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前田純孝館

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第一章前田純孝の生涯

前田純孝(号 翠渓)の生涯 前田純孝(号 翠渓)の生涯

かつて「明星」華やかなりし頃、その主催者である、与謝野鉄幹、晶子より「明星」の左大臣、右大臣と称され、その将来を嘱望されていた若い、才能豊かな二人がいた。
ひとりは石川啄木、もうひとりが前田純孝(号は翠渓)である。ふたりの歌人のたどった短い生涯は、あまりにも酷似していた。しかし、啄木についてはその名は現在も多くの人々の口に呼ばれ、啄木の残した短歌は今も愛唱され続けている。
一方の純孝については、彼の死後すぐに忘れ去られてしまったのである。啄木と同様の才能を有しながらも、また、「明星」の初期においては鉄幹の片腕として、啄木以上の活躍を見せながらも、但馬の僻村に埋もれてしまった純孝は、あまりにも短歌史において不公平な評価をされてきたのではないだろうか。
啄木が左大臣ならば、純孝は右大臣としての平等の評価を与えられるべきである。
純孝を知ってから、この思いはますます強くなり、1988年、評伝「落葉の賦ー前田純孝の生涯」を出版した。
ついで1994年、評伝「つひに北を指す針ー前田純孝の世界」を世に問うた。そして、3冊目の評伝「前田純孝と葛原しげる」を2002年に出版。なんと、20数年もの年月を純孝研究に費やしてきたことになる。しかし、まだまだ、啄木と同等の知名度は与えられていないと思う。
この度はネットミュージアムにて、純孝を取り上げてもらえることになり、さらに純孝に光が当たる機会となってくれればこんなに喜ばしいことはない。

1880 (明治13年)

父 純正〈基幹集落センター資料室所蔵〉
父 純正〈基幹集落センター資料室所蔵〉
昔の諸寄海岸〈基幹集落センター資料室所蔵〉
昔の諸寄海岸〈基幹集落センター資料室所蔵〉

1880年(明治13年)4月3日、純孝は、兵庫県二方郡諸寄村六十一番屋敷に生まれた。この地は現在は兵庫県美方郡新温泉町諸寄となっている。父純正(24歳)母うた(18歳)の長男として戸籍には届けられた。しかし、純正には正妻うたを迎える前より、かつて前田家の女中をしていた加藤ゆきという女性と夫婦同然の生活をしており、ゆきとの間に二人の男の子(一人は生後すぐに死去)ももうけていたのである。特に二人目の男の子貞雄は、1879年(明治12年)4月2日に生まれている。純孝の生まれる1年前である。本来ならばこの貞雄が前田家の長男であったのだが、貞雄はゆきの私生児として届けられ、後にゆきの実家の加藤家の養子となり、加藤貞雄となる。この貞雄に対する前田家の差別的な扱いに対してのゆきの悲しみ、怒りが、晩年の純孝の不幸につながっていったと考えられる。

前田家の本家(増田家)は代々続いた庄屋で、純正の父佐五右衛門の代までは酒造業を営んでいた。当時は諸寄で2番目の五十石の酒造家であったが、純正が9歳の時父が死亡、祖母、母、叔父に育てられ、父の酒造業を継ぐのだったが、幼い純正には父ほどの才覚もなく、やがて家運は傾いていった。純孝が生まれた頃には、家業はすでに破産し、村の中心地より海辺まで続いていたという家、屋敷のほとんどが人手にわたっていたという。父は村役場の書記をしてわずかな収入を得ていたが、酒造業を何とか再建しようとして失敗。その時の借金もかかえており、苦しい生活にあえいでいた。そんな前田家の状況の中に純孝は生まれたのだった。

1884 (明治17年)

母 うた〈基幹集落センター資料室所蔵〉
母 うた〈基幹集落センター資料室所蔵〉

純孝が4歳になった時、母うたは純孝を残して実家に帰ってしまうのである。うたが去った後、ゆきが前田家に入り、純孝の世話をすることになったが、正式な後添えということではなく、戸籍には長く入籍してもらえなかった。

1885 (明治18年)

やがて1885年(明治18年)、純孝の異母妹ていが生まれ、1890年(明治23年)には千代も生まれたが、ふたりはゆきの私生児として届けられている。ゆきが正式に妻として入籍されたのは、千代が生まれて8年もたった、1898年(明治31年)のことだった。おそらく、てい、千代が年頃となり、就学、縁談などの問題が起きたためであろうと思う。

1887 (明治20年)

諸寄尋常小学校(明治時代)〈基幹集落センター資料室所蔵〉
諸寄尋常小学校(明治時代)〈基幹集落センター資料室所蔵〉

1887年(明治20年)、純孝は諸寄尋常小学校に入学し、5年後、ここを卒業する。5学年ずっと首席を通したという秀才であった。小学校を卒業した年に、鳥取県師範学校付属小学校高等科に入学。この学校には通うことが出来ないので、叔母(純正の妹)のもとに寄宿した。

1895 (明治28年)

1895年(明治28年)、高等科を卒業した純孝は諸寄に帰ってきて、龍満寺で寺子屋を開く。その傍ら勉強に励み、兵庫県准教員の免許を取得。翌年は諸寄尋常小学校に准訓導として1年間勤務する。

1898 (明治31年)

