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ハーンの論説

「シドニー号」紛争

「シドニー号」紛争

 『シドニー号』【注0】をめぐる最近の事件では、我々が現時点で状況を把握している限り、日本政府は賢明に行動したとは言えないとの確信を表明せざるを得ない。我々は高陞号【注1】問題を論ずるに当たっても、同様の信念を表明した。戦時にはどんな文明国も、国際法を一字一句まですべての細部にわたって、絶対的に遵守しているわけではないということは、ある程度までたしかなことである。完全無欠の行動は、これを各国の政府に期待し難いものであることは、個々人に期待し難いのと同然である。 人を行動に駆り立てると考えられる最も激しい衝動は、戦闘という衝動である。そして、この衝動はしばしば、戦時国際法によって引かれた線を越えた行動に駆り立てる。さらにまた戦時国際法は、時には無意識的に違反される、ということも認めなくてはならない。戦時国際法は複雑であり、完全にマスターするには、長期の特別な勉強が必要である。そして、どんな提督、どんな将軍も、今日では、あらゆる状況に際して法律熟達者であることは望むべくもない。
— 1894年11月10日 土曜日 神戸—

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 『シドニー号』をめぐる最近の事件では、我々が現時点で状況を把握している限り、日本政府は賢明に行動したとは言えないとの確信を表明せざるを得ない。我々は高陞号【注1】問題を論ずるに当たっても、同様の信念を表明した。戦時にはどんな文明国も、国際法を一字一句まですべての細部にわたって、絶対的に遵守しているわけではないということは、ある程度までたしかなことである。完全無欠の行動は、これを各国の政府に期待し難いものであることは、個々人に期待し難いのと同然である。

 人を行動に駆り立てると考えられる最も激しい衝動は、戦闘という衝動である。そして、この衝動はしばしば、戦時国際法によって引かれた線を越えた行動に駆り立てる。さらにまた戦時国際法は、時には無意識的に違反される、ということも認めなくてはならない。戦時国際法は複雑であり、完全にマスターするには、長期の特別な勉強が必要である。そして、どんな提督、どんな将軍も、今日では、あらゆる状況に際して法律熟達者であることは望むべくもない。

 しかし、ここに挙げた状況下で起こる法律違反は、たいていの場合、いっそう広い範囲におよぶ国際法則や普遍的に認められている人権原則に関わることはないであろう。それらは過誤であり、救済し得るものである。そしてたいてい、適正な謝罪か小額の賠償で決着している。

 さて、高陞号事件の場合、そして『シドニー号』事件の場合、日本の犯した過ちは些細な質のものではなく、かなり深刻な性質のものであるように思えるのである。
 我々は前に、高陞号問題では率直な言葉で我々の見解を述べた。いくら日本の有利なように交戦国権利を認めるとしても、極度の緊急事態であるという以外はどんな西洋諸国も主張しない交戦国権利があるが、この緊急事態は高陞号のケースでは存在していなかった。そして、人権問題に対する十九世紀の人々の気持ちのすべてに衝撃を与えたのは、為すすべもなく溺れ死のうとしている数百の人たちへ最小限の救助の手すら差し伸べることをしなかったという事実であった。

 もちろん、戦争の古い形態は、東洋でも西洋でも非情のものであり、日本でも将軍制度が崩壊する以前は、敗北とは敗者にとって、古代ギリシャ時代の戦争が意味したものとほとんど同じものを意味していた。しかし日本の理解者たちは、一つの新しい、いっそう人道的な時代がはじまったと感じていて、高陞号の出来事が古代の戦争の残任なやり方に戻る傾向を見せたことを遺憾に思わざるを得ないのである。

 『シドニー号』のケースで、日本がまた一時的に忘れているように見られるふしがあるのは、日本がもはやその領海内における外国船と外国人の生命への絶対的な支配権を持っているのではないという事実である。先進工業国家群の大同盟に参加したいと日本自身が熱望したのは、日本が国際法を進んで遵守するし遵守を義務とすると表明したということである。いま『シドニー号』事件で問われている原則ほど、深刻な原則はない。

  英国あるいは仏国船の甲板上は、ある範囲まで英国あるいは仏国の領土である。領事がその保護下にある人物の逮捕に反対しての抗議は、一国政府の抗議そのものである。緊急行動へ走りたい誘惑が非常に強かったのは確かである。神戸に投錨した船上に、日本軍艦に向かって使用される可能性のある悪魔のような兵器の所有者であり、清国政府から金銭支給を受けている三人の陰謀者たちがいることを信じる理由を、軍当局は手にしている。フランス汽船の乗客としてこれらの人々が、一時的に自分の保護下に入っていたこの領事は、軍当局者が提示し得るか、あるいは提示の意志ありとするもの以外の他の証拠がないならばと、これらの人々の引き渡しを拒否した。この場面で冷静な判断をするには、この人々を力ずくで捕らえようとの衝動が、あまりにも強すぎた。そして、この人たちを逮捕したことは、好ましからざる悶着に向かうことになろう。

 我々は、捕らえられたこの人々が同情に値するものなのかどうかは知らない。我々は、彼等が、日本側が想像している通りのものとは違っているのかどうかは知らない。我々は、彼等が、日本に対して出来る限りの損害を与えようとの目的で東の国に現れたのかどうかは知らない。いま論点としている問題は当事者の人柄とは全く無関係なのである――たとえ彼等が極悪タイプの、有罪判決を受けた犯罪人であると仮定しても。

 問題は、外国領事の権限が気侭に蹂躙されてよいのかということである、領事裁判権はなんらの咎めなしに冒され得るのか、ということである。いかなる挑発を受けたにせよ、いかなる窮地にあるにせよ、戦時中と言えども全面的に尊重されるべきいろいろな形の法が存在するのである。それを厳格に遵奉してゆくことに、すべての国際関係が依拠している、いろいろな形の法が存在するのである。かかる事情にあっては、日本は、侮辱された政府への十分な償いをするほかに選択はないものと我々には思えるのである。

【注0】 『シドニー号』紛争。
本編と十一月十九日付け「フランス政府と『シドニー号』事件」、さらに一八九五年七月十二日付け「ハウイとその捕虜宣誓書」の三編は、同じ主題についての論説である。一八九四年(明治二十七年)十一月四日、米国から横浜港に入港した英国郵船『ゲーリック号』の乗客の中に、交戦中の清国に雇用されて渡航中と言う“間諜者”など三人がいた。ハウイ、ワイルドと名乗る二人は米国人で、他の一人は莫鎮藩と言う清国人で、横浜港でフランス郵船『シドニー号』に乗り移り、神戸港に来たところを日本海軍に逮捕された。その処置をめぐって治外法権など国際法に関する紛争事件に発展したが、半年以上にわたる事件の経過をハーンは執拗に追跡して論じている。

【注1】 高陞(こうしょう)号事件。
一八九四(明治二十七年)七月二十五日、日清戦争の宣戦布告以前の朝鮮・牙山湾の豊島(ほうとう)沖で日進両軍艦が海戦中を、中立国の英国旗を掲げたイギリス商船「高陞号」が、武装清国兵を満載して海面に侵入してきた。日本巡洋艦「浪速」(艦長・東郷平八郎大佐)が高陞号に停止命令を出し、臨検して捕獲を宣言したが、清国将兵が降伏を拒否して英人船長を拘留した。東郷艦長は英商船が清国軍隊により不法占拠されたものとして、約四時間後に砲撃、撃沈したが、その際、救命艇を出して、欧州人高級船員のみ救助。翌日、仏軍艦に救助された約二百名を除き、清国軍将兵一千名と乗員の大半は海中に没した。英国世論は日本を非難、日本政府も困惑したが、英国国際法学者・ホランド(Sir Thomas Erskine Holland, 1835~1926)が「国際法上、撃沈は合法」との見解を英『ザ・タイムズ』紙上に発表、非難もおさまった(「岩波新書・日清戦争」ほかから)。
かけだし時代の記事

《“メンロー・パークの魔術師”の究極の発明》
《その全貌と興味ある詳細》
《爆薬に取り代わった電気》
《ホーボーケンでの驚愕すべき実験結果》
『タイムズ・デモクラット紙』特電 ニューヨーク=三月三十一日発。

 数時間以内に記者は,現代科学史上で最大の驚愕となる事件の一つを目撃することになっている――すなわち,戦争のさい大砲の代替をする、いな、巨大砲台の代替さえも果たすことになる電気を使っての初めての実験である。

 もし記者が、自らの五感と判断力が得た証拠を信頼することを許して貰えるならば、ここには大砲らしい形をしたものは何もない。まして七十二トン級クルップ砲――これは怪物のような砲弾を十五マイル(二十四キロメートル)の距離を越えて飛ばすことができるしろものだが――のような形もしておらず、あるいは、百トン級アームストロング砲――これは、ちょっと見たところでは、記者が今まさに詳細取材したばかりの恐るべき科学兵器に比較しておくこともできそうなのだが――のような形もしていない。

 ここに内臓されている科学的原理は、アルバ・エディソン氏がその発明者であるが、発明者エディソン氏がまだ発明特許を確保していない今の段階では、この原理を記述することは記者に許された範囲内ではない。それに、アメリカ合衆国砲兵隊のある著名な士官が独断で記者に知らせてくれたのだが、エディソン氏は、できるならば、その秘密を政府にだけ打ち明けたいと心を決めているのである。

 記者はこの情報提供者に、過去において、ギリシャ火薬の秘密も黒色火薬の秘密も、秘密を打ち明けられたその人々によって、暴露されていることを想起するようにと話した。

 この人は記者に語ったが、米国内でも、当然のこととして、最も博学な人の中でということになろうが、そういう一人ないし二人の信頼できる人物に打ち明けられるだけということになるかぎり、この発明が政府の秘密として保持されていくことについては、従来の場合に比較して、はるかにその可能性が高いと信じていると言うのである。

 記者はこの人に訊ねてみた。この発明が買い上げられるか、採用されたような場合、今、現役の士官の中に、こういう人物に該当するものがいるかどうか、と。

 彼は、いるとは思えない、と言い、さらに付け加えた。「世界中の陸軍士官の中では誰も知らないね、この秘密を利用できるような能力のあるものは。この実用的応用には、化学、物理学、それにとりわけ電気学の知識が要求されるが、これは、どんな軍事士官も身につけるのは不可能なんだ」

 「それなら」と記者は再度訊ねた。「将来の軍隊の任務というのは、単に、電気的任務を任された、どなたか白髪まじりの学者さんを護衛するというだけのことになるのでしょうか」と。「おそらくね」、やや生気のない薄笑いを浮かべながら、彼は答えた。

 午後六時、エディソン氏は、我々にその発明品を点検することを許可した。ただ、記者には、これを極めて不十分な描写しか出来ない。この発明品は、ロス望遠鏡を下げたり上げたりして、その焦点を定めるのに使われる機械装置にどこか似ているところがある。しかし、はるかに複雑に組み立てられているように見える。

 下の部分には一個の大きなスチール製円板の輪があり、この輪にパイロットのハンドルを幾つか付けたような輪が付いている。この円板の縁は磨かれていて、そこに数学的配列をした二列の数字が輪の外側と内側に刻まれている。

 ハンドルが動かされると、この二列の数字を指す二重の指針が動くが、その動きは互いに反対の方向である。その上のほうの針先は外側の円板の数字と、その下のほうのは内側の円板の数字と同調するようになっている。これらの機械装置は、標的、射程、距離を調整するものである。(訳注・おそらく円板の外側は主尺、内側は副尺をさしている)
 例えば、指針の上端が、数字の外側の円の十二という数字と、内側の円の下方の点百五十に触れると、放電は、距離十二マイル(十九キロメートル)、広がり百五十ヤード(百三十六メートル)で調整される。

 これらの構造は化け物のようである――現にこれを書いていながら記者もこれを信じることができないのだ。
 スチール製円板の内側にも一重の指針を装着した内輪ハンドルがある。こちらのハンドルにも数字を刻んだ指針と円板が付いていて、この内側ハンドルの円板と指針は外側のスチール製円板と反対方向に動く。この円板の数字は、砲撃範囲の高さを調節するものであり、これに接する外側円板の数字は砲撃の幅と強度を調節する。

 だが、さらに驚くべきことは、これらすべての部分の相互連関作動であって、一回の操作が、装置の行うこれらすべての運転を指示するのである。

 この兵器そのものは、形は、他のなによりも、水準器に似ていて、長さで二十フィート(六メートル)を越えており、直径でおよそ四インチ(十センチメートル)である。

 それは疵のないガラスで作られており、中空で、両端は封じられているが、その一端は円盤のように平べったくなっている。

 この円盤には、望遠銃の銃身のような外観をした一本の中空の鋼鉄の棒が取り付けられており、これがガラス円筒の中へ、約二フィート(六十一センチメートル)の長さにまで突き込まれていて、そこで巨大な蓄電コイルに結合されているが、このコイルは、まるで懐中時計のひげゼンマイのように細い繊細な電線を巻いたものである。

 この電線はその末端が、そこだけ管の中で隔離された区画部の中に入っているが、この区画部はエーテルのような揮発性の液体が充満しているようであった。

 記者はエディソン氏にこれは何かと訊ねた。

「電気」と答えた。「液化点まで圧縮された電気なのです――これこそが秘密なのです。私の機械は、この秘密を知らない人の手に渡っても、何の役にも立ちません。充電することができないのです。私は、千五百億馬力の容量を、十二フィート(三・六メートル)平方のスペースに蓄えることのできる程度にまで電気を圧縮することに成功しました」

「現在充電されている力はいかほどですか」と記者は訊ねた。

「ダイナマイト五十万トンの爆発力に匹敵します」【注1】とエディソン氏が答えた。

「しかし、それはすべて私の意思いかんにかかっています。私が全体を把握し、好きなように調節するのです。一瞬の間に全部を放電させることもできますし、ほぼ五日間にわたって続くような長い連続的流れとして放出することもできます」  我々は、これから約五分ののちには、実験現場へ向かう。今晩十時には、ホーボーケン【注2】にあるナタニエル・R・P・ネトルトン氏の農場で、機械装置がそれぞれの位置に据え付けられる。ネトルトン氏は富裕な、エディソン電灯会社の株主である。氏は一群れの羊――四十三頭だが――を、今回の企画の実験資材として提供したのである。

 記者は、ブルックリンのレーヴェン氏が、数頭の馬とラバ――もちろん、たいていは老廃の状態になっているものだが――を送って寄越したとの情報も得ている。

 理由は言わずに知れたことだが、射程範囲は五マイルに制限される。事故を起こさぬよう、可能なかぎりのすべての予防措置がとられるはずである。

 以上、L・B記者発、急報。
 ホーボーケン。午前一時四十五分発。

 実験は驚異的な成功をおさめた。現時点では、記者は誠に残念ながら、全詳細をお伝えできないのではないかと思う。

 我々は日没ころ、現場に到着した。実験区域は周辺全長が、五フィート(一・五メートル)の高さに張りめぐらした有刺鉄線で、囲われ区画されていた。地面は非常にでこぼこだった。しかし、こんなことは何ら問題ではない、とエディソン氏は言った。新型砲は、この農家近くの、全域を眺め渡すことのできる高台に据え付けられることになっているからである。

 運の悪いことに、機械装置を調整するのに、思いがけない遅れが生じた。

 真夜中のころ、すべての準備が整った。ネトルトン家の近くの小岡の上、電気砲はついに、定位置に運び出された。強力な電気反射鏡が、射程区域に沿ってその閃光を投じる。小型望遠鏡を覗いて見ると、遥かな奥のほうに羊たちがはっきりと認められた。エディソン氏の指示に従って、みんな綱でつながれていた。
大きなほうの動物群はその背後に、およそ二十ヤード(十八メートル)の間隔をおいて、繋がれていた。

 午前零時三十三分、一発のピストル発射音で合図がなされた。たちまち、全員の目がガラス製の巨大砲筒に釘付けとなった。エディソン氏の手によって動かされる大車輪ハンドルが回転する下で、あのガラス製円筒が、望遠鏡のように、ゆっくりとバランスを取って、ほとんど水平の位置になるのが見えた。

「(主尺)二十七、(副尺)百分の一」エディソン氏が叫んだ。「(主尺)二十七、(副尺)百分の一」――大きなスチール製円板の反対側にいる助手が復唱した。

「(主尺)二十七、そして(副尺)九十分の一」「さらに(副尺)九十分の一へ」

「一、九十一、七、そして八分の十七へ」

「オールライト!準備完了」

時刻は正確に零時四十二分だった。

「イーチ! ニー!」エディソン氏が叫んだ。「サーン!」

 爆発音はなにもなかった――ただ、蒸気が抜け出すときのような、鋭いヒューという音、それと、とてつもなく巨大な、目眩ます、燃え上がるような閃光、つまり、水平線の果てまで束の間に広がったと思える一筋の稲妻のほかは。かくして、全域が再び暗黒となった。いや、少なくとも比較的に暗くなった、と言ったほうがよい。というのも電気反射灯がいまなお、弾道を照らしていたからだ。

 我々は、馬に騎乗して、射程域の遥かなはずれまで視察に行った。羊たちは元の場所に静かに横たわっていた。焼き肉の臭いのような強い臭いが漂っていた。一番手元の死骸に手を触れて見る。と、触れる手の下で死骸の皮が剥がれ落ちた。生き物たちは文字通り、骨まで焼き上げられていた。

 さらに進むと、ラバや馬たちが横たわっていて、あたかも湯がかれたように焼き上がっていた! 幅数百ヤードの弾道は、どちら側でも、有刺鋼鉄線が完全に消え去っていた。草むらの中に、その溶けた切れっ端の幾つかを見つけた。その草そのものも強い灼熱を加えられたごとく、縮れ、捩り上げられ、かさかさになっていた。

 動物たちの死骸を片づけようとして持ち上げると、それらはばらばらになってくずれ、形も無くなって崩れ散ってしまった。仮に、この稲妻光線の弾道に沿って人間が一万人立っていたとしても、彼らは一秒の何分の一かで、抹殺し終えられていただろう。

 近辺にたっている林檎の木々の幹はひき裂かれて、あたりの地面はその木片や大枝、小枝で覆われていた。
 明日、さらなる詳細を記述するつもりである。

 現在までのところはなお、驚愕すべきこの実験に関する完全な説明を報告することは不可能である。記者がこの文を書いているとなりでは、いま合衆国政府高官たちが、陸軍省への報告を送っているところである。この機械装置の能力は、その充電量の僅かに一万四千分の一が放電されただけだという事実から判断されよう。
追記――
 記者がたった今、エディソン氏から聞きとったところによると、この発明は記者が想像していたほど、そんなに複雑なものではない、とのことである。エディソン氏は、熟練の電気技術者なら誰でも、数週間の訓練と勉強をすれば、この新式の大砲を操作し、充電することを学びとることができる、と言っている。

 ニューヨークの新聞『ヘラルド紙』(New York Herald)は、モルトケ将軍【注3】あてに私信の特別報を送るということである――――電報での要請を受けて、エディソン氏がみずから電信器を操作することになっている。エディソン氏がその発明を最高額の入札者に売ることができるということは、今やその可能性が高くなってきたようである》【注4】

[ 監修者解説 ]
 実はこの“科学記者”発の記事にはウラがあって、ティンカーの伝記では、これに続いて、《ルイジアナ州全土から『タイムズ・デモクラット』紙の編集局へは、エディソンの驚異的な発明についての詳報を求める手紙が殺到した。ただ、手紙を書いた人々は、この記事が掲載された日付が“エープリル・フール”の日であることに気付かなかったのである》としてそのあと《クロスビーとハーンは後日、この(架空ルポ)記事のことで大笑いして楽しんだのである》と書いている。クロスビーはハーンに科学に関する知識や面白さを教えてくれたニューオーリンズでの友人の一人である。ただ、この年はほかにハーンが四月一日付けで“エープリル・フール”論説記事を書いた形跡はない。
【注0】
「エディソン最新報」=“EDISON’S LATEST”. Times-Democrat, 1882.4.1.
『Lafcadio Hearn’s American Days/Edward Larocque Tinker 1924』243p.)
 この記事は恒文社刊・ハーン全集の年表で見ると「エディソンの晩年」と書かれているものである。しかし、エディソンはハーンより三歳年長だけで、晩年どころか、当時三十五歳の発明活動の絶頂時代であった。
エディソン=Thomas Alva Edison(1847――1931)
 オハイオ州の生まれ。鉄道支線の新聞売り子などののち、電信術を習い、発明を続ける。一八七六年、ニュー・ジャージー州のメンロー・パークで実験室を開設。実験、発明を続けて“メンロー・パークの魔術師”と称されて世界的に有名となった。エディソンが世界最初の中央発電所とエディソン電灯会社を設立したのもこの記事が書かれた一八八二年のことである。ハーンはこの「エディソン最新報」の前にも、エディソンと電気に関連する論説記事を多く書いている。
【注1】
ダイナマイト五十万トンの爆発力=ちなみに広島原爆はTNT火薬二万トン、長崎原爆はTNT火薬二万二千トン相当の爆薬に匹敵する爆発力を持つと、原爆開発を世界でただ一人取材した『ニューヨークタイムズ』のローレンス記者(William Laurence)は、その著書「ゼロの暁」(Dawn Over Zero)の中で書いている。
【注2】
ホーボーケン=(Hoboken)エディソンの実験所があったニュージャージー州ウエスト・オレンジの東すぐ近くで、ハドソン川に面した地区。
【注3】
モルトケ将軍=Helmuth Karl Bernhard von Moltke(1800――91)
プロイセン軍の参謀総長として、一八六六年の対オーストリア戦、一八七〇~七一年の対フランス戦での勝利に貢献。近代的ドイツ軍の創設者。
【注4】
この「エディソン最新報」は、論説記事そのものが、ハーンの想像から出発したもので、大発明の兵器も全く“無からの創造”であり、実態がないものである。それだけに特に工学機械に関しては理解できない部分が多分にあったが、同郷の畏友、大阪産業大学工学部電気電子工学科・飯田昌二教授(工学博士)のご教示を得るなどして試訳したものである。ほかにも英文解釈の誤りを指摘していただいた諸先生方に感謝の意を表する次第です。

ハウイとその捕虜宣誓書

『ノースチャイナ・デイリー・ニューズ』紙がハウイの捕虜宣誓書問題に関して取った態度に対して、我々は非常な驚きの念を表明せざるを得ない。
一、二週間前、我が同業『ノースチャイナ・デイリー・ニューズ』紙は、はじめ日本の新聞に掲載されたハウイに関するある記事に反駁する評論を掲載した。この報道記事とは、ハウイが本来は日本に敵対する役務にはつかないとしてその捕虜宣誓書を提出しておきながら、その後、威海衛で清国軍に就役しているところを発見され、威海衛で捕虜となった他の外国人たちは釈放されたのに、ハウイは日本軍によって拘束されて日本に連れ帰られ軍事法廷で裁かれ、無罪釈放されたが、無罪にもかかわらず国外追放された、という記事である。
— 1895年7月12日 金曜日 神戸 —

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— 1895年7月12日 金曜日 神戸 —
『ノースチャイナ・デイリー・ニューズ』紙がハウイの捕虜宣誓書問題に関して取った態度に対して、我々は非常な驚きの念を表明せざるを得ない。

 一、二週間前、我が同業『ノースチャイナ・デイリー・ニューズ』紙は、はじめ日本の新聞に掲載されたハウイに関するある記事に反駁する評論を掲載した。この報道記事とは、ハウイが本来は日本に敵対する役務にはつかないとしてその捕虜宣誓書を提出しておきながら、その後、威海衛で清国軍に就役しているところを発見され、威海衛で捕虜となった他の外国人たちは釈放されたのに、ハウイは日本軍によって拘束されて日本に連れ帰られ軍事法廷で裁かれ、無罪釈放されたが、無罪にもかかわらず国外追放された、という記事である。
 この上海の新聞の短評は、はっきりとこの報道記事に反駁し、いかなる捕虜宣誓書も提出されていないと言い、さらに、ハウイは事実は”降伏した”のに、威海衛で”捕らえられた”と表現されたことに異議ををさし挟み、彼が軍事法廷で裁判を受けたということを否定し、無罪放免されながら追放されたという報道には矛盾があると断言し、日本政府に対してそのやり方についていささかのお説教を垂れて、記事を結んでいる。

 このような一連の否定には、特に史実としての正確性に関すること以外に、我々は関心はない。しかし、提起された問題は一般的な関心事であり、同紙が全面的な反駁をするからにはその根拠をはっきりさせるべきである、と我々は提案してきた。そして、これらの反駁記事が、まず間違いないと思うのだが、ハウイ氏との対話の結果として作られたものであるとすれば、同氏の証言は無価値であること、を我々は指摘した。なぜなら、捕虜宣誓書の提出という基本的な点に関してハウイは、神戸での際には全く違った話――現時戦争の間は日本に敵対する役務にはつかないとの約束をしたことを肯定する話――をしていたからである。

 『ノースチャイナ・デイリー・ニューズ』紙は、同紙の記事がハウイの供述に基づいていることを否定はしていないのに、我々の記事は信頼に値しないと言っている。なぜなら我々の記事は、我々自身があてにならないとしているハウイとハウイの証言からのものであるから、というのである。このことは我々に、論理学教室で教わった循環論法のお手本を思い出させてくれる。”すべてのクレタ島人は嘘つきである。私はクレタ島人である。だから私が「すべてのクレタ島人は嘘つきである」と言うとき、私は嘘をついている。故に、すべてのクレタ島人は嘘つきではない”。

 同紙は”あてにならないハウイとのいいかげんな対話”以外の確かな証拠によって、我々がなしてきた”きびしい非難”の正しさを実証するよう求めている。

しかし我々は、ハウイが日本国民に反する役務にはつかないとの約束をしたということ、その誓約をしたのは、否認しようと企てても非常に困難であったと思われる時点でそうしたのだ、と彼が認めたこと、そしてもし今、そんな誓約はしていないと言うのなら、ハウイ氏は明らかにその言を信頼することのできない人物である、ということを主張する以外のことはしていないのである。

