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谷崎潤一郎館

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谷崎潤一郎と阪神間

明治・大正・昭和、3つの時代を生き、独自の美学を貫いた作家谷崎潤一郎。 彼が豊饒の時を過ごした阪神間時代にスポットを当て、その生涯、残した作品、阪神間での足跡をご紹介いたします。

人と文学

1歳の谷崎潤一郎
1歳 1886年 明治19年

生い立ちから学生時代

潤一郎は明治19年、東京日本橋に生まれた。優しい母、裕福な生活に恵まれたが、やがて家は零落。苦学の日々を送った彼は、不安のうちに文学の道を歩み始める。エリートの道を捨てての大きな賭けだった。

25歳の谷崎潤一郎
25歳 1910年 明治43年

文壇デビューと関東時代

明治44年、反自然主義の旗手として華々しくデビュー。耽美的な作風は「悪魔主義」として人々を引きつけた。しかし、すぐに活動は停滞し、破滅的な放浪生活を送る。30歳で結婚するが、やがて有名な小田原事件へと発展する。

38歳の谷崎潤一郎
38歳 1923年 大正12年

阪神間、新たな美の発見

大正12年、関東大震災を逃れ阪神間に定住。阪神間の温厚な気候や文化は彼の意識の変化を促した。運命の人、松子との出会いを通じて古典的な美を発見。戦時下において珠玉の名作へと結実した。

61歳〜80歳の谷崎潤一郎
61歳〜80歳 1946年 昭和21年

晩年、死とエロスをテーマに

60歳で終戦を迎えた潤一郎。高血圧や狭心症といった肉体の衰えを感じ始めながらも、旺盛な創作意欲で「老人の性」をテーマに創作活動を続ける。死とエロスを見据えた作品は海外からも高い評価を受けた。

谷崎作品へのいざない

刺青

『刺青』

明治34年11月号「新思潮」

痴人の愛

『痴人の愛』

大正13年3月4日〜6月14日「大阪朝日新聞」大正13年11月号〜大正14年7月号「女性」

卍

『卍』

昭和3年3月〜4年4月、6〜10月、12月〜昭和5年1月、4月「改造」に発表

蓼喰ふ蟲

『蓼喰ふ蟲』

昭和3年12月~4年6月「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」に連載

春琴抄

『春琴抄』

昭和8年6月「中央公論」

猫と庄造と二人のをんな

『猫と庄造と二人のをんな』

昭和11年1・7月号「改造」

細雪

『細雪』

昭和18年「中央公論」に連載し始めたが軍隊より弾圧。23年、全三巻を中央公論より刊行した。

鍵

『鍵』

昭和31年1月、5月〜12月「中央公論」

瘋癲老人日記

『瘋癲老人日記』

昭和36年11月〜37年5月「中央公論」

『刺青』あらすじ

江戸時代、もと浮世絵師であった刺青師の清吉には、ある宿願があった。それは美女の肌を得て思うままの構図で刺青をしてみたいというもの。長い間さがしあぐねて、ようやくその理想の娘にめぐり合う。こわがる娘を「己がお前を立派な器量の女にしてやるから」と薬をかがせて眠らせ、一晩かかってその背中に女郎蜘蛛の刺青を彫る。夜明け、眼が覚めた「娘」は色揚げに
湯に入るときに「悲惨な態を男に見られるのがくやしいから」と清吉をつきのける。二階で待っている清吉のもとに「女」は洗い髪を両肩にすべらせ、うって変った姿で現われる。「お前さんは真っ先に私の肥やしになったんだねえ」と勝ちほこったような声でいう女に、清吉は「もう一遍、その刺青を見せてくれ」と懇願する。
注目のポイント
作品が発表された明治43年11月は、まさに自然主義文学全盛時代で、リアリティ(本当らしさ)が作品の価値を左右していた。そんな中で『刺青』はまったく当時の文壇に受け入れられなかったのである。これを評価したのは洋行帰りの永井荷風で、その絶賛により谷崎は一躍文壇の寵児となり、まさに反自然主義の旗手となった。しかもこの『刺青』こそ実質的な彼の処女作であり、その名にふさわしく谷崎文学の核であるモチイフがもっとも原初的な形で現われている。すなわち ①男が妖婦的要素を持つ女を見出す。 ②男が女を妖婦に変貌させるべく教育する。 ③女が期待通り見事に妖婦に変貌する。 ④女が男を捨てようとするが、男が跪く。 まさに谷崎潤一郎は生涯をかけてこの四階段の男と女の変貎を手を変え品を変えて書き続けた、といっていいだろう。

『痴人の愛』あらすじ

大正末期、電気技師の河合譲治は、従来の結婚制度に飽き足らず、自分の気に入った自由な結婚形態をとりたいと思っていた。そんなとき浅草のカフェで働く奈緒美という16歳の娘が気に入り、本人と親の承諾を取って引き取り、彼の理想の女にするべく教育をほどこしていった。ナオミと言い習わし、日本人ばなれした肢体を持つように洋風の生活習慣取り入れ、教養をつけさせて自信を持たせていったのだ。ナオミは肉体的には譲治の期待通りに成長するが、精神的にはかえって失望する部分もあったが、
引き取って一年たって肉体関係を持ち実質的な夫婦となってからは、その肉体のとりこになっていく譲治だった。ナオミはそのうち慶応の学生たちと浮名を流すが、問いつめる譲治に噂を否定する。しかし鎌倉の海に海水浴に行ったとき、疑惑が事実であることがわかる。複数の男と関係を持っていることを知った譲治はナオミを追い出す。だが追い出した直後から絶望と喪失感に襲われる。数ヵ月後それをみすかしたかのように再び譲治の前に姿を現したナオミ。譲治は全面降伏をしてナオミのわがままに服従する一生を選択するのだった。
注目のポイント
前期作品の集大成。『刺青』の項であげた四段階の男と女の変貎が、もっとも具体的に作品化されている。この作品はまた、潤一郎の最初の妻千代の妹、せい子とのいささつがもとになっている。関東大震災で、関西に避難した谷崎が書いた最初の小説であり、朝日新聞に掲載された当初から、大変な評判を呼び、ナオミズムなどという流行語も出現した。モボ(モダンボーイ)、モガ(モダンガール)という言葉に代表される東京を中心とした若者風俗が、震災のせいで阪神間に浸透していくのと同時進行であった。ここに描かれる男女の生態は70年以上たった21世紀の今日ですら、そんなに違和感なく伝わるところに谷崎文学の先見性があると言っていいだろう。

『卍』あらすじ

柿内園子の告白によると、阪神間の香櫨園に住む、有閑夫人の彼女は、退屈しのぎに行き始めた天王寺の女子技芸学校で、船場の羅紗問屋の娘、徳光光子を知り惹かれる。周囲が噂をたてたことからかえって二人は急速接近。夫と肉体的にしっくりいっていなかった園子は、光子一途になる。そんなある日光子に綿貫(わたぬき)という恋人がいることを知って園子は嫉妬するが、彼が性的不能者だと聞かされて複雑な思いを抱く。やがて綿貫は園子に近づいてきて、光子をめぐって二人で不可侵の「契約」をしようともちかけてくる。
証文に判をつき、それが夫に知られることになった園子は綿貫の卑劣さに憤りながら追いつめられて光子とともに出奔、狂言心中を図る。園子は薬からさめきらぬもうろうとした意識の中で光子と夫が関係するのを見たように思う。夫の奔走で綿貫との関わりは金で解決がついたが、以来光子に溺れこんでしまった夫と園子と光子の三人の、出口のない愛憎図が繰り広げられる。そんなとき、綿貫が一部始終を新聞社に持ち込んで世間に知れるところとなり、三人は再度心中を図る。だが一人生き残ってしまった園子は、自分一人だけが計られてあとに残されたのではないかとの猜疑心から後を追えないでいる、という。
注目のポイント
三つ巴ならぬ四人の関係は四つ巴、卍どもえというべきか。卍は太陽を象徴し、宗教的には吉祥のシンボルとされる。この作品は、神戸市(現)東灘区岡本の家で書かれたが、その家は阪神間で唯一谷崎が自分でデザインした家で、戸や建具にはふんだんに卍模様がほどこされていた。この家には、のちの松子夫人を初めとする芦屋や岡本の有閑マダムが集い、サロンの役割を果たしていたらしく、谷崎は彼女らの風情や姿態を観察して、この作品の構想を得たと思われる。 最初に発表されたとき、「卍」は標準語で書かれていた。しかし阪神間女言葉が主人公二人の女性にふさわしいと考えた谷崎は秘書を雇って、第三回目から書き直し、単行本にするときに、全部を阪神間女言葉に書き換えた。 ところで、その岡本の家は平成7年の阪神大震災で全壊したが『鎖瀾閣(さらんかく)』と名づけられて、復元活動が続けられている。

『蓼喰ふ蟲』あらすじ

義父の誘いで弁天座に文楽を見に行く要(かなめ)と美佐子は、かなり前から夫婦間がしっくりいっておらず離婚も考えているが決心がつかない。良妻賢母型の美佐子ではあるが、女は神か玩具かどちらかでなければと思う要にとって、彼女はそのいずれでもなく、退屈な存在なのである。美佐子には要がそうしむけた阿曾という恋人がいる。 そんな折、美佐子の父とその若い妾お久の淡路島遍路に付き合うことになった要は、文楽人形発祥の地で、古の美の典型として惹かれていた没個性的な「人形」の姿そのものに深い感銘をうける。
そして義父の意志のまま動く人形のようなお久に興味を持つ。淡路島からの帰路、神戸の娼館を訪れた要は、なじみのルイズに会うが、お久とは正反対の、西洋的で個性的な典型を前にして、二極の間を揺れ動いている自分を認識する。 離婚問題を聞きつけた京都の義父の家で、父娘が発ったあとお久と二人きりにさせられた要は、まるで新婚であるかのような不思議な気持ちに酔うのだった。
注目のポイント
『蓼喰ふ蟲』は、要の洋風趣味が、美佐子の父とお久との交流によって和風趣味へと変わっていく物語である。そしてそれはとりもなおさず西洋趣味であった谷崎潤一郎が、関東大震災を契機に関西に移住し、阪神間が気に入って永住の意志を固めるようになったころから、古典趣味、和風趣味へと変わっていく姿と重なる。 この作品は毎日新聞の夕刊に連載されるのだが、当時芦屋に住んでいた小出楢重が挿絵を担当した。そして潤一郎はその挿絵に触発されてシーンの展開を変化させていったようだ。物語と挿絵の見事な二人三脚と言えよう。 また、要と美佐子をめぐる離婚の悩みは、当時の妻である千代と潤一郎の十年越しの悩みであった。この作品が書かれて一年後、例の「妻譲渡事件」が新聞をにぎわすことになる。
『蓼喰ふ蟲』