「明星」第一号〈監修者所蔵〉
「明星」第一号〈監修者所蔵〉

1898年(明治31年)、兵庫県尋常師範学校(後に御影師範学校と改称)に入学する。この入学を機に純孝の文学活動が、一気に開花していく。まず、寄宿舎内の文芸愛好者を募り、「みるめ会」を立ち上げた。俳句、短歌、短文などの作品の互選互評をつづけ、回覧誌を発行した。純孝は主に短歌を発表し、常にリーダー的存在であったという。ちょうど文学活動に熱中し始めた頃、与謝野鉄幹が雑誌「明星」を創刊した。(明治33年)
師範学校3年生になっていた純孝は、はじめて「明星」第一号を手にする。明星の歌風の新しさに衝撃をうけた純孝は、すぐさま「明星」に入会する。この年の「明星」第八号に純孝の短歌二首がはじめて載っている。「明星」に入会する前より、関西青年文学会の出す機関紙「新潮」にも投稿していた純孝は、そこの寄稿者であった、鳳晶子(のち与謝野晶子)、山川登美子らとすでに、交友があり、鉄幹もまた、関西青年文学会との交流をしばしばもつこととなり、そこで晶子、登美子、鉄幹の恋も生まれたのである。晶子、登美子のいる関西文学会が、「明星」の大きな協力団体となったことから、純孝もまた鉄幹、晶子らとさらに深い交流がうまれ、その後「明星」にとっぷりと浸ってゆくこととなるのである。

1902 (明治35年)

前田純孝(高師入学当時)〈基幹集落センター資料室所蔵〉
前田純孝(高師入学当時)〈基幹集落センター資料室所蔵〉
大塚音楽会〈葛原安子氏所蔵〉
大塚音楽会〈葛原安子氏所蔵〉

明治35年になると、純孝の短歌や詩文が一挙に「明星」の紙面をかざるようになる。まず一月には晶子の短歌に純孝が曲をつけた「楽譜とき紅」が、六月には長文「をしへご」が、七月には鉄幹との合作の長詩「子猫」が、十月には短歌、十一月には短歌と韻文朗読会短評、そして十二月には短歌と長詩「秋思」というように、純孝の作品が毎号のように数ページの誌面を占めているのである。鉄幹は純孝の才能を特に愛した。明治35年には、17歳の石川啄木が上京し「明星」に参加してきた。この二人の若い相似た詩才に期待を託し、ふたりを「明星」の左大臣、右大臣といって憚らなかったという。
1902年(明治35年)御影師範学校を卒業した純孝は、22歳になっていた。当然諸寄では、師範学校を卒業したら、郷里に帰り、教師となり、苦しい前田家を助けてくれるものと、一家をあげて純孝の卒業を待っていたのだった。しかし、純孝は帰ってこなかったのである。在学中の成績がとびぬけて良かった純孝は卒業に先立つ高師入学推薦会で、一番で選抜されていたのだった。そして、父に相談もなく、二月に入学試験を受けて東京高師へ合格していたのである。それを知って当然父は反対している。父の収入ではこれ以上純孝を上の学校へやることは無理であったし、また幼い頃より腺病質で身体が丈夫でない、純孝を心配しての反対であった。しかし、純孝は東京へ行きたかった。どうしても入学するといって聞かなかった。当時の最高学府である、東京高師への入学も勿論魅力であっただろうが、なによりも「明星」への魅力が大きかったのではないだろうか。
結局、純孝より一年先に御影師範学校を卒業し、故郷の小学校の首席訓導となっていた、異母兄の貞雄が援助することになり、純孝は晴れて東京高等師範学校に入学したのだった。お茶の水にあった寄宿舎にはいり、純孝の最も得意とする国語漢文部を専攻した。高師入学後の純孝の文学活動は、ますます拍車がかかり、目をみはるものがある。まず、寄宿舎の学生たちとともに「鼎会」を結成し、短歌の競作を載せる文芸回覧誌「曙光」を出した。この雑誌に力を注ぎ、明治39年の卒業まで休まずに出している。「明星」にも次々と作品を発表した。この年の十二月発行の「明星」第七号には、新詩社新年会の広告に会の首唱者の一人として、鉄幹、晶子らとともにその名をつらねている。この頃にはすでに「明星」の主要同人の一人となって、毎号の編集会議にも出ていたようである。
また、この年の八月には、鉄幹、児玉花外、平木白星らと「韻文朗読会」を結成している。この会は詩人、歌人、音楽家、劇作家などが加わり、文学としての韻文を音楽や朗読というパフォーマンスで演じるというユニークな活動であった。この活動の中で、詩人の平木白星と親しくなった純孝は彼の多くの詩に作曲している。特に白星とともに作った「機おり唄」は、当時の学生の間でよく歌われ流行ったという。また、バイオリニスト、幸田延、幸姉妹とも親しくなり、姉妹に指導してもらったのであろうか、純孝もバイオリンの独奏が上手であったようだ。この姉妹の両方より恋された純孝は悩み、友人に愛らしい悩みを打ち明けている。この姉妹は、当時日本を代表するバイオリニストであり、明治の文豪で知られるあの幸田露伴の妹でもあったのである。
また、「明星」の編集部に身をおき、鉄幹の片腕として、活躍していた純孝は、晶子を代表する「明星」の綺羅星のような女流歌人から、慕われていたようで、高師の後輩で後に生涯にわたっての親友となる、葛原しげるに、木箱いっぱいのラブレターを見せ、これを焼いたものかどうか、悩んでいると打ち明けている。この頃が、純孝の幸せの絶頂期だったといえる。

1903 (明治36年)

