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近松門左衛門館

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近松の時代物の代表作『国性爺合戦』や、近松最初の世話物『曽根崎心中』を観たり、近松ってどんな人?を知ったり、そして、近松さんが案内してくれる芝居小屋体験もできます。
さあ、近松の世界へ!芝居の世界へ!

近松門左衛門を知る

〈1〉はじめに

図版:近松門左衛門肖像(柿衛文庫蔵)
図版:近松門左衛門肖像(柿衛文庫蔵)

『曽根崎心中』は、もう御覧になりましたか?まだの方は、ぜひあとで御覧になってください。

『曽根崎心中』の他にも多くの浄瑠璃や、歌舞伎の作品を書いた劇作家近松ですが、武士の家に生まれ、京での公家勤めから、当時卑しめられていた芝居の世界へ身を投じたのです。

本名杉森平馬信盛。『野郎立役舞台大鏡』によると、「芝居事で朽ち果つべき覚悟」の近松は、万太夫座での道具直しや堺夷島での徒然草の講釈などもしながら、作者としての道を志したのです。最初は、浄瑠璃本や芝居の看板などに「近松門左衛門」と作者名を記すことを非難されましたが、竹本義太夫との提携、坂田藤十朗と組んでの歌舞伎作者としての活躍、『曽根崎心中』の大当りなどを経て、竹本座の座付作者としての位置を確立し、現代に残る、数々の名作が執筆・上演されました。

正徳4(1714)年9月に、竹本筑後掾(義太夫)が亡くなった後も、その弟子の竹本政太夫らを盛り立てて、竹本座の危急を救います。この頃、近松は、尼崎久々知の広済寺へと足を運ぶようになっていました。そして、享保9(1724)年3月の享保の大火で焼け出されて、天満の仮寓にいた近松は、11月22日、72歳の生涯を閉じたのです。

〈2〉略年譜

西暦(年号) 年齢 近松関係事項および作品初演年表
1653(承応2) 1 越前藩士杉森市左衛門信義の次男として福井で出生する。幼名は次郎吉。母は越前藩医岡本為竹の娘。
1667(寛文7) 15 この頃父が浪人し、一家は京へ移住する。
1671(寛文11) 19 2月刊行の、山岡元隣著『宝蔵』に「しら雪やはななき山の恥かくし」の句が載る。この頃、一条家他の公卿の家に仕える。
1683 (天和3) 31 9月、『世継曽我』(京宇治座)上演。
1684 (貞享1) 32 竹本義太夫が道頓堀に旗上げし、『世継曽我』を上演する。
1685 (貞享2) 33 二の替り『出世景清』を義太夫のために書く。
1686 (貞享3) 34 7月、『佐々木先陣』(竹本座)上演。現存最古の近松の署名入りの正本。
1687 (貞享4) 35 『野郎立役舞台大鏡』に近松の評判が出る。4月、父信義没(67歳)。京本圀寺に葬る。
1693 (元禄6) 41 3月、『仏母摩耶山開帳』(都万太夫座)上演。現存最古の近松の署名入りの狂言本。
1698 (元禄11) 46 4月、『一心二河白道』(万太夫座)上演。
1699 (元禄12) 47 1月、『けいせい仏の原』(万太夫座)上演。同後日、後日の後日狂言続演。
1701 (元禄14) 49 この年、『天鼓』(竹本座)上演。
1702 (元禄15) 50 二の替り『けいせい壬生大念仏』(万太夫座)上演。同後日、後日の後日狂言続演。
1703 (元禄16) 51 5月、『曽根崎心中』(竹本座)上演。
1705 (宝永2) 53 11月、『用明天皇職人鑑』(竹本座)上演。作者近松・太夫筑後掾・座本竹田出雲の提携なる。
1706 (宝永3) 54 この頃より大坂に移住。1月、『心中二枚絵草紙』(竹本座)上演。夏、『卯月紅葉』(竹本座)上演。
1707 (宝永4) 55 11月以前、『心中重井筒』(竹本座)上演。
1708 (宝永5) 56 この年、『傾城反魂香』(竹本座)上演。
1709 (宝永6) 57 盆以前、『心中刃は氷の朔日』(竹本座)上演。11月1日、坂田藤十郎没(63歳)。
1710 (宝永7) 58 4月、『心中万年草』(竹本座)上演。
1711 (正徳1) 59 1月21日、宇治加賀掾没(77歳)。この年、『冥途の飛脚』(竹本座)上演。
1712 (正徳2) 60 9月以前、『嫗山姥』(竹本座)上演。
1714 (正徳4) 62 1月、『天神記』(竹本座)上演。9月10日、竹本筑後掾没(64歳)。この頃、尼崎久々知の広済寺開山の後継者となる。
1715 (正徳5) 63 春、『大経師昔暦』(竹本座)、11月、『国性爺合戦』(竹本座)上演。『国性爺合戦』は、以後足かけ3年続演する。
1716 (享保1) 64 9月9日、母没。広済寺で法要を営む。
1717 (享保2) 65 2月、『国性爺後日合戦』(竹本座)、8月、『鑓の権三重帷子』(竹本座)上演。
1719 (享保4) 67 8月、『平家女護島』(竹本座)上演。
1720 (享保5) 68 8月、『双生隅田川』(竹本座)、12月、『心中天の網島』(竹本座)上演。
1721 (享保6) 69 2月、『津国女夫池』(竹本座)、7月、『女殺油地獄』(竹本座)上演。
1722 (享保7) 70 3月、『浦島年代記』(竹本座)、4月、『心中宵庚申』(竹本座)上演。この頃から近松病気がち。9月、『仏御前扇車』の添削をする。
1723 (享保8) 71 2月、『大塔宮曦鎧』の添削をする。
1724 (享保9) 72 1月、『関八州繋馬』(竹本座)上演(絶筆となる)。11月上旬、辞世文を書き残す。11月22日没。法名阿耨院穆矣日一具足居士。尼崎久々知広済寺・大坂谷町法妙寺に墓所が現存。