『春琴抄』あらすじ

大阪道修町の薬問屋の娘、鵙屋琴は、9歳のとき眼病のため失明。音曲の才能を持ち、三味線に長けていたが、わがまま勝手に育っていた。4歳年上の丁稚、温井佐助は初め春琴の手びきだったが、彼女を慕って三味線を稽古し、やがてその熱情が買われて春琴に教わるようになった。 16歳になった春琴は妊娠するが、相手が佐助であることを頑として否定し、生まれた子供は里子に出される。
二人を思いやった両親は春琴に別宅を構えてやる。彼等は夫婦同然の暮らしをしながら表向きはあくまで師弟、主従の関係をくずさなかった。 春琴37歳のとき、寝ている間に何者かに顔面に熱湯を浴びせられて大やけどを負う。春琴の悲嘆を察し、思いあぐねた佐助はその顔を見ないよう自ら目をついて失明する。佐助は己の観念の中にいる春琴の面影を抱いて、春琴が53歳で死ぬまで献身的な愛をつくした。
注目のポイント
やけどを負って変貌した醜い顔を見られたくない春琴の気持ちをくんで、佐助は目を突いた。愛する人のためにそこまで出来るか? 衝撃的なこの恋愛物語の解釈をめぐり、昭和57年を境に、騒然たる論争が戦わされた。「お湯をかけたのは他ならぬ佐助である」という佐助犯人説がその発端だ。以後、春琴は佐助の犯行を前もって知っていたとする黙契説、いや春琴自身がお湯をかぶった、とする春琴自害説まで飛び出し、収集がつかなくなった。平成に入り、原点に立ち戻ろう、作品を虚心で読もう、という気運が高まってなんとか収まりがついた。 確かに、愛する人の美貌を永遠に留めておきたいという恋人のエゴイズムが、この作品の原点にあるが、読みはこうでなければならない、と言うものでもなく、さまざまな可能性を秘めているからこそ面白いのではないか。

『猫と庄造と二人のをんな』あらすじ

庄造と離婚した品子は、結婚中あれほど嫌っていた庄造の愛猫のリリーを手もとに引き取りたいと庄造の後妻福子に手紙を書く。庄造のリリーへの溺愛にうんざりしていた福子は、リリーを品子に譲渡するよう、庄造を説得する。品子にしてみれば、リリーを仲立ちとして庄造とよりが戻せるかもしれぬという計算が働いていたのであるが、意外にも自分になついてくれたリリーがいとおしくなる。
一方しぶしぶ承知したものの、リリー恋しさにその後を追いかけて品子の家のそばまでやってきた庄造は会えずに空しく帰る。 後日、リリーに会いに行ったことを知って逆上して姑にあたり散らす福子の剣幕に恐れをなして再び品子の家に行った庄造。しかしリリーはまるで自分を忘れてしまったかのようなので、はげしく失望し、「俺こそ、本当に宿無しではないか」と思う。
注目のポイント
庄造をめぐる二人の女は、谷崎の2番目の妻・丁未子と3番目の妻・松子がモデルだと言われている。品子が庄造の猫のリリーを欲しがり、その猫いとおしさのために来るのではないか、と目論んだように、谷崎の妻・丁未子は別居を余儀なくされたとき、谷崎に「猫のチュウをください」と言い、谷崎は猫に会いたい一念で、丁未子の新宅あたりをうろうろした。 庄造の家の設定は芦屋の打出の家のあたりだが、品子は阪急六甲。現実の丁未子が住んでいたのは御影であって阪急六甲より芦屋に近い。前妻の住居の設定を変えたことによって、ある不都合が出てくる。それは庄造が十章で「(空き地に)二時間は立っている余裕がある」という時間観念である。作中時間は十月だという条件と、場所の観念から言えは不可能である。これは谷崎が実際に猫を訪ねるという行為に及んだのが日照時間の長い五月であり、しかも実際の二点の距離は近いことからくる錯誤なのだ。このような誤りの中に事実と創作の相関関係がほのみえるのも面白い。

『細雪』あらすじ

大阪船場の旧家蒔岡(まきおか)家の四人姉妹、鶴子、幸子、雪子、妙子の話。雪子と妙子は本家鶴子の夫と折り合いが悪く、ほとんど芦屋の貞之助、幸子夫婦宅に居ついていた。幸子には、御大家であった昔の格式にとらわれて三女雪子の結婚が遅れているのが最大の悩みだった。因循姑息で万事おっとりした古典的美人の雪子とは対照的に、四女妙子は人形の制作をしたりして、自立心のある近代的な娘であったが、二十歳のとき、船場の道楽息子奥畑啓三郎との駆け落ちが新聞種になってから姉たちの負担になっていた。雪子は何度も見合いをするがどれもうまくいかない。妙子は奥畑と交際を続けながら、もと奥畑家の丁稚で、洪水の時命を救ってくれたカメラマンの板倉に惹かれていく。しかし板倉は急死し、妙子は自暴自棄になってバーテンの三好の子を死産する。一方雪子はついに華族の末裔・御牧(みまき)との縁談が成立するが、その日が迫ってきても心から喜べないのであった。
注目のポイント
『源氏物語』現代語訳を終えた谷崎は、ここから構成上の影響を受けた。駒尺喜美が指摘したように、『源氏』が光源氏の女遍歴を縦糸に、日本の春夏秋冬の美を横糸にと織り込んだ華麗な織物であるように、『細雪』は三女雪子の夫選びと四女妙子の男遍歴を縦糸に、昭和十一年から十六年にいたる春夏秋冬の美を横糸に織り込んだ織物だといえよう。 細雪とは、阪神間にふる雪で、掌に落ちた瞬間にすっと消えてしまうあえかな雪。時代の移り変わりにより、古典的な美と価値観を持つ雪子のような女性は、いずれ消えてしまうに違いない。そして麗しい阪神間の風景もまた近寄る戦争の惨禍により消えてしまうのではないか、という今書かねば、という気持ちが谷崎をかりたていったと思われる。『細雪』こそ、古きよき時代の阪神間文化へのレクイエム(挽歌)なのだ。

『鍵』あらすじ

(夫の日記)1月1日、私(56歳・大学教授)は今年から妻郁子(45歳)との性生活の実際を日記につけることにした。最近私は性的不能に近い状態だった。娘敏子の婚約者で私の助手でもある木村青年が来たとき、妻は酔いつぶれたあげく風呂で全裸で人事不省に陥った。木村に手伝わせて書斎に運び、結婚以来初めて妻の体を仔細に観察したおかげで首尾よく性交を果たした。妻がうわごとで木村の名を呼ぶのがかえって刺激的でそれに味をしめ、何度も同じ状況を作り上げ、写真を撮ったりしてエスカレートしていく。そのせいか体調を崩してしまった。
(妻の日記)夫の日記を偶然みつけた。私も日記をつけ始めたが、夫が盗み見しているのは明白だ。最初は夫の挑発に乗って木村と交際しはじめ、今では内緒で頻繁に会っているが、最後の一線は越えていない。4月17日、過度の性生活がたたったか夫が発作を起こし寝たきり状態になった。 今だから明かすが、私と木村との壁は3月25日に取れた。夫は寝たきりの状態のまま、しきりと私の日記を気にしている。5月2日夫は永眠。夫の死を早めたことは確かだが、希望通りの人生を送らせたという意味で、私は夫に忠実だったのではないか。娘敏子は一応木村と結婚する予定だが、それは私と木村の仲を偽装するためのものである。
注目のポイント
誰にでも来る性生活のたそがれどき。そのペーソスを見据えながら、主人公の壮絶なまでの性への執着心を描いて圧巻である。しかしながらその執着さえも、夫の日記と同時進行で書かれていく妻の日記により、滑稽に見えてくる。夫の発作後、死後の妻の叙述の存在については評価の分かれるところだが、そこまで見据える作者の目線に、ひとりよがりにならず対象を突き放す、作家の姿勢があきらかである。発表当時からわいせつか否かの物議をかもし出し、『鍵』論争と言われた。

『瘋癲老人日記』あらすじ

(老人の日記)6月、私こと卯木督助(うつぎとくすけ)は77歳。すでに全く無能力者ではあるが、いろいろの変形的間接的方法で性の魅力を感じることができる。息子の嫁、颯子(さつこ)はもと日劇のダンサーだけあって、そのことを理解してくれていて、私の寝室専用のシャワー室を使用して、時々は覗かせてくれる。ごくたまに足をなめさせてくれるのだけれど、その代償はハンドバックだったり宝石のキャッツアイだったりする。娘たちのおねだりには応じる気はなけれど、颯子には甘い。佐々木看護婦が休みのとき、颯子がかわり、だだっこのように泣いてみせたりするが、彼女は冷たい。
冷たくされると余計感じる。手の痛みはひどく、死の恐怖におびえる日々が続くが、11月小康状態のときに思い立って墓地を購いに京都に行き、同行の颯子の足型をとって仏足石にすることにした。死後颯子の足に踏まれていると思うと痛いが無上の快感だ。 (娘五子の日記)11月父は脳血管の痙攣で倒れたが、一命を取り留めた。京都から逃げ帰った颯子の立場は微妙。老人は足型を飽かずに眺め暮らしている。4月には颯子が条件に持ち出したか、プールの工事が始まるようだ。
注目のポイント
2001年上梓された、『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』は、谷崎潤一郎と、義理の息子(松子の連れ子)の妻・千萬子(橋本関雪の孫娘)の往復書簡である。千萬子こそ颯子のモデルであり、『瘋癲老人日記』が書かれた背景を知る上で興味深い。作品が創られる上で、核となるモチイフや感情、そしてそれが「作品」として醸成されるメカニズムを知る上で、大いに参考になる。また『鍵』同様、第三者の視点、すなわち佐々木看護婦の記録や娘の手記を掲載することにより、おぞましく滑稽でやがて哀しい老人の性の実状が、ユーモアとペーソスにまで昇華しきれていると言えよう。
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『母』

