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平家物語館

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神戸で平家を読む

源平争乱という時代の大きな転換期を描き、今もなお多くの人々の心を魅了し続ける「平家物語」。
みなと神戸はこの壮大なドラマの舞台でもありました。
兵庫県内のさまざまな史跡を探訪しつつ、「平家」の豊穣な物語世界を味わってみましょう。

はじめに 〜監修のことば〜

江戸時代前期、俳人芭蕉は歌枕で知られた須磨・明石歴遊の途中、清盛石塔・忠度塚・敦盛塚、楠木正成塚等に詣でています。
確かに神戸は『平家物語』や『太平記』の舞台となった古戦場、近代都市として整備された今もこれら遺跡は昔に変わらず大事に伝えられているのです。
義経最期の地、奥州平泉での芭蕉の感懐「夏草や兵どもが夢の跡」は、ここ神戸でもそのまま実感されることです。
ところで、合戦を題材とする軍記物語の中で、教科書教材として取り上げられるのは『平家物語』だけなど、なぜこの物語が珍重されるのか考えてみたことがありますか。
平家なり太平記には月も見ず-さすが『平家物語』だ、『太平記』の持ち合わせない「月」がうかがえるとの意を込めた芭蕉の門人其角のこの句は、『平家物語』評価の基準を明示したものとして注目に価します。
実在した合戦に取材することの多い歴史物語でありながら、戦況の生々しさを如実に伝えることを志向せず、むしろ抒情に流れることの多い『平家物語』の持質がこの「月」に巧みに集約されているのです。
有馬念仏寺の沙羅の花鑑賞会、荒田八幡宮の福原遷都祭、平敦盛・源平勇士追悼法要、静御前墓前忌日祭など神戸ならではの行事に注目しながら、神戸発信の『平家物語』の魅力総覧を企画してみました。

信太 周(神戸松蔭女子学院大学教授)

奇想「平家」外伝の巻

※クリックで詳細がご覧いただけます

平清盛布引の滝遊覧

歌枕として著名な布引の滝(神戸市中央区)は、『伊勢物語』に、「砂山の上にありといふ布引の滝見に登らんと言ひて登りて見るに、その滝ものより殊なり。長さ二十丈、広さ五丈許なる石の面、白絹に岩を包めらんやうになむありける」と称えられる、一面布をさらすがごとき勝景を今に伝えています。
このような清冽なイメージにやや反することですが、ここ布引の滝は、暴虐の人清盛にふさわしい怪異談の舞台となっているのです。事実談とする確証はありませんが、『平治物語』巻下に、仁安三年(1168)七月、清盛始め平家一門の人々が布引の滝遊覧に赴いた際、一天俄にかき曇り雷鳴とどろくなか、平治の乱で討たれた源義平の亡霊が現れて、その最期の呪いの言葉そのまま、折しも一行のなかにいた義平誅伐の手柄の人難波次郎経房に襲いかかり殺害、清盛はお守りを振って危うく難を逃れた云々と載っています。
『平家物語』巻四「物怪」にも、福原遷都の折の清盛の悪しき夢見の数々-庭に散乱した髑髏どもが清盛を睨んだなど、おどろおどろしい挿話が伝えられています。

錦絵「清盛入道布引瀧遊覧 悪源太義平霊討難波次郎」

築島寺縁起別伝

死者に鞭うたずの成句そのまま、『平家物語』の序章で、「平清盛公と申しし人の有様、伝へ承るこそ、心も詞も及ばれね」と糾弾されたはずが、「清盛逝去」(巻六)に続く追憶談「経島」「慈心房」「祇園女御」では、白河院御落胤説など清盛のただ人ならざる挿話を敬畏込めて語っています。
なかで、「経島」の語る清盛の善政-兵庫の津築港に際し、清盛は人柱に代えて経文を記した石を沈め工事を完成させた云々、一方、『源平盛衰記』には松王丸が自ら志願、多くの人の身代わりとして人柱となり云々との異伝が載りますが、この地に建つのが来迎寺、別名築島寺(神戸市兵庫区)です。
ところで、「平家物語」等の別伝、幸若舞曲や絵巻「築島」には、人柱として捕らえられた中に刑部左衛門国春がいたが、これを伝え聞いた娘名月女が夫ともども清盛に助命嘆願、松王が身代わりとして人柱に立った云々の奇跡劇を伝えています。地誌『摂陽群談』巻九記載の遣跡そのまま、尼崎市尾浜町八幡神社境内に通称名月姫の墓と言われる宝篋印塔、また大阪府能勢町名月峠に名月姫の供養塔があります。

尼崎市尾浜町八幡神社境内
尼崎市尾浜町八幡神社境内(その2)
大阪府能勢町名月峠 名月姫墓所
大阪府能勢町名月峠 名月姫墓所(その2)
錦絵「兵庫築嶋人柱の図」(一寿齊芳員画)

実盛送り・虫送り

かつて源氏に仕えた身が数奇なる運命、今は平家の家臣斉藤実盛が、源平対決富士川合戦での平家大敗の因は我にありと自責の念にかられ、義仲追討の北陸遠征に際し、これが最後の戦さと覚悟して、大将の軍装を願い出て許された云々、果たせるかな、勇敢な戦いの末名乗ることなく討たれた実盛の首実検に際し、木曽義仲はかつての恩人実盛と見抜き手厚く葬った等は、『平家物語』「富士川」(巻五)「実盛最後」(巻七)に展開する戦場美談の一齣です。
能の大成者世阿弥がこの合戦談そのままに名作「実盛」を作り上げたこと、芭蕉が古戦場小松市多太神社を訪れて「むざんやな甲の下のきりぎりす」の句を手向けたなどは著名な挿話です。
人々の実盛愛着の念の深いこと-稲等の害虫を除くため、村人総出で、松明をともして村はずれまで稲虫を送り出す農耕行事虫送りを実盛送りとも称するなどその現れです。
『淡路国名所図絵』巻五に実盛堂が載るなど住事がしのばれます。現在も、多可郡中町奥中で七月上旬この虫送り行事が行われ、乗馬姿の実盛人形を先頭に、「実盛さんはご上洛、稲の虫はお供せえ」の掛け声ひびかせての松明行列は夏の夜の風物詩となっています。

奥中稲の虫送り
多可郡中町奥中(その2)

鵯越の道案内鷲尾三郎義久

花々しい戦さ上手としての源義経の登場-鵯越の坂落としで知られる一の谷の後ろ鵯越の道案内として徴集され、義経の下問に機敏に応ずるこの山の猟師鷲尾庄司武久。老齢の故、義経一行の道案内に立つのは子息、後に鷲尾三郎義久と名乗る熊王で、見事役目を果たしたというのが『平家物語』巻九「老馬」の伝える挿話です。『吾妻鏡』にも載らず、『源平盛衰記』には経春と載るなど、実在の人物としての確証はありませんが、後に、源頼朝に嫉まれた義経が追い詰められて奥州平泉で自害した際、最後まで奮闘討死した忠義な家来と『義経記』等に描かれています。
ところで、地誌『摂津名所図会』巻八には、田井畑鷲尾旧屋(神戸市須磨区相当)と丹生谷鷲尾旧屋(神戸市北区相当)が挿絵入りで立項されています。
ともに家伝来の兜鎧等を誇示、なかには義経公腰掛石を庭に据えるなど本家争いの態がうかがえて興味深いことです。他に、地誌『播州名所巡覧図絵』巻二には、奥畑佐藤氏家(神戸市垂水区相当)を立項、奥畑・下畑から鉄拐山・一の谷の道案内に立ったのが奥畑村の猟師新之丞で、義経から佐藤氏の名字や感状を賜った云々との伝承を記しています。

