浄瑠璃を見る
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絵本太功記 十段目尼ヶ崎の段えほんたいこうき じゅうだんめ あまがさきのだん(だいじゅう)
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解説
- 寛政期(1789~1800)に、浄瑠璃で太閤記物が流行しますが、その中の傑作がこの「絵本太功記」です。武智(明智)光秀が主君小田春長(織田信長)に直諌して怒りを買う場を発端とし、春長が光秀に真柴久吉(羽柴秀吉)に従って西国に出陣せよと命ずる6月1日の段以下、1日を一段に取り組んで13日十三段目の光秀の最後に至るという構図です。原作者は近松やなぎ等3名。淡路では最も人気の高い時代物として親しまれているのが十日目の十段目で、「尼ヶ崎」の前半が「夕顔棚」、後半を「尼ヶ崎」といいます。
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あらすじ
- 「ここに刈取る真柴垣」の光秀の出に「タタキ」という力強い三味線で異様な雰囲気がただよう。竹槍を障子越しに突っ込むと久吉ならぬ母、皐月(さつき)。母は逆賊非道と光秀を責め、妻の操も「これ見給え光秀殿」と夫を責める。光秀は春長を弑(しい)した正当性を主張する。そこへ息子の十次郎が駆けつけて敗軍を報告し、皐月、十次郎の瀕死、許嫁(いいなずけ)の初菊の嘆き、剛毅な光秀の慟哭とドラマは最高潮になる。段切れに久吉が現れて天王山で決戦しようと約束して別れます。
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玉藻前㬢袂 道春館の段たまものまえあさひのたもと みちはるやかたのだん
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解説
- 寛延4年(1751)、大阪豊竹座初演、天竺(インド)、唐土、日本の三国に伝来した金毛九尾の妖狐の伝説を脚色した謡曲「殺生石(せっしょうせき)」を題材に、薄雲皇子の反逆事件を絡めた五段続きの時代です。現在行われているのは、文化3年(1806)に近松梅枝軒が改正したもので、三段目「道春館」は淡路人形浄瑠璃では人気外題です。
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あらすじ
- 鳥羽天皇の兄薄雲皇子は反逆を企て、腹心の鷲塚金藤次に右大臣道春公が守護していた獅子王の剣を盗ませました。道春には二人の娘があります。道治が亡くなった後、姉の桂姫を見初めた皇子は、桂姫の入内(じゅだい)を求めたが、采女之助を婆慕う桂姫は応じません。立腹した皇子は金藤次を、罪に問わせる上使に立たせます。
金藤次は道春の奥方荻の方に対し、宝剣損失の代わりに姫の首を討って渡せと迫ります。
荻の方は、姉桂姫は清水寺に願かけた末、清水三神の社で拾った神より授かった子だと承知しません。妹初花姫も姉をかばい、ついに双六(すごろく)勝負で負けた方の首を討つことに決まります。しかし、金藤次は負けた初花姫ではなく、勝った桂姫の首を討ちます。そこへ采女之助が飛び出してきて金富次を刺します。深手を負った金藤次は苦痛の中から、桂姫こそ捨てた自分の子であることを、宝剣を盗んだのも自分だと告白します。初花姫を討てなかったのは荻の方の恩義のためと打ち明けて涙と共に息たえます。
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式三番叟しきさんばそう
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解説
- 淡路人形芝居の起源をもの語る神事芸能で、「式三番叟(しきさんばんそう)」とよばれる最も古い形の三番叟です。淡路人形芝居の座本(ざもと)総本家といえる引田源之丞(ひきたげんのじょう)が元亀(げんき)元年(1570)淡路から京都に上り、皇居紫宸殿(ししんでん)の前で「三社神楽操之式(さんじゃかぐらあやつりのしき)」を奉納したと伝えています。それは「能(のう)あやつり」といわれ、能の「翁(おきな)」を人形操りで演じたものといわれ、口承で伝えられたもので、全国各地の三番叟のことばは少し相異があります。