明治36年、純孝は高師の本科に進んだ。この頃、音楽好きの学生が集まり 「大塚音楽会」が発足した。純孝もすぐに会員になった。この「大塚音楽」会」は後の日本の唱歌や童謡の名曲を数多く生み出す原動力となった。同時 に、一流の詩人、歌人、音楽家の合作による、唱歌は、レベルの高い音楽として、全国の小、中学校に普及させる働きをした、画期的なものであった。 第一回演奏会では、純孝はバイオリン独奏し、「大塚音楽会」のテーマ曲も 作詞している。

1906 (明治39年)

前田純孝(教頭時代)〈「翠渓歌集」より 基幹集落センター資料室所蔵〉
前田純孝(教頭時代)〈「翠渓歌集」より 基幹集落センター資料室所蔵〉
諸寄集落センター前の歌碑〈監修者提供〉
諸寄集落センター前の歌碑〈監修者提供〉

「明星」での活動、「韻文朗読会」の活躍に加えてさらに「大塚音楽会」での音楽活動などに才能に十分に開花させた華やかな、夢のような時期もやがて終わり、1906年(明治39年)、純孝は高師を卒業した。そして、故郷には帰らずそのまま、大阪府立島之内高等女学校に赴任した。この学校長、伊賀駒吉郎は、御影師範学校時代の純孝の恩師であった。御影を一番の成績で卒業した純孝に早くから目をつけていたのである。高師を卒業したなら、自分の学校の初代教頭に純孝をと、再三勧誘していたのである。26歳の純孝には、月給26円、はじめから教頭職というのは破格の待遇であり、東京を離れたくないという気持ちを抑え、大阪へ赴任したのだった。
しかし、諸寄では前以上に純孝の帰りを待ちわびていた。明治37年に美方郡八田尋常小学校校長となった、貞雄は、すでに結婚し、一児ももうけ、一家の柱として勤務に励みつつ、前田家への援助、さらに純孝への仕送りもつづけていたのであるが、無理がたたり、明治38年には結核に倒れてしまったのである。大黒柱が病床の身となってしまった、前田家では今度こそ純孝に帰ってもらい、苦しい経済を支えてほしいという気持ちは切実なものであったのである。 ところが、純孝の赴任した女学校は、この年の三月に設立の許可を受けたばかりで、校舎は小学校を仮校舎として、天王寺に新校舎を建設する予定であった。赴任早々、仮校舎での授業を始めながら、新校舎建設にかかわる雑事や、学校経営に追われる日々となった。休日も出勤し、毎日毎日夜までにわたる会議がつづいた。短歌も作れず、詩作もできず、まして、諸寄の貞雄を見舞うことも出来なかったのである。
それでも、なんとか夏休みまで激務をこなし、はじめての夏休みには休暇をとり、諸寄に帰ることにした。当時、山陰線は和田山の新井までしか開通していず、新井からは馬車を雇うか、徒歩で帰るかしかなかったという。八鹿で一泊し、後はずっと徒歩で春木峠を越えていたが、激務の疲労に重ねて真夏の徒歩での峠越えに疲れ果てた純孝は、とうとう峠の頂上で倒れてしまう。荷車に乗せられ、峠の下の部落の親戚の家に運ばれそこの家で、約1ヶ月の病床生活を送るはめになった。この時の病名は肋膜であった。しかし、この時の病が、当時は不治の病とされていた、結核の序章となったのである。 浜坂の親戚の家で、寝たきりの病床の身となって、1ヶ月を過ごし、少し落ち着いた純孝は諸寄に帰ったが、父や、病床の貞雄の待つ実家ではなく、何故か実家の近くの花原熊平宅に部屋を借りて移り、そこでまた1ヶ月ほど療養生活を送った。
この時、長く病んで寝ている貞雄を見舞わず目と鼻の先に居ながら、実家に帰らなかった純孝の態度に継母と、貞雄は、傷ついたのであろう、この後、実家との溝がますます深くなり、貞雄と同じ病になって、今度は純孝が帰ってきた時、家庭の嵐の中に身を置くことになるのである。 約2ヶ月間静養した、純孝は大阪に帰っていった。職場にも復帰し、また多忙な日々に忙殺されていった。

1907 (明治40年)

諸寄集落センター前の歌碑〈監修者提供〉
諸寄集落センター前の歌碑〈監修者提供〉

瞬く間に1年が過ぎ、翌年の明治40年の2月2日、伊賀校長の媒酌で秋庭のぶと結婚した。秋庭のぶは、退役軍人秋庭守信の長女で、当時証に住んでいた。のぶは、物静かな貞淑な女性であったが、芯の強い面もあった。琴が上手で、書も人並み以上の腕前であった。ただ、身体はほっそりとしていて病弱そうな、美しい人であった。 新居は大阪市東区味原池畔の生垣に囲まれた落ち着いた二階家だった。周りは穏やかな田園風景が広がり、遠くには、生駒、葛城、金剛などの山々が望めた。
まずは幸せな新婚生活であった。
東京の華やかな、文学活動、音楽活動から離れてしまった寂しさはあるものの、静かな美しい妻との結婚生活に加えて、生き生きとした、若い乙女たちに囲まれての教師生活には今までに無い、充実感があり、幸福を心から実感できた時期ではなかったろうか。
しかし、故郷の諸寄では、長く病床にあった貞雄の命がとうとう、尽きてしまったのである。享年28歳であった。貞雄には、二人の男の子がいた。貞雄の死の7ヶ月前に生まれた次男の直孝は、父の顔も知らないまま、母の実家に養子にやられ、守安直孝として育つこととなった。この直孝が大きくなってから、純孝のことを知り、昭和19年に遺族としてはじめて純孝の歌碑を苦労して建てている。この歌碑が現在、諸寄の集落センター前に建っている最も古い歌碑である。

