企画展示
近松の時代物の代表作『国性爺合戦』や、近松最初の世話物『曽根崎心中』を観たり、近松ってどんな人?を知ったり、そして、近松さんが案内してくれる芝居小屋体験もできます。
さあ、近松の世界へ!芝居の世界へ!
『曽根崎心中』は、もう御覧になりましたか?まだの方は、ぜひあとで御覧になってください。
『曽根崎心中』の他にも多くの浄瑠璃や、歌舞伎の作品を書いた劇作家近松ですが、武士の家に生まれ、京での公家勤めから、当時卑しめられていた芝居の世界へ身を投じたのです。
本名杉森平馬信盛。『野郎立役舞台大鏡』によると、「芝居事で朽ち果つべき覚悟」の近松は、万太夫座での道具直しや堺夷島での徒然草の講釈などもしながら、作者としての道を志したのです。最初は、浄瑠璃本や芝居の看板などに「近松門左衛門」と作者名を記すことを非難されましたが、竹本義太夫との提携、坂田藤十朗と組んでの歌舞伎作者としての活躍、『曽根崎心中』の大当りなどを経て、竹本座の座付作者としての位置を確立し、現代に残る、数々の名作が執筆・上演されました。
正徳4(1714)年9月に、竹本筑後掾(義太夫)が亡くなった後も、その弟子の竹本政太夫らを盛り立てて、竹本座の危急を救います。この頃、近松は、尼崎久々知の広済寺へと足を運ぶようになっていました。そして、享保9(1724)年3月の享保の大火で焼け出されて、天満の仮寓にいた近松は、11月22日、72歳の生涯を閉じたのです。
西暦(年号) | 年齢 | 近松関係事項および作品初演年表 |
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1653(承応2) | 1 | 越前藩士杉森市左衛門信義の次男として福井で出生する。幼名は次郎吉。母は越前藩医岡本為竹の娘。 |
1667(寛文7) | 15 | この頃父が浪人し、一家は京へ移住する。 |
1671(寛文11) | 19 | 2月刊行の、山岡元隣著『宝蔵』に「しら雪やはななき山の恥かくし」の句が載る。この頃、一条家他の公卿の家に仕える。 |
1683 (天和3) | 31 | 9月、『世継曽我』(京宇治座)上演。 |
1684 (貞享1) | 32 | 竹本義太夫が道頓堀に旗上げし、『世継曽我』を上演する。 |
1685 (貞享2) | 33 | 二の替り『出世景清』を義太夫のために書く。 |
1686 (貞享3) | 34 | 7月、『佐々木先陣』(竹本座)上演。現存最古の近松の署名入りの正本。 |
1687 (貞享4) | 35 | 『野郎立役舞台大鏡』に近松の評判が出る。4月、父信義没(67歳)。京本圀寺に葬る。 |
1693 (元禄6) | 41 | 3月、『仏母摩耶山開帳』(都万太夫座)上演。現存最古の近松の署名入りの狂言本。 |
1698 (元禄11) | 46 | 4月、『一心二河白道』(万太夫座)上演。 |
1699 (元禄12) | 47 | 1月、『けいせい仏の原』(万太夫座)上演。同後日、後日の後日狂言続演。 |
1701 (元禄14) | 49 | この年、『天鼓』(竹本座)上演。 |
1702 (元禄15) | 50 | 二の替り『けいせい壬生大念仏』(万太夫座)上演。同後日、後日の後日狂言続演。 |
1703 (元禄16) | 51 | 5月、『曽根崎心中』(竹本座)上演。 |
1705 (宝永2) | 53 | 11月、『用明天皇職人鑑』(竹本座)上演。作者近松・太夫筑後掾・座本竹田出雲の提携なる。 |
1706 (宝永3) | 54 | この頃より大坂に移住。1月、『心中二枚絵草紙』(竹本座)上演。夏、『卯月紅葉』(竹本座)上演。 |
1707 (宝永4) | 55 | 11月以前、『心中重井筒』(竹本座)上演。 |
1708 (宝永5) | 56 | この年、『傾城反魂香』(竹本座)上演。 |
1709 (宝永6) | 57 | 盆以前、『心中刃は氷の朔日』(竹本座)上演。11月1日、坂田藤十郎没(63歳)。 |
1710 (宝永7) | 58 | 4月、『心中万年草』(竹本座)上演。 |
1711 (正徳1) | 59 | 1月21日、宇治加賀掾没(77歳)。この年、『冥途の飛脚』(竹本座)上演。 |
1712 (正徳2) | 60 | 9月以前、『嫗山姥』(竹本座)上演。 |
1714 (正徳4) | 62 | 1月、『天神記』(竹本座)上演。9月10日、竹本筑後掾没(64歳)。この頃、尼崎久々知の広済寺開山の後継者となる。 |
