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宮本武蔵館

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宮本武蔵 力と美

剣の道に生きたその姿は、芝居や講談、小説や映画などを通じ、三百年近くにわたり人々を魅了してきました。
しかし画家として、哲学者として、「美と言葉」を極めたもう一つの姿は意外と知られてはいません。

剣豪・武蔵の足跡

剣豪は、いつの時代でも謎に包まれている。謎が多いほど、その並外れた力に、さらに神秘性が増す。
宮本武蔵も、そのはずだった。ところが……。

ナゾの剣豪播磨からの旅立ち

無数の謎が、武蔵を包んでいるが、一つだけ、変わらぬ真実がある。
それは「めっぽう強い」ということである。

吉川・武蔵と史実の武蔵

昭和10年から朝日新聞に掲載され始めた大作、吉川栄治著「宮本武蔵」は、途中1年半の休載期間を含めて足掛け5年、全国の読者を魅了し、さらに単行本になってからも超ベストセラー、超ロングセラーとして読み続けられた。剣豪の姿が、一点の謎もないかのように、見事に描き出され、余りにも出色の出来栄えだったため、ストーリーそのものが史実であるかのような錯覚を読者に与えてしまった。しかし、当然のことながら、吉川英治は、史実を書くつもりなど毛頭ない。わずかに残る資料の行間から、小説家の感性で、武蔵のイメージを最大限に膨らませ、青年剣豪の苦悩と成長を描いたのだった。いわゆる「ビルドゥングス・ロマン」(教養小説)として、史実よりも、自由に人間性を膨らませたものであった。

武蔵のさまざまな謎

剣豪の謎は、小説では特別に解き明かされた訳ではない。第一、武蔵の生誕地でさえ、定説がない。古くから「播磨・高砂説」「同・太子説」「美作・大原説」と諸説があるが、ここ数年、研究者の多くは高砂説にシフトしている。謎は、またある。武蔵は、何をヒントにし、なぜ二刀流を編み出したのか。1対1から、100人単位の敵を相手にした決闘まで、なぜ完全勝利を収めたか。「五輪書」に言うように本当に60余回の勝負をしたのか。巌流島以後の空白期、何をしていたのか。なぜ妻帯せず、風呂にも入らなかったのか。見事な造園技術、画才は、どうして磨いたのか。父子憎悪は本当か。

播磨からの旅立ち

剣豪の出身地については、いくつもの説が唱えられる。武蔵についても同じように3つある

  • 高砂の武蔵(兵庫県高砂市米田)
  • 太子の武蔵(兵庫県揖保郡太子町宮本)
  • 美作・大原の武蔵(岡山県英田郡大原町宮本)
宮本武蔵・伊織生誕地碑
宮本武蔵・伊織生誕地碑
泊神社舞堂棟礼(泊神社蔵)
泊神社舞堂棟礼(泊神社蔵)
小倉碑文と棟札

武蔵の養子で、小倉・小笠原藩の家老に出世した伊織が残した、武蔵の顕彰碑、いわゆる小倉碑文がある。武蔵の出自について「播州の英産、赤松の末流、新免武蔵玄信号二天」と記され、武蔵が播磨ゆかりの武士であることを、特に強調している。
さらに、伊織が、故郷の氏神である高砂の米田天神社、加古川の泊神社を修復した際に奉納した棟札がある。大正年間からその存在が知られていたが、昭和36年、泊神社の火災で”再発見”された(天神社のものは水害で消失)。ここには、伊織の祖先が米田に住した経緯や、武蔵など彼の親族の動静などが記されており、武蔵の高砂生誕説の決定的な資料となっている。さらに伊織の直系が編んだ宮本家系図にも武蔵・玄信が明確に登場する。

泊神社舞堂棟礼(泊神社蔵)

泊神社舞堂棟礼について

承応2年(1653)、伊織が故郷の泊神社を再建した際に奉納した棟札に記されたもの。
大意は「伊織の先祖は、播磨国守護・赤松氏の一族で、持貞のころは振るわず、田原と改称して播州印南郡河南庄米堕邑に子孫代々が住んだ。貞光の頃より同じ赤松一族の御着城主・小寺氏に仕えた。作州(美作)に神免(新免)という武士があり、天正の頃、世継ぎがないまま筑前秋月城で死んだ。その遺志を継いだのが武蔵玄信で、後に宮本と氏を改めた。武蔵も子供がなく、伊織を養子にした。故に伊織も宮本姓を名乗った」。

宮本家墓地
宮本家墓地
田原家の末裔

資料によると、武蔵は播州・米堕(現在の高砂市米田町)の地侍「田原家」の末裔とされ、天正年間に田原家貞の二男として生まれ、幼少時に美作(岡山)の平尾無二之助一真の養子になったという。その養子先が生誕地となってしまったのだ。な お武蔵の長兄は久光で、その子が伊織である。
家系図を全面的に信じるかは別にして、武蔵の直系が残した情報は、それなりに重い。もちろん当時は生誕地論争などないから、ことさら高砂説を強弁する必要もなかったわけで、素直に読み、素直に解釈すればいいことだ。
さらに、小笠原文書の中の「宮本玄信伝」でも、高砂・米堕村生まれの武蔵が浮かび上がっている。

宮本家墓地
高砂武蔵MAP
高砂武蔵MAP 泊神社(加古川市) 田原家屋敷跡 樹齢700年の樹 神宮寺 米田天神社 宮本武蔵・伊織像(西光寺) 西光寺 五輪の庭 宮本武蔵・伊織誕生地碑 独行道碑 米田地名発祥の地
泊神社(加古川市)

泊神社(加古川市)

伊織が奉納した棟札が現存する神社

田原家屋敷跡

田原家屋敷跡

武蔵が生まれた田原家の場所を示す

樹齢700年の樹

樹齢700年の樹

神宮寺

神宮寺

伊織が寄進した鰐口(わにぐち)が残る

神宮寺所蔵の鰐口

神宮寺所蔵の鰐口

天保三年(1646年)、宮本伊織の銘が入った鰐口(参拝の際に鳴らすもの)

米田天神社

米田天神社

武蔵の養子となった伊織が再建した神社

三十六歌仙額(米田天神社)

三十六歌仙額(米田天神社)

伊織と弟が米田天神社に寄進した「三十六歌仙額」の一つ

宮本武蔵・伊織像(西光寺)

宮本武蔵・伊織像(西光寺)

二刀の武蔵と書を懐に入れた伊織の銅像

西光寺 五輪の庭

西光寺 五輪の庭

「五輪書」にちなんで作庭された枯山水様式の「五輪の庭」

西光寺 五輪の庭

西光寺 五輪の庭

武蔵の円明流を継承した岡本家ゆかりの寺

宮本武蔵・伊織誕生地碑

宮本武蔵・伊織誕生地碑

約100tの重さがあり、新しい研究に基づき1990年に建立

独行道碑

独行道碑

武蔵が晩年に著した「独行道」を記す碑

米田地名発祥の地

米田地名発祥の地

地名の由来となった伝統を伝える

宮本武蔵生誕之地碑
宮本武蔵生誕之地碑
武蔵産湯の井戸
武蔵産湯の井戸
宮本武蔵誕生之地碑

武蔵産湯の井戸太子町説は、1762年出版の播磨の地誌「播磨鑑」を根拠にする。武蔵の死後100年あまり経ってからの記述だが「宮本武蔵は播州揖東郡鵤の辺り、宮本の産なり…」とある。
あるいはまた、古老・楠正位の談話として「自分の見た古文書に武蔵の父にあたる宮本無二之助が、揖東郡宮本村に住んでいたことが書かれていた」という伝えも残されている。

太子武蔵MAP
太子武蔵MAP 泊神社(加古川市)
宮本武蔵誕生之碑

宮本武蔵誕生之碑

石神神社前に建立された生誕碑

産湯の井戸

産湯の井戸

武蔵が産湯をつかったと伝えられてきた井戸

武蔵由来の案内板

武蔵由来の案内板

太子町宮本と武蔵の関係を記す

石神神社

石神神社

宮本の地名は石神神社の「宮の本」であることから名付けられたという

樹齢数百年の椋の木

樹齢数百年の椋の木

武蔵を見たかもしれない樹齢500年程度と推測される大木

太子町宮本周辺

太子町宮本周辺

宮本武蔵生誕地碑
宮本武蔵生誕地碑
吉川映治が描いた誕生地

岡山県大原町説は、主として3つの理由を挙げる。(1)19世紀初頭に書かれた美作東部の地誌「東作誌」に「当地に武蔵が住んでいた」との記述がある (2)地元に残された平田家系図の中に、平田武二の子として武蔵政名の名が見える (3)武蔵の養子・伊織が小倉に残した「顕彰碑文」の中に「十三にして始(初)めて播州に至(致)り」という意味の文章があること、などによる。
吉川英治は“当時の研究成果”としてこれを採用し、日本中が美作説を信じた。

大原武蔵MAP
大原武蔵MAP 大原の町並み 讃甘(さのも)神社 武蔵の墓 武蔵神社 本位田外記之助の墓 宮本武蔵生誕地碑 一貫清水(いっかんしみず) 鎌坂峠
大原の町並み

大原の町並み

讃甘(さのも)神社

讃甘(さのも)神社

この神社で行われた祭太鼓の両手バチさばきを見て、武蔵は二刀流を編み出したとも言われる

武蔵の墓

武蔵の墓

養子・伊織によって武蔵の遺骨が分骨されたと伝えられ、父の墓もある

武蔵神社

武蔵神社

鎌坂峠へ向かう道沿いにある武蔵を祀った神社

本位田外記之助の墓

本位田外記之助の墓

武蔵の父・無二斎が主君の命により上意討ちにした人物の墓

宮本武蔵生誕地碑

宮本武蔵生誕地碑

明治44年(1911年)に当時の説に基づき建立された碑

一貫清水(いっかんしみず)