1908 (明治41年)

前田純孝(晩年)〈「翠渓歌集」より 基幹集落センター資料室所蔵〉
前田純孝(晩年)〈「翠渓歌集」より 基幹集落センター資料室所蔵〉
葛原しげる(大正8年)〈葛原安子氏所蔵〉
葛原しげる(大正8年)〈葛原安子氏所蔵〉

明治41年10月11日、長女美津子が生まれた。長女の誕生は、純孝をさらに有頂天にさせるほどの喜びではあったが、この喜びはすぐに暗雲をもたらし始めた。もともと病弱であつた妻のぶが産後の肥立ちが悪く、臥せってしまったのである。妻の看病に、赤ん坊の世話に、夜も眠れない生活がつづき、さらにこの年、建設中だった、新校舎の一部が完成し、移転作業がはじまり、いよいよ、学校の教頭としての仕事も多忙を極めるようになったのである。妻の症状ははかばかしくなく、そのうち扁桃腺炎も併発し、40度からの熱が続くようになった。妻の看病、美津子の世話、学校の雑務に追われ続けた純孝もまた無理を重ねてとうとう、翌年の2月には、校長室で倒れてしまうのである。今度ははっきりと、結核(当時は労咳といった)の症状であった。すぐに休職となり、しばらくは療養所、来鯨館に入所して静養するが、病状悪化し、6ヶ月後には退所して、明石の妻の実家に移り、妻と純孝が並んで病床の枕を並べ、その間に赤ん坊も寝かされるという、川の字になった、療養生活が始まったのである。
当時の肺結核といえば不治の病であり、再起の望みは持てなかった。やがて、教職も辞めなければならず、収入の道も途絶えた。妻の実家は、のぶの父の退役軍人の恩給で暮らしており、病人二人と赤子を養えるようなゆとりはなかった。生活に困った秋庭家から、追い出されるような形で、翌年の5月、やみ衰えた純孝は、ひとり、諸寄に帰ることになったのである。ふらつく身体で諸寄に向かった。途中までは舅が付き添ったが、城崎まで帰った時、高熱を発して動けなくなった。三木家旅館で三日間寝て、諸寄からの迎えを待った。漁船に乗って父が迎えにきた。舅は、父の純正とは顔も合わせず明石に帰っていった。 港に迎えた継母ゆきは、長旅と、病につかれきった哀れな純孝を見て、さすがに可哀想で、涙をこぼした。2年前に亡くなった実の子貞雄の姿と重なって見えた。しかし、純孝は、ゆきを見てもお世話になりますと、挨拶ひとつしなかったという。
帰ってみれば、実家の家は様相がすっかり変わっていた。純孝が育った家はすでに人手に渡り、ゆきの実家の軒端を借りて棲んでいるような哀れな暮らしであった。それというのも、父純正が、9歳で酒造業を継いだときには、すでに家運は傾き、大きな借金を残して純正の父は亡くなったのである。しかも、純正は祖母、母に甘やかされて育ったため、家運を盛り返そうと、努力はするのだが、才覚はなくかえって借財を増やしてしまったのである。今は、ゆきの実家のせわになり、働き者のゆきの力に頼って暮らしている状態であった。
その狭い貧しい家に、病人の純孝が帰ってきたのである。当然、ゆきの不満が爆発するようになる。ゆきの不満は、貞雄が苦労して死んでしまったのに、純孝には甘い夫の純正に向けられた。襖一枚へだてて、毎日毎夜、ゆきの怒り声が聞こえる。安静なんて、とても望めず、夜も眠れない。そんな窮状を純孝は高師時代からの親友、葛原しげるに手紙で訴えた。
当時、葛原は、豊島師範学校専攻科の教師となっていた。そのかたわら、雑誌「小学生」「少年世界」「幼年世界」の編集者でもあった。そのために、葛原は子供雑誌の編集部に顔がきいたのである。純孝の寝たきりの病人にもできる仕事を、との依頼に応えて、葛原は彼のあらゆるつてを求めて、純孝の仕事を探した。唱歌を作らせて「小学生」や、「帝国唱歌」「音楽界」などの雑誌に載せ、原稿料を送るようにした。また、佐々木信綱が主宰する歌誌「心の花」に、短歌や「山家集評釈」を載せてもらうように頼んだ。また、高師が発行していた雑誌「教育」にも、詩や短歌を寄稿させ、原稿料をもらえるように働きかけた。
こうした葛原の動きで、純孝は寝たきりの重い病の身で、おびただしい数の短歌、唱歌、詩、評論などを書き、葛原に送った。葛原は、それらを発表し、原稿料を送った。父の村長の給料が12円であった頃、時には、20円もの原稿料を葛原は送っている。
しかし、多くの原稿料が届くようになった純孝の態度が、まるで殿さんのように偉そうにしていると言って、ゆきの神経にさわり、より険悪となってしまうのである。とうとう、ゆきの世話になるのは限界となり、この年が明けてまもなくの1月19日、前田家の下僕であった、前田忠一の家に移るのである。忠一の家とて、貧しく、狭い家(六畳、六畳、四畳半、三畳)の平家建てであった。そこに、純孝の乳母であった、ふよ、忠一夫婦、その子供ふたりが肩を寄せ合って暮らしていた。一番ましな部屋の六畳に、純孝は、寝かされた。母に捨てられた幼い純孝を、母親がわりに育てたふーばあやは、変わり果てた純孝を見て、泣いた。そして、自分の幼い孫二人よりも、心を尽くして看病をした。まるでこの家が、本当の実家のように純孝は感じられた。やっと心の平安を得られた純孝は、長い、長い唱歌を書き、日記を書き、短歌を一晩に、20首も30首も書きなぐった。しかし、病は確実に進んでいた。だんだん葛原への手紙の文字が乱れ、封書がはがきとなっていった。