 同紙はこの事件を取り巻く状況を完全に失念してしまっているように思える。ハウイ別名カメロンは、ワイルド別名ブラウンという他の一人物とともに、清国政府の役務に就き、清国に水雷爆発物の態をした若干量の戦争物資を提供しようとの意図を持っているとの容疑で、日本政府により仏国郵船『シドニー号』上で逮捕された。彼とその仲間は、神戸市内の日本人所有のホテルに連行され、ここでは監視兵が付けられたうえで、連日、軍事法廷とも言うような所で尋問された。二人の容疑者が持っていた書類や荷物のどこからも彼らを疑わせるなんの証拠物件も発見し得ず、そして、かかるが故に、二、三日の拘留ののち釈放され、彼らに対してある金額の贈呈が申し出されたが、ハウイの言によれば、辞退された。釈放される前、彼らは、その当時に我々が力説していたのだが、全く不条理にも、日本に敵対する役務には就かないとの誓約にサインすることを要求された。そしてこの文書の翻訳文はこれに付随する文書――拘留されていた間に彼らがもてなされた親切に対して、日本政府に向けて満腔の感謝の意を表現した文書――と共に、政府系新聞である『東京日日新聞』に掲載された。そして、二人の”容疑者”が神戸を離れる前に、翻訳文はほとんどすべての外国新聞に掲載された。

 これらが掲載されたとき、ハウイ氏は個人的に、我々に対して、供述書は本人が書いたものであることを否定し、我々の手に事件の真実についての完全な説明をする文書を渡すことを約束した。しかし、彼は同時に、日本に反する役務には就かないとの言質を与えたことを認めた。彼の釈明は、我々がすでに述べたように、この約束は”監禁状態で”サインされたのだが、しかもその事実にもかかわらず、その条項が自分を拘束するものと見なす、との陳述を進んでなした、というものである。

 我々が右に要約した事実は、ハウイ氏の正直さに全面的な根拠を置いているわけではなく、周知の事柄なのである。これらは、神戸駐在の米国、仏国領事による長文の報告書の主題であって、米国領事による報告書は、我々の信じるところでは、すでに合衆国印刷記録書の中に記載されている。

 ハウイが威海衛で”降伏”したのち、軍法会議に引き出されたかどうかについては、日本の新聞に掲載された程度のことしか我々には分からない。確かなことは、他の外国人が退去を許されたときに彼は拘束され、観光旅行と言うわけにはいかない情況で、日本に連行されたということである。

 彼に対してなされた告発――それがどんなものであれ――から彼が”無罪放免”されたのかどうかは、我々の手にしている知識からは言うべきことはない。ともかく彼は”釈放され”た。そしてそのあと、追放された、と信じたいのである。しかし、ついでに言えば、ハウイがそうであったように一人の男が、日本に敵対する雇い兵として戦いながら、その捕虜宣誓書に違背したことからは無罪放免されたとは言え、追放されずにすむなどと同紙が信じるのは全く間違っていると指摘しておきたい。

 交戦中である国の役務に就いている外国人は、条約によって非戦闘員に与えられている保護を要求する権利をすべて失うのである。そして、この人物を捕らえた政府は、実際上、この人を勝手に始末してよい、のである。たしかに、政府は、その存在が好ましからざるものと見なされれば、この人物に国土退去を命ずることができる。
 これらすべてのことは、実際には、ごくごく小さな意味しかないものである。しかし、正確な史実のためというだけのことだとしても、どんなに僅かとは言え我々が払った関心を受けるだけの意味があると、思えるのである。そして、それゆえにこそ、我々は煩わしさを厭わず、このことを書き認めたのである。なぜなら、我々は『ノースチャイナ・デイリー・ニューズ』紙が誤った方向に引っ張られてきたと信じるがゆえに、また、同紙が我々と同様、真実に達したいと願っているものと確信するがゆえにである。

 『シドニー号』船上での逮捕時に我々はあえて、日本政府によって取られた処置に強い不承認の意見を表明した。この処置が極めて深刻な国際紛争に導く恐れがあると我々は考えたのである。幸いなことに、我々の憂慮は根拠のないものとなった。この問題を任せられたフランスの法律家は、日本政府の行動は完全に合法的であると支持したし、米国政府もまた、アメリカ国籍であると主張している市民の逮捕に対して抗議する手立ては何も講じなかった。
 そうではあるが、我々はいまなお、日本のやり方は戦略的見地からは間違いであったと信じる気持ちなのである。しかし、日本政府を弁明するのは、正に、我々の関心事ではない――尊敬する同紙はそう言いたいようではあるが。我々はただ、事実の正確さにのみ関心があるのである。

【注0】 ハウイとその捕虜宣誓書。
一八九四年十一月十日〔『シドニー号』紛争〕、一八九四年十一月十九日〔フランス政府と『シドニー号』事件〕の二編の論説で登場した”間諜者”か”戦時禁制人”のアメリカ人容疑者が、日本に敵対行為はしないとの宣誓書を書いて釈放されたのに、”信義に反して”日本と交戦中の清国軍に参戦、降伏した清国兵とともに捕虜となった。国家と人権の関係をハーンは穏やに論じている。
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ハーン01

ハーン02

ハーン03

現代日本史へのある貢献

現代日本史へのある貢献

ジョゼフ・ヒコ氏の『ある日本人の物語』【注1】の第二巻であり完結編によって、過去三十年にわたる日本史に幾つかの興味ある側光があてられている。この興味ある著作の第一巻に目を通した人はすでにご承知の通り、ヒコ氏はごく年少の時にアメリカへ行き、そこで数年を過ごし、合衆国の帰化市民になるという巡り合わせを経た日本人である。
彼は最後には、日本の歴史の最も重大な時期に日本に帰り、そこで、封建制から立憲制度へと過渡期の騒々しい出来事や、外国の方式を導入したいと願う人々とそれに反対する人々との間の争いの目撃証人となることができた。外国教育を身につけ、また日本語の完全な知識をも持っていたので、彼は観察し理解できるという非常に好都合な立場にあった。
— 1865年7月1日 月曜日 神戸 —

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— 1865年7月1日 月曜日 神戸 —

 ジョゼフ・ヒコ氏の『ある日本人の物語』【注1】の第二巻であり完結編によって、過去三十年にわたる日本史に幾つかの興味ある側光があてられている。この興味ある著作の第一巻に目を通した人はすでにご承知の通り、ヒコ氏はごく年少の時にアメリカへ行き、そこで数年を過ごし、合衆国の帰化市民になるという巡り合わせを経た日本人である。

 彼は最後には、日本の歴史の最も重大な時期に日本に帰り、そこで、封建制から立憲制度へと過渡期の騒々しい出来事や、外国の方式を導入したいと願う人々とそれに反対する人々との間の争いの目撃証人となることができた。外国教育を身につけ、また日本語の完全な知識をも持っていたので、彼は観察し理解できるという非常に好都合な立場にあった。

 伏見戦争【注2】に参加したある日本人紳士が、あるとき我々に、外国人は一般に、維新運動が最初から反封建体制を志向し立憲主義を好ましいとしていた、と信じているようだと語った。事実はそうではなかった、とこの人は言う。ミカドの側は、そもそもは、国内すべての保守的な分子から支持されており、外国人や外国風の運動には強く反対していた、というのである。

 この論点は、この本の中で年代順に語られている様々な出来事で、豊富に裏付けられている。長州藩は、その後、非常に強大となり、日本のために幾人もの最も開明的な政治家を輩出したのだが、当時は厳しく外国人や外国の風習に反対していた。一八六三年七月【注3】、この藩は、将軍にではなく、ミカドに直接申請して、ミカドがこの帝国のすべての大名たちに対して、神聖なる日本の国土から外国人を追い払うべしとの命令を発するよう強要した。そして、実際にミカドは合意し、そのような命令を発した。

 この命令は結果的には取り消されることになったのだが、それはただ、家臣一万人の兵力を率いて京都へ進軍した越前の大名【注4】と、会津公【注5】ほか一、二の開明的な大名たちの努力によるものであった――しかしそれも、ミカドの身柄を取り合いして京都で激しい戦闘が起こった後のことであり、この騒ぎで、京都の町はほとんど全市が火事で破壊された【注6】。この戦闘の一つの結果として、長州藩と同藩士たちはその地元に引き上げ、暫くの間は、逆賊と決めつけられた。

 下関での外国船への砲撃もまたこの藩によるものであったが、長州勢はこの問題では常に、自分たちはただミカドと将軍の命令に従って行動しただけだと抗弁した。長州藩主は一時、自身が将軍職に就こうと目論んだと言われた。しかし、ほんとうにそういうことであったとしても、彼やその顧問たちは、幕府の命運が尽きかけていることを素早く見抜き、そこで、ミカドの王政復古に献身した。 騒乱が続いている最中、このころ長崎にいたヒコ氏は、長州勢の指導者数人とごく親しい関係を持つことになったが、これは、彼等が幕府から逆徒として扱われていたちょうどその時点であった。

 伊藤俊輔氏・現在の伊藤伯爵・首相【注7】は、外国の事柄について「その中でも特に」――と著者は書いている――「英国と米国の歴史、その制度、政府など」について出来るだけのことを学ぶ目的で、木戸氏【注8】なる人に伴われて、ヒコ氏を訪問した長州サムライの中の最初の一人であった。

 木戸、伊藤の両氏はのちに、ミカドの王政復古のためになすべき企てについて、ヒコ氏にあますところなく打ち明けた。そして、彼等の目的の一つは、彼等自身の言によれば【注9】「日本国が平和になり」また「外国との交際は・・・もっと自由でもっと親密に」なることであるとして、彼等自身が外国人に対して非常に好意を持っていることを態度で示していた。
 これは、その二、三年前に長州勢が取っていた態度からすれば、たいへんな変化であったが、こういう感情が長州藩武士の主流派によって分かち持たれていたかは疑わしい。

 しかし、この頃になると、事態は、この国に押しつけられた外国との国交に抵抗を企てるのは愚行であることを証明していた。そして一八六六年【注10】の伊藤氏は明らかに、一八九五年【注11】の伊藤伯爵がそうであるのと同じように、政治的な権謀術策にかけては鋭く敏感であった。

 ヒコ氏は、長州藩主の長崎での代理人に任命された。そして、兵庫港が貿易のために開港されるときには、特別交易代理人に任命されることを、約束された。「こういう協定のもとで」と彼は書いている。「私は無報酬で二年間、長州藩の長崎代理人として働いた。木戸、伊藤両氏から約束された兵庫での任命については、その後まったく何も聞くことはなかった」と。

 ヒコ氏はそれから、その後引き続いて将軍が将軍職を辞任するに至った経過、その大阪への引退、家臣たちの決起、伏見の戦いと敗北、前将軍の将軍職辞任後の米国船に乗船しての江戸への逃避、について簡単な説明をしている。

 伊藤氏はこの間、決して休んでいたわけではない。英国軍艦で長崎から兵庫に到着して、将軍勢が敗退し幕府の役所が空になっていることを知ると、伊藤氏は上陸して、旗、提灯に羽毛飾り兜などを着けさせた小部隊の人数を結集するや、空家となっていた税関、奉行所へ行き、素早くこれらをミカドの名前で占拠し、ただちに京都へ使いを出して、同志たちに彼が取った処置を報告し、町の防衛のための部隊を派遣するよう要請した。

 これに答えて五百人の兵士が京都から下ってきて、これと同時に伊藤氏は兵庫県知事の任命を受けた。彼の前任者がすべての財産を持ち去って、役所を運営してゆく費用がなかったので、伊藤氏は地元の銀行家を集め、地方税を担保として借款契約を整え、このようにして作った金で、しばらくの間、役所業務を遂行した。これは一八六七年【注12】、この港が外国貿易に開港される数カ月前のことであり、また、現在の日本国首相が、最初の世間の注目を受けることになったのは、この大胆な行為のおかげであった。

 この本は、多くの主要な活動家たちと親密な間柄にあった一人の人によるこのような多くの出来事と関係しているので、外国人居住者にとっては特別な興味が見出されよう。

 この本が与えてくれる数々の瞥見――この期間の民衆感情の興奮状態、いたるところに漲っていた不安、外国人や外国人と親しいとして疑われた日本人への襲撃、付随的にではあるが、当時の中央政府の弱体ぶりと今日の強さとの相違について描き出されたコントラスト等々、すべてが結び合わさって、この本を初めから終わりまで、最高に面白いものにしている。

 ヒコ氏の記録は一八九一年十月二十八日【注13】、あの大地震の日まで続いている。アラを探すとすれば、事件の幾つかが、あまりにも簡単に扱われているということだ。ヒコ氏は我々に与えてくれることのできる、もっと面白い材料を持っているに違いないのに、読者を退屈させるのではないかという誤った心配から、それを控えているのだという感じがする。

 もし、この本の二版が出されるならば、全編にわたって、各ページの最初の行に年号が出て来るようにすることを強くお勧めしたい。第二巻の第一ページは単に「八月四日」で始まっている。読者は二ないし三ページ先へ進んで初めて、この年が一八六三年【注14】であることを知るのである。しかしながらこれは、注意深い読者はすぐに自分で訂正できるほどの些細な疵である。

 『ある日本人の物語』はこのままで、好奇心をそそり、同時に、面白いものである。そして日本現代史に少なからぬ貢献をなしているのである。

【注1】 ジョゼフ・ヒコ氏の『ある日本人の物語』。
『アメリカ彦蔵自伝』〔全二巻〕として翻訳出版されている。一九六四年七月初版。平凡社「東洋文庫」。訳者、山口修、中川弘。英文原著の上巻は一八九一年(明治二十四年)出版、下巻「THE NARRATIVE OF A JAPANESE Vol.Ⅱ」が一八九五年(明治二十八年)五月十日、出版。発行所は丸善株式会社。

 ジョゼフ・ヒコ(Joseph Heco)日本名、浜田彦蔵。一八三七年(天保八年)、いまの兵庫県播磨町に生まれる。幼名、彦太郎。一八五〇年(嘉永三年)静岡沖で遭難・漂流、一八五一年(嘉永四年)サンフランシスコに入港。一八五九年(安政六年)帰国。米国国籍。一八六四年(元治元年)日本語の木版新聞『海外新聞』を発行、日本の民間新聞の始祖とされる。一八九七年(明治三十年)死亡、六十歳。
【注2】 伏見戦争。
いわゆる「鳥羽・伏見の戦い」は一八六八年(慶応四年)一月三日、幕兵および会津・桑名などの藩兵が、徳川慶喜を奉じ、薩藩討伐を名目に大坂から京都に入ろうとして、薩長その他の藩兵と伏見・鳥羽の両方面で戦った内戦。幕府軍の大敗に終わり、維新の大局を決した。[広辞苑]
【注3】 一八六三年。
一八六三年(文久三年)には「八・一八の政変」があった。この年、長州藩が中心となって、攘夷の実行を促す火が燃えさかった。孝明天皇は三、四月加茂神社、岩清水八幡宮に行幸、攘夷を祈願し、旧八月十三日に攘夷祈願の伊勢参拝を発表した。長州藩が中心となった激派・尊攘派と、急激な攘夷に反対する幕府・会津・薩摩藩など公武合体派とが対立。公武合体派が八月十八日、クーデターを決行した。京都守護職の会津藩主・松平容保(かたもり)や、薩摩藩が宮門守護にあたり、長州藩兵と対立した。これが「八・一八の政変」で三条実美はじめ七卿の都落ちがあり、長州藩士らも京都を去った。
【注4】 越前の大名。
越前藩主・松平慶永(号・春嶽。一八二八~一八九〇)で幕府の政治総裁。『アメリカ彦蔵自伝2』では、一八六三年(文久三年)八月の「八・一八の政変」に関する風聞を書いて「・・長州勢は、ミカドが日本の神聖なる国土から、いっさいの外国人を追放すべしとの命令を日本の全大名に出すよう強く主張し、ミカドも長州の要望をみとめて、問題の命令を発した。八月のはじめ、越前の大名も他の大名同様にこの命令を受けたが、彼は武装をととのえた家来一万人をひきいて急いで上京した。これはミカドにじきじきお目通りしてミカドを説き、命令を撤回してもらうためであった・・」とあるが、松平春嶽は、実際は、この「八・一八政変」の前後には京都に入っていない。
【注5】 会津公。
会津藩主・松平容保(かたもり。一八三六~一八九三)。京都守護職。
【注6】 京都の町の火事。
一八六四年(元治元年)七月十九日の蛤御門の変(禁門の変)は長州藩が形勢挽回のため京都に出兵、守護職松平容保の率いる幕府方諸藩の兵と宮門付近で戦って敗れた事件[広辞苑]。この戦争で京都が焼けた。ヒコの自伝記事は、これを前年の「八・一八政変」と混乱させている。この混乱をそのまま信用してハーンは論説を書いているわけである。
【注7】 伊藤俊輔氏・現在の伊藤伯爵・首相。
伊藤博文のこと。一八四一~一九〇九。のち、公爵。ヒコと会った時は二十六歳。一八六三(文久三年)五月、井上聞多のちの馨らとイギリス船で密出国。翌、一八六四年(元治元年)五月二十五日、急遽、帰国した。
【注8】 木戸氏。
木戸準一郎、孝允。一八三三~一八七七。ヒコと会った時は三十四歳。このころは桂小五郎と称した。『アメリカ彦蔵自伝2』の一八六七年(慶応三年)六月の頃に、長崎のヒコの会社を「ある日の朝、二人の役員が私の会社をたずねた。二人は木戸準一郎と伊藤俊輔(いまの総理大臣、伊藤伯爵閣下)と名乗り、薩摩から来た役人だと言った。・・」とある。
【注9】 彼等自身の言によれば。
『アメリカ彦蔵自伝2』(「THE NARRATIVE OF A JAPANESE Vol.Ⅱ」)にはこの部分を次のように書いている。
Kido proceeded;”….while Tokugawa must resign his post of Sei-i-tai Shogun. When this has come to pass, then the Empire will become peaceful, and foreign intercourse will become freer and more cordial. But so long as we shall continue to have two rulers in the land, we shall have nothing but uninterrupted quarrels and troubles–just as is the case in a house with two masters.”
【注10】 一八六六年。慶応二年
【注11】 一八九五年。明治二十八年
【注12】 一八六七年。慶応三年
【注13】 一八九一年十月二十八日の大地震。
明治二十四年の濃尾大地震(全壊焼失十四万二千戸、死者七千二百人)
【注14】 一八六三年。文久二年。
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日本の柔術

日本の柔術

次の文は、神戸の一住民【注1】によって近く出版予定の日本に関する新しい作品の見本刷りから採録したもので『柔術』と題する一小論の結論である――
以上の小論は二年前に書かれたものである。その後の政治的出来事や新条約の調印が、昨年、これを書き改めざるを得なくさせたが、さらに今、手元でゲラ刷りに目を通している間に、清国との戦争事変がさらに数語の書き加えを余儀無くしている。
一八九三年【注2】には誰も予言出来そうもなかったことを、一八九五年【注3】には全世界が驚きと称賛を以て承認している。日本はその柔術に於いて勝利したのである。日本の自治権は事実上回復され、文明諸国間に於けるその地位は保障された。日本は西洋の監督からは永遠に離脱したのである。
— 1894年12月18日 火曜日 神戸 —

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— 1894年12月18日 火曜日 神戸 —

 次の文は、神戸の一住民【注1】によって近く出版予定の日本に関する新しい作品の見本刷りから採録したもので『柔術』と題する一小論の結論である――
 以上の小論は二年前に書かれたものである。その後の政治的出来事や新条約の調印が、昨年、これを書き改めざるを得なくさせたが、さらに今、手元でゲラ刷りに目を通している間に、清国との戦争事変がさらに数語の書き加えを余儀無くしている。
 一八九三年【注2】には誰も予言出来そうもなかったことを、一八九五年【注3】には全世界が驚きと称賛を以て承認している。日本はその柔術に於いて勝利したのである。日本の自治権は事実上回復され、文明諸国間に於けるその地位は保障された。日本は西洋の監督からは永遠に離脱したのである。その芸術も徳目も、かつて得させてくれなかったものを日本は、新しく得た科学的攻撃力と破壊力を初めて発揮することによって手に入れたのである。