一貫清水(いっかんしみず)

修行に出る武蔵が友との別れを惜しんで飲んだとされる湧き水

鎌坂峠

鎌坂峠

幼い頃の武蔵は、この峠を越えて母のもと(兵庫県佐用町平福)へ通い、また修行の旅へ出たとされる

武蔵の先祖

武蔵は初代の姫路城主を務めた播磨の名家・赤松家の末裔だという。だとすれば、武蔵と播磨とのかかわりは、いっそう濃密さを増してくることになる。

武蔵顕彰碑
武蔵顕彰碑
武蔵顕彰碑文(小倉碑文)部分
武蔵顕彰碑文(小倉碑文)部分
小倉碑文(拓本)
小倉碑文(拓本)

名家の末裔

播磨の名家・赤松家の末裔だという宮本武蔵。武蔵と赤松を結び付けているのは、まず、北九州市の宮本家に伝わる宮本家系図である。弘化3(1846)年、八代目宮本貞章が記録したもので、赤松貞範を祖としている。その末裔が、米堕(田)村に定住して田原姓を名乗り、さらに武蔵玄信から、宮本姓になったとする。二つ目は、武蔵の養子である伊織が、北九州・小倉に建てた武蔵顕彰碑の碑文。「播州の英産赤松末葉…武蔵玄信」と刻まれている。 その他、「二天記」にも、赤松円心の末葉と記され、いずれも、赤松家との深いかかわりが強調されている。赤松貞範は、通説によると初代の姫路城主である。今の西の丸一帯に簡素な縄張りをし”城の影”をつくったとされる。後に武蔵が、養子の造酒之助を剣道指南として差し出した本多忠刻が、千姫ととともに暮らしたのが、その西の丸だ。

赤松家とは

祖先は流人。といっても、軽い政争の末、佐用に流された村上天皇の皇子とされる。鎌倉室町期にかけ、千種川流域を支配し勢力を拡大した。現在の兵庫県赤穂郡上郡町赤松の白旗城を本拠にし、強力な軍事、経済力をバックに足利尊氏を全面支援し、室町幕府を開く。赤松なくして、室町幕府はなかったとさえいわれる。

小倉碑文(拓本)

小倉碑文(拓本)

承応3年(1654)、伊織が小倉の手向山に建てた碑に記されたもの。武蔵が父・新免無二から十手術を学んだこと、十三歳の時、有馬喜兵衛と初めて試合をして勝ったこと、佐々木巌流と船島で対したこと、など生涯の戦いをしたため、新免武蔵は播州の名門である赤松氏の子孫で、二天と号し、孝子・伊織は、武蔵の偉業を後世に伝えるために、この碑を立てたと結んでいる。

剣豪への道

兵庫県佐用町 “十三歳の武蔵”が初めて決闘を挑んだ場所だ。
そのときから“天下第一”の剣豪への修行が始まった。

十三歳での決闘

有馬喜兵衛という武芸者がいた。武蔵が、初めて決闘を挑んだ相手だ。場所は、兵庫県佐用郡佐用町平福である。

「決闘の場」碑
「決闘の場」碑
剣豪への一歩

諸国修業中の喜兵衛がある時、武蔵のいた佐用・平福にやってきた。修業者だれもがするように試合を求める高札を立てた。それも金箔という派手派手しさだ。それを見た武蔵は「弁之助(武蔵の幼名)試合を所望」と書き込んだ。しかも、高札に、黒々と墨まで塗った。向こう見ずの挑戦だった。そのころの武蔵は、途方もない乱暴者で、その性癖を直すため、平福の正蓮庵で文武の修養中であったともいう。寺で武蔵を教えていた僧が驚いた。「ヒラに容赦を」と、喜兵衛に願った。喜兵衛もそのつもりだったようだが、何と、棒切れを持った武蔵のほうから突然仕掛けた。喜兵衛も、次第に本気になる。打ち合い、取っ組み合ううち、武蔵は、喜兵衛を頭上に持ち上げた。そして、その巨体を地面に叩き付けた。武蔵に、容赦はない。倒れた喜兵衛を棒で殴りつける。何度となく殴打は繰り返され、喜兵衛はそのまま絶命した。見物衆のどよめきは、武蔵に勝負のダイナミズムを植え付けた。武蔵が、強さをかみ締め、さらなる強さを求めるのは、この佐用の地からである。

闘いの相手有馬喜兵衛

闘いの相手有馬喜兵衛

有馬喜兵衛が何者かは、よくわからない。が、同名の有馬時貞という新当流の使い手がいた。三河にいたころの徳川家康に指南をしていたという。喜兵衛は、その有馬一族で、相当の兵法者だっただろうと司馬遼太郎は推測している。

田住家系譜

田住家系譜

田住氏は、利神城(佐用町)城主別所氏を祖とする家で、同家の系譜によると、別所林治(文禄2年=1593年没)の娘よし(率?)子が平田武二に嫁いで武蔵(幼名は伝とあります)を生み、事情があって離別され、佐用平福にもどったといいます。武蔵は、母を慕って田住家にたびたび出入りし、達磨の絵を描いたことが記されています。しかし、武蔵の生年月日などは書かれていません。
〈兵庫県立歴史博物館「企画展:武蔵ものがたり」展示より〉

佐用武蔵MAP
佐用武蔵MAP 利神城跡 佐用町平福の町並み 金倉川原 「決闘の場」碑
利神城跡

利神城跡

利神城主・別所林治の娘が武蔵の母という説もある

佐用町平福の町並み

佐用町平福の町並み

利神城主・別所林治の娘が武蔵の母という説もある

金倉川原

金倉川原

武蔵が最初に決闘したのは、佐用川のこの川原だとされる

「決闘の場」碑

「決闘の場」碑

佐用町平服の金倉橋のたもとに立つ碑

戦場の武蔵
関ヶ原の合戦

「武やん生きてるか」と、彼方でたず訊ねる。武蔵は精いっぱいな声でどなった。「生きてるとも、死んでたまるか。又やんも、死ぬなよ。犬死にするなっ」
(吉川英治「宮本武蔵」)

関ケ原合戦絵巻(兵庫県立歴史博物館蔵)
関ケ原合戦絵巻(兵庫県立歴史博物館蔵)

剣の力を磨く道へ

“吉川武蔵”の冒頭部分に、関ケ原の合戦に加わり、敗れた西軍兵士の屍(しかばね)の中で、仲間の又八と茫然としながらも明日に身構える17歳の武蔵が、描かれている。そのころ、武蔵の養父は美作・竹山城主、新免宗貫に仕えていた。新免一統は宇喜多秀家の有力家臣だったから、その配下である武蔵は、宇喜多勢とともに西軍で戦ったとみられる。関ヶ原での宇喜多は惨敗だった。集団の戦が、いかに空しいか、武蔵は思い知ったといわれている。どんなに剣の腕を誇ろうが、雑兵(ぞうひょう)の放った、たった一発の弾丸が簡単に一命を奪う。腕を磨き、競うとはどういうことか。「中世的武術」が終焉を迎える中で、武蔵は自問する。悩んだ末の答えは、やはり個の技を高めるということであった。まず、剣の力を磨く。その能力が高まれば、むろん、強くなるのだが、それは、単に剣の能力だけではなく、諸芸の技をも磨くことになる。そう思ったであろうか。後の多芸ぶりをみると、そんな推測をしても不思議ではない。

大阪の陣と島原の乱

武蔵は、関ケ原以外に何度か戦場に出ている。1614(慶長19)年の大坂冬の陣と翌年の夏の陣、1638(寛永15)年の反幕府を掲げた島原の乱である。

大阪夏の陣絵図(兵庫県立歴史博物館蔵)
大阪夏の陣絵図(兵庫県立歴史博物館蔵)

合戦での活躍

大坂冬の陣では、天下の浪人とともに、豊臣方に荷担し、夏の陣では、徳川譜代の水野勝成軍に属したとされるが、不明な点も多い。島原の乱のとき、武蔵は、小倉の小笠原忠真のもとにいた。忠真は、明石藩から大幅加増されて、細川藩が熊本に移った後の小倉に転じていた。当時、武蔵の養子である伊織が、大きく出世して小笠原藩の家老職になっていた。その伊織のもとに身を寄せていたのだが、武蔵にとっては50半ばの出陣だった。武蔵は、伊織の後見でもあり、小笠原軍の軍監という要職を得て参戦した。城壁を登るなど、まだ衰えぬ戦い振りだったというが、頭上からの落石を足に受け、重傷を負ってしまう。それでも、自軍を叱咤激励、鼓舞し続けたという。伊織も参戦し、劣勢に立たされていた幕府軍は小笠原隊の活躍で巻き返し、鎮圧に成功する。伊織は、この功績で、四千石という破格の加増を受ける。武蔵の支援も功を奏したのだろう。集団の戦で、武蔵がようやく手にした軍功ではなかっただろうか。

京都での吉岡一門の三度の闘い
吉岡宗家との闘い
上品蓮台寺
上品蓮台寺

吉岡一門との闘い

関ケ原から4年。21歳の武蔵が吉岡一門の剣客集団を一人で打ち破った決闘の地が京都である。決闘後、武蔵の無敵ぶりが天下に喧伝され始める。決闘のクライマックスは、一乗寺下り松の死闘だが、これは、三度目の対決で、それまでに二度にわたる前哨戦があった。