1911 (明治44年)

そして、9月25日、午前4時35分、純孝は静かに眠った。享年31歳であった。枕もとには、乱れた字で短歌が4首ほど書かれていた。
七八人いろり囲みて夕餉する我ならぬ人の頬のふくらみ
窓近く鶯鳴けば都鳥しばし啼きやむ六月(あとは空白)
何故になほ生くべきかかかること思ひつつありとぶ蝿を見て
風ふけば松の枝なる枝なれば明石を思ふ妹と子を思ふ
遺詠となった最後の歌、風ふけば、、、、のうたは、鳥取県との県境の浜坂町居組の峠に歌碑となって、浜坂の海を見下ろしている。

第二章純孝の歌碑めぐり

集落センター
「まごころの光れる歌を猶よめば 伝へて久し若き純孝」
                                    −与謝野寛 「鶏のこえ朗らにひびく春の日に 光のどけき桃の一村」
                                    −翠渓
「まごころの光れる歌を猶よめば 伝へて久し若き純孝」
与謝野寛
「鶏のこえ朗らにひびく春の日に 光のどけき桃の一村」
翠渓

昭和19年5月、加藤貞雄の二男、守安直孝によって、前田家の墓地に建てられたが、墓地の移転によって、旧浜坂町諸寄白山山頂に移された。 そして今は純孝の資料室のある、諸寄集落センターの前に建っている。
直孝は、純孝の甥にあたる人であるが、純孝の生涯の章でみたように、父貞雄の死去の年に生まれたため、父の顔も知らず、叔父の純孝も知らずに育ったが、純孝の父、純正が 長く生きていたため、長じて祖父より純孝の話を何度も聞き、純孝の才能を惜しみ、彼の歌碑を建てることを思いついたという。 自分の私財を投げ打ち、東京へ行き、直接与謝野寛に依頼して、短歌を書いてもらい、また高師の純孝の同窓生をさがして若き日の純孝の短歌を書いてもらい、与謝野寛の自筆のうたと併刻して作った。後に純孝の歌碑が次々に建てられることになったが、遺族が建てた唯一つの歌碑である。最も貧しい、物のない頃に歌碑を建てることは、大変な苦労であったにちがいない。 皮肉にも純孝は、継母ゆきを嫌って、自分の不幸の源のように嘆いているが、そのゆきの子、貞雄の援助を受けて才能を開花させることが出来、また、ゆきの孫によって、純孝は顕彰されていったのである。

春来
牛の背に我も乗せずや草刈女 
                                春来三里はあふ人もなし
牛の背に我も乗せずや草刈女
春来三里はあふ人もなし

昭和42年3月、旧村岡町の春来峠に建てられた。旧村岡町と旧温泉町が、国道9号線の開通を記念して建てたものであるが、現在はこの峠の下にトンネルが開通し、このくねくねと曲がった峠道を通る車はほとんどない。せっかくの歌碑も今はほとんど見る人もなく忘れられている。
また、このうたは純孝が東京高師3年生のとき、郷里に帰省した折のうたである。最も輝いていた頃のうたではあるが、この折の帰省を最後に故郷から足が遠のき、つぎにこの峠を越した折には、頂上にて倒れてしまい、荷車に載せられて超えてゆくことになるのである。

諸寄浜
  いくとせの前の落葉の上にまた 
                                落葉かさなり落葉かさなる
いくとせの前の落葉の上にまた
落葉かさなり落葉かさなる

昭和44年11月、諸寄岡の浜に建てられている。地元の西川甚五郎氏を中心として生まれた、前田純孝顕彰会が建てたものである。諸寄岡の浜は、その昔西行法師が「見渡せば沖に絹巻千歳松浪もろよせの雪の白浜」と詠んだことで有名な、美しい海岸である。その海岸の中央に海を背にして白く、背の高い歌碑が建っているのであるが、歌碑にしてはひどく背が高く目立つものである。昭和59年頃に、NHKドラマ「夢千代日記」が放映されたが、大変好評で、新夢千代日記をつくることになった。早坂暁氏は構想を練るためこの岡の浜を訪れた。ふと白い美しい形の歌碑が目に留まった。そして、純孝の寂しいこの歌碑のうたにこころを奪われ、新夢千代日記に純孝を登場させ、純孝の短歌も15首ほど、テロップで流したのである。すると、純孝の歌集が読みたいという、約三千人もの問い合わせが殺到したという。これを契機に諸寄では、埋もれていた純孝の歌集を複刻したり、資料室を整備したりしたという。

居組
 風ふけば松の枝鳴る枝なれば 
                                明石を思ふ妹と子を思ふ
風ふけば松の枝鳴る枝なれば
明石を思ふ妹と子を思ふ

昭和47年3月、旧浜坂町居組浜の七坂八峠の頂上に建てられた。純孝の遺詠の一首である。また、このうたは明石の忠度公園にも平成15年に、「前田純孝の会」と、明石市の協力によって建てられている。 この歌碑は最初は居組浜を見下ろす海沿いに建てられていたが、現在は汐吹岬公園として整備され、公園の中央に移されている。書は当時の兵庫県知事坂井時忠氏が刻んだ。

以命亭
 磁石の針ふり乱さんは無益なり 
                                磁石はつひに北を指す針
磁石の針ふり乱さんは無益なり
磁石はつひに北を指す針