淡路では、その古式に則り、1人遣いの翁(おきな)・千歳(せんざい)・主遣(おもづか)いと足遣いの2人遣いの三番叟、囃子方(はやしかた)で構成されています。毎年正月2日、淡路人形発祥地と伝える南あわじ市、市三條(いちさんじょ)の八幡神社境内の戎社に奉納されています。
淡路人形の「式三番叟」は伝承すると、天下泰平、国家安穏、長寿円満、今日の諸事御祈祷をする奉納芸です。
「式三番叟」を演ずることを「三番叟を踏む」ともいい、三番叟の足踏みの演技は大地を鎮める意味があります。そのハイライトは、三番叟が荒々しく大地を踏みしめるように舞い、千歳と問答の後、黒い尉面(じょうめん)をつけ、鈴の段を舞って祝う場面です。なお、その謡いの最後は、「附祝言(つけしゅうげん)」として、謡曲「高砂」の一部分が謡われています。
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戎舞えびすまい
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解説
- 淡路人形芝居で、現在、上演されている戎舞は人気外題(げだい)で、特に外国公演では最も人気のある外題です。それは昭和49年(1974)淡路人形座がニューヨークのカーネギーホール公演で、戎舞が上演外題4本のうち最高の人気を得たからでしょう。
戎舞は三味線でなく、太鼓のリズムで、太夫が語ります。それは操り芝居の原型であり、土俗的な中に神秘性があり、七福神のなかの福の神エビスの福々しい笑顔があります。
エビスさまが大盃で祝い酒を「一献(こん)いたそうかい」という時、公演場所の現地語で「御当地」せりふを入れます。例えばアメリカなら英語で「米日親善」とか「世界平和」とかのアドリブ(即興せりふ)を入れると盛りあがり大拍手が起きます。その後で、エビスさまがアンコールに答えるジェスチャーする次第です。
戦前、淡路の漁場で行なわれる、漁祭の人形芝居では、必ず戎舞を上演し、その謡いの最後の「エビスさんが鯛を釣って踊った」というところで、生きた鯛など、本ものの魚を釣りあげることになっていました。
この外題は、西宮のエビスさまの神徳をたたえるもので、藤原百太夫正清という漁師がエビスさまのお宮を作り、道薫坊という人がそのお宮に仕え、神意を慰めていたので、豊年豊漁が続きました。しかし、道薫坊がなくなると海は荒れ、不漁となりました。百太夫は道薫坊の人形を作り、舞を奉納したとろ、海は静まり、再び豊漁となりました。この舞が戎舞の起源という伝承からできました。
乾の方から烏帽子(えぼし)をかぶり狩衣(かりぎぬ)を着たエビスさまが庄屋さんの家へやってきます。祝い樽をもった庄屋がお神酒をさしあげます。エビスさまは自分の生まれや福の神のいわれを語りながら舞い、世界平和、豊漁、豊作を祈り、酔ったエビスさまが沖に出て鯛を釣り、目出度く舞い納めます。
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壺坂霊験記 山の段つぼさかれいげんき やまのだん
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解説
- 明治(1868~1911)に西国三十三所(さいこくさんじゅうさんかしょ)巡礼の札所(ふだしょ)の観世音に伝わる説話を集めた「三十三所花の山」と題する浄瑠璃がつくられましたが、これはその一つで第六番札所の奈良県、壷坂寺の霊験(れいげん)の物語です。
以前に書かれた「観音御霊験場記」に、名人とたたえられた二世豊澤団平と妻千賀女が筆を加えて作曲したものが本作で、明治12年(1879)に初演されました。同20年、文楽座と競争していた博労(ばくろう)町稲荷神社の彦六座で、三世竹本大隈太夫が団平の三味線で語ってから流行曲となりました。この夫婦愛の物語は淡路人形座の外国公演でも人気外題です。
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あらすじ
- 大和の壷坂に住む座頭沢市は琴や三味線の稽古をしながら、美しい女房のお里が賃仕事をしてくれるのを力に細々と暮らしています。
沢市は女房が毎晩家をあけるのに疑いをもちますが、自分の眼が明くように壷坂寺へ日参していると知って、貞節な女房を疑いつづけてきたことを詫び、壷坂寺に参籠(さんろう)することになりました。
