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兵庫の太平記

太平記概説

「平家物語」と並ぶ中世軍記物語の代表作品である「太平記」は、その名称は誰でも知っているが、実際に四十巻全冊を読み通したり、内容をよく知っていて、おもしろさを十分に味わったりした人は、意外に少ないのではなかろうか。
NHKの大河ドラマでも、「平家物語」が、「新平家物語」以来、くり返しとり上げられて、人々に親しまれているのに対し、「太平記」は、一九九一年(平成三年)に一度ドラマ化されただけで、多くの人になじみ深いものとはなっていないし、何よりも重厚長大な四十巻の物語で、簡単には読めない作品であることもたしかである。
「太平記」は、半世紀以上にわたって、日本の国に二人の天皇・二つの政権がならび立って、それぞれにつらなる貴族や武士たちが、入り乱れて対立抗争し、離合集散をくり返した、南北朝時代という大動乱期を描いた作品であるが、こうした動乱の時代相と、そこに生き、活躍した多彩な人間模様を生き生きと描き出していて、軍記物語としてのおもしろさは、むしろ「平家物語」をしのぐものがあるといえよう。
だから「太平記」は、南北朝時代の終り頃、作品が出来た当初から、多くの人にもてはやされたし、江戸時代あたりでも、一番人気のあった軍記物語であった。
南北朝時代の貴族洞院公定(とういんきんさだ)という人の日記の応安七年(一三七四年)五月三日の項に、この頃天下の人々が「翫(もてあそ)ぶ」(なぐさみとして賞翫する)「太平記」の作者小島法師(こじまほうし)が、四月二十八、九日頃になくなった。身分は卑しいが、文筆の「名匠」であり、残念なことだ、といったような記事がある。
この日記の記事によって、「太平記」が、南北朝時代の一三七〇年代頃には出来あがっていたことや、成立当初から人々のもてあそびものであったらしいことがわかるし、長い時間をかけて何人かの人に書きつがれたのではないかといわれている「太平記」の作者の一人は小島法師と呼ばれる卑賤な文筆家であったことも知ることができるのである。
こうして南北朝時代の終り頃にまとめられた「太平記」は、続く室町時代や戦国時代には、物語僧や談義僧(説教僧)が、座敷の集まりや寺院の説法の後などに音吐朗々と読みあげるという形で大勢の人に読み聞かせたり、戦国武将らが、みづから「太平記」を写したり、武士達を集めて「太平記」を読む会を開いたりしたことなどが記録に残っている。
江戸時代に入ると、これまで写本の形でしか流布していなかったものが、版本として大量出版されて、庶民にまで読者層が広がり、貸本屋での貸出し状況などをみても、「太平記」は、一番人気のある軍記物となった。
この時代のはじめには、「太平記」の登場人物や事件・合戦について、道徳や兵法の面から論評を加えたり、「太平記」に載っていない異伝や裏話などを多く収めた「太平記評判秘伝理尽鈔(ひょうばんひでんりじんしょう)」という書物があらわれ、これを主に武士層に講義・読釈することが行われた。この「理尽鈔講釈」が、次第に庶民層にまで広がり、「理尽鈔」だけでなく、「太平記」そのものも、扇をたたいてリズムをとり、身ぶり手ぶりも交じえながら、調子よく読み聞かせるという、いわゆる「太平記読み」「太平記講釈」が、元禄年間(一六八八年~一七〇三年)前後あたりには非常に盛んになった。
そして江戸時代中期頃から、「太平記」や「理尽鈔」だけでなく、もっと身近かな戦国の軍記物や江戸時代の騒動・事件、世話物や人情話なども講釈するようになり、「太平記読み」は、講釈・講談という人気芸能に展開してゆくのである。
この「太平記読み」「太平記講釈」は、専門の釈亭であった「太平記場(たいへいきば)」での講釈、よしず張りの小屋や講釈師の居宅などで行われた町講釈・寺社の境内や門付けで行われた辻講釈など、さまざまな形で行われた。また当時の「太平記読み」の内容・語り口は、正確にはわからないが、講釈・講談に発展した「太平記もの」は、現代の講談にも伝えられているので、その一つ「楠木正成と泣男」を、上方講談の旭堂小南陵師に口演していただき、「太平記読み」についての解説もつけていただいた。そうして近代に入ると、明治期から太平洋戦争に至るまで、富国強兵の国策が進む中で、「太平記」は、南朝の後醍醐(ごだいご)天皇・後村上天皇らに一身をささげて忠義をつくした楠木正成・正行父子らの忠国愛国の物語であるとされ、修身(道徳)の教科書に載せられ、学校で教えこまれるというような状況が続いた。そして敗戦後は、その反動として、忌避(きひ)されたり、黙殺されたりしたというように、「太平記」は、いわば不幸な書物であったといえよう。
そうした過去の制約や偏見から解放されて、一個の文学作品として自由に読めば、「太平記」は、まことに波瀾万丈(はらんばんじょう)のおもしろい軍記物語であることを広く一般の方々に知っていただきたいというのが、この講座の一つのねらいである。
また「太平記」には、湊川の合戦のように、かつての摂津(せっつ)・播磨(はりま)など兵庫県が舞台の重要な戦いや出来事が描かれることが少なくないし、赤松氏のように兵庫県出身の武士たちの活躍も目立っている。
重厚長大な「太平記」のすべてを紹介し、伝えることはできないので、ここでは、兵庫県に関わる合戦・挿話・人物に焦点をあてながら、「太平記」のあらまし、全体の物語展開もつかめるようにしたいと思う。

「昼夜用心記巻四 辻講釈(北野天満宮)の図」大阪府立中之島図書館蔵

太平記の内容

「太平記」四十巻の内容は、通常、三部に分けてとらえられる。第一部(巻一~第十一)は、後醍醐天皇の再度の鎌倉幕府討伐計画とその挫折を経て、ついにはそれに呼応して挙兵した楠木正成・足利尊氏・新田義貞らの活躍によって、北条高時の鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇の建武新政府の誕生するまでを描いている。
第二部(巻十二~巻二十一)では、建武の新政権も、足利尊氏ら武家階層の離反によって、たちまちのうちに崩壊し、後醍醐方の義貞と尊氏による「国争い」、吉野にのがれた後醍醐の南朝と尊氏が京都に擁立した北朝の対立が続くが、正成・義貞らが次々に敗死し、尊氏が征夷大将軍に就任して、足利方(北朝)の優位が決定的になってゆく過程が描かれている。 そして第三部(巻二十二~巻四十)においては、主として足利政権(室町幕府)内部における、はげしく果てしない権力闘争の過程が物語られている。尊氏の弟直義(ただよし)と高師直(こうのもろなお)が対立し、師直が討たれる観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)など、次々に起こった足利一族・有力大名らの対立・抗争と、それに南朝方の楠木正行(まさつら)・新田義興(よしおき)らもからんだ長い動乱が記述され、やがて尊氏も、二代将軍義詮(よしあきら)も死に、幼い義満が足利三代将軍となり、細川頼之(よりゆき)が補佐役となって、一時的な平和が訪れたところで、「太平記」は終っている。

兵庫の「太平記」

一. 後醍醐天皇と北条高時

「「太平記」巻一の第一章「後醍醐天皇御治世の事付けたり武家繁昌の事」の冒頭には、次のようなことが書かれている。
わが国九十五代目の後醍醐天皇の時代に、北条高時という幕府の執権がいた。ところが天皇は徳に欠け、高時は臣下の礼をつくさなかった。だから天下が治まらず、四十年に余る大動乱が続くことになった。
原文参照
この第一章の前に「序文」があって、そこには、すぐれた帝王が徳をもって世を治め、りっぱな臣下がそれを補佐する時、世は太平である。そうでない時は、必ず世が乱れ、平和は失われることは、古今の歴史に明らかである。
といった意味のことが述べられている。「太平記」によると、後醍醐天皇は明君であったが、度量がせまく、徳をもってではなく、権力・武力をもって強圧的に治めようとするところがあった。
北条高時の方は、田楽(民間で行われた遊芸・舞楽)や闘犬に熱中して政治をかえりみず、天皇の政治を補佐しようとしなかった。だから国が乱れ、兵乱が絶えないのは当然だといっている。つまりここには、戦争と平和の問題を追求しようとする「太平記」のテーマが示されているのである。
もう一つこの書き出しのとこで示されているのは、「太平記」の前半、いわゆる第一部は、後醍醐天皇と北条高時の対立・闘争を軸にして展開してゆくということである。これを主軸としながら、しばらく第一部の展開をたどってみよう。