『摂津名所図会』巻八 丹生谷鷲尾旧屋
『摂津名所図会』巻八 田井畑鷲尾旧屋

平盛俊塚二基

地誌『摂津名所図会』巻八に、
越中前司盛俊墓 長田村名倉の池の傍にあり。塚印に古松一株あり。
と載り、以下、『平家物語』巻九「盛俊最期」を引用しています。
保元・平治の乱に参戦、また正論を通して平家一門のなかで信頼厚かったと伝えられる平盛国の子息で、一の谷合戦にあっても、鵯越の麓の山の手の侍大将を任される程武勇双びなき盛俊ですが、その最期談は、平知章・忠度・敦盛等の戦場美談に較べて、はかばかしいものではありません。平家敗走のなか陣営に踏み止まった盛俊は、源氏方猪俣小平六則綱を捕らえて斬ろうとするが、則綱の命乞いを入れて許す。しかし油断を見透かした則綱に突き倒され討れた云々とぶざまな最期でした。『平家物語』が則綱この日の高名一の筆についたとの称賛で結んでいるなど武士道精神刷り込まれた今日卑怯な振舞いと糾弾される筈がと奇異の感しないでもありませんが、これこそ武士の生態なのでしょう。
盛俊塚は現在神戸市長田区名倉町と庄山町の二基伝えられています。『笈の小文』旅の途次、芭蕉が訪れた盛俊塚は庄山町の塚とする考証が有力です。

『摂津名所図会』巻八 神戸松蔭女子学院大学図書館蔵

幻想安徳天皇内裏跡

須磨・明石を描いて屈指の名文、芭蕉『笈の小文』の末尾に、
鉢伏のぞき・逆落し等恐ろしき名のみ残りて、鐘懸松より見下ろすに、一の谷内裏屋敷目の下に見ゆ。其代の乱れ、其時の騒ぎ、さながら心に浮かび、俤に集ひて云々。
と古戦場一の谷を訪れての感慨が記されています。
確かに、『平家物語』巻九「敦盛最期」に、平敦盛を討った熊谷直実が、「この暁、城の内にて管弦し給ひつるはこの人々にておはしけり」等と敦盛の遺品横笛を手に感に堪えぬとの名場面、ただし、城とは大げさな、せいぜいが砦ぐらいのもの、まして、『宮尾本平家物語』玄武之巻に、
御座船には主上をはじめ、女院、二位尼時子(略)、それに総指揮官たる宗盛が警護の者とともに侍っており云々。
と明記しているように、安徳天皇等は沖の御座船に控えていたというのが歴史の真相です。
鵯越坂落としの現場は何処かは郷土史家の論争の的ですが、鉄拐山麓に内裏跡を比定するなどは、鉄拐山から一の谷への奇襲を前提としたものと言えます。

錦絵「一之谷鵯越逆落之図」(月岡芳年画)
錦絵「須磨大裏大評定之図」(一猛斉芳虎画)

熊谷状・経盛返状

一の谷合戦を彩る美談の一つ、名乗らぬ平敦盛を討った熊谷直実がその遺品横笛に感じて、栄光の武名を捨てて出家、法然上人の弟子となった云々-狂言綺語の理と言ひながら、遂に讃仏乗の因となるこそ哀れなれ(『平家物語』巻九「敦盛最期」)は能「敦盛」(世阿弥作)にも取り上げられ広く知られています。もっとも、直実が敦盛を討った等は確証がなく、まして直実出家の理由は叔父との所領争いがもとでの腹いせなどと真相は誠に素っ気ないもの、『平家物語』の歴史ばなれの最たるものの一つに数えられます。
ところで、『源平盛衰記』等には、後日談-直実が父経盛の許に敦盛の首や笛等遺品に添えて書状を送ったところ、厚情に謝する経盛の返状が届いたとの挿話を記しています。
一の谷合戦で敗走した平経盛の所在地が何処かはわかりませんが、地誌『淡路国名所図絵』巻四に「煙島」を立項、敦盛の遺骸を受け取った経盛はここ煙島で我が子を火葬して煙となし、ために煙島と名付けて菩提所を営んだとの伝承を記しています。南あわじ市南淡町福良の福良港内煙島には敦盛塚が伝えられる等、淡路島南端では今も平家落人伝説の数々が残っています。

煙島
「淡路国名所図絵」巻四 神戸松蔭女子学院大学図書館蔵

重衡松と須磨名物濁り酒

壇の浦合戦、一の谷合戦と場面は異なりますが、清盛の子息 平宗盛・重衡兄弟はともに囚われの身、前後して鎌倉で源頼朝の尋問を受けた後一旦西下、結局は斬殺されるとの顛末は『平家物語』巻十一「大臣殿被斬」「重衡被斬」と対の構成を以て記されているところです。
父清盛の命令とはいえ東大寺等を焼き払った重衡は重罪、ために奈良の僧等に惨殺されるのですが、『平家物語』では、頼朝による尋問の場面、卑怯な振舞いが爪弾きにあう宗盛と対照させて毅然とした態度で称賛される重衡などと、法然上人授戒の場面も含め、この人物を好意的に描こうとする姿勢が顕著です。
一の谷合戦で敗走、明石で捕らえられた重衡とは『吾妻鏡』の記述ですが、『平家物語』巻九「重衡虜」ではその場所を明示しません。『摂津名所図会』巻八「重衡松」(神戸市須磨区)には、捕らえられ松の根元に腰下ろした重衡に里人が須磨名物濁り酒を勧めたところ、「ささほろや波ここもとを打過ぎてすまで飲むこそ濁り酒なれ」と返歌した云々と記しています。『平治物語』巻下、頼朝上京の得意の場面-かつて補らわれの身として護送の折にも恵まれたという濁り酒を三度飲み干す挿話が思い起こされますが、それにしても重衡の即興歌「須磨で」「澄まで」のしゃれは利いています。

『摂津名所図会』巻八 神戸松蔭女子学院大学図書館蔵

敦盛萩の由来

生田神社(神戸市中央区)境内、箙の梅に較べて知られること少ない感はありますが、『平家物語』関連の遺跡として敦盛萩があげられます。
『摂津名所図会』巻八「生田神社」の項末尾に、「敦盛萩 中門の外、西の方にあり」と素っ気ない記述が載るだけですが、一枚刷り物「敦盛萩之由来」には、
都黒谷の法然上人加茂大明神へ社参の折ふし、下り松の辺に四才斗なる小児さても美敷衣装を着せ手箱のふたに入て捨有しを、上人唯人ならざるありさまゆへ下男に抱せて庵室へ伴ひ帰らせ給ひ、御名を法道丸と御付なされ養育ましませしに云々。
と語り出し、後に母なる女性が敦盛の忘れ形見と名乗り出たこと、父に会うべく生田明神に詣でたこの童が萩一むらある所にまどろんだ夢で死せる父の亡霊に対面した云々の奇跡談を記しています。
『平家物語』に生年十七才と記す敦盛にして忘れ形見の存在とは奇異の感しないでもありませんが、全てこれ能「生田敦盛」、御伽草子や浄瑠璃「小敦盛」の展開をなぞったもの、『平家物語』巻九「敦盛最期」の後日談と位置付けられています。