〈3〉書簡「薬屋新右衛門宛書簡」(小西新右衛門氏所蔵)

  • 小西家と近松
  • 近松の住居

「夕飯後平野町迄以参可得貴慮候但御使ニ承候ヘハ只今久太郎町迄御出被成候由其御方よりハ又少近ク御座候夕飯後迄之内御退屈ニも御座候ハヽ此方ヘ御出被成ましく候哉」
(あなた様でお造りになられた一樽をお贈りくださり、その深い志は、もったいなく、ありがたく存じます。)

新右衛門が大坂に出てきたことを知った近松。自分から平野町の宿へ伺うつもりが、それよりもう少し南の久太郎町まで来ていることを使いから聞き、それなら、私の家に近いので、来てもらえないか、との内容です。

このことから、当時の近松の住まいは、久太郎町より少し南、竹本座のあった道頓堀に近いあたりにあったのだろうと思われます。

「別而ハ御手造之一樽被懸貴意御深志不浅忝奉存候」
(あなた様でお造りになられた一樽をお贈りくださり、その深い志は、もったいなく、ありがたく存じます。)

宛名の「薬や新右衛門」とは、兵庫伊丹の酒造家筒井氏、小西新右衛門のことで、薬種屋でもあったため薬屋とも言います。

「御手造りの一樽」とは、小西家が造る銘酒富士白雪のことでしょう。
近松は、狂歌仲間などとともに、兵庫の銘酒を酌み交わしたのかもしれません。

をクリックすると解説をご覧いただけます

〈4〉辞世文

死の十日あまり前、近松が自ら筆を執り、我が身を「世のまがひもの(にせもの)」と言い切り、我が人生を「おぼつかないものであった」と振り返りながら、「一生を囀り散らし」た作者としての生涯を2首の狂歌に凝縮しています。
近松が「口に任せ、筆に走らせ」て書いた作品は、『曽根崎心中』の他にも、浄瑠璃約100篇、歌舞伎約30篇が現存します。
それらは、すべて活字で本文が提供されていますので、ぜひ手に取ってお読みください。
現代のワイドショーで取り上げられるような事件を題材とした作品も、興味本位に、単に「口に任せ、筆に走らせ」たものでないことを確認してみてください。

辞世文(早稲田大学演劇博物館所蔵)辞世文(早稲田大学演劇博物館所蔵)
〈訳〉
代々甲冑の家に生まれなから式林を離れ三槐九卿につかへ、咫尺し奉りで寸爵なく市井に漂て商売しらす隠に似て隠にあらす賢に似て賢ならすものしりに似て何もしらす 世のまかひもの
からの大和の教ある道々妓能維芸滑稽の類までしらぬ事なけに、口にまかせ、筆にはしらせ、一生を囀りちらし、今はの際にいふへくおもふへき真の一大事は一字半言もなき倒惑 こころの恥をおほひて」七十あまりの光陰おもへはおほつかなき我世経畢
もし辞世はと問人あらは それそ辞世去ほとに扨もそののちに残る桜か花しにほはは
享保九年中冬上旬
入寂名 阿耨院穆矣日一具足居士
特院移矢日一具足居士
不候終焉期予自記春秋七十二歳 平安堂信盛之印
のこれとはおもふもおろかうつみ火のけぬまあたなるくち木かきして

〈5〉墓

  • 広済寺広済寺
  • 法妙寺法妙寺

近松の墓としては、現在2箇所に残っています。写真左側が、兵庫県尼崎市久々知の広済寺にあるものです。
右に近松の法名「阿耨院穆矣日一具足居士」、左に妻の法名「一珠院妙中日事信女」と記されています。
広済寺は、日昌上人の再興で、その後援者として近松も名を連ねています。
また、母が没した時、近松が奉納した「法華経二十八品和歌」や「後西院勅筆色紙」などが残っています。
なお、大坂の書肆山本九右衛門や歌舞伎役者なども、本寺の後援者として名を連ねています。
写真右側は、大阪市中央区谷町の法妙寺があった場所に保存されているものです。
広済寺のものと同様、近松と妻の法名が並べて記されています。
法妙寺は、近松の妻の実家松屋の菩提寺で、現在は大阪府大東市に移転しています。