三日間断食するといって、独り残った沢市は、ふがいない自分と暮らしていても、お里はしあわせになれないと思い、かたわらの谷に身をおどらせます。これを知ったお里もあとを追いますが、観世音菩薩のご利益で二人は命が助かり、沢市の眼も開きます。「眼が明いた!」と喜び勇んだ夫婦は舞い踊り、お礼参りをするのでした。眼があいたと喜ぶシーンが圧巻です。
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賤ヶ嶽七本槍 山の段しずがだけしちほんやり やまのだん
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解説
- 淡路独特、淡路人形浄瑠璃にしか残っていない外題で、淡路人形座は昭和45年と平成14年に、東京の国立劇場で上演しました。慶応元年(1866)9月、道頓堀の竹田の芝居で、淡路の小林六太夫座が上演した「太功記旭の花山」という外題で賤ヶ嶽七本槍を上演した記録があります。淡路では同座が慶応4年(1869)洲本で上演しました。
寛政11年(1799)7月「絵本太功記」が大当りをとったので、同じ作者が織田家の相続争い、秀吉が賤ヶ嶽の戦いで柴田勝家を討ち破って天下を取るドラマ「太功後編(ごにち)の旗揚(はたあげ)」十三段の時代ものを書きました。そのなかに天明6年(1786)に道頓堀束の芝居で初演された「比良嶽雪見陣立」五段のうち「清光尼庵室の段」と「政左衛門館の段」が取り入れられています。
「山の段」は賤ヶ嶽の戦いの場面で、八頭の騎馬が勢揃(ぞろ)いする壮大な場面で見ごたえがあります。
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あらすじ
- 織田信長の跡目となった幼君三法師丸を擁護して、秀吉帰館の行列が「メリヤス」という三味線の演奏とともに進みます。賤ヶ嶽の真柴久吉(羽柴秀吉)陣所には、大槍を携えた佐藤正清(加藤清正)をはじめ槽谷武則、脇坂甚内、片桐助作、平野権平、福島正則、加藤孫六など七本槍の面々がそれぞれ旗指物をもって並んでいます。
しかし、正清は指物を忘れ、そこに生えている生笹(なまざさ)の指物を久吉に願うが、生笹の指物は古札があると許されません。そこで久吉以下出陣の後に生笹を刈り取り、指物とし勇んで戦場に赴きました。
一方柴田方の将滝川将藍(しょうげん)、佐久間玄蕃(げんば)も勇み出陣します。敵兵の首を指物の笹竹に沢山くくりつけた正清は、久吉より生笹の指物を特に許されて、ますます勇み、玄蕃を討ち取ります。久吉の軍勢は鬨(とき)の声をあげて柴田の陣所に攻め込みます。
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淡路人形と古浄瑠璃との出会い
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今から約400年前、慶長年間(1596―1614)に、毎年2月淡路から京都に上り、禁裏御所(きんりごしょ)で「三社神楽(現在の式三番叟)」を奉納する集団があり、それが公家(くげ)衆の式楽となるほど人気がありました。その中心になっていたのが引田(ひきた)源之丞でした。
そのころ京都では、浄瑠璃姫と源義経との恋愛物語を外来楽器である三味線を伴奏楽器とする古浄瑠璃が語られるようになりました。もと琵琶法師であった澤角検校(さわずみけんぎょう)は最もすぐれた三味線奏者でした。それが人形操り(一人遣い)と提携して人形浄瑠璃が成立したと一般に言われています。
最初に古浄瑠璃と提携した人形操り師は、西宮のエビスカキだという説と、淡路の引田淡路掾(じょう)すなわち第2代引田源之丞だという説があります。江戸中期にできた『和漢三才図会』という百科事典は後者の説です。また、引田源之丞を中心とする集団はエビスカキとはいわれず、ドウコノボウと呼ばれました。引田源之丞家には、元亀元年(1570)に中院大納言(なかのいんだいなごん)が勅命をうけて書いた文書が伝来しているので、人形操りの本流は西宮ではなく淡路だと『淡路草』という江戸時代の地誌に書かれています。
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阿波の殿様の保護をうけた淡路人形