潤一郎の実母の関は美貌である上に家付き娘。夫の倉五郎はもと番頭で、関に頭が上がらなかった。幼児期から脳裏に焼き付けられたこのような女性上位の構図は、女性造型の上で大きな影響をもたらした、と言えよう。母関は谷崎が三十二歳のとき五十四歳で死んだ。母への異性愛にも類する感情は、その後「母恋いもの」といわれる作品を生み出していく。その原点となっているのが『母を恋ふる記』である。
三十四歳の作家が夢を見、七つか八つの子供になってさまよい歩く。山の中で老母に息子であることを拒否され、海のそばで若い母と出会う。きわめて象徴的なストリーである。その後谷崎文学の母恋いものは実母思慕構造と継母思慕構造に分れていき、前者に『吉野葛』と『少将滋幹の母』、後者に『蘆刈』と『夢の浮橋』が上げられる。実母思慕構造の方は失った母を捜し求める構図を、継母思慕構造の方は父から子への性の申し送りの構図を見ることができる。
「少年」挿絵画帖より 鏑木清方(カブラキ キヨカタ)画 ⓒ根本章雄2002FOR 「ネットミュージアム神戸文学館」
50歳をこえた頃の母関

『源氏物語』

谷崎潤一郎は三回『源氏物語』の現代語訳を出している。一回めは昭和10年に書き始められ、昭和14年~16年にかけて刊行された『潤一郎訳源氏物語』で、国語学者山田孝雄の校閲を仰いだ。だが戦争前のことで、天皇家に対する配慮から不本意な訳だった。 そのため戦後、昭和26年~29年に再び完全な現代語訳を出した。このときの校閲は、京都大学の助手をしていた若き玉上琢弥(たまがみたくや)であった。最後の『谷崎潤一郎訳源氏物語』は、旧仮名遣い、旧漢字体を実状にあわせて直したもので、現在全集に収録されているものはこれである。
『源氏物語』の影響は構成面では『細雪』に、内容面では『夢の浮橋』に見ることができる。とはいえ、この二作以外にもその影響があると考えられてきた。しかし晩年の秘書伊吹和子氏のよると谷崎は生前『源氏物語』の影響を受けているという言われるのを嫌っていたようだ。となると、たとえば女性像の造型や母性思慕構造などは、男性の普遍的なところを追求していった結果おなじところに行き着いた、ということになろうか。また風景描写、季節感などは、日本文学そのものの特色である、と風にも言えそうである。
『谷崎潤一郎新々訳源氏物語』(1964)

『映画』

あまり知られていないことであるが、日本の映画界の幕開け時期に、谷崎潤一郎はその世界に貢献した。大正9年に横浜に創設された大正活映株式会社に脚本顧問として招聘され、『アマチュア倶楽部』という作品を書いて、トーマス栗原監督、葉山三千子の主演で撮影された。葉山三千子は妻千代の妹で、『痴人の愛』ナオミのモデルである。 新しいもの好きの谷崎は、先進的な撮影の技術的なことへの関心に始まり、やがて現象的なフィルムや像ということに心を囚われていった。
『プラトンのイデア論への興味もあって『アヴェ・マリア』や『青塚氏の話』に観念的影響を見ることができる。映画界に身を投じていたのは一年半くらいであるが、その寄与は前掲の作品のほか、泉鏡花原作の『葛飾砂子』、上田秋成原作の『邪性の淫』などがあり、溝口健二らに大きな影響を与えたという。 関東大震災で関西に逃れた際には、最初は横浜時代に行き来した映画人のつてを頼って、京都の衣笠に居を構えたのである。ただ関西に移ってからは、映画そのものへより、映画人や俳優との付き合を続け、上村草人、岡田嘉子は岡本の家に、高峰秀子、京マチ子は京都の家に谷崎を訪ねてきている。
義妹せい子

『西洋』

谷崎には、若いころから西洋(ヨーロッパ、アメリカ)への憧れがあった。幼児期に日本橋蛎殻町(かきがらちょう)の近くの洋食屋で始めて食べたビフテキと蠣のフライが西洋と名のつくものに始めて接した体験であった。その後、絵画、音楽、など「西洋の芸術は東洋のものより健全であり、正道を闊歩してゐるように思へぬでもない」と『饒舌録』に書く。西洋のものはわかりやすく鮮やかで、それが青少年の心をとらえる、という谷崎は明治大正時代を通じて西洋文化を賛美してやまなかった。
そして西洋の豊満な肉体を持つ女性に憧れ、女性の肉体と美貌や知性に拝跪(はいき)する西洋文学における男性像への憧憬も強かった。『痴人の愛』はそのような西洋化された「理想の女性」を育てようとして囚われていく男の姿が描かれている。 ただ大正7年と15年に中国にわたり、中国びいきになった時期がある。そして大正12年の関東大震災後の関西移住からは日本の古典や伝統を見直して行くのである。

『陰翳(いんえい)』

随筆『陰翳礼賛(いんえいらいさん)』は昭和8年12月~9年1月まで「経済往来」という硬派の雑誌に書かれた、光と影の美を論じたものである。今でも本職の建築家が採光のよりどころにするほど卓抜した名随筆である。昔ながらの雪隠の美学を説き、燭台の明かりでこそ日本独特の漆器の美しさが引き立つことを説く。能役者の装束もしかり。そして西洋流に何もかも明るみに出してしまって風情を殺してしまうことをいさめるのである。
確かにこの時代谷崎自身も薄暗い住宅を好み、ことに書斎は採光状態の悪い環境をしつらえていた。しかし昭和11年に『細雪』のモデルの家である反高林の家(現・倚松庵)に移ってからは、眺めのいい場所を好んでいて、晩年熱海で家を新築するにあたり大工が『陰翳礼賛』を持ち出すと、そんな家を作ってもらっては困ると苦笑いした。

『エロティシズム』

エロティシズムを抜きにして谷崎文学を語れないのは自明のことだが、ではセックス描写はどの程度かと改めて読み直してみると、これがほとんどないに等しいのだ。その中で最も露骨なのは『鍵』であるが、それにしても「全身ヲクマナク」見るだの「歓喜点ヲ露出」しただの、という描写ぐらいで、現代小説の即物的な性描写に比較すると百分の一にもならない。それでもなお、谷崎文学にエロティシズムを感じるのは、男女の関係の設定の特異性や、健全な性欲が歪曲されている状況設定が、読者の想像力をかきたてるからに他ならない。
たとえば『痴人の愛』に代表される、女に翻弄される男の様子、『蘆刈』ではセックスレスの夫婦と夫と妻の姉と禁じられた恋情、『春琴抄』では主従の恋情、『蓼喰ふ蟲』では義父の愛人の封じ込められたエロス、『瘋癲老人日記』では不能の老人の屈折した性欲、などがそれである。
『鍵』装丁

『モデル問題』

小説には大なり小なりモデルはつきものである。ことに谷崎の場合、作品と生涯は切っても切れない縁にあり、彼自身の数奇な人生の中で知りえた人物や愛した女性が、作中人物の造型を豊かにしてきた。中でも『痴人の愛』のモデルとされる最初の妻千代の妹せい子や、『春琴抄』『蘆刈』を初めとする昭和初期の珠玉の名作群の女主人公たちのイメージを形成していった松子、最晩年の『瘋癲老人日記』のモデルである渡辺千萬子の存在は大きい。
また千代との離婚にまつわるためらいは『蓼喰ふ蟲』に投影し、二番目の妻丁未子と最後の妻松子の葛藤は『猫と庄造と二人のをんな』という小説に投影されている。 その中でも大作『細雪』は昭和11年から16年までの、松子とその姉妹たちとの出来事を事実に近い形で綴った小説である。生前松子夫人は「あれは小説のような気がしません。まるで日記のようで」と述懐していた。
『細雪』のモデルとなった姉妹 昭和24年

『プロット論争』

小説に筋が必要かどうか、ということが芥川龍之介と谷崎潤一郎の間で論争されたことを言う。そもそも昭和2年、雑誌「新潮」の2月号の創作合評で谷崎潤一郎の近作『日本におけるクリツプン事件』を複数で批評しあった席で、芥川龍之介が「話の筋と云ふものが芸術的なものかどうかと云ふ問題、純芸術的なものかと云ふことが、非常に疑問だと思ふ」と発言して谷崎の作品を批判したところに端を発する。谷崎はこれに対して、「改造」と言う雑誌に連載中の『饒舌録』で小説でもっとも大事なのは構造的美観である、と説き反論した。
芥川はその後『文藝的な、余りに文藝的な』という文章を「改造」に載せて「『話』らしい『話』のない小説」は「通俗的興味のないという点で」「最も純粋な小説」として志賀直哉を東洋的伝統の上にたった詩的精神を流し込んでいると認めて、自分も及び難いと説いた。そもそも芥川自身、ずっと話らしい話、筋の明快な小説を書きつづけていたのだ。芥川はこの時期自分の創作方法に行き詰まっていて、「谷崎よりも自分を鞭うつようなつもりで」というのが本心なのかもしれない。この論争のあと、7月24日に龍之介は自殺した。
芥川の『文藝的な、余りに文藝的な』

『悪魔主義』

一種の芸術至上主義のことで、芸術は政治、道徳、宗教などとまったく関係なく、美を追求することを唯一の目的とする自律的で自己充足的な創造行為であると考える立場。真善美の三つの価値観のうち、美が真や善にまさる人生最高の価値とするもので、耽美主義、唯美主義とも言われる。その中で反俗的な態度を表し、既成道徳にはむかって、通常「悪」として忌み嫌われているものに「美」を見出して賛美するのを「悪魔主義」という。
明治44年11月号の「三田文学」で永井荷風に絶賛されて文壇に彗星のごとく登場した谷崎は、翌45年2月『悪魔』という小説を発表し、ことに主人公が想いを寄せる女性の鼻汁のついたハンカチを舐めるというシーンで読者を驚かせた。彼を悪魔主義と評するのも、この小説によるところが多い。

阪神間の足跡

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  • 阪神間
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阪神間の住居 魚崎
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作品世界
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阪神間モダニズム

1苦楽園万象館/大正12.12~13.3

大正2年~昭和13年頃まで、苦楽園はいくつかのラジウム温泉がある旅館でにぎわっていた。万象館もその一つで、関東大震災から逃れて来た谷崎が、京都の寒さにねをあげて、この地に仮住まいし、阪神間が気に入る。
苦楽園万象館
苦楽園万象館あと 石垣のみ