吉岡宗家との二度の闘い

最初は、吉岡4代目当主・清十郎との戦いだ。場所は金閣寺の東数百メートルにある蓮台寺野。勝負は一瞬にして決まった。木刀を手にした武蔵は、一撃で清十郎を倒す。昏倒した当主は、戸板で道場に運び込まれる。奇跡的に一命は取りとめたが、敗北後、清十郎は出家した。二度目の場所は不明だが、相手は吉岡5代目の伝七郎。清十郎の弟だ。兄の敵、と五尺余の木刀で挑んだが、これも瞬時に打ち負かされ、伝七郎は絶命した。

吉岡家とは

吉岡家とは、どんな家筋であったのか。もとは紺屋、つまり染め物業を営んでいた。それも、主として剣道着の染色をしていたといわれる。中国伝来の技術を改良したのだろうか、生地を一段と強くする独特の染色、あるいはコーティング技術をセールスポイントに、戦国時代の市場を制していたという。
当主は、代々「憲法」を名乗っており、吉岡の染め生地は、京では「憲法染め」として、名をはせていた。
もちろん、同時に剣道指南にも当たった。特に室町将軍の指南役として「室町兵法所」の看板を許され、都では重きをなしていた。自らも「扶桑第一」つまり日本一の剣道家を名乗っていた。
室町幕府の滅亡とともに、その威光も衰えるがそれでもなお、京では多くの門弟を抱える老舗の道場であった。

京都 武蔵MAP
京都 武蔵MAP 上品蓮台寺 八大神社、一乗寺下り松 一乗寺下り松
上品蓮台寺

上品蓮台寺

武蔵はこの一帯で、吉岡一門(吉岡清十郎)との最初の決闘を行った

八大神社

八大神社

下り松の決闘の際に武蔵が立ち寄ったとされる八大神社

八大神社

八大神社から下り松へと続く道

一乗寺下り松
一乗寺下り松

一乗寺下り松

吉岡一門との三度目の決闘を行なった場所。(「決闘之地碑」と、4代目となる松)。

下り松の死闘

京都・洛東、一乗寺下り松、いかにも由緒ありげな地名だ。一帯は旧一乗寺跡で、瓜生山と一乗寺山の山麓にあたる。山裾の詩仙堂をさらに少し下った一角に、かつて松の巨木が生えていた。これが、下り松だ。

一乗寺下り松
一乗寺下り松

鬼となった武蔵

面目を失った吉岡は、今度は、一門挙げて武蔵に最後の勝負を挑む。これが一乗寺下り松の決闘だ。吉岡側は、清十郎の嗣子・又七郎を総大将に仕立て、集団で武蔵に立ち向かった。3時に又七郎は10歳とも、13歳ともいわれる。小倉碑文には、吉岡勢は数百人、弓、鉄砲も持ち出したとある。人数には誇張があるが、吉岡の報復戦への意気込みが伝わってくる。実際には数十人、あるいは百数十人ともいう。いずれもひとかどの剣士だ。この戦闘集団が、東の山を背に展開し、西から現れるであろう武蔵を待つ。又七郎は、集団の最奥、下り松の巨大な根の上に腰を下ろした。だが、武蔵は背後から一門に襲いかかった。幼い又七郎を一刀のもとに惨殺したともいわれる。「盟主」を倒され、吉岡勢は、大混乱に陥った。その陣中に、武蔵は切り込み、死中に活を開いたのである。奇襲を食らった吉岡は、多数の犠牲者を出し、たった一人の武蔵に敗北する。

武蔵野ゲリラ戦法

「又七郎を確かに斬った」という記録はない。が、そんな伝聞が、武蔵の剣を「鬼畜の剣」と非難する声と重なり残っているのだろう。しかし武蔵には、こうしたゲリラ戦法以外に活路はなかった。“鬼”になった武蔵の知略の勝利である。 ただ、吉岡側の書物には相打ちと出ている。だが、それはなかっただろう。なぜなら、決闘後、吉岡の影が京から消え、武蔵の無敵ぶりが、天下に喧伝(けんでん)され始めるからである。

鎖鎌の怪人との闘い

「鎖鎌」には、妖気が漂っている。怪しげな武器に怪しげな使い手。そんなイメージが浮かんでくる。
鎌を振り回し、相手の体と得物をからめ、身動きできぬ状態にしてから、鎌の刃で仕留める。分銅自体も、その直撃を受ければ命取りになるほどの協力な飛び道具でもある、恐い武器だ。武蔵も、これには苦戦した。

鎖鎌
※鎖鎌=50センチ前後の柄に20~30センチの鎌の刃。
その鎌首から、先端にこぶし大の分銅をつけた長い鎖がのびる。(明治大学博物館蔵)
宍戸某との一瞬の勝負

鎖鎌の怪人が、頭上で分銅をぶんぶん回しながら迫ってくる。分銅が当たっても即死だ。どう立ち向かうか。勝手の違う得物に武蔵は戸惑った。が、咄嗟に必殺技が繰り出された。鎖が、武蔵の掲げた太刀に巻き付くか巻き付かない、その瞬間、腰に挿していた短刀を抜きざま怪人の胸部をめがけて投げつけた。勝負は、その一瞬に決まった。
宍戸の門弟たちは、師の敵と、武蔵に殺到したが、け散らされた。「武蔵、悠然と去る」――二天記は、こう伝える。

吉岡一門との闘い後の試合

京都・一乗寺下り松の死闘で、吉岡一門を倒した同じ年というから、1604(慶長9)年のことになろうか。「二天記」などによると、この年、武蔵は二つの有名な試合に臨んでいる。
一つは、奈良興福寺の塔頭・宝蔵院の院主胤栄(いんえい)が始めた宝蔵院流槍術との対決、もう一つが、伊賀での鎖鎌の怪人・宍戸某との決闘である。
槍の相手は、胤英の第一の弟子、奥蔵院。その槍と、武蔵の木刀では当然、槍が有利だが、奥蔵院は連敗した。武蔵の強さに感服した宝蔵院流の面々は、その夜、武蔵を歓待し、武道の神髄を語り合ったと伝えられる。まれに見るさわやかな試合だったという。

塚原ト伝との鍋ぶた試合

武蔵の著名な対決に、塚原卜伝(1489~1571)との「鍋ぶた試合」がある。武蔵の豪剣を、卜伝が、鍋のふた一つ受け流すというものだが、武蔵が生まれた時には、卜伝はすでに10年ほど前に他界しており、試合は成立しない。芝居、講談の世界の話なのだが、武蔵と卜伝が日本の二大剣豪だったことを、はっきり物語るエピソードではある。

巌流島〝天下第一〟の死闘
死闘の背景
巌流島

巌流島の死闘

巌流島は、巌流・小次郎の墓があることから、こう呼ばれるが、もとは舟(船)島といった。下関港の南東2キロ。関門海峡に浮かぶ小舟形をしたごく小さな無人島だ。巌流島の決闘は、慶長17(1612)年にあった史実である。問題は、どう闘われたかだ。

背景にあった“代理戦争”

巌流島は決闘時、小倉藩細川家の所領だった。この小倉藩の剣道指南として佐々木小次郎がいた。時の当主・忠興の庇護を受け、藩内に一大勢力を築いていた。一方、武蔵の養父・新免(平尾、のち宮本)無二之助も剣道指南に当たっており、こちらのバックは忠興の嫡男忠利であったという。弟子同士の勢力争いに加え、忠興と忠利父子、つまり藩内の新旧勢力の抗争もあった。両者が、小次郎と、無二之助の養子・武蔵を立て“代理戦”を挑んだのだ。むろん「当代随一」を決したい武蔵、小次郎の野望もある。小次郎をはじめ佐々木一族の勢力拡大を快く思わぬ空気が藩内にあり、この際、武蔵の力を借りて、それを一掃しようという思惑があったのだといわれる。小次郎の庇護(ひご)者であった忠興も、実は、そうした空気を感じ、自らもまた佐々木排除への思いを強めていたとも言われる。決闘の背景は、実に複雑だったのだ。

小次郎の出自

巌流(岩流、岸柳)を名乗った小次郎は、越前生まれの剣豪とされている。 三河の豪族中条家に伝わる中条流の剣術は、後に越前に移り一派をなした。その継承者に富田勢源という使い手がいた。小次郎は、勢源か、あるいはその直系にあたる鐘捲自斎の弟子であったという。「二天記」には、越前宇坂庄浄教寺村(福井県・足羽村)出身となっているが、年代にも矛盾があり、資料もなく定かでない。 吉川英治は岩国説を唱えているが、これは小説だ。むしろ、小倉で出された豊前「岩石城」の佐々木一族の出との説が説得性を持つ。佐々木氏は、英彦山の修験者、山伏集団のリーダーで、細川藩に深く食い込んでいた。岩(巌)流とは、岩石城との関連を示す名であるという。

巌流島 武蔵MAP
巌流島 武蔵MAP 巌流島遠景 巌流島文字碑 武蔵・小次郎像 人工海浜 佐々木巌流之碑 決闘の地 木碑
巌流島遠景

巌流島遠景

巌流島文字碑

巌流島文字碑

武蔵・小次郎像

武蔵・小次郎像

人工海浜

人工海浜

佐々木巌流之碑

佐々木巌流之碑

決闘の地 木碑

決闘の地 木碑

武蔵の二刀流

「二刀流」-大小二本を構えた武蔵のトレードマークである。武蔵の二刀流は、はじめは「円明流」と呼ばれた。
その発祥地は、武蔵が逗留していた龍野・円光寺とする説が有力である。