 日本が長いあいだ秘密裡に戦争準備をしてきたことや、戦争に突入したさいの見え透いた口実については、少なからざることが、性急に取り沙汰されてきた。日本の軍備の目的は、前章で指摘した以外のものでは決してないと私は信じている。日本が二十五年間にわたってその軍事力を着々と養ってきたのは、その独立を取り戻すためであった。しかし、この期間、外国からの圧迫に反発する民衆の反動の連続的な脈動は――脈動ごとに、前のものよりいっそう強さを増しながら――、国力がついたという認識を国民が高めてきていることや、条約に反発する苛立ちが増大し続けて止まないことを、政府に警告していた。一八九三~九四年の反動【注4】は、衆議院で非常に険悪な様相を呈した結果、議会の解散が緊急に必要となったのである。しかし、繰り返し議会解散が行われたとしてもそれはただ、問題を先送りするだけであったろう。この問題はそれ以後、あるいは新条約の調印により、あるいは清国に対する帝国軍事力の突然の発動によって問題の方向が逸らされてきた。
 日本に対して加えられた西洋諸国連合の情容赦ない産業的、政治的圧力こそが、最も抵抗の弱い方向へ向けての力の発露として、事実上、日本をこの戦争に追いやったことは明らかではなかろうか。幸いにも、この力の発露は効果的であった。日本は世界を向こうに回して屈しないものであることを立証した。これ以上押しつけがましくされない限り、日本は西洋との産業的な関係を破棄する考えはない。しかし、日本帝国の軍事的復活により、直接的か間接的かを問わず、西洋の対日干渉の日は決定的に終わったということはほぼ確実である。事の自然な成り行きとして、今後なおいっそうの対外拒否反応の揺り返しが予想されようが、それは、必ずしも暴力的なものや不条理なものではなく、国民的な個性の再主張をあますところなく体現するものであろう。
 幾世紀とも知れない期間にわたって専制政治支配に慣らされてきた国民の作った立憲政治の実験が疑問の多い結果を見せていることを鑑みれば、政府の形態にさえもなんらかの変化があり得ないことではない。しかし、サー・ハリー・パークス【注5】が、日本は『南アメリカ共和国』というようなものになるであろう、と予言して大間違いをしたことは、この素晴らしくもまた謎に満ちた民族の将来を予測するという冒険は冒さないようにと言う警告でもある。
 戦争がまだ終わっていないことは事実である。しかし、もはや日本の最終的な勝利は疑う余地がなく、それどころか、清国で革命が起こるチャンスさえも大いに見込ませているのである。世界はすでに、幾分の不安を込めながら、次に来るのは何かをまさぐりつつある。  多分、すべての国々の中で最も平和的で、最も保守的な清国が、日本と西洋の両方からの圧力のもとで、その自衛のために西洋の戦術を確実に会得するように強制されるということであろう。その後に多分、この国の偉大なる軍事的覚醒が起こり、新しい日本が追いこまれたのと同じ情況の下で、清国がその武力を南方や西方へ向ける可能性が極めて大きいと言えよう。起こり得る最終的な結末については、ピアソン博士【注6】の近著『国民性』を参照されたい。
 柔術の技は清国で発明されたものであることを忘れてはならない。そして清国はいまだに西洋にとっては侮りがたい国なのである。清国、かつては日本の師匠であった清国。その変わることのない何百万人の上を、後から後からと続いた征服の嵐が、葦の上をかすめるただ一陣の風のように、過ぎ去って行った清国。  日本のように、強制されることによって初めて、清国は柔術によって自らの保全を守るように強いられるのであろう。  しかし、あの驚異的な柔術の結末は、全世界にとって極めて深刻な影響を持つことになろう。植民地化政策を進めてきた西洋諸国は、弱小民族を始末するにあたっては侵略し、強奪し、皆殺しにするという罪を犯してきたが、これらすべての罪に対して復習する主導権は清国側に保留されているのかも知れない。  二大植民国の経験を要約してすでに思索家たち――フランス、イギリス両国の思索家を無視するわけにはいかない――は、この地球が完全に西洋の民族によって支配されることは決してないであろうし、未来は東洋のものであると予言してきた。これと同様なのが、東洋に長く滞在した結果、考え方の点で我々とは全く掛け離れた東洋人の奇妙な人間性の表面下を見ることを学んできた多くの人たちの確信であり、東洋人の生命の潮流の深さと力を理解すること、東洋人の底知れない同化能力を理解すること、北極圏と南極圏の間のほとんどどんな環境にも自分を適用させ得る東洋人の力を認識すること、を学んだ人たちの確信である。そして、このような観察者の判断によれば、世界人口の三分の一以上を構成する一民族を根絶やしにするほかには、今や、我々西洋文明の将来さえも保障されそうにないのである。  ピアソン博士が最近主張しているように、おそらく、西洋の膨脹と侵略の長い歴史は、今すでにその終局に近づきつつある。
 おそらく、西洋文明がこの地球を取り巻いて覆ったのは、我々西洋のためにというより西洋に反抗するために使用しようという気持ちを持っている民族に、その破壊技術と産業競争の技術の習得を押しつけると言う、ただそのためだったのではないか。それをするのにさえ我々は世界のほとんど全部を自分の隷属下に置かなくてはならなかったのであり、かくも巨大な力を必要としたのである。おそらく、我々は、これよりも努力を縮小するわけにはいかなかったであろう。なぜなら、我々が創造したこの恐るべき社会機構は、昔の伝説にある悪魔のようなもので、彼等に仕事を見つけてやることが出来なくなったその瞬間に我々をむしゃぶり食ってしまうぞと、脅しているのである。
 まったく、素晴らしい創造物であることよ、我々のこの文明なるものは。深まって止まない苦痛の奈落から抜け出して、いよいよ高きへ、高きへと成長していくこの文明。だが、同時に、多くの人々には素晴らしくもあると同時に怪物的でもあるように見えよう。社会的地震に遭ってこの文明が突如として崩れ去ってしまうかも知れない、というのはその頂点に住んでいる人々の長い間の悪夢であった。この文明が持つ倫理の土台という理由からして、社会的構造として西洋文明は長続きできない、ということは東洋の智恵が教えているところである。
 人類がこの惑星の上で、その存在のドラマを完全に演じ終わってしまうまでは、文明の営みの成果が消え去りはしないことは確かである。  文明は過去を甦らせた。文明は死者の言語を生き返らせた。文明は『自然』から無数の貴重な秘密をもぎ取った。文明は星を分析して空間と時間を征服した。文明は見えざるものを見えるものにしてしまった。文明は『神』を覆うベール以外はすべてのベールを剥ぎ取ってしまった。文明は数万もの知識体系を構築した。文明は中世の三次元的頭蓋骨を超えて現代的頭脳を拡大させた。文明は最も高貴な姿の個性を進化させた――同時にまた最も唾棄すべき個性をも進化させたにせよ。文明は、人が知る限り最も美しい心の触れ合いと最も豊かな感情を発展させた――同様に、利己心や他の時代ではあり得なかった受難の姿を発展させたにしても。知性の面で言えば、文明は星々の高さを超えて成長した。文明は、どんなことであれ、未来に対しては、ギリシャ文明が過去に対して担った関係とは比較にならないほど大きな関係を担わなくてはならない、ということを信じないわけにはいかない。
 しかし文明は、有機体というものが複雑さを増せば増すほど致命的な傷に感染する脆さもまた大きくなるという法則を、年を追うごとに数多くの例証で示している。有機体のエネルギーが増大するにつれて、常にその内側では、あらゆるショックや創傷、つまり、変化を起こそうとして外側から来るあらゆる力に反応するような、いっそう深い、いっそう鋭敏な、いっそう精緻に小枝を張り巡らした感覚網が進化してきているのである。
 今やすでに、地球の涯の地方で起こった旱魃とか飢饉というたったそれだけの結果が、ごく小さな供給中心地の破壊が、一鉱山の枯渇が、どこかの商業上の静・動脈のごく一時的な停止が、産業上の神経に加えられたごく僅かな圧力が、この巨大な体系のあらゆる部分に苦痛の衝撃を伝えて行く崩壊をもたらしかねないのである。  そして、自分自身の中でそれに対応する変化を起こして、外界からの力に抵抗するというこの体系の素晴らしい能力が、性格の全く異なった内部変化によって、今や、危険に曝されていると見えるのである。  たしかに、我々の文明は個々人をますます発展させつづけている。しかし、今や文明は、ちょうど人工の熱と色を付けた光と化学栄養物が温室内の植物を育てているように、その個々人を育てているのではないだろうか。
 文明は、たいへんな速さで、何百万という人々を、少数者のためには無限の贅沢があり、多数者のためには鋼鉄と蒸気への非情な隷属があるというような、維持していくことの出来ない社会状況にしか適応できないといった全く特殊な適応性に向けて進化させているのではないか。  このような疑問には、社会的変革をすることによって危険予防の手段や損失全部の回復手段が得られるだろう、という解答が与えられてきた。一時的であるにせよ、社会的手直しが奇跡を起こすとすれば、それは望んでも得られないほどの望外のことである。しかし、我々の未来についての究極の問題は、考えつくようなどんな社会的変化も、たとえ、完全無欠の共産主義制度が可能になったと想像してでも、うまく解決することが出来そうにないもののように思われる。  なぜなら、生活程度の高い民族たちの運命は、将来の『自然』経済の中に占める此の人たちの真の価値如何にかかっていると思われるからである。  「我々は優等民族ではないのか?」という質問に対しては我々は「イエス」と声高く答えることができよう。しかしこの肯定では、「我々は生き残るのに最適であるか?」というもっと重要な質問には納得の行くような回答にはならないであろう。
 生き残るための適合性は、どこに存在するのか。それは、どんなところであれ、すべての環境に自己を適応させる能力、不測のできごとにも直面し得る即断的な才能、自分に逆らってくる自然の圧力のすべてに向かい合い支配していく生来の力、の中に存在する。  そして、我々自身の発明である人工的な環境に自分を適応させたり、あるいはまた我々自身の生みだした異常な圧力に適応するという、ただそれだけの能力の中には絶対に存在しないのであり、ただ純粋に生きる力の中にのみ存在するのである。
 今はこの純粋に生きていく力という点では、我々いわゆる生活程度の高い民族は極東の民族より遥かに劣っている。西洋人の肉体的な活力や知的な蓄積は東洋人のそれを凌駕しているとは言うものの、それらは、民族的な優位条件とはまったく不釣り合いな犠牲を払うことによってのみ維持することができているものである。なぜなら、東洋人は米食をしていながら、我々の科学の成果を学び、これをマスターする能力を実証してきたのであり、また、それと同じような簡単な食事を採っていて、我々の最も複雑な発明品を製造し、利用することを学ぶことができているのである。  しかし西洋人は、東洋人二十人の生命を維持するに十分な費用をかけない限り、生きることさえできない。我々の優越性のまさにその中に、我々の致命的な弱さが存在するのである。我々の肉体的機械仕掛けは、将来、確実に予想される民族競争と人口圧力の時代には、あまりにも高価で運転していくことが出来ないほどの燃料を要求しているのである。
 人類の出現以前、いや、恐らくはそれ以後にも、今は絶滅しているが、さまざまな種族の巨大で驚異的な動物がこの惑星の上に生息していた。  彼らは、みながみな、自然界の敵の攻撃によって根絶やしにされたわけではない。多くは、この地球が自然の恵みにあまりおおらかでなくなるように追いこまれたとき、自分たちの身体構造があまりにも維持のための費用がかかり過ぎるという、ただそれだけの理由で消滅してしまったと思われる。まさにそのとおりに、西洋の民族はその高価な生存費用ゆえに消滅するということがありそうである。  その最頂点を極めたすえ、彼らはこの世界の表面から、生き残りにもっと適した人々に取って代わられながら、消え去って行くのかも知れない。
 我々が自分より弱い民族を、ただ彼らより長く生き残るだけで、また、ほとんど意識的に努力したわけでもないのに、彼らの幸福に必要なあらゆるものを独占し吸い上げることで全滅させたのと、ちょうどそれと同じように、我々自身が、おしまいには、我々よりも低い生活条件で生きる能力を持ち、我々の必需物を全部独占する能力を持つ民族――いっそう忍耐力があり、いっそう自己否定的な、いっそう繁殖力のある、そして『自然』にとってもずっと負担の少ない民族――によって、絶滅させられるのかも知れない。  この人々は、間違いなく、我々の智恵を引き継ぎ、我々のもっと有用な発明を採用し、我々の産業の最善のものを受けついでいくだろうし、おそらく、我々の科学や我々の芸術の中で持続していくのに最も値打のあるものを、不朽のものにしてさえ行くだろう。  しかし、我々自身が恐獣や魚龍の絶滅を悔やんでいないように、彼らが我々の消え去ったことを惜しむことは、まずなかろう。
【注1】 神戸の一住民。
これがハーン自身であることは、【注0】から明らかである。このほかにも「一投稿者」を装って、ハーン自身が書いたことを推察させる論説が見られる。 【注2】 一八九三年。明治二十六年
【注3】 一八九五年。
この論説が発表されたのは一八九四年(明治二十七年)の十二月であり、まだ一八九五年にはなっていない。ここで「一八九五年(明治二十八年)には云々」とあるのは、この論説を収録した本『東の国から』の出版が翌一八九五年で、論説が読者の目に触れる時点では一八九五年になっていることを計算したうえで書かれたものであろう。同様に、この数行前の「二年前云々」「昨年云々」は、それぞれを「昨年」「今年」と置き換えて読まなければならない。【注4】の年表参照。 【注4】 一八九三~九四年の反動。
一八九三年一月 衆議院で軍艦建造費について議案を否決
二月 衆議院で内閣弾劾上奏案を可決
建艦費補充の詔勅が下り、予算案成立
七月 閣議で、陸奥外相の条約改正案と交渉方針を決定
十一月 第五議会の召集
十二月三十日 議会解散
一八九四年三月 第三回総選挙(第二次伊藤博文内閣―明治25・8・8以来)
五月 第六議会の召集、衆議院で内閣弾劾上奏案を可決
六月二日 議会解散
七月十六日 日英通商航海条約に調印
八月一日 清国に宣戦布告(日清戦争)
九月一日 第四回総選挙(第二次伊藤博文内閣―明治29・8・31まで)

十月 第七臨時議会を広島に召集
十一月二二日 日米通商航海条約に調印
十二月一日 日伊通商航海条約に調印
十二月 第八議会を召集

一八九五年六月 日露通商航海条約に調印
十月―日 デンマーク通商航海条約に調印
一八九六年四月 日独通商航海条約に調印
七月 日清通商航海条約に調印
八月 日仏通商航海条約に調印
このほか、年内、ベルギー、ノルウェー、オランダ、スイスとも条約改正調印。
一八九七年 この年内、スペイン、ポルトガル、オーストリア=ハンガリーと条約改正調印。
【注5】 サー・ハリー・パークス。Sir Harry Smith Parkes
一八二八~一八八五。イギリスの外交官。十四歳で清国に行き、マカオで暮らし清国状況に通じる。「アロウ号」事件でも重要な役割を演じる。一八六五年、オールコックの後任として日本駐在公使となり、幕末、維新時には、明治新政府を支持する側に立ち、この間の日英間交渉の主役となる。
【注6】 ピアソン博士。Karl Pearson
一八五七~一九三六。英国の優生学者、数理統計学者。一八八五年からロンドン大学で応用数学を講じる。のち、進化論および遺伝学の数学的研究に業績をあげる。
【注0】 この論説は、一八九五年(明治28年)三月九日(土)出版〔ラフカディオ・ハーン著作集(恒文社刊)第十五巻ラフカディオ・ハーン年譜に依る〕のホートン・ミフリン社刊、『東の国から』の中の『柔術』の末尾に書き加えられた追記と同じ内容である。
〔OUT OF THE EAST REVERIES AND STUDIES IN NEW JAPAN“As far as the east is from the west–”(HOUGHTON MIFFLIN COMPANY – Lafcadio Hearn Ⅶ 7 JIUJUTSU)〕
 ただし、文体などに多くの違いがある。ホートン・ミフリン版のほうが、校正も確かと思われるうえ、『バレット文庫』版では意味がとれない点もあり、ここでは重要な表現の相違についてはホートン・ミフリン版に依った。
 また、この論説がホートン・ミフリン版に収録されていることは、『バレット文庫』版の論説がすべて、ラフカディオ・ハーンの執筆に間違いないことを裏付ける大きな確証である。

日清戦争後に出版されたハーンの『心』の中の第六編『戦後』は〔一八九五年五月五日 兵庫〕という日付を記入しているが、この短編の中にも次のように「柔術」を書いている。
 But as soon as the terms of peace had been announced, Russia interfered. securing the help of France and Germany to bully Japan. The combination met with no opposition; the government played jiujutsu, and foiled expectations by unlooked-for yielding…..
〔KOKORO, HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE,Ⅵ, AFTER THE WAR (HOUGHTON MIFFLIN COMPANY – Lafcadio Hearn Ⅶ)〕
「しかし、講和の諸条件が発表されるやいなや、ロシアが干渉し、フランスとドイツの助けを得て、日本を威嚇した。この連合には反対しようがなかった。日本政府は柔術の技を通じて、予想外の譲歩で思惑をはぐらかした」。
 『心』 (ホートン・ミフリン社)の出版は、一八九六年(明治29年)三月十四日(土) 〔ラフカディオ・ハーン著作集(恒文社刊)第十五巻ラフカディオ・ハーン年譜〕。

柔術

1894年12月18日 火曜日 神戸

 次の文は、神戸の一住民【注1】によって近く出版予定の日本に関する新しい作品の見本刷りから採録したもので『柔術』と題する一小論の結論である――
 以上の小論は二年前に書かれたものである。その後の政治的出来事や新条約の調印が、昨年、これを書き改めざるを得なくさせたが、さらに今、手元でゲラ刷りに目を通している間に、清国との戦争事変がさらに数語の書き加えを余儀無くしている。
 一八九三年【注2】には誰も予言出来そうもなかったことを、一八九五年【注3】には全世界が驚きと称賛を以て承認している。日本はその柔術に於いて勝利したのである。日本の自治権は事実上回復され、文明諸国間に於けるその地位は保障された。日本は西洋の監督からは永遠に離脱したのである。

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日本の柔術01

日本の柔術02

日本の柔術03
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日本の柔術06
日本の柔術07

「サタデー・レビュー」誌の懸念

「サタデー・レビュー」誌の懸念

不利な状況に逆らって戦っている個人にとっても、国家にとっても、敵の意見のほうが、しばしば、友人からの励ましよりもいっそう値打ちがあるものである。友人はなし終わったことを称賛する。敵はしばしば、その批判の際の不公平さが考え抜かれた末のものであることから、つかみ取るべき機会、避けるべき失策を知らせてくれる。
日本の勝利についての『サタデー・レビュー』誌、九月二十二日発行号での無作法な言説は、日本の真の力が明らかになるずっと前のものだが、敵意のある批判に付き物の特別な値打ちを持つように、我々には思える。
— 1894年12月7日 金曜日 神戸 —

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— 1894年12月7日 金曜日 神戸 —

不利な状況に逆らって戦っている個人にとっても、国家にとっても、敵の意見のほうが、しばしば、友人からの励ましよりもいっそう値打ちがあるものである。友人はなし終わったことを称賛する。敵はしばしば、その批判の際の不公平さが考え抜かれた末のものであることから、つかみ取るべき機会、避けるべき失策を知らせてくれる。
 日本の勝利についての『サタデー・レビュー』誌、九月二十二日発行号での無作法な言説は、日本の真の力が明らかになるずっと前のものだが、敵意のある批判に付き物の特別な値打ちを持つように、我々には思える。
 日本勝利のニュースに『レビュー』誌が提示した最初の批判は警告と驚きの両方が表れている。
 「よく訓練され、装備も完全な七万人の軍隊を戦場に派兵することができ、数艦隊の近代的軍艦を持つのみならず、これらの兵力を、申し分のない気力と率直な目標を持って統率することのできるアジアの強国があるなどと知るのはショックである。アジアの一強国が訓練された軍隊を保有するということだけでは、それ自体は新奇なことではない。日本軍はシーク教徒軍【注1】よりはよく訓練されているが、決して彼らほど勇敢ではない、などと想像する理由はどこにもない。しかし、遥かによい地の利を占めており、ヨーロッパの兵器や兵法を、東洋人にとっては、えてして、役に立たないものにしてしまった、例の内部的な弱点に苦しむようにも見えない。パンジャブ地方は東インド会社【注2】の支配地そのものであり、シーク教徒軍は、仮りに、彼ら自身の内部紛争や、有能で信頼される指導者の不在から崩壊するに至ったのではないとしても、インドに於ける我が国【注3】の権力を、その根底まで揺さぶるという犠牲を強いたにせよ、やはり、人数の優勢さによっておし潰されることになったであろう。しかし、日本の場合はこのような数の優勢さは役に立たない。ヨーロッパの一強国とアジアの一強国との間では、もし、ほぼ同数の軍隊を持たないかぎり、前者は後者を安心して攻撃することが出来ないとなると、状況は非常に変わってくる。サー・チャールズ・ネーピア【注4】はわずか一握りの軍隊で、ムードキー【注5】の地で、最も勇敢なアジア人の大部隊を敗走させたが、彼は、日本が朝鮮に駐留させていると思われる軍隊のような兵力に遭遇したなら、粉砕されてしまったであろう。優秀な陸軍を作るのと同じ知能は、優秀な海軍をも作ることを忘れてはならない。日本には優秀な船員と適切に配置された港がある。その国内資源は相当なものである。その人口は四千万を越える。その傲慢と国民的虚栄心は大きい。指導的知能と行動意志を与えられたなら、ここには、非常な侵略的、好戦的、未開人強国たるすべての要素が備わっているのである」。
 “未開人(バーバリアン)”【注6】という語は、現代社会学的な観念では特別な意味は全然ないが、『レビュー』誌の筆者が使ったような古典的な観念では野蛮と文明の間に位置する何物かを意味していて、そのきわどい使い方それ自身が一種の未開(バーバリズム)であるとして、我々を驚かすものである。日本がなぜ、未開人強国と定義されなければならないかを、詳しく説明してくれと求められたら、この批評者は多分、その無知を曝すハメにおちいるであろう。
 外国には、キリスト教徒以外の民族は必然的にすべて未開(バーバラス)であると想像する、情報に暗い広範な層の人々がいる。しかし、『サタデー・レビュー』誌によってなされた批判のいかなるものにも、その底にこのような思い込みがあると考えることはとても出来ない。  日本の文明状況は、海外では主として専門家によって研究されてきており、また平均的な英国あるいはアメリカの編集者は、この話題についてはあまりにも無知であり、これを取り扱おうと企てるのを正しいと言うわけにはいかない、というのが現実である。日本の問題を真剣に研究してきた人々は、日本を訪問したことがなくとも、『サタデー・レビュー』誌とは全く違った意見である。
 開国以前の日本の社会は、例えばハーバート・スペンサー【注7】によれば、同型のなかではその極限にまで進化した『完成された構造』と表現されている。その型は戦闘的、封建的であった。しかし、日本の封建的な状態と、同じ社会学的時代区分の間に於ける西洋のたいていの国々のそれとを比較した場合、西洋の方が優っていたとは言えないであろう。
 『サタデー・レビュー』誌の論説氏は、旧時代の日本という主題に関しては、明らかにごく僅かな文献的知識しか持っていない。そして新しい日本の力が、この論説氏には深刻な警告を鳴らす原因と映っているようである。
 論説氏は問いかける。清国が“同じような発奮興起”に駆り立てられたら、と想像しても見よと。その結果は世界全体にとってとうてい測り知れないものとなろう。論説氏は、かくして、“未開人”という語の使用が正当であると言い続けていくのである。
 「将来を評価するにあたってもまた、軍事的な効率性と文明とを混同するという、よくあるような間違いはしないようにすることだ。トルコ人は、トルコ新軍【注8】が世界最良の軍人であったとき、未開人であった。日本や清国は、その国柄をほんの少しも変えることなく、つまり残酷で未開であることを止めることなく、進撃することのできる軍隊や、作戦行動のできる艦隊を作ることが可能であろう。もし、日本がただ文明の面で進歩したいと望んだだけならば、日本は絶対に現在の朝鮮での冒険的行動には突入することはなかったであろう。日本は、この種類のことは無駄遣いであり不必要だとして、何事も避けたはずである。現実には、日本は、いっそう効果的に未開人らしく行動できるようにと、聡明な方法で文明の破壊的な兵器を操作する能力を手に入れるのに懸命な努力を続けてきたのである。そしてこのことは、日本と取引をしている人々が忘れないでいて欲しい一つの真実である」。
 たった一つの事実で、いい加減な表現を補強しようと試みるこの態度は、真面目な論評者にはおよそ相応しくないことである。
 オスマントルコ人【注9】がその長い歴史の中で、徳川時代の日本人ほどの高い文明を持ったことは、かつてたったの一時代もなかったということはさておき、科学的発明がなされた近代以前には、単なる知的文明は、国家の攻撃力にも防御力にも、大いなる助けにはならなかったに違いないと言ってもよいであろう。
 火薬の使用が一般的になる以前(コンスタンチノープルの包囲戦で使われたようなぶざまな大砲は別として)は、文明国と非文明国間の兵器の格差は、ごく些細なものであった。そして、肉体的な活発さと体力では、普通、文明度の低い側が優位に立っていた。
 しかしほんとうに未開な国が、真に恐るべき国となれるほどに、近代戦争の戦術をマスターするなどは、まずできそうにない。
 今日、軍隊一師団、あるいは一艦隊の司令官には、高い知能だけでなく、高々度様式の精神修行が必要とされるのである。
 そしていまや全くの無知であることは、普通の一兵卒となることさえ出来なくしているのである。一国の男性人口のうち、組織的に毎年、きまった人数を義務的に教練を受けさせるという方法で、近代的軍隊を創設できるというこの事実だけでも、非常に高度の文明を要求しているのである。
 『サタデー・レビュー』誌の意見とは逆に、バジョット氏【注10】が、その『物理学と政治学』の中で書いている、この主題に関する意見は参照すべきであろう。
 文明の進歩の最も分かり易い証拠の一つは、人類の軍事力の絶えざる増大であり、「そして、民族の中の最高度に文明化した集団へ向かって、この軍事力がいっそう益々、完全な分別集中をしてゆくこと」(フィスク)【注11】である。
 バジョット氏自身の言葉を使えば、文明の増大とともに、絶えず蓄積して行く各国の知的ならびに工業的才能のうちの、増大して止まない部分が「軍事力の増加へ投資されていく」ことを我々は知るのである。
 日本が七万人の軍隊を動員できることを知るのが『レビュー』誌を驚かせたと言うのなら、日本がいとも造作なく二十七万人を動員できることを知ったら、この尊敬すべき新聞は、さらにいかばかり驚かされることだろう。我々は多分、次の文の中から、そのことを想像できる。
 「また、日本は強くなってきているので、日本がなそうとする気紛れがどんなものであれ、また、日本がその国益のためどんな防衛策を採用するにしろ、大戦争を覚悟しないことには、それに腹を立てることはできない。我々はヨーロッパの商人たちが神経質になっていると告げられても、驚きはしない。恐るべき存在になった日本は、不平等条約を押しつけられたら屈すると期待されるような、そういうクラスの国々からは抜け出すであろう」。
 しかし、『レビュー』誌の懸念の主な原因は日英新条約である。同誌は次のように言う。
 「日本居住の英国人住民を日本の裁判所のなすがままに置いておくことはたいへん危険なことである。彼らは、地元日本人との日々の交際を通して、進歩したと言ってもまだ、日本人は最も残酷な性格のアジア人からヨーロッパ人へとは変わってはいないことを知っているし、また彼らは、外国人への憎悪が再発していることを目撃している証人たちである。彼らはその体験から、法典とは、ただの多くの言葉を書いただけ、印刷しただけのものであるという真理を実感することが出来るようになっているのである・・・未開人の手の中では、最善の法典もなんの値打もないのだ」。
 日本の英国人居住者たちは、日本人が「最も残酷な性格のアジア人」であることを知った、と記述するなどはまさに驚くべき記事である。その歴史を通じて、いかなる時代にも、日本人をそのように分類し得ようはずはなかった。ただ、日本人が「ヨーロッパ人へと変えられる」のを期待するのはまず不可能ではあったにせよ。
 日本を知る者にとっては、このような判断はただ悪口としか思えない。しかし、ここには日本が考えるべき一つの問題点がある。
 外国人で真に日本を知っている人の数は大きくはない。そして、日本に対する非常に多くの非好意的な意見がある。避け得ざるものも避け得るものも、あらゆる戦争の残虐行為が、『レビュー』誌の説いているあの敵意の感情を強める結果となるであろう。
 英国やフランスの兵士が、ごく最近でも、戦争のさい、日本軍に向けられたのと同じような挑発を受けて、醜い、それも非常に醜悪な行為を犯したというのは事実である。
 しかし、日本軍の報復行為にはなんの言い訳も受け入れられないであろう。日本は相変わらず、東洋の一強国として、疑惑の眼で見守られているのである。婦人、子供や非戦闘員に対する不必要な残虐行為については、その行為を犯した者たちの行動に責任を負う将校たちを厳格に罰するべきである。
 最も輝かしい栄誉もそのような行為によって曇らされてしまう。そしてこの国の道徳的評価も、この戦争で全く危険となるのである。つまるところ、最高の勇気とどんな形にしろ残虐行為との間には道義的な対立があり、そして、挑発を受けての自己抑制は、戦場での勇気よりもいっそう困難であるがゆえに、いっそう英雄的なのである。
【注1】 シーク教徒軍。Sikhs
シーク教はインドのパンジャブ地方を中心に十五世紀末に興隆した宗教で、のちには強力な軍隊組織に発展した。一八四五年の第一次、一八四九年の第二次シーク戦争を経て、英国(東インド会社)はシーク教徒軍を打破し、一八五〇年、全パンジャブ地方を英支配下に合併した。
【注2】 東インド会社。East India Company
十七世紀に西欧諸国が東洋貿易のために設立した特許会社。英国は一六〇〇年、オランダは一六〇二年、フランスは一六〇四年に設立。英国の東インド会社は一八七四年に解散するまで、インドを支配していた。
【注3】 我が国。英国を指す。
【注4】 サー・チャールズ・ネーピア。Sir Charles James Napier
一七八二~一八五三。英国の将軍。インドのシンドSind地方(現パキスタン南部、インダス川下流の地域)を征服して英領とした(一八四二~四七年)。
【注5】 ムードキー。Moodkee 現在の地名はMudki?
第一次シーク戦争(一八四五~四六)での激戦地で、パンジャブ地方、サトレジ川上流沿いにある。サー・チャールズ・ネーピアが二千八百人の小数兵力で三万人の大軍を敗走させ、英陸軍史に残る会戦となったのは、一八四三年二月、バルチスタン軍とシンド地方のMianiで戦ったさいの勝利であった。
〔Encyclopaedia Britanica(1961)による〕
【注6】 未開人(バーバリアン)。
この論説では「未開」という語に関して「未開人」(barbarian)「未開な」(barbarous)「未開」(barbarism)などの単語を使っている。この論説を受けて、ハーン論説集『北星堂』版の十二月十一日付けの第四十五編「未開と文明」Barbarism And Civilizationは、この論説で使われている「未開」について説明しているが、それによると、「未開」(barbarism)とは、「野蛮」(savagery)と「文明」(civilization)の中間に位置するものであるとするとともに、日本がすでに「文明」国であり、「未開」とは呼べないことを再び論じている。
【注7】 ハーバート・スペンサー。Herbert Spencer
一八九四年十月二十六日〔ジェームズ・アンソニー・フルード〕【注15】参照。
ハーンの言う「日本を訪問したことのない」評論家の一人であろう。
【注8】 トルコ新軍。Janissaries
トルコ語で「新軍」という意味の「イェンチェリ」と呼ばれたオスマン帝国の歩兵親衛軍団。一八二六年に廃止となった。
【注9】 オスマントルコ人。Ottomans
十三世紀から一九二二年まで続いたOaman王朝のオスマン帝国――旧トルコ帝国時代のトルコ人。
【注10】 バジョット氏。Walter Bagehot
一八二六~七七。英国の経済学者、政治評論家。The Economistの編集者。
【注11】 フィスク。John Fiske
一八四二~一九〇一。米国の哲学者・歴史学者で進化論者。
〔「・・・かつて哲学教授としてジョン・フィスクを招聘しようという真剣な提案がありましたが、進化論は天皇の大権を攻撃するということがわかり、その計画は中止されました」一八九四年二月一六日付け、ハーンからチェンバレン宛の手紙。ラフカディオ・ハーン著作集(恒文社刊)第十五巻・書簡〕
【注0】 この論説の最後の部分が『時事新報』に長文にわたって引用されている。(句読点などのほか原文どおり全文)
『時事新報』明治二十七年十二月九日付け四面。
〔○神戸クロニクルの忠告 旅順没落の節、我が軍の中に支那人を虐殺したる者ありとの説に付き、神戸クロニクル新聞の言う所、左の如し。
(前略)今日、外国人にて日本の事情を真に知る者は甚だ少なく、不幸にも彼等の多数は日本を以て尚ほ未開の国となせり。故に、戦争中、日本軍のなせるあらゆる残酷なる所行は、その実際に避け得べきものなると、避け得べからざるものなるとを問はず、等しく共に日本に対する外国人の敵意を増進するの原因たり。
 蓋し英国及び仏国の軍隊と雖も、近来に至るまで戦争中、復讎の目的を以て甚だしき残酷の所行を働きたることあるは事実なり。然るに世間の与論は、英仏両国に対してはよく情実を酌量して其の罪を恕するの傾あれども、日本人が同様の所行を働くに於いては、聊(いささ)かも之を恕することなかるべし。何となれば欧米人の眼より見れば、日本は尚ほ依然たる東洋国にして野蛮残酷の嫌疑を免かれざればなり。
 されば今、日本のためを謀れば、凡て婦女子若しくは不戦闘者に対して必要なく残酷の所行をなしたる者あるときは、暴行者の挙動に付き、責任を負ふ所の将校を厳重に処罰するこそ最上の良策なるべし。赫赫たる軍事上の名誉も、かかる所行に由りてその光輝を失ふの恐れなきに非ず。何となれば、最も大なる勇気と残酷なる所行とは相両立せざるものなればなり。又、恕気胸に満ちたるときに能く自から己を制することは、戦場に於いて勇気を現はすことよりも困難なればなり云々〕。
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「サタデー・レビュー」誌の懸念01

