくは当時、高砂で実際にこんな事件があったのでしょう。その高砂からの情報源の可能性はTOPであげています。作品化にあたって、男女の関係は複雑ですから、どちらに非があるとも言い難いでしょうし、男と女の家筋もあることを配慮すれば、時代設定をずらすしかなかったのでしょう。
謡曲『高砂』では、尉(じょう)と姥(うば)が共白髪まで仲むつまじいことをうたいあげます。夫の若白髪になるとともに起こった妻の浮気。あまりに皮肉ですね。
【その他写真】
【あらすじ】
摂津の伊丹に長く続いた酒屋がありましたが、毎年銀五貫目の儲けが増減しないのをその程度の運命とあきらめて生活していました。ある夜、その店の遊び人の惣領が嶋原での太夫遊びの最中、隣の客への米価急騰の知らせを聞きつけ、隣の客が一寝入りする間に、遊びを中断してすぐに大坂の北浜へと向かい、米を買い込み大儲けします。それを元手に次々と商売をし、利益を得て広い田畑、大きな家に住む大金持ちになりました。
【作品解説】
道楽息子が悪所で情報を得て成功する。―
こんな都合のよすぎることは教訓的ではありませんね。しかし、米相場で儲けるのは情報合戦。嶋原の一流の太夫との遊興を棄ててまで北浜に走った息子の商人魂の前では教訓はいらないのです。
なるほど悪人でも米相場で一時の利を得ることは奇跡的にあるでしょうが、「惣領よろづかしこく」という頭の良さが、米相場の次の手「江戸への下り酒」、三の手「貸し金」など次の工夫を生み出していくのです。モデルとなった鴻池家も酒造業から新田開発、金融業と発展をとげていくのです。考えてみれば道楽息子、伊丹から嶋原まで駕籠で通う機動性の良さが米相場を操るのに役に立ったのでしょう。
ケガの功名なのでしょうか?芸は身を助ける?なのでしょうか。何かわりきれないものがありますが、これが人生における現実。西鶴の得意とするリアリティ描写なのでしょうね。
【その他写真】
【あらすじ】
明石藩のある武士が公用中に偶然、気性のまっすぐな美少年長坂小輪に出会います。早速、殿に紹介しますが、殿は小輪に想いを寄せ、手元に置いて寵愛の上、激しく言い寄ります。しかし、小輪は厳しい気性で殿を相手にしません。
ある日、明石城に大きな一つ目入道があらわれて乱暴を働きますが、それを小輪が退治します。正体は大きな古狸でした。古狸の娘が小輪に復讐を告げますが、そのためか、殿の小輪寵愛はますます際限がなくなります。そんな時、小輪に想いを寄せた神尾惣八郎は小輪と二世の契りを交わします。
しかしそれは、殿の知るところとなり、家中の前で殿ご自身が長刀で小輪の左手を切り落とします。さらに小輪の右手も切り落とし、首まで打ち落とされます。遺骸は朝顔光明寺(明石鍛治屋町)に葬られますが、実母が菩提を弔いました。
【作品解説】
この物の怪退治の功名の主は先述した美男子小輪でした。この怪異現象を常識的にとらえれば、「一眼の入道」とそれに化けた「幾年かふりし、狸」の仕業になります。
明石市に現在残る明石藩の記録や民話に、この一つ目入道や古狸の怪奇話は見出せません。それは、フィクションで西鶴の創作によるのだとすればそれまでですが、明石出身で明石城間近で育った私は、逆にこの話がノンフィクションである可能性を思います。
まず、狸が破った「桜茶屋」ですが、『対訳西鶴全集』(明治書院)が注記するように「場内の庭園の桜のほとりにある茶屋」とするのが、一般的でしょう。
しかし、明石城は小笠原忠真を城主とし、元和五(一六一九)年よりの本格的な築城工事の折から、その背後を守る堀として、「桜堀」を有していました。歴代の明石藩主の御殿は、居屋敷廓として明治まで残ります(現在の明石球場付近)が、それは寛永八(一六三一)年の御殿消失以降のことであり、それ以前は本丸にありました。後の居屋敷廓に「築山」があったことは古図面「延享三年明石城内図」(現在の風景参照)からも明らかですし、今に残る梁田葦州の五言絶句でも知られています。おそらくは消失する前の御殿にも同様の「築山」があったからこそ再建したのではないでしょうか。