1994年に、私の「つひに北を指す針-前田純孝の世界」が出版されると、旧浜坂町-(現在は新温泉町)-より、前田純孝短歌賞の全国公募をやりたいのだがという相談を受けた。純孝顕彰を町全体で取り組むというのである。これほど嬉しいことはなかった。この年以後、10年間、途切れることなく純孝賞は実施され、年毎に応募も増え私も選者のひとりとして出来うる限りの協力をしてきた。そして、10年間の幕を閉じることになったのである。(学生の部のみは続けている。)純孝賞が10年続いた記念碑として、このうたと純孝の写真が刻まれ、裏には、これまでの受賞者の名も刻まれた。

第三章純孝の唱歌の世界

葛原しげると前田純孝

葛原しげる(高師)〈葛原安子氏所蔵〉
葛原しげる(高師)〈葛原安子氏所蔵〉
前田純孝(高師入学当時)〈基幹集落センター資料室所蔵〉
前田純孝(高師入学当時)〈基幹集落センター資料室所蔵〉

純孝の死後、2年が経った大正2年8月15日、親友葛原しげるの奮闘によって純孝の遺歌集「翠渓歌集」が出版された。高師の発行する雑誌「教育」が発行母体となった。この「翠渓歌集」が純孝の生涯の唯一の歌集となったのである。千部が発行され、またたくまに売り切れた。印刷費(二百四十一円二拾銭)を引いた残額十七円四十五銭は遺児美津子の教育資金に預入されたと、大正4年1月の「教育」に報告されている。出版当時は、遺歌集に対する反響も大きく、また純孝への同情も集め、葛原は増刷を計画していたらしいが、それはなされず時代は大正時代へと移り、新しい文学運動がおこってきた。明治の末期に亡くなった、悲運の歌人、前田純孝の名もやがて忘れられてしまったのである。 時代が純孝を忘れさせても、その名を生涯にわたって忘れないで生きた人がいた。「翠渓歌集」を世に出した、童謡作家葛原しげるその人である。
葛原しげるは、明治37年、東京高師に入学。弓町の寄宿舎より、大塚の学校へ通った。純孝はその時高師の本科に進んでいた。しげるより三年先輩であった。学年も専攻も(しげるは、英文学専攻)違っていたが、しげるの方は通学の行き帰りに「・・・その中に、貴公子然とした美男があった。輝く瞳、あかい唇、そしてその鷹揚な歩みぶり。時には快活に、いつも笑をもって、きっと一人か二人かと、話しながら行くのを聞いて、その声の美しさなどに、忘られぬ一人があった。・・・・」と早くから、純孝を見つめていた。やがて「大塚音楽会」に入会したしげるは、その会の先輩でもあった純孝と親しくなるのである。「・・・正午の大食堂で、オルガンで六段を弾くものがある。巧に弾く。明け暮れ、琴の中に大きくなった私は、オルガンで六段をきくのを、珍しく喜んだ。・・・その時の六段は、すらすらときれいに弾かれた気持ち良さ。立ち上がってみると、それは翠渓兄であった。」-「翠渓歌集」あとがきより-

大塚音楽会〈葛原安子氏所蔵〉
大塚音楽会〈葛原安子氏所蔵〉

しげるは、明治19年、広島県深安郡神南辺町八尋に生まれた。家は代々庄屋をつとめた旧家である。しげるの祖父、矢田重美(文化9年-明治15年)は、3歳で失明、琴を幼い頃より学び、その技をみがき、15歳の時には、公当(琴奏者の上位の位)となり、三備地方に生田流を広めた人であった。父の二郎は、生涯その公当の家を守り、しげるの姉二人も琴の名手であった。しげるも幼い頃より、姉の教えを受けて琴に親しんで育ったのであった。
そうしたしげるが、オルガンで六段をすらすらと弾く純孝に、ますます尊敬の念を深くしていったことは、容易にうなずけることである。「大塚音楽会」での音楽活動で、二人は親交を深めていった。そのうち音楽だけではなく、しげるの学友が純孝の友人でもあったことから、純孝が「明星」の有名な歌人であることを知り、しげるも短歌に関心を寄せ「明星」を読み、自分でも純孝の短歌を真似て作歌するようになった。
短歌にあまりに没頭するようになったので、しげるの学友は心配し、純孝は専門でもあるけれど、しげるはもっと専門の英文学に没頭せよと、忠告したほどであった。しかし、しげるは純孝がしげるの短歌の添削をしてくれるのが嬉しくて、30首、40首と作っては、純孝にみせるのだった。また、「大塚音楽会」の二回目の演奏会にはしげるも参加している。以後、音楽の作詞、作曲、演奏にも並々ならぬ才能を持つ純孝への尊敬はあつく、この時期の友情が純孝の晩年の困難な時期に援助の手を差し伸べ続けさせたのである。
晩年、純孝が病を得て故郷に帰り、貧困と家庭の不和の中でも短歌を作り、唱歌を書き、それらの原稿料によって自分を養い、最後まで誇り高く生きられたのは、すべてしげるの力によるところであると思う。

前田純孝(晩年)〈「翠渓歌集」より 基幹集落センター資料室所蔵〉
前田純孝(晩年)〈「翠渓歌集」より 基幹集落センター資料室所蔵〉
葛原しげる(大正8年)〈葛原安子氏所蔵〉
葛原しげる(大正8年)〈葛原安子氏所蔵〉