「サタデー・レビュー」誌の懸念02

「サタデー・レビュー」誌の懸念03
「サタデー・レビュー」誌の懸念04
「サタデー・レビュー」誌の懸念05

俥屋の問題

俥屋の問題

一般の旅客をば、その旅客が時折それに案内を願ひそれに助力を乞ひ或はそれに低廉な乗り物を頼まなければならぬ人達に瞞着されないやう、どう保護すべきか、これは極めて古い問題であつて、そして西洋のどの国でも未だ完全に解決されてゐないものである。例へば、倫敦でのまた巴里での辻馬(キヤツブ)車に関する規定は事件を非常に改善したかも知れない。しかしそれは決して外来人に、種々様々な瞞着にかからぬ保証を与へては居らぬ。法定賃金は一哩につきいくらといふことを知つて居ることは、その都市の地形を知つて居る者にだけ価値のあり得るもので、稍々正確に近く距離を見積もることが出来る。ところで一時間いくらといふ直段の制定は、自分は正しい方向指して乗つて居るのかどうか判からない人達には、殆ど何の利益にもなり得ない。
— 1894年11月11日 土曜日 神戸 —

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— 1894年11月11日 土曜日 神戸 —

 一般の旅客をば、その旅客が時折それに案内を願ひそれに助力を乞ひ或はそれに低廉な乗り物を頼まなければならぬ人達に瞞着されないやう、どう保護すべきか、これは極めて古い問題であつて、そして西洋のどの国でも未だ完全に解決されてゐないものである。例へば、倫敦でのまた巴里での辻馬(キヤツブ)車に関する規定は事件を非常に改善したかも知れない。しかしそれは決して外来人に、種々様々な瞞着にかからぬ保証を与へては居らぬ。法定賃金は一哩につきいくらといふことを知つて居ることは、その都市の地形を知つて居る者にだけ価値のあり得るもので、稍々正確に近く距離を見積もることが出来る。ところで一時間いくらといふ直段の制定は、自分は正しい方向指して乗つて居るのかどうか判からない人達には、殆ど何の利益にもなり得ない。外来人は今なほ、或る部類の図々しい公僕の為すが侭になつて居る、そして恐らくはこれから千年間も為すが侭になるであらう。そして旅客の利益の為めにどんなに巧妙に法律を作つても、そんな法律を遁れるやうに、同じ巧妙な手段がいつも工夫せられるであらう。実際、我々の文明が複雑を増し発達を来たすに連れて、今述べて居る或る種の悪行が、正比例より遥か多くの割合で増加しつつあるやうに思はれる。ホテルやレストランでの心付け制度の発展は、あり得る幾多の実例の一つに過ぎぬ。巴里の給仕人は、啻に給金無しで喜んで勤めようとするだけではなく、その地位に対して金を払はうとさへする、といふことを耳にすれば、個人の努力も団体の努力もそれを阻止することが出来ないやうに思はれる一悪弊の恐るべき傾向が、少しは判かるのである。しかし一市の住民全体がそれを堪へ得ると思ふ悪弊は、道徳的に言つて、外来人が――彼等がそれに就いて不平を言ふことが法律違背のものであり、理論的には処罰すべきものであるといふ事実に拘らず――矯正されないでゐて、それを忍ばなければならないという悪弊ほどにさう大して疾呼すべき緊急事ではない。
 俥屋問題が今、神戸にとつて重大なものとなつて居る。これは長い間他の処で――殊に東京で、横浜で、また長崎で――不快な問題であつた。恐らくはその最も醜い事相は今なほ新橋停車場で見られる。あそこでは、日本人通訳或は古くからの居住者が伴をしてゐない外国の新参者は、殆ど屹度瞞着される。がしかし新橋ですら、近来神戸で犯されて居るやうなあんな恥づべき行為は、多分今まで無かつたことである。外来人はただだまされるだけである――侮辱されたり或はその(男の又は女の)蝙蝠傘で打たれたりしはしない。神戸の俥屋は――その新しい傾向はどう適当に矯正すべきかはまだ解決されてはゐないけれども――或る特殊な厳酷な訓戒を要することは明白である。日本の警官があらゆる場合に満足に俥屋を処置し得ることは、これは頗る疑はしい事に思はれる。俥屋は、告訴するほどに長く居留地に居止まつては居れない旅客のうちからして、その被害者をずるくも選ぶし、法律を遁れる数多くの狡猾な策略を有つて居るからである。

 例へば、神戸へ上陸したばかりの外国人は、すぐと自分が択んだ俥屋の世話になる。その車に乗つて恐らくはクラブ・ホテルへ連れて行けとか、オリエンタルへとか、命ずる。俥屋は了解し、うなづき、全速力で走り出す――が、クラブ・ホテルへではなく、倶楽部へである(序にいふが、この策略は横浜でも規則正しく実行されて居る)違つて居ると言はれると、俥屋は微笑し、言ひ訳をし、走つてその乗客を兵庫ホテルへ連れ込む。その時分までに旅客は腹が立つて来て居る、がその上に不安になつて来て居る、――で、其処を通つて居る或る居住者に、俥屋へ日本語で話して呉れと頼む。かうやるといふと、その騙された人はもう難儀なことは出来すまいと予想する。ところが或る丘の上の或るホテルへ連れられたり、或は行きたくもない或る他のずつと遠方の場所へ連れられたりする。これは全く時間を費やさうが為めにするのである。到頭本当の行き先に着くと、俥屋は約定の金額の四倍或は五倍を要求する、――同情さるべき者は、乗せたその客ではなくて、自分であると思はれるやうに力める、――そしてその場合の困難に応じてその計略を変へる。独りぽつちの外来人でも日中は何の労無しに親切な助力を見出し得るからして、これは日中には屡々出来しはすまい。しかし、夜遅く、その町が眠つて居る時は、実際その疾走者の為すが侭になるので、夜が明けるまで色んな処へ町中引張り廻はされるかも知れぬ。故意の不正手段だと責められると、その俥屋はその外来人の言葉が判からなかつたと返事する。そしてこの主張は殆ど難攻不落である。

 時には客は、色々と曲つたり捩ぢれたりして、自分が行かうと思ふ場処のまはりを八回も十回も連れ廻はされる――これは古くから亜米利加の貸馬者馭者(ハツクマン)や英吉利の辻馬車馭者(キヤツブマン)も亦行うて居る奸策である。これは、固よりのこと、過大の賃金を満たすところ尤もだと思はせる為めにするので、こんな場合のその詐偽者はその金の為めに働くのだといへる。が、他の場合には、その外国人の言葉が判からぬといふ口実の方が都合が宜い――といふのは幾度も失望を重ねると、しまひにその被害者に何処にでも宿を求めようといふ気にならせるかも知れず――そしてその為め、連れて来る客毎に口銭を俥屋に払ふ何処かの宿屋へ連れて行き得るからである。或る宿屋はそんな取定めを私かに多勢の俥屋と遣つて居る。そして或る汽船の其の土地生まれの傭人は、利益を山分けにする了解を以てして、特別な俥屋へ船客をいつも決まつて渡す。『おまへこの外国人に二十五銭払はせるのだぞ』と、こなひだ或る大阪汽船の船室附きボーイが、この文の筆者の耳にきこえるところで、或る俥屋に向つて言つた。至当の賃金は五銭よりも少いもので、その距離は約一丁であつた。だがその外国人は、屹度、二十五銭払ふのは尤もだと思はせられたことであらう。

 どんな風に俥屋がみんな協同して仕事するか、――どんな風に旅客は、長距離の約定をした際、幾度も一人の曳き子から他の曳き子へと(三十哩の距離に十度も)売られるか、そしてその旅客は、その旅路の端(はて)に達するまでは一銭も払つてはならぬと警められてゐても、病気だと佯つたり或は辛抱しきれない程わざと手間取つたりして、どんな風に騙されるか――どんな風に俥屋共は自分等だけの秘密な暗号を造つて居り、日本語を非常に完全に知つてゐても判からぬ或る土語を発明して居るか――これは何れも珍らしい興味深い題目で、少しく研究するに、殊に兵庫市会が次の集会に於て研究するに、十分値して居るものである。が、我々がそれへ到達したいと欲する問題はかうである、即ち、外国人が騙されるやうに騙されることを、日本人自らはどうして避けて居るのか。客と俥曳きとの言葉が同じだといふただそれだけの事実はこの事件を説明しはせぬであらう。此処に我々は恐らくは日本人からして学ぶべき或る物があるであらう。日本人旅客は、日本内地の特殊な宿屋制度の為めに、或る種の詭計には殆ど全くかからぬやうにされて居るのである。初めての土地へ、其処の宿屋の名前と宿賃とを予め知つてゐないで、行くことは稀である、――そして大抵は、どの宿屋へ行くかをずつと前に決める。その町へ着くと、客引きに出してある、昼は徽章を附けて居り、夜はそれに宿屋の名が書いてある提灯を提げて居る、いろんな宿屋の召使に会ふ。鉄道沿線では、そんな客引きは、時にその客を迎へに、客の目的地より二十哩も前の処までも出て来る。約定をする、さすればその客はそれからは何の心配もしない。その泊まる宿屋がその乗る俥屋を見つけて呉れ、――その荷物は全く引受けて呉れ、――頼めば買ひ物をして呉れ、案内者が欲しければ案内者を供給して呉れ、――其処を去る前に切符を買つてさへ呉れ、――汽船或は鉄道停車場へその宿屋の船或は俥で運んで呉れる。それだけではない。その宿屋の召使が汽車なり船なりへ来て客の安楽の面倒を見て呉れる。で、客は、その勘定書の支払ひをするだけで、初めからしまひまで、どんな事にも気をつかふ労をはぶかれる。固よりその客は或る程度迄は、実地その宿屋の権力内に身を置く。しかし、土地の宿屋は、その繁栄は、出来る限りのいろんな方法で客の心を楽しからしめる能力如何に、殆ど頼つて居るからして、その機会を妄用することは実際殆ど全く無いのである。競争が如何にも激しいから、過大の請求をするといふ――尤も、その過大な請求を受けるものが、その者から儲けることが或はその者を恐がることが、もう何も無いといふ、一外国人であり、ただの『渡り鳥』である場合は除いて――そんなたまたまの贅沢を遣ることの出来る宿屋は尠いのである。或は言ふものがあらう、亜米利加や他の処で、或るホテルは殆どそれと同じやうにして、その客の世話をして居ると。如何にも或る外国の遣り方は日本の宿屋の遣り方と類似はして居る、が唯だ頗る部分的な類似である。世界中何処でも、宿屋の客で、日本でのやう完全に世話され保護される客は一人もありはせぬ。その遣り方の委細のうちで、我々西洋のホテル経営者の研究に値するものが少からずある。

 これに関聨してそんな委細に就いて語るは我々の目的ではない。我々はただ、この一般的事実に注意を呼んで、神戸へ来る外人旅客が、外国ホテルの方で何か努力をして、狡猾な人力曳きや他のぺてん師の手にかからぬやう大丈夫譲られることが出来ぬものか、その問題を出さうと思ふだけである。今の事態は確にそんな努力を要するやうに思はれる。神戸、横浜、或は長崎へ上陸するどんな欧羅巴人或は亜米利加人も、それが真夜中であらうが、外国汽船で来ようが日本汽船で来ようが或は他の道をとつて来ようが、日本語を少しも知らずに居て、何処へ行くべきか何を為すべきかを直ぐと知ることが出来なければならぬ訳である。が現在の状態では、外来人は、自分一人きりだといふと、何事をも知ることも学ぶことも出来はせぬ。全くぺてん師の勝手になる。確か我々のホテルは、信用の置ける英語の話せる召使を波戸場や鉄道停車場へ送つて――荷物やその荷物の運搬についての一切の心配を客にさせないやうにし――詐偽のあらゆる企てにかからぬやう客を保護する――ことを自分共の利益だと思つて宜からう。

ハーン神戸での手紙

手紙原文の英文は、
「The Writings of Lafcadio Hearn in Sixteen Volumes, Houghton Mifflin Company, 1922」「The Life and Letters of Lafcadio Hearn by Elizabeth Bisland. Houghton Mifflin Company」から採り、和訳は監修者による。ハーンの年譜は主として恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集・全15巻。生誕130年記念出版」に拠っている。「注」とあるのは監修者による補足・説明である。
— 1894年12月7日 金曜日 神戸 —

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— 1894年12月7日 金曜日 神戸 —

手紙原文の英文は、
「The Writings of Lafcadio Hearn in Sixteen Volumes, Houghton Mifflin Company, 1922」「The Life and Letters of Lafcadio Hearn by Elizabeth Bisland. Houghton Mifflin Company」から採り、和訳は監修者による。ハーンの年譜は主として恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集・全15巻。生誕130年記念出版」に拠っている。「注」とあるのは監修者による補足・説明である。
1)ハーンは神戸は好きではなかった?
「熊本に慊(あきた)らないヘルンに神戸の気に入るわけはなかった。ヘルンに取っては神戸は舊日本の面影の最も見えない醜い欧州文明の模倣ばかりの新開地であった。・・・」(田部隆次著「小泉八雲 九神戸」=第一書房・小泉八雲全集四)
※明治27(1894)年10月10日前後 「神戸クロニクル」紙に招かれたハーン(44)とセツ(26)、長男一雄(11ヶ月)の親子三人を中心とする一家八人が神戸着、ホテルに宿泊。間もなく、神戸市下山手通り四丁目七番地に転居。
明治27(1894)年10月23日付(to Basil Hall Chamberlain。チェンバレン宛て)。
2)最も快適な職場!!
You asked for my other address, which I enclose in Japanese — but I don’t think it will be good for more than six months, as I hope to build a house here this winter…My present home is a nondescript building, foreign upstairs and indigenous downstairs — barring the benjo; — the upstairs rooms are fixed for stoves and are warm, and I have indulged in a debauchery of cheap carpets, mattings, and furniture.
My employer and his wife were very good to us; — Mrs. H. has been petted and helped and invited about, and everything was got for us at a bargain.
I think this a very pleasant position — the most pleasant I ever had in my life; for I am treated not as an employee, but as a directing spirit in the office, and as a brother outside of it.
お尋ねの住所名は日本語で書いたものを同封しましたが、半年しか役立たないでしょう、この冬には新しい家を建てたいと思っていますから。今の家は、二階が洋風で、一階が和風、トイレは外。二階の部屋にはストーヴを据え付けて暖かです。安物の絨毯、敷物、家具でちょっと贅沢しています。
私の雇用主夫婦は私どもにたいへんよくしてくれています。ハーン夫人は大変可愛がられ、助けられ、方々に招待されています。何でも安く手に入れられます。ここはたいへん快適な職場――これまでの我が人生の中で最も快適なもの――と、私は思っています。私は一社員として扱われるのではなく、新聞社内では先輩として、社外では兄弟のようにもてなされています。
明治27(1894)年12月付(to Ellwood Hendrick。ヘンドリック宛て )。
3)一日一作の論説記事-「神戸クロニクル社」
I am writing one article a day for one hundred yen a month. Exchange is so low now that the one hundred represents something less than fifty in American money. And my eyes, or eye, giving out. Curious! — cold seriously affects my remnant of sight. If I had a few thousand I should go to a hot climate during the winter months. Heat gives me good vision. Even a Japanese hot bath temporarily restores clearness of sight…
私は一カ月百円で、一日一作の論説記事を書いています。交換レートが低く、百円は五十ドル弱にしかなりません。目――両眼ではなく一つだけの目――が、ダメになりそうです。なんとも不思議なことです。寒さが、残っている私の視力にひどくひびくのです。もし二三千円の金があったら、冬の数カ月間、暖かい地方へ行くのですが。温暖なのが目にいいのです。日本の湯風呂につかるのでも一時的には視力をすっきりと回復してくれますから・・・
明治28(1895)年1月付(西田千太郎宛て)
4)妻・セツのために神戸に家を建てよう。
I am thinking of building Setsu a house, either in Kob or Kyoto. When I say Kob, I mean Hyogo, really; for I cannot well afford to buy land at forty to seventy dollars per tsubo in the back streets of Kob. In Hyogo, I can do better. Setsu and I both agree that Kob is warmer than Kyoto; but, except for the winter months, I should rather live in Kyoto than in any part of Japan. Tokyo is the most horrible place in Japan, and I want to live in it just as short a time as possible. …
私はセツのために、神戸か京都に、家を建ててやろうと考えています。神戸とは実際は兵庫のことです。というのも、神戸の裏通りでも坪四十円から七十円もする土地は買う余裕がありません。兵庫地区なら予算的にやれるのです。セツも私も神戸のほうが京都より暖かいということで一致しています。しかし、冬を除けば私は日本中のどこよりも京都に住みたいのです。東京は日本中で一番恐ろしいところで、できるだけ短い期間しか住もうとは思わない土地です。
明治28(1895)年1月付(to Ellwood Hendrick。ヘンドリック宛て)
5)不愉快な神戸暮らし・我が子の将来
Kobe is a nice little place. The effect on me is not pleasant, however. I have become too accustomed to the interior. The sight of foreign women — the sound of their voices — jars upon me harshly after long living among purely natural women with soundless steps and softer speech. (I fear the foreign women here, too, are nearly all of the savagely bourgeoise style — affected English and affected American ways prevail.) Carpets, — dirty shoes, — absurd fashions, — wickedly expensive living, — airs, — vanities, — gossip: how much sweeter the Japanese life on the soft mats, — with its ever dearer courtesy and pretty, pure simplicity. Yet my boy can never be a Japanese. Perhaps, if he grows old, there will some day come back to him memories of his mother’s dainty little world, — the hibachi, — the toko, — the garden, — the lights of the household shrine, — the voices and hands that shaped his thought and guided every little tottering step. Then he will feel very, very lonesome, — and be sorry he did not follow after those who loved him into some shadowy resting-place where the Buddhas still smile under their moss…
神戸はすてきな小都市です。しかし、私にはあまり居心地がよくないのです。私は日本内地の事情に慣じみすぎました。足音も立てずに歩き、優しい声で話す、自然そのままの女性たちの中で、これまで永いあいだ住んできた私にとっては、外国婦人を見たり、その声を聞いたりするのは、ひどくいらいらさせられるのです。(私には、当地の外国婦人はみながみな野卑なブルジョア気取りの人ばかりではないかと気になります――気取ったイギリス風や気取ったアメリカ風でいっぱいです)。絨毯、汚れた靴、馬鹿げたファッション、みだらな贅沢暮らし、尊大な態度、虚栄心、おしゃべり・・・一方、つねに優しい礼節と、愛らしくも純な質素さを保ちながらの、柔らかい畳の上での日本人の暮らしは、どれほどか快いものでありましょう。しかし、我が子は決して日本人にはなれないでしょう。が、この子が大きくなったら、いつの日か、母親の甘美な小世界の記憶がよみがえってくるでしょう。ヒバチ(火鉢)、トコ(床の間)、坪庭、神棚のお灯し、そして、この子の思想を形作り、この子の小さなよちよち歩きを導いてくれた人々の声と手・・・の記憶が。そのとき、この子はとてもとても一人ぼっちと感じるでしょう。そしてこの子は、自分を可愛がってくれた人々の後を追って、どこかあの暗い休息の場所――そこには仏たちが苔の下でいつでも微笑んでいる――へ行かなかったことを悲しむことでしょう。
明治28(1895)年付(to Basil Hall Chamberlain。チェンバレン宛て)
6)「異人!唐人!」に悲嘆
P.S. I have been out for a walk. As usual, the little boys cried “Ijin,” “Tojin,” — and, although I don’t go out alone, the changed feeling of even the adult population toward a foreigner wandering through their streets was strongly visible.
A sadness, such as I never felt before in Japan, came over to me. Perhaps your pencilled comments on the decrease of the filial piety, and the erroneous impressions of national character in “Glimpses,” had something to do with it. I felt, as never before, how utterly dead Old Japan is, and how ugly New Japan is becoming. I thought how useless to write about things which have ceased to exist. Only on reaching a little shrine, filled with popular ex-voto, — innocent foolish things, — it seemed to me something of the old heart was beating still, — but far away from me, and out of reach. And I thought I would like to be in the old Buddhist cemetery at Gesshoji, which is in Matsue, in the Land of Izumo, — the dead are so much better off than the living, and were so much greater.
追伸。散歩に行ってきたところです。いつものように小さい男の子たちが「異人」とか「唐人」とか、罵りました。――私は一人で出かけることはないのですが、神戸の街をぶらつく外国人に向けられる感情の変化が、おとなたちにさえも、はっきり表われていました。
日本ではかつて感じたことのなかった一つの悲哀が私を襲いました。おそらく、孝行心が衰えていることについて、また、私の著作『瞥見記』(注1)の中に出てくる、国民性への誤った印象ということについて、あなたが鉛筆書きで短評してくださったことが、上記のこととなんらかのかかわりがありました。こんなことは以前には思いもしなかったことですが、私は、古き日本がなんと完全に死滅してしまったことか、また、新しい日本がいかに醜くくなりつつあるかを実感しました。存在しなくなった事について書き立てるのは、なんともムダなことだと思いました。庶民のお供え物――無邪気でばかげた物です――でいっぱいの小さな神社に近づいて見たときに初めて、私には、古い心の中の何かが今なお息づいているように思われました。――しかしそれは、私からは遠く隔たり、手の届かないものとなりました。私は、出雲の国、松江にある月照寺の古い仏教墓地の中で眠りたいものと思いました。――死者は生者に比べてはるかにしあわせです。そして、はるかにずっと偉大でした。
[注1・「Glimpses of Unfamiliar Japan」1894《明治27年》.9.29.出版。日本訳名『日本瞥見記』または『知られぬ日本の面影』など]
明治28(1895)年7月 神戸市山手通六丁目二六番地に転居。
明治28(1895)年8月31日。(to Ellwood Hendrick。ヘンドリック宛て)
7)帰化の許可を待つ
I am waiting every day for the sanction of the minister to change my name; and I think it will come soon. This will make me Koizumi Yakumo, or, — arranging the personal and family names in English order, — “Y. Koizumi.” “Eight clouds” is the meaning of “Yakumo,” and is the first part of the most ancient poem extant in the Japanese language. (You will find the whole story in “Glimpses” — article “Yaegaki.”) Well, “Yakumo”is a poetical alternative for Izumo, my beloved province, “the Place of the Issuing of Clouds.” You will understand how the name was chosen.
私は毎日のように、私の名前変更に関する大臣の許可を待っています。もうじき来ると思います。許可になれば私は「コイズミ・ヤクモ(小泉八雲)」に変わります。英語ふうに名前・苗字の順序に並べると「Y・コイズミ」です。「八つの雲」というのが「ヤクモ」の意味で、日本語で現存する最も古い和歌の最初の語句です。(『日本瞥見記』の「ヤエガキ」の項《注2》で、この話全部をお読みください)。そうです、「ヤクモ」は「イズモ」の詩的な言い換え語で、出雲(イズモ)は、我が最愛の土地、「雲湧き出づる国」なのです。私の名が選ばれたわけを、おわかりいただけるでしょう。
[注2・「ヤエガキ」=「Yaegaki-Jinja・八重垣神社」。最古の和歌=素戔鳴尊(すさのおのみこと)の「八雲立つ出雲八重垣つまごみに八重垣つくるその八重垣を」。現在では「八雲立つ」は「出雲」にかかる枕詞となっている]
明治28(1895)年12月中旬 神戸市中山手通り七丁目番外十六に移転。
明治29(1896)年1月15日 46歳、入夫許可され「小泉八雲」と改名。
明治29(1896)年4月 (西田千太郎宛て)
8)旅行・切腹した土佐藩士の墓参り。
I have been away. I have been at Ise, Futami, and nearly a week in Osaka….Osaka delighted me beyond words….I went to Sakai, of course, — and bought a sword, and saw the grave of the eleven samurai of Tosa who had to commit seppuku for killing some foreigners, — and told them I wished they could come back again to kill a few more who are writing extraordinary lies about Japan at this present moment.
旅行をして来ました。伊勢、二見ケ浦へ行き、大阪に一週間ほど滞在しました。・・・大阪はこの上なく楽しませてくれました。・・・もちろん、堺へ行きました。刀を一ふり買いました。そして、外国人数人を殺したため切腹させられた土佐藩十一人のサムライたちの墓(注3)を見ました。そして、彼らに言っておきました――もう一度戻って来て、日本について今、とんでもない嘘を書いている外国人たちを、もう二三人殺してもらえるものならなあ、と。
[注3。明治1年・1868年2月15日、大阪堺港に入港のフランス軍艦の水兵11名が、警備の土佐藩士に殺され、報復として藩士11名が切腹させられた。墓は切腹の場所・堺市妙国寺の宝珠院にある]
明治29(1896)年4月 (西田千太郎宛て)
9)小泉八雲と呼ばれる
I would rather live a month in Osaka than ten years free of rent in Tokyo. Speaking of Tokyo reminds me to tell you that my engagement with the university is not yet assured.
P.S. It made me feel queer to be addressed by Professor Toyama as “Mr. Yakumo Koizumi”!
東京に家賃無料で十年間住むよりは、むしろ大阪で一月暮らしたいものです。東京のことで思い出しましたが、私の大学雇用(注4)の話はまだ確定していないことをお伝えしておきます。
追伸 外山教授から「小泉八雲様」と宛名を書かれて私は奇妙な感じがしました。
[注4・このころ、外山正一東京帝国大学文科大学長から東京大学の英文学教師へ招聘の話が続いていた]
明治29(1896)年9月2日  ハーンの東京帝国大学文科大学講師の辞令発布。
10)フロックコートを買って東京へ出立
「神戸から東京に参ります時に、東京には三年より我慢むつかしいと私に申しました。ヘルンはもともと東京は好みませんで、地獄のやうなところだと申してゐました。・・・
神戸から東京に参りましたのは、(明治)二十九年の八月二十七日でした。大学に官舎があるとか云ふ事でしたが、なるべく学校から遠く離れた町はづれがよいと申しまして、捜して頂きましたけれども良いところがございませんでした。・・・
ハイカラ風は大嫌ひでした。日本服でも洋服でも、折目の正しいのは嫌ひでした。物を極構はない風でした。燕尾服は申すまでもなく、フロックコートなど大嫌ひでした。ワイシャツや、シルクハット、燕尾服、フロックコートは『なんぼ野蛮の物』と申しました。神戸から東京へ参ります時に、始めてフロックコートを作りました。それも私が大層頼みましてやっとこしらへて貰ったのでございます。『大学の先生になったのですからフロックコートを一着持って居らねばなりません』と・・」(小泉節子「思い出の記」=第一書房・小泉八雲全集別冊)