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慶長5年(1600)関ケ原の戦いのころから、人形をもって諸国を旅しはじめた引田源之丞は阿波の大名蜂須賀家政に認められていて、隠密(おんみつ)(密使)の御用をしたという伝説があります。大阪夏の陣のあと、元和元年(1615)淡路国は阿波の蜂須賀侯の領地となりました。
それ以来代々阿波の殿様が引田源之丞らに道薫坊廻百姓(どうくんぼまわしひゃくしょう)という身分を与え、引田源之丞に村の庄屋に準ずる待遇をし、ご祝儀芝居や資金援助をする御手当芝居を城下町徳島で興行させるなど、その贔屓(ひいき)ぶりは並大抵ではありませんでした。
元禄6年(1693)引田(上村ともいいます)源之丞は徳島城下で御手当芝居を拝領しました。「芝居根元記」というその記録があります。源之丞座は、19名の役者(人形遣い)に加えて大阪から一流の太夫、三味線弾きを雇い入れ、大きな舞台設備で14日間の大芝居を興行しました。外題としては古浄瑠璃のほか、近松門左衛門の新作「虎おさな物語」なども上演しました。この頃、京都・大阪では近松門左衛門と竹本義太夫が活躍し、人形浄瑠璃が大きく花を開いた時代ですが、淡路人形も、その大阪と比べて遜色ない高い水準にありました。
植村文楽軒について
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頭を大きくした淡路人形―明治期の工夫―
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人形の“かしら”を文楽では「首」と書き、淡路では「頭」と書きます。文楽に比べて淡路人形の頭が大きく、見た目には文楽の倍ほどの大きさに見えます。文楽の立役頭(たちやくかしら)は4寸2分(12.7センチ)ぐらいで、これを中型と呼ぶと、淡路は大型で6寸(18センチ)です。現在の淡路人形座の武智秀光(「太十」)に使う頭は18センチ、身の丈も150センチ、目方は10キロの大型で、人形の感情が引き立ち、観客の感情をゆり動かす迫力があります。淡路人形の大型化は明治10年(1877)代に始まり今に続いています。
明治維新の社会変革に対応し、淡路の人形座が観客サービスとして工夫したものに「舞台返し(道具返し)」また、「千畳敷」ともいって豪華な御殿を見せる演出があります。今も鳴門海峡を見渡す淡路人形浄瑠璃館で、最後の幕が降りるとアンコールのような意味で演出しています。
また、明治期に「衣裳山」といって、豪華な人形衣裳を舞台一面に飾って見せることが始まりました。今も、市三條(いちさんじょ)の淡路人形浄瑠璃資料館で展示しています。
各団体では戦後始まった観客サービスとして上演の際にレクチュア・デモンストレーション(実演解説)が行われています。
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世界に翔(はばた)く淡路人形―伝統芸能の誉れ
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淡路人形座は昭和60年から大鳴門橋記念館で、原則として年中無休の公演をしています。それでいて海外より公演の申込みが毎年のようにあります。座員数に限りがあるので、定時公演と海外公演を調整しながら世界各国に出かけています。
昭和60年からの大阪文楽座と淡路人形座の海外公演回数は、規模の大小は別として、淡路の方がやや多いのです。それほど淡路人形の人気は高いようです。
淡路人情浄瑠璃のよい評判は、昭和49年のアメリカ公演、昭和53年のフランス・スペイン公演の大成功で世界中に伝わりました。
文楽に比べて淡路人形の特色は、
①文楽の技芸員は男性のみですが、淡路では太夫、三味線は女性が多い。
②人形が大型で、観客の心をゆさぶる迫力に富んでいる。
③定番となった戒舞で、舞台と観客が一体となって、劇場の雰囲気を盛り上げる。などが考えられます。
淡路人形座の海外訪問先は平成16年までで30か国になりました。また、後継者団体、県立三原高校郷土部の海外公演もハンガリーとカナダで大成功をおさめました。
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淡路人形の広がり