2本山村北畑 -痴人の愛の家-/大正13.3~15.10

苦楽園万象館に滞在中、温暖な気候と美味な海の幸のために阪神間が気に入った谷崎は、真剣に住居を探しはじめる。そして本山第一小学校に東隣のこの地にあったスレート葺きの洋館を借りて住み、『痴人の愛』の大森の家のイメージを膨らませていった。この家には、東京から出版関係者や、せい子の俳優仲間が頻繁に出入りした。彼等の容姿は人目を引き、服装は目立っていたという。隣の小学校の生徒たちは、鈴なりになって塀の上から谷崎家に出入りする人々や、娘鮎子の遊びの様子などを覗きこんでいた。 その無作法を叱る先生たちの中に、ちらほら洋装を真似るものが出てきたという。谷崎一家は岡本に東京の風や、文化をもたらす役目をしていたことになる。 谷崎はまた道路に面したこの家の奥にもう一軒、平屋の洋館風の家を借りた。母屋とは別に執筆空間を確保する習慣はこのころから定着する。一角には四軒の家があり、当時の持ち主は仏文学者多田道太郎氏の叔父の多田侑史氏だった。多田道太郎氏は同じ敷地内で生まれ、谷崎から出産祝いに産着を貰ったという。
本山北畑の家
本山北畑の家 門と階段のみ当時のまま 北畑奥の家 平成14年時現存

3岡本・好文園/大正15.10~昭和3

好文園とは、大正の終りから昭和の初頭にかけて、(株)伊藤萬商店の常務、伊藤萬次郎氏の個人経営による高級賃貸住宅地につけられた名称。阪急北側で天上川の西一帯をいい、20数軒の住宅がテニスコートや桜並木を中心として楕円形状につくられた道の周りに配されていた。谷崎はここで2号と4号の家を借りていた。
岡本・好文園
当時のプレート 好文園時代の石垣

4岡本梅ノ谷の家 -鎖瀾閣(さらんかく)-/昭和3~6.9

大正15年、岡本好文園に住んていた谷崎潤一郎は、200メートルほど北にある梅ノ谷の井上とみさんの平屋一戸建てを借りて書斎に使っていた。このあたりは『摂津名所図絵』にも出てくる梅の名所。一時借りのつもりが海の見えるこの場所が気に入り谷崎は持ち主に、この地所を家付きで譲ってもらえないか、と申し出る。しかし値段の上で折り合わなかったのと、井上とみさんが白内障による盲目だったこともあり、代理人小田作蔵氏に仲介を頼む手紙を出した。

円本(改造社が出した一作家一冊の文学全集。一冊一円だったためこの名で呼ばれ、飛ぶように売れた)成金とはいえ、右から左の支払い状況でなかったことはその後の手紙からわかる。井上さんも、あまり家を売りたくなかったらしい。しかし谷崎の交渉は強引だった。 それほどまで無理をしてこの地が欲しかったのは、彼が終始一貫する好みだった、丘腹で海の見えるロケーション、その上冬は梅の香が漂う、という三拍子がそろっていたからであろう。ようやくの思いで手に入れた地所。ここに建っていた井上家の平屋建てを母屋として千代と鮎子を住まわせ、昭和3年、その西隣に自分専用の書斎兼迎賓館を建てるのである。イメージは決まっていた。大正10年に『鶴唳(かくれい)』に描いた「鎖瀾閣」。彼はここに愛する麗人と二人鎖するように閉じこもることを夢見ていたのかもしれない。

前年の昭和2年3月、後に谷崎夫人になる人妻根津松子と運命の出会いをしている。根津家は夙川にあり、阪急電車はもちろん、ハイヤーで行き来できる距離にあった。

できあがった書斎の前で、上山草人(かみやまそうじん)、小出楢重、根津清太郎とその妻松子、妹の重子、信子、妹尾君子、そして鮎子と潤一郎が並んで撮っている写真がある。

この地には、最初の妻千代と住みはじめ、昭和5年に有名な「千代譲渡事件」を起こしたあと、6年には二番目の妻丁未子と同居し、5月にはここを売りに出して高野山に行った。というのも、円本で一時的に所得が高くなり、国、県、村税あわせて三千数百円もの滞納をしてしまったからである。

高野山から下りてきて夙川の根津家の別荘に隣居するようになってから、12月、梅ノ谷の家は二万六千円で売れた。買主は堂島米穀取引所理事、文箭郡次郎氏だった。郡次郎氏はもとの平屋建ての母屋を二階建てに建て替え、谷崎が建築した書斎には厨房設備がなかったので、それを建て増しして、外国人に貸していた。そして最後は25年の長きに渡り、カナディアンアカデミースクールの教師クリセル夫妻が住んでいて、文箭一家の志で、谷崎が住んでいた当時のまま保存されていた。

しかし、クリセル氏たちが夏にはアメリカに帰国するという1995年1月17日、阪神大震災で全壊した。岡本の住人たちと谷崎研究者たつみ都志は、この谷崎が建てた書斎を、『鶴唳』にちなんで鎖瀾閣と名づけ復元運動を続けている。復元にあたり、神戸市は梅林公園の拡張予定地を永久貸与する約束をしてくれた。だが復元には6千万かかると言われ、震災と構造不況により、募金活動は遅々として進まず、その費用の一割程度しかまだ集まっていない。(H14年現在)

岡本・梅ノ谷の家-鎖瀾閣-
岡本・梅ノ谷の家-鎖瀾閣-
1階
1階
2階
2階
岡本・好文園
鎖瀾閣の前で
岡本・好文園
中国の乾隆帝が使っていたといわれる寝台を購入

5根津商店寮/昭和6.9~6.11

阪神間での唯一の持ち家岡本梅ノ谷を売りに出して高野山に5ヶ月近く逗留していた谷崎は、知人の根津松子の好意に甘え、根津商店が従業員のために持っていた寮に仮住まいする。

6根津別荘別棟/昭和7.3〜7.12

根津家は、当時の船場の商人の多くがそうであったように、リゾート地だった阪神間に別荘を持っていた。彼等はそのうちそこを主たる住居として、主人は船場に通勤するようになる。根津清太郎と松子一家は三軒の隣接した別荘を持っていたが、隣家が空いたため、谷崎夫妻を従業員の寮からこちら呼んだ。この隣居がきっかけで松子と潤一郎はより親密になる。
根津別荘別棟
根津別荘あと

78魚崎/昭和7.3〜7.12

根津家の経済的破綻で別荘を出るはめになった谷崎潤一郎は、根津が魚崎の借家に仮住まいすると、そこから四十メートルしか離れていない借家の2階をまた借りする。そして、根津家の隣に建築中であった借家ができあがるやいなや、再びその隣家に住むのである。 松子の著作『倚松庵の夢』では、潤一郎のプロポーズはこの魚崎の隣家のときにはじめて、とあるが、この前後の転居のトリックを考えると告白はもっと早くなされていたと考えるのが妥当だろう。
魚崎
(上)魚崎・横屋井川、1ヶ月仮萬の家 (下)魚崎・横屋川井の根津、谷崎隣居のあと地

9北畑天王通り-隠れ家-/昭和7.12~S8.7

この家に松子が通って来て、通い婚のような形をとる。裏小路のこの家は2人の「隠れ家」であった。『春琴抄』を執筆。

10西ノ町/昭和8.7~9.3

天王通りの家は、潤一郎と松子にとってまさに隠れ家というにふさわしい家であったが、丁未子もまた鍵を持っていた。東京から遊びに来た文芸春秋時代の同僚と酒盛をしたりして荒れている丁未子から逃れるようにして、先の家の果樹園の南の家を借り直す。ここも井谷家の貸家で、家主の家の正門前にあった。

11芦屋打出/昭和9.3~11.11

離婚が成立し、松子と同棲することが可能となって、潤一郎は芦屋の打出に借家住まいする。ここは詩人富田砕花(とみたさいか)の義兄田島氏の貸家であり、谷崎がここを出てからは富田砕花が没年まで住み、現在芦屋市が富田砕花記念館にしている。
芦屋打出
芦屋打出の家

12倚松庵(いしょうあん) -『細雪』の家-/昭和11.11~18.11

谷崎潤一郎が倚松庵という号を用い出したのは、芦屋打出の在住のころからである。邸内に松が植わっていたのと、そのころから同棲を始めた松子に倚ると言う意味で使われた。 しかし現在では谷崎潤一郎と松子一家が昭和11年11月から18年まで11月まで7年間住んだ反高林の家を倚松庵と呼ぶ。そのきっかけは昭和61年に神戸市の都市計画の都合で道路が拡幅され、撤去されることになった際、附近の住民運動と谷崎研究者たつみ都志たちが、この家を「倚松庵」と呼んで保存運動に尽力したことにある。運動は神戸市を動かし、材木が保存された。そして平成1年2月、もとの位置より150メートル北に移築復元されることになり、平成2年7月24日の谷崎潤一郎の誕生日に改めて「倚松庵」と名づけられて一般公開されるようになった。阪神大震災前は毎日開館していたが、震災後の財政難のせいで現在は土日のみの開館となっている。

この家の重要性は、なにより『細雪』のモデルの家であるということ。ここで松子たち姉妹が繰り広げた日常を谷崎がつぶさに書き、家の内部や庭などが、大変詳しく出ている。引っ越し魔の谷崎にはめずらしく、ここでは七年の長きに渡って住んだ。もし家主の都合で出ることにならなければ、もっと住んだかもしれない。なぜなら、最愛の松子と家庭を持つことができた記念すべき家であったし、『細雪』は戦中戦後に渡って書き続けられていたからである。

間取りはきわめて合理的で近代的だった。谷崎は芦屋の家が手狭になったため貸家を探していたが、家主自身の家が気に入って、貸家の方に家主たちに移り住んでもらって、この家を借りたのだった。門を入ったところに大きな松があり、まさに倚松庵という名にもふさわしい。敷地200坪、階下5間、2階3間で家賃は85円だった。

昭和12年、谷崎は敷地内の母屋の西隣に「勉強部屋」を建てるのを許可してほしいと家主に申し入れた。後藤氏は立ち退く際、一切請求しないなら、と口約束で承認したが、のちにこれがトラブルのもとになる。

昭和17年、家主の都合で立ち退きを申し入れられた際、潤一郎は書斎の増築費用として、当初の千円を、物価の値上がりを算入して三千円を家主に要求するのである。家主側は「約束」を主張したが、谷崎は間に村会議員を立てて一歩も譲らない。ついに後藤氏が折れ三千円を支払い、17年の11月に家屋明渡契約証書を取り交わして取引は成立した。