宮本武蔵像(宮内庁書陵部蔵)
宮本武蔵像(宮内庁書陵部蔵)
二刀流での闘い

姫路に移封した本多家の家臣に三宅軍兵衛という東軍流の使い手がいた。武蔵の名声を好まず、ある時、立ち会いを求めた。 のっそりと現れた武蔵は、二刀流で向かってきた。軍兵衛は、何度も、鋭く打ち込んだが、簡単に外される。
「無理なり」と、武蔵は言った。 やがて、突きにかかった軍兵衛の切っ先を、すさまじい力がはねのけた。東軍流の名手はなすすべもなかったという。
「あの時の怖さは生涯忘れない」。軍兵衛は後にそう語ったという。

宮本武蔵像(宮内庁書陵部蔵)
宮本武蔵像(宮内庁書陵部蔵)
二刀流の由来

「二刀流」-大小二本を構えた武蔵のトレードマークである。武蔵の二刀流は、はじめは「円明流」と呼ばれた。その発祥地は、武蔵が逗留していた龍野・円光寺とする説が有力である。

生涯われ独り

佐々木小次郎と世紀の決闘を繰り広げた巌流島は、武蔵にとっては
「殺人剣」との決別の地でもある。以後、三十数年。武蔵は「剣の道」を
踏まえつつ、人生の軌跡を、次第に「知の道」へと大きく転換していく。

姫路と武蔵

「巌流島」のあと、武蔵はどこに行ったのだろうか。明確な足跡はたどれないが、播磨に現れたことだけは事実である。確かな証拠もある。ことに400年前の歴史を刻む姫路城には、武蔵の足跡が色濃く刻まれている。

姫路の武蔵
姫路城
姫路城

姫路城西の丸の造営

池田家のあとを襲い、1617(元和3)年に本多忠政が、嫡男忠刻を伴い姫路城に入った。忠刻に嫁した千姫も、この美しい城に入った。この徳川の姫君には、十万石の化粧料が与えられ、西の丸に、豪壮、華麗な櫓が建てられた。「千姫化粧櫓」である。
壮年期の武蔵は、築城や町割(都市設計)の技術を見込まれ、この西の丸の造営に当たったともいわれている。そのため忠政父子の剣道指南役として、城主の側に仕えるなど、本多家と深くかかわったようである。

姫路城について

姫路城について

いまある姫路城は、関ケ原の後、姫路に入府した徳川家康の女婿・池田輝政の手により築城された。正確にいうと、羽柴秀吉の造った三層の天守閣を解体し、1601(慶長6)年から1609年まで8年の歳月をかけて完成させたものだ。 後に、わが国初の世界文化遺産となるのだが、その美しさの秘密は「白漆喰総塗籠造」「大天守閣の絶妙のバランス」そして、城郭デザインとしては画期的な「連立天守群」にある。この構想は、輝政自らが指揮したものである。

“吉川武蔵”と姫路城

吉川英治の描く武蔵は、粗暴性を矯正するために、名僧沢庵に導かれ、この美しい名城に入る。城主・輝政の計らいで、大天守閣の「開かずの間」を与えられ、そこに篭った。3年間、万巻の書を読み、やがて、姫路を後に武者修業の旅に出る―――。そんな筋書きだが、武蔵の個人史とは、ずいぶんずれている。 というのも、武蔵が、輝政の姫路城を出立するのは、築城史からみると最も早くて、(3年間篭ったというから)完成後3年目。つまり1612年のこととなる。1584年(82年説も)生まれとされる武蔵は、この時、すでに29歳になっているはずだ。
修業の総決算として、巌流島で佐々木小次郎と決闘するのが29歳の時とされるが、いかに武蔵でも、その年のうちに武者修業を終えて、巌流島に乗り込めるはずがない。だから、小説の筋書きでは、この大勝負は、まず、成立しないことになるわけだ。
もちろん史実と小説は別だ。姫路城の人気スポットとなりつつある大天守閣の「開かずの間」も、花田橋に立てられた架空の恋人お通の銅像も、小説世界に浸るには格好の小道具で、それなりにロマンを感じるものである。

妖怪退治 講談の武蔵 あらすじ

姫路の吉岡無二斎(むにさい)の次男、平馬(へいま)は、優れた剣さばきを見込まれ、宮本武左衛門の養子となり宮本武蔵と名乗りました。肥後で剣の修業を続けていた武蔵は、父が佐々木巌流(小次郎)に闇討ちされて殺されたことを知り、姫路に敵討ちに帰ります。しかし巌流は行方知らず。武蔵は巌流を待つため、瀧本又三郎と名乗り、姫路の木下家に奉公して、二刀流で剣術の指南をするようになりました。ある時、城主から「天守に出るという妖怪を退治する者はおらぬか」という達しがありました。天守に出没していたのは、刑部(おさかべ)姫にまつわる妖怪でした。その昔、身分違いの恋から自害した姫が祀られていたのです。
城主から命じられた武蔵は、深夜、一人で提灯を手に天守へと向かいました。天守の四階で妖怪を倒した武蔵は、ようやく天守の間に上がります。すると祠(ほこら)が開き、十二単(じゅうにひとえ)を着た刑部姫が現れました。そして「刑部明神をまつるよう伝えよ。さすれば姫路の地は安泰にいたす」と話し、武蔵に褒美として名刀を与えました。
それから三年後、佐々木巌流が姫路に戻ってきました。武蔵は御前試合で巌流を破り、そして巌流島で再び決闘をするのです。

講談「武蔵の姫路城妖怪退治」詳細あらすじ

姫路の吉岡無二斎の次男、平馬は、その優れた剣さばきを見込まれ、肥後の熊本で加藤家に仕えていた宮本武左衛門の養子となって、宮本武蔵と命名された。剣の修業を続けていた武蔵はある日、実父の無二斎が姫路で木下勝俊公の指南役をしていた佐々木巌流(小次郎)に殺されたことを知った。二人は城下で御前試合をし、破れた佐々木巌流がこれを恨んで無二斎を闇討ちしたのだった。宮本武蔵は姫路へ敵討ちに行ったが、佐々木巌流は修業の旅に出て、行方知らずとなっていた。巌流が姫路へ帰ってくるのを待つため、武蔵は名を伏せて瀧本又三郎と名乗り、木下家の足軽に奉公した。
その頃、姫路城の天守閣には妖怪が出るとの噂が立ち、天守番をしなければならなかった足軽たちは怖がっていた。これを知った又三郎は自ら天守番を名乗り出て、一階の千畳敷きの間で番をした。しかし、何事も起こらなかった。天守番をする代わりに昼間の務めをする必要のなかった又三郎は、暇を持てあまし、足軽たちに剣術の指南をするようになった。
ある日、木下家の家老、木下将監(しょうげん)が、二刀流を使いながら足軽たちに剣術を教える又三郎の姿を目にした。無二斎の倅、武蔵が二刀流を使っていると聞いていた将監は、「武蔵が又三郎と名を変えて姫路の足軽となり、佐々木巌流への仇を企んでいるのではないか」と直感したが、人品骨柄いやしからぬ人物と見て「仇を討たせてやろう」と密かに考えた。
その後、城主の木下勝俊公が近習を集め、「天守に妖怪が出るというが、誰か肝試しに天守に上ってみる奴はおらぬか」と尋ねた。しかし、祟りを恐れ、名乗り出る者は誰一人としていなかったため、木下将監が「又三郎という足軽ならば、肝が据わっております。小奴なら、天守に上ります」と勝俊公に進言した。
天守に出没していたのは、刑部(おさかべ)明神の妖怪だった。時は天正七年のこと、羽柴筑前守秀吉(後の太閤豊臣秀吉)が姫路に天守閣のある大きな城を築こうとしていた。ところが、うっそうとした森に天守閣を建てるため、そこにあった刑部明神をまつる祠(ほこら)を取り壊そうとすると、刑部明神が祠を壊されることを無念と思ったのか、大雨が降り、強風が吹いて、作業にとりかかることはできなかった。これを知った秀吉が「刑部明神を天守にまつる」と誓うと、もう何事も起きなかった。
足利将軍の時代、刑部という名の姫がある小姓と恋仲になった。しかし、身分の違いから追放された小姓は加古川から姫路へと向かい、そこで亡くなった。これを風の便りで耳にした刑部姫は城を抜け出し、小姓の眠る塚で自害した。里人は不憫に思い、小姓と姫を一つの柩(ひつぎ)におさめて埋葬し、刑部明神としてまつった。秀吉が天守閣を建てようとしたとき、残されていたのがその祠だった。その後、この刑部明神は姫路城の天守閣にまつられたが、築城以来、祟りを恐れて誰一人して天守に上る者はいなかった。
木下勝俊公から命じられた又三郎は、深夜、強盗(がんどう)提灯を手に天守へと向かった。千畳敷きの間から階段を上って二階に降り立つと、ひどい悪臭が漂っていた。邪気を払うため、窓を開けて清らかな風を入れた後、三階でも同じように窓を開け放った。次に四階の間へ足を踏み入れた。すると、ゴロゴロズシーンと家が壊れんばかりの振動がした。心を落ち付けて座敷の真ん中に座り、「これは白狐か老猫カシャの類に違いあるまい」と考えて呼吸を整えた。突然、又三郎は「エイ、デヤー!」と声を上げて気合いを立てた。黒い影が飛び、窓を突き破った。妖怪が逃げ去ったのだ。
又三郎は、五階の天守の間に上がった。音ひとつなく静まり返っていた。正面を強盗提灯で照らすと、刑部明神があった。しめ縄は朽ちかけ、今にも落ちそうだった。又三郎は「誰も祀らぬから、妖怪が住み着いたのであろうな」と考えた。そして、強盗提灯を横に置いて座ると、蝋燭がいきなり明るくなったり、暗くなったりした。又三郎はなぜか眠気を催し、うつらうつらした。
その時、祠がギーッと音を立てて開いた。十二単(ひとえ)を着た刑部明神が現れた。「汝、宮本武蔵と申すのか。よくぞ天守に上ってまいった。天守ができてからというもの、誰もまつる者はなかった。帰ったならば、刑部明神をまつるよう城主に伝えよ。我をまつってくれたならば、姫路の地は安泰にいたす」。又三郎が「主君に伝えるよう、拝命をばさせていただきます」と答えると、刑部明神は「そうか。よく言うてくれた。その方の言に対して褒美をつかわす」と名刀を与えた。そして頭を下げていると、ギーっと音がして扉が閉まった。
又三郎は家老の木下将監に報告し、名刀を見せた。将監は驚いた。「これは我が主君が太閤秀吉より頂いた郷義弘が鍛えた名刀、飛龍丸ではないか」。主君、木下勝俊公はこれを聞き、「さては又三郎、我が家の名刀を盗んだが、持ち出すのが容易ではないので、刑部明神から拝命したと言うのか」。「いやいや、短慮なさいますな。あの者はまだここに来て日が浅うございます。飛龍丸がどこにあるのか見当もつかぬはず。素性をすっかり洗って、盗人とわかったなら、その時に手討ちをなさり、今は命をおとりになさることはおやめ下さいますよう」。「しからば、奴の命はその方に預けてつかわす」。こうして又三郎の命は木下将監に預けられた。将監は「屋敷にとどまって一歩も出てはならぬ。ここにある万巻の書をしっかりと読むようにいたせ」と又三郎に命じた。
三年後、佐々木巌流が姫路に戻ってきた。宮本武蔵は巌流と御前試合をした。巌流は宝山流の振り杖で武蔵を破った。その後、宮本武蔵は諸国を巡り、巌流島で佐々木巌流こと佐々木小次郎と決闘する……。