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江戸中期、享保・元文(1716~40)のころには、淡路には40を超える人形座があり、西日本を中心に各地を巡業していました。こうした淡路の人形座の広範な活動が各地に人形芝居を根付かせ、地方の文化に大きな影響を与えました。
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東北
昭和62年(1987)、岩手県盛岡市の鈴江家に古くから伝わる葛から、大変古い独り違いの人形と小形の指人形、そして古文書が発見されました。その文書を見ると、鈴江家の先祖四郎兵衛(しろべい)は淡路の三條村の床屋鈴江又五郎の弟で、寛永18年(1641)に盛岡藩主の前で三番叟(さんばそう)を上映したところ藩主のお気に入りとなり、そのままそこに住み着いて座本として活動するようになったというのです。淡路の人形座が、その格式を記すものとして所持した「道薫坊伝記(どうくんぼうでんき)」も2巻ありました。
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北陸
昭和62年(1987)、岩手県盛岡市の鈴江家に古くから伝わる葛から、大変古い独り違いの人形と小形の指人形、そして古文書が発見されました。その文書を見ると、鈴江家の先祖四郎兵衛(しろべい)は淡路の三條村の床屋鈴江又五郎の弟で、寛永18年(1641)に盛岡藩主の前で三番叟(さんばそう)を上映したところ藩主のお気に入りとなり、そのままそこに住み着いて座本として活動するようになったというのです。淡路の人形座が、その格式を記すものとして所持した「道薫坊伝記(どうくんぼうでんき)」も2巻ありました。
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中部
昭和62年(1987)、岩手県盛岡市の鈴江家に古くから伝わる葛から、大変古い独り違いの人形と小形の指人形、そして古文書が発見されました。その文書を見ると、鈴江家の先祖四郎兵衛(しろべい)は淡路の三條村の床屋鈴江又五郎の弟で、寛永18年(1641)に盛岡藩主の前で三番叟(さんばそう)を上映したところ藩主のお気に入りとなり、そのままそこに住み着いて座本として活動するようになったというのです。淡路の人形座が、その格式を記すものとして所持した「道薫坊伝記(どうくんぼうでんき)」も2巻ありました。
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四国
昭和62年(1987)、岩手県盛岡市の鈴江家に古くから伝わる葛から、大変古い独り違いの人形と小形の指人形、そして古文書が発見されました。その文書を見ると、鈴江家の先祖四郎兵衛(しろべい)は淡路の三條村の床屋鈴江又五郎の弟で、寛永18年(1641)に盛岡藩主の前で三番叟(さんばそう)を上映したところ藩主のお気に入りとなり、そのままそこに住み着いて座本として活動するようになったというのです。淡路の人形座が、その格式を記すものとして所持した「道薫坊伝記(どうくんぼうでんき)」も2巻ありました。
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九州
昭和62年(1987)、岩手県盛岡市の鈴江家に古くから伝わる葛から、大変古い独り違いの人形と小形の指人形、そして古文書が発見されました。その文書を見ると、鈴江家の先祖四郎兵衛(しろべい)は淡路の三條村の床屋鈴江又五郎の弟で、寛永18年(1641)に盛岡藩主の前で三番叟(さんばそう)を上映したところ藩主のお気に入りとなり、そのままそこに住み着いて座本として活動するようになったというのです。淡路の人形座が、その格式を記すものとして所持した「道薫坊伝記(どうくんぼうでんき)」も2巻ありました。
ギャラリー
淡路だんじり唄
淡路だんじり唄振興会事務局長 荻原 重幸
- 淡路人形浄瑠璃を母体にして
- 淡路を代表する芸能といえば、何をおいても、まず500年の歴史と伝統を誇る淡路人形浄瑠璃があげられますが、この人形浄瑠璃と姉妹の関係で存在する伝統芸能に「淡路だんじり唄」があります。人形浄瑠璃の各床本から最も劇的な山場を抜き出し、これを村祭りに繰り出す壇尻(だんじり)の太鼓に合わせて、民謡調の親しみやすい節で歌ったり、物語の中の人物になりきって言葉を語ったりするのです。ですから、人形浄瑠璃の各外題と全く同じ演題のだんじり唄があるわけです。