だが約束の期限18年7月になっても一向に立ち退く気配はない。業を煮やした家主は、熱海の別荘に滞在中の谷崎に催促状を送りつけ、潤一郎はそれに対して詫び状をよこす。

現在公開中の倚松庵2階にそのときの手紙や領収書が展示されている。

倚松庵(いしょうあん上)現・倚松庵 (下)2階8畳「細雪」の冒頭はこの部屋から始まる)
(上)現・倚松庵 (下)2階8畳「細雪」の冒頭はこの部屋から始まる
倚松庵(いしょうあん) 家族団らんのスペースであった洋間
家族団らんのスペースであった洋間

13住吉川東岸/昭和18.11

倚松庵を家主の都合で出るはめになった谷崎は、住吉川の東岸にあった酒井氏の貸家に転居。しかし、戦局が悪化して熱海、岡山と疎開していた谷崎はほとんどこの家に住まなかった。昭和20年8月5、6日の阪神大空襲で全焼。

『痴人の愛』モデルになった北畑戸政の家

神戸市東灘区本山北町。ここにあった洋館を借りて住んでおり、モデルにした。門と階段のみ昔の風情を残す。
モデルになった北畑戸政の家

『卍』徳光光子の自宅

光子の家は船場で羅紗問屋を経営してい、住まいは阪急芦屋川にあるという設定。こういう住まい方は当時の船場商人の典型。

『卍』柿内園子の自宅

阪神香枦園にあり2階から海が見え、天気のいい日は紀州や金剛山まで見えるという設定。
柿内園子の自宅

『猫と庄造と二人のをんな』庄造の前妻品子の家

阪急六甲にあるという設定だが、モデルである古川丁未子は谷崎と別居後は御影に住んでいた。

『猫と庄造と二人のをんな』庄造の営む荒物屋

芦屋の旧国道に面したところで荒物屋を営んでいる。旧国道というのは、国道2号線より南を走る。 ※荒物屋(あらものや)=日用雑貨を売る店
庄造の営む荒物屋

『細雪』玉置洋裁学校

野寄にあるという設定だが、モデルは芦屋にあった田中千代服装学園。この写真は昭和24年ごろ。(現 田中千代服飾専門学校)
玉置洋裁学校
外觀

『細雪』蒔岡(まきおか)家

芦屋川の西岸から七八丁離れ、省線(現JR)の南半丁のところという設定。ここには潤一郎松子夫妻の仲人木場悦熊氏の家があった。家の内部描写はそのころ住んでいた倚松庵そのもの。
玉置洋裁学校
現・倚松庵

『細雪』マンボウ

省線(現JR)を越えるために、人間専用に作られたトンネル。現存している。
マンボウ
マンボウ(H14年時現存)

『細雪』現・倚松庵

下巻で奥畑啓三郎が一人住まいする近くにある。場所は西宮常盤町。
現・倚松庵
一本松(H14年時現存)

『細雪』パインクレスト

下巻で奥畑啓三郎が一人住まいする近くにある。場所は西宮常盤町。
パインクレスト
パインクレスト 外観 関西大学所蔵

六甲山

明治中期までうち捨てられたような荒涼とした六甲山を切り開いたのは英国人グルームである。神戸で働いていた彼は、明治28年に夏の避暑地として六甲山に別荘を建てた。そして、友人たちに山のすばらしさを語り別荘建設を勧め、登山や松茸狩り、冬にはスケートなどを楽しんだ。六甲は登山やゴルフ、スキー、スケートと言った近代スポーツが日本で芽生え、発達した場所であった。 昭和になると外国人だけではなく多くの日本人が山を中心としたレジャーを楽しむようになった。

六甲山ホテル

昭和4年に阪急が開業したリゾートホテル。六甲山で登山やスポーツ、家族総出のレクレーションを楽しむため多くの人が訪れた。平成14年時現存。
六甲山ホテル
神戸市・六甲山ホテル 毎日新聞社提供

六甲山ゴルフ遊技場

日本最初のゴルフ場であり、日本のゴルフ発祥の地。明治34年、六甲山のレジャーを広めて「六甲市長」とも言われたイギリス人グルームらによって開設された。2年後には神戸ゴルフ倶楽部が発足、日本人のゴルファーも多く誕生している。平成14年時現存。
六甲山ゴルフ遊技場
六甲山でのゴルフ 神戸市立博物館蔵

六甲山ケーブル

六甲を訪れるレジャー客の足として昭和7年に開業。全長1.7㎞、当時は日本初であった2両編成で運行した。隣の摩耶山には六甲より早く大正14年に摩耶ケーブルが開通した。平成14年時現存。
六甲山ケーブル
摩耶ケーブル (c)神戸新聞総合出版センター提供

六甲登山ロープウェイ

日本で最初のロープウエイ。昭和6年、阪急電鉄によって開業された。昭和19年には戦時の金属提出でロープまで回収され、現在はわずかな遺構がのこるのみである。
六甲登山ロープウェイ
神戸市・六甲山ロープウェー 毎日新聞社提供

六甲ドライブウェー

六甲山には瀬戸内側の表と、北摂側の裏の2本のドライブウエーがある。 最初にできたのは昭和3年の裏六甲であり、その翌年に表六甲ドライブウエーが完成した
六甲ドライブウェー
神戸市・神戸観光道路 「諏訪山頂上附近」 毎日新聞社提供

二楽荘(にらくそう)

明治41年に西本願寺二十二世門主・大谷光瑞が建設した別荘。本館内部には英国室、支那室、アラビア室などがあり、敷地内には探検収集品の整理研究所、園芸試験場、印刷所などが配置され各施設を3本のケーブルカーがつないでいた。子弟教育のための教育施設も作られた。壮大かつ華麗な建物で多くの観光客が訪れたという。 昭和7年に焼失したが、谷崎が岡本に住んでいた頃には峰の間にその威容が望めたはずである。
二楽荘(にらくそう)
(上)二楽荘 外観龍谷大学学術情報センター 大宮図書館所蔵 (下)アラビア室の内部 龍谷大学学術情報センター 大宮図書館所蔵

甲子園ホテル

昭和4年開業。東京の帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトの弟子、遠藤新が設計した関西随一の高級ホテル。当時の大阪には顔となるようなホテルが無かったため、関西を訪れた内外の要人が多く宿泊し、「東の帝国ホテル、西の甲子園ホテル」と称された。現在は武庫川女子大学の校舎となっている。

甲子園

大正13年、当時人気のあった全国中等学校野球大会に集まる観衆を収容するために阪神電車が開設。建設中は、阪神電車の窓から日ごとに建ち上がっていくメインスタンドの威容がよく見え、社内の話題をさらったという。大正の末から阪神電車はこの周辺を沿線開発し、阪神パークなどが開かれ一大アミューズメントセンターとなった。
甲子園
建設中の甲子園球場 大13年 阪神電気鉄道(株) 所蔵

国際ホテル

昭和14年開業。甲子園ホテルと並ぶ高級ホテル。当時はめずらしいインターナショナル・スタイルの建築だった。利用者は関西の一流財界人や軍人が中心であったが、付近の住民も来客があると食事に訪れたとのこと
国際ホテル
国際ホテル 外観 写真ⓒ山本徹男

雑誌「ファッション」(芦屋)

昭和8年に芦屋で発刊された我国初のファッション月刊誌(ファッション誌自体はそれ以前から有った)。2年後には東京でも発売され発行部数は1万部にせまるほどであった。当時は上流階級のものであった洋服に親しんでいる婦人や令嬢向けのコミュニティー誌的な側面もあり、流行のファッションだけではなく教養やマナー、ダイエットに関する記事も掲載されていた。

苦楽園(ラジウム温泉)

明治39年頃地元の有力者たちによって開発された温泉リゾート地。大正2年兵庫県の調査によってラジウム温泉が確認され、園内にラジウム温泉場、旅館、クラブハウスなどが作られ大いに発展した。現在は高級住宅地となっている。
苦楽園(ラジウム温泉)
苦楽園ラジウム温泉の絵はがき ⓒ神戸新聞総合出版センター提供

宝塚歌劇

宝塚歌劇団は、阪急電車の小林一三によって大正2年に宝塚唱歌隊という形で創設された。昭和2年には日本で最初のレビュー「モンパリ」を上演、昭和3年には「パリゼット」を上演し国民的人気を得た。主題歌の「すみれの花咲く頃」「おお宝塚」は今でも宝塚を代表する歌となっている。

宝塚ホテル

大正15年、宝塚の発展にあわせて阪急電車が開業したリゾートホテル。鉄筋コンクリート耐震耐火造り、客室60室、300席の食堂、宴会場、談話室、球技室、舞踏場、売店、テニスコート、ゴルフリンクスなどの施設があった。
宝塚ホテル
宝塚ホテルティーダンス、クリスマスディナーの案内 昭和初期

香櫨園(こうろえん)

明治40年に香野(こうの)、櫨山(はぜやま)両氏が所有した土地に、庭園、ホテル、運動施設、奏楽堂、メリーゴーランド等を設置して開園した一大遊園地。名称は両氏の名前に由来している。阪神電車は沿線開発としてこの地に注目し海水浴場を開設するなどして賑わった。大正に入ると人気は衰え、徐々に高級住宅地へと変化を遂げていった。

海水浴

阪神間の海水浴場は明治38年に阪神電車が開いた芦屋打出浜が最初。明治41年にはそれが香櫨園浜に移り、海水浴客は年を追うごとにその数が増え、連日砂浜を埋めつくしたという。海岸では花火など様々なイベントが催された。
海水浴
芦屋海水浴場絵はがき 芦屋市立美術博物館 提供

関西学院・神戸女学院

両校とも明治初中期に設立された米国プロテスタントのミッション・スクールであり、昭和初期より今ある西宮市の山手に並ぶようにキャンパスを設けた。両校とも米国の建築家ヴォーリズの手による赤いスパニッシュ瓦と白壁が特徴的であった。
関西学院・神戸女学院
神戸女学院キャンパス