〜歌舞伎作者としての近松〜

歌舞伎作者

近松

貞享の頃(一六八四~一六八八年)から歌舞伎の世界にも関係していたようですが、狂言本に作者として名前が現れるのは、現存本では元禄六(一六九三)年の『仏母摩耶山開帳』からです。元禄期の歌舞伎役者金子吉左衛門(一高)の、元禄十一年の日記が残っていますが、たとえば、三月二十一日の条には「予追付宿ニ帰リ 信盛ト狂言相談……一心二河白道上出来夜半ニ生重帰ル 八ツ時分ニ信盛帰ル」とあり、一高と、信盛こと近松は新狂言『一心二河白道』の相談をしており、翌日も翌々日も相談をして仕上げていく様子が分かります元禄期の後半は、主に歌舞伎狂言の執筆に力を注いでいますが、この時期も、竹本義太夫の浄瑠璃の相談をしたり、歌舞伎の芝居で使う人形を宇治加賀掾から借りたりして、浄瑠璃の世界とも縁が切れていたわけではありません。実際、元禄十四年には、浄瑠璃『天鼓』を書いていますが、これには『けいせい仏の原』の当り場面などが取り入れられています。このような経験が基盤となって、『曽根崎心中』も生み出されたのです。

太夫と人形

右側の写真中央で、本を載せる台(見台)を前にして語っているのが、竹本筑後掾(義太夫)です。
近松との提携を果たした竹本義太夫と太夫とかかわりの深いテキストについて見てみます。
太夫

竹本義太夫

竹本義太夫肖像(大阪歴史博物館所蔵)
竹本義太夫肖像(大阪歴史博物館所蔵)

竹本義太夫は、慶安4(1651)年の生まれで、近松よりわずか2歳年長です。大坂・天王寺村の百姓で、五郎兵衛といい、清水理兵衛・宇治嘉太夫のワキを語り、注目を集めていました。
のちに、竹本義太夫と名を改め、貞享1(1684)年、大坂の道頓堀に旗上げをして、竹本座を興します。その時語ったのが、宇治加賀掾(嘉太夫)のために近松が書いた『世継曽我』だったのですが、大いに評判となりました。貞享2(1685)年の宇治加賀掾との競演の際には、近松に縁を求め、『出世景清』を書いてもらいました。
以後、筑後掾と受領し、『曽根崎心中』の爆発的大当たりなどを経て、大坂における太夫としての位置を不動のものにするのです。亡くなる正徳4(1714)年まで、近松との提携は変わることなく続きました。

床本

つれづれ草
つれづれ草

太夫が浄瑠璃を語る場を床と言います。そこで用いるテキストが床本です。半丁(1頁)に5行ないし6行の大きな字で、太夫によって手書きで本文が書かれている(写本である)こと、朱と呼ばれる、語りを示す符号が記されること、段や場などの一部分のみが収められることなどが特色です。

写真は、宇治加賀掾の『つれづれ草』という作品の床本で、現在残るものでは最も古いものです。朱は加賀掾自身が付したものだと考えられています。

稽古本

観音廻り(大阪府立中之島図書館所蔵)出典:近松全集 第四巻 岩波書店刊
観音廻り(大阪府立中之島図書館所蔵)出典:近松全集 第四巻 岩波書店刊
生玉社(大阪府立中之島図書館所蔵)出典:近松全集 第四巻 岩波書店刊
生玉社(大阪府立中之島図書館所蔵)出典:近松全集 第四巻 岩波書店刊
天満屋(大阪府立中之島図書館所蔵)出典:近松全集 第四巻 岩波書店刊
天満屋(大阪府立中之島図書館所蔵)出典:近松全集 第四巻 岩波書店刊
道行(大阪府立中之島図書館所蔵)出典:近松全集 第四巻 岩波書店刊
道行(大阪府立中之島図書館所蔵)出典:近松全集 第四巻 岩波書店刊

その作品の始めから終わりまですべてを収めたもので、半丁(1頁)に8行、あるいは7行で書かれた大字本、10行で書かれた中字本があります。これは、延宝7(1679)年5月、宇治加賀掾による『牛若千人切』八行本が最初です。正本は、あくまで太夫の名前で刊行されるもので、作者の名前は示されないのが普通でした。近松が宇治加賀掾のもとで作品を執筆していた頃もそうでした。ですから、近松の作であろうと思われるものでも、確証が得られないものもあり、それらは存疑作と言われます。作者近松の名前が現れる最初の正本は、竹本義太夫正本『佐々木先陣』です。

絵入本

舞台図(天理大学附属天理図書館蔵)出典:近松門左衛門②〈新編日本古典文学全集75〉小学館刊
舞台図(天理大学附属天理図書館蔵)出典:近松門左衛門②〈新編日本古典文学全集75〉小学館刊
舞台図(天理大学附属天理図書館蔵)出典:近松門左衛門②〈新編日本古典文学全集75〉小学館刊
舞台図(天理大学附属天理図書館蔵)出典:近松門左衛門②〈新編日本古典文学全集75〉小学館刊

半丁(1頁)に十数行の細かい字で書かれた本文に、挿絵を取り合わせたもので、絵入細字本とも言います。挿絵と合わせ、筋書きを追う読み物的なものだと考えられます。大字や中字の稽古本が刊行されるまでの主流でしたが、近松の頃には次第に衰えてきました。けれども、舞台演出などを考える場合に、その力を発揮することがあります。写真は、絵入本『曽根崎心中』の、見返しにある舞台図と、挿絵です。