二. 後醍醐天皇の討幕計画

鎌倉幕府第十四代執権北条高時が、当時流行していた田楽(でんがく)という芸能や闘犬などに熱中して、「日夜朝暮にもてあそぶ事他事(たじ)無し」という状況であったことは、「太平記」巻五「相模入道田楽をもてあそび並びに闘犬の事」の章にくわしく書かれている。例えばその闘犬狂いの様子を記したところを引いてみると、肉を存分に食べ錦で飾った犬が鎌倉中に横行し、四、五千疋もいた。月に十二度、闘犬の日があって、御家人らも皆集まって見物したが、一度に一、二百疋闘かわせたので、かみ合う声は天地を動かすほどであった。
原文参照
といったありさまであった。
こういう高時の狂態をみて、政治の実権を武家の幕府からとりもどし、昔のような天皇が 直接天下を治める政治を行いたいと望んでいた後醍醐天皇は、幕府を倒す好機と考え、それを実行しようとした。
この計画は、後醍醐天皇方の武士土岐頼員(ときよりかず)が妻に寝物語をしたことから洩れて、土岐らは討たれ、中心になって討幕計画を進めていた日野俊基(としもと)・資朝(すけとも)らは捕えられて失敗に終った。正中元年(一三二四年)のことで、これを正中の変という。
後醍醐天皇は、この後も幕府を倒す意志をすてず、延暦寺などの大寺院を味方にしようとしたり、再び行動をおこしたが、今度も幕府の知るところとなり、側近の日野俊基らが捕えられて処刑され、天皇にも追及の手が及びそうになった。元弘元年(一三三一年)夏のことで、いわゆる元弘の乱の始まりである。
同年八月、後醍醐天皇は京都を脱出して笠置山にこもったが、幕府の大軍に包囲されて陥落し、天皇は捕えられ、翌年三月には隠岐島へ流されることになる。こうして後醍醐天皇の幕府討伐計画は、またも失敗に終ったかにみえた。

三. 楠木正成の活躍

ところが、後醍醐天皇の、このような苦しい状況を打開すべく、幕府の大軍を一手にひきうけて、これを翻弄(ほんろう)し、幕府打倒の気運を盛り上げる英雄的人物が登場する。河内の土豪楠木正成(くすのきまさしげ)である。
笠置山にこもった後醍醐天皇の夢のお告げによって見出された正成は、「自分が生きている限りは、天皇の運命はきっと開けます」と言上して河内に帰り、赤坂城に拠って、笠置を落とした後の幕府の大軍と対戦し、鈞塀落としや熱湯攻めなど、さまざまな奇抜な計略を用いて、大いにこれを苦しめるのである。やがて兵糧が尽きると城を焼き、焼死したように見せかけて姿を消した。
それから一年余り後の元弘二年(一三三二年)十二月、突然姿をあらわした正成は、天王寺辺の戦いで幕府軍を苦しめた後、千人に足らぬ小勢で、金剛山の外山千剣破(ちはや)城にこもって、百万騎という幕府の大軍と対戦することになる。
けわしい山城の利点を存分に活用し、小よく大を制する痛快な楠木流戦術の真骨頂が示されるのが、この千剣破城の攻防戦である。小城とあなどって、十分な準備もしないで、われ先にと城の木戸口の辺まで攻め上った幕府の軍勢に、高い櫓(やぐら)の上から、大きな石を次々に投げつけ、防ぐ楯の板をこなごなに打ちくだき、浮き足立ったとこに一斉に矢を射かけ、たちまちのうちに五、六千人の死傷者を出した。
原文参照
といった戦いから始まったこの合戦は、その後も、楠木軍が大木を投げ落して圧死させたり、藁(わら)人形の兵士を作って敵をおびき寄せて壊滅したり、城に架け渡した大梯(ばしご)に油を注ぎ火をかけて焼き落したり、といった奇計を次々にくり出して、幕府軍を翻弄し、攻める意欲を喪失させ、数か月にわたって千剣破城を支え続けた。この千剣破の小城を攻め落せなかった鎌倉幕府(軍)は、全国の武士たちから見はなされ、反幕府の挙兵が相次(あいつ)ぐことになってゆくのである。

四. 赤松の挙兵と合戦

正成の千剣破(ちはや)籠城戦と同じ頃、倒幕のために立ち上ったのが、播磨(兵庫県西部)の豪族赤松円心であった。円心は後醍醐天皇の皇子大塔宮護良(おおとうのみやもりよし)親王の呼びかけに応じて、元弘三年(一三三三年)正月、本拠の播磨国佐用(さよ)郡の苔縄(こけなわ)城(上郡(かみごおり)町)で挙兵した。円心は、そこから打って出て、摂津の摩耶山忉利天寺(まやさんとうりてんじ)(神戸市灘区)に城を築いて兵庫をおさえ、西国から京都への補給路を断った。
そこで幕府は佐々木時信以下の五千余騎をさし向けて、赤松を退治しようとした。しかし赤松軍は、正成の千剣破(ちはや)城と同じように、六甲山系の、けわしい山城の利を活かして奮戦し、幕府軍を撃退した。この戦いの様子は、「太平記」巻八「摩耶合戦の事」に詳しく描かれている。
それによると、閏(うるう)二月十一日に摩耶山の南の麓求塚(ふもともとめづか)(東灘区御影町)・八幡林(やはたばやし)(灘区八幡町)から寄せた幕府軍を、円心はわざと兵を引き上げ、「七曲(ななまが)り」と呼ばれる細くけわしい道の所までおびきよせ、登るのに難渋しているところを、山上の二か所から、「大山のくずるるごとく」にうって出て、はげしく攻めたてたため、幕府軍は総くずれとなり、大勢が討たれて、七千余騎が、わずか千騎足らずになって逃げ帰った。
原文参照
という有様で、この初戦は赤松軍の快勝に終ったのであった。

五. 鎌倉幕府の滅亡

同じ頃、皇位を奪われ、隠岐(おき)の島に流されていた先帝後醍醐は、警固のすきをねらって隠岐を脱出し、名和長年(なわながとし)らに迎えられて伯耆の船上山(ふなのうえやま)(鳥取県赤崎町)にたてこもった。そしてこの先帝の命令に応ずる形で、これまで幕府に仕えていた有力な豪族足利尊氏や新田義貞が反幕府の挙兵にふみきり、まず足利・赤松らを中心とした先帝方の軍勢が京都の六波羅探題を攻め亡ぼし、次いで新田義貞の率いる関東の先帝方軍勢が鎌倉に攻めこみ、北条高時を自害させ、鎌倉幕府を滅亡に追いこむことになるのである。
陸の三方は山に囲まれ、前は海の鎌倉は天然の要害である。関東八か国の武士七十余万騎をもって鎌倉を攻めた新田軍は、極楽寺の切通し・巨福呂坂(こぶくろさか)・粧坂(けはひざか)の三方から攻めこもうとしたが、いずれも苦戦して、なかなか侵入できなかった。
そこで義貞は、元弘三年(一三三三年)五月二十一日夜半、潮の引かない鎌倉西側の稲村が崎の浜手において、剣を海中に投げ入れ、竜神に祈ると、不思議なことに干潟があらわれ、鎌倉に突入することができ、勝利することができたのである。この夜の稲村が崎の干潮は午前三時頃であったから、義貞はそれを予知し、神仏の加護があったようにみせかけたのが実相であろう。「太平記」はこうした神仏などの「不思議」を多く描いて、物語的興趣を盛り上げているのである。
原文参照
稲村が崎から鎌倉に乱入した新田軍は、各所に火を放ったので鎌倉は火の海となった。幕府方にも名を惜しむ多くの武士がいて、次々と見事な討死や自害をとげる。その中で、長崎高重は、八十余度も奮戦し、義貞を討とうとねらったが果せず、本陣にとってかえす。そして、「はやく自害なされよ。私の自害を最後の宴の肴(さかな)にして下さい」といって切腹し、それに励まされて、重臣たちや高時が次々と切腹し、北条一門二百八十三人も後に続いたという。その跡が今に残る「高時腹切りやぐら」であり、近年ここから多くの人骨が発掘された。
原文参照