パインクレスト

阪急夙川駅北西にあった1ヶ月単位で部屋を貸しながら、一部でホテル業も行うレジデンシャルホテル。
パインクレスト
パインクレスト 外観 関西大学所蔵

谷崎作品「乱菊物語」の舞台を歩く

谷崎を歩く宮津 見性寺 街並み 賀茂神社 浄運寺 遊女友君の墓 藻振の鼻と家島諸島 室津港
谷崎を歩く宮津 見性寺 街並み 賀茂神社 浄運寺 遊女友君の墓 藻振の鼻と家島諸島 室津港
室津は『乱菊物語』の舞台となったところである。本格大衆小説を意図した作品だが、昭和5年の妻千代子との離婚で中絶した。明の張恵卿が室津の遊君かげろうを手に入れるために、彼女の所望した羅綾の蚊帳の入った金の小函を船で運んでいる途中、室津の沖合いで遭難する。かげろうは、この金の小函を届けた者に身を任すとおふれを出したために、幻術師、海賊など入り乱れ、播磨の太守赤松家と代官浦上家を巻き込んでのスペクタルである。海の風景や家島諸島を念頭においた谷崎にはめずらしい大がかりなものである。
01見性寺
見性寺 見性寺 臨済宗相国寺派。開山は十四世紀。毘沙門天立像はおよそ700年前に建てられたといわれる見性寺の寺宝。材料、彫刻共に平安朝藤原時代のものとして国指定重要文化財になっている。 『乱菊物語』で見性寺は、海龍丸をかたった幻術使いの幻阿弥が仮の宿りとするところ。「室君」の章の「その二」に、築地の周りに龍の丸の定紋を打った幔幕が繞らされ武士が見張りをしている、という描写がある。
02街並み
街並み 街並み 奈良時代、摂播五港の一つに定められた室津港は、江戸時代は、参勤交代の大名を泊める本陣六軒ほか、豪商、揚げ屋、置屋などでにぎわった。明治以後、交通が陸路を主とするようになって、室津は衰退した。だが、町のそこここには、古い建物が残っていて、昔の面影を忍ばせてくれる。また近年「町おこし」の一環として、元の本陣は「室津資料館」に、豪商「嶋屋」は改装されて「室津海駅館」として見学施設になっている。失われていく文化財を活かす努力の一方で、歩道も石畳に整備された。
03賀茂神社
賀茂神社 賀茂神社 高倉天皇に伴って平清盛が厳島詣での際この地にたちより、神前に祈願した。古びた五、六棟の社殿が立ちならんでいたと「高倉院厳島御幸記」に記されている。五つの社殿とそれを囲む回廊、それに唐門は国指定重要文化財。四境内には県指定天然記念物のそてつの群生がある。
04浄運寺
浄運寺 浄運寺 浄土宗、本尊は阿弥陀如来像、山号を清涼山という。承元元年(1207)法然上人が讃岐へ渡る際、舟でこぎ出した友君という遊女が上人の説法を聞き得度し念仏往生を遂げた、と伝えられる。法然上人御霊場の一つである。又、門前には友君の墓がある。法然上人像、友君像、お夏像がお祀りされている。 浄運寺の向かえには室津小学校や室津浄化センターがあり、その背景におだやかな浜辺が広がり、少し高台の浄運寺の境内からそれを望むことができる。
05遊女友君の墓
遊女友君の墓 遊女友君の墓 浄運寺の門前にある。木曾義仲の夫人であったと伝えられている友君は、室津に移り住み船人の旅愁を慰めた。『乱菊物語』の「小五月」その二に「かの古への花漆に次ぐ遊女――法然上人の教えを受けて往生の素懐を遂げたという友君の墓がある」と紹介されている。
06藻振の鼻と家島諸島
藻振の鼻と家島諸島 藻振の鼻と家島諸島 室津の南西端、藻振の鼻に立つと、三方を海に囲まれる絶景が見れる。間近に見えるのは唐荷島。昔、唐の船が難破し、その積荷がこの島に流れ着いたところから、唐荷島と呼ばれるようになった。万葉集や播磨風土記にもその名が見える。『乱菊物語』の「海島記」には、唐荷島、家島、藻振の鼻、七曲りなど、室津の美しい海の風景が描写されている。
07室津港
室津港 室津港 播磨風土記には、「この泊風を防ぐこと室のごとし 故に因りて名をなす」と記されている。『乱菊物語』「海島記」その三に「いったい明治以後における何千噸、何万噸という巨船は、大概小豆島の南側と四国との間の水道を選んで、家島の辺りを航行することはめったにない。それというのは、この近海には暗礁が多く、なかんずく西島から坂越の沖へかけて漁師が「しづも」と呼んでいる長い瀬があるために、吃水の深い船舶はそこを通ることが出来ないのである。が、航海術の幼稚であった時代には主として沿岸を縫って行くので、沢山の島が宿駅を設けてくれる方が心強い訳であるから、従って家島と中国との間が重要な海の往還であり、この港もまた、どんなにか当時の旅人や船長から頼りにされたことであろう。」とある。海路が交通路でなくなった現在、室津港は漁港としてほそぼそとなりわいを続けている。竹久夢二も愛した、この漁港風景は叙情にあふれている。