人の形代としての人形に生命を吹き込むのが人形遣いです。そのために首・衣装・操法などにさまざまな工夫がこらされています。ここでは、近松当時の人形の遣い方である一人遣いと、現行文楽の人形の遣い方である三人遣いを見てみましょう。

人形

一人遣い
近松当時の人形の遣い方は、人形の衣裳の裾から突っ込んだ両手で遣うもので、一人の人形遣いが一体の人形を遣う「一人遣い」が基本でした。「裾突込遣い」という操法で、人形遣いは手摺に全身を隠して遣います。 図にある『曽根崎心中』冒頭の観音廻りで、お初の人形を遣う辰松八郎兵衛の姿がそうです。その他にも、人形の背中の部分から差し込んだ両手で遣う「背差込遣い」という操法もあり、碁盤の上での演技など、付け舞台で行なわれました。もちろん、これも一人遣いです。
佐渡広栄座の人形も一人遣いですが、人形の衣裳の裾から突っ込んだ左手で、首を支える胴串を握り、右手は右袖に指し込んで所作をします。
三人遣い
一体の人形を三人の人形遣いで遣う「三人遣い」は、近松の没後、竹本座の人形遣い吉田文三郎によって考案されたと言われています。現代の文楽も三人遣いが原則です。これは、主遣いがその左手で人形の胴串を握り、右手で人形の右手を操作し、左遣いがその右手に持った差し金と呼ばれる棒で人形の左手を、足遣いがその両手で人形の両足を遣うというものです。主遣いは、足遣いの姿勢が楽なように、舞台下駄を履きます。

一人遣い佐渡に残る『嫗山姥(こもちやまんば)』

佐渡に残る『嫗山姥(こもちやまんば)』
佐渡に残る『嫗山姥(こもちやまんば)』
佐渡に残る『嫗山姥(こもちやまんば)』

『嫗山姥』は、正徳2(1712)年、近松60歳の時の作品で、源頼光の四天王(碓氷定光・卜部末武・渡辺鋼・坂田金時)誕生前夜を描くものです。竹本座で上演され、大当たりでした。

右大将清原高藤にかくまわれている敵物部平太を討ち取った小糸(糸萩)と喜之介は、源頼光・渡辺綱主従のもとへ逃れ、喜之介は碓氷定光となり、頼光の家来となります。

煙草屋源七となっている坂田時行は、妻の八重桐から、妹糸萩が親の敵物部平太をすでに討ったことを聞かされ、無念の思いで切腹してしまいます。
その一念が胎内に入り、通力を得た八重桐は、大納言兼冬卿の娘沢潟姫を奪いに来た平正盛の家来達を追い散らします。

夜叉の姿となった八重桐はどこへともなく飛び去るのでした。
その後、頼光は、山賊熊竹を卜部末武と名乗らせ、家来とし、山姥となった八重桐が産んだ怪童丸を坂田金時と名付け、近江国高懸山の鬼ともども高藤・正盛を退治しました。

一人遣い沢渡のろま人形

沢渡のろま人形

佐渡広栄座ののろま人形は、木之助を中心として、下の長・お花・仏師が登場する喜劇です。代表的な演目が「生き地蔵」で、妻のお花への土産の生き地蔵を仏師に彫ってくれるよう頼んだ下の長ですが、仏師にだまされて、地蔵に扮した木之助を背負って帰ります。その道すがら、生き地蔵でないことがばれて、木之助は裸にされてしまう、というものです。裸にされる木之助の人形にだけ、胴体と手足が付けられています。
その他、「そば畑」「木之助座禅」「お花の嫁入り」「五輪仏」などのレパートリーがあります。

一人遣い佐渡の人形首

説経人形
説経人形
下の長
下の長
爺

享保年間(1716〜1736年)、青木村八王子(現新穂村)の須田五郎左衛門が京から人形一組を伝えた、との伝承が新穂村に残っています。新穂村の広栄座には、古い説経人形の首6体、のろま人形の首4体が現存し、いずれも新潟県有形民俗文化財に指定されています1961[昭和36]年。

「国性爺合戦」を観る

国性爺合戦

「仰せ下さる如く今に国性爺繁昌仕り候。五月菖蒲之甲のぼり団之絵、野も山もこくせんやこくせんやにて御座候。如何様盆之比は新浄るり替り申すべく候。」(三行目から八行目にかけて)
この近松の手紙には、最後に「卯月晦日」(四月三十日)とだけありますが、『国性爺合戦』は正徳五(一七一五)年十一月から享保二(一七一七)年春までの上演ですから、その間の四月、つまり享保元年のものと考えられています。宛名は不明ですが、内容から「妹背海苔の消息」と呼ばれています。初日から半年を経た今に至るまで、『国性爺合戦』が繁昌し、男の子の節句にふさわしく国性爺(和藤内)たちの図柄の幟や団扇があちこちにあふれるさまを目の当たりにしながらも、盆には新浄瑠璃に替わるであろうと考えていたのです。しかし、その予想は、嬉しくも見事にはずれ、次の年までのロングランとなるのです。
では、それほど好評だった『国性爺合戦』とは、どんな作品なのでしょうか?
左上『一、南京城内』から順次このすばらしい劇世界に入っていってください。