神戸クロニクル

「ハーンが書いていた頃は、このデイリー版で発刊されていた。」
参考:神戸クロニクルウィークリー版

神戸クロニクル
参考:神戸クロニクルウィークリー版
神戸クロニクル
参考:神戸クロニクルウィークリー版

ハーンの足跡マップ

ヨーロッパ時代

ヨーロッパ時代
1850(嘉永3年)
0歳 6月27日:ギリシアのレフカス島のレフカダの町に生まれる。
父、チャールズ・ブッシュ・ハーン(1818〜1866)アイルランド人。
英国陸軍軍医。
母、ローザ・アントニオ・カシマチ(1823〜1882)ギリシア人。
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1852(嘉永5年)
2歳 父の任期満了。母とともに、アイルランドのダブリンに帰る。
1854(嘉永7年)(安政元年)
4歳 母、ローザ・ギリシアに帰る。
1855(安政2年)
5歳 大叔母のブレナンのもとで生活する。
1857(安政2年)
7歳 父母が離婚。
1866(慶応2年)
16歳 イギリスの中学校庭で遊戯中に左目を失明。

アメリカ時代

アメリカ時代
1869(明治2年)
19歳 移民船でアメリカに渡る。
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1872(明治7年)
24歳 「シンシナティ・インクワイヤラー」紙記者。
1876(明治9年)
26歳 「シンシナティ・コマーシャル」紙に移籍。
1877(明治10年)
27歳 ニューオーリンズへ移住。
1878(明治11年)
28歳 「デーリー・アイテム」紙記者。
1881(明治14年)
31歳 「タイムズ・デモクラット」紙の文芸部長。
1887(明治20年)
37歳 西インド諸島へ取材旅行。
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1890(明治23年)
39歳 日本へ出発。
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日本時代

日本時代
1890(明治23年)
40歳 4月 4日:横浜着
8月30日:松江。島根県尋常中学校、師範学校の英語教師。
1891(明治24年)
41歳 11月19日:妻セツと養父母らと熊本へ。
高等中学校(翌年、第五高等学校となる)に就任。
1893(明治26年)
43歳 11月17日:長男一雄誕生。
1894(明治27年)
44歳 10月上旬:一家で神戸着。
10月11日:『神戸クロニクル』論説第1回「車屋の問題」執筆。
10月下旬:下山手通四丁目七番地に移転。 一階和風、二階洋風。
12月14日:この前後に眼の炎症で臥す。
1895(明治28年)
44歳 『神戸クロニクル』退社。
4月:京都へ家族で旅行。
1890(明治23年)
40歳 4月 4日:横浜着
8月30日:松江。島根県尋常中学校、師範学校の英語教師。

ハーンの神戸マップ

神戸時代

ギリシャに生まれ、欧米を経て日本に辿りついたラフカディオ・ハーン、日本では横浜から松江、熊本を経て神戸にやって来ました。

※クリックすると詳細が見れます

和楽円付近

和楽円付近
和楽円付近
和楽円付近

ハーン第1住居跡付近

ハーン第1住居跡付近
ハーン第1住居跡付近
ハーン第1住居跡付近

ハーン第1住居跡付近

ハーン第1住居跡付近
ハーン第1住居跡付近

ジョセフヒコ

ジョセフヒコ

旧県庁舎・現県公館

旧県庁舎・現県公館

ハーン第2住居跡付近

ハーン第2住居跡付近
ハーン第2住居跡付近

関帝廟

関帝廟

居留地

居留地
居留地
居留地
居留地

神戸クロニクル社跡

神戸クロニクル社跡
神戸クロニクル社跡

湊川神社

湊川神社
湊川神社
1894(明治27年)
ハーン44歳・セツ26歳
9月:「忘れえぬ日本の面影」出版。
10月:熊本から神戸へ。(家族8人)
10月11日:神戸クロニクルへ出社。
10月20日:ホテルから下山手通4丁目7番地へ移る。(第1の住居)
12月中旬:目の炎症のためクロニクルを休む。
1895(明治28年)
ハーン45歳・セツ27歳
1月30日:クロニクル退社
3月上旬:盲目の門付けができ、その声に感動。後に作品「門付け」になる。
4月16日:京都へ旅行。(5人で)
4月23日:水産物展覧会で和楽園へ行く。
5月5日:日清戦争が終わり、凱旋する兵士を出迎える。
5月15日:黄海海戦の旗艦「松島」を神戸港に見学に行く。(カズオと)
6月9日:帰還兵士が神戸駅から湊川神社へ行進するのを見物にいく。(セツの養父・万右衛門と2人で)
7月:帰化の決心をして英国領事館へ行く。
7月:下山手通6丁目26番地へ移る。(第2の住居、記念碑のある場所)
7月:大谷正信(松江中学の生徒、ハーンの文学の翻訳者)と兵庫大仏(能福寺)へ行く。
7月:第2作「東の國より」出版。
10月23日:京都遷都1100年祭を見物に行く。
10月25日:未慶寺に大津事件で自害した畠山勇子の墓に詣でる。
11月上旬:帰化の真意を確かめるため役人くる。
12月 7日:帝国大学へ招聘の手紙あり。
12月下旬:中山手通7丁目番外16 (海洋気象台付近)へ移る。
1896(明治29年)
ハーン46歳・セツ28歳
1月15日:小泉八雲と改名。
1月24日:帰化。(兵庫県公館:旧兵庫県庁)
2月:入籍。(松江)
2月:伊勢旅行。
3月:「心」出版。
6月:松江へお別れ旅行。
8月:神戸へ帰着。
9月8日:東京へ。(東京帝国大学教師として赴任)

ハーンの手紙

母なるギリシャ、父なる英国

ラフカディオ・ハーンは、一八五〇年六月二十七日、ギリシャ西岸のイオニア海に浮かぶ小島レフカダに生まれた。ラフカディオという珍しい名は、この島の別名ラフカディアあるいはレフカディアに因んでいる。
父のチャールズ・ブッシュ・ハーンは、いわゆるアングロ・アイリッシュつまりアイルランド生まれのイギリス人で、陸軍軍医として当時、英国の保護領であったチェリゴ島に駐屯していた。母のローザ・カシマチはこの島に生まれたギリシャ人で、二人はここで知り合った後、チャールズの転任にともない近くのレフカダに移り、式を挙げた。
ハーンは、父のチャールズが英領西インド諸島に赴任した後に生まれたので、二歳までこの島で母と二人きりで暮らした。この頃の思い出は、おぼろ気ながらも生涯でもっとも幸福な時代の記憶としてハーンの心に深く刻みこまれたようである。
やがて母子は、アイルランドのダブリンにあるチャールズの家に身を寄せるが、言語・習慣・宗教・気候すべてが違う生活にローザはどうしても馴染めず、精神的な安定を欠くようになる。それは夫の帰還後も好転せず、一八五四年、チャールズがクリミアに出征している間に、ふたたび身重になったローザは、四歳のラフカディオを残し、ギリシャに帰国してしまう。この後、ハーンは二度と母親に会えなかった。
それ以前からダブリンでのローザの淋しい境遇に同情し、不在がちで無神経な夫に代わり、母子の面倒を見ていたのがチャールズの叔母サラ・ブレナンで、ローザの帰国後、ハーンはこの人に引き取られた。
クリミア戦争から帰還したチャールズは、別の女性と再婚するため、帰国中のローザを一方的に離婚し、一八五七年、新しい妻を連れインドに赴任した。(四年後、チャールズの後妻はインドで病死し、さらにその五年後、チャールズも帰国途上の船で病死した。母のローザは、ギリシャで再婚し、一八八二年コルフ島で病没するが、ハーンはローザの正確な消息はもちろん、生死すら知らなかった。)幼い頃に父母と生き別れになったことは、ハーンの心に生涯、癒しがたい傷を残した。
ブレナン夫人は、子供のない裕福な未亡人だったので、ハーンを立派なカトリック教徒の跡取りに育て上げようとした。一八六三年、十三歳のハーンは、イングランドのダラム州アショーにある聖カスバート校に入学する。そこでの厳格なカトリック教育には反発したが、その一方で周囲からは、奇抜な悪戯をする明るい少年と見られていたらしい。学校では読書と作文を愛した。そんなハーンにふたたび不幸が襲いかかる。まず十六歳の時、遊戯中、ロープの結び目が顔に当たり、その結果、ハーンの左眼は醜く白濁し、視力も失うことになる。つづいて翌年、ブレナン夫人が親類の投資の失敗により大部分の財産を失い、ハーンは学校を退学する。
なお、このカスバート校在学の前か後に短期間、フランスの寄宿学校に入れられていたらしいが、その時期も場所もはっきりしていない。また、十七歳から十九歳まで――学校をやめ単身渡米するまでの行動についても、大叔母の元女中の家に寄宿し、ロンドンをあてどもなくさまよっていたらしいこと以外、詳しいことは分かっていない。
いずれにせよ、ハーンの少年期は凄まじいほどの不幸の連続だった。四歳で母と生き別れ、七歳で父に棄てられ、莫大な財産の跡取りとして育てられながら、身内の者の奸計により一夜にして文無しの浮浪児同然の境涯に落とされた。純真な愛への渇望と強烈な猜疑心、それに加えて左眼の失明は、残った右眼の視力を蝕んだだけでなく、性格的にもハーンをいっそう内気で感じやすい少年にした。
そうした幼少の頃に受けた心の傷をなまなましく語った手紙が三通、残されている。そのうち二通は、日本に渡る直前に、実弟ジェームズ・ハーンに宛てられたもの、もう一通は、熊本時代に異母妹ミニー・アトキンスンに宛てて書かれたものである。

手紙1.2.3

この三通の書簡が重要なのは、弟や妹の記憶を引き出そうと、ハーンが、いわば呼び水を注ぐような形で思い起こせるかぎりの出来事を書き綴っているからだが、しかし、その語り口の熱っぽさとは裏腹に、内容自体は、驚くほど貧弱で誤りも多く、はたして実際の記憶と見なしてよいのか疑わしい箇所もある。
ハーンは母親の旧姓がローザで、再婚後はスミルナへ渡ったものと信じていた。そして遙か以前にコルフの島で亡くなっていることも知らなかった。一枚の肖像写真すら所持せず、容姿については、黒い髪、浅黒い膚、野生の鹿のように大きな眼を覚えているだけだった。
ハーンがそんなおぼろ気な記憶にこだわりつづけたのも、母だけは本当に自分を愛してくれたという思い――厳密に言えば、きっと愛してくれたはずだという思いこみのためであり、さらには、ダブリンのハーン家の人々は、父にせよ大叔母にせよ、結局は自分を邪魔にし見捨てたという事実のためだった。かりに母の旧姓はカシマチで、離婚ののちはチェリゴ島に暮らしたと知り得たところで、それはハーンが物心ついてから絶え間無く反芻していた悲哀をいささかも和らげてくれなかったろう。
したがって、これら幼年期の回想は、たんなる伝記資料としてよりも、むしろハーンの文学に底深く流れる悲調の源を見きわめようとするとき重要になってくる。この三つの手紙が教えてくれるのは、唯一の愛の対象を奪われた幼い頃の心の傷跡が、すでに中年にさしかかった作家の胸に、これほどの怒りと悲しみを与えていたという、信じがたいような事実なのである。「厳格で怖しい顔」をした「強い、計算高い」父が、「浅黒い膚」の「温かい心と愛する力をもった」母を、幼い無力な自分から奪い取ったという恨みは、ハーンの人生と文学を最後まで呪縛していた。
憎むべき父なる西洋、愛おしい母なる東洋(ハーンはローザにオリエントの血が流れていると信じていた)、そして両者の悲劇的な争いを傍観するだけの無力な自分。この三つの基調と構図は、ハーンの残したさまざまな時と所の作品の中にたやすく見出せよう。ハーンの芸術の根底には、常に、失われた母への鎮魂の歌と父に対する断罪の叫びが、低く強く響いている。
シンシナティの波止場の生活や黒人社会を描くルポルタージュから、遺作となった『神国日本』に至るまで、ハーンの著作のすべては見事なほど一貫して、非西洋人への共感と異文化の理解を志向し――そして余人の追随を許さぬほどの成果をあげつづけたが、その原因としてまず指摘してよいのが、この無意識の衝動――一般の西洋人とはまったく逆の心情であろう。

シンシナティからニューオリンズへ

一八六九年の春、十九歳になろうとしていたハーンは、アメリカに渡った。ニューヨークを経由して、モリニュークスの義弟が住むオハイオ州シンシナティに落ち着く。そこでいろいろな仕事を転々とし、辛酸を嘗めつくした後、一八七四年、「シンシナティ・インクワィアラー」の事件記者として身を立てた。文学・美術・思想・科学さまざまな主題の記事を書いたが、最も得意としたのは、血なまぐさい犯罪事件やオハイオ河の波止場に群れ棲む貧しい黒人たちの克明なルポルタージュであった。その勤務の合間をぬって、フランスの作家テオフィール、ゴーチェの翻訳にも励んでいた。ハーンは、この後、ニューオーリンズでもマルチニークでも悲惨な生活を体験するが、おそらくその中で最も辛く苦しかったのが、このアメリカに来たばかりの頃、仕事とねぐらを求めてシンシナティの町をさまよった十九、二十歳の頃だと思われる。熊本時代の手紙に、異国妹ミニー・アトキンスンに宛ててアメリカでの生活のあらましを綴ったものがあるが、そこでもやはりシンシナティ時代初期の回想は、ひときわ痛切でなまなましい。

手紙4

遠田勝
日本IBM『無限大 No.88』より
 
 お前のかわいい心優しい手紙は、クリスマスに着いた。もっとも、この国にはクリスマスがないけれど。お前は、イギリスに暮らせてどのくらい幸せか分からないのか? どうやら分かっていないようだな。お前も外国に長く暮らせば分かるようになるだろう。お前の写真を見た。同じ眼だ。顎も眉も鼻もそっくりだ。私たちは不思議なほどよく似ている――もっともお前はとてもきれいで、私はその正反対だけれど――それは結局、お前のきれいな眼鼻立ちの特徴が、私の場合、極端に出すぎているのと、片眼が醜く失明しているためだ――学校でつぶされたのだ。

手紙5

遠田勝
日本IBM『無限大 No.88』より
 
 ワトキンさん――私はこの四十八時間、精神的にすっかり参(まい)っていて、とてもあなたと気持ちよく喋れるような具合ではありませんでした。それから、あなたも特にお忙しいようでしたから、自分の頼みを直接口に出しかねていたのです。わざわざ手紙にするのは、筆を執るのが自分の一番の得意ということもありますが、長々と話しこむよりは、手紙を読んでいただいたほうがあなたのお時間をあまり取らずにすみそうだと思ったからです。個人的な問題に赤の他人を巻きこむのがみっともないことは重々承知しております。ただ、機会があれば、あなたのお役に立ちたいという気持ちは私にもあります。この志に免じてお許しください。こんなわがままを言えるのは、ほかに誰もいないのです。もう二度と、こんなお願いで面倒をおかけすることはいたしません。お約束いたします。

手紙6

遠田勝
日本IBM『無限大 No.88』より
 
 親愛なる御老父。心細いほど広い屋敷の心細いほど広い部屋で、この手紙を認(したた)めています。ミシシッピ河が見渡せます。綿を積んだ小舟の苦しげに喘ぐ機関(エンジン)の音と水上を往来する人々の呼び交わす野太い声が聞こえます。しかしトンプソン・ディーン号は影も形も見えない。今週中の到着は期待できそうにありません。なにしろ今日、ニューオーリンズを出航したばかりというのですから。

手紙7

遠田勝
日本IBM『無限大 No.88』より
 
 親愛なる御老友。お便りを拝見して、どれほどうれしかったか、とても書き表せません。運悪くメンフィスではお手紙を受け取れませんでした。ずいぶん励みになったろうに、残念です。私のほうは、少しずつ、本当にゆっくりと具合が良くなっています。莫大な富がここには眠っています。鉱石のままの未精製の黄金とも言えましょう。この地こそ、見棄てられ朽ちかけた南の楽園です。これほど美しく悲しいものを、私はこれまでに見たことがありません。初めてルイジアナから上る太陽を見た時には、涙が溢れてとまりませんでした。まるで息絶えた乙女――オレンジの花輪で飾られた今は亡き花嫁――口づけしてくださいと囁(ささや)く少女の死顔のようでした。この朽ち果てた南部が、どれほど麗(うるわ)しく、豊饒(ほうじよう)で、美しいものか、とても言葉では言い表せません。

手紙8

遠田勝
日本IBM『無限大 No.88』より

 親愛なる御老人。あと何日かで二十八歳になります。残すところ、わずか数日、指折りかぞえては怯えております。誕生日が何曜なのか、暦を見るのさえ怖い――金曜日だったら――あの不吉な迷信が忘れられない――迷信のしぶとさには宗教も兜(かぶと)をぬぎます。この二十八年をふり返れば、遠ざかるに従い、暗くぼやけて見えるものの、少なくともここ二十年の歳月の容貌は一つ一つ鮮明に思い出せます。そのすべてに憂うべき特色――そう、不幸という共通の特徴が刻みこまれています。ぼんやりと霞(かす)んだ面影にさえ、不幸の輪郭(りんかく)は、はっきり見て取れる。

手紙9

遠田勝
日本IBM『無限大 No.88』より
 
 親愛なる御老人。大鴉は近頃、手紙を書くのが大儀(たいぎ)でなりません。厄介なことが少々あるうえに、勉強に身を入れ、旧に倍する著作をこなしています。暇など滅多(めつた)にないのです。なにしろ、この不細工(ぶさいく)でへんてこな眼がまだ治りきっていないのです。夜には書けません。この美しい南国の夜、星の燃え立つ闇につつまれては、文字などとても書けません。古代のギリシャの詩人が「聖夜」とうたった「学徒にとっては、一切が眼となり耳となる、芳(かぐわ)しい香りに満ちた」夜には大鴉は筆を取る気になれません。

手紙10

遠田勝
日本IBM『無限大 No.88』より
 
 今、大わらわになって東洋の伝説集に取り組んでいるところです――婆羅門(バラモン)、仏教、タルムード、アラビア、中国、ポリネシアなどの説話をまとめ、春までに仕上げたいと思っています。スクリブナーかオズグッドに出版してもらえそうです。おっしゃるような境遇なら、私だって人生も生きてみるに値すると思います。しかし、そんな結構な身分になかなかなれるものではない。私は余所に移ってみたいのです。新たな土地は、新たな暮らしと新たな青春を意味します。ここでは生活の問題という奴に鉄の眼(まなこ)でもって永遠に真正面から睨(にら)みつけられているのです。

クレオールの島

クレオールの島

ニューヨークで三十七歳の誕生日をひとりシャンペンを飲んで祝ったハーンは、七月初旬、トリニダッド行きの汽船に乗りこみ、西インド諸島を島から島へとめぐる旅を始めたが、その中でもっとも気に入ったのが、マルチニーク島だった。七月三日、親友であるニューオーリンズの医師ルドルフ・マタスに宛ててこう伝えている。

手紙11

遠田勝
日本IBM『無限大 No.88』より
 
 君からの返事は読みたいけれど、とても間に合わないだろう。この手紙がそちらに着くのには、おそろしく時間がかかる。私は、もうすっかりこの地の虜になり、西インド諸島のどこかに落ち着こうと決意した。マルチニーク島は、この世の楽園としか言いようがない。エロスを除きおよそ悪徳の存在しない島を想像してみたまえ。乱暴者も気取り屋もいない。すべてが原始的で、道徳的に汚れを知らない――ただ一つ、例外はあるけれど、この場合、むしろ純潔を守るほうが自然の秩序を乱すことになるのだ。気候について言えば、神々しいほど素晴らしい――今は最悪の季節、冬期なのだが。 私は、思考においても行動においても、一切の活発さ、機敏・性急さを憎むようになった。あらゆる対立、競争、成功を獲ようとあくせく努力すること自体が嫌になった。ここで暮らせるだけで幸せ、いや、幸せすぎるほどだ!――凡人には過ぎた悦びを味わえるのだから。あたりを眺めただけで嬉しさで泣きたくなるだろう。

手紙12

遠田勝
日本IBM『無限大 No.88』より
 
 親愛なる友――何日間か郵便船がないと分かったので、ちょっと腰を据(す)えてこの土地について説明してみることにする。君がもっと知りたくなるような、何か面白いことがあるかもしれない。――――マルチニークは山々が海のように浪(なみ)うつ島だ。どの方角を向いても巨大な山脈のうねりが目に入るくらい険(けわ)しい――そこここにピトンという乳房のような形の峰がそそり立ち、辺(あた)りの地勢と鋭い対照をなしている。

手紙13

遠田勝
日本IBM『無限大 No.88』より
 
 親愛なるミス・アニー――
愉快なことを見聞きし、体験するたびに、あなたがここにいて、一緒に見て楽しめたらと思います。あなたはとても性格の強い子だから、この地の美しい自然がそちらに行って、あなたをしっかり抱きしめれば、あなたの魂はこちらへ来てしまうのではないかと本気で信じています。あなたの小さな博物館のためにマルチニークのお人形を送ろうと思ってました。それからお父さんにはマントルピースに置くシガーホールダーを二つ、高木(こうぼく)状のシダの細工で、これは石炭紀の太古の森を生き延びてきた、抜け目のない木です。ただ防疫のための馬鹿げた交通遮断(しやだん)が続いていて、今のところ、船と連絡をとる手段が見つかりません。でも、もう貰ったものと考えて結構です――きっと送りますから。お猿さんも、もしその熱帯性の体が輸送に耐えられるのならお送りしましょう。

手紙14

遠田勝
日本IBM『無限大 No.88』より
 
 親愛なるオールデン様―― あなたから頂いた最後の手紙の日付は、二月十三日でした。今日は、七月一七日です。私の原稿をすべて受け取られたのか、私には分かりません――分かったのは、二ヵ月間、著作で得られたのは、わずか百ドルということです。 最初の失敗作による時間と金の損失は、とうとう取り戻せませんでした――それ以来、私はさまざまな悪条件と格闘しなければなりませんでした。病気、ありとあらゆる種類の屈辱、読み物の完全な欠如(図書館はないし、本もまったく手に入らない)、そして五マイル旅する金もなく、何もせずじっと我慢してなければならなかった。その成果にあなたが満足なさらぬのは、分かりきったことです。私とて同じです。精神的に破産したのだと認めざるを得ません――注目に値するものが何ひとつできないのですから……おまけにここには余所者が手を出せるようなものなど全くありません。