研究論文・資料谷崎潤一郎参考文献目録

単行本
辰野 隆 谷崎潤一郎(イヴニング・スター社 昭22・10) 日夏耿之介 谷崎文学(朝日新聞社 昭25・3のち復刻版) 中村光夫 谷崎潤一郎論(河出書房 昭27・10のち河出・新潮文庫) 風巻景次郎・吉田精一編 谷崎潤一郎の文学(塙書房 昭29・7) 吉田精一編 近代文学鑑賞講座9 谷崎潤一郎(角川書店 昭34・10) 橋本芳一郎 谷崎潤一郎の文学(桜楓社 昭40・6のち増訂版等) 谷崎精二 明治の日本橋・潤一郎の手紙(新潮社 昭42・3) 谷崎松子 倚松庵の夢(中央公論社 昭42・7のち中公文庫) 三枝康高 谷崎潤一郎論考(明治書院 昭44・6) 伊藤 整 谷崎潤一郎の文学(中央公論社 昭45・7) 野村尚吾 伝記谷崎潤一郎(六興出版 昭47・5のち改訂新版) 日本文学研究資料叢書 谷崎潤一郎(有精堂 昭47・10) 荒 正人編 谷崎潤一郎研究(八木書店 昭47・11) 野村尚吾 谷崎潤一郎 風土と文学(中央公論社 昭48・2) 野口武彦 谷崎潤一郎論(中央公論社 昭48・2) 橋本 稔 谷崎潤一郎 そのマゾヒズム(八木書店 昭49・4) 野村尚吾 谷崎潤一郎の作品(六興出版 昭49・11) 三瓶達治 近代文学の典拠 鏡花と潤一郎(笹間書院 昭49・12) 野口武彦等 シンポジウム日本文学16 谷崎潤一郎(学生社 昭51・9) 河野多恵子 谷崎文学と肯定の欲望(文芸春秋 昭和51・9のち中公文庫) 秦 恒平 谷崎潤一郎ム〈源氏物語〉体験(筑摩書房 昭51・11のち増補版・筑摩叢書版・湖(うみ)の本版) 永栄啓伸 谷崎潤一郎研究のためにム文献目録(私家版 昭52・1) 秦 恒平 神と玩具との間ム昭和初年の谷崎潤一郎(六興出版 昭52・4のち湖(うみ)の出版) 高木治江 谷崎家の思い出(構想社 昭52・6) 今 東光 十二階層崩壊(中央公論社 昭53・1) 林 伊勢 兄潤一郎と谷崎家の人々(九芸出版 昭53・8) 古典と近代作家第一集 谷崎潤一郎(筑摩書院 昭54・3) 佐伯彰一 物語芸術論 谷崎・芥川・三島(講談社 昭54・8のち中公文庫) 稲沢秀夫 谷崎潤一郎の世界(思潮社 昭54・9のち新装版) 長野甞一 谷崎潤一郎ム古典と近代作家(明治書院 昭55・1) 渡辺たをり 祖父谷崎潤一郎(六興出版 昭55・5) 紅野敏郎編 論考 谷崎潤一郎(桜楓社 昭55・5) 笹原伸夫 谷崎潤一郎潤一郎ム宿命のエロス(冬樹社 昭55・6) 紅野敏郎・千葉俊二編 資料 谷崎潤一郎(桜楓社 昭55・7) 多田道太郎・安田武 関西 谷崎潤一郎にそって(筑摩書房 昭56・11) 千葉俊二編 鑑賞日本現代文学8 谷崎潤一郎(角川書店 昭57・12) 市居義彬 谷崎潤一郎の阪神時代(曙文庫 昭58・3) 森安理文 谷崎潤一郎 あそびの文学(国書刊行会 昭58・4) 平山城児 考証『吉野葛』ム谷崎潤一郎の虚と実を求めて(研文出版 昭58・5) 稲沢秀夫 聞書谷崎潤一郎(思潮社 昭58・5) 谷崎松子 湘竹居追想ム潤一郎と「細雪」の世界(中央公論社 昭58・6のち中公文庫) 斎藤なほや 妄想家の顛末ム谷崎論のための私かな読解の試み(近代文芸社 昭59・1) 大久保典夫 物語現代文学史ム1920年代(創林社 昭59・2) 永栄啓伸 谷崎潤一郎 資料と動向(教育出版センター 昭59・5) 大谷晃一 仮面の谷崎潤一郎(創元社 昭59・11) 笹原伸夫編 新潮日本文学アルバム7 谷崎潤一郎(新潮社 昭60・1) 武田寅雄 谷崎潤一郎小論(桜楓社 昭60・10) 渡辺たをり 花は桜、魚は鯛ム谷崎潤一郎の食と美(ノラブックス 昭60・12のち中公文庫) 坂上博一 反自然主義の思想と文学(桜楓社 昭62・5) 遠藤 祐 谷崎潤一郎ム小説の構造(明治書院 昭62・9) 永栄啓伸 谷崎潤一郎試論ム母性への視点(有精堂 昭63・7) 藤田修一 谷崎潤一郎論(曜曜社出版 昭63・12) 堀切直人 ファンタジーとフモール(青土社 平1・6) 谷崎終平 懐かしき人々ム兄潤一郎とその周辺ム(文芸春秋 平1・8) 千葉伸夫 映画と谷崎(青蛙房 平1・12) 千葉俊二編 日本文学研究資料新集 谷崎潤一郎・物語の方法(有精堂 平2・1) 市居義彬 谷崎潤一郎和歌集(曙文庫 平2・1) 川本三郎 大正幻影(新潮社 平2・10) 宮内淳子 谷崎潤一郎ム異境往還ム(国書刊行会 平3・1) 水上 勉 谷崎先生の書簡ムある出版社社長への手紙を読む(中央公論社 平3・3) 塚谷晃弘 谷崎潤一郎 その妖術とミステリー性(沖積舎 平3・4) 群像 日本の作家8 谷崎潤一郎(小学館 平3・5) 渡部直己 谷崎潤一郎ム擬態の誘惑(新潮社 平4・6) 永栄啓伸 谷崎潤一郎論ム伏流する物語(双文社出版 平4・6) 河野仁昭 谷崎潤一郎 京都への愛着(京都新聞社 平4・6) たつみ都志 谷崎潤一郎・「関西」への衝撃(和泉書院 平4・11) 小森陽一 緑の物語ム『吉野葛』のレトリック(新典社 平4・12) 大里恭三郎 谷崎潤一郎ム『春琴抄』考ム(審美社 平5・3) 秦 恒平 名作の戯れ『春琴抄』『こころ』の真実(三省堂 平5・4) 河野多恵子 谷崎文学の愉しみ(中央公論社 平5・6のち中公文庫) 伊吹和子 われよりほかに 谷崎潤一郎最後の十二年(講談社 平6・2) 東郷克美 異界への片ヘム鏡花の水脈(有精堂 平6・2) 三島佑一 谷崎潤一郎『春琴抄』の謎(人文書院 平6・5) 千葉俊二 谷崎潤一郎 狐とマゾヒズム(小沢書店 平6・6) 山田和幸 谷崎潤一郎作品再録状況(昭和四十年以前)ム全集・叢書・単行本・文庫本・雑誌等(私家版 平6・10) 安田 孝 谷崎潤一郎の小説(翰林書房 平6・10) 久保田修 『春琴抄』研究(双文社出版 平7・11) 細江 光(翻刻・注) 映像・音声資料(芦屋市谷崎潤一郎記念館 平7・12) 三島佑一 谷崎・春琴なぞ語り(東方出版 平7・12) 細谷 博 凡常の発見 漱石・谷崎・太宰(明治書院 平8・2) 清水良典 虚構の天体 谷崎潤一郎(講談社 平8・3) 雨宮庸蔵宛谷崎潤一郎書簡(芦屋市谷崎潤一郎記念館 平8・10) 竹内清己 文学構造ム作品のコスモロジー(おうふう 平9・3) 瀬戸内寂聴 つれなかりせばなかなかにム妻をめぐる文豪と詩人の恋の葛藤(中央公論社 定9・3) 笹原伸夫編 近代文学作品論叢書9 谷崎潤一郎『刺青』作品論集成1・2(大空社 平9・6) 永栄啓伸 評伝 谷崎潤一郎(和泉書院 平9・7) アドリアーナ・ポスカロ等 谷崎潤一郎国際シンポジウム(中央公論社 平9・7) 高桑法子 幻想のオイフォリー 和泉鏡花を起点として(小沢書店 平9・8) 近藤信行 谷崎潤一郎 東京地図(教育出版 平10・10) 谷崎松子 廬辺の夢(中央公論社 平10・10) 久保家所蔵谷崎潤一郎久保義治・一枝宛書簡(芦屋市谷崎潤一郎記念館 平11・3) 河野多恵子編 いかにして谷崎潤一郎を読むか(中央公論社 平11・4) 宮本徳蔵 潤一郎ごのみ(文芸春秋 平11・5) 尾高修也 青年期 谷崎潤一郎論(小沢書店 平11・7) 前田久徳 谷崎潤一郎 物語の生成(洋々社 平12・3) 谷崎潤一郎・渡辺千萬子 谷崎潤一郎=渡辺千萬子 往復書簡(中央公論新社 平13・2) 明里千章 谷崎潤一郎 自己劇化の文学(和泉書院 平13・6)
雑誌特集号
谷崎潤一郎氏(「雄弁」大8・4春季増刊号) 最近の谷崎潤一郎氏(「新潮」大13・2) 「春琴抄後語」の読後感(「文学界」昭9・7) 谷崎潤一郎研究(「評論」昭9・8) 谷崎潤一郎特輯(「文学会議」昭25・7) 谷崎潤一郎読本(「文芸」臨時増刊 昭31・3) さまざまの「鍵」論(「中央公論」昭32・1) 谷崎潤一郎・作家論と作品論(「解釈と鑑賞」昭32・7) 荷風と潤一郎(「國文學」昭39・4) 谷崎潤一郎追悼(「心」昭40・9) 谷崎潤一郎追悼(「中央公論」昭40・10) 谷崎潤一郎追悼(「群像」昭40・10) 谷崎潤一郎・高見順追悼(「文芸」昭40・10) 唯美の系譜 泉鏡花と谷崎潤一郎(「解釈と鑑賞」昭48・6) 志賀直哉と谷崎潤一郎(「日本近代文学」昭50・10) 谷崎潤一郎 耽美の構図(「解駅と鑑賞」昭51・10) 文芸読本 谷崎潤一郎(河出書房新社 昭52・2) 谷崎潤一郎 美とエロスの航跡(「國文學」昭53・8) 作品論・谷崎潤一郎(「芸術至上主義文芸」昭54・11) 谷崎潤一郎(「解釈と鑑賞」昭58・5) 仕事部屋の谷崎潤一郎(「中央公論文芸特集」昭59・10) 生誕百年谷崎潤一郎特集(「國文學」昭60・8) 谷崎潤一郎(「墨」昭61・3) 春琴抄読本(国立劇場 昭61・7) 谷崎潤一郎の戯曲(「悲劇喜劇」昭61・9) 谷崎潤一郎の関西と近代(「関西文学」昭62・8) 谷崎文学小特集(「解釈」昭63・2) 《語り》の位相(「日本近代文学」平2・5) 谷崎潤一郎ム語りからテーマへ(「文学 季刊」平2・7) シンポジウム『細雪』ム病いの時空ム(「国語国文研究」平2・12) 谷崎潤一郎の世界(「解釈と鑑賞」平4・2) 日本文学の巨人谷崎潤一郎(「鳩よ!」平4・5) 谷崎潤一郎 問題としてのテクスト(「國文學」平5・12) 〈シンポジウム〉文学作品の分析(「表現研究」平6・9) 谷崎潤一郎ムいま、問い直す(「國文學」平10・5) 谷崎潤一郎を読む(「解釈と鑑賞」平13・6)
単行本・雑誌等所収論文