六. 後醍醐帝の脱幸、建武新政へ

先帝後醍醐は、六波羅滅亡の知らせを聞き、元弘三年(一三三三年)五月二十三日、伯耆(ほうき)(鳥取県)を発って京都の還幸の途についた。前後三十里(一二〇キロメートル)に及ぶ大行列だった。途中、播磨国書写山(姫路市坂本)に寄った後、五月三十日には、福厳寺(神戸市兵庫区)へ行幸した。そこへ赤松円心父子が五百余騎を率いて参上すると、天皇は、「幕府を滅ぼして天下を統一できたのは、なによりもそなた達の力による。恩賞は望みにまかせて与えよう」といって、警固の役を命じた。
原文参照
京都に帰った先帝後醍醐は、光厳天皇を廃して天皇位に復帰し、天皇が直接政治を行う建武新政権が発足した。しかし天皇は公家を重く用い武家は「奴婢(ぬひ)・雑人(ぞうにん)」のような状態においたので、世人は、「戦乱でも起きて武家の世になってほしい」と思ったと「太平記」(巻十一)は記している。幕府を倒した戦功に対する恩賞も不公平で、とくに武家には不満が強かった。例えば、赤松円心は、大功があり、福厳寺で「恩賞は望みのまま」といわれたにもかかわらず、実際には播磨国の一部、もとの領地佐用庄(さよのしょう)を安堵(あんど)(所有の公認)されただけだった。だから後に尊氏が後醍醐天皇に叛(そむ)くと、すぐに足利方についたのだった。
討幕に大きな役割を果たした大塔宮護良親王(後醍醐天皇皇子)は、足利尊氏が武家に人気があり、新政府で重用されていることに反揆して、これを討とうとした。しかし宮が天皇の位をねらっていると疑った後醍醐天皇は、宮を捕えて足利氏にあずけた。受けとった尊氏の弟直義(ただよし)は、宮を鎌倉二階堂の土牢にとじこめ、建武二年(一三三五年)七月、北条高時の遺児時行(ときゆき)が、一時鎌倉に攻めこんだ折に、土牢の宮を殺害させた。宮は刺客淵辺(ふちのべ)の刀のきっ先をくい切って、口にくわえたままま無念の最後をとげた。
この北条時行(ときゆき)の反乱(中先代(なかせんだい)の乱という)をしずめに鎌倉に下向した足利尊氏は、建武新政に不満をもつ武士たちにかつがれる形で、後醍醐天皇に離反し、後醍醐方に立った新田義貞や楠木正成らと戦うことになるのである。

七. 楠木正成の戦いと討死

鎌倉で反乱した尊氏は、討伐に向った義貞軍を箱根竹ノ下の戦いで破り、京都に攻め上った。義貞・正成軍は、いったん比叡山に兵を引いて、京都に入った尊氏軍と戦ったが、さきにとりあげた講談「楠木正成と泣男」のもとになった話が記されているのはこの時のことである。建武三年(一三三六年)正月二十七日、京都で両軍が激戦を交じえた翌日、正成は律宗の僧侶を「作り立てて」泣きながら正成・義貞らの死骸を求めさせた。これを聞いて正成らの討死を信じ、油断した足利方に奇襲をかけて敗走させた。この正成らしい奇抜な策略の話が、「太平記理尽鈔」で「泣男杉本佐兵衛」の物語に発展し、さらに講談のような話を生み出していくのである。
こうして敗れた尊氏は九州まで落ち延びたが、そこで体勢を立て直し、多くの武士達を率いて東上してくることになる。正成は、天皇がいったん比叡山に退き、尊氏軍を京に入れて、包囲せん滅するという必勝の策を進言するが、一時にしろ京退去などできないとする後醍醐天皇や公家らは、兵庫で尊氏軍を迎え討てと義貞・正成らに命じた。
不本意な戦い方を強(し)いられた正成は、それでも異議を述べることなく、死を覚悟して兵庫に出陣するが、途中の桜井の宿(大阪府島本町)で、十一歳の長男正行(まさつら)を呼び、「わが死後は、金剛山の辺に籠って、天皇のために尊氏と戦え」と遺訓して、故郷の河内に帰した。
延元元年(建武三年・一三三六年)五月二十五日、午前八時に、足利尊氏の率いる七千五百余船の大船団が兵庫沖にあらわれた。陸路からは尊氏の弟直義が五十万騎の大軍を率いて西から進撃してきた。後醍醐天皇方は、正成がわずか七百騎で湊川の西に陣をとり、陸路の敵と対戦し、義貞は二万五千騎で和田の岬に陣をとって海路の敵と対戦した。
戦いが始まる直前、新田方の本間孫四郎(ほんままごしろう)重氏という武士が飛んでいる鳥を遠矢で見事に射落し、もう一本を敵の舟に射込んだ。本間が「その矢を射返せ」と呼びかけると、足利方から、「この矢受けてみよ」と高らかにさけんで射られた矢が二町(約二百メートル)も届かず波の上に落ちてしまった。これを射た讃岐の武士は笑い者になった。「平家物語」の那須与一の「扇の的(まと)」をパロディにしたような話で、「太平記」が「平家物語」を意識して書かれたことを証明している。
正成は、足利方の大軍と六時間の間に十六度まで激闘をまじえ、一度は直義を追いつめたが、また新手の敵軍に包囲され、わずか七十三騎となった。これだけの人数でも、脱出しようと思えばできたのだが、こういう無謀な戦いを天皇に命じられた時から、死を覚悟していた正成は、湊川の、とある民家に入って自害することにした。この時、正成は弟の正季(まえすえ)に最後の願いを聞くと、正季はからからと笑って、「七たび人間に生まれ変って朝敵を滅ぼしたいものです」と答える。正成もうれしげに同意して、兄第さしちがえて死に、家来たちも一度に腹を切って死んだ。
原文参照
無念の死も、からからと笑って甘んじて受けいれる姿を描くのは、「太平記」の特色であるが、同時に最後の願いを、「罪業(ざいごう)深き悪念」と正成自身が云っているように、悪念を抱いて死んだ正成は成仏せず、後に正成を追いつめて腹を切らせたという伊予の武士大森彦七のところに怨霊となってあらわれるのを描くのも「太平記」なのである。(巻二十三「大森彦七の事」)。

八. 室町幕府の内紛ー師直・直義の対立

兵庫の合戦に勝利した尊氏・直義は京に入り、いわゆる北朝の光明天皇を立て、室町幕府を開設し、武家政権を樹立することになる。後醍醐天皇は吉野にのがれて南朝を樹立するが、頼みとした北畠顕家・新田義貞らが次々と足利方に敗れて討死し、暦応元年(延元三年・一三三八年、史実では翌年)八月、失意のうちに死去した。南朝は後村上天皇が後を継いだが以後衰微(すいび)の一途をたどることになる。 そうした中で、楠木正成の長子正行(まさつら)は、父の遺訓を守って、貞和(じょうわ)三年(正平二年、一三四七年)、南朝のために兵をあげ、何度も足利幕府軍を破り、幕府をおびやかした。
驚いた幕府は高師直を総大将に大軍をしむけ、河内の四条畷(しじょうなわて)(大阪府四条畷市)で激戦を展開、正行は弟正時と刺しちがえて死んだ。その死への道すじは、父正成とあまりにもよく似て、あわれである。(巻二十六「楠正行最後の事」) 足利氏の室町幕府は、当初尊氏が将軍となって軍事指揮権をにぎり、弟直義が副将軍格で政務を担当する二頭政治で行われた。しかし執事(はじめ足利家の家政・事務担当、のち将軍補佐役)であった高師直(こうのもろなお)が、軍事面での功績や畿内周辺の新興武士層の支持などを背景に、次第に幕府内で政治の実権をにぎり、驕慢な振舞いが目立つようになる。
師直の驕りと悪行の話としては、塩冶(えんや)判官高貞という武将の奥方に横恋慕して奪い取ろうとし、結局、奥方も高貞も死なせてしまった話(巻二十一「塩冶判官讒死(ざんし)の事」)が有名であるが、「国王が必要なら、木か金で作り、生きた国王は島流しにする方が、面倒がなくていい」と放言するようなばさら(派手で破天荒(はてんこう)な行動をとる)大名であった(巻二十六「妙吉侍者(めうきつじしゃ)の事」)。こうした師直と、真面目(まじめ)で古風な政治家で、有力御家人層に支持されていた直義とが対立することは避けられず、やがて両者は武力衝突することとなる。