1715 (正徳5) | 63 | 春、『大経師昔暦』(竹本座)、11月、『国性爺合戦』(竹本座)上演。『国性爺合戦』は、以後足かけ3年続演する。 |
1716 (享保1) | 64 | 9月9日、母没。広済寺で法要を営む。 |
1717 (享保2) | 65 | 2月、『国性爺後日合戦』(竹本座)、8月、『鑓の権三重帷子』(竹本座)上演。 |
1719 (享保4) | 67 | 8月、『平家女護島』(竹本座)上演。 |
1720 (享保5) | 68 | 8月、『双生隅田川』(竹本座)、12月、『心中天の網島』(竹本座)上演。 |
1721 (享保6) | 69 | 2月、『津国女夫池』(竹本座)、7月、『女殺油地獄』(竹本座)上演。 |
1722 (享保7) | 70 | 3月、『浦島年代記』(竹本座)、4月、『心中宵庚申』(竹本座)上演。この頃から近松病気がち。9月、『仏御前扇車』の添削をする。 |
1723 (享保8) | 71 | 2月、『大塔宮曦鎧』の添削をする。 |
1724 (享保9) | 72 | 1月、『関八州繋馬』(竹本座)上演(絶筆となる)。11月上旬、辞世文を書き残す。11月22日没。法名阿耨院穆矣日一具足居士。尼崎久々知広済寺・大坂谷町法妙寺に墓所が現存。 |
「夕飯後平野町迄以参可得貴慮候但御使ニ承候ヘハ只今久太郎町迄御出被成候由其御方よりハ又少近ク御座候夕飯後迄之内御退屈ニも御座候ハヽ此方ヘ御出被成ましく候哉」
(あなた様でお造りになられた一樽をお贈りくださり、その深い志は、もったいなく、ありがたく存じます。)
新右衛門が大坂に出てきたことを知った近松。自分から平野町の宿へ伺うつもりが、それよりもう少し南の久太郎町まで来ていることを使いから聞き、それなら、私の家に近いので、来てもらえないか、との内容です。
このことから、当時の近松の住まいは、久太郎町より少し南、竹本座のあった道頓堀に近いあたりにあったのだろうと思われます。
「別而ハ御手造之一樽被懸貴意御深志不浅忝奉存候」
(あなた様でお造りになられた一樽をお贈りくださり、その深い志は、もったいなく、ありがたく存じます。)
宛名の「薬や新右衛門」とは、兵庫伊丹の酒造家筒井氏、小西新右衛門のことで、薬種屋でもあったため薬屋とも言います。
「御手造りの一樽」とは、小西家が造る銘酒富士白雪のことでしょう。
近松は、狂歌仲間などとともに、兵庫の銘酒を酌み交わしたのかもしれません。
をクリックすると解説をご覧いただけます
死の十日あまり前、近松が自ら筆を執り、我が身を「世のまがひもの(にせもの)」と言い切り、我が人生を「おぼつかないものであった」と振り返りながら、「一生を囀り散らし」た作者としての生涯を2首の狂歌に凝縮しています。
近松が「口に任せ、筆に走らせ」て書いた作品は、『曽根崎心中』の他にも、浄瑠璃約100篇、歌舞伎約30篇が現存します。
それらは、すべて活字で本文が提供されていますので、ぜひ手に取ってお読みください。
現代のワイドショーで取り上げられるような事件を題材とした作品も、興味本位に、単に「口に任せ、筆に走らせ」たものでないことを確認してみてください。
近松の墓としては、現在2箇所に残っています。写真左側が、兵庫県尼崎市久々知の広済寺にあるものです。
右に近松の法名「阿耨院穆矣日一具足居士」、左に妻の法名「一珠院妙中日事信女」と記されています。
広済寺は、日昌上人の再興で、その後援者として近松も名を連ねています。
また、母が没した時、近松が奉納した「法華経二十八品和歌」や「後西院勅筆色紙」などが残っています。
なお、大坂の書肆山本九右衛門や歌舞伎役者なども、本寺の後援者として名を連ねています。
写真右側は、大阪市中央区谷町の法妙寺があった場所に保存されているものです。
広済寺のものと同様、近松と妻の法名が並べて記されています。
法妙寺は、近松の妻の実家松屋の菩提寺で、現在は大阪府大東市に移転しています。
竹本義太夫は、慶安4(1651)年の生まれで、近松よりわずか2歳年長です。大坂・天王寺村の百姓で、五郎兵衛といい、清水理兵衛・宇治嘉太夫のワキを語り、注目を集めていました。
のちに、竹本義太夫と名を改め、貞享1(1684)年、大坂の道頓堀に旗上げをして、竹本座を興します。その時語ったのが、宇治加賀掾(嘉太夫)のために近松が書いた『世継曽我』だったのですが、大いに評判となりました。貞享2(1685)年の宇治加賀掾との競演の際には、近松に縁を求め、『出世景清』を書いてもらいました。