一枚刷り物「敦盛萩之由来

那須与一と那須の与市つぁん

屋島の沖に追い出された平家の兵船のヘさき、竿頭に結えられた扇の的、射抜けるものなら射てみよとの挑発に応えて、源義経に栄えある役目を命じられるのが下野国出身の那須与一宗高であった。敵味方対峙する緊張の場面、与一は見事扇の要際を射切る。紅地の中心に金色で日輪を描いた扇が空中舞い落ちて海面に漂う云々(『平家物語』巻十一「那須与一」)-屋島合戦最大の見せ場、画題としても珍重されています。
与一宗高は確かに実在した人物としてもその生没年は未詳、それにしても『平家物語』に登場するのはこの章段だけ、まして『吾妻鏡』屋島合戦記事に記載されることもないなど事実談とするにはとまどいが多いことです。
とは言っても能・幸若舞曲・狂言等芸能にも取り上げられるなどの有名人、与一伝承にかかわる文献や遺跡が各地に散見されます。その終焉伝承-即成院(京都市東山区)での八月八日祥月命日法要が著名ですが、那須与市宗高公墓所(神戸市須磨区)でも九月七日祥月命日法要が営まれています。
ここ須磨では、与市つぁんは日の丸に向って発射した罪業逃れぬ罰で下の病にかかられ、それに発して下の病癒しの効験ありとの信仰が起った等言い伝えられているなど奇想天外なことです。

神戸市須磨区 那須与市宗高公墓所
神戸市須磨区 那須与市宗高公墓所(その2)

静の里公園のいわれ

落魄の義経とあれば付き添う愛妾静御前と言い立てられますが、意外、『平家物語』には義経が頼朝の密使土佐房昌俊を返り討ちした折けなげな働きをした云々としか登場しません(巻十二「土佐房被斬」)。これが『義経記』では義経の逃避行に同伴、吉野山での別れ等悲劇の数々、なかでも、鎌倉に呼び出されて厳しい尋問にあい、あげくは頼朝に歌舞を強要され「吉野山峯の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋ひしき」等義経追慕の念を歌い上げたなどは圧巻です。
白拍子静の母は磯禅師と伝えられますが、静の生没年等消息は未詳、『義経記』諸本には京都天龍寺や大阪四天王寺の辺で出家、往生した等の伝承を記すものの確証はありません。
大和高田市磯野の静御前の墓などその終焉伝承は各地に散見し、なかで、淡路市津名町の源廷尉妾静墓は地誌『淡路国名所図会』巻一に載り、この一郭は現在静の里公園として整備され観光名所となっています。同書所収静墓縁起には、頼朝の妹が静を燐み夫君一条能保に頼み込んで庇護、義経自害の後静は出家し、淡州志筑が能保の領地との縁で移り住み、建暦元年(1211)の冬四十七歳で死去云々と思いも寄らぬ伝承を記しています。なお、例年11月7日、静御前墓前忌日祭が営まれています。

静の里公園
静の里公園(その2)

源義経の最期(一)-判官びいき考

『平家物語』では、平家追討の殊勲者源義経の末路を描いて、「吉野の奥にぞ籠りける。吉野法師に攻められて奈良へ落つ。奈良法師に攻められてまた都に入り、北国に掛りて終に奥へぞ下られける云々」(巻十二「判官都落」)と誠に素っ気なく、その最期談はあえて欠落させています。後世、義経をして不運の英雄として同情し、判官義経に発して弱者愛惜の念が判官びいきなる語でもてはやされるなど、全て後の『義経記』等の悲運義経像造形によるところが大と言えましょう。
父義朝が討たれるなど不幸な幼年期同様再び奥州平泉の藤原秀衡を頼ったものの、頼朝の探索厳しく、文治五年(1189)閏四月卅日に自害に追い込まれたなどは『義経記』の圧巻です。義経の首は頼朝の許に送り届けられるが、腰越での首実検の後、腰越状事件の時同様、最後まで鎌倉に入ることを許されず今の藤沢市に葬られたと伝えられています。
『奥の細道』の旅の途次、芭蕉は義経最期の地、平泉高館(岩手県平泉町)に立ち寄り、「さても義臣すぐつて此城に籠り、巧名一時の草むらとなる。国破れて山河あり、城春にして草青みたり云々」と往時を追憶、「夏草や兵どもが夢の跡」の句を手向けています。判官びいきここに極まったの感にうたれる絶唱です。

源義経の最期(二)-判官びいき考

『奥の細道』の旅(元禄二年・1689)に先立つこと約二十年、史書『続本朝通鑑』(寛文十年成立)に、義経は平泉を脱出し蝦夷が島(北海道)に渡ったとの俗伝が載りますが、芭蕉がこの種の情報に接した形跡は見当りません。
雑史『義経勲功記』巻末「義経渡海蝦夷事」など、江戸中期以後は義経北行伝説がもてはやされて錦絵や絵双紙の恰好の題材となっており、果ては韃靼(モンゴル)に渡ったなど英雄不死伝説にとどまるところはありません。悲運義経の生涯に栄光の「上がり」はあるのか-「義経一代勲功双六」(一寿斉芳員画)や「新版源氏栄義経双六」(一猛斉芳虎画)等は何のためらいもなく高館の次を義経蝦夷渡海や蝦夷人の表敬場面で結んでおり、非業の最期などどこ吹く風といった態です。
明治以降、日本男児の意気宣揚とばかり、義経・ジンギスカン同一人説が主張され、内田弥八訳述『義経再興記』(明治18年初版)や小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義経也』(大正13年初版)等が版を重ねたことは岩崎克己『義経入夷渡満説書誌』(昭和18年)に記されています。義経平泉に死せず-まわりまわって近代日本の大陸開拓・侵略の後ろ楯になったなど只事でなく、これでは義経浮かばれません。

「新版源氏栄義経双六」(一猛斉芳虎画)
東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
錦絵「源九郎判官義経 蝦夷人」(一英斎芳艶画)
錦絵「本朝武優鏡 源義経」(歌川国芳画)

源義経の最期(三)-「野口判官」のこと

義経北行伝説など知る由もない芭蕉でしたが、『奥の細道』の旅の途次、象潟(秋田県)の辺りで、蝦夷が千島への旅心湧くも同行曽良に止められたことを追憶しています。(『幻住庵の賦』)。芭蕉をして更なる北へと駆り立てたものは何か--現代演歌の定番旅とあらば北へそのまま、傷心の義経の蝦夷逃避行伝説が大受けする下地も察せられるというものです。
ところで、義経が平泉で窮地を脱出、鞍馬天狗に誘われて播磨国野口の里に赴き、出家して教信と名乗り道行く人々に慈悲を施した云々の伝承(能「野口判官」)を知っていますか。
教信上人開基の教信寺(加古川市野口町)では、毎年9月13・14日の教信忌に、野口大念仏と称して法会が営まれ、また親鸞や一遍も敬慕したという教信上人の口称念仏を貫いた清貧の生涯が絵解きとして語られています。その概要は『今昔物語集』等にも載り、人はいかに生きるべきかとの課題が古くから人々の最大関心事であったことがうかがえます。もっとも、この絵解き等に義経は登場することもなく、「野口判官」の伝承など黙止といったところで、あの人気者義経もここ野口では形無しです。