九. 光明寺合戦と師直の最期

観応年間(一三五〇年~五二年)に、師直が上杉・畠山らの有力大名と反目することがあり、執事師直の主君である尊氏と、上杉・畠山らがかついでいた直義との仲も悪くなり、幕府の中枢が、尊氏・師直方と直義方の二つに分裂して抗争を展開した(これを観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)という)。
武力的に劣勢だった直義は、吉野の南朝と降伏・合体して勢力をもりかえし、一時京をおさえた。観応二年(一三五一年)正月、播磨書写山の坂本(姫路市坂本)に退いていた尊氏は、直義方の石堂頼房が播磨の光明寺(兵庫県加東郡滝野町)に陣をとったと聞き、二月三日、一万余騎を率いて光明寺を包囲した。
しかし、城中勢は必死に防戦し、その上、攻める足利方の有力武将赤松則祐(そくゆう)(円心の子)・朝範(とものり)父子が、この光明寺は神仏が守護しているという夢のお告げをうけたり、播磨の本拠に敵が攻めてくると聞いたりしたため、白旗城(赤穂郡上郡町)に帰ってしまったので、光明寺城は持ちこたえたのであった。
原文参照
この後、尊氏は光明寺から兵を引き、師直と共に兵庫の湊川に進み、二月十七日、御影の浜(神戸市東灘区)で直義軍と決戦をまじえた。しかし尊氏方は大敗し、さらに小清水(西宮市越水町)での戦いにも敗れ、兵はみな落ちてしまい、とうとう直義方に降参することになった。
だが、直義は師直を許すつもりはなく、師直が尊氏と共に京に向う途中、武庫川を過ぎたあたりに、以前に師直に主君を殺された上杉・畠山の兵たちを待機させ、尊氏と師直らとの間に割って入らせて、お坊さんの形になっていた師直・師泰兄弟以下一族十四人を惨殺させた。何百人もいた師直の従者はみな逃亡し、主人を助ける者は一人もいなかったという。
原文参照
いま師直家(塚)の碑が立っているあたりでの惨劇であった。

十. 尊氏らの死と太平への願い

直義は降参してきた兄尊氏を許したが、その後も二人の不和の仲はとけず、諸大名も石堂・上杉・桃井らは直義方に、仁木・細川・佐々木らは尊氏方に、それぞれわかれて対立抗争を続けた。両軍は何度か戦った末、直義が敗れて降人となった。直義は囚(とら)われてまもなく、観応三年(一三五二年)二月二十六日、一年前に師直を殺したのと同じ日に急死した。「黄疸(おうだん)」」が死因と公表されたが、実は「鴆毒(ちんどく)」(鴆(ちん)という鳥の羽にあるという猛毒)による毒殺と噂された(巻三十「慧源(えげん)禅門逝去の事」)。
かつて大変仲の良かった弟を殺した尊氏も病にはかてず、延文三年(一三五八年)四月二十九日、五十四歳で死去し、義詮(よしあきら)が後を継いで二代目の将軍となった(巻三十三「将軍御逝去の事。」)
その後も、仁木義長・細川清氏・畠山国清といった有力大名が次々に幕府に叛(そむ)いて、争乱が続き、幕府の基盤はなかなか安泰なものにならなかったし、平和も到来しなかった。
尊氏がおし立てた北朝第一代の天皇であった光厳院は、退位後出家して諸国を行脚(あんぎゃ)した。その道すがら正成の千早城のあった金剛山をみて、自分たち北朝・南朝の争いのために、大勢の武士たちが死んだことを思い、後悔する。そして吉野山にわけ入り、敵であった南朝の後村上天皇と、恩讐(おんしゅう)をこえて、来し方のことや仏門に入った安らかな境地などを語りあう姿を「太平記」は描いている(巻三十九「光厳院禅定法皇行脚の事」)。そこには南北朝の対立などがはやく終って平和が到来することを求める作者の願いが託されているのではなかろうか。
原文参照
そして尊氏が没して九年後、貞治六年(一三六七年)、二代将軍義詮が没し、幼い三代将軍義満を細川頼之が補佐することになって、世は平和になった。「中夏無為(ちゅうかぶい)の代に成て」(国が平和に治まって)、「目出(めでた)かりしことどもなり」というのが「太平記」の結びのことばである(巻四十「細川右馬頭(うまのかみ)西国より上洛の事」)。
原文参照
半世紀をこえる戦乱の時代を描いてきた「太平記」は、その書名にあらわれているように、戦乱が治って太平の世がくることを待ち望む、人々や作者の願いをこめて描かれた軍記物語なのである。そして兵庫県との関わりも浅くない作品であることは、これまでみてきた通りである。

一、後醍醐天皇と北条高時

爰(ここ)に本朝人皇の始(はじ)め、神武天皇より九十五代の帝(みかど)、後醍醐天皇の御宇(ぎょう)に当(あたつ)て、武臣相模守(さがみのかみ)平高時と云(いう)者あり。此の時、上(かみ)君の徳に乖(そむ)き、下(しも)臣の礼を失ふ。これより四海大きに乱れて、一日も未(いま)だ安からず。狼煙天をかすめ、鯢波(げいは)地を動かす。今に至るまで四十余年、一人として春秋に富めることを得ず。万民(ばんみん)手足をおくに所なし。(巻一「後醍醐天皇御治世の事付けたり武家繁昌の事」)
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二、後醍醐天皇の討幕計画

此(かく)の如く賞翫(しやうぐわん)軽からざりければ、肉に飽(あ)き、錦(にしき)を著(き)たる奇犬、鎌倉中に充満して、四、五千匹に及べり。月に十二度、犬合(あはせ)の日とて定められしかば、一族大名、御内(みうち)・外様(とざま)の人々、或(ある)いは堂上に座(ざ)を列(つら)ね、或いは庭前に膝(ひざ)を屈して見物す。時に両陣犬共を一、二百匹(ぴき)づつ放し合(あは)せたりければ、入れ違(ちが)ひ追ひ合て、上に成り下に成り、かみ合ふ声天を響(ひび)かし地を動かす。(巻五「相模(さがみ)入道田楽(でんがく)を弄(もてあそ)ぶ并(ならび)に闘犬の事」)
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三、楠木正成の活躍

此の勢にも恐れずして、わづかに千人に足(た)らぬ小勢にて、誰をたのみ何(いつ)をか待(ま)つともなきに、城中にこらへて防(ふせ)ぎ戦(たたか)ひける楠が心の程こそ不敵(てき)なれ。此(こ)の城東西は谷深く切れて、人の上(のぼ)るべき様もなし。南北は金剛山(こんがうせん)につづきて、しかも峰そばだちたり。されども高さ二町計(ばか)りにて、廻(まは)り一里に足(た)らぬ小城なれば、何程(なにほど)の事か有るべきと、寄手(よせて)是を見侮(みあなど)つて、初め一両日の程は、向(むか)ひ陣をも取らず、
責(せ)め支度(じたく)をも用意せず、我れ先にと城の木戸口の辺まで、かづきつれてぞ上りたりける。城中の者ども、少しもさはがず静まりかへつて、高櫓(たかやぐら)の上より、大石を投げ懸(か)け投げ懸け、楯の板を微塵(みじん)に打ちくだいて、漂(ただ)よふ処(ところ)を差しつめ差しつめ射ける間、四方の坂よりころび落ち、落ち重つて手を負(を)ひ死をいたす者、一日が中に五、六千人に及べり。(巻七「千剣破(ちはや)城の軍(いくさ)の事」)
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四、赤松の挙兵と合戦

先づ摂津(せつつ)の国麻耶(まや)の城へ推(を)し寄せて赤松を退治すべしとて、(中略)以上五千余騎を麻耶の城へぞ向けられける。其(そ)の勢閏(うるふ)二月五日京都を立つて、同十一日の卯の刻‹午前六時頃›に、麻耶の城の南の麓(ふもと)、求塚(もとめづか)・八幡林(やはたばやし)よりぞ寄せたりける。赤松入道‹円心›是を見て、わざと敵を難所(なんしょ)に帯(をび)き寄せんために、足軽(あしがる)の射手(いて)一、二百人を麓へ下ろして、遠矢を少々射させて、城へ引き上りけるを、寄手勝(かつ)に乗つて五千余騎、さしもけはしき南の坂を、人馬に息も継がせず、揉(も)みに揉(も)うでぞ挙げたりける。此(こ)の山へ上(のぼ)るに、七曲(ななまがり)とてけはしく細き路あり。此の所に至つて、寄手(よせて)少し上(のぼ)りかねて支(ささ)へたりける所を、赤松律師則祐(りつしそくゆう)・飽間(あくま)九郎左衛門尉(のじやう)光泰(みつやす)、二人南の尾崎へ下(を)り降(くだ)つて、矢種を惜しまず散々(さんざん)に射ける間、寄手少し射しらまかされて、互いに人を楯に成して、其の陰(かげ)にかくれんと色めきける気色(けしき)を見て、赤松入道子息信濃守(しなののかみ)範資(のりすけ)・筑前守(ちくぜんのかみ)貞範(さだのり)・佐用(さよ)・上月(かうづき)・小寺(こでら)・頓宮(はやみ)の一党五百余人、鋒(きつさき)をならべて、大山の崩(くづる)るがごとく、 二の尾より打つて出でたりける間、寄手跡(あと)より引き立てて、返せと言ひけれども、耳にも聞き入れず、我れ先きにと引きけり。(中略)向ふ時七千余騎と聞へし六波羅の勢、僅かに千騎にだにも足らで引き返しければ、京中・六波羅の周章(しうしやう)なのめならず。(巻八「摩耶合戦の事」)
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五、鎌倉幕府の滅亡