(単行本は『』、雑誌等は「」で示した。巻号はすべて、副題については必要に応じて省略した。昭和四十年以降の単行本に収められたり、研究史で言及した論文は、極力省略した。単行本、雑誌それぞれに複数回収録されたものについては、閲覧が容易と判断した方のみ示した。) 永井荷風 谷崎潤一郎の作品(「三田文学」明44・11) 小宮豊隆 谷崎潤一郎君の「刺青」(「文章世界」明45・3) 谷崎精二 谷崎潤一郎氏に呈する書(「早稲田文学」大2・4) 谷崎精二 潤一郎氏の近業(「文章世界」大2・12) 中村孤月 谷崎潤一郎論(「文章世界」大4・2) 秦 豊吉 最近の谷崎潤一郎論(「新潮」大5・4) 芥川龍之介 文芸的な、余りに文芸的なム併せて谷崎潤一郎氏に答ふ(「改造」昭2・4~8) 前田河広一郎 谷崎潤一郎論(「文芸戦線」昭3・5) 小林秀雄 谷崎潤一郎(「中央公論」昭6・5) 水上滝太郎 「吉野葛」を読んで感あり〈貝殻追放〉(「三田文学」昭6・6) 川端康成 文芸時評 谷崎潤一郎の「盲目物語」と「紀伊国狐憑漆掻語」(「中央公論」昭6・10) 正宗白鳥 谷崎潤一郎と佐藤春夫(「中央公論」昭7・6) 川端康成 文芸時評「春琴抄」他(「新潮」昭8・7) 舟橋聖一 谷崎潤一郎ム文学と想像力について(「行動」昭8・11) 佐藤春夫 最近の谷崎潤一郎を論ずム春琴抄を中心として(「文芸春秋」昭9・1) 勝本清一郎 谷崎潤一郎と志賀直哉(「中央公論」昭11・9) 生島遼一 谷崎潤一郎論ム日本の古典主義(「新潮」昭22・3) 吉田精一 谷崎潤一郎論ム細雪を中心として(『現代日本文学論』真光社 昭22・9) 福田恒存 芥川・谷崎の私小説論議(「人間」昭22・10) 寺田 透 長井・志賀・谷崎諸家の作風について(「改造文芸」昭23・7) 生島遼一 「細雪」問答(「中央公論」昭24・2) 日夏耿之介 細雪細評(「表現」昭24・2) 中村真一郎 「細雪」をめぐりて(「文芸」昭25・5) 寺田 透 細雪(『文学の創造と鑑賞』岩波書店 昭29・11) 水谷昭夫 「春琴抄」の文芸史的意義ム近代レアリスムの衰退とその変貌(「日本文芸研究」関西学院大学 昭30・6) 大石修平 「形」の饗宴ム谷崎潤一郎論(「日本文学」昭38・10) 三島由紀夫 谷崎朝時代の終焉(「サンデー毎日」昭40・8) 野島秀勝 異端者の幸福(「批評」昭42・10) 駒沢喜美 谷崎潤一郎論ムねわざの美学(「日本文学」昭44・5) 秦 恒平 谷崎潤一郎論(『花と風』筑摩書房 昭47・9) 三好行雄 近代文学の諸相ム谷崎潤一郎を視点として(『日本文学の近代と反近代』東京大学出版会 昭47・9) 千葉俊二 「吉野葛」論(「おべりすく」昭50・4) 竹内清己 谷崎潤一郎「お艶殺し」論ム「殺し」における艶美の醍醐味(「芸術至上主義文芸」昭51・9) 加賀乙彦 円環の時間「細雪」(『日本の長篇小説』筑摩書房 昭51・11) 笹原伸夫 谷崎潤一郎・古典回帰の位相他(『近代小説と夢』冬樹社 昭53・7) 永栄啓伸 谷崎文学における美学「母を恋ふる記」を中心に(「芸術至上主義文芸」昭53・11) 田中美代子 神になった女ム「痴人の愛」について(『天使の幾何学』出帆新社 昭55・2) 遠藤 祐 谷崎潤一郎の一側面(『大正文学論』有精堂 昭56・2) 中村 完 「痴人」の語りム潤一郎小論(同上) 山口政幸 「刺青」論(「上智大学近代文学研究」昭57・8) 赤祖父哲二 『鍵』ムコミュニケイションの回路ム(『いかに読むかム記号としての文学ム』中教出版 昭58・11) 高桑法子 『武州公秘話』論ムその位置と意味についてム(「学芸国語国文学」昭59・3) 篠田浩一郎 日記体フィクションの可能性ム谷崎の「鍵」をめぐって(「國文學」 昭59・4) 野口武彦 宝としての物神ム谷崎潤一郎の「通俗小説」ム(『近代小説の言語空間』福武書店 昭60・12) 小森陽一・野口武彦・山田有策 司会東郷克美〈シンポジウム〉方法の可能性を求めてム「痴人の愛」を読む(「日本近代文学」昭61・10) 柏木慶子 モデルが明かした『痴人の愛』の真相(「新潮45」昭61・11) 田口律男 谷崎潤一郎「痴人の愛」を読むム1920年代・都市・文学(1)(「近代文学試論」広島大学 昭62・1) 千葉俊二 『細雪』論(「解釈と鑑賞」昭62・4) 平野芳信 谷崎の〈語り〉序説ム〈語り〉の始原(『日本文芸の形象』和泉書院 昭62・5) 井上章一 『細雪』の建築家(『アート・キッチュ・ジャパン 大東亜のポストモダン』青土社 昭62・8) 野口武彦 はじめに『型』ありきム谷崎潤一郎『細雪』ム(『文化記号としての文体』ぺりかん社 昭62・9) 松本 徹 信太森(しのだもり)ムうらみ葛の葉(『夢幻往来ム異界への道』人文書院 昭62・10) 塩崎文雄 「年代記」の制覇ム『細雪』の一側面(「日本文学」昭62・12) 平野芳信 谷崎潤一郎の〈語り〉(『講座昭和文学史』第一巻 有精堂 昭63・2) 三田村雅子 二股道の果てム「吉野葛」の旅から「廬刈」「夢の浮橋」へ(「日本の文学」有精堂 昭63・5) 大久保典夫 谷崎潤一郎における〈戦後〉の意味(『現代文学史の構造』高文堂出版社 昭63・9) 小林敏一 谷崎潤一郎の露伴観(小林一郎編『日本文学の心情と理念』明治書院 昭64・1) 森 常治 コミュニケーションとしての性ム『鍵』について(『脱出技術としての批評』沖積舎 平1・6) 種村季弘 解説 巨人と侏儒(『美食倶楽部』ちくま文庫 平1・7) 曽根博義 日本語の「発見」(「昭和文学研究」平2・2) 栗林知美 隠された妻ム谷崎文学における母性思慕の深層ム(「東京女子大学日本文学」平2・3) 三枝和子 谷崎の矛盾(『恋愛小説の陥穽』青土社 平3・1) 柳沢幹夫 谷崎潤一郎の心的機構論序説ム『秘密』(「文芸研究」明治大学文学部 平4・7) 清水良典 記述の国家(『作文する小説家』筑摩書房 平5・9) 近藤信行 荷風潤一郎(1)~(28)(「図書」平6・1~平8・11) 細江 光 〈翻〉谷崎潤一郎全集逸文及び関連資料紹介(「甲南女子大学研究紀要」平6・3) 多田道太郎 日本人の美意識(『多田道太郎著作集4』筑摩書房 平6・4) 笹原伸夫 谷崎潤一郎論ムナオミ、あるいはモードの身体ム(「解釈と鑑賞」別冊 平7・1) 細江 光 恒川陽一郎の大貫雪之助宛書簡紹介(「甲南国文」平7・3) 細江 光 谷崎潤一郎全集逸文及び関連資料紹介(同上) 清水良典 空想の王国ムプロトタイプ原型としての谷崎潤一郎を読む(『超絶[エロス恋]講座』海越出版社 平7・3) 川島淳史 『細雪』論(「論輯」駒沢大学大学院 平7・5) 日高佳紀 方法としての〈大衆〉ム谷崎潤一郎・『乱菊物語』の構造ム(「成城国文学」 平8・3) 中谷元宣 谷崎潤一郎「幇間」論(「国語と教育」大阪教育大学 平8・3) 笹原伸夫 「細雪」の語りと構図(「研究紀要」日本大学文理学部人文科学研究所 平8・3) 蓮実重彦 〈美〉についてム谷崎潤一郎『疎開日記』から(『知のモラル』東京大学出版会 平8・4) 村瀬 学 「13歳」の物語史4 言いなりになるということム『少年』『小さな王国』考(「現代詩手帖」平8・5) 五味渕典嗣 谷崎潤一郎ム散文家の執念(「三田文学」平8・5) 石井和夫 谷崎における漱石への共鳴と反発ム「金色の死」前後(熊坂敦子編 『迷羊のゆくえ』翰林書房 平8・6) 安田 孝 ドラマトゥルギーの確立(「都大論究」平8・6) 榊 敦子 和声と記述の饗宴ム『卍』(『行為としての小説』新曜社 平8・6) 坪井秀人 男もすなる……ム日記のジェンダー・ポリティクス(「日本近代文学」平8・10) 畑中基紀 『細雪』のテレフォノロジー(同上) 八木恵子 「明治一代女序」と「羹」ム手紙の手法(「埼玉大学紀要」教養学部 平8・10) 前田久徳 谷崎潤一郎「少年」論(「イミタチオ」金沢近代文芸研究会 平8・11) 藤村 猛 谷崎潤一郎「春琴抄」論(「近代文学試論」広島大学 平8・12) 中村真一郎・井上ひさし・小森陽一 座談会 昭和文学史 谷崎潤一郎と芥川龍之介(「すばる」平9・1) 中村三代司 〈夫婦小説〉としての「痴人の愛」ム谷崎文学と活字メディアム(「日本近代文学」平9・5) 日高佳紀 『痴人の愛』における〈教育〉の位相(「日本文学」平9・5) 石割 透 谷崎潤一郎「白昼鬼語」(「日本文学」平9・6) 丸川哲史 『細雪』試論(「群像」平9・6) 中川成美 モダニズムはざわめく(「日本近代文学」平9・10) 田中励儀 雑誌「季刊日本橋」細目ム鏡花、荷風、潤一郎らをめぐってム(同上) 城殿智行 云ふ迄もない話ム谷崎潤一郎『吉野葛』論ム(「文学 季刊」平9・10) 蕭 幸君 〈滑稽〉の発見ム谷崎文学の一側面(同上) 安田 孝 一幕物の流行した年ム谷崎潤一郎と戯曲(鴎外研究会編『森鴎外『スバル』の時代』双文社 平9・10) 石野泉美 『蓼喰ふ虫』考ム語りにおける共同体への志向から(「日本文芸研究」関西学院大学 平9・12) 遠藤伸治 谷崎潤一郎における〈伝統への回帰〉について(『近代文学の形成と展開』和泉書院 平10・2) 藤原智子 谷崎潤一郎の“お春どん”への手紙(「婦人公論」平10・4・7) 丸川哲史 『鍵』試論ム冷戦構造と文学機械(「群像」平10・9) 日高佳紀 〈改造〉時代の学級王国ム谷崎潤一郎『小さな王国』論(「日本近代文学」平10・10) 山口政幸 『細雪』論ム下巻最終部への一考察(「専修国文」平11・1) 綾目広治 谷崎潤一郎の表現論ム『文章読本』論(『脱=文字論』日本図書センター 平11・2) 細江 光 笹沼源之介・谷崎潤一郎交流年譜(「甲南国文」平11・3) 丸川哲史 『瘋癲老人日記』試論ム冷戦構造と文学機械◆(「群像」平11・6) 城殿智行 他の声 別の汀ム谷崎潤一郎『廬刈』論(「日本文学」平11・6) 永栄啓伸 書簡にみる谷崎潤一郎ム出発期の谷崎とその周辺ム(上)(中)(「皇学館論叢」平11・6、8) 中谷元宣 谷崎潤一郎未発表書簡12通紹介ム佐藤績、森川喜助、北尾鐐之助、川田順宛(「国文学」関西大学 平11・9) 清水良典 谷崎潤一郎『饒太郎』(「三田文学」平11・11) 小林 敦 〈小説なるもの〉をめぐる物語から遠く離れた冒険ム谷崎潤一郎「吉野葛」試論(「論樹」東京都立大学 平11・12) 溝渕園子 〈「小説の筋」論争〉再読のためのノート(「方位」熊本近代文学研究会 平12・3) 細江 光 谷崎家・江沢家とブラジルム訂正と追加(「甲南国文」平12・3) 堀口淳二 谷崎潤一郎「廬刈」論ム語り手論と聴き手との間に(「国学院大学大学院文学研究科論集」平12・3) 根本美作子 谷崎潤一郎『夢の浮橋』論(「津田塾大学紀要」平12・3) 森岡卓司 「「門」を評す」と谷崎文学の理念的形成(「日本文学叢」東北大学 平12・3) 田中俊男 谷崎潤一郎『卍』論(「国語と国文学」平12・8) 中条省平 思想なきからくり芝居ム谷崎潤一郎の語りの戦略(「文学界」平12・9) 藤原智子 『蓼喰ふ虫』にみられる「西洋受容」の完了(「日本文芸研究」関西学院大学 平12・9) 鈴木登美 モダニズムと大阪の女ム谷崎潤一郎の日本語論の時空間(「文学 隔月刊」平12・9) 《付記》紙数との兼ね合いもあり、遺漏があるかと思われる。既存(研究史参照)の文献目録も、併せご覧いただきたい。

学燈社刊「別冊国文学 谷崎潤一郎必携」(2001年11月)の平野芳信稿に依る ※書名など、一部当用漢字を使用しています

監修者のご紹介

たつみ都志(武庫川女子大学教授)

文学と場所をキーワードに近代文学を解読。谷崎潤一郎の関西での足跡をつぶさに調査した実績をもとに、谷崎文学と関西の相関性にこだわって研究を続けている。転居魔の谷崎は阪神間在住21年間に13回も引っ越しているが、中でも「細雪」のモデルの家は倚松庵と名付けて移築保存に成功。現在は阪神大震災で全壊した、谷崎が自分で設計した持ち家を「鎖瀾閣」と名付けて復元運動に取り組んでいる。また谷崎文学友の会を神戸市東灘区岡本で立ち上げ、谷崎文学の顕彰に取り組んでいる。

専門領域

日本近代文学 (特に谷崎潤一郎・川端康成)

専門領域

  • ・『ここですやろ谷崎はん〜谷崎潤一郎・関西の足跡』(広論社85年)
  • ・『谷崎潤一郎・関西の衝撃』(和泉書院92年)他
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