二人の養子

武蔵に二人の養子がいた。造酒(三木)之助(みきのすけ)と、伊織(いおり)である。武蔵が迎えた二人の養子は、ドラマチックな人生を終えているのである。

伊織

灯籠
灯籠
鰐口
鰐口

伊織は、武蔵の兄・田原久光の二男である。造酒之助の死後、すぐに養子に迎えた。15歳になったばかりだった。
武蔵は、この少年を明石の小笠原藩に出仕させる。同藩は明石から小倉に移るが、伊織は、その間、藩経営に非凡な才能を発揮する。家老にまで上り詰め、四千石という破格の待遇を受けた。
この伊織の残した碑や記録が、武蔵の文武にわたる多彩な足跡を今に伝えている。

伊織の伝説

出羽にいた武蔵が、さる川で、ドジョウを捕る少年に出会う。「少し分けてくれ」と頼んだところ少年は、全部あげるよ、とカゴを差し出した。「せっかくとったのにお前はいいのか」という武蔵に、もう要らなくなった、と少年は答えた。
その夜、武蔵は近くのあばら家に泊まった。夜中、屋外で刀を研ぐ音がする。自分を切るのか、と思った武蔵が、戸外をのぞくと、刀を研いでいたのは、昼間のドジョウ少年だった。詰問すると「あんたを切ろうなどとは思っていない。父が死んでしまった。裏山に埋めたいが、重くて動かせない。半分にして運ぼうと思って…」といった。ドジョウは父の大好物だったが、死人には食べさせられないから、武蔵にくれてやった、ということだった。
そんな胆力と、優しい心根を見込んで養子にしたこの少年が、伊織である――。

造酒之助

造酒之助の墓
造酒之助の墓

図によると、福山・水野藩士中川志摩之助の三男である。武蔵は、大坂夏の陣に、水野勝成軍の一員として加わったとされ、その際、志摩之助と出会って、造酒之助を知り、もらいうけたというのである。武蔵の縁続きの家ともいわれる。後に姫路に姿を現した武蔵は、本多家に入り、藩主忠政の嫡男で千姫の夫・忠刻の側近に造酒之助を送り込む。美男で剣の達人でもあったが、運命は急展開する。忠刻が急死。造酒之助は追腹を切る。「思はずも雲井のよそにへだたりしえにしあればや供に行く道」「立田山峯の紅葉にさそわれて谷の紅葉も今そ散りたり」辞世を残し、忠刻の後を追った造酒之助は、その時23歳。姫路の古刹、書写山円教寺の本多家廟所に、今も静かに眠っている。

造酒之助の伝説

修業中の武蔵が尼崎で賃馬を引いた馬子の少年と出会った。武蔵が、上客に見えたはずなのに、この少年はどうしたわけか乗馬を勧めない。「なぜだ」と、たずねる武蔵に、少年は、こう答えた。 「お武家は疲れているようには見えない。誘って断られることが分かっているから」 客になるか、ならないか。人を見る目の確かさに感心して、武蔵はこの子を養子に迎えた。これが、造酒之助だというものだ。

晩年で得た安住

武蔵は生涯、正式に仕官したことがない。あまりにも強い個性のため、だれも抱えきれなかった、などと言われるが、どうやら「樹下石上」を愛した自然児だった武蔵が、自ら固辞していた風がある。

熊本城
熊本城
細川家の食客として

武蔵が、唯一、腰を落ち着けようとした地が、熊本である。島原の乱で負傷して2年目の寛永17(1640)年、肥後熊本藩主細川忠利の知遇を得る。あるいは、島原での武蔵の戦功が、何かの形で伝わっていたのかもしれない。そのおぜん立てをしたのが「巌流島の決闘」で武蔵を庇護したといわれる細川藩家老の長岡佐渡守興長(おきなが)だ。「武蔵ほどのものを、お抱えなさらぬ手はない」と、藩主忠利に強く推薦したといわれている。客分・武蔵の処遇が決まった後、住むべき住居も定まった。熊本城内の旧千葉城跡があてられた。城主と語るにも、思策にふけるにも、時に剣を振るうにも、格好の環境であった。半世紀余、漂白を続けてきた武蔵は、還暦を前にして、ようやく安住の地を見つけた。

藩主・細川忠利

藩主・細川忠利

細川忠利は、祖父の幽斎藤孝、父の三斎忠興という当代随一の政治家・文化人の血を受けている。名僧沢庵とも深い交わりを持ち「知」による治世を目指していた。確かに武蔵の強さ、つまり「武」にもひかれてだろうが、彼のもう一つの側面である「文」の完成度にも魅力を感じていた。

晩年の武蔵の心境

晩年の武蔵の心境

「剣禅一如」を極めたうえで、武蔵が次に目指したのは「剣政一如」の境地だったのではなかったか。「殺人剣」ではなく「治世のための剣」「人を活かすための剣」つまり「活人剣」だったという。剣を通した深い洞察力が、武蔵に備わりつつあった。
忠利は、そこに共鳴したという。お互い、肝胆相照らし、日夜、武蔵と語り合った。
奉禄は――迷う官僚に、武蔵はこう答えた。
「妻子なく、年も取った。家や財産など一切気にしない。出陣時に武具を整え、乗り換え用の馬の一匹でも引かしてもらえれば結構」
恬淡(てんたん)とした武蔵の心境がうかがえる。

兵法三十五箇条

兵法三十五箇条

武蔵は、この地で「兵法三十五箇条」を著した。寛永18(1641)年のことである。 自らの剣を「二刀」と名付けること、刀の見方から間合いの取り方、さらには景気、つまりその場の雰囲気のつかみ方など、剣の極意に絡めた政の要諦までもが簡潔に記されている。
「いはおの身と云事」――岩尾の身と云うは、うごく事なくして、つよく大なる心なり…「期をしる事」――期をしると云事は、早き期を知し、遅き期を知り、のがるる期を知り、のがれざる期を知る、一流に直通と云う極意あり…「万理一空の事」――万理一空の所、書あらはしがたく候えば、おのずから御工夫なさるべきものなり…忠利の厚遇に報いるための渾身の作であった。この「哲学的思考」が、その3年後、死の直前に完成する名著「五輪書」に結実するのである。

熊本武蔵MAP
熊本武蔵MAP 霊巌洞 五百羅漢 雲巌禅寺 西の武蔵塚 熊本城 千葉城跡 武蔵の井戸跡 武蔵供養塔 春山和尚の墓 引導石 武蔵の墓 武蔵像
霊巌洞