手紙15

遠田勝
日本IBM『無限大 No.88』より

親愛なるオールデン様――
昨夜、写真家のレオン・ジュリーを連れての東北海岸への旅から戻りますと、驚いたことに途中わが友アルヌーが馬車を止め、あなたからの手紙を手渡してくれました。彼は、この小さな世界では貴族に属する人なのに、わざわざ山道をたっぷり一マイルも登って、届けにきてくれたのです。お手紙は、ご期待に違(たが)わず私を楽しませてくれました。

手紙16

遠田勝
日本IBM『無限大 No.88』より

わが友マタス――
君の三月二十一日付の手紙が、ようやく今日、六月五日に着いたが、それでもやはり嬉しいものだ。西インド諸島から戻って、かれこれ三週間になるが、いつまでここにいるのか自分でも分からない。マルチニークを去る時は心が引き裂かれるような気持ちだった。私が今いるのは、世界で一番美しい町の一つで、親しい友人に囲まれている。眼の前にあるのは、人の最も偉大な努力の成果である素晴らしい光景、ニューヨークのように鉄と電気が荒れ狂っているのではない、優しく穏やかな都会だ。それでも熱帯の自然は、そのあらゆる思い出で四六時中、私につきまとい、私の思いをふたたび青い海の彼方、トルコ石色の大空の下、生い茂る巨大な椰子へ、火山地帯の丘陵へ、褐色(かつしよく)の肌をした女たちのもとへと駆り立てる。遅かれ早かれ熱帯に戻らねばならぬと覚悟している。

日本時代

日本時代

ニューヨークで三十七歳の誕生日をひとりシャンペンを飲んで祝ったハーンは、七月初旬、トリニダッド行きの汽船に乗りこみ、西インド諸島を島から島へとめぐる旅を始めたが、その中でもっとも気に入ったのが、マルチニーク島だった。七月三日、親友であるニューオーリンズの医師ルドルフ・マタスに宛ててこう伝えている。

手紙17

遠田勝
日本IBM『無限大 No.88』より

親愛なる御老父。お案じくださっていたと知り、心からうれしく思いました。私とてあなたを夢みることがたびたびありました。西インド諸島で数年暮らしたあと、カナダを通り、ヴァンクーヴァー経由でこの地〔横浜〕に到着いたしました。何年間かこちらにとどまることになりましょう。金持ちになれませんでした――いやその正反対です。それでも、最終的には独(ひと)り立ちしようと、準備は着々と進めております。ただ、それも体がもてばの話です。今のところ健康は申し分ないのですが、ずいぶん白髪が増え、この六月には四十歳になります。

手紙18

遠田勝
日本IBM『無限大 No.88』より

親愛なるペイジ――あなたのご希望どおり、すぐに返事を書くことにします。お手紙が着いたのが今日で、私はちょうど日本の聖地杵築から戻ったところです。杵築は、この国でもっとも古く神聖な神社で、そこに入るのを許されたヨーロッパ人は、私以前には一人もいないのですが、私はそこの宮司の方にとても気に入られています。今は旅の途中で家に立ち寄っただけで、またこれから珍しい未知の土地へ出かけるところです。日本でもこの地方は、ことに知られておらず、あのマリー社のガイドブックの編集者に初めて資料を送ったのも、この私なのです。……

手紙19

遠田勝
日本IBM『無限大 No.88』より

親愛なるチェンバレン――ただ淋(さび)しくて仕方(しかた)がないので、手紙を書いています。ずいぶん勝手なものですね。でもあなたが少しでも面白がって下さるのなら、それもお許しいただけるでしょう。丸一年、日本を留守にしていらっしゃったから、その間に私の心に刻みこまれた出来事などはいかがでしょう。それでは―― 幻は永遠に消え去りましたが、多くの愉快なことの記憶が残っています。日本人について一年前よりずっと多くのことを知りました。それでも彼らがよく分かったとはとても言えません。自分の小さな妻でさえ多少は謎めいています。もっともそれはいつも愛らしい感じを与えてくれるのですが。もちろん夫婦ですから心は通じ合っています。しかし互いの気心とは別に、理解しがたい人種的相違はあります。一例を挙げましょう。私たちは隠岐(おき)で見つけた、没落した士族の可愛い男の子を熊本に連れて帰りました。今では養子のようなもので――学校を通ったり、いろいろしています。

手紙20

遠田勝
日本IBM『無限大 No.88』より

親愛なるチェンバレン――そろそろ手紙を書く時分だと思いますが、何のニュースもありません。それで私の一日の暮らしぶりを一例としてお目にかけるというのは、いかがでしょうか。あなたになら別に構わないでしょう――もっともあなた以外にはどこの誰にも絶対、書きませんが。 午前六時――小さい目覚しが鳴る。妻が先に起きて私を起す――昔の侍(さむらい)時代のきちんとした挨拶で。私は起きて坐る。蒲団のわきへ火種の消えたことのない火鉢をひきよせて煙草を一服吸いはじめる。下男たちがはいって来、平伏して旦那さまにお早ようございますと言い、それから雨戸を開けはじめる。そのうちにほかの部屋では、小さいお燈明が御先祖様の御位牌と仏壇の前にともされて、お勤めが始まり、御先祖様へお供えをする。(御先祖様の霊はお供物は食べないで――精気をすこし吸うのだそうです。それでお供物はほんのちょっぴりです)。そのころ老人たちはもう庭へ出て、お日様を拝んで、柏手(かしわで)を打って出雲のお祈りの言葉を小声で唱える。私は煙草をやめて、縁側へ出て顔を洗う。

手紙21

遠田勝
日本IBM『無限大 No.88』より

親愛なるヘンドリック――私はこの数週間、ずっとある出来事をあなたに伝えようと待ち続けていました。予想よりずいぶん遅れましたが、昨夜、私の子供が誕生しました――大きな黒い眼をした、元気な男の子です。外国人というより、日本人に見えます。鼻は私にそっくりですが、他のいくつかの点では母親の特徴が奇妙なぐあいに私のと混じり合っています。赤ん坊は五体満足で、どこにも異常はありません。

東京の晩年

六月末から八月末まで家族を連れ、別れを告げるかのように懐かしい出雲を訪ねたハーンは、九月初めに上京、その月末には市ヶ谷富久(とみひさ)町に居(きよ)を構えた。翌一八九七(明治三十)年から一九〇二(明治三十五)年までハーンの生活には表向き書くべきことが、きわめて少ない。九七年に次男の巌(いわお)、九九年に三男清(きよし)が誕生した。夏休みに焼津(やいづ)へ避暑に出かけるほかは、ほとんど外出も旅行もしなかった。著作は毎年一冊ずつ『仏の畑の落穂』『異国情緒と回顧』『霊の日本』『影』『日本雑録』『骨董』と不気味なほど規則正しく出版された。これらが帝国大学での連日の授業(死後、アメリカで四冊の講義録として出版されるほど優れていた)と並行して書きつづられたのだから、その単調な生活の背後に鬼気迫るような努力が潜んでいたことは、容易に推察される。深夜、咳(せ)きこみながら執筆に励むハーンの姿を友人の雨森信成(あめのもりのぶしげ)は「さながらこの世ならぬ何者かと情を通じているかのようだった」(平川、前掲書)と書いている。こうした閉じ籠(こ)もりがちの生活だったから、著作にも当然、紀行文の類は影をひそめ、代わって回想や随想、それに古い物語の再話などが多くなった。なかでも晩年のハーンは好んで怪談を筆にした。なぜ幽霊が大切なのか、合理主義で凝(こ)り固まったチェンバレンに宛てて正面から怪談の価値を擁護した珍しい文章が残っている。一八九三年十二月十四日、熊本時代の後半に書かれた手紙の一節である。

手紙22

遠田勝
日本IBM『無限大 No.88』より

親愛なるチェンバレン――あなたが子供の頃に感じた暗闇の恐怖という、お手紙の一節がずっと気にかかっていました。またいつか話をしようと思っていましたが、ちょうど今、百枚もの作文の添削(てんさく)を終えたところです。いい機会ですから、それについてお喋りいたしましょう。――中略――さて子供の頃、悪夢ははっきりと目に見える形をとって私の前に現れました。私は起きている時にそれを見たのです。連中は音もなく歩き回り、私に恐ろしい顔をして見せました。あいにくその頃、私には母がいませんでした――年老いた大叔母がいて、この人には自分の子供がなく、迷信を憎んでいました。暗闇の中で恐怖に悲鳴をあげても、鞭(むち)で叩かれるだけでした。しかし鞭よりも幽霊のほうが怖かった――なぜなら私には幽霊が見えたからです。大叔母は私の言うことを信じませんでしたが、召使いたちは信じてくれて、こっそりやって来ては私を慰めてくれました。少し大きくなるとすぐに私は学校に預けられましたが、その方がうれしかった――ずいぶんひどい扱いを受けたけれど、そこには夜、幽霊でない友達がいたから。だんだと幻影は消えていきました――十歳か十一歳の頃、私は怖がるのをやめました。昔の恐怖が蘇(よみがえ)るのは、今では夢の中だけです。今、私は幽霊を信じています。それは私がかつて見たからでしょうか?いいえ違います。私は幽霊を信じるが、魂という奴は信じない。私が幽霊を信じるのは、現代の世界に幽霊がいなくなってしまったからです。幽霊に満ち満ちた世界とそうでない世界の違いを考えれば、幽霊が、あるいは神々が何を意味しているのか私たちにも分かるはずです。 例のピアソンの本の耐えがたい憂鬱さは、次の文句に尽きるように思います――「希望を抱かせるものは永遠に人生から消え去ってしまった」これは恐ろしいほど真実です。何が人生に希望を抱かせてくれていたのでしょうか?幽霊です。その一部は神々と呼ばれ、また悪魔、天使とも呼ばれていました――彼らこそが人のためにこの世の有り様を変えてくれたのです。彼らこそが人に勇気と目的を与えていたのです。自然への畏敬を教え、それがやがては愛に変わった――彼らが万物を見えざる生命の感覚と活動とで満たしていた――彼らこそが恐怖と美を造りあげていたのです。 もはや幽霊も天使も悪魔も神々もいません。すべて死に絶えてしまいました。電気と蒸気と数学の世界は、虚(むな)しく冷たく空っぽです。これを文章にできる者など一人もいません。ここにロマンスのかけらなりとも見出せる者がいるでしょうか?われわれの小説家たちは何をしているでしょうか?クロフォードは、イタリアやインドや古代ペルシャについて書かなくてはなりません――キプリングはインドを――ブラックスはスコットランドの片田舎の生活を――ジェイムズは卓越した心理研究者として生きているに過ぎません、そして当人も小説の登場人物たちも大陸で暮らさざるを得ないのです――ハウエルズなどは、はかない民主主義国の最も醜悪な俗事を写生しています。いかなる偉大な人物が上流社会について読むに値する作品を書いているでしょうか、また書き得るでしょうか?今の中産階級についても、大都市の貧民についても同じことです。『ギンクスズ・ベイビー』のスタイルでも蒸(む)し返しますか?答えは否(ノー)です!いやしくも作家たる者は、その題材を今なお幽霊のとどまり棲む国に求めなくてはなりません。――後略―― 

手紙23

遠田勝
日本IBM『無限大 No.88』より

小ママ。ゴメンゴメン。アナタヲ少シ喜バセルト思ヒマシタ。アノ地蔵ハ墓場ノ地蔵デハナイ。波ヲ馴(な)ラシテ静カニスル地蔵デス。悪イモノデハナイ。然(しか)シアナタハ好(す)カナイ。ソレナラ一雄ノ名モ私ノ名モドンナ名モ書キマセン。 唯(ただ)私ノ考ガ馬鹿デシタ。地蔵様ハアナタノ疑フノヲ聞イタ時大泣キシマシタ。私ハ唯(ただ)海ヲ大事ニスル地蔵ダト言ヒマシタ。『仕方ガナイ。アノ子供ノ母ガアナタヲ疑フ』ト私ハ地蔵ニ言ヒ聞カセマシタ。デスカラ今デモ泣イテ居マス。パパカラ、ゴメン――ゴメン。 石ノ涙ヲコボシテアノ地蔵ハ泣イテ居マス。

付記

遠田勝
日本IBM『無限大 No.88』より

このささやかな書簡集には、ハーンの作品と生涯を理解する上で重要と思われる二十数通の手紙を各時代から選び、蛇足(だそく)になることを恐れながらも、一般読者の便宜のために、あえてその間に解説めいた文章を挟(はさ)みこんでみた。年譜の無味乾燥、書簡集のとっつきにくさを避けるための苦肉の策だが、さいわいハーンは英語文学史上、名にし負け優れたレター・ライターである。その書簡はどれをとっても気取りがなく誠意に溢(あふ)れ、型にとらわれず美しい一一そのおかげでどうにか、通読してもある程度は面白味のある読み物に仕上げられたのではないかと思う。そういう意図で編集したので、伝記や研究書には必ずといっていいほどよく引かれる有名な手紙もいくつか収めたが、ただ、それだけではつまらないと思い、三分の一ほどは、これまで邦訳のなかった手紙を紹介することにした。書簡三と四のアトキンスン夫人宛ての手紙は、近年、中田賢次氏が英国で発見され、八雲会の発行する雑誌「へるん」に発表された英文に拠(よ)っている。また第三章の「クレオールの島」に 収めた六通も、すべて初訳で、こちらは西崎一郎氏が翻刻されたマルチニーク時代の五十通近い書簡から選んだ。これはお茶の水女子大学の紀要に三十年以上も前に発表され、内容も非常に充実しているのに、どういうわけか、翻訳もされず、恒文社の『ラフカディオ・ハーン著作集』にも漏(も)れたまま今日に至っている。この埋もれた業績を広く伝える意味もあり、バランスをくずさぬ程度に、できるだけ多数を訳出しておいた。引用した書簡の英文は、以下の文献に収められている。書簡一、二 H.T. Kneeland, “Lafcadio Hearn’s Brother,” Atlantic Monthly, CXXXI (Jan., 1923).書簡三、四 中田賢次「小泉八雲の未刊行資料一一M・アトキンスン宛書簡」『へるん』二十六号、二十七号。書簡五 O.W. Frost, “Two Unpublished Hearn Letters,” Today’s Japan, V (No.1).書簡六~十、十七 M. Bronner, Letters from the Raven, (New York, Brentano’s, 1907).書簡十一、十二、十六 I. Nisizaki, “Newly Discovered Letters from Lafcadio Hearn to Dr. Rudolph Matas,” Studies in Arts and Cultures (Ochanomizu University), VIII.書簡十三~十五 I. Nisizaki, “New Hearn Letters from the French West Indies,” Studies in Arts and Cultures (Ochanomizu University), XII.なお書簡十八から二十二までの原文はすべてハーンの英文著作集にある。またワトキン及びジェイムズ宛ての書簡の訳文は、恒文社の『ラフカディオ・ハーン著作集第十五巻』に収められた拙訳に依拠している。ハーンの生涯を略述するにあたっては、主に同十五巻所収の銭本健二・小泉凡編の「ラフカディオ・ハーン年譜」、平川祐弘『破られた友情一一ハーンとチェンバレンの日本理解』(新潮社)、エリザベス・スティーブンスン『評伝ラフカディオ・ハーン』(恒文社)、森亮『小泉八雲の文学』(恒文社)を参照した。とくに森氏の簡潔で格調高い「小泉八雲 小伝」には、時代の区分や叙述の範囲を考えるうえで教えられることが多かった。ハーンの著作の邦訳題名も、おおむね氏の用いられたものをそのまま拝借している。以上、記して感謝申し上げる。

ハーンの本

心(Kokoro)

趨勢一瞥(A Glimpse of Tendencies)
居留地(The Foreign Concession)

開港場の外人居留地は、その極東的な周囲に著しい対照を呈している。その街路の整然たる醜悪さの中に、人は世界の此方側(こっちがわ)には無いはずの場所を思い出させられる――あたかも西洋の断片が魔術的に海を越えて運び来られたかのごとく。――リバープールや、マルセーユや、ニューヨークや、ニューオーリンズや、さては一万二千ないし五千マイル彼方の熱帯植民地の市街の一部分が。商館の建物――日本の低く軽い商店に比較すれば巨大な――は財力の脅威を語るごとくに見える。種々雑多の様式の住宅――インド式の平屋建(バンガロー)から、小塔(ターレット)や張出窓(ボーウインドー)を備えた英仏式の山荘風に至るまでの建物――は平凡な刈り込んだ潅木の庭園に囲繞せられ、白い道路は固く卓子のように平らで、四角く刈られた樹木でかぎられている。ほとんど英米に於ける伝統的なすべての物が此処に移植されてある・・・

日本人の英語(English in Japan)

将来、日本では、英国でドイツ語が学ばれているように、英語を学ぶことになるであろう。しかし、この英語の学修は、ある方面には徒労であったとしても、他の方面に於いては、決して徒労でなかった。英語の影響は、固有の日本語の形態変化をきたした。その結果、日本語は、より豊かなものとなり、より柔軟性を持つものとなり、近代科学の発見が生み出した新形式の思想を表現するのにいっそう強靱なものになったのである。この影響は永続するに相違ない。多数の英語が日本語に吸収されていくであろう――フランス語やドイツ語の単語も同様であろう。実際には、この吸収は智識階級の言葉づかいの変化の中にすでに顕著であって、これは開港場のナマリ言葉でも同様で、このナマリ言葉には商業用外国語が珍妙な形式変化をして交じり合っているのである。
さらには、日本語の文法的構造も影響を受けつつある。私は、最近ある宣教師が「東京の街中で腕白小僧どもが、旅順口の陥落を伝えて『旅順口ガ占領セラレタ』とパッシヴ・ヴォイス(受動態)で叫んでいたが、これも『神意』の致すところを示すものだ」と述べていたのには賛成しないものの、日本語はこの民族の天稟と同じく同化的で、新しい境遇のすべての要求に適応し得る能力を示す証拠だとは考えている。

外国人教師(Foreign Teachers)

おそらく日本は、二十世紀になれば、こんにちの外人教師というものを、よけいに懐かしく思い出すだろう。しかし、思い出すにしても、この国が、明治以前のむかしに、中国に対して感じていたような、ああいう古来の風習どおりに恩師を尊敬する念は、感ずることはまずあるまい。これはなぜかというと、中国の知識は、日本はこれを自発的に求めたものであるが、西洋の学問は、強制的に押し付けられたものだからである。キリスト教にしても、いずれ日本は日本流の宗派をもつだろうが、それにしても、むかし日本の青年を教導した中国の高僧を、こんにちでも長く記憶しているようには、アメリカやイギリスの宣教師のことを、長く記憶はしないだろう。また、われわれが日本に滞在したという形見の品を、七重の絹にていねいに包み、美しい白木の箱に納めて、長く保存しておくようなことは、まずしないだろう。なぜかというのに、われわれは、新しい美の教訓は日本に教えなかったのだし、日本人の感情に訴えるような物は、なにひとつ与えることをしなかったからである。

外国貿易(The Import and Export Trade)

外国人輸出入業者の自信は、一八九五年七月に手も無く破られた。それはこの時、英国の一商館が日本の一会社を相手取り、同社が注文した商品の引取りを拒絶したとして日本の法廷に訴え、裁判には勝って約三万ドルを勝ち得たものの、突然、今までその力など予想もしなかった強力な同業組合(ギルド)と対決させられ、脅かされるハメにおちいったからである。敗訴した日本の商社は判決に対し上訴はしなかった。のみならず、全額はすぐにも支払いますよ、お求めなら、と表明した。一方、その会社の属しているギルドは、勝訴の原告側に通告して、和解を勧め、それがつまりは身のためですよ、と告げた。この英国商館は、このとき、自社が全く破産させられるほどの不買同盟(ボイコット)で脅かされている状況にあるのに気付いた――日本全国のあらゆる商工業中心地を網羅した不買同盟だった。和解は直ちに成立したが、この外国商館はかなりの損失を被った、そして居留地は青くなった。このようなやり方の不徳義を非難する声もかなり聞こえた。しかし、それは法律では如何ともし難いやり方であった。というのも、不買同盟は法律では満足に処理し得ないものなのである・・・

戦後(After the War)
黄海海戦の旗艦・松島(The Matsushima Kan)

五月十五日、兵庫にて。清国から帰還した松島艦が「和楽園」のまえに碇泊している。この軍艦は、大きな勲功をあらわした軍艦だが、それにしては大きな軍艦ではない。けれども、さすがに波ひとつない青畳のような海面に、にゅっと浮かんでるこの鉄(くろがね)の城は、澄みわたった日の下で見ると、たしかに犯しがたい偉容をそなえている。この軍艦を縦覧させるという許しが出たので、市民はみな大喜びで、まるでお祭りにでも出かけるように晴着を着かざっている。私もその連中と同行することになった。港内にある船という船は、一艘のこらず、みなその見物人を乗せるために出払ったかと思われるくらい、それほどわれわれ一行が着いたときには、装甲艦のまわりには見物客を乗せた船が蟻のように集まり群がっていた。とてもそんな人数が同時に軍艦へ乗りこむなどということは、できるものではない。そこで何百人かずつが、交代に乗りこんでは降りることになって、そのあいだ、われわれはしばらく待っていなければならなかった。

兵士の凱旋(The Return of Soldiers)

今日はどこかの連隊が帰るのを見に行った。神戸駅から「楠公さん」(楠木正成の英霊を祀った大きな社)まで、彼らの通る往来の上に緑門が出来ていた。市民たちは、兵士たちに凱旋後初めての食事を奉仕するのを名誉として、そのために六千円もの金を寄附していたが、これまでにすでに、幾大隊かの兵士が同様に親切な歓迎を受けていた。
兵士たちが食事をした神社境内の休憩所は旗や花綱で飾られていた。兵士全員に贈りものがあって、菓子や紙巻タバコや、勇気を讃えた和歌などを染め抜いた手拭などである。神社の門の前には本当に立派な凱旋門が立てられ、前後両面には歓迎の辞句が金文字で記され、頂上には地球の上に翼を広げた鷹が登っていた。 私は最初、萬右衛門を連れて神社に遠からぬ停車場の前に待っていた。列車が着いて、番兵が見物人に歩廊を立ち去らせた。外の街路では、巡査らは群集を制し、一般の通行を止めた。

門つけ(A Street Singer)
門つけ(A Street Singer)

三味線をかかえて、七、八つの小さな男の子をつれた女が、私の家の前へ唄を歌いにやってきた。女は百姓のような身なりをして、首に浅黄色の手拭をまきつけていた。女はぶきりょうだった。うまれつき、きりょうがわるいうえに、むごたらしい疱瘡にかかったために、なおさら、ふた目と見られぬ顔になっていた。子どもは、刷りものにした流行唄の束を持っていた。・・・
そのうちに、近所の人たちが、私の家の前庭にあつまってきた。近所の人たちといっても、たいていは、若い子持のおかみさんや、背中に赤ん坊をおぶった子守りなどであったが、なかには、やはりおなじように、子どもをつれたお爺さんや婆さん――近所の隠居連も混じっていた。隣り町の町角にある休息所から、辻待ちの車屋などもやってきた。そんなわけで、やがて私の家の門のなかは、もう人のはいる余地がなくなってしまった。
女は玄関の石段のところに腰をおろして、しばらく、三味線の糸の調子を合わせていたが、やがて合の手のような曲を一曲弾きだした。すると、たちまち一種の魅惑が、聴きてのうえに落ちてきた。聴きては、みな、ヘーエといったような顔をして、微笑をもらしながら驚きの目をみはって、たがいに顔を見あわせた。

コレラの流行期に(In Cholera-Time)
コレラの流行(Cholera)

私の家の二階からは、この町の通りが、ずっと下(しも)の方の港のあたりまで、ひと目に見渡される。通りの両側には、小さな商人家がずらりと軒を並べているのだが、ついこの間から、私はこの町すじの方々の家から、コレラ患者が病院に運ばれて行くのを、ちょいちょい目にする。今朝も、私はそれを見た。今朝のは、向こう側の瀬戸物屋の主人だった。瀬戸物屋の主人は、家人が涙を流して、おいおい言って泣くのもかまわず、むりむたいに連れて行かれた。衛生法によると、コレラ患者を自宅で療養させることは禁じられているのであるが、それでも町民は、たとえ罰金や体刑をくらっても、何とかして患者を隠蔽しようと苦労する。なぜそんなことをするかというと、避病院は患者で満員のうえに、あすこは病人の扱いが乱暴で、しかも入院すると、患者は身うちのものからぜんぜん隔離されてしまうからである。ところが、警官諸君は、なかなかどうして、そんな手はめったに食わない。直ぐに無届けの患者をさがしだして、担架と人夫をつれてやってくる。見ていると、ずいぶん残酷のようだが、しかし、衛生法なんてものは、これはよろしく残酷なものでなければいけない。瀬戸物屋のおかみさんは、泣き泣き、担架のあとを追って行ったが、けっきょく、警官がなだめて、とうとうしまいに、主人のいなくなった寂しい店へ追い返されてきた。店は、いま、大戸がおろしてあるが、おそらく、今のあるじの手で、二度とこの店をあけられることはあるまい。

仏の畑の落穂(Gleanings in Buddha-Fields)

生神(A Living God)

One autumn evening Hamaguchi Gohei was looking down from the balcony of his house at some preparations for a merry-making in the village below. There had been a very fine rice-crop, and the peasants were going to celebrate their harvest by a dance in the court of the ujigami.
The old man could see the festival banners (nobori) fluttering above the roofs of the solitary street, the strings of paper lanterns festooned between bamboo poles, the decorations of the shrine, and the brightly colored gathering of the young people.
He had nobody with him that evening but his little grandson, a lad of ten; the rest of the household having gone early to the village. He would have accompanied them had he not been feeling less strong than usual.
宿に泊まり近辺の神社仏閣を訪ね歩き、ハーンは四月二十五日その感動をシンシナティの老友に宛ててこう伝えている。

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One autumn evening Hamaguchi Gohei was looking down from the balcony of his house at some preparations for a merry-making in the village below. There had been a very fine rice-crop, and the peasants were going to celebrate their harvest by a dance in the court of the ujigami. The old man could see the festival banners (nobori) fluttering above the roofs of the solitary street, the strings of paper lanterns festooned between bamboo poles, the decorations of the shrine, and the brightly colored gathering of the young people. He had nobody with him that evening but his little grandson, a lad of ten; the rest of the household having gone early to the village. He would have accompanied them had he not been feeling less strong than usual.
The day had been oppressive; and in spite of a rising breeze there was still in the air that sort of heavy heat which, according to the experience of the Japanese peasant, at certain seasons precedes an earthquake. And presently an earthquake came. It was not strong enough to frighten anybody; but Hamaguchi, who had felt hundreds of shocks in his time, thought it was queer ? a long, slow, spongy motion. Probably it was but the after-tremor of some immense seismic action very far away. The house crackled and rocked gently several times; then all became still again.