- 誕生、そして群雄割拠の時代に
- 元禄3年(1960)に始まったというだんじりは檀尻、壇尻、楽車、山車と書き、本来は祭礼に鉦(かね)・太鼓で囃しながら曳く曳き檀尻でした。一方、享保年間(1716~35)には舁(か)きだんじりが用いられ始めました。若者が長襦袢、鉢巻き姿で担ぎ回すもので、淡路市草香や津名郡五色町では「つかいだんじり」として、南あわじ市では「投げだんじり」として、現在も残っています。後に、「浄瑠璃くずし」などのだんじり唄を歌ったようで、淡路市草香には吉田節と呼ばれるものが残っています。
明治23年ごろ、ふとんだんじりが導入されたのを機に、「浄瑠璃くずし」が一般的に広がり始めました。いわゆる浄瑠璃の各外題の劇的最高潮の部分を抜き出し、又は繋(つな)ぎ合わせて、次々に多くの唄が作り出されたようですが、淡路島内に多くの浄瑠璃語りが群雄割拠していた当時のこと、作り出された唄もずいぶんまちまちでした。
- 統一から爛熟期へ
- 百花入り乱れて競い合うだんじり唄に淘汰集約の兆しが見え始めたのは、昭和も初期、阿万(あま)町(現南あわじ市阿万)に榎本善平・桑島毅一という芸達者が現れてからのようです。両人が想を凝らした優美なメロディー、変化に富んだ構成によるだんじり唄は党内各地から歓迎され、師匠として引く手あまたであったようです。
これが「阿万節」と呼ばれて広がり、戦前の爛熟期を形成していきました。
- 幾多の荒波を経て
- 戦時中は、壇尻もだんじり唄も自粛のうちに過ぎました。戦後の一時期、復興しかけたものの、高度経済成長期に入るや、だんじり唄を支える若者が地域に少なくなり、唄も次第細りになりました。
- 今再びの爛熟期に
- 「人形芝居とともに、だんじり唄の灯を絶やすな!」憂郷の先覚森勝初代(財)淡路人形協会理事長の提唱のもと、平成元年に始まった「淡路だんじり唄コンクール」は、今年(平成17年)に第16回目になります。年ごとに出場団体が増え(昨年は39団体)、技術的にも格段進歩、伝統芸能継承へのあふれる情熱の中に、ふるさとの心意気が感じられます。
【参考】竹本若羽太夫編集「淡路の伝統芸能だんじり唄全集」、興津健作著「南淡路のだんじり唄」
後継者団体の活動
淡路人形浄瑠璃の伝承をめざして、地元の小学校・中学校・高校や、子供会、
青年団体が、人間国宝鶴澤友路師匠らの指導のもとで練習に励んでいます。
兵庫県立三原高等学校郷土部
昭和27年に生まれ、半世紀以上にわたって淡路人形の伝承に取り組んでいます。東京・国立劇場で二度公演したのをはじめ、NHKの「青春メッセージ」にも出演しました。ハンガリーやカナダでも公演しています。
また、三原高校では、人形の制作技術を伝承するため、「三原コミュニティカレッジ木偶(でこ)づくり講座」が開かれ、毎土曜日、地域の皆さんが人形作りに励んでいます。
南あわじ市立市(いち)小学校郷土文化部
淡路人形は、西宮の百太夫が市三条に留まり人形操りを伝えたのが始まりと言われています。昭和46年、淡路人形発祥地の小学校として、クラブ活動で練習を始めました。もともと浄瑠璃と人形操りに取り組んでいましたが、現在では浄瑠璃のみ練習しています。
外題は、「伽羅先代萩御殿政岡忠義(めいぼくせんだいはぎごてんまさおかちゅうぎ)の段」を学習発表会や地域の文化芸能祭などで演じています。
南あわじ市立三原中学校郷土部
昭和58年に浄瑠璃の同好会として郷土部が生まれ、60年の練習場完成を機に人形も加わって、部活動として本格的に活動を始めました。当初、演目は「朝顔日記」だけでしたが、現在では5外題を、人形・語り・三味線ともすべて生徒自身でこなすほか、自主創作作品も上演しています。地元の老人施設等でのボランティア活動をはじめ、長野、熊本、東京、神奈川等各地で公演しています。
南あわじ市立南淡中学校郷土芸能部
昭和58年、南淡中学校が開校されると同時に郷土芸能部が生まれました。生徒や教師による大道具や小道具づくりなど試行錯誤を繰り返しながら、「絵本太功記」をはじめ5外題を上演できるまでになりました。
放課後になると足袋やぞうりをはき、人形や語り、三味線の練習に熱中しています。東京など全国各地で、年間約30回の公演をしています。
これまで博報賞や文部科学大臣奨励賞などを受賞しました。
福井子供会人形浄瑠璃部