語 竹本三輪太夫の語り

一. 南京城内

一. 南京城内
大夫の朗読
一. 南京城内
一. 南京城内
一. 南京城内
大夫の朗読

二. 梅檀皇女御殿

二. 梅檀皇女御殿
二. 梅檀皇女御殿
大夫の朗読
二. 梅檀皇女御殿
二. 梅檀皇女御殿

三. 海登の港

三. 海登の港
三. 海登の港
三. 海登の港
大夫の朗読
三. 海登の港

四. 肥前松浦平戸の浦

四. 肥前松浦平戸の浦
四. 肥前松浦平戸の浦
四. 肥前松浦平戸の浦
四. 肥前松浦平戸の浦
四. 肥前松浦平戸の浦
大夫の朗読
四. 肥前松浦平戸の浦
四. 肥前松浦平戸の浦
大夫の朗読

五. 千里が竹

五. 千里が竹
五. 千里が竹
大夫の朗読
五. 千里が竹
大夫の朗読
五. 千里が竹

六. 獅子が城楼門

六. 獅子が城楼門
大夫の朗読
六. 獅子が城楼門
六. 獅子が城楼門
大夫の朗読
六. 獅子が城楼門

七. 獅子が城城内

七. 獅子が城城内
七. 獅子が城城内
大夫の朗読
七. 獅子が城城内
七. 獅子が城城内
大夫の朗読
七. 獅子が城城内
七. 獅子が城城内
七. 獅子が城城内
七. 獅子が城城内
大夫の朗読
七. 獅子が城城内
七. 獅子が城城内
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七. 獅子が城城内
七. 獅子が城城内
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七. 獅子が城城内
七. 獅子が城城内
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七. 獅子が城城内
七. 獅子が城城内
七. 獅子が城城内

八. 肥前松浦潟住吉社頭

八. 肥前松浦潟住吉社頭

九. 梅檀皇女道行

九. 梅檀皇女道行
大夫の朗読
九. 梅檀皇女道行
九. 梅檀皇女道行

十. 唐土九仙山

十. 唐土九仙山
十. 唐土九仙山
大夫の朗読
十. 唐土九仙山
十. 唐土九仙山
大夫の朗読
十. 唐土九仙山
大夫の朗読
十. 唐土九仙山
十. 唐土九仙山
大夫の朗読
十. 唐土九仙山
大夫の朗読
十. 唐土九仙山
十. 唐土九仙山
十. 唐土九仙山
大夫の朗読
十. 唐土九仙山
大夫の朗読
十. 唐土九仙山

十一. 龍馬が原陣

十一. 龍馬が原陣
十一. 龍馬が原陣
大夫の朗読

十二. 南京城門

十二. 南京城門
十二. 南京城門
大夫の朗読
十二. 南京城門
十二. 南京城門
大夫の朗読

大津祭の紹介

大津祭のはじまり

大津祭のはじまり1
大津祭のはじまり2

大津祭は、大津市の天孫神社の祭礼です。寛永12(1635)年9月に鍛冶屋町の年寄孫右衛門が書いた「牽山(ひきやま)由来覚書」によると、四宮祭(=大津祭)の時、鍛冶屋町の塩売り治兵衛が狸の面をかぶって躍ったことに始まり、10年あまり続いたが、治兵衛が老年になり、躍れなくなったため、元和8(1622)年の祭からは、腹鼓を打つ糸からくりの細工を施した狸の人形を担いで歩き、寛永12年から地車をつけ、子供たちに引かせた、とあります。また、「四宮祭礼牽山永代伝記」によると、現在のように三輪になったのは、寛永15年からのことです。
現在は、10月第2日曜日が本祭、前日が宵宮となっていて、宵宮には、曳山(ひきやま)の巡行はなく、提灯が掲げられた町内では、各曳山のからくりが町屋に飾られ、曳山で奏でられる鉦・太鼓・笛による囃子が響き渡ります。本祭は、朝9時、13の曳山が天孫神社に集合した後、囃子方が厄除けちまきや手拭いを撒きながら町を巡行し、御幣が掲げられている「所望(しょうもん)」の場所ではからくりを披露し、夕方まで巡行は続きます。

曳山の構造とからくり

曳山の構造とからくり

祭終了後、解体して山麓に納められている曳山は、本祭の1週間前に山方と呼ばれる大工によって組み立てられます。釘は使わず、縄で縛っていきますが、まず車輪の部分から組まれ、その上に下層部分(ワク)、さらにその四隅に四本柱が立てられ、屋根が乗せられます。
ワクの部分に、大津祭の呼び物のひとつであるからくりが置かれます。これは、中国・日本の故事や能に取材したもので、現在も残る最も古い猩々山のからくりは、寛永14(1637)年のものです。