霊巌洞

雲巌禅寺にある霊巌洞。死期を悟った武蔵は、ここに2年間籠り「五輪書」を完成させた。

五百羅漢

五百羅漢

雲巌禅寺から霊巌洞へ至る岩場にある。江戸後期に熊本の商人が奉納した。

雲巌禅寺

雲巌禅寺

霊巌洞がある古刹。ここから岩場や急斜面を10分ほど上り下りすると修験者の道場でもあった霊巌洞がある。

西の武蔵塚

西の武蔵塚

武蔵の高弟であった寺尾家の墓所。自然石の大きな墓があるが、そこが武蔵の埋葬地だとも言われている。

熊本城

熊本城

加藤清正により1607年に完成し、その後、細川氏が入封、明治まで11代240年にわたり居城した。

千葉城跡

千葉城跡

熊本城の北東にあたる千葉城の一角に屋敷を与えられ、武蔵はここに住んでいた。

武蔵の井戸跡

武蔵の井戸跡

武蔵が愛用したといわれる井戸跡。千葉城跡のすぐ近くにある。

武蔵供養塔

武蔵供養塔

細川家の菩提寺・泰勝寺跡にあり、現在は立田山自然公園となっている。

春山和尚の墓

春山和尚の墓

晩年の武蔵と深い親交があった泰勝寺住職、春山和尚の墓。

引導石

引導石

武蔵の死に際し、この石に棺を乗せて春山和尚が引導を渡したとされる。

武蔵の墓

武蔵の墓

武蔵の本当の墓とされ、「東の武蔵塚」と呼ばれる。現在は武蔵塚公園として整備されている。

武蔵像

武蔵像

武蔵塚公園内にある二刀を下げた姿の武蔵像。

精魂を傾けた執筆
精魂を傾けた執筆

洞窟の暗闇に、美濃紙を広げた、真っ白な紙面に向かって、武蔵は、やおら筆をおろした。「五輪書」の執筆だ。こうして、洞窟の中で「思想家・武蔵」が誕生するのである。

霊巌洞
霊巌洞

洞窟にこもった武蔵

武蔵は熊本入りして以来、剣の道で多くの弟子を育てる一方、春山和尚と交わりつつ、禅・哲学の世界に踏み入っていく。死期を悟った武蔵は、最後の仕事にかかった。剣に託した「思想」の総仕上げである。思考力を高めるには、隔絶された場が必要だった。それが、以前、春山から知らされていた「霊巌洞」である。熊本の西、二里余り。城下を見下ろす金峰山の巨塊が、有明海へなだれ落ちそうになる崖の中腹に、その洞窟はある。禅宗の名刹・雲巌禅寺の裏山を回り、崖を這うようにして、ようやく、その入り口にたどり着く。寛永20(1643)年、秋のことだった。厳しい環境に身を置いた武蔵の精神は、いっそう研ぎ澄まされる。2年後、のちに五輪書と呼ばれる名著を書き上げ、その1週間後に亡くなった。

春山和尚

春山和尚

細川家菩提寺・泰勝寺第二世。春山は武蔵を「剣刃上の一句を悟った」稀有の剣豪として一目を置き、武蔵も春山を「邪気を蔵さぬ、清浄な心魂の持ち主」として接した。春山は後に、武蔵の養子伊織が小倉の手向山に建てた顕彰碑の撰文を書いた高僧である。

影を落とした藩主の死

安住の地・熊本で、互いに敬意を持ち接していた庇護者の藩主細川忠利が56歳で急逝した。寛永19(1642)年のことだ。 剣と政の極意を記した「兵法三十五箇条」を、武蔵が献上したわずか1年後。同年輩の藩主の死は、武蔵の心に大きな影を落とした。
忠利の死に際し、多くの家臣が追い腹を切った。そんな中「お前は、殉死してはならぬ」と厳命され、生き長らえた阿部弥一右衛門への非難が強まった。耐えかねた弥一右衛門は切腹するが、殉死者としての名誉も受けず、家族の抗議も藩への反抗とされ、ついに一族は屋敷に立てこもり、壮絶な最期を遂げる。森鴎外の「阿部一族」はこの事件をモデルに書かれた。
武蔵は、細川藩内でつぶさに事の始終を見たであろう。阿部弥一右衛門は、武蔵の奉禄を決める時に、忠利との間を取り持ち、何くれとなく武蔵への好意を見せた人物である。その彼が、悲運の最期を遂げた。
一方、政治の中枢は、新藩主・光尚とその側近に移り、武蔵との縁は薄れていく。 こんな経緯を経て、武蔵に喪失感が芽生え、生と死への関心が、さらに強まったとされる。

「五輪書」を著す

そそり立つ絶壁を、巨大スプーンでえぐったような洞窟の中に、かすかな光が揺らいでいる。胃(食道)がんの進行する身を押して、この「霊巌洞」にたどり着いた武蔵は、兵法家としての総仕上げにかかった。「五輪書」の執筆に精魂傾けるのである。

霊巌洞
霊巌洞

生命の限界に挑んだ執筆

ガンに冒されながらも、知力、気力を振り絞っての執筆であった。その上、風雨、寒暑。厳しい環境にさらされながら、武蔵は、肉体と思考力の限界に挑んでいた。洞窟にこもってから足掛け2年。およそ3万2000字に及ぶ労作は、完成する。仏教で言う天地すべての現象「五輪」つまり、地・水・火・風・空の意味から五部構成とし、後に「五輪書」と名付けられる。実戦をベースに、あらゆる要素を統合した理論は、強い説得力と普遍性を持って迫ってくる。「必勝」――この、武蔵の兵法の根幹は、私欲を捨てたストイックで、しかも、型にはまらぬ自由自在な発想にある。そこに、時代を超え、国を超えた共感が広がるのであろう。「哲学者・武蔵」の姿が、ここにある。

五輪書に記された生国

五輪書に記された生国

「五輪書」の冒頭部数行の中に二つの重要な情報が書かれている。「生国播磨」と「年つもりて六十」ということである。
武蔵が美濃紙に書いた直筆の五輪書は焼失し、今伝わるのは、弟子筋が写したものだが、この序文自体、武蔵が直接書いたものではなく、武蔵が生前口にしていたことを後に、写本する際に、再整理したという見方もある。しかし、それでも、武蔵の個人情報は、ここに凝縮され、すべてここから発しているといっていい。つまり、播磨生まれで、これを書き始めた寛永20(1643)年に60歳だったということだ。
年齢には、60歳、60余歳、あるいはもっと上だ、といった異説もあるが、それはさておき、武蔵は、生涯かけて得た「技と思想」をまとめにかかったのである。

武蔵の最期

「五輪書」を書き終えたとき、武蔵は死を覚悟していた。霊巌洞に引きこもったまま魂が周りの岩に溶け込むような最期を迎えるつもりであった。

森の墓標

森の墓標

正保2年5月12日、武蔵は、美しい言葉をしたためた「独行道」を求馬助に与えた。その1週間後、突然、床から立ち上がった。そして、戦場の武人そのままの姿で、静かに息を引き取ったという。一応、62歳とする。
死後も、藩主を守護したい――武蔵は、そう望んでいた。その遺言どおりに、遺骨は、藩主参勤交代の列を見通せる豊後街道沿いに葬られた。
森の墓標は、藩主だけでなく、日本人の心と行く末を、じっと見詰めているようでもある。

霊巌洞の武蔵

霊巌洞の武蔵

動かぬ武蔵。進行するガン。細川藩主、高官たちは、はらはらして見守っていた。 しかし、いかに、武蔵の意志であるとはいえ、放置はできない。 何度も説得しようと試みたが、武蔵は、だれも寄せ付けない。ようやく、鷹狩と称して洞窟を訪れた旧知の盟友、長岡興長・寄之父子が帰宅を促し、千葉城跡の居宅に連れ戻した。正保2(1645)年、春も暮れようとするころだった。 その、5月、武蔵は身辺整理を始める。刀や鞍などを、家老らに形見分けをした後、高弟の寺尾孫之丞勝信に「五輪書」を、その弟・求馬助信行には「兵法三十五箇条」を与えた。

武蔵が遺した美と言葉

「元和偃武(げんなえんぶ)」。武器を伏せる平和の時代。元和年間に、武蔵の剣から発した「哲学」は、大きく変わった。
「武」によって人の心を変え、つかんで時代を切り開く手法は、もう、通じなくなったのであろうか。
そうならば、新しい時代の政治・生活手法を提示しなければならない。武蔵の思考は、そこで「美」に向かった。
美しい言葉、美しい絵、書、あるいは庭造り…。

画家・武蔵

武蔵の画は、日本の絵画史上、重要なエポックを刻んだとされる。
死後10年ほどして書かれた「海上物語」という書物にも「絵画の名人なり」と評されるほどだ。

布袋竹雀枯木翡翠部分(岡山県立美術館蔵)
布袋竹雀枯木翡翠部分(岡山県立美術館蔵)
深い禅の境地を示す

武蔵の画として、「枯木鳴鵙図」、六曲一双の大作「芦雁(ろがん)図」をはじめ、各種の「達磨(だるま)図」「雲龍図」「馬図」「布袋(ほてい)図」などがある。どれも深い禅の境地を示すストイックな傑作だ。
いずれも、武蔵が見せる「文・知」というもう一つの姿が、この絵の世界にある。
「枯木鳴鵙図」と「芦雁図」は重要文化財指定を受けているが、武蔵の絵は、このほかにも数点が重文指定されている。絵の専門家でもない人が、これほどの評価を受けるのは、極めて珍しい。というより、武蔵だけではないか。

布袋竹雀枯木翡翠部分(岡山県立美術館蔵)
布袋竹雀枯木翡翠部分(岡山県立美術館蔵)
武人画家の伝統を再び

禅宗の興隆とともに水墨画が発達し、多くの武将が名画を残している。「武人画家」と称されるグループだが、安土桃山から江戸に入り、そうした簡明・質実剛健の流れは途切れ、主流派は華美に走った。
その中で、武蔵は武人画の伝統を呼び戻すかのように厳しく鋭い筆を走らせた。同時期に活躍した武人画家に、京都・建仁寺襖絵などで有名な海北友松(かいほうゆうしょう)がいるが、その画風にも通じる。
この友松が、武蔵の画の師だとする見方もあるが、よく分からない。恐らく剣と同じように「画道」も、晩年になってから独自で切り開いていったのだろう。

布袋竹雀枯木翡翠部分(岡山県立美術館蔵)
布袋竹雀枯木翡翠部分(岡山県立美術館蔵)
姫路に伝えられる武蔵画

武蔵とのゆかりが深い姫路城下にも、武蔵作と伝えられる画が残っている。景福寺の「寒山拾得図」や、播磨国総社に掲げられていたという「相撲絵馬」などだ。 寒山捨得は、襖絵か、屏風を軸装したもので、異様な眼光など、いかにも武蔵らしい鋭い筆致を今に伝える。
総社の絵馬は、昭和11年、大阪のデパートで開催された「剣哲宮本武蔵と武道展覧会」に出展され「武蔵が佐々木小次郎との決闘の前に戦勝を祈願して奉納されたもの」との解説がついて、人気を集めたという。縦七尺八寸、横六尺七寸という大きなものだったようだが、残念ながら戦災で焼失したという。ただ、武蔵四世の剣人で、菅原国枝が写しており、その模写で、わずかに雰囲気を知るのみである。(「寒山捨得」は未公開)