以後、筑後掾と受領し、『曽根崎心中』の爆発的大当たりなどを経て、大坂における太夫としての位置を不動のものにするのです。亡くなる正徳4(1714)年まで、近松との提携は変わることなく続きました。
太夫が浄瑠璃を語る場を床と言います。そこで用いるテキストが床本です。半丁(1頁)に5行ないし6行の大きな字で、太夫によって手書きで本文が書かれている(写本である)こと、朱と呼ばれる、語りを示す符号が記されること、段や場などの一部分のみが収められることなどが特色です。
写真は、宇治加賀掾の『つれづれ草』という作品の床本で、現在残るものでは最も古いものです。朱は加賀掾自身が付したものだと考えられています。
その作品の始めから終わりまですべてを収めたもので、半丁(1頁)に8行、あるいは7行で書かれた大字本、10行で書かれた中字本があります。これは、延宝7(1679)年5月、宇治加賀掾による『牛若千人切』八行本が最初です。正本は、あくまで太夫の名前で刊行されるもので、作者の名前は示されないのが普通でした。近松が宇治加賀掾のもとで作品を執筆していた頃もそうでした。ですから、近松の作であろうと思われるものでも、確証が得られないものもあり、それらは存疑作と言われます。作者近松の名前が現れる最初の正本は、竹本義太夫正本『佐々木先陣』です。
半丁(1頁)に十数行の細かい字で書かれた本文に、挿絵を取り合わせたもので、絵入細字本とも言います。挿絵と合わせ、筋書きを追う読み物的なものだと考えられます。大字や中字の稽古本が刊行されるまでの主流でしたが、近松の頃には次第に衰えてきました。けれども、舞台演出などを考える場合に、その力を発揮することがあります。写真は、絵入本『曽根崎心中』の、見返しにある舞台図と、挿絵です。
『嫗山姥』は、正徳2(1712)年、近松60歳の時の作品で、源頼光の四天王(碓氷定光・卜部末武・渡辺鋼・坂田金時)誕生前夜を描くものです。竹本座で上演され、大当たりでした。
右大将清原高藤にかくまわれている敵物部平太を討ち取った小糸(糸萩)と喜之介は、源頼光・渡辺綱主従のもとへ逃れ、喜之介は碓氷定光となり、頼光の家来となります。
煙草屋源七となっている坂田時行は、妻の八重桐から、妹糸萩が親の敵物部平太をすでに討ったことを聞かされ、無念の思いで切腹してしまいます。
その一念が胎内に入り、通力を得た八重桐は、大納言兼冬卿の娘沢潟姫を奪いに来た平正盛の家来達を追い散らします。
夜叉の姿となった八重桐はどこへともなく飛び去るのでした。
その後、頼光は、山賊熊竹を卜部末武と名乗らせ、家来とし、山姥となった八重桐が産んだ怪童丸を坂田金時と名付け、近江国高懸山の鬼ともども高藤・正盛を退治しました。
佐渡広栄座ののろま人形は、木之助を中心として、下の長・お花・仏師が登場する喜劇です。代表的な演目が「生き地蔵」で、妻のお花への土産の生き地蔵を仏師に彫ってくれるよう頼んだ下の長ですが、仏師にだまされて、地蔵に扮した木之助を背負って帰ります。その道すがら、生き地蔵でないことがばれて、木之助は裸にされてしまう、というものです。裸にされる木之助の人形にだけ、胴体と手足が付けられています。
その他、「そば畑」「木之助座禅」「お花の嫁入り」「五輪仏」などのレパートリーがあります。
享保年間(1716〜1736年)、青木村八王子(現新穂村)の須田五郎左衛門が京から人形一組を伝えた、との伝承が新穂村に残っています。新穂村の広栄座には、古い説経人形の首6体、のろま人形の首4体が現存し、いずれも新潟県有形民俗文化財に指定されています1961[昭和36]年。
「仰せ下さる如く今に国性爺繁昌仕り候。五月菖蒲之甲のぼり団之絵、野も山もこくせんやこくせんやにて御座候。如何様盆之比は新浄るり替り申すべく候。」(三行目から八行目にかけて)
この近松の手紙には、最後に「卯月晦日」(四月三十日)とだけありますが、『国性爺合戦』は正徳五(一七一五)年十一月から享保二(一七一七)年春までの上演ですから、その間の四月、つまり享保元年のものと考えられています。宛名は不明ですが、内容から「妹背海苔の消息」と呼ばれています。初日から半年を経た今に至るまで、『国性爺合戦』が繁昌し、男の子の節句にふさわしく国性爺(和藤内)たちの図柄の幟や団扇があちこちにあふれるさまを目の当たりにしながらも、盆には新浄瑠璃に替わるであろうと考えていたのです。しかし、その予想は、嬉しくも見事にはずれ、次の年までのロングランとなるのです。
では、それほど好評だった『国性爺合戦』とは、どんな作品なのでしょうか?