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明治 29(1896)年 6月15日 午後8 時半、宮城、岩手、青森三県を襲った「三陸大津波」。死者二万七千百二十二人(27,122)人、流失・破壊家屋 1万0390戸、観測史上最大の津波被害。当時の新聞は、連日のように津波被害の惨状を報じた。当時の新聞報道の解説の中に、42年前の1854年 (安政元年、嘉永七年)11月5 日( 陰暦) に紀州をはじめ太平洋岸一帯を襲った「安政の大津波」の際に、『稲むらの火』に語られているような手段で広川町ー当時の広村ーの村民を救った濱口儀兵衛(ハーンの『生神』では「濱口五兵衛」と名前を変えている)の史実が報じられた。
明治 29(1896)年 6.21 日曜日。大阪毎日新聞二面「海嘯の歴史」で浜口儀兵衛の逸話が掲載された。
平成 5(1993)年 8月末、和歌山市で、二百人を越す世界のツナミ学者が集まって「国際ツナミ学会」が開かれた。研究発表論文集の第一ページに、ラフカディオ・ハ-ンの作品として、『稲むらの火』(英文)を掲載。原文は『生神』。

『稲むらの火』を見る

『稲むらの火』

「これは、たゞ事でない。」
とつぶやきながら、五兵衛は家から出て來た。今の地震は、別に烈しいといふ程のものではなかつた。しかし、長いゆつたりとしたゆれ方と、うなるやうな地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない無氣味なものであつた。
五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下した。村では、豐年を祝ふよひ祭の支度に心を取られて、さつきの地震には一向氣がつかないもののやうである。
村から海へ移した五兵衛の目は、忽ちそこに吸附けられてしまつた。風とは反對に波が沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、廣い砂原や黒い岩底が現れて來た。
「大變だ。津波がやつて来るに違ひない。」と、五兵衛は思つた。此のまゝにしておいたら、四百の命が、村もろ共一のみにやられてしまふ。もう一刻も猶豫は出來ない。
「よし。」
と叫んで、家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明を持つて飛び出して來た。そこには、取入れるばかりになつてゐるたくさんの稲束が積んである。
「もつたいないが、これで村中の命が救へるのだ。」
と、五兵衛は、いきなり其の稲むらの一つに火を移した。風にあふられて、火の手がぱつと上つた。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走つた。かうして、自分の田のすべての稲むらに火を付けてしまふと、松明を捨てた。まるで失神したやうに、彼はそこに突立つたまゝ、沖の方を眺めてゐた。
日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなつて來た。稲むらの火は天をこがした。山寺では、此の火を見て早鐘をつき出した。
「火事だ。莊屋さんの家だ。」
と、村の若い者は、急いで山手へかけ出した。續いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追ふやうにかけ出した。
高臺から見下してゐる五兵衛の目には、それが蟻の歩みのやうに、もどかしく思はれた。やつと二十人程の若者がかけ上つて來た。彼等は、すぐ火を消しにかゝらうとする。五兵衛は大聲で言つた。
「うつちやつておけ。──大變だ。村中の人に來てもらふんだ。」
村中の人は、追々集まつて来た。五兵衛は、後から後から上つて來る老幼男女を一人々々數へた。集まつて來た人々は、もえてゐる稲むらと五兵衛の顔とを代る代る見くらべた。
其の時、五兵衛は力一ぱいの聲で叫んだ。
「見ろ。やつて來たぞ。」
たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。其の線は見る見る太くなつた。廣くなつた。非常な速さで押寄せて來た。
「津波だ。」
と、誰かが叫んだ。海水が、絶壁のやうに目の前に迫つたと思ふと、山がのしかゝつて來たやうな重さと、百雷の一時に落ちたやうなとゞろきとを以て、陸にぶつかつた。人々は、我を忘れて後へ飛びのいた。雲のやうに山手へ突進して來た水煙の外は、一時何物も見えなかつた。
人々は、自分等の村の上を荒狂つて通る白い恐しい海を見た。二度三度、村の上を海は進み又退いた。
高臺では、しばらく何の話し聲もなかつた。一同は、波にゑぐり取られてあとかたもなくなつた村を、たゞあきれて見下してゐた。
稲むらの火は、風にあふられて又もえ上り、夕やみに包まれたあたりを明かるくした。始めて我にかへつた村人は、此の火によつて救はれたのだと氣がつくと、無言のまゝ五兵衛の前にひざまづいてしまつた。

尋常科用 小學國語讀本 巻十の第十  文部省

著作一覧

ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn) の日本での主な著作一覧 (『神戸クロニクル』論説は除く。和訳名は、主として恒文社刊「全訳 小泉八雲作品集・全12巻。1964年~1967年出版」による。) ○明治27(1894)年 9.29.『日本瞥見記』(『知られぬ日本の面影』) 
Glimpses of Unfamiliar Japan (ホウトン・ミフリン 社)
「極東第一日」(My First Day in the Orient)
「弘法大師の書」(The Writing of Kobodaishi)
「地蔵」(Jizo)「江ノ島行脚」(A Pilgrimage to Enoshima)
「盆市で」(At the Market of the Dead)
「盆おどり」(Bon-Odori)
「神々の国の首都」(The Chief City of the Province of the Gods)
「杵築―日本最古の神社」(Kitsuki: The Most Ancient Shrine of Japan)
「潜戸(くけど)―子供の亡霊岩屋」(In the Cave of the Children’s Ghosts)
「美保の関」(At Mionoseki)
「杵築雑記」(Notes on Kitsuki)
「日ノ御碕(みさき)」(At Hinomisaki)
「心中」(Shinju)
「八重垣神社」(Yaegaki-Jinja)
「キツネ」(Kitsune)
「日本の庭」(In a Japanese Garden)
「家庭の祭壇」(The Household Shrine)
「女の髪」(Of Women’s Hair)
「英語教師の日記から」(From the Diary of an English Teacher)
「二つの珍しい祭日」(Two Strange Festivals)
「日本海に沿うて」(By the Japanese Sea)
「舞妓」(Of a Dancing-Girl)
「伯耆から隠岐へ」(From Hoki to Oki)
「魂について」(Of Souls)
「幽霊と化けもの」(Of Ghosts and Goblins)
「日本人の微笑」(The Japanese Smile)
「さようなら」(Sayonara!)

○明治28(1895)年 3.9 『東の国から』
Out of the East (ホウトン・ミフリン社)
「夏の日の夢」(The Dream of a Summer Day)
「九州の学生とともに」(With Kyushu Students)
「博多で」(At Hakata)
「永遠の女性」(Of the Eternal Feminine)
「生と死の断片」(Bits of Life and Death)
「石仏」(The Stone Buddha)
「柔術」(Jiujutsu)
「赤い婚礼」(The Red Bridal)
「願望成就」(A Wish Fulfilled)
「横浜で」(In Yokohama)
「勇子―ひとつの追憶」(Yuko: A Reminiscence)

○明治29(1896)年 3.14. 『心』(Kokoro) (ホウトン・ミフリン 社)
「停車場で」(At a Railway Station)
「日本文化の真髄」(The Genius of Japanese Civilization)
「門つけ」(A Street Singer)
「旅日記から」(From a Traveling Diary)
「あみだ寺の比丘尼(びくに)」(The Nun of the Temple of Amida)
「戦後」(After the War)
「ハル」(Haru)
「趨勢一瞥」(A Glimpse of Tendencies)
「因果応報の力」(By Force of Karma)
「ある保守主義者」(A Conservative)
「神々の終焉」 (In the Twilight of the Gods)
「前世の観念」(The Idea of Preexistence)
「コレラ流行期に」(In Cholera-Time)
「祖先崇拝の思想」(Some Thoughts about Ancestor-Worship)
「きみ子」(Kimiko)
「三つの俗謡」俊徳丸、小栗判官、八百屋お七、の英訳(Three Popular Ballads)

○明治30(1897)年 9.25. 『仏の畑の落穂』(『仏陀の国の落穂』)
Gleanings in Buddha-Fields (ホウトン・ミフリン社)
「生神」(A Living God)
「街上から」(Out of the Street)
「京都紀行」(Notes of a Trip to Kyoto)
「塵」(Dust)
「日本美術の顔について」(About Faces in Japanese Art)
「人形の墓」(Ningyo-no-Haka)
「大阪」(In Osaka)
「日本の俗謡における仏教引喩」(Buddhist Allusions in Japanese Folk-Song)
「涅槃」(Nirvana)
「勝五郎再生記」(The Rebirth of Katsugoro)
「環中記」(Within the Circle)

○明治31(1898)年12. 8.『異国風物と回想』
Exotics and Retrospectives(リトル・ブラウン 社)
《異国風物》(Exotics)
「富士の山」(Fuji-no-Yama)
「虫の音楽家」(Insect-Musicians)
「禅の公案」(A Question in the Zen Texts)
「死者の文学」(The Literature of the Dead)
「カエル」(Frogs)
「月がほしい」(Of Moon-Desire)
《回想》(Retrospectives)
「第一印象」(First Impressions)
「美は記憶なり」(Beauty is Memory)
「美のなかの悲哀」(Sadness in Beauty)
「青春のかおり」(Parfum de Jeunesse)
「青の心理学」(Azure Psychology)
「小夜曲」(A Serenade)
「赤い夕日」(A Red Sunset)
「身震い」(Frisson)
「薄明の認識」(Vespertina Cognitio)
「永遠の憑きもの」(The Eternal Haunter)

○明治32(1899)年 9.26.『霊の日本』
In Ghostly Japan(リトル・ブラウン社)
「断片」(Fragment)
「振袖」(Furisode)
「香」(Incense)
「占いの話」(A Story of Divination)
「蚕」(Silkworms)
「恋の因果」(A Passional Karma)
「仏陀の足跡」(Footprints of the Buddha)
「犬の遠ぼえ」(Ululation)
「小さな詩」(Bits of Poetry)
「日本の仏教俚諺」(Japanese Buddhist Proverbs)
「暗示」(Suggestion)
「因果ばなし」(Ingwa-banashi)
「天狗譚」(Story of a Tengu)
「焼津」(At Yaidzu)

○明治33(1900)年 7.24. 『明暗』(『影』)
Shadowings (リトル・ブラウン 社)
《珍籍叢話》(Stories from Strange Books)
「和解」(The Reconciliation)
「普賢菩薩のはなし」(A Legend of Fugen-Bosatsu)
「衝立の乙女」(The Screen-Maiden)
「死骸に乗る」(The Corpse-Rider)
「弁天の感応」(The Sympathy of Benten)
「鮫人の恩返し」(The Gratitude of the Samebito)
《日本研究》(Japanese Studies:)
「蝉」(Semi)
「日本女性の名」(Japanese Female Names)
「日本の古い歌謡」(Old Japanese Songs)
《夢想》(Fantasies:)
「夜光虫」(Noctiluca)
「人ごみの神秘」(A Mystery of Crowds)
「ゴシックの恐怖」(Gothic Horror)
「飛行」(Levitation)
「夢魔の感触」(Nightmare-Touch)
「夢の本から」(Readings from a Dream-Book)
「一対の目のなかに」(In a Pair of Eyes)

○明治34(1901)年10. 2. 『日本雑記』
A Japanese Miscellany (リトル・ブラウン社)
《奇談》(Strange Stories)
「守られた約束」(Of a Promise Kept)
「破られた約束」(Of a Promise Broken)
「閻魔の庁で」(Before the Supreme Court)
「果心居士」(The Story of Kwashin Koji)
「梅津忠兵衛」(The Story of Umetsu Chubei)
「興義和尚のはなし」(The Story of Kogi the Priest)
《民間伝承 落穂集》(Folk-Lore Gleanings:)
「トンボ」(Dragon-flies)
「動・植物の仏教的名称」(Buddhist Names of Plants and Animals)
「日本のわらべ歌」(Songs of Japanese Children)
《あちこち艸》(Studies Here and There:)
「橋の上」(On a Bridge) 「お大の場合」(The Case of O-Dai)
「海のほとり」(Beside the Sea)
「漂流」(Drifting)
「乙吉のだるま」(Otokichi’s Daruma)
「日本の病院で」(In a Japanese Hospital)

○明治35(1902)年10.22.『骨董』
Kotto (Being Japanese Curios, with Sundry Cobwebs) (マクミラン 社)
《古い物語》(Old Stories)
「幽霊滝の伝説」(The Legend of Yurei-Daki)
「茶わんの中」(In a Cup of Tea)
「常識」(Common Sense)
「生霊」(Ikiryo)
「死霊」(Shiryo)
「おかめのはなし」(The Story of O-Kame)
「蠅のはなし」(Story of a Fly)
「雉子のはなし」(Story of a Pheasant)
「忠五郎のはなし」(The Story of Chugoro)
「ある女の日記」(A Woman’s Diary)
「平家蟹」(Heike-Gani)
「蛍」(Fireflies)
「露のひとしずく」(A Drop of Dew)
「餓鬼」(Gaki)
「いつもあること」(A Matter of Custom)
「夢想」(Revery)
「病のもと」(Pathological)
「真夜中に」(In the Dead of the Night)
「草ひばり」(Kusa-Hibari)
「夢を食うもの」(The Eater of Dreams)

○明治37(1904)年 4. 2. 『怪談』
Kwaidan (Stories and Studies of Strange Things) (ホウトン・ミフリン 社)
「耳なし芳一のはなし」(The Story of Mimi-Nashi-Hoichi)
「おしどり」(Oshidori)
「お貞のはなし」(The Story of O-Tei)
「うばざくら」(Ubazakura)
「かけひき」(Diplomacy)
「鏡と鐘」(Of a Mirror and a Bell)
「食人鬼」(Jikininki)
「むじな」(Mujina)
「ろくろ首」(Rokuro-Kubi)
「葬られた秘密」(A Dead Secret)
「雪おんな」(Yuki-Onna)
「青柳ものがたり」(The Story of Aoyagi)
「十六ざくら」(Jiu-Roku-Zakura)
「安芸之介の夢」(The Dream of Akinosuke)
「力ばか」(Riki-Baka)
「日まわり」(Hi-Mawari)
「蓬莱」(Horai)
《虫の研究》(Insect-Studies)
「蝶」(Butterflies)
「蚊」(Mosquitoes)
「蟻」(Ants)

○ 明治37(1904)年9.『日本―一つの試論』
Japan; An Attempt at Interpretation(マクミラン社)
「わかりにくさ」(Difficulties)
「珍しさと魅力」(Strangeness and Charm)
「上代の祭」(The Ancient Cult)
「家庭の宗教」(The Religion of the Home)
「日本の家族」(The Japanese Family)
「地域社会の祭」(The Communal Cult)
「神道の発達」(Developments of Shinto)
「礼拝と清め」(Worship and Purification)
「死者の支配」(The Rule of the Dead)
「仏教の渡来」(The Introduction of Buddhism)
「大乗仏教」(The Higher Buddhism)
「社会組織」(The Social Organization)
「武力の興隆」(The Rise of the Military Power)
「忠義の宗教」(The Religion of Loyalty)
「キリシタン禍」(The Jesuit Peril)
「封建制の完成」(Feudal Integration)
「神道の復活」(The Shinto Revival)
「前代の遺物」(Survivals)
「現代の抑圧」(Modern Restraints)
「官制教育」(Official Education)
「産業の危機」(Industrial Danger)
「反省」(Reflections)

○明治38(1905)年10.18.『天の川綺譚』
The Romance of the Milky Way, and Other Studies and Stories (ホウトン・ミフリン社)
「天の川綺譚」(The Romance of the Milky Way)
「化けものの歌」(Goblin Poetry)
「『究極の問題』」(“Ultimate Questions”)
「鏡の乙女」(The Mirror Maiden)
「伊藤則資のはなし」(The Story of Ito Norisuke)
「小説よりも奇なり」(Stranger than Fiction)
「日本だより」(A Letter from Japan)

おことわり

「神戸のハーン」作品から
「お断り」 作品の題名と本文の和訳は主として恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集・全15巻。生誕130年記念出版」「全訳 小泉八雲作品集・全12巻。1964年~1967年出版」(平井呈一訳)と、第一書房刊「小泉八雲全集・全18巻。大正15年~昭和3年出版」(戸澤正保、石川林四郎訳)に拠っているが、監修者の責任に於いて、いずれからも、事実の誤認は訂正し、人権上の配慮などにより語句を改め、新仮名遣いにするほか、表現に変更を加えている。また「注」とあるのは監修者による補足・説明である。
なお、英文は、
「The Writings of Lafcadio Hearn in Sixteen Volumes, Houghton Mifflin Company. 1922」から写している。

神戸とモラエス

神戸とモラエス

二人は同時代に生き、ともに神戸で暮らしたが面識はない。
しかしモラエスは、生前のハーンにあこがれを持ち、死後は追慕という形で心の片隅にハーンがいた。

ハーンとモラエス

モラエスは、1854年にポルトガルに生まれた。一方のハーン(小泉八雲)は、1850年のギリシャ生まれ。モラエスは1889年の八月に初来日し、ハーンが日本にその最初の一歩を印したのは1890年四月四日で、ほぼ同時期である。日本で生活した数年は、ハーンの十四年に対して、モラエスは三十年以上と長い。ただし、ハーンが日本を愛し、日本人を妻にし、家庭を築き、旧制松江中学や東京帝国大学で教鞭をとるなど、多くの知識階級との交流があったのに対して、モラエスは、領事という立場にはあったが、市井にひっそりと暮らしたという感が深い。また、同時代を生きたが、二人に面識はない。あくまでもモラエスにとって、ハーンは文明批評と異国情緒にあふれた作品を書く、範とすべき人物だったのである。
モラエスの著作を読むと、あちらこちらにハーンの名を見ることができる。
たとえば、神戸時代の著作「日本通信」Ⅱの第十九章、1904年十月二十六日の日付があるが、その記事の中でモラエスは、「ラフカディオ・ハーンの死」と題して、<<小泉八雲は、明らかに青年時代の難渋生活の無理がたたったのだろう、弱い肉体組織はかなり以前から病気にかかっていたので、雅趣がある庭に囲まれた東京にひきこもっていた。 (モラエス会 会誌「モラエス 第七号」より)
執筆者:「モラエス」編集委員会 モラエス会常任幹事 福原 健生 他

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 モラエスは、1854年にポルトガルに生まれた。一方のハーン(小泉八雲)は、1850年のギリシャ生まれ。モラエスは1889年の八月に初来日し、ハーンが日本にその最初の一歩を印したのは1890年四月四日で、ほぼ同時期である。日本で生活した数年は、ハーンの十四年に対して、モラエスは三十年以上と長い。ただし、ハーンが日本を愛し、日本人を妻にし、家庭を築き、旧制松江中学や東京帝国大学で教鞭をとるなど、多くの知識階級との交流があったのに対して、モラエスは、領事という立場にはあったが、市井にひっそりと暮らしたという感が深い。また、同時代を生きたが、二人に面識はない。あくまでもモラエスにとって、ハーンは文明批評と異国情緒にあふれた作品を書く、範とすべき人物だったのである。
モラエスの著作を読むと、あちらこちらにハーンの名を見ることができる。
たとえば、神戸時代の著作「日本通信」Ⅱの第十九章、1904年十月二十六日の日付があるが、その記事の中でモラエスは、「ラフカディオ・ハーンの死」と題して、小泉八雲は、明らかに青年時代の難渋生活の無理がたたったのだろう、弱い肉体組織はかなり以前から病気にかかっていたので、雅趣がある庭に囲まれた東京にひきこもっていた。交際嫌いで神経質で偏屈な気質で、最新では、東京に住む多くの外国人とのどんな交際も絶対に拒んでいた。九月二十六日の朝、少し庭園を散歩した後、突然、死んだ。埋葬は仏式で行われた。と、ハーンの晩年とその最期について述べた後、ハーンの業績についても言及し、小泉八雲は、入籍した新しい祖国を崇拝していたし、その著述でも日本を崇拝し続けている物が多い。すばらしい叡智、随想的で微細な芸術家気質、美しい形式で日本に関する著書を書き、ひどく日本的な随想を出版したが、そのすべてがすばらしい文学の宝玉であった(「定本モラエス全集」)・花野富蔵訳)と賛辞を贈っている。
また、晩年の「おヨネとコハル」の中でも、ハーンの著作について、それらはすべて、形式、優婉な言葉づかい、精妙な観察、鋭い感覚という点ですばらしいものであり、彼だけがもつある種のえもいわれぬ情緒性によって英国の、そして間違いなく世界文学の中で第一級の現代散文家のひとりと今日、考えられる権利―長いあいだ認められず、やっと得たのではあるが――を彼に与えている。(「おヨネとコハル」)・岡村多希子訳)と述べている。モラエスは生前のハーンに憧れを持ち、また死後は、追慕という形で常に常識の片隅にあったように思われる。
モラエスはハーンの模写であり、模倣であるという意見もある。たしかにその作品の中には、ハーンの影響も少なくない。対象への接近の仕方やものの見方、捉え方にハーンに通じるものが多いの確かである。日本の近代をどう見るかといった時に、モラエスはハーンと同様に、より肯定的に見ようとしている。
たとえば、彼が最後の著作としてまとめた「日本精神」などは、パーシヴァル・ローエルの「極東の魂」に構成や取り上げる項目が酷似しているが、日本人の国民性や日本文化についての評価は、否定的なローエルとはまったく正反対の結論に至る。
モラエスはけっして独創的な日本研究をしたとは言えないし、優秀なジャパノロジストではなかったかもしれない。しかし、彼は、彼自身の生き方を通して、異文化理解というものを体現した。それはハーンとはまた違った意味で、深く、重いものであった。その体験は、私小説的な随筆として異国に生きるエトランゼの孤独感と哀しみが的確な筆致で描かれる「徳島の盆踊り」や「おヨネとコハル」となって結実する。 ヴェンセスラウ・ジョゼ・デ・ソーザ・モラエスと小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)。この二つの名前にはそれぞれの生涯が象徴されているように思う。ギリシャに生まれ、自らのアイデンティティーを探し求め、遠く東洋の島国でその生涯を終わったハーンは、日本に帰化し、小泉八雲を名乗った。それに対して、大航海時代の覇者ポルトガルのリスボンに生まれ育ったモラエスは、終生モラエスのまま、誇り高きルシタニアの民としてその後半生を日本に送ったのである。(モラエス会)※ルシタニア・・・ポルトガルの古名、雅称。

神戸とモラエス

神戸とモラエス
ポルトガル領事館でのモラエス

マカオで海軍高官として、さまざまな重責を誠実にこなしたモラエスは、在任中公務で度々日本を訪れ、長期滞在を繰り返していた。そして日本の自然、人情、風習、めざましい発展ぶりなどに深く魅了されるようになっていた。
そうした考察や観察を「極東遊記」「大日本」などの著作に発表し、ポルトガル本国でも文筆家、日本通として知られるようになっていた。
1889年、ポルトガルの砲艦「リオ・リマ」の副官として長崎に上陸して以来、モラエスにとって日本は憧れの国となっていた。これまで漂泊の旅を続けてきたアフリカ、マカオなどの原色に彩られた熱帯性の野生美とは違って、そこには優しい光りと色をたたえた自然があり、心和ませる風習と生活にあふれ、愛くるしい女性たちがいた。しかし、彼に日本移住を決意させたのは、1897年のマカオの不当な人事であった。
(徳島県立文学館 特別展「モラエスとハーン展」図録より)
執筆者:林 啓介

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 マカオで海軍高官として、さまざまな重責を誠実にこなしたモラエスは、在任中公務で度々日本を訪れ、長期滞在を繰り返していた。そして日本の自然、人情、風習、めざましい発展ぶりなどに深く魅了されるようになっていた。