野口大念仏
教信上人供養塔
絵解き「開山上人一生絵」

沙羅の花を愛でる

平家物語冒頭の一節「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」は、釈迦の入滅に際して沙羅樹の花がその死を悲しみ、色白く変じたとの奇跡談に基づいています。 この花は、平家物語全編をつらぬく深い無常観の象徴とも言えるでしょう。

  • 日本人と沙羅の花
    雨の季節、雨に映える花々の美しさはひとしお。なかでも沙羅の花は、白い椿のような花を咲かせ、雨に打たれてすぐ散ってしまうそのはかなさが、ひときわ日本人の心をうちます。 もっとも、ここで言う沙羅の花とは夏椿のこと。『平家物語』巻一「祗園精舎」に示される、インド原産の樫に似た常緑樹・沙羅樹とは全くの別物です。 ただ、夏椿をしてあえて沙羅双樹に重ね合わせることは早くから行われていたようです。 夏椿とあればただの花、これを涅槃図に描かれた沙羅双樹と名乗りかえたことが、この花の人気の秘密でしょう。
  • 「沙羅双樹」
    江戸時代の図解百科辞典『和漢三才図会』(寺島良安著)の「沙羅双樹」の項には、下のような解説があります。 「その樹は槲(かしわ)に類して、皮は青白。葉は大へん光潤で四樹に高く、森林にあって他林から聳(そび)え出ている。 (略)仏が涅槃(ねはん)に入られたとき、四方の双樹はことごとく垂れて如来を覆い、その樹は惨然として悉く白に変じたという、と。 思うに沙羅とは本名で、双樹とは林のことである。俗に通して沙羅双樹という。比叡山にある。 その花は白のひとえで、弁の状は山茶花(さざんか)に似ていて、凋(しぼ)み易い。」 (島田勇雄校注・訳『和漢三才図会』東洋女庫 平凡社刊による)
  • 「釈迦涅槃国」
    涅槃図とは、「四本の沙羅双樹に囲まれた宝台に、ブッダは枕を北にし、右脇を下にして眠る。その周囲に諸菩薩をはじめ、仏弟子・国王・大臣・諸天・優婆塞(うばそく)・鬼神・畜類などが集まって泣き悲しみ、また仏母マーヤー夫人が出現する」(中村元『仏教語大辞典』東京書籍刊)と説明される図様です。 釈迦入滅の旧暦二月十五日、釈迦の遺徳奉讃追慕の法要涅槃会に際し、寺院ではこの涅槃図が公開されます。「沙羅双樹の花の色……」は、この図様にも示されるように、釈迦の横たわる宝台の四隅に二本ずつ双生する沙羅樹の花が、その死を悲しんでいっせいに色白く変じたとの奇跡談に基づいています。
  • 沙羅の花と一絃琴鑑賞会
    神戸市北区有馬の念仏寺では、毎年6月下旬に「沙羅の花と一絃琴の鑑賞会」が催され、大勢の参拝客で賑わいます。 樹齢二五十年の大木沙羅樹の落花散り敷く庭園を背景に住職の法話を聞き、続いて『平家物語』を題材とする世阿弥作の能「敦盛」「忠度」が種本の小学唱歌「青葉の笛」(大和田建樹作詞、田村虎蔵作曲)等が演奏されるこの優雅な催しは、神戸において『平家物語』がいかに多くの人々に好まれ、実生活に根付いているかを改めて思い知らされます。

清盛入道 時代を超えた「人間的魅力」

栄華を極め、権勢をほしいままにした平清盛。その生涯はまさに諸行無常、盛者必衰の体現でした。 『平家物語』においては、呪われるべき悪行非道の人として描かれながらも、今なお不思議な魅力を放ち続ける清盛の人物像に迫ってみましょう。

その1清盛・重盛 親子の対照

死の寸前まで運命に対してあくまでも抵抗しようとする清盛と、没落寸前の平家の運命を予知してこれに随順しようとする重盛。『平家物語』前半は、この際立った対照を示す親子を中心に展開します。
重盛を冷静沈着で勇気ある武将、清盛を武人としての資格に欠ける臆病未練な者とするような人物設定は、早く『保元物語』『平治物語』に見られる手法です。 とはいうものの、両書ともに重盛と清盛とを意識的に対比させて批評しているわけではありません。
これが『平家物語』になると、「をかしかりしは入道相国(清盛)のあきれざま、目出たかりしは小松のおとど(重盛)のふるまひ」(巻三「公卿揃」)などのように、意識的に対比の形をとった人物造型を随所に見ることができます。

その1清盛・重盛親子の対照

清盛・重盛親子の対照

その2平家の興隆

清盛一族の繁栄は、「すべて一門の公卿十六人、殿上人三十余人、諸国の受領、衛府、諸司、都合六十余人なり。
世には又人なくぞ見えられける」(巻一「吾身栄花」)という有様でした。娘達のそれぞれの幸いの程も著しく、なかでも建礼門院は高倉天皇の中宮、また平家の支配する国は日本全国六十六か国のうち三十余か国に及んだなどと語られています。
ただし『平家物語』全十二巻、「祗園精舎」以下約二百章段のうち、平氏一門の興隆について述べられるのは巻一の前半わずか四章段。天皇家、摂関家の内紛に端を発する保元の乱、さらには源氏を圧倒するに至った平治の乱の顛末(てんまつ)などにはほとんど触れず、清盛が順風満帆、太政大臣にまで昇進する過程はわずか十数行ですませてしまいます。 先行する軍記物語、『保元物語』『平治物語』に譲ったためもあるのかも知れませんが、得意絶頂の時代に言及する分量はあまりにもわずかです。

その2平家の興隆

平家の興隆

その3殿下の乗合事件

「世の乱れそめける根本は」に始まり「これこそ平家の悪行のはじめなれ」(巻一「殿下乗合」)と極め付けられている殿下(てんが)の乗合(のりあい)事件が起こったのは嘉応二年(1170年)のこと。
清盛の嫡男重盛の息子資盛が鷹狩の帰途摂政基房の参内に行き会ったが、下馬の礼をとらなかったので馬から引きずりおろされ乱暴されたことの波紋は、後日、孫かわいさのあまり、清盛による基房の参内を待ち伏せての乱暴狼藉にまで発展します。わが子の非を諫める重盛に対して、仕返しの張本人清盛、祖父清盛の面目躍如と言えるでしょう。 もっとも、当時の公卿の日記等に照らすと、この事件は重盛の犯した生前唯一の悪事とあり、清盛と重盛、善悪入れ替えた『平家物語』の作為であることは明白です。この構図はまた、以後の清盛・重盛像造型を規定する枠組みとなっています。

その3殿下の乗合事件

殿下の乗合事件

その4清鹿の谷の密議

清盛を始めとする平氏一門の専横に対する憤りの声は、まず、後白河法皇及びその側近からあがります。 当時欠員であった左大将就任を熱望していた藤原成親は、重盛・宗盛兄弟に左右両大将を独占されるやこれを恨んで、東山の麓鹿(しし)の谷の俊寛の山荘に西光等後白河法皇の側近を寄せ集め、平家討伐の密議をこらしました。時には法皇も参加しましたが、一味多田蔵人行綱の密告により、着手以前に、法皇を除く一同捕らえられてしまいます。 清盛からの呼び出しを受けるや、即座に平家討伐の企てが露見したことを覚悟し、法皇の御所に馳せ参じようとするところを捕らえられ、臆するところもなく堂々と清盛に抗弁する西光に対して、成親は、清盛の呼び出しを法皇と延暦寺との対立の仲介の依頼と思い込み、わざわざ正装して出向くというていたらくでした。成り上がり者の西光、藤原氏につながり、また平家とも姻戚関係にある成親との図式そのままに、両者を意識して対比させる描写は鮮やか。 結局、西光は拷問のすえ惨殺され、成親もまた備前の国に流された後殺されます。