明け行く月に敵の陣を見たまへば、(中略)南は稲村崎(いなむらがさき)にて、沙頭(しやとう)‹砂浜›路(みち)せばきに、浪打ちぎはまで逆木(さかもぎ)を繁(しげ)く引き懸けて、沖四、五町が程に大船ども並べて、矢倉をかきて横矢を射させんと構へたり。げにも此の陣の寄手、叶(かな)はで引きぬらんも理(ことはり)なりと見たまひければ、義貞馬より下りたまひて、甲(かぶと)を脱(ぬ)いで海上を遥々(はるばる)と伏し拝み、龍神に向つて祈誓したまひける。「(中略)仰(あを)ぎ願はくは、内海・外海の龍神八部(はちぶ)、臣が忠義をかんがみて、潮(うしほ)を万里の外に退(しりぞ)け、道を三軍の陣に開かしめたまへ」と、至信に祈念し、自(むづか)ら佩(は)きたまへる金作(こがねづく)りの太刀を抜いて、海中へ投げたまへり。まことに龍神納受やしたまひけん、其(そ)の夜の月の入り方に、前々(さきざき)更(さら)に干(ひ)る事も無(なか)りける稲村崎、にはかに二十余町干上(ひあが)つて、平沙(へいしや)渺々(べうべう)たり。義貞是を見たまひて、(中略)六万余騎を一手に成して、稲村崎の遠干潟(とをひがた)を真一文字(まいちもんじ)に懸(か)け通りて、鎌倉中へ乱れ入る。(巻十「稲村崎干潟と成る事」)
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五、鎌倉幕府の滅亡

長崎入道円喜(えんき)は、是までもなほ相模入道‹高時›の御事をいかがと思ひたるけしきにて、腹をもいまだ切らざりけるが、長崎新右衛門今年十五に成りけるが、祖父(おほぢ)の前にかしこまつて、「父祖の名を顕(あらは)すを以つて、子孫の孝行とする事にて候ふなれば、仏神三宝も定めて御免(ゆる)しこそ候はんずらん」とて、年老い残つたる祖父の円喜が肱(ひぢ)のかかりを二刀差(さ)して、其(そ)の刀にてをのれが腹をかき切つて、祖父をとつてひき伏せて、其の上に重なつてぞ伏したりける。この小冠者(こくわんじや)に義を進められて、相模入道も腹切りたまへば、城入道続いて腹をぞ切つたりける。是を見て堂上に座を列(つら)ねたる一門・他家の人々、雪のごとくなる膚(はだへ)を、押膚脱(をしはだぬ)ぎ押膚脱ぎ、腹を切る人もあり、自(みづか)ら首を掻き落す人もあり。思ひ思ひの最期(さいご)の体(てい)、殊(こと)にゆゆしくぞみへたりし。(巻十「高時并びに一門以下東勝寺において自害の事」)
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六、後醍醐帝の還幸、建武新政へ

‹後醍醐天皇は›五月二十七日には、播磨の国書写山へ行幸成つて、先年の御宿願を果たされ、(中略)二十八日に法華山‹一乗寺、加西市北条町›へ行幸成つて御巡礼あり。是より龍駕(れうが)を早められて、晦日(つごもり)は兵庫の福厳寺(ふくごんじ)と云(いふ)寺に、儲餉(ちよしやう)の在所を点じて、しばらく御坐有りける処に、其日赤松入道‹円心›父子四人、五百余騎を卒(そつ)して参向す。龍顔殊に麗(うるは)しくして、「天下草創の功遍(ひとへ)に汝等(なんぢら)贔屓(ひいき)の忠戦によれり。恩賞は各(をのをの)望みに任すべし」と叡感有つて、禁門の警固に奉侍(ぶじ)せられけり。(巻十一「書写山行幸の事付けたり新田注進の事」)
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七、楠木正成の戦いと討死

正成・正季また取つて返して此(こ)の勢にかかり、懸(か)けては打ち違へてころし、懸け入つては組んで落ち、三時(みとき)が間に十六度まで戦ひけるに、其(そ)の勢次第次第に滅びて、後はわづかに七十三騎にぞ成りにける。此(こ)の勢にても打ち破つて落ちば落つべかりけるを、楠京を出(い)でしより、世の中の事、今はこれまでと思ふ所存有りければ、一足も引かず戦ひて、機すでに疲れければ、湊河(みなとがわ)の北に当たつて、在家の一村有りける中へ走り入って、腹を切らんために、鎧を脱いで我が身を見るに、斬り疵(きず)十一箇所までぞ負ふたりける。此の外(ほか)七十二人の者どもも、皆五箇所・三箇所の疵をかふむらぬ者は無かりけり。楠が一族十三人、手の者六十余人、六間(むま)の客殿(きゃくでん)に二行になみ居て、念仏十返ばかり同音に唱へて、一度に腹をぞ切つたりける。正成座上に居つつ、舎弟の正季に向つて、「そもそも最期の一念に依(よ)つて、善悪の生を引くといへり。九界(くかい)の間に何(いづれ)か御辺の願ひなる」と問ひければ、正季からからと打ち笑ふて、「七生(しちしやう)までただ同じ人間に生(うま)れて、朝敵(てうてき)を滅ぼさばやとこそ存じ候へ」と申しければ、正成よに嬉(うれ)しげなる気色(けしき)にて、「罪業(ざいごう)深き悪念(あくねん)なれども、我もか様(やう)に思ふ也。いざさらば同じく生を替へて此の本懐(ほんくわい)を達せん」と契(ちぎ)つて、兄弟ともに差(さ)し違(ちが)へて、同じ枕に臥(ふ)しにけり。(巻十六「正成兄弟討死の事」)
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九、光明寺合戦と師直の最期

さる程に、八幡(やはた)より‹直義方の›石堂(いしだう)右馬権守(うまごんのかみ)を大将にて、愛曽(あそ)伊勢守・矢野遠江守以下五千余騎にて、書写坂本へ寄せんとて下向しけるが、‹尊氏のいた›書写坂本へは‹高›越後守‹師泰›が大勢にて著(つ)きたる由を聞いて、播磨の光明寺に陣を取て、なほ八幡へ勢をぞ乞(こ)はれける。将軍‹尊氏›此(こ)の由を聞きたまひて、光明寺に勢を著(つ)けぬ前に先づ是を打ち散(ちら)さんとて、同じき二月三日、将軍書写坂本を打ち立つて、一万余騎を卒(そつ)し、光明寺四方を取り巻きたまふ。石堂城を堅めて光明寺に籠りしかば、将軍は引尾(ひきを)に陣を取り、師直は泣尾(なきを)に陣をとる。名詮自性(みやうせんじしやう)の理(ことはり)‹名はそのものの本性をあらわすというが、引くとか泣くとかいう地名は›、寄手の為(ため)に何(いづ)れも忌々しくこそ聞へけれ。(中略)美作(みまさか)より敵起つて、赤松へ寄する由聞へければ、‹尊氏方の›則祐光明寺の陣を捨てて、白旗の城へ帰りにけり。(巻二十九「光明寺合戦の事 付けたり師直怪異の事」)
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九、光明寺合戦と師直の最期

執事(しつじ)兄弟‹高師直・師泰›武庫川(むこがわ)を打ち渡つて、小堤(こつつみ)の上を過ける時、三浦八郎左衛門が中間(ちゅうげん)二人走(わし)り寄つて、「此(ここ)なる遁世(とんせい)者の顔を蔵(かく)すは何者ぞ。其の笠ぬげ」とて、執事の著られたる蓮(はす)の葉笠を引き切つて捨つるに、ほうかぶりはづれて、片顔の少し見へたるを、三浦八郎左衛門、「あはれ敵や。願ふ所の幸(さひはひ)哉(かな)」と悦(よろこ)んで、長刀の柄(え)を取り延べて、筒(どう)中を切つて落さんと、右の肩崎(かたさき)より左の小脇(こわき)まで、鋒(きつさき)さがりに切り付けられて、あつと言う処を、重ねて二打ちうつ。打れて馬よりどうと落ちければ、三浦馬より飛んで下(を)り、首を掻(か)き落して長刀の鋒に貫(つらぬ)いて差し上げたり。(巻二十九「師直以下誅(ちう)せらるる事 付けたり仁義血気勇者の事」)
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十、尊氏らの死と太平への願い