昭和46年、福井子供会(南あわじ市賀集)に人形浄瑠璃部が生まれ、浄瑠璃の練習を始めました。翌年からは人形操りにも取り組み、現在は毎火曜日の夜、「傾城阿波鳴門巡礼歌(けいせいあわのなるとじゅんれいうた)の段」を練習しています。平成元年には念願の子供人形浄瑠璃館が完成しました。これまで皇太子(現在の天皇)ご夫婦にご覧いただいたり、東京や北海道でも公演しています。
淡路人形浄瑠璃青年研究会
昭和46年に結成され、郷土の伝統芸能を受け継ぎ、楽しむことをモットーに活動しています。会員は南あわじ市を中心に島内の各地から集まり、週1回、三原中学校の人形錬成場で練習しています。地元での公演のほか、これまでにアメリカ・ディズニーランド公演(昭和54年)や中国公演(平成12年)を行いました。平成16年には、近畿・東海・北陸ブロック民俗芸能大会に出演しました。
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もっと知るために
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- 『伝統芸能淡路人形浄瑠璃(改訂版)』
- 三原町教育委員会編集 平成14年 三原町教育委員会発行
- ※問合せ先 南あわじ市教育委員会内(財)淡路人形協会
- 『淡路人形芝居』(写真集)
- 淡路人形芝居写真集編集委員会編集・発行 平成12年
- ※問合せ先 南あわじ市教育委員会内(財)淡路人形協会
- 『市村六之丞』
- 三原町淡路人形浄瑠璃資料館編集・発行 平成2年
- ※問合せ先 現、南あわじ市淡路人形浄瑠璃資料館
- 『三原町淡路人形浄瑠璃資料館十年のあゆみ』
- 同館編集・発行 平成13年
- ※問合せ先 同上
- 『人間国宝鶴澤友路八十年のあゆみ』
- 素川恒男・不動敏編集 平成10年 淡路地域整備推進委員会など発行
- ※問合せ先 南あわじ市教育委員会内(財)淡路人形協会
- 『現代に生きる伝統人形芝居』
- 宇野小四郎著 昭和56年 晩成書房発行
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監修にあたって郷土史家 菊川 兼男
- 人形浄瑠璃「文楽」の、元の型であった淡路人形芝居は約500年の古い歴史のある伝統芸能です。大阪で初演された直後といってもよい早い時期に、淡路の人形座は諸国を巡業して、その人形浄瑠璃を全国各地に普及させました。
明治後期から淡路人形浄瑠璃は他の芸能に押され、戦後は廃絶の危機に瀕(ひん)しました。これを惜しむ地元の人びとの熱意によって、昭和39年に常設館淡路人形座が設立され、翌年、淡路島全島あげての後援団体淡路人形協会が発足。
昭和51年、国の重要無形民俗文化財に指定されました。昭和60年渦潮の鳴門海峡を臨む大鳴門橋記念館にある淡路人形浄浄瑠璃館を本拠地として、18名の座員で年中無休の公演をしています。
平成10年義太夫節三味線の人間国宝となった最年長の鶴澤友路師匠を別格として、20~30代の若手の技芸者が舞台を支え、海外公演や後継者の養成に大活躍をしています。
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監修・協力一覧
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- 協力者
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- NPO法人淡路人形芝居サポートクラブ事務局長 萩原重幸
- 中西英夫
- 財団法人 淡路人形協会
- 淡路人形座
- 淡路人形浄瑠璃資料館 館長 正井良徳
- (以下アイウエオ順)
- 阿万上町町内会 会長 大西文博
- 淡路だんじり唄振興会長 阪本栄治
- 淡路人形浄瑠璃青年研究会
- 木田孝男(福井子供会)
- 阪口弘之
- 篠田嘉郎(福井子供会)
- 西淡鳴潮
- 南淡中学校郷土芸能部
- 西野編集スタジオ
- 引田公彦
- 兵庫県立淡路文化会館
- 南あわじ市ケーブルネットワーク
- 南あわじ市立市小学校
- 三原高等学校郷土部
- 三原だんじり唄保存会青年部
- 淡路三原中学校郷土部
- ほか
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