そうした考察や観察を「極東遊記」「大日本」などの著作に 発表し、ポルトガル本国でも文筆家、日本通として知られるようになっていた。
1889年、ポルトガルの砲艦「リオ・リマ」の副官として長崎に上陸して以来、モラエスにとって日本は憧れの国となっていた。これまで漂泊の旅を続けてきたアフリカ、マカオなどの原色に彩られた熱帯性の野生美とは違って、そこには優しい光りと色をたたえた自然があり、心和ませる風習と生活にあふれ、愛くるしい女性たちがいた。しかし、彼に日本移住を決意させたのは、1897年のマカオの不当な人事であった。
 モラエスが希望した神戸領事館の開設は、難航を重ねた末、ついに1899年に実現した。やがて彼は公式にポルトガル国神戸領事に任命され、ポルトガルと日本の通商の拡大や日本在住のポルトガル人の保護など各方面にすぐれた外交手腕を発揮するようになった。
そして翌1900年(明治三十三年)年十一月、彼は徳島出身の福本ヨネと結ばれた。モラエス四十六才、おヨネは二十五才であった。
 おヨネはどこか愁いを宿したかげりのようなものが美しい目鼻立ちに漂う女性だった。
 控え目だが優しく細やかな心遣いでモラエスに尽くした。モラエスは彼女との結婚で初めて満ち足りた心の安らぎを得たといわれる。そしてますます職務や文筆活動に精力的な情熱を注ぐようになっていく。
 1902年四月からは、ポルトガルの商都ポルトで発行されていた「ポルト商報」の第一面に、モラエスは「日本通信」を連載し始めた。内容は日本の政治、経済、軍事、社会芸術文化などあらゆる分野に及び、天皇を中心に発展を遂げる日本の姿を通して、混乱し衰退してゆく祖国ポルトガルの覚醒(かくせい)を促そうとした趣きがある。「日本通信」は1913年まで続き、全六巻を数える膨大な著作となるのである。
 また彼は公的あるいは私的な会合にも熱心に参加し、巡洋艦「サン・ガブリエル」など母国の船が神戸を訪れると喜び勇んで最大限の歓待をした。
 また関西各地への旅行の見聞や日本の文献などをもとに「日本夜話」、「茶の湯」など日本の自然、風俗、芸術などを賛える日本紹介の著作も次々に発表した。
 ところが、1912(明治45年)年に、モラエスにとって耐え難いできごとが相次いで起きた。尊敬する明治天皇の崩御、最愛の女性おヨネの死、そしてポルトガル本国の革命。モラエスを取り巻く風景が一変してしまったのである。彼の憂愁は極度につのった。
 心機一転をはかるため住居を山本通から神納町に移したり、新しくやとった出雲出身の永原デンを半年ほど同棲もした。
 しかし、結局モラエスは無常感を払拭することができなかったのであろうか、翌1913年、ポルトガル共和国大統領あてに公職返上を願い出たのである。
—————–ポルトガル国海軍中佐ヴェンセスラウ・デ・モラエスは、きわめて極力な私的な理由から、一切の公的な理由から、一切の公的な地位とも、はたまたポルトガル人として国籍とも両立しない立場に身を置く所存であります。領事職の辞任を直ちにお認めいただきますよう、閣下にお願い申し上げる次第であります——————-
本国政府は突然の申し入れに驚いたものの、辞表を受理した。
鴨長明の「方丈記」や吉田兼好の「徒然草」を愛読していたモラエスは、神戸を離れて隠棲しようと考えるようになった。五十九才日本流にいえば還暦を迎えていたのである。

加納町にあったモラエスの自宅
右側の和服姿がモラエス
当初モラエスは、隠棲地として先にデンを帰してあった出雲を考えていたようであるが、彼が金を出して造ったおヨネの墓ができて徳島を訪れてからは徳島移住に心が傾いていった。「愛する人の墓のある徳島へ行こう」と決心したのである。徳島にはおヨネの姉ユキやその娘のコハルもいる。それに気候も温和で暮らしやすい。何よりも昔ながらの日本的な風習や人情が残っていて、緑濃い自然も豊かである。文筆活動に専念できる土地に思えたのであろう。彼は徳島行きの片道切符を買った。

モラエスの作品

モラエスの作品

ヴァスコダ・ガマのインド航路発見400年際の記念事業のひとつとして、リスボンの地理学協会が、東洋に関する図書を出版するにつき極東遊記の著者で、日本通のモラエスに日本についての著述の依頼があって執筆した。
この作品はポルトガルで好評を博した。
「日本通信Ⅰ」(日露開戦前)、1904年、ポルトで出版する。
ポルトガル北部の都市ポルトの経済新聞「ポルト商報」の編集長ベント・カルケジャが、通商官報にのったモラエスの領事館年報の記事に感銘し、懇願して無報酬の通信員になってもらい、書いてもらった記事を1902年四月八日から1904年二月十八日までの間に同紙に掲載したもの。 (モラエス会 会誌「モラエス 第七号」より)
執筆者:「モラエス」編集委員会 モラエス会常任幹事 福原 健生 他

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ヴァスコダ・ガマのインド航路発見400年際の記念事業のひとつとして、リスボンの地理学協会が、東洋に関する図書を出版するにつき極東遊記の著者で、日本通のモラエスに日本についての著述の依頼があって執筆した。
この作品はポルトガルで好評を博した。
「日本通信Ⅰ」(日露開戦前)、1904年、ポルトで出版する。
ポルトガル北部の都市ポルトの経済新聞「ポルト商報」の編集長ベント・カルケジャが、通商官報にのったモラエスの領事館年報の記事に感銘し、懇願して無報酬の通信員になってもらい、書いてもらった記事を1902年四月八日から1904年二月十八日までの間に同紙に掲載したもの。
「茶の湯」1905年(明治三十八年)、モラエスが神戸で自費出版する。
「日本通信Ⅱ」(日露開戦中)、1905年、ポルトで出版する。
1904年三月二日から翌年の三月二十三日までのポルト商報に連載した記事三十編百十二項目を掲げる。
「中国・日本風物誌」1906年にリスボンで初版を、1938年に再版を刊行。
ブラジルやポルトガルの雑誌などで発表した随想を集めたもの。
「日本通信Ⅲ」(日本生活)1907年、ポルトで出版する。
前巻同様に1905年四月十四日から翌六年十二月二十五日までの間、ポルト商報に連載した記事をまとめ、モラエス自身が序文を認めたもの。
「徳島の盆踊」1916年にポルトで初版・1929年に再版を発行する。
モラエスが徳島に来住して執筆した「日本随想記」
「日本通信Ⅳ」1928年、リスボンで出版する。
前巻同様に1907年一月十六日から1908年十二月十五日までの間、ポルト商報に連載した記事をまとめる。ラフカディオ・ハーンとその著書についても触れている。
「日本夜話」1926年、リスボンで出版する。
これは前作の「おヨネとコハル」が好評を得たことで再版権を懇願していたリスボンのポルトガル・ブラジル社に対して、神戸時代に雑誌「セロンイス」に発表した短篇をまとめることで出版権を与えて、1926年に刊行したもの。
「日本精神」1926年、リスボンで出版する。
この作品は七十歳を過ぎたモラエスが、病魔にさいなまれ、ままならぬ体にむち打って大正十四年(1925年)9月に書きあげた最後の著作。親友モレイラ・デ・サを介して、リスボンのポルトガル・ブラジル社から刊行されたのは翌1926年の十一月であった。作品目次の初章を、最初の考え、そして、言語、宗教、歴史、家族、部族、国家、愛、死、芸術と文学、これまでのまとめ、と続き、日本精神はどこまで行くのか?を終章とし、日本教育、を補遺とする。

神戸モラエスマップ

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布引の滝

布引の滝
布引の滝
布引の滝

ポルトガル領事館跡

ポルトガル領事館跡
ポルトガル領事館跡

第1居住地

第1居住地

第2居住地

第2居住地
第2居住地

モラエス像

モラエス像

モラエスの年譜

1854(安政元年)
0歳 ポルトガル・リスボン市トラヴェサ・ダ・クルス・ド・トレル4番地の旧家に生まれる。
市の中心を成すアヴェニーダ・ダ・リベルダディの東手、カルサダ・ドヴラをのぼりつめたところ。父はヴェンセスラウ・ジョゼ・デ・ソーザ・モラエス、母はマリア・アマリア・デ・フィゲイレド・モラエス。両親はいとこ同士。モラエス家には長男に代々同じ名前をつける習慣があった。5歳年長の姉エミリアがいた。
1857(安政4年)
3歳 3月1日:妹フランシスカ生まれる
1865(慶応元年)
11歳 手製の家庭新聞を発行する。
この頃、リスボン市ファンケイロス通りにあったサント・アゴスティニョ小学校に通っていた。
1871(明治 4年)
17歳 8月29日:陸軍歩兵第5連隊に志願兵として入隊。この前後に父が死亡。
9月25日:海軍特別見習士となる。この頃、ラウラ・デ・アレンケルなる少女に恋するが、彼女は応えない。
1873(明治6年)
19歳 10月10日:理工科学校内に設けられた海軍兵学校の予科を修了。この頃。マリア・イザベル・ドス・サントスが夫と姑とともにモラエス家の階下に住まいはじめる。
1874(明治 7年)
20歳 7月13日:第1学年を修了し、練習航海に出る(2ヶ月10日)
1875(明治 8年)
21歳 7月2日:海軍兵学校全過程を修了。
10月2日、同期生13名中九位の成績で海軍少尉に任官。
1876(明治 9年)
22歳 1月10日:短編「屋根裏の秘密」執筆。
3月20日:教育航海のための輸送船「インディア」に転属。
4月3日:米国フィラデルフィアで開催される万博博覧会への出品物と関係者を運ぶためにリスボンを発つ。
1877(明治 10年)
23歳 1月11日:「アフリカ」、アンゴラに向け出航。
2月2日:ルアンダに到着。
2月8日:ルアンダを出航、喜望峰を経て、3月5日、ローレンソ・マルケスに到着(第1回モザンビーク勤務)
1878(明治 11年)
24歳 4月:コルヴェット艦「ミンデロ」に転属、主として奴隷密貿易取締にあたる。
1879(明治 12年)
25歳 1月:「ミンデロ」、ローレンソ・マルケス湾に再度出動。この頃マリア・イザベル・ドス・サントスとの文通はじまる。
3月10日:「セナ」に移る。
8月9日:帰国のため輸送船「アフリカ」に移り、スエズ経由で、11月24日、帰国。マリア・イザベルとの関係深まる。
1880(明治 13年)
26歳 2月12日:中尉に昇進。
4月:マリア・イザベルとモラエスの家族がもめる。
1881(明治 14年)
27歳 6月6日:「ミンデロ」でモサンビークに向かう。
9月17日:マリア・イザベル、男子を死産。
1882(明治 15年)
28歳 7月22日:リスボンの母マリア・アマリア、脳卒中の発作で倒れる。
8月12日:「ミンデロ」、トゥンゲ湾に
1883(明治 16年)
29歳 5月28日:ザンジバルに向かう。
7月17日:商船「アシリア」で帰国の途につく。
1884(明治 17年)
30歳 9月:マリア・イザベル、モラエスの家族との軋轢を避け転居。
12月:姉エミリアがアントニオ・フランシスコ・ダ・コスタと結婚。
1885(明治 18年)
31歳 3月14日:東アフリカ・インド洋分隊所属砲艦「リオ・リマ」の副官に任命される。
3月23日:郵便船「ガース・キャスル」でもモサンビークに向かう。
5月20日:母アマリア死亡。
7月15日:「リオ・リマ」副官として、モサンビークからマカオに向かう。
1886(明治 19年)
32歳 1月13日:リスボンに帰着。60日間の病気休暇を与えられる。
4月30日:海軍大尉に昇進。
8月22日:甥ジョアンキン(姉エミリアの長男)誕生。
8月24日:砲艦「ドーロ」に配属。
1887(明治 20年)
33歳 1月23日:「ドーロ」、ザンジバルとの国境紛争にからんで兵力増強のため同海域に出勤。
5月3日:州保険委員会の意見により帰国のため下船。
1888(明治 21年)
34歳 2月9日:復縁を求めるモラエスに、マリア・イザベルからの拒否の返事。マカオに赴任。
3月30日:輸送船「インディア」でリスボンを発つ。
7月7日:コロンボ、シンガポールに寄航ののちマカオ着。
7月8日:「リオ・リマ」に副官として配属される。
7月14日:艦の修理のため香港に行き、同地に10月28日まで滞在。この頃、デンマーク男性と中国人女性とのあいだに生まれた亜珍は14歳であった。
1889(明治 22年)
35歳 6月20日:「リオ・リマ」中国北部と日本諸港巡航のためマカオ出航。
8月4日:長崎に入港する。神戸、横浜に立ち寄り長崎、上海を経て、9月14日、マカオ着。
12月31日:砲艦「テジョ号」に転属。
1890(明治 23年)
36歳 3月3日:「テジョ号」の臨時船長になる。
4月20日:マカオを発ち、バンコクに向かう。
1891(明治 24年)
37歳 3月1日:長男ジョゼ誕生。3月末を持ってマカオでの任務は満了する。
4月11日:マカオを出航、帰国の途につく。
8月22日:リスボンに入港。
10月26日:マカオ港港務副司令官に任命される。
10月29日:少佐に昇進。
12月22日:マカオ港港務副司令官としてマカオにいた。
12月30日:阿片輸出入取締監督官に任命される。この頃、600パタカで亜珍を身請けする。
1892(明治 25年)
38歳 1月:マカオ中心部トラヴェサ・ダ・ミゼリコルディアに転居する。
9月1日:次男ジョアン誕生。
1893(明治 26年)
39歳 4月:セミナリオ・デ・サン・ジョゼの教授に任命される。
6月3日:兵器購入のため日本出張を命じられる。
11月30日:国立マカオ・リセ教授に任命される。
12月30日:中佐に昇進。
1894(明治 27年)
40歳 2月3日:阿片輸出入取締監督官辞任。日本出張を命じられ7月4日、マカオを発つ。
1895(明治 28年)
41歳 7月6日:90日間の病気休暇をとるが9月7日に出勤、残りの休暇取り消す。「極東遊記」がリスボンで出版される。
1896(明治 29年)
42歳 7月10日:亜珍名義でマカオの家屋を購入。
7月27日:新船用兵器を日本で購入するよう命じられ、7月29日、マカオを発つ。
1897(明治 30年)
43歳 2月1日:マカオ港港務司令官アルバノ・アルヴェス・ブランコ大佐解任され。アントニオ・タロネ・ダ・コスタ・イ・シルヴァ少佐が新司令官に任命される。この人事異動を日本滞在中に知ったモラエスは、中佐の自分を飛び越して少佐が任命されたことに一大ショックをうけ、何としてもマカオの港務副司令官のポストには戻るまいと決意し、神戸領事に任命されるように運動しはじめる。
6月23日:外交使節の書記官に任命される。
7月10日:「大日本」がリスボンで出版される。
7月14日:京都御所で天皇陛下に拝謁。
1898(明治 31年)
44歳 6月8日:神戸領事任命問題が進展しないことに苛立ったモラエスは、情況を正確に把握するために、また亜珍母子の処遇について検討するためマカオに戻る。
11月22日:神戸大阪ポルトガル副領事館臨時運営を任じられる。
1899(明治 32年)
45歳 5月12日:神戸大阪ポルトガル領事事務取扱に就任する。
6月:「ポルト商報」社主ベント・カルケジャ訪日。
9月29日:神戸大阪ポルトガル領事認可状下付され、正式に領事となる。
1900(明治 33年)
46歳 5月13日:領事事務取扱就任一周年を記念して、宇治に一泊旅行する。この頃、おヨネと知り合い、11月、同棲をはじめる。
1902(明治 35年)
48歳 5月24日:兵庫県庁の落成式に出席。
6月20日:イタリア領事兼任。
1903(明治 36年)
49歳 3月1日~7月31日:第5回内国勧業博覧会が大阪で開催され、モラエスの奔走によりポルトガル物産が展示された。
4月10日:神戸港で日本海軍の大艦隊式。
1904(明治 37年)
50歳 2月10日:日本、ロシアに宣戦布告し、日露戦争始まる。
9月26日:ラフカディオ・ハーン、東京で病没。この年、「日本通信 第一集」がポルトで出版される。
1905(明治 38年)
51歳 3月:リスボンで、姉エミリア死亡。
9月21日:息子ジョゼとジョアン、マカオで受洗。この年、「茶の湯」が神戸で自費出版される。「日本通信 第二集」がポルトで出版される。
1906(明治 39年)
52歳 この年、「中国・日本風物誌」がリスボンで出版される。
1907(明治 40年)
53歳 11月:京都末慶寺をはじめて訪れる。この年、「日本の生活 通信第三集」がポルトで出版される。
1908(明治 41年)
54歳 3月3日:日本艦隊観艦式に招かれる。この頃、リスボンの甥ジョアキン結婚。
1909(明治 42年)
55歳 3月3日:城崎を訪れる。
1910(明治 43年)
56歳 3月3日:巡洋艦「サン・ガブリエル」、神戸寄港(11日まで)。 7月8日:全士官、日本人高官らを料亭「常盤花壇」に招待する。
1911(明治 44年)
57歳 7月以降:マカオから給与の送金とだえる。
11月12日:末慶寺宗祖700回忌に招待される。
1912(明治 45年)
58歳 7月30日:明治天皇崩御。
1912(大正元年)
8月20日:ヨネ死亡(享年38歳)。
9月はじめ:神戸市内の山本通り2丁目より神納町に転居。
9月21日:第4級神戸ポルトガル総領事に任命される。このころ、永原デン、モラエス邸で奉公。
1913(大正 2年)
59歳  4月17日ごろ:徳島にヨネの墓を見に行く。
6月10日:本国大統領に宛てて、神戸ポルトガル領事辞任および海軍軍籍離脱を願い出る。ポルトガル領事事務を引き継いだメキシコ領事の報告によれば、6月30日に引き継ぎをすませ、7月12日、総領事辞任願い受理される。
7月29日:カタカナの遺書を書く。
1914(大正 3年)
60歳 2月:「徳島の盆踊り」を「ポルト商報」に送りはじめる。
4月3日:コハルに長男花一生まれるが、まもなく死亡。モラエスの子だったという。
1915(大正 4年)
61歳 9月15日:コハルに次男朝一生まれる。
1916(大正 5年)
62歳 8月12日:コハル喀血し入院。
10月2日:コハル死亡(享年23年)。
1918(大正 7年)
64歳 10月4日:朝一死亡(享年3歳)
1919(大正 8年)
65歳 6月初旬:亜珍と長男ジョゼが来日。まず亜珍が、続いてジョゼが徳島を訪れ、8日に去る。
8月12日:正式の長文の自筆証書遺言2通を認める。
11月19日:コハルの妹千代子死亡(享年13歳)。
1921(大正 10年)
66歳 10月初旬:フランシスコ・シェダスがモラエスを訪問。
1923(大正 12年)
68歳 8月16日:東京外国語学校学生安部六郎がモラエスを訪問。
1926(大正 15年)
71歳 この年:神戸時代にリスボンの雑誌「セロンイス」に発表していた短篇をまとめた「日本夜話」と「日本精神」がリスボンで出版される。
1927(昭和2年)
73歳 8月:「大阪朝日」、「徳島毎日」などの記者団が訪問。一斉に訪問記を掲載する。この頃、香港から亜珍来徳、5日間滞在。
1929(昭和 4年)
75歳 春ごろ:病状悪化。神戸ポルトガル領事シルヴァ・ィ・ソーザ夫妻が来徳し、妻が看病にあたると申し出たが、徳島で生を終わりたいというモラエスの意志かたく、神戸移転の説得は失敗に帰す。7月1日、自宅で遺体となって発見される。この年譜は岡村多希子訳【日本精神】(彩流社)巻末の年譜を元に作成しました。
バレット文庫

『バレット文庫』版四十一編は、その所在がわかりながら、入手できずにいて、ハーン研究者の間では、ずっと〃幻の論説集〃とされてきた。神戸松蔭女子学院大学が松江の「八雲会」の希望を受け、米国の提携大学を経て、ヴァージニア大学保存の『バレット文庫』がマイクロフィルム化されるを待って、七巻の提供を受け、英文、和訳合わせて研究叢書として平成四(1992)年出版。

Lafcadio Hearn Collection (#6101), Clifton Waller Barrett Library, Manuscripts Division, Special Collections Department, University of Virginia Library.

監修者から

監修者の言葉
ラフカディオ・ハーンは、日本で暮らした十四年間に「怪談」「骨董」「心」はじめ伝承、民話からの再話文学など多くの作品を著し、日本と日本人の心を世界に紹介したのち、東京で没した。 米国での青年時代、敏腕の新聞記者として名を上げたハーンは、四十歳で来日して、松江、熊本では英語教師のかたわら、民俗学的著作も出版、そののち神戸を経て東京大学に移り、英文学を講じて日本英語学の草分けともなった。 ハーンが一家で神戸へ移住して来たのは日清戦争最中の明治二十七年暮れ。ジャーナリストに戻ったハーンは、英字紙「神戸クロニクル」新聞(注・1)を舞台に戦争評論などに健筆を振るい、神戸では日本の他都市では見られない特別な活動を続けた。市民生活の面でも、在住二年間の神戸は、ハーンが帰化して日本人の「小泉八雲」に生まれ変わる(注・2)という特別の地であった。 ハーンが「神戸クロニクル」紙で執筆した論説記事のうち、紙面掲載後、ほぼ百年を経てようやく日の目を見た『バレット文庫』版収録の「神戸クロニクル論説集」(注・3)を中心に、神戸でのジャーナリスト・ハーンの全容を描き出そうとしたのがこの番組である。

(注・1)

英字紙「神戸クロニクル」新聞=The Kobe Chronicle 。明治二十四年(1891)、イギリス人ロバート・ヤング(Robert Young)が神戸で創刊した日刊英字新聞。当初は神戸市栄町一丁目七番地で発行、のち浪花町へ移転。

(注・2)

「小泉八雲」に生まれ変わる

(注・3)

「神戸クロニクル論説集」=ハーンが「神戸クロニクル」紙に執筆したとされる論説記事の収集は、ハーンの死後十六年の大正九年(1920)ころ、長男の小泉一雄とハーン生前の友人マクドナルド(Mitchell Charles McDonald, 1853 – 1923)が、ヤング社長立会いで、ハーン執筆と確認して収集したものが第一次「神戸クロニクル論説集」とされ、四十八編。ついで、二度目の調査がハーン愛好家のパーキンス(Percival Perkins,1897-1963)によって昭和十六年(1941)に行われ、四十一編が収集された。調査収集された原稿は三部作成されたが、戦災などを免れたものが『バレット文庫』版として、アメリカのヴァージニア大学で保存されていた。
第一次「神戸クロニクル論説集」四十八編は、すでに昭和三年(1928)、第一書房刊『小泉八雲全集第17巻』で和訳、出版されていた。『バレット文庫』版四十一編は、その所在がわかりながら、入手できずにいて、ハーン研究者の間では、ずっと〃幻の論説集〃とされてきた。神戸松蔭女子学院大学が松江の「八雲会」の希望を受け、米国の提携大学を経て、ヴァージニア大学保存の『バレット文庫』がマイクロフィルム化されるを待って、七巻の提供を受け、英文、和訳合わせて研究叢書として平成四(1992)年出版、さらに、翌々平成六(1994)年、ハーンの「来神百周年」を記念してのイベントが行なわれたのを期として、一般書の「『バレット文庫』版・神戸クロニクル論説集」が恒文社から出版されたものである。

参考年譜

明治 28(1895)年 7月 神戸市山手通六丁目二六番地に転居。

明治 28(1895)年 7月 日本国籍を取る決心をする

明治 28(1895)年 8月25日「妻セツの婿養子となって日本人となろうとする手続き」で戸籍上の相談をする。松江の知人、親戚へ。

明治 28(1895)年 8月27日 小泉セツが分家をする

明治 28(1895)年 8月31日 ヘンドリック宛て、帰化の許可を待つと。

明治 28(1895)年 9月17日 一雄を小泉家へ先に入籍するようにとの助言あり。

明治 28(1895)年 9月 入籍による姓名変更の大臣許可を待つ。と手紙

明治 28(1895)年 11月 上旬 帰化願書は兵庫県知事・周布公平あて。三回提出

明治 28(1895)年 12月15日 西田千太郎へ「私は小泉八雲になる積もりです」

明治 29(1896)年 1月15日 46歳、小泉八雲の入夫許可

明治 29(1896)年 2月10日 入籍

明治 29(1896)年 4月15日 外山教授から「小泉八雲様」と宛名を書かれて私は奇妙な感じがしました。

明治 29(1896)年 6月15日 午後8 時半、宮城、岩手、青森三県を襲った「三陸大津波」。死者二万七千百二十二人(27,122)人、流失・破壊家屋 1万0390戸、観測史上最大の津波被害。当時の新聞は、連日のように津波被害の惨状を報じた。当時の新聞報道の解説の中に、42年前の1854年 (安政元年、嘉永七年)11月5 日( 陰暦) に紀州をはじめ太平洋岸一帯を襲った「安政の大津波」の際に、『稲むらの火』に語られているような手段で広川町ー当時の広村ーの村民を救った濱口儀兵衛(ハーンの『生神』では「濱口五兵衛」と名前を変えている)の史実が報じられた。

明治 29(1896)年 6.21 日曜日。大阪毎日新聞二面「海嘯の歴史」で浜口儀兵衛の逸話が掲載された。

平成 5(1993)年 8月末、和歌山市で、二百人を越す世界のツナミ学者が集まって「国際ツナミ学会」が開かれた。研究発表論文集の第一ページに、ラフカディオ・ハ-ンの作品として、『稲むらの火』(英文)を掲載。原文は『生神』。

監修・協力

■監修者プロフィール

眞貝義五郎(しんかい・よしごろう)

1926年新潟県生まれ

東京大学文学部仏文学科卒業

元・毎日新聞社編集委員。元・神戸松蔭女子学院大学教授

訳書《ラフカディオ・ハーンの「神戸クロニクル論説集」-『バレット文庫』版》

(1994年 恒文社)


■ハーン

監修者

眞貝義五郎

協力者

黒澤 一晃(ハーンの論説、ハーンの本コーナー)

藤森きぬえ(ハーンの神戸マップコーナーの説明文)

遠田 勝(ハーンの手紙コーナー)

小泉 凡

小泉八雲記念館

神戸松蔭女子学院大学

神戸市立博物館

神戸市立中央図書館

早稲田大学図書館

兵庫県中央労働センター

株式会社ジャパンタイムズ

日本IBM株式会社

(社)中華会館

神戸市

広川町教育委員会

大阪歴史博物館

神戸市立須磨海浜水族園

播磨町郷土資料館

嘉納毅人

産経新聞社

湊川神社

旧居留地地区連絡協議会

岡部仁一 ほか


■モラエス

協力者

徳島県立文学書道館

秦 敬一「ハーンとモラエス」

徳島モラエス学会理事長 林 啓介「神戸とモラエス」

モラエス会常任幹事 福原 健生「モラエスの作品」

岡村多希子「モラエスの年譜」

神戸市立博物館

徳島市観光協会(モラエス館)

神戸市 ほか

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