そうすると、「桜茶屋」が桜堀に面したものとすれば、「御築山の西なる」とぴったりと符号するのです。もし、寛永八(一六三一)年以降の「築山」では北となり、符号しないという事実が判明するのです。そこで、この話が寛永八(一六三一)年以前の明石城とすれば、本丸に「常の御居間」があったこととなります。本丸は現在の明石城、つまり角櫓に囲まれていましたが、高台にあります。夏向きに「風待つ亭」があったことは十分に考えられます。本丸から東に目を転ずれば「人丸の社」が見えます(※江戸時代明石城本丸には「人丸塚」という祠はあったが、「人丸の社」というような神社はなかった)。その方角から一陣の風とともに「一眼の入道」があらわれたと考えられるのです。
明石城本丸と「人丸の社」を結ぶ線上、二点のほぼ中間に現在、神戸大学付属中学校が建つ小高い丘があります。この近所に住む方のお話では、子供の頃のこの小高い丘はうっそうとしており、誰言うとなく見越し入道を封じたという古い祠があったようです。
見越し入道と「一眼の入道」は違いますが、これが一致すれば案外と『男色大鑑』のこの話は実際に起きた怪異事件として巷説では有名ではなかったかと思うのです。
ただ、城下町、明石城とそこまでノンフィクションを素材としたなれば、明石藩主の男色狂いによるお手討ちも事実であるということになります。
巷説に明石藩主は「切り捨て御免」として嫌われた殿様であったと伝えています。それは高山右近が明石の船上城城主として明石を統治したため、「キリシタンごめん」の語呂合わせであったと聞きます。ところで、映画『十三人の刺客』は明石藩主の「切り捨て御免」伝説によるものです。興味深いですね。
ところで小輪の遺骸は『源氏物語』所縁とされる朝顔光明寺に葬られます。西鶴が作品中であげる
秋風に浪や越すらん夜もすがら
明石の岡の月の朝顔
という恋歌は、男色に関係ないものの、寺に今も残る伝承歌で、作者は不明です。
【その他写真】
【あらすじ】
和歌山の太地村の「天狗」が家名の源内は、「風車」の旗印のもと、鯨突きの名人として、名をあげました。次々に捕獲する鯨に浜は賑わい、活況を呈しましたが、源内は棄てられた鯨の骨を砕き、鯨油をとり、大金持ちとなります。その上、源内は網で鯨をとる漁法を確立し、さらに大金持ちの網元となります。
そんな源内でしたが、寺社への信心深さは篤く、中でも「西宮えびす」を信仰していました。特に今に続く、「十日えびす」の例祭の早朝参りは二十年来欠かしたことがありませんでした。
ところが、ある年寝過ごして、「十日えびす」の早朝に目を覚まし、二十挺の櫓を持った早船で、和歌山の太地から西宮の広田の浜までこぎ着けますが、夜になっていました。
途中、縁起でもないことを口にする者がいていらついていたりしながら、ようやく拝殿にたどりついても、他に参拝客もなく、ろくに社人に相手にもされずに腹を立てます。
その帰途、ふて寝していると、夢か現か、えびす様が源内に残り福を告げにやってきます。それは、鯛を針で刺して眠らせて、生きたままで遠方まで輸送する方法でした。
その通りに行うと、活きのいい鯛を出荷できたので、源内はまた儲けて、さらに大金持ちになって栄えたという話です。
【作品解説】
「西宮えびす」こと「西宮神社」は、江戸時代に整備された西国街道からは離れていました。しかし、西鶴の頃にはすでに旅人が必ず立ち寄る観光地として、有名になっていました。すなわち、「西宮えびす」は全国に知られた神社だったのです。