また一方、しげるは高師卒業後、学校の先生をしながら、子供向けの雑誌「小学生」「少年世界」「幼年世界」の編集者としても活躍するようになり、それらの雑誌に、純孝の作詞した唱歌を載せては、原稿料を送り続けたのであるが、自分も毎月唱歌を書いては発表していたのである。しげるは学校の教師もしており、教育熱心な、また大変に子供好きな教師でもあった。そのためか子供の目線にあった、たいへんわかりやすい唱歌を作った。それらの唱歌は、学校の音楽の教科書に載るようになり、全国の学校で歌われるようになったのである。当時は、子供向けの歌が少なく、子供の心に添った歌はさらに少なかったため、しげるの歌は、当時の子供たちに熱烈に歓迎された。もっとも多く子供たちに歌われたのは、葛原しげるの唱歌だったのである。
大正、昭和の初め頃には、北原白秋、野口雨情と人気を三分する、日本を代表する三大童謡作家(唱歌といわれていた歌は大正の中期に、童謡といわれるようになった)といわれるように人気を博していた。生涯にわたって、約千二百編におよぶ童謡を作った。また、全国の学校の校歌、学園歌、社歌、なども多くてがけ、それらも合わせると三千編にも及ぶと言われている。さらに童謡のみでなく、大正6年、23歳の無名の宮城道雄(明治27年、神戸に生まれる)と出会い、彼を箏曲界の第一人者となるまで全面的協力をおしまなかった。彼のために箏曲の作詞の童曲も数知れずあり、これらを合わせると四千編にもなるといわれている。
なかでも、広く歌われたのは、「夕日」-(ぎんぎんぎらぎら夕日がしずむ・・・)「さくら」-(さいた、さいた・・・)「電車」-(チンチン電車がうごきます)「お客様」-(ごめんください花子さん・・・)「とんび」-(とべとべとんび・・・)「羽衣」-(あれ天人は羽衣の・・・・)「月夜」-(月は空にかかりて・・・)「村祭り」-(村の鎮守の神様の・・・)などがある。
しげるが、これほど多くのヒット曲を世に送り出せたのは、大正時代という時代背景も大きく作用している。純孝が病の床で書いていた唱歌は、当時、自由に発表できなかったという。出来た作品は、歴史専門の博士が検閲し、不適切な言葉などを全部書き直しさせたという。しげるは、「歴史学者に韻のことなどわかるか」と、純孝が怒るのを承知で、書き直しさせたという。このような狭い、窮屈な時代での唱歌つくりであったため、純孝の唱歌は当然、しげるのような自由な言葉で、のびのびとした子供の心に添ったものではなかった。そのような状況のなかでも、しげるに励まされ、励まされつ、唱歌を作って命を支えていった。「帝国唱歌」のなか、「元寇」「謙信」などの長い長い唱歌をつくり、小学生向きには、「氷売」「砂漠の歌」を作ったが、どれも曲がつけられず、広く歌われることはなかったという。
しかし、純孝の死の少し前に「広瀬中佐」という歌を作り、しげるに送っている。このうたは、純孝の死後、全国的によく歌われていった、今でも唱歌、童謡史に残る名曲となっている。
病床の苦しい息の中から、純孝は外国の曲に作詞した歌が多数あるので、それを集めて「前田純孝唱歌集」を世に出してもらえないかとしげるにたのんでいるが、これも純孝の死が早く、世に出すことができなかったという。
しかし、平成12年(2000年)になって、読売新聞に大きくつぎのような記事が出た。「作者不詳の文部省唱歌『とけいのうた』浜坂町出身の明治の歌人、前田純孝が作詞。・・・・」という記事である。

とけいのうた
一、とけいは朝から、かっちん、かっちん
おんなじ響きで動いておれども
ちっともおんなじ所を指さずに
晩までかうして、かっちん、かっちん(以下略)