布袋竹雀枯木翡翠部分(岡山県立美術館蔵)
鵜図(うず)永青文庫蔵
武蔵作品を鑑賞する

鵜図(うず) 永青文庫蔵
※重要文化財

武蔵の書

絵とともに、武蔵の書も、見事なものであった。有名な「戦気」というのがある。「戦気 寒流帯月澄如鏡」。戦いの意気込みは、厳冬の川の水が月を映して鏡のように澄み渡った心境を持つべし、といっているのだろう。覇気を込めた鋭く、それでいて流れるような筆致で見る者に迫る。

造園家・武蔵

熊本で、自然の中に溶け込むように没した武蔵だが、
あるいは、作庭作業の中でも「自然との一体感」を悟り始めたのではなかっただろうか。

円珠院庭園
円珠院庭園
円珠院庭園

明石川河口に程近い善楽寺の円珠院庭園(明石市大観町)。本堂に面し、明石海峡を背にした格好で境内南東角に造られた。水墨画風と、専門家は見る。

円珠院庭園図説を見る
円珠院庭園案内板
福聚院庭園
福聚院庭園
福聚院庭園

明石川河口に程近い善楽寺の円珠院庭園(明石市大観町)。本堂に面し、明石海峡を背にした格好で境内南東角に造られた。水墨画風と、専門家は見る。

福聚院庭園図説
札
本松寺庭園
本松寺庭園
本松寺庭園

明石川河口に程近い善楽寺の円珠院庭園(明石市大観町)。本堂に面し、明石海峡を背にした格好で境内南東角に造られた。水墨画風と、専門家は見る。

本松寺庭園図説
本松寺庭園案内板
円珠院庭園
明石町割図 (「主図合結記」兵庫県立歴史博物館蔵)
明石周辺に残る寺院庭園

明石川河口に程近い善楽寺の円珠院庭園(明石市大観町)。本堂に面し、明石海峡を背にした格好で境内南東角に造られた。水墨画風と、専門家は見る。

円珠院庭園
明石城
明石城の幻の庭園

武蔵は、造園家でもある。明石城主小笠原忠真の一代覚書「清流話」に、こんなくだりがある。「明石城三の丸の西に捨て曲輪がある。そこに樹木屋敷を建てて遊興所にすることにした。座敷や風呂、茶屋などをつくり、築山泉水、滝を配し植木も植えるという設計だ。その一切を宮本武蔵に仰せつけられた」武蔵に、庭造りを命じたのである。
武蔵は、阿波、讃岐、小豆島などから石を、三木、明石の寺院から良木を取り寄せた。大坂、堺からも植木を買った。
1年がかりで完成した庭園は、樹木屋敷と称され、城内の憩いのスポットになったようだ。武蔵の造った代表的な庭園だが、今はない。大正時代に「乙女池」が整備されたが、樹木屋敷の石や木がここに移されたと推測される。武蔵の造った代表的な庭園でその後壊されたが、平成15年度内の復元をめざしている。

思想家・武蔵

晩年の武蔵は絵を描き、書をしたため、思想を磨いた。残された書画、著作は、永遠に光を放ち、
日本人の心に「知の刃」を付き付けているようである。「哲人・武蔵」を大きく育てたのは、
生地の播磨と、何十回もの決闘、修行、そして、熊本での深い思索ではなかったか。

五輪書
五輪書

仏教で言う天地すべての現象「五輪」つまり、地・水・火・風・空の意味から五部構成とし、後に「五輪書」と呼ばれるようになった。実戦をベースに、あらゆる要素を統合した理論は、強い説得力と普遍性を持って迫ってくる。

五輪書
地の巻

序文を含む「地の巻」では、兵法一般と自らの二天一流の原点を説く。戦うための知識、情報を習得し技術を高める。そのための鍛練、武器の選択に務めよという。一人の力を高めることで、十の敵に勝つことができる。つまり「小の兵法から大の兵法」への転換が重要だ。そして「武道具は手にあうようにあるべし」という。使いこなせる得物こそ、十分な効力を発する、というわけだ。

地の巻
水の巻

「水の巻」では、実戦時の心身の持ちようが示される。「心はきつくひっぱらず、少しもたるまず、心を真ん中に置くべし」「常の身を兵法の身とし、兵法の身を常の身とする」。厳しい身構えから、相手の本質をまず見抜くこと。その上で表面の動きに注目せよという。「観」と「見」という二つの洞察力こそ肝要だという。

火の巻

「火の巻」では、先手と臨機応変を強調する。「敵山と思えば海としかけ、海と思えば山としかける。この心が兵法の道なり」また、時に手段を選ばず、駆け引きも必要、とした。そして、相手の立場に立って戦いを組み立てることの必要性を述べる。孫子の「彼を知り己を知れば百戦あやうからず」と共通する心構えである。いわば「勝つためには手段を選ばず」という強い意志を求めているのである。

風の巻

「風の巻」は、形や道具にこだわる他の流派を厳しく批判する。初歩や、奥義などといった、いかにも秘伝の教授というやりかたもあるが、それはいざ敵と打ち合う時には、何の役にも立たない。修業についても、はじめからマニュアルに従うべきではないという。初めて習うものには、その修業者の習いやすい技から教えるべしと言う。

空の巻

最終巻の「空の巻」では、迷い、執着から解き放たれた心境について述べている。「武士の行う道少しも暗からず、心の迷う所なく、朝々時々に怠らず心意二つの心を磨き観見二つの目を研ぎ、少しの曇りもなく、迷いの雲の晴れたるところ」こそ「空」だとする。この心を得るのが兵法、つまり二天一流の真髄であると説いた。

独行道
独行道碑(高砂 宮本武蔵・伊織顕彰会制作)
独行道碑(高砂 宮本武蔵・伊織顕彰会制作)

「われ、独り」。朝鍛夕練の末、独自で切り開いた高潔、骨太の生涯に裏打ちされた21の言葉。死の直後から高い評価を受けたが、どの時代にも強烈な印象を与える普遍的警句である。「海図なき時代」には、とりわけ、美しい響きを伴って、強い光を放つ。

  1. 一、 世々の道をそむく事なし
  2. 一、 身にたのしみをたくまず
  3. 一、 よろずに依怙の心なし
  4. 一、 身をあさく思世をふかく思ふ
  5. 一、 一生の間よくしん思わず
  6. 一、 我事において後悔をせず
  7. 一、 善悪に他をねたむ心なし
  1. 一、 いづれの道にもわかれをかなしまず
  2. 一、 自他共にうらみかこつ心なし
  3. 一、 れんぼの道思ひよるこころなし
  4. 一、 物事にすきこのむ事なし
  5. 一、 私宅ににおゐてのぞむ心なし
  6. 一、 身ひとつに美食をこのまず
  7. 一、 末々代物なる古き道具所持せず
  1. 一、 わが身にいたり物いみする事なし
  2. 一、 兵具は格別よの道具たしなまず
  3. 一、 道におゐては死をいとはず思ふ
  4. 一、 老身に財産所領もちゆる心なし
  5. 一、 仏神は貴し仏神をたのまず
  6. 一、 身を捨てても名利はすてず
  7. 一、 常に兵法の道をはなれず

〈出典〉熊本城顕彰会常務理事 鈴木喬/成美堂出版『剣聖?宮本武蔵??激闘の生涯』03-3814-4351

描かれた武蔵

宮本武蔵を読む

解説・杉田陽子
『宮本武蔵』
吉川英治著 講談社 1937年

 昭和10年(1935)8月23日から同14年7月11日まで、1年弱の休載を挟んで「朝日新聞」に連載された。当初、新聞社側は「今更講談の主人公を持ち出すとは」と連載に消極的であったが、吉川が「違って書くから」と新聞社側を説得し連載を開始する。瞬く間に人気を博して、1013回にもわたる長編となった。17歳の武蔵が関が原の戦いに敗れたところから物語は始まる。無軌道な武蔵は、沢庵和尚との出会いや姫路城での開かずの間で過ごした3年間の読書三昧の日々により人間として生まれ変わる。吉川は、殺しの道具である剣を思索の糧へと変え、ひたすら己の目指す道を歩んでいく求道者としてみごとに武蔵を描きだす。沢庵、又八、お通などの登場人物や、般若坂の決闘、一乗寺下り松の決闘、そして佐々木小次郎との巌流島の決闘など数々の決闘場面がどのように描かれているかが、作品の魅力といえる。吉川版『宮本武蔵』誕生の陰には、当時文壇におこった武蔵論争がある。また、吉川には『随筆 宮本武蔵』もあり、講談社から新版(2002年)が出た。

『宮本武蔵』
笹沢左保著 文藝春秋 1990~96年

吉川英治が巌流島の決闘で筆をおいているのに対し、決闘より武蔵が亡くなるまでを描いた小説。巌流島の決闘のからくりを「沼田家記」にヒントを得、細川藩側の事情によるものとしている。佐々木小次郎を亡き者にするため自身の腕を買われたことを知った武蔵が苦悩することから、武蔵の精神的成長が始まっている。決闘のからくりについては、真に迫るものがある。晩年、武蔵を藩に迎えた細川忠利との交流なども目を見張るものがある。文庫本(文春文庫、1996~97年)も出ている。