首(かうべ)を回(めぐ)らして東に望めば、雲につらなり霞(かすみ)に消へて、高くそばだてる山あり。‹光厳院は›道に休める樵(きこり)に山の名を問はせたまへば、「是(これ)こそ音(をと)に聞へ候ふ‹正成の千剣破城で有名な›金剛山(こんがうせん)の城とて、日本国の武士ども、幾千万とい言ふ数をも知らず討たれ候ひし所にて候へ」とぞ申しける。是(これ)を聞こしめして、「あなあさましや、此(こ)の合戦と言ふも、我(われ)一方の皇統(くわうとう)にて、天下を争ひしかば、其の亡卒の悪趣(あくしゆ)に堕(だ)して、多却(たごふ)が間苦を受けん事も、我が罪障(ざいしゃう)にこそ成りぬらめ」と先非(せんぴ)を悔(く)いさせおはします。(巻三十九「光厳院禅定法皇行脚(あんぎや)の御事」)
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十、尊氏らの死と太平への願い

‹細川頼之を›天下の管領職(くわんれいしよく)に居(す)へしめ、御幼稚の若君‹三代将軍義満›を輔佐(ふさ)し奉(たてまつ)るべしと、群議(ぐんぎ)同じ赴(をもむ)きに定まりしかば、右馬頭(うまのかみ)頼之を武蔵守(むさしのかみ)に補任(ふにん)して、執事職(しつじしよく)を司(つかさ)どる。外相内徳(げさうないとく)げにも人の言ふに違(たが)はざりしかば、氏族も是を重んじ、外様(とざま)も彼(かの)命(めい)を背(そむ)かずして、中夏無為(ちゆうかぶゐ)の代‹国が平和な世›に成つて、目出(めで)たかりし事どもなり。(巻四十「細河右馬頭西国より上洛の事」)
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上郡