源氏山のからくりの組み立て手順を見る

曳山の装飾

曳山の装飾1
曳山の装飾2

曳山のワクには水引幕が懸けられ、後ろには見送幕が飾られます。
いずれも意匠を凝らしたもので、月宮殿山の見送幕。龍門滝山の見送葬と、祇園祭の白楽天山前懸は、もともと1枚のベルギー製タペストリーでした。その他にも、中国製のものなどもあります。
また、天井や衣桁(いこう)には、草花や花鳥の鮮やかな絵が描かれ、欄間には彫刻がはめ込まれます。源氏山は、紫式部のからくりを「石山秋月」に見立て、近江八景の残り七景(「栗津晴風・瀬田夕照」(正面)、「比良暮雪」(背面)、「唐崎夜雨・三井晩鐘」(右)、「矢橋帰帆・堅田落雁」(左))を欄間彫刻としたもので、からくりと同じ享保3(1718)年の制作です。

源氏山のからくりと九仙山の場

源氏山のからくりと九仙山の場

源氏山のからくりは、紫式部が石山寺で琵琶湖の湖面を眺めるうち、水想観を得て、須磨・明石の景が次々と現われ、それを急いで大般若経の裏に書き留め、『源氏物語』を書き上げたという伝承に基づくもので、享保3(1718)年、林孫之進の作です。中央上部の石山寺の欄干によりかかり、左手に巻紙、右手に筆を持った大きな紫式部のからくり人形(首と腕が動く)があり、式部が見下ろす、その前面には、岩の作り物が置かれています。「所望(しょうもん)」の囃子が始まると、岩の一部が反転して、小屋と立木が現われ、左手の岩屋から潮汲みの乙女と翁、船をこぐ船頭、牛車、木履持ち・傘持ちの男たちの小人形が次々と現われ、正面を回って右手の岩屋へ入ってゆきます。この須磨の景を式部が写しとめるさまを表わしたからくりです。
このからくりの制作が、『国性爺合戦』が上演された正徳5(1715)年と同時期の享保3年であり、『国性爺合戦』の九仙山の場のからくりを考える上で、ひじょうに参考になります。つまり、九仙山上の老翁らが源氏山石山寺での式部のように、下方で展開する四季の合戦が源氏山の須磨の移りゆく景のように、こうしたからくりを用いて演じられたものと思われます。

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源氏山のからくりの組み立て手順1
源氏山のからくりの組み立て手順2
源氏山のからくりの組み立て手順3
源氏山のからくりの組み立て手順4
源氏山のからくりの組み立て手順5
源氏山のからくりの組み立て手順6
源氏山のからくりの組み立て手順7

「曽根崎心中」を観る

『曽根崎心中』を、
絵入本の挿絵と
文学の舞台上で
たどってみましょう

絵入本『曽根崎心中』

  • 口上口上
  • 観音廻り観音廻り
  • 生玉社生玉社
  • 天満屋 #1天満屋 #1
  • 天満屋 #2天満屋 #2
  • 道行道行
  • 天神の森天神の森
  • 曽根崎心中の評判曽根崎心中の評判

口上

元禄16(1703)年、大阪竹本座で初演。
太夫竹本筑後掾・竹本頼母・竹本喜内・人形遣い辰松八郎兵衛(お初)・吉田三郎兵衛(徳兵衛)。
元禄16年4月、大阪曽根崎の露天神で心中事件が起きました。次の新浄瑠璃の相談をしていた竹本座は、京都からたまたま大阪に来合わせた近松に浄瑠璃に仕組むよう依頼し、一ヶ月後には舞台にかけました。近松最初の世話物『曽根崎心中』の誕生です。世話物とは、市井での出来事を劇化した当時の時代劇です。
これに先立ち、あちこちの歌舞伎では上演されていましたが、浄瑠璃ではこれが初めてです。

さあ、お芝居の始まりです。

口上
天理大学附属天理図書館蔵 出典:近松門左衛門集②(新編日本古典文学全集75)
天理大学附属天理図書館蔵 出典:近松門左衛門集②
(新編日本古典文学全集75)小学館刊

観音廻り

付け舞台での竹本筑後掾・竹本頼母の出語り、辰松八郎兵衛の出遣いを描いた舞台図。辰松が人形を遣っている様子が見えるように綟子(もじ)手摺りが使われています。遣っているのは、観音廻りをするお初の人形です。右下にはお初が乗って登場した駕籠が見えます。お初が駕籠から降りたり、煙管をくゆらせたりといった絶妙な演技を見せたのです。
一番の太融寺から三十三番の御霊神社まで廻り終えたお初は、「三十三に御身を変え、色で導き、情けで教え、恋を菩提の橋となし、渡して救う観世音」と見まごうばかりです。

観音廻り
大阪府立中之島図書館所蔵 出典:近松全集 第四巻 岩波書店刊
大阪府立中之島図書館所蔵
出典:近松全集 第四巻 岩波書店刊

生玉社

生玉社の境内には、落語の原点である軽口話の米沢彦八や、テーブルマジックよろしく放下師などが芸を競っていました。
その生玉社の出茶屋で、三十三所の観音廻りを終えたお初が休んでいるところへ、得意先回りの途中の徳兵衛がやってきます。お初は堂島新地にある天満屋の遊女、徳兵衛は内本町にある平野屋(醤油屋)の手代です。