『二人の武蔵』
五味康祐著 新潮社 1957年

武蔵には、武蔵を名乗る複数の人物がいたとされる。そこに着目し、岡本武蔵と平田武蔵の二人の武蔵を配したのが、本著である。平田武蔵は、作州新免家の剣術指南役平田無二斉を父に持ち、武芸修業のため上洛し、京の名門吉岡源左衛門を倒して名を上げる。一方、岡本武蔵は播州の地侍の息子で、唐人剣客の達人十官について修業し、剣で立身せんと上洛、平田武蔵と相前後して吉岡道場に他流仕合を申し込み、吉岡源左衛門の叔父で後ろ楯になっている伝七郎をきる。岡本が右利きなのに対して、平田は左利きとしている。二人が共に吉岡一門相手に一乗寺下り松で決闘することになり、ちょうど二刀流を駆使したのと同じみごとな切れ味をみせたという解釈を見せる。佐々木小次郎との決闘を前にした平田と岡本との対決はクライマックスの見せ場である。初版(新潮社、1957年)では岡本が敗れ、文庫本(徳間文庫、1992年)では岡本が勝つ。現在、文春文庫(2002年)から出版されている。

『決闘者 宮本武蔵』
柴田錬三郎著 講談社 1972年

この小説では、武蔵は父の敵である平田無二斎に養育されたことになっている。独自の視点から、ただ剣において勝つことのみを追求した兵法者・宮本武蔵を描きだした。

『実録・宮本武蔵』
早乙女貢著 講談社 1984年

著者は、数々の作家に作られてきた宮本武蔵像に疑問を持ち、新たな洞察で資料を紐解く。多くの本が武蔵を賞賛する傾向にある中で、武蔵は日本一の剣豪ではないという武蔵論は興味深い。文庫本が『新編 実録・宮本武蔵』としてPHP文庫より2002年に出版された。また、著者は『剣鬼宮本武蔵』(新人物往来社、2002年)も出版している。

『双剣の客人』
-生国播磨の宮本武蔵』
寺林峻著 アールズ出版 2000年

播磨国印南郡雁南庄米田(現・高砂市米田町)に田原家貞の子として生まれた田原玄信、後の宮本武蔵は、やがて同じ赤松の一党である美作国吉野郡讃甘庄宮本(現・岡山県英田郡大原町)の宮本無二之助の養子となったという宮本武蔵播州出生説を踏まえてその生涯を描いた小説。高砂や加古川を元気に走りまわる少年・武蔵が描かれる。また、池田輝政が城主のとき起きた天狗の書状事件や城内の怪異を武蔵が解き明かしたり、九州の黒田如水のもとに滞在したりと、播磨にゆかりの深い人物も想像巧みに取り入れられている。文庫本(『真説宮本武蔵-双剣の客人』学研M文庫、2002年)も出された。

『武蔵二刀流』
火坂雅志著 学研M文庫 2001年

姫路城で次々と起こる怪奇な事件を、「兵法指南役」として召された宮本武蔵は、本多忠刻・千姫を守りながら解決していく。

吉川英治「宮本武蔵」を読む

あらすじ

昭和10年(1935)8月23日から同14年7月11日まで、1年弱の休載を挟んで「朝日新聞」に連載された。当初、新聞社側は「今更講談の主人公を持ち出すとは」と連載に消極的であったが、吉川が「違って書くから」と新聞社側を説得し連載を開始する。瞬く間に人気を博して、1013回にもわたる長編となった。 17歳の武蔵が関が原の戦いに敗れたところから物語は始まる。無軌道な武蔵は、沢庵和尚との出会いや姫路城の開かずの間で過ごした3年間の読書三昧の日々により人間として生まれ変わる。吉川は、殺しの道具である剣を思索の糧へと変え、ひたすら己の目指す道を歩んでいく求道者としてみごとに武蔵を描き出す。沢庵、又八、お通などの登場人物や、般若坂の決闘、一乗寺下り松の決闘、そして佐々木小次郎との巌流島での死闘など数々の決闘場面がどのように描かれているかが、作品の魅力といえる。吉川版『宮本武蔵』誕生の陰には、当時文壇におこった武蔵論争がある。また、吉川には『随筆 宮本武蔵』もあり、講談社から新版(2002年)が出た。 [文・杉田陽子]

作品から

少年武蔵
……母が病気で死んだと聞いてから、武蔵は、鬱(ふさ)ぎ性(しょう)から急に手のつけられない暴れン坊になった、さすがの無二斎も黙ってしまった、十手を持って懲(こら)そうとすれば、棒を取って、父へかかって来る始末だった、村の悪童はみな彼に慴伏(しょうふく)し、彼と対峙(たいじ)する者は、やはり郷土の倅(せがれ)の又八だけだった。
十二、三には、もう大人に近い脊丈があった。或る年、村へ金箔磨(はくみが)きの高札を立てて、近郷の者に試合を挑みに来た有馬喜兵衛という武者修業の者を、矢来の中で打ち殺した時は、(豊年童子(わらべ)の武やんは強い)と、村の者に、凱歌をあげさせたが、その腕力で、いくつになっても、乱暴がつづくと、(武蔵が来たぞ、さわるな)と、怖がられ、嫌われ、そして人間の冷たい心ばかりが彼に映った。父も、厳格で冷たい人のままでやがて世を去った、武蔵の残虐性は、養われるばかりだった。
もし、お吟(ぎん)という一人の姉がいなかったら、彼は、どんな大それた争いを起して、村を追われていたか知れない。だが、その姉が泣いていう言葉には、いつもすなおに従った。
―――「地の巻」独茸

講談の武蔵

妖怪を倒すシーンを旭堂小南陵氏の講談でご覧いただけます。

講談「武蔵野姫路城妖怪退治」あらすじ

姫路の吉岡無二斎の次男、平馬は、その優れた剣さばきを見込まれ、宮本武左衛門の養子となって、宮本武蔵と名乗りました。肥後で剣の修業を続けていた武蔵は、父が佐々木巌流(小次郎)に闇討ちされて殺されたことを知り、姫路へ敵討ちに行帰ります。しかし巌流は行方知らず。武蔵は巌流を待つため、武蔵は名を伏せて瀧本又三郎と名乗り、木下家の足軽に奉公して、二刀流で剣術の指南をするようになりました。ある時、城主から「天守に出るという妖怪を退治する者はおらぬか」という達しがありました。天守に出没していたのは、刑部(おさかべ)姫にまつわる妖怪でした。その昔、身分違いの恋から自害した姫が祀られていたのです。城主から命じられた武蔵は、深夜、一人で提灯を手に天守へと向かいました。天守の四階で妖怪を倒した武蔵は、深夜、一人で提灯を手に天守へと向かいました。天守の四階で妖怪を倒した武蔵は、ようやく天守の問に上がります。すると祠が開き、十二単を着た刑部姫が現れました。そして「刑部明神をまつるよう伝えよさすれば姫路の地は安泰にいたす」と話し、武蔵に褒美として名刀を与えました。それから三年後、佐々木巌流が姫路に戻ってきました。武蔵は御前試合で巌流を破り、そして巌流島で再び決闘をするのです。

監修・あとがき

歴史の中で、宮本武蔵の実像をとらえるのは、大変難しい。それは、江戸時代から今に至るまで、講談、歌舞伎、小説、映画といったフィクションの世界が「武蔵像」を拡散し、虚像の増幅を重ねてきたからだ。
読者、観客としては、それはそれで、楽しませてもらったわけだが、虚像だけが一人歩きを始めると、歴史上の人物だけに、では、その実像はどうか、と思い始める。本当の武蔵はどんな男で、いかなる足跡を残したのか――そんな「知的興味」がわいてくる。それが、昨今の武蔵ブームの背景ではないか。
こうした状況を踏まえて、現存資料や最新の研究成果にも目を通しながら「新しい武蔵像」を探ったつもりだ。「力と美」に凝縮される武蔵の実像を読み解き、武蔵の思想と行動の中に現代的意味を見いだすきっかけにしていただければ、うれしい。
神戸新聞論説特別顧問・中元孝迪

監修・協力

監修

中元孝迪

協力

兵庫県立歴史博物館

姫路文学館

岡山県立美術館

財団法人 永青文庫

財団法人 島田美術館

吉川英治記念館

北九州市立
自然史・歴史博物館

八代市立博物館
未来の森ミュージアム

明治大学博物館

宮内庁書陵部

国立国会図書館

江戸東京博物館

NHKプロモーション

東京都立中央図書館

禅文化研究所

泊神社

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西光寺

神宮寺

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円光寺

上品蓮台寺

八大神社

武蔵神社

讃甘神社

福聚院

圓珠院

本松寺

雲厳禅寺

神戸新聞社

神戸新聞
総合出版センター

宮本武蔵・伊織顕彰会

宮本武蔵顕彰会

武蔵・伊織
地域活性化実行委員会

兵庫県立武道館

高砂市商工労働課

岡山県大原町産業振興課

下関市観光振興課

北九州市観光課

熊本市観光物産課

熊本市公園管理課

姫路市民会館

兵庫県立図書館

旭堂小南陵

小川亮子

小谷祥子

ほか

本サイト制作にあたって

1.本サイトは、中元孝迪「武蔵ものがたり」を参考に制作しました。
本原稿は神戸新聞に連載された後、下記の書籍として出版されています。

生国播磨の剣聖 宮本武蔵を行く

中元孝迪:編著『生国播磨の剣聖 宮本武蔵を行く』
(2003年 神戸新聞総合出版センター発行)

2.制作にあたり下記の企画展・図録を参考にしました。

・兵庫県立歴史博物館「企画展 武蔵ものがたり」
・「武蔵 武人画と剣豪の世界展」NHK、NHKプロモーション発行
・「吉川英治と宮本武蔵」姫路文学館発行

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