【「白旗山(しろはたやま)城跡」赤穂郡上郡町】
赤松円心が築いた播磨支配の本拠地。

白旗山城跡

【「苔縄(こけなわ)城跡」赤穂郡上郡町】
赤松円心旗揚げの地。

苔縄城跡

【「法雲寺」赤穂郡上郡町】
円心が建てた禅寺。円心手植えと伝わるビャクシンや赤松円心廟がある。

ビャクシン
樹齢700年
赤松円心霊廟

【「小山田高家の碑」神戸市東灘区】
小山田太郎高家は湊川合戦で敗れた新田義貞を助けるため馬を奉じ、ここで戦死した。処女塚と同じ所に立つ。

小山田高家の碑

【「敏馬浦(みぬめがうら)」神戸市灘区】
ここに停泊していた足利の軍船に兵庫の白藤氏が火をつけ、北風にあおられ打撃を与えたと伝わる。

敏馬神社附近

【「摩耶山天上寺」神戸市灘区摩耶山】
播磨で挙兵した赤松円心は、ここに摩耶城を築いてい幕府の六波羅軍と戦った。

摩耶山天上寺跡
(火災により移転)
摩耶山頂より

京都

【六波羅探題(京都市東山区)】
朝廷を監視するため京都に置かれた鎌倉幕府の機関

六波羅探題跡碑
六波羅探題跡碑

【比叡山(京都市・大津市)】
大塔宮が天台座主になったり後醍醐天皇が行幸するなど太平記の数々の舞台となった。

比叡山

島本

【「桜井駅(さくらいのうまや)跡」大阪府島本町】
死を覚悟してむかう政重は、ここで嫡子正行に後事を託し、河内へ帰した。

桜井駅跡

太山寺

【「太山(たいさん)寺」神戸市西区】
多くの僧兵をかかえた大寺院で、大塔宮護良親王の令旨で挙兵した。令旨と注進状が残る。

太山寺

滝野

【「光明寺(こうみょうじ)」加東郡滝野町】
足利将軍兄弟が対立し、弟の直義方の籠った光明寺を尊氏軍が攻めたが落ちなかった。

光明寺合戦本陣跡の碑
光明寺合戦本陣跡附近
光明寺本堂
三本杉
光明寺合戦で伊勢大明神が降り立ったと伝わる。

四条畷

【「四条畷神社」大阪府寝屋川市】
楠木正成の子、正行は、高師直と戦った四条畷合戦で討ち死にした。

四條畷神社
正行を祭る。

千早赤坂

【千早城(千剣破城)大阪府千早赤坂村】
楠木正成が籠って鎌倉幕府の大軍を翻弄し、長く支えた山城。近くに上赤坂跡や下赤坂城跡もある。

千早城跡
下赤坂城跡

【「楠木正成生誕地」大阪府千早赤坂村】
ここ水分山の井で生まれたと伝わる

楠木正成生誕地碑
正成産湯の井戸

吉野

【「吉野山」奈良県吉野山】
後醍醐天皇は吉野に南朝を立て、尊氏方の北朝と対抗したが、京回復は成らず憤死した。

小判井戸
後醍醐天皇が使用したと伝わる。

【「大塔宮御陣地」奈良県吉野山】
 大塔宮護良親王が幕府軍に攻められ、ここで最後の酒宴を開いた。

【「如意輪堂」奈良県吉野山】
楠木正行が四条畷合戦に向かう前に詣で、時世の歌を壁に書きつけた。

如意輪堂

丹波

【「神池(じんち)寺」丹波市市島町】
北条氏倒幕のため、衆徒が立ち上がり京を攻めたが、全員討ち死にした。

神池寺
神池寺衆徒慰霊碑

【「磯宮八幡神社」篠山市日置】
足利尊氏が戦勝を祈願して実を植えたところ、殻がなく渋皮だけの裸榧(はだかがや)の大樹となったと伝わる。

裸榧
裸榧の実

【「石龕(せきがん)寺」山南町岩屋】
足利兄弟が対立し、弟直義に破れた足利尊氏と息子義詮が滞在した伝わる。

山門
毘沙門堂

亀岡

【「篠村八幡宮」京都府亀岡市】
足利尊氏が戦勝祈願し、反北条氏の旗揚げをした。

篠村八幡宮
矢塚
尊氏が鏑矢を奉納したと伝わる。
旗立て柳
尊氏が源氏の大白旗をかかげたと伝わる。

伊丹

【「師直(もろなお)塚」伊丹市池尻】
幕府の執事として権勢をふるった高師直も直義と対立し、武庫川のほとりで殺された。

師直塚

西宮

【「小清水合戦場跡附近」西宮市越水町】
足利尊氏と弟直義が戦った小清水合戦の舞台と伝わる。

越水城跡碑
このあたりが合戦の舞台と伝わる。

芦屋

【「小山田高家の碑」神戸市東灘区】
小山田太郎高家は湊川合戦で敗れた新田義貞を助けるため馬を奉じ、ここで戦死した。処女塚と同じ所に立つ。

小山田高家の碑

【「敏馬浦(みぬめがうら)」神戸市灘区】
ここに停泊していた足利の軍船に兵庫の白藤氏が火をつけ、北風にあおられ打撃を与えたと伝わる。

【「摩耶山天上寺」神戸市灘区摩耶山】
播磨で挙兵した赤松円心は、ここに摩耶城を築いてい幕府の六波羅軍と戦った。

湊川

【「湊川神社」神戸市中央区】
楠木正成は足利軍と戦い、この付近で討死した。水戸黄門の建てた正成の墓碑がある。

湊川神社
大楠公墓所
楠木正成戦没地

【「広厳寺」神戸市中央区】
俗に楠寺と呼ばれ楠木正成がこの寺の明極禅師と問答した後、合戦にのぞんだという。

兵庫

【「福厳寺」神戸市兵庫区】
伯耆から京都への帰途、後醍醐天皇はここにとどまり、謁見した赤松の戦功を賞した。

福巌寺

【「薬仙寺」神戸市兵庫区】
福厳寺に立ち寄った際、薬仙寺の霊水を服薬に使ったと伝わる。

後醍醐天皇霊水碑

【「本間孫四郎遠矢碑」神戸市兵庫区】
足利軍と新田軍との戦いで、新田方の本間孫四郎は、沖の足利軍へ遠矢を射た。

本間孫四郎遠矢碑

【「福海寺」神戸市兵庫区】
足利尊氏の開いた臨済宗の寺。

福海寺

【「会下山公園」神戸市兵庫区】
湊川合戦で楠木正成が本陣を置いたと伝わる。

楠木正成本陣碑

【「阿弥陀寺」神戸市兵庫区】
足利尊氏が楠木正成の首あらためを行った石と伝わる。

鎌倉宮

【「護良親王墓」神奈川県鎌倉市】
土牢に幽閉され足利直義に殺された大塔宮護良親王を祭る神社が鎌倉宮(二階堂)であり、その墓は別に二階堂理智光寺谷にある。

鎌倉宮
大塔護良親王土牢

腹切りやぐら

【「腹切やぐら(東勝寺跡)」鎌倉市】
北条氏の菩薩所東勝寺で、高時ら一門は自害し、鎌倉幕府は滅亡した。

腹切やぐら
東勝寺跡

化粧坂

【「化粧坂(けわいざか)」鎌倉市】
新田義貞の鎌倉攻めの古戦場。

化粧坂

日野俊基墓

【「日野俊基墓」鎌倉市】
日野俊基は北条方に元弘の乱で斬られた。

日野俊基墓
葛原岡神社
日野俊基を祭る

長寿寺

【「足利尊氏墓所」鎌倉市】

稲村ケ崎

【「稲村ケ崎」鎌倉市】
新田義貞が鎌倉攻めの時、ここで龍神に祈り潮を引かせて攻め入り、幕府を滅ぼした。

稲村ケ崎

十一人塚

【「十一人塚」鎌倉市】
新田義貞の家来、大館宗氏の主従十一名はここで全員討ち死にした。

十一人塚

講談「楠木の泣き男」

講談「楠木の泣き男」

楠の泣き男

楠木正成が後醍醐天皇の命を受け、いよいよ河内の赤坂において兵を挙げることになりました。このときに、近郷近在に立て札を立てました。
「一芸一能に秀でた者は、申し出づべし。召し抱えてやる」さあ、当時はなかなか武士にはなれない時代ですから、いろんな人がやって参りました。「こりゃこりゃ、その者は何が得意なのじゃ」
「わたくしは、木登りが得意でございまして」
「おー木登りか?」
「はい。どんな高い木でもスススススッート上って行きまして、わたくし、枝から枝へもヒョイっと飛び移ることができまする」
「これは便利じゃなぁ。猿よりも?」
「猿は木から落ちると申しますけれども、わたくしは木から落ちたことがございませぬ」「これは高いところへ登って敵の様子を見る斥候、これにちょうど都合がよい。おまえは右のほうへ寄っておれ。その次、おまえはなんじゃな?」
「わたくしは水練が得意でございまして、水の中をずーっと、三日位は潜っておることもできますので」
・・・続きは講談映像をご覧ください。

太平記読み

Q1
「太平記読み」というのは、どういったものですか?
A1
講談の元祖みたいなものと思っていただいたらいいんですけども…。
お坊さんのお説教、これも非常にいろんなテクニックがあるわけですね。教義だけ、つまり仏教の教えだけを教えてしまうとつまらないと思うので、お客さん達というんでしょうか、寄って来た方々にいろんな戦の物語を交えていきます。
その中に太平記というのが非常に面白いというので、太平記をどんどんどんどんお説教するお坊さんが取り入れていくわけですね。そのうちにどんどんどんどん面白いもんですから、そっちのほうが芸能化していきます。芸能化していくと、太平記だけでお客さんを集める今の講談師の元祖みたいなものが出来上がるわけですね。それを得意としてたのが、赤松法印とか、赤松梅竜軒とか、赤松という姓がつくんですね。
続きは映像でご覧下さい

太平記相関図

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後醍醐天皇

後醍醐天皇

後宇多天皇の第二皇子、文保二年、三十一才で即位。天皇親政をすすめることをめざし、正中の変、元弘の乱と二度にわたって討幕を企て、隠岐に流されるが、元弘三年幕府を倒し、建武の新政を実現した。

北条高時

北条高時

北条貞時の子。鎌倉幕府第一四代の執権。政治の実権を執事長崎高資らににぎられ、田楽や闘犬にふけるなどして人望を失ない、後醍醐天皇の命をうけた新田義貞らの反幕府軍によって滅ぼされた。

日野資朝・俊基

ともに藤原北家流の公卿。後醍醐天皇に登用され、討幕計画の中心であった。
正中の変で幕府に逮捕され、元弘の乱で、資朝は佐渡で、俊基は鎌倉で斬られた。

北畠親房・顕家

村上源氏系統の公卿。親房は後醍醐天皇の側近であり、その政治を支えた。
長子の顕家は建武政権において陸奥守に任ぜられ、奥州統治にあたった。

千種忠顕

村上源氏系統の公卿・武将。後醍醐天皇に近侍し、隠岐にも随行した。六波羅攻めにも一方の将として活躍した。

名和長年

伯耆の豪族。元弘三年隠岐を脱出した後醍醐天皇を船上山にむかえて挙兵し、六波羅攻めにも参加した。植木・千種・結城とともに「三木一草」と称された。

赤松財村

赤松財村

法名円心。村上源氏の系統で、播磨の豪族。元弘の乱で大塔宮の令旨をうけて挙兵。摂津摩耶城や京都において幕府軍と戦い、六波羅攻略に功があった。

楠木正成

楠木正成

河内の土豪。元弘元年、後醍醐天皇の命により、河内赤坂城に挙兵した。赤坂城落城の後、金剛山の千早城で幕府の大軍と戦い、それを釘づけにした。これに励まされて各地で反幕府軍が決起し、幕府は滅亡した。

護良親王

後醍醐天皇の皇子で、大塔宮と呼ばれた。天台座主であったが、武芸を好み、父後醍醐の討幕運動を支え、幕府打倒に大きな功績があった。

足利直義

尊氏の同母弟。兄の補佐役として活躍した。建武政権では、鎌倉に下り、関東の政務にあたった。

足利高氏

足利高氏

清和源氏の系統で、下野国足利庄を本拠とした武将。
初名高氏。元弘の乱で、高時の命により上洛したが、丹波篠村で幕府にそむいて後醍醐方につき、六波羅攻略の中心となりその功により、天皇から「尊」の字を許されて尊氏となった。

新田義貞

新田義貞

清和源氏の血をうけ、上野国新田庄を本拠とした。元弘の乱でははじめ幕府軍として千早城攻めに参加したが、のち幕府に反旗をひるがえし、鎌倉を攻め幕府を滅ぼした。建武新政権成立後は足利尊氏と対立した。

光厳・光明天皇

光厳天皇は、後醍醐天皇が隠岐配流で退位の間、天皇位についていた。一三三六年、尊氏は光厳上皇の弟光明天皇を北朝の天皇に擁立したが、実際の政務は上皇の院政によって行われた。

後醍醐天皇

後醍醐天皇

後醍醐天皇による専制的な建武の新政は、尊氏に叛かれ、三年足らずで崩壊し、天皇は吉野にのがれて南朝を立てた。しかし念願とした京都回復は成らず、暦応二年(一三三九)吉野で死去した。

足利直義

室町幕府では副将軍格で、兄の将軍尊氏は軍事を、直義は政務を担当した。

佐々木高氏

法名道誉。元弘の乱後尊氏に従い、戦功によって近江など六か国の守護を兼ねた。

赤松則村

赤松則村

討幕の功あったが、建武新政権に優遇されず、尊氏に従って活躍。播磨守護となって赤松氏繁栄の基礎をきずいた。

高師直

尊氏腹心の家人として各地で戦って勇猛をうたわれ、室町幕府開設後は幕府の執事となった。

足利尊氏

足利尊氏

義貞との対立から建武政権にそむき、建武三年(一三三六)北朝の光明天皇を擁立し、室町幕府を開設、初代将軍となった。

北畠親房・顕家

父親房は南朝の正統性を主張した「神皇正統記」を書き、南朝の思想的指導者であった。子の顕家は暦応元年(一三三八)和泉石津で高師直らと戦い、二十一歳で討死にした。

楠木正成

楠木正成

建武新政崩壊後、新田義貞と協力して足利尊氏と戦い、建武三年(一三三六)摂津湊川の戦いで戦死した。智謀にすぐれ、勇・仁も兼備した武将として「太平記」に英雄的に描かれている。