しばらく顔を見せなかったことを恨むお初に、徳兵衛はその間の事情を語ります。叔父でもある主人からもちかけられた内儀の姪との縁談を断ったため、すでに徳兵衛の継母に渡してあった銀2貫目の持参金を4月7日までに返すように迫られたこと、やっとのことでその持参金を取り返したことなどです。

7日は明日、少しでも早く返すようにと勧めるお初ですが、徳兵衛は、そのお金を先月末に友人の九平次に貸していたのです。そこへ通りかかった九平次に徳兵衛は手形まで見せて返済を迫りますが、その手形に押している判は先月25日になくしたもの、それを拾ってお前が押したのだな、と汚名を着せられてしまいます。徳兵衛は腕ずくでもと、摑み付きますが、逆に5人連れの九平次たちに殴られ、蹴られ、髪も帯も解けてしまいます。
大衆の面前で面目を失った徳兵衛は、「この徳兵衛が正直の心の底の涼しさは、三日を過ごさず大坂中へ申し訳はしてみしょう」の言葉を残し、破れた編み笠を着て、すごすごと帰ってゆきます。

生玉社
大阪府立中之島図書館所蔵 出典:近松全集 第四巻 岩波書店刊
大阪府立中之島図書館所蔵
出典:近松全集 第四巻 岩波書店刊

天満屋 #1

「恋風の。身に蜆川」--恋慕の情が身に沁みる蜆川の新地(堂島新地)。そこは、「四季の蛍よ、雨夜の星か、夏も花見る」ような、この世とも思えぬ新色里です。そこに天満屋はあります。
傍輩たちの言葉にいっそう胸を痛めるお初のもとへ、死を覚悟した徳兵衛が、人目を忍び、編み笠を着て訪れます。表では話もできず、お初は徳兵衛を裲襠(うちかけ)の裾に隠し入れ、縁の下に忍ばせます。
そこへ九平次が訪れ、徳兵衛の悪口を言い立てます。お初は、身を震わして腹を立てる徳兵衛を足先で押し鎮め、「徳さんの死の覚悟が聞きたい」と独り言になぞらえて徳兵衛に足で問いかけます。徳兵衛は、その足首で自分の喉笛をなで、自害する覚悟をお初に伝えます。九平次を罵倒するお初の迫力に九平次は退散します。

天満屋 #1
天理大学附属天理図書館蔵 出典:近松門左衛門集②(新編日本古典文学全集75)
天理大学附属天理図書館蔵 出典:近松門左衛門集②
(新編日本古典文学全集75)小学館刊

天満屋 #2

お初は、亭主夫婦によそながら暇乞いをして、閨に入るのでした。
死に出立の白無垢に、まるで恋路の闇のような黒小袖を打ち掛けたお初が2階から覗くと、吊行灯の灯が明々とともっています。扇を付けた棕櫚箒でなんとか灯を消します。
灯を点けようと下女が打つ火打ちの音に紛らし、車戸を開け、二人は必死の思いで脱出します。「ああ嬉しい」と死にに行く身を喜ぶ二人の命は、下女が打つ火打石の火のように短いものだったのです。

天満屋 #2
天理大学附属天理図書館蔵 出典:近松門左衛門集②(新編日本古典文学全集75)
天理大学附属天理図書館蔵 出典:近松門左衛門集②
(新編日本古典文学全集75)小学館刊

道行

「この世の名残、夜も名残。
死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜。
一足づつに消えてゆく。
夢の夢こそ哀れなれ。」

荻生徂徠も激賞したという道行文。名文として名高いものです。
午前3時頃、この夜がこの世の最後でもあり、死にに行く身は、一足踏み出すごとに消えてゆく道の霜のように、夢の中での夢のように、はかなく、哀れです。
川向こうの2階からは心中の歌が聞こえてきます。
昨日今日までは他人事に言っていたが、明日からは自分も噂されるだろう、思えば、徳兵衛は25歳、お初も19歳の、ともに厄年でした。あの世でもいっしょにとの思いの二人は曽根崎の天神(露天神)の森に辿り着いたのでした。

道行
山口大学図書館所蔵 出典:近松全集 第四巻 岩波書店刊
山口大学図書館所蔵
出典:近松全集 第四巻 岩波書店刊

天神の森

死に場所を求める二人は、松と棕櫚とが並んで生えている所を、連理の契りになぞらえて、上着を木にかけます。「世に類なき死にやうの。手本」となろうと、二人は体を木に結びつけ、徳兵衛は震える手でお初の喉笛を突きます。断末魔の苦しみのお初に遅れまい、息は同時に引き取ろうと、徳兵衛は自分も剃刀を喉に突き立て、苦しみつつ息絶えます。
誰が告げるともなく、評判となり、二人の成仏は疑いのない「恋の手本」となったのです。

天神の森
大阪府立中之島図書館所蔵 出典:近松全集 第四巻 岩波書店刊
大阪府立中之島図書館所蔵
出典:近松全集 第四巻 岩波書店刊

曽根崎心中の評判

「やれ曽根崎の天神で。見事な心中」と、町中この噂でもちきりです。「ちょうど大坂に来てはる近松はんに頼んで、浄瑠璃に書いてもらおやないか」と、この心中を一段浄瑠璃に仕組んだところ、爆発的な大当りで、竹本座は少しの間に大儲けをして、あちこちの借金を払い終えたのでした。(『今昔操年代記』)