この歌は、明治44年に刊行された「尋常小学唱歌・第二学年用」に載った。そして、当時の小学生によく歌われた歌である。この当時は、教科書には文部省唱歌として載り、作者名は記載しないことになっていたため、長く純孝の作であることがわからなかったのである。このことから、よく歌われた唱歌に、まだまだ純孝の歌が眠っている可能性は大であると思える。
前記でも引用したように、純孝は本当は唱歌作家をめざしていたのではないだろうか。
何故なら、唱歌の原稿料で医師にかかり、薬を買うことが出来、不和な親からも誰の援助も受けず、病の身を養って命の尽きるまで唱歌を書き続けていたからである。短歌も日記の中に多くかいているが、それは自分を慰めるためのものでしかなかったのではなかろうか。
「前田純孝唱歌集」を出したいというのはその気持ちの現れと思えるのである。
高師時代に「大塚音楽会」の立役者となって、音楽活動を華々しくやっていた頃、すでに純孝は平木白星と組んで「機織り唄」という歌のヒットを出している。この歌は、当時の学生の間で愛唱歌となっていたという。また、当時は外国の曲に作詞するのがはやり、純孝もハラー作曲に歌詞をつけた「鶯のうた」を発表した。この歌も当時の女学生の間でおおいに歌われたという。
また、軍歌をこぞって作っていた頃である。もっともよく歌われたのは、神保格が作曲、純孝作詞の「戦場の跡」であり、モーツアルトの子守唄の譜に作詞した「春のしらべ」が良く流行ったという。このほか純孝が作った唱歌は30数編があり、このうち、「鶯のうた」「あらしの曲」「落花」「垣根の薔薇」「春の怨み」「ゆうべの夢」「初日のうた」は「中等教育唱歌集」(明治40年刊)に収められている。また、「女学唱歌集」(明治43年刊)には、純孝の作「運動会」「同窓会」の2編が収録されている。
もし、純孝にもう少し命があったなら、大正時代、昭和にかけて、しげると共に、切磋琢磨し、唱歌、童謡作家として、しげるの名の横に並んでいたであろうと思えるのである。
純孝の死後、2年を経て葛原しげるの奮闘により、純孝の遺歌集「翠渓歌集」が出版された。この歌集は音楽界、歌壇はもとより教育界においても広く読まれ衝撃をあたえるものであった。しげるは歌集出版のみならず、純孝追悼出版記念会も開催している。与謝野鉄幹、平木白星らを講師に呼び、高師の講堂に、入りきれないほどの人々が集まったという。
その後のしげるは、まるで純孝の意志を継ぐもののように、高師卒業後(明治41年)東京九段精華学校初等科の訓導をしながら、唱歌をつぎつぎと発表していった。それらは、「第一童謡集 白兎と木馬」大正11年刊(99編所収)、「第二童謡集 こんころ踊り」(大正12年刊 66編所収)、「第三童謡集 かねがなる」(大正14年刊 99編所収)、「第四童謡集 葦の笛」(昭和3年刊 80編所収)、「第五童謡集 葛原しげる童謡集」(昭和10年刊 188編所収)にまとめられている。
しげるはその生涯にわたって、教育者として子供の教育にたずさわり、童謡をとおして子供たちに「ニコニコ、ピンピン」として生きるよう教え続けた。子供たちからも、教師たちからも、しげるは「ニコピン先生」と呼ばれ、愛されたという。
晩年、しげるは風呂敷にひと包みの原稿を抱えて、歌人木俣修の家を訪ねている。高師の後輩であり、歌人である木俣の手で、「前田純孝全歌集」を出して欲しいという依頼であった。いつかは、純孝の唱歌、短歌を集めて全集を出したいと、純孝の遺稿を持ち続けていたのであるが、余命いくばくもないまで歳を重ねてしまったので、今をときめく歌人の手でどうかして純孝の才能を今一度、世に知らしめてくれないかと話して風呂敷包みを置いて帰ったという。そしてその後しばらくして、純孝と友情をあたためた、東京高師を訪ねた際、その校庭で倒れてしまうのである。(昭和36年12月7日)享年75歳であった。

諸寄基幹集落センター資料室

前田純孝の故郷、新温泉町諸寄にある基幹集落センターでは、2階の資料室に地域の歴史・文化・先人の資料を収集・展示している。
資料室には、遺稿や「翠渓歌集」「明星」などの前田純孝資料もその一部として展示されています。

諸寄基幹集落センター資料室
諸寄基幹集落センター資料室
場所
〒669-6753 兵庫県美方郡新温泉町諸寄739-1 JR諸寄駅下車、徒歩5分。
休館日
水曜日
問い合わせ
要予約。
電話0796(82)5233 諸寄基幹集落センター
監修者から

監修者より


かつて「明星」華やかなりし頃、その主宰者である、与謝野鉄幹、晶子より「明星」の左大臣、右大臣と称され、その将来を嘱望されていた若い、才能豊かな二人がいた。
ひとりは石川啄木、もうひとりが、前田純孝(号は翠渓)である。ふたりの歌人のたどった短い生涯は、あまりにも酷似していた。しかし、啄木についてはその名は現在も多くの人々の口に呼ばれ、啄木の残した短歌は今も愛唱されつづけている。一方の純孝については、彼の死後すぐに忘れ去られてしまったのである。啄木と同様の才能を有しながらも、また、「明星」の初期においては鉄幹の片腕として、啄木以上の活躍を見せながらも、但馬の僻村に埋もれてしまった純孝は、あまりにも、短歌史において不公平な評価をされてきたのではないだろうか。 啄木が左大臣ならば、純孝は右大臣としての平等の評価を与えられるべきである。この思いは、同じ但馬人として、歌人の道を進む者として、長くわたしの心を占めてきた思いであった。
純孝を知ってから、この思いはますます強くなり、1988年、評伝「落葉の賦-前田純孝の生涯」を出版した。
ついで、1994年、評伝「つひに北を指す針-前田純孝の世界」を出した。そして、三冊目の評伝「前田純孝と葛原しげる」を2002年に出版。なんと、20数年もの年月を純孝研究に費やしてきたことになる。しかし、まだまだ、啄木と同等の知名度は与えられていない。
その三冊目の本「前田純孝と葛原しげる」を出版して間もなく、葛原しげるの遺族より、手紙が届いた。葛原の遺族の家に今も純孝の資料や、原稿などが大切に保管されているとのことだった。その家を訪問して見せてもらったが、ダンボール一箱に大切そうに、純孝のあらゆる遺稿が保存されていたのである。
古びた箱の上には葛原の字で「貴重」と書かれていた。
おそらく、葛原は「前田純孝全集」を自分で出すつもりでいたのであろうと思われる。今、私は、四冊目の本にかかっている。葛原の残した、前田純孝遺稿集のそのほとんどを紹介した葛原しげると前田純孝の友情についての本にしようと思っている。
なんとも魅力の尽きない前田純孝であることか、と思う。
この度はネットミュージァムにて、純孝を取り上げてもらえることになり、さらに純孝に光が当たる機会となってくれればこんなに喜ばしいことはない。

作家・歌人 有本倶子
協力者一覧

「前田純孝」監修・協力一覧

■監修者

有本倶子

■協力者 (アイウエオ順)

葛原眞

葛原安子

新温泉町

新温泉町諸寄区長

前田純孝の会

諸寄基幹集落センター

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