祭礼についても、西鶴は『世間胸算用』に、かつての大晦日の奇祭行事として、「津の国西の宮の居籠り」を紹介しています。
先述しましたように西鶴の頃は、「西宮えびす」は漁業の神様の色彩が強かったのでしょう。だから、太地の源内のように、遠く離れた場所から船で「十日えびす」の祭礼に駆けつける例は多くあったと考えられます。実際に「十日えびす」の祭礼の朝、広田の浜は早朝参りの船でにぎわっていたという、当時の光景があったからこそ成り立つ記述です。でも今でも、「十日えびす」の早朝参りは有名ですね。もっとも、現在は短距離競争になっていますが、名物と言えますね。
残り福を伝えるために、えびす様が追っかけてくるのも、現在の十一日の「残りえびす」が広く知られていた事情によると思います。
ところで西鶴は、ここで賽銭の勘定をしていて忙しい社人を描いていますが、これは揶揄しているわけではなく、すでに当時、「西宮えびす」が商売繁盛の福の神として、現世利益の神であったことを示します。でもカリカリしている源内を徹底的にいたぶる、このくだりの描写は実にユーモラスですね。
【その他写真】
【あらすじ】
ある丹波の山の所有権をめぐって二つの村の争いが絶えなかったことがあった。
と言うのもどちらの村の庄屋も古くから、所領についての記録を持ち伝えてきたが、
どちらの巻物も、一字一点違わない、全く同じ記録であったからであった。その山の上には
地蔵堂があったが、昔から内陣の扉は釘付けにされており、本尊は誰も拝んだ者がないという、謎の地蔵堂であった。
両村はこの観音堂の所有争いの訴状を京都の奉行所に出して、ついに山公事となった。
奉行では肝心の観音堂を争点に定め、両村の庄屋を召し出し、地蔵堂のご本尊をお尋ねになったところ、論が割れた。
そこで、奉行は丹波へ役人を使わし、地蔵堂を開いたところ、本尊はもの凄まじい雷神の像を八方へ鉄の鎖をつけて縛めたものであった。
お上は仏師を集めて、この雷神を彫った者をお尋ねになったところ、この像を作った子孫が記録を持ってあらわれ、その像が、ある僧に村に
害をなした雷を鎮めてもらったことに由来して作られたものであることを申し上げた。
その作った証拠も一致し、この雷神が作られた経緯が判明したが、施主は訴え出た両村の庄屋であった。
また、当時は両村の庄屋が婿と舅の間柄であったことも判明した。奉行は、記録も両村が仲の良かった頃に
どちらかが書き写して所持していたものであろうから、両村仲良く話し合い、地蔵堂を境界とすることが判決して下された。
【作品解説】
この話の中心は山公事です。山公事とは、山の所有権をめぐる裁判ですが、
平和な解決法として、江戸時代には多かったようです。この『本朝桜陰比事』
巻一の一の山公事の場合のモデル探していると、たいへん類似点の多い山公事を
見つけ出しました。三田の地で起こった事件です。それは、『三田市史』に記されているものです。
―天和三(一六八三)年八月の文書にその時のものがある。その内容は、三田、田中両村と山田、
桑原両村とが山論の判決に従わず上様が実検使をつかわされた。桑原村山田村に証拠が成立するから
三田田中には塩生野村へ山手米申し付けこれは三田田中方の敗訴にて、境目は岩鼻より嶺べを行き、
右手つなどまり迄である。万一、後年山論を起すような時は、上様より御成敗あるべきものである。
『本朝桜陰比事』巻一の一は山公事ですから、右のような山公事の記録と照合すれば、
場面展開が共通するところが多いのは当然なことですが、証拠確認のため「実検使」が
遣わされたことまで『本朝桜陰比事』と共通しています。実際の山公事体験者でないと
知り得ない事実かも知れません。
それよりも、問題となるのは、『本朝桜陰比事』巻一の一の挿絵です。
その挿絵の解説として、『新編西鶴全集 第三巻』は、