その4清鹿の谷の密議

清盛・重盛親子の対照

その5清盛・重盛それぞれの「死」

清盛・重盛それぞれの「死」物語の各所で際立った対照を示す清盛・重盛親子は、その最期のさまについてもはっきりと描き分けられています。 臨終正念にして静かに死を迎える重盛に対して、高熱を発してぶざまな死にざまと描かれる清盛。清盛が熱病で死んだのは事実ですが、それにしても、六波羅辺で「そりゃ、やったぞ。それ、みたことか」などと噂されたなどはただごとではありません。 清盛がかつて反平家の動きを示した奈良の寺々の焼討ちを命じたことの因果応報、あるいは清盛を看病していた北の方二位殿の夢に無間地獄からの迎えがやって来たなど、『平家物語』にあって清盛は地獄に堕ちるべき人と決め付けられています。 当然ながら、この二人の死に際しての批評も、はっきり分かれます。ともに仏教思想に基づく裁断-もちろん、このような批評は当時の記録類に照らし合わせても一致するところがあり、史実に則る点の多いものであることが察せられます。

その5清盛・重盛それぞれの「死」

清盛・重盛親子の対照

その6清盛出生秘話

清盛の父忠盛は、鳥羽院発意による殿上人としての処遇さえ同僚に忌避されたと伝えられます(巻一「殿上闇討」)。 一介の武士階層の出身でありながら、平清盛はなぜ太政大臣や安徳天皇の外戚にまで上り詰めることができたのか-同時代の人々にとって大きな疑問であったことは想像に難くありません。 「慈心房」(巻六)は、清盛は天台座主慈恵大僧正の生れかわりとの、清澄寺の住僧慈心房尊恵の証言を載せ、「祗園女御」(巻六)は、清盛が実は白河院の皇子であるとの貴種秘話を展開しています。 「慈心房」については清澄寺(宝塚市)蔵『冥途蘇生記』(『宝塚市史』第四巻所収)に裏付けとなる伝承が記載され、「祗園女御」についても、胡宮(このみや)神社(滋賀県)『仏舎利相承系図』(赤松俊秀『平家物語研究』法蔵館刊所収)に、祗園女御の妹が懐妊の後、白河院はこの女房を平忠盛に賜ったとの注記を付しており、母が祗園女御かその妹かの相違はあるものの、白河院の落胤とする点では『平家物語』の脚色と言い切ることはできません。 ちなみに江戸時代の川柳「食いかけのいも忠盛へ下さるる」や「院の子院の子と忠盛は抱き上げる」等は、清盛出生秘話をふまえての句です。

その6清盛出生秘話

清盛・重盛親子の対照
「みなとの祭」と清盛
昭和初期のみなとの祭 懐古行列
「みなとの祭」と清盛
平成12年のみなとの祭 31年ぶりに復活した懐古行列

「みなとの祭」と清盛

平成12年10月29日、神戸の「みなとの祭」の「懐古行列」が三十一年ぶりに復活と話題になりました。昭和8年11月に始まるこの「懐古行列」は、当時、祭に先立って「第一 福原遷都から一の谷合戦まで」「第二 大楠公の聖駕奉迎」「第三 兵庫の開港」と岡久渭城氏による詳しく行列の内容を説明したパンフレット『みなとの祭 懐古行列の見方』(神戸市民祭協会刊)が配布されました。また祭果てて後、重厚な『みなとの祭写真帖』(神戸市民祭協会刊)が刊行されるなど、その賑わいに肩入れのほどがうかがえます。 一方で、戦前には「懐古行列の清盛役を引き受けてくれる人が居らず困った」といった世話人の証言(石田善人『平清盛と神戸』神戸市文化財調査報告11)もあり、時代による人物の好悪のはげしい変化が察せられます。現代における清盛評はいかに-平成12年10月の清盛役を引き受けた方の感想をうかがってみたいものです。

清盛評価の変遷 表現の皮肉

清盛評価の変遷 表現の皮肉1)人間清盛の魅力

平家物語における重盛像・清盛像造型のなかにあって、清盛の情宣に厚く、また慈悲深い性質もわずかながら読み取ることは可能ですが、それにしても同時代の記録類や説話集等文献に伝えられているような柔軟な妥協性、孫に対する好々爺ぶり、あるいは部下に対する深い思いやり等に示される一面が大きく欠脱している点は否めません。その結果、正当でない評価が後代に残されたと評されてもいます。 しかし、それにもかかわらず、『平家物語』に描き出さる清盛の姿からは血の通う生き生きとした人間味が感じられることもまた事実。現在、「作者の意図に反して物語自体が新しい型の人間として彼の人物をあらわにしてゆく」(石母田正『平家物語』岩波新書)との評価でほぼ一致しているのは興味深いことです。作者の表現意図が裏切られながら新しい魅力が開発される-文学鑑賞の妙味に属することですが、このような表現の皮肉という作用もまた、『平家物語』が古典としての地歩を固めてゆく要因の一つであることは確かでしょう。

清盛評価の変遷 表現の皮肉

清盛評価の変遷 表現の皮肉2)「観念的な聖人」重盛

これに対して、理想的な人物として描かれているはずの重盛とはいうものの、たとえば史実かどうかは不明ですが、死に際して宋の名医の診察を受けるようにとのせっかくの清盛の申し出を「大臣たる者異国の医者に会うわけにはいかぬ」と拒絶したとの設定については、江戸時代の注釈書『平家物語抄』(国文注釈全書所収)のなかで、重盛公、父相国(清盛)への言葉これ皆道に背けり。たとひ定業(決まっている運命)限りありて小松殿(重盛) (こう)じ給ふあとにても、父母の歎きに付けて医療を尽くしての上は是非を弁(わきま)ふる所あり。 且は父の命に背き給ふに似たり。なんぞ異国の医師に会ひ給へばとて、我朝の誉れを失ふべけんや。 などと論理の空隙をあげつらわれるような扱いを受けています。重盛のあまりにも観念的な聖人ぶりが、かえって冷やかで人間味に乏しいとされるのも一理あると言えます。

福原京懐古 神戸が「首都」になった日

福原は、今の神戸市中央区西寄りから兵庫区にかけての地名。 この地へ清盛の命により突如都が移されたのは治承4年(1180年)6月のことでした。 清盛最大の暴挙とも評される福原遷都と、神戸が「首都」となった時代を振り返ってみましょう。

その1遷都の経緯 1)法皇との対立

治承元年(1177年)五月、後白河法皇の側近、西光や藤原成親等による平家討滅の謀議発覚-世に言う鹿の谷事件ですが、首謀者たる西光や成親を断罪した平清盛はこの鹿の谷謀議の黒幕は後白河法皇その人であることを察知して法皇の監禁まで決意します。
高倉天皇をなかにはさんで、実父後白河法皇と義父平清盛の激しい主権争いがうかがえる清盛憤慨の口吻、しかし、清盛の嫡男重盛の身を挺(てい)しての忠言に、ここは清盛も引き下がります。この折の重盛の悲痛な言として設定されている、「君君たらずと云ふとも、臣以て臣たらずんばあるべからず。 父父たらずと云ふとも、子以て子たらずんばあるべからず」(巻二「烽火之沙汰」)はまさに重盛の面目躍如。事実、後白河法皇も政敵平氏のなかで、公平な振舞いの重盛にはさすが一目を置いていたと伝えられています。