新田義貞

新田義貞

建武新政成った後、足利尊氏と対立、しばしば戦いを交えたが、北陸落ちを余儀なくされ、暦応元年(一三三八)越前藤島で斯波高経と戦って討死にした。

護良親王

建武新政後、尊氏と対立し、天皇にも見はなされ、捕えられて鎌倉に幽閉。
中先代の乱(一三三五年)の時、足利直義によって殺された。

足利尊氏

足利尊氏

貞和五年(一三四九)頃から幕府の政治方針をめぐって弟直義と対立、観応の擾乱の引き金となった。延文三年(一三五八)病死した。五十四歳。

後村上天皇

後醍醐天皇の皇子で、名は義良。後醍醐天皇の後を継いで、約三十年間、南朝の旗印をかかげた。

足利直義

室町幕府の政治的権限を掌握していたが、高師直と対立し、師直をかばう兄尊氏と不和になった。観応の擾乱後、兄と和睦したが、再び対立し、文和元年(一三五二)鎌倉で尊氏によって毒殺された。

細川頼之

頼春の子。四国管領などを務め、貞治六年(一三六七)義満が十歳で将軍職につくと、幕府管領となってこれを補佐した。「太平記」はこの記事で巻をとじている。

赤松則裕

赤松則裕

父則村(円心)の後を継いで、尊氏の幕府創設に尽くし、以後赤松氏は幕府の要職をつとめることになる。

佐々木高貞

茶・連歌などをたしなむ文化人であったが、派手好みのバサラ大名として知られた。

佐々木高氏

茶・連歌などをたしなむ文化人であったが、派手好みのバサラ大名として知られた。

高師直

はじめ足利家の、後に幕府の執事であった。楠木正行を討つなど軍功も多く、権勢をふるったが足利直義と対立し、観応二年(一三五一)、弟師泰らと共に武庫川のほとりで殺害された。

足利義満

貞治二年(一三六七)父義詮が死去すると十歳で三代将軍職についた。

足利義詮

尊氏の三男、室町幕府の二代将軍。斯波義将を執事に任命し、幕政の安定につとめた。

新田義興

貞和五年(一三四九)頃から幕府の政治方針をめぐって弟直義と対立、観応の擾乱の引き金となった。延文三年(一三五八)病死した。五十四歳。

楠木正行

正成の長子。父の遺志を継いで、南朝のために活躍した。貞和四年(一三四八)吉野の如意輪堂に辞世の歌をかきつけ、四条畷において高師直の大軍と戦って討死した。二十三歳。

太平記関係年表

太平記関係年表

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「太平記」外伝

「続 兵庫の太平記」楠木正成(まさしげ)の後を継いだ正行(まさつら)の物語

きさに制作したネットミュージアム兵庫文学館の「兵庫の太平記」(同館「太平記館」で展示中)では、建武三年(一三三六)後醍醐天皇の命をうけ、兵庫(神戸)において、足利尊氏(たかうじ)方の大軍をさんざん苦しめた末に、湊川で自害した楠木正成の活躍が、いわばハイライトであったが、今回はその後日物語、あるいは「太平記」外伝として、正成の長子正行の物語をとりあげてみたい。
湊川への出陣を前にした正成は、桜井の宿(大阪府島本町桜井)から、十一才になる嫡子正行を河内へ帰したが、その時、「これが最後の戦いになると思う。私が討死した後は尊氏の天下となるだろうが、決して降参したりせず、金剛山の辺りに立てこもって、これと戦い、天皇に忠節をつくせ」と申し聞かせた。

この父の教えを守って河内で成長し、後醍醐天皇方の南朝に忠節をつくした正行であるが、討死した父の首を尊氏が送り届けてくれた時は、悲しみのあまり持仏堂に入って自害しようとした。これを見た母が「父がお前を桜井から帰したのは、生きて朝敵を滅ぼし、天皇を再び位におつけするためではありませんか」と泣く泣く論(さと)して、自害をとどめた。
この後、正行は、「父の遺言・母の教訓」を肝(きも)に銘じて、子供同士の遊びでも、相手を打ち倒して首をとる真似をして、「これは朝敵の首を取るなり」といい、竹馬遊びで、鞭をあてては、「これは将軍(尊氏)を追っかけたてまつる」といったりして、ひたすら朝敵追討をめざしたという(巻十六「正成が首故郷へ送る事」)。
こうして成人した正行は、父母の教訓を守って、正平二年(貞和三年 一三四七)、南朝のために兵をあげ、紀伊・河内・摂津を転戦して、何度も足利幕府の軍勢を撃破した。このうちの安部野(大阪府阿倍野区)の合戦では、渡辺橋から落ちて凍死しそうになった幕府方の兵五百余人を、正行は助け上げ、衣服を着がえさせ、身を暖め、傷を治療した上に、馬・武具まで与えて送り返してやった。その恩情を感じた兵のなかには、そのまま正行軍に加わり、後に四条縄手の戦いで討死した者もあった(巻二十六「正行吉野へ参る事」)。

正行の勢いに驚いた幕府は、その年の十二月、高師直を総大将として大軍を討伐(とうばつ)にさしむけた。これを聞き、死を覚悟した正行は、吉野の南朝御所へ参り、後醍醐天皇の後を継いでいた後村上天皇に今生(こんじょう)の別れを申しのべた。桜井の別れから十余年を経て、父正成と同じ道をたどろうとする決意を正行が言上すると、その心情を思いやって、取次ぎの公家らも涙なしにはいられなかった。
天皇からねぎらいの言葉をうけた正行は、後醍醐天皇の御廟(ごびょう)に参って暇を乞い、如意輪堂(にょいりんどう)の壁板を過去帳(死者の名・死亡日などを記した帳面)代わりに、各々の名前と、「かえらじどかねて思へば梓弓(あずさゆみ)なき数にいる名をぞとどむる」(梓の木で作った弓で射る矢が帰ってこないように、生きて帰らぬ決意だから、ここにその決意の者の名を書きとどめることだ)という歌を書きつけて戦場に向かった(巻二十六「正行吉野へ参る事」)

父と同じく、得意の山岳戦でなく、平地での戦いを余儀なくされた正行は、師直らの大軍と死闘をくりひろげた末に、河内の四条縄手(しじょうなわて) (大阪府四条畷市)で、弟正時と刺しちがえて死んだ。父正成の最期(さいご)とあまりにもよく似ていて、あわれである。まだ二十三歳の若さであった(巻二十六「楠木正行最期の事」)。
正行の死を聞いて、吉野の行宮(あんぐう)に仕えていた日野俊基の娘弁内侍(べんのないし)は、髪を切って尼となった。美人の誉れ高かった彼女に、好色の高師直がたびたび文を送ったが、なびかなかった。そこで師直は、ひそかに家来をつかわせ強引に誘拐させようとしていたのを、通りかかった正行が、悲鳴を聞きつけ救出した。これを知った天皇は「これも何かの縁」といって彼女を正行の妻に賜わろうとした。しかし遠からず南朝のために死ぬことを覚悟していた正行は、「とても世に長らふべくもあらぬ身の仮りの契りをいかで結ばん」という歌を天皇に奉って、それを辞退した。正行の死を知った弁内侍は、「たとえ契りは結ばなかったとはいっても、天皇の命で妻となった身であるか」と、尼になって庵にこもり、生涯正行の冥福を祈ったという。この話は「吉野拾遺」という説話集に載っている「太平記」外伝である。「太平記」は、こうした外伝を生み出しながら、読みつがれているのである。(吉野にある如意輪寺[如意輪堂]の宝物殿には、正行と弁内侍の話を描いた絵巻が展示されている)

監修・協力一覧

監修者
加美宏
協力者
旭堂小南陵(平成18年8月四代目旭堂南陵襲名)
神戸市立博物館
大阪府立中之島図書館(以下アイウエオ順)
芦屋市
鎌倉宮社務所
上郡町教育委員会
四条畷神社
松雲寺
石龕寺
滝野町役場
千早赤阪村役場
西宮市立大社小学校
如意輪寺
福厳寺
寶戒寺
湊川神社
妙高山 神池寺
ほか

監修者から

南北朝の動乱を描いた「太平記」は、多彩な登場人物が入りみだれて覇権(はけん)を争い、対立抗争をくりかえす、波瀾(はらん)に富んだおもしろい軍記物語ですが、 「平家物語」や「義経記」などにくらべると、一般の方々になじみが薄いように思われますので、「太平記」のあらましと、そのおもしろさを、多くの方々に見て、知っていただけるよう心がけて構成してみました。  なにぶん四十巻の長大な物語ですので、主要な登場人物と兵庫県に関わる話に焦点をしぼりました。魅力的な人物や興味深い挿話はまだいっぱい載っていますので、関心を持たれた方は、どうか原典を読んでみて下さい。このネットにも原文の一部を引いてありますが、音読すれば、文章にリズム感があって、心持よく読めると思います。
加美 宏

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