―背景は松葉山。章題に呼応している。神鳴を縛り上げているが、真言の旅僧に封じ込められ、
雷神の像として八方にへ鉄の鎖で縛られたまま鎮座していた来歴によるか。行列の先頭に
先棒を持つ三人が描かれているが、これは「丹波に御役人をつかはされ」に呼応し、科人を
引き立てて練り歩く呈か。いずれも返し股立ち姿であるが、素足の者もあり、身分は高くなく、
下役人ないしは村人といえる。
雷神像をさし荷ないする二人、右面の肩衣の五人は村人か。五人のうち、四人は雷太鼓を持ち、
残り一人は撥のようなものを持つ。―とあります。
ここで注視したいのは、『本朝桜陰比事』の挿絵の中に本文にはない、雷神がみじめに
捕縛された姿と雷神の捕縛を喜ぶかのような村人の姿をわざわざ書き入れている点です。
雷の被害に苦しむ人々が元凶である「雷神」を封じた喜びは何かを伝えています。
さらに注視する点として、三田の山公事の訴えた村の一つが「桑原村」であることがあります。
三田の「桑原村欣勝寺」には、全国的に有名な雷神伝承が残っています。今日でも、落雷の難から逃れようとするとき、
お題目のように唱えるのが「くわばら、くわばら」ですが、事典や辞書類もこの「桑原村」に
起源ありとしているものが多いのです。「桑原村欣勝寺」について、これも『三田市史 下巻』から引用します。
―昔、桑原村欣勝寺の井戸に落雷があった。時の和尚はその雷の落ちた井戸に蓋をしたので
雷は出られなくなり、「これからは決して落ちないから蓋をとってくれ」と頼んだ。
和尚は雷と堅い約束をしてその蓋をとってやった。それから桑原へは雷が落ちないし、
広く雷除けのお守りをこの寺では一般に授与している。毎年五月頃になると諸国から
そのお札をもらいに来るものが多い。
何か身に危険が迫るような場合にはよく「桑原、桑原」というがこの落雷の話に
まつわるものとしておもしろい。―
寺伝によれば、この雷の伝承は弘治二(一五五六)年夏のこととしていますので、
西鶴の『本朝桜陰比事』成立時には、広く知られていたものと考えられます。
『本朝桜陰比事』においても、挿絵で確認したように村に相当な被害を与えた雷神を
封じ込めたことを全面に出しています。また、雷神を封じ込めてからは、「此山里に虫出しの神鳴さへ音なく」と、
この山公事の舞台となった山里だけが、雷神の被害より免れたことが書かれています。
けっして、偶然によるものではないでしょう。
西鶴は三田の山公事も三田の雷除け「桑原」と欣勝寺の話も知っていたのでしょう。
この二つの素材をうまくアレンジして見事に作品化したのは、まさに西鶴の妙技と言えますね。
当時、「桑原の山公事」事件は、名裁判として話題になっていたのかも知れませんね。
【その他写真】
監修・協力一覧
- 監修者
- 森田雅也
- 協力者
-
関西学院大学図書館(以下アイウエオ順)
朝顔光明寺 永祐山慶運寺 賀茂神社 欣勝寺 神戸市立図書館 高砂神社 立町 長壁神社 西宮神社 他
監修者から
いゃあ、西鶴はんって面白い御方ですなぁ。「どこがや」って言われたら、そら全部ですけど、若い時から俳諧の師匠してて、もう上方では大人気。芭蕉さんが、俳諧の道を求めて江戸で苦労しはった時にもう大先生やった。そのお人がある日『好色一代男』を出しはったかと思うと、一昼夜二万三千五百句独吟の大記録おったてはった。その後は浄瑠璃も手がけましたが、浮世草子まっしぐら。十年ほどで二十作品ほど書いて逝ってしもうた。楽しい人生や。 この西鶴はん。ほんまはどんな名前で、どこに住んではったかもようわからへん。「井原」なんか怪しい、怪しい。 そらぁ、ようけの短編書いて、武士から町人までいろんな人が出てくるけど、驚かされるんは作品の舞台が日本全国やちゅうことや。なんでこんな所で起こったことまで知ってるのぉと聞きたなるわ。