後白河法皇 宮内庁三の丸尚蔵館蔵 イメージ画像
後白河法皇 宮内庁三の丸尚蔵館蔵

その1遷都の経緯 2)重盛の死と遷都決行

しかし、温厚篤実な重盛も、逆縁と云うべく治承三年八月早世、享年四十三。歯止め役を失った清盛は、関白基房以下多数の公卿の解任、流扉を図り(巻三「大臣流罪」)、あるいは後白河法皇の御所を大軍で取り囲んだ末、法皇を鳥羽殿へ幽閉(同「法皇被流」)、さらには、高倉天皇をして譲位させ、わずか三歳の高倉天皇の即位(巻四「厳島御幸」)、平氏は外戚として地歩を固めます。
この間、後白河法皇の第二皇子以仁王(もちひとおう)や源頼政による平家討滅の決議が、源氏嫡流で目下伊豆国に配流中の源頼朝等に伝えられるなど、騒然とした時期でした。遷都に先立つ治承四年四月には以仁王、源頼政等が東国の源頼朝や北国の木曽義仲に平家追討をうながす廻状を配布しています。 反平家に呼応する京都を取り巻く寺院勢力に恐れをなした清盛が、この危機を打開すべく行ったのが福原遷都であったという見方が一般的ですが、平家物語ではこの遷都を「一天の君、万乗の主だにも、移しえ給はぬ都を、入道相国(清盛)人臣の身として、移されけるぞおそろしき」(巻五「都遷」)と手厳しく断罪しています。

遷都の経緯 2)重盛の死と遷都決行 イメージ画像

その2通親・長明の見た福原

遷都に先立つ三月、強制された譲位で傷心の高倉上皇の厳島御幸に随行して立ち寄った福原の威容を、源通親は、次のように書きとめています。 それから僅か数ヵ月、鴫長明は物好きにも騒然とした福原の神都を訪れ、その様子を克明に報告していますが、通親・長明の印象の差のはなはだしさには驚かされます。 世のなかすべて無常と嘆ずる長明の筆致のなせるわざ、ことさらに福原京の物淋しきさまが強調されるのかもしれませんが、「古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。 ありとしある人は皆浮雲の思ひをなせり」の美辞を始めとして、この長明の福原京探訪記事は『平家物語』巻五「都遷」「都帰」に分散して採り込まれ、「旧都をばすでにうかれぬ、新都はいまだ事ゆかず」(「都遷」)など、新都の様子を語って眼目にさえなっているほどです。 現代の文学観では、創造の名に値しない剽窃として断罪されかねないところですが、『方丈記』をして、福原遷都を描いて絶妙の表現であるとの認識を支えにした、和歌の本歌取りの技法にも似た表現の冴えを称えるべさ場面かもしれません。

通親・長明の見た福原 イメージ画像

その3月見…太平記には月も見ず

新都造営等あわただしかったはずの福原京の挿話として、『平家物語』には、『源氏物語』の引用も含めて、月の名所の数々-兵庫・和歌山・大阪・京都の歌枕を列挙した優雅な一節(巻五「月見」)があります。 それにしても『太平記』「先帝(後醍醐天皇)潜幸吉野事」(巻十八)などでも、しみじみ月を眺める場面を設定することはありません。 さすが『平家物語』、『太平記』などの持ち合わせない「月見」の章段、はたまた「月」がうかがえるとの意を込めた、「平家なり太平記には月も見ず」の句(江戸時代前期の俳人其角(きかく)の作)が成り立つゆえんでしょう。 実在した合戦に取材することの多い軍記物語でありながら、戦況の生々しさを如実に伝えることを志向せず、むしろ抒情に流れることの多い『平家物語』の持質が、この「月」という語にたくみに集約されているといえます。

月見…太平記には月も見ず イメージ画像

その4都還り

遷都から約半年後の治承4年(1180年)11月、清盛は再び都を京都へ戻します。
歴史記録によれば、
-延暦寺衆徒、還都を強く請う(治承4年11月6日)
-福原の新造内裏に還幸する(同11日)
-清盛、還都の可否を諸卿に諮(はか)る(同12日)
-還都の日次を決定する(同20日)
-還都のため福原を出発する(同23日)
-京都に還幸する(同26日)
(「平家物語年表」、『平家物語研究事典』所収、明治書院刊)

と、なんともあわただしい都帰りであったことがうかがえます。『平家物語』でもこの動静を非難がましく伝えています。

都還り イメージ

その5福原落

福原京については『平家物語』では、後年、寿永二年(1183年)七月の平家一門都落の最終記事、平家がいよいよ福原からも立ち去って西海流浪ヘと追い詰められる場面に、その壮麗な都ぶりを追憶する描写があります。 平家一門の別邸などの下地があったにせよ、突然の都遷り、しかもわずか半年たらずの工事でこれほどまでの威容と奇異の感がしないでもありませんが、失われた王城への郷愁のなせる表現でしょうか。 ちなみに、『平家物語』巻七「福原落」の末尾は、「寿永二年七月二十五日に、平家都を落ちはてぬ」と悲痛の思いのこもった一文で締めくくられています。翌寿永二年二月、態勢ととのえての源平対決、生田合戦・一の谷合戦で平家はあえなく敗退し、福原旧都は無惨な戦場と化す運命を辿ります。

福原落 イメージ
荒田八幡神社の福原遷都祭
荒田八幡神社の福原遷都祭

八幡神社の「福原遷都祭」

荒田八幡神社の夏季大祭は、別名「福原遷都祭」とも呼ばれ、毎年六月第一土・日時日-茅(ち)の輪(わ)くぐりなど、夏越(なごし)の祓(はらえ)の神事もゆかしく賑わっています。 六月(みなづき)の祓は六月末日が通例ですが、やや期日が早まっているのは、あの福原遷都ゆかりの六月二日に重ねるための配慮でしょうか。 京都の公卿たちがこぞって暴挙と断罪したはずの福原遷都が、身びいきとは言うものの、福原遷都祭と別名付して祝われるなどをまのあたりにするなどは、神戸で『平家物語』を読む妙味の一つでしょう。

摂津名所図会
安徳天皇行宮
楠・荒田町遺跡
雪見亭古蹟
祇園遺跡
福原古都

福原京関連遺跡の現在

福原から和田にかけての一帯にはかつて平家の荘園があり、清盛の時代には一門の別邸が数多く建ち並んでいたと伝えられます。 現在、兵庫区の湊山小学校(雪御所町)の校庭には「雪見御所旧跡」の碑が建ち、頼盛の山荘ゆかりの地とされる荒田八幡神社(荒田町)の境内には「史蹟 安徳天皇行在所址」の碑があります。 福原京関連の遺構としては、現在の神戸大学医学部付属病院構内(神戸市中央区楠町)にある「楠・荒田町遺跡」から、堀をめぐらした邸宅の跡が発見され、2003年、福原京の一部と思われる櫓(やぐら)らしき跡も発掘されました。 またこの楠・荒田町遺跡のやや北に位置する「祇園遺跡」からは、福原京時代に造成されたと見られる庭園の池や石垣をはじめ、平安京で作られた瓦、中国産の白磁・青磁などの陶磁器類が出土していますが、今のところ福原京の復元は果たされそうにありません。 ※なお『摂津名所図会』には、福原京遣跡の地理を持定する記事が満載されています。