左上『一、南京城内』から順次このすばらしい劇世界に入っていってください。
語
竹本三輪太夫の語り
大津祭は、大津市の天孫神社の祭礼です。寛永12(1635)年9月に鍛冶屋町の年寄孫右衛門が書いた「牽山(ひきやま)由来覚書」によると、四宮祭(=大津祭)の時、鍛冶屋町の塩売り治兵衛が狸の面をかぶって躍ったことに始まり、10年あまり続いたが、治兵衛が老年になり、躍れなくなったため、元和8(1622)年の祭からは、腹鼓を打つ糸からくりの細工を施した狸の人形を担いで歩き、寛永12年から地車をつけ、子供たちに引かせた、とあります。また、「四宮祭礼牽山永代伝記」によると、現在のように三輪になったのは、寛永15年からのことです。
現在は、10月第2日曜日が本祭、前日が宵宮となっていて、宵宮には、曳山(ひきやま)の巡行はなく、提灯が掲げられた町内では、各曳山のからくりが町屋に飾られ、曳山で奏でられる鉦・太鼓・笛による囃子が響き渡ります。本祭は、朝9時、13の曳山が天孫神社に集合した後、囃子方が厄除けちまきや手拭いを撒きながら町を巡行し、御幣が掲げられている「所望(しょうもん)」の場所ではからくりを披露し、夕方まで巡行は続きます。
祭終了後、解体して山麓に納められている曳山は、本祭の1週間前に山方と呼ばれる大工によって組み立てられます。釘は使わず、縄で縛っていきますが、まず車輪の部分から組まれ、その上に下層部分(ワク)、さらにその四隅に四本柱が立てられ、屋根が乗せられます。
ワクの部分に、大津祭の呼び物のひとつであるからくりが置かれます。これは、中国・日本の故事や能に取材したもので、現在も残る最も古い猩々山のからくりは、寛永14(1637)年のものです。
曳山のワクには水引幕が懸けられ、後ろには見送幕が飾られます。
いずれも意匠を凝らしたもので、月宮殿山の見送幕。龍門滝山の見送葬と、祇園祭の白楽天山前懸は、もともと1枚のベルギー製タペストリーでした。その他にも、中国製のものなどもあります。
また、天井や衣桁(いこう)には、草花や花鳥の鮮やかな絵が描かれ、欄間には彫刻がはめ込まれます。源氏山は、紫式部のからくりを「石山秋月」に見立て、近江八景の残り七景(「栗津晴風・瀬田夕照」(正面)、「比良暮雪」(背面)、「唐崎夜雨・三井晩鐘」(右)、「矢橋帰帆・堅田落雁」(左))を欄間彫刻としたもので、からくりと同じ享保3(1718)年の制作です。
源氏山のからくりは、紫式部が石山寺で琵琶湖の湖面を眺めるうち、水想観を得て、須磨・明石の景が次々と現われ、それを急いで大般若経の裏に書き留め、『源氏物語』を書き上げたという伝承に基づくもので、享保3(1718)年、林孫之進の作です。中央上部の石山寺の欄干によりかかり、左手に巻紙、右手に筆を持った大きな紫式部のからくり人形(首と腕が動く)があり、式部が見下ろす、その前面には、岩の作り物が置かれています。「所望(しょうもん)」の囃子が始まると、岩の一部が反転して、小屋と立木が現われ、左手の岩屋から潮汲みの乙女と翁、船をこぐ船頭、牛車、木履持ち・傘持ちの男たちの小人形が次々と現われ、正面を回って右手の岩屋へ入ってゆきます。この須磨の景を式部が写しとめるさまを表わしたからくりです。
このからくりの制作が、『国性爺合戦』が上演された正徳5(1715)年と同時期の享保3年であり、『国性爺合戦』の九仙山の場のからくりを考える上で、ひじょうに参考になります。つまり、九仙山上の老翁らが源氏山石山寺での式部のように、下方で展開する四季の合戦が源氏山の須磨の移りゆく景のように、こうしたからくりを用いて演じられたものと思われます。
『曽根崎心中』を、
絵入本の挿絵と
文学の舞台上で
たどってみましょう
近松の風情を感じられるようにと整備された、近松公園・広済寺・近松記念館周辺の「近松の里」を中心に、近松をしのぶ尼崎めぐりです。