この2年度、近松は竹本座に座付作者として迎えられ、『用明天王職人鑑』(宝永2年)で顔見せを行ないます。さらに、この『用明天王職人鑑』を見物に行くという設定で始まる近松作『心中二枚絵草子』(宝永3年)は、曽根崎心中三年忌の年、再び天満屋に起こった心中事件の劇化です。同じ年に上演された近松作『卯月紅葉』は、序の二十二社廻りをはじめ、『曽根崎心中』の趣向取りであり、序開きの舞台図を描いた絵入本の、舞台図上部に口上の文章を掲げるスタイルまで類似します。また、正徳5(1715)年に上演された近松作『生玉心中』という作品は、お初・徳兵衛の十三回忌追善を意図したものです。

豊竹座でも、『曽根崎心中』を上演しただけでなく、その翌年、『遊女誠草』が、正徳5年には『曽根崎心中十三年忌』が上演され、享保18(1733)年に上演された『お初天神記』は三十三回忌を当て込んでいると思われます。
これらの延長線上に、昭和28(1953)年の歌舞伎(宇野信夫脚色)、昭和30年(1955)年の文楽(野澤松之輔作曲)での復活があり、現在に至ります。
一時の噂と消えてゆくかもしれなかったお初・徳兵衛二人の死は、近松の筆によって現代まで「恋の手本」として残ったのです。興味本位だけではない、人間のあり方を見据える「文学者」の目がそこにはあったからです。

曽根崎心中の評判

現代に生きる「曽根崎心中」

導入

導入
導入
導入

生玉社

生玉社
生玉社
生玉社
生玉社
生玉社
生玉社
生玉社
生玉社
生玉社
生玉社
生玉社
生玉社

天満屋

天満屋
天満屋
天満屋
天満屋
天満屋
天満屋
天満屋
天満屋
天満屋
天満屋
天満屋
天満屋
天満屋
天満屋

道行天神の森

道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森
道行天神の森

淡路浄瑠璃

郷土の芸能「淡路浄瑠璃」
西宮戎(えびす)社のえびすかき(傀儡師(かいらいし))百太夫(ひゃくだゆう)が三条村(現在三原町市三条)の引田家に婿入りし、人形操りを伝えたことから淡路人形の歴史は始まると伝えられています。江戸時代には、遠く九州や北陸でも興行し、現在も各地に淡路系人形座が残ります。
  しかし、享保・元文期(1716~1741年)の頃までは40座以上あった人形浄瑠璃の座が、文政期(1818~1830年)には18座となり、さらに昭和初期には衰えを見せていました。昭和52年、淡路人形協会と淡路人形座が合併し、財団法人淡路人形協会が設立され、後継者の育成や座員の公務員化を行ない、現在は、淡路人形浄瑠璃館でほぼ年中無休での公演が行なわれています。
 『絵本太功記(えほんたいこうき)』は、寛政11(1799)年、近松やなぎ・近松湖水軒・近松千葉軒合作の、13段から成る浄瑠璃で、武智光秀が主君尾田春長を討つことから物語は始まります。
?上演は、「太十(たいじゅう)」と呼ばれる十段目「尼崎の段」で、攻め寄せる羽柴久吉軍に取り囲まれた光秀が、久吉と天王山での決戦を約して別れる場面です。演奏・演技は、南淡中学校郷土芸能部のみなさんです。

バーチャル芝居小屋

尼崎「浜松めぐり」

近松の風情を感じられるようにと整備された、近松公園・広済寺・近松記念館周辺の「近松の里」を中心に、近松をしのぶ尼崎めぐりです。

マップ

梅川の像(JR尼崎駅北側)
近松の代表作の一つ『冥途の飛脚』のヒロイン梅川を、文楽人形のイメージで制作したもので、尼崎を訪れた人を迎えてくれます。同駅南側には、モニュメント「近松のまち あまがさき」もあります。
近松辞世文歌碑(小園公民館)
近松の辞世の狂歌「のこれとはおもうもおろか うつみ火のけぬまあたなるくち木書して」の歌碑です。小園公民館には近松の木像が置かれています。
近松公園
市民の憩いの場となっている近松公園内には、浄瑠璃本と扇子を手にした近松の座像や、近松をイメージしたモニュメントなどがあります。
近松記念館
近松が広済寺に奉納した品や、過去帳など、近松ゆかりの品々が展示されています。広済寺にお参りする際、かならず立ち寄りたい場所です。
広済寺
国指定史跡である近松のお墓のあるお寺として有名です。近松の命日である11月22日前後の日曜日に近松祭が行なわれ、また、近松作品の舞台が成功するようにと、演者も祈願に訪れます。
園田学園女子大学近松研究所
近松ゆかりの尼崎市に位置する園田学園女子大学に設置された、近松の名前を冠した研究所。近松をはじめ近世演劇などに関する図書の閲覧もできます。
近松断章(阪急塚口駅南側)
「此の世の名残 夜も名残」の名文、『曽根崎心中』道行部分の床本と硯をかたどったモニュメントです。塚口駅を降りると真っ先に目に飛び込んできます。
監修・協力
監修にあたって
参考文献
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