和田岬かいわい 「港湾開発」が遺したもの

清盛による大輪田泊開発とは。史実と伝承を交えながら現在の和田岬を探訪します。

大輪田の泊

兵庫の津、別名「輪田(わだ)の泊(とまり)」とは現在の神戸港の古名。神戸市兵庫区和田岬の東方と推定されています。 清盛はこの港に隣接した福原に別荘を設けるとともに、多大の私費を投入して輪田の泊の整備をはかり、対宋(中国)貿易の振興をめざしました。 平家一門の栄華のさまを評して「揚州の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦、七珍万宝、一つとして闕(か)けたる事なし」(巻一「吾身栄花」)と、中国の地名をならべたてて舶来の品々を誇示しているのは、この輪田の泊による貿易の実績を称えていることに他なりません。

大輪田の泊
薬仙寺と「萱の御所跡」の碑
薬仙寺と「萱の御所跡」の碑

萱の御所跡

瀬清盛の近く、薬仙寺(兵庫区今出在家町)境内には「萱の御所跡」の碑がひっそりと建っています。 『平家物語』には、「四面にはた板して(羽目板を張り廻らして)口一つあけたるうちに、三間の板屋を作って、押込め云々」(第五巻「都遷」)と記し、『摂津名所図絵』(巻八)もまたこの記事をうけて萱御所跡 清盛塔の南、田の中に石標あり。むかし比辺都(すべ)て平相国別荘の地なり。 ここに方三間の茅葺の御所をしつらひ、後白河法皇を押籠め奉る。又楼御所ともいふ。などと記載しています。 ここにはおどろおどろしいまでの、怒れる清盛像が示されています。 ただし、藤原兼光の日記『玉葉』(治承四年六月二日の条)には、 「内裏 平中納言頼盛の家。上皇 禅門の別庄。法皇 平宰相教盛の家」として記して、以下、ことさら後白河法王が追害されたなどの記事は見当たりません。もっとも、この「萱の御所跡」の碑は、この辺りの数次にわたる運河拡張工事など区画整備によって、時には運河に埋められたまま捨ておかれたなど粗略な扱いが目立ち、現在、薬仙寺境内にひっそりと建つ石碑は、昭和47年3月、場所をかえて再建されたもののようです。

摂津名所図会」巻八にも載る、十三層の石碑『平相国清盛塔』
摂津名所図会」巻八にも載る、十三層の石碑『平相国清盛塔』
神戸港開港百年祭を記念して昭和43年10月に柳原義達氏によって製作された「清盛立像」。その銘文には「神戸開港百年祭を記念して、開港の祖平清盛の功績を顕彰するために、ここにその像を建立する」とあります。
神戸港開港百年祭を記念して昭和43年10月に柳原義達氏によって製作された「清盛立像」。
その銘文には「神戸開港百年祭を記念して、開港の祖平清盛の功績を顕彰するために、ここにその像を建立する」とあります。
一の谷合戦で討死した琵琶の名手平経正ゆかりの塚とされる「琵琶塚」
一の谷合戦で討死した琵琶の名手平経正ゆかりの塚とされる「琵琶塚」
「摂津名所図会」巻八「八部郡(やたべごおり)上」より (秋里籬嶌書・竹原春朝斎等画 寛政八(1796)年刊) 平相国清盛塔・平経正琵琶塚挿絵 神戸松蔭女子学院大学図書館蔵
「摂津名所図会」巻八「八部郡(やたべごおり)上」より
(秋里籬嶌書・竹原春朝斎等画 寛政八(1796)年刊)
平相国清盛塔・平経正琵琶塚挿絵
神戸松蔭女子学院大学図書館蔵

清盛塚周辺

神戸市兵庫区、新川運河に架かる大輪田橋西詰、住吉神社(切戸町)境内に壇を築いて、「清盛塚」と称する一郭があります。 場所ははっきり特定できませんが、このあたりは平清盛が修築した「輪田の泊」やその防波堤として築造した「築島(経の島)」に比定され、清盛の遺骨埋葬の地とも伝えられます。 神戸港開港百年祭を記念して作られた清盛像を挟んで、台石裏に「弘安九 二月日」と刻んだ十三重石塔と「琵琶塚」と大書して彫った自然石が並び建つなど、清盛塚の一郭は清盛顕彰で塗り込められています。 清盛の罪の功が混在する『平家物語』ですが、和田岬かいわいでは「開港の祖」と称えられるなど、功の方のみが強調されているようです。 ここ清盛塚では「忠臣重盛、孝子重盛」ともてはやされた戦前でさえ、適役たるべく設定されていたにもかかわらず清盛講が結成され、盛大な供養が行われていました。

悲壮 一の谷合戦の巻

都落ちの後、西海よりふたたび神戸・福原に終結した平氏が源氏軍勢と壮絶な戦いをくり広げる「一の谷合戦」は、平家物語最大のクライマックス。
源平合戦をめぐるさまざまな挿話や、今も神戸に残る数々の史跡の紹介とともに「諸行無常・盛者必衰」を体現した平家の運命を辿ります。

一の谷合戦前史「朝日将軍」の栄光と挫折

信濃で挙兵した木曽義仲の軍勢に都を追われ、西へ落ちのびてゆく平氏。 しかし京に上った義仲もまた法皇と対立し、源頼朝の差し向けた範頼・義経の軍により討ち滅ぼされます。 栄光と挫折に満ちた朝日将軍義仲の生涯に焦点をあてながら、一の谷合戦前夜における源平の複雑な構図を概観します。

その一 源頼朝・義仲の挙兵と確執(1)

後白河院の第七皇子にして、后は平清盛の娘建礼門院という微妙な立場の高倉天皇を挟んで、後白河院と清盛の権勢争いは熾烈(しれつ)なものであったらしい。『平家物語』には、後白河院側近による反平家謀反失敗の顛末を、虚実取り交ぜ詳細に描いています。これが世に言う鹿の谷事件、俊寛の悲劇談です。 清盛の権勢いやがうえにも高まるなか、高倉天皇第一皇子の誕生、翌月立太子-高倉天皇は不本意ながら退位を迫られ、僅か三歳にして清盛の外孫安徳帝即位と平家の栄華は頂点を極めることになります。 このような情勢のさなか、在京の源頼政は同じく不満分子、高倉天皇の兄にして後白河院の第二皇子以仁王(もちひとおう)を語らって反平家謀反を画策する。もっとも、この謀反は清盛の察知するところとなり、以仁王や頼政は宇治に追い詰められて憤死。ただし、鹿の谷事件とは異なり、以仁王の決起命令書が諸国の源氏に行き渡って波紋を投じ、源氏の棟梁たる源頼朝やその従兄弟木曽義仲等の挙兵を呼び起す。治承・寿永年間の源平合戦とは、つまるところ平治の乱の復讐戦-伊豆国に流されていた頼朝の決起、石橋山の合戦がその幕開きです。

その一 源頼朝・義仲の挙兵と確執(2)

緒戦石橋山合戦は大敗北と不本意な結果ではあったが、頼朝はその後態勢立て直し、鎌倉を拠点にして京に向かって進軍、駿河国富士川で平氏の追討軍と対決することとなる。 勇猛源氏の噂におびえる平家軍は、水鳥の羽音を源氏の夜襲と早合点、戦わずして逃亡した云々は著名な挿話です(『平家物語』巻五「富士川合戦」)。 なお、『平家物語』には見当らないが、『源平盛衰記』(巻二十三「義経軍陣来事」)には、この富士川の軍陣で奥州から馳せ参じた義経と頼朝が感動的な対面を果したと記す箇所があります。 ところで、同じ源氏一族とは言い条、義仲二歳の折、父義賢が頼朝の兄義平に討たれ、みなし児となった義仲は信濃国木曽の中原兼遠の許で育てられたとの遺恨がある。 加えて、源氏の棟梁争いとの猜疑心の然らしめるところ、あわや頼朝と義仲の対決との緊張の場面、ひとまず、義仲が子息清水冠者義重(『吾妻鏡』等では義高)を頼朝の許に人質として差し出すことで結着した。 後年、義仲敗死の後、義重は頼朝配下の者に討たれるが、かねて恋仲の頼朝の娘大姫は心痛のあまり病に臥す云々は、日本版悲劇「ロミオとジュリエット」として歴史小説家の格好の題材となっています。

  • 『源平盛衰記図会』三

その二 平家一門の都落ち(1)

頼朝の追撃におびえる清盛の遺言、「頼朝が首を見ざりつる事こそ、何よりも又本意なけれ。 われ如何にもなりなん後(自分の死後)、仏事供養をもすべからず、堂塔をも立つべからず。 急ぎ討手を下し、頼朝が首を刎(は)ねて、わが墓の前に懸くべし。それぞ今生後生の孝養にてあらんずるぞ」は悲痛です。 頼朝主戦の平氏追撃は富士川合戦でさておいて、清盛の死後、平家の追討軍はもっぱら信濃国の義仲に向かう。 『平家物語』巻七の前半は、「北国下向の事」「火うちかつせんの事」「くりからおとしの事」「実盛さいごの事」など、義仲の軍差配の巧みなことが称揚され、なかで、かつて義仲が木曽に れるにあたり尽力してくれた斉藤実盛が、こたびは平家に属して義仲追討に向かうことになったこと、しかもこれが最後の戦と覚悟して大将の装束を願い出て許され、名告ることなく討たれるも、その首と対面した義仲は即座に恩人実盛と直感した云々と感動悲話を展開するあたり、『平家物語』の合戦描写の真骨頂と言えます。 そして、巻七の後半は、「主上都おちの事」「忠度都おちの事」「経正都おちの事」など義仲進撃におびえての平家一門の西国への逃避行門出の挿話で占められているのです。

  • 絵入り版本『平家物語』巻七 目次

その二 平家一門の都落ち(2)

都落ちとの言葉自体何とも言えない哀愁の感をただよわせますが、『平家物語』巻七に展開する平家一門の都落ちの哀切を彩って双璧-芸道至上主義をこれでもかと訴える「忠度都落」と「経正都落」の挿話に悲哀は尽きると言えましょう。 その虚実定かではありませんが、寿永二年(1183年)七月、平家一門の都落ちに際し、薩摩守忠度は危険も省みず、いったん都に引返し、和歌の師藤原俊成のもとを訪ねます。勅撰集『千載集』の撰者を拝命していた俊成に、平家滅亡後、勅撰集の沙汰再開あらばぜひわが歌一首なりとも入集をとの切々たる訴え、俊成は忠度の願いを納れ、遺稿のなかから「さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」を読み人知らずとしてではあるが入集します。命よりも歌人としての名誉を重んずること-『平家物語』を彩る感動悲話のさわりとして著名です。 かたや「経正都落」-琵琶の名手として知られた経正はかねて仁和寺の宮から拝領愛蔵していた名器青山が朽ちることを恐れて都に引返し、旧主に返上した云々。まさに型通り、「忠度都落」「経正都落」絶妙の対に、型の美学称揚がうかがえます。

  • 絵入り版本『平家物語』「忠度都落」 絵入り版本『平家物語』「忠度都落」
  • 絵入り版本『平家物語』「経正都落」 絵入り版本『平家物語』「経正都落」

その三 木曽義仲の栄光と挫折

北国に侵攻してさた追討使平家の軍勢との対決にあたって、義仲は緒戦越前国火打が城の合戦でこそ敗退するものの、以後は石川と富山の県境倶利迦羅谷の合戦、石川県篠原の合戦等次々に大勝利をおさめます。 義仲の際立つ戦略の巧みさは、倶利迦羅谷の合戦で、味方の軍勢を平家の背後に廻らせ、夜の闇に乗じて一気に攻め立て、ために平家の大軍は倶利迦羅の谷底に追い落された云々(巻七「倶利迦羅落」)と絶賛されています。 上洛に際しての進路にあたる近江国を無事通過するために、比叡山に協力を求めるなど義仲の軍略に怠りはありません。かくして、義仲入京の噂におびえた平家は安徳天皇を擁して都落ちを決意します。 平家と入れ替って都の主となった義仲の動静を記すのが巻八の章段の数々。 しかし、あれほど戦功をあげ絶賛されたはずの義仲も都人の眼からすれば所詮田舎人、客人のもてなし方も知らない傍若無人の振舞い等(「猫間」)悪評さくさく、天狗とも評される後白河院は義仲追い落しをはかり、頼朝に義仲追討を命じます。 追い詰められた義仲は後白河院の御所に焼き打ちかけての後退散との顛末、これが同じ義仲の描かれ方かと不思議でなりません。

その四 義仲最期談に寄せてー歴史家の視点・文学者の視点(2)

義仲追討の院宣に応え、頼朝の代官として派遣された義弟範頼と義経-入京に先駆け、要害宇治橋をめぐる攻防、なかで、義経配下の佐々木高綱と梶原景季の先陣争いなど華麗な合戦描写も交え、瀬田の辺でもたつく範頼を尻目に、義経は義仲を都から追い落して後白河上皇に拝謁するなど晴れがましい場面が設定されています(巻九「宇治川先陣」「河原合戦」)。引替え、都を れ出た義仲は近江国瀬田で乳兄弟今井兼平と合流するもあえなく敗死、その首は都大路を渡された云々と栄枯盛衰のさまの極みとしか言いようがありません。 寿永三年(1184年)一月二十日、義仲等粟津で敗死。同時代の史料、九条兼実の日記『玉葉』にも、「長坂方に懸らんと欲し、更に帰りて勢多の手に加らんために東に赴く間、阿波津の野辺に伐ち取られ了んぬ云々」(原文漢文)とその概要はうかがえるが、何とも素っ気ない記事、これにくらべて、『平家物語』では、互いを思いやりながらの義仲・兼平の死を描いて、「さてこそ粟津のいくさはなかりけり」と結ぶなど(「木曽最期」)、思い入れたっぷりに義仲追悼を果しているあたり注目に価します。

その二 平家一門の都落ち(2)

巻八に展開する義仲像とは一変、巻九「義仲最期」では、都を れ出た義仲が、そのまま信濃国に向かうならば命だけは助かろうというもの、それが、乳兄弟今井兼平のことが気がかりで、あえて激戦の地瀬田に赴き、兼平と合流する場面から書き出しています。僅かな軍勢とあれば所詮かなわぬ戦い、なかで、義仲と愛妾巴御前、兼平との別れを通してうるわしい夫婦・主従の情愛が描かれています。 「御身も未だ疲れさせ給はず」「弓矢取りは年来日来(としごろひごろ)いかなる高名候へども、最後の時不覚しつれば長き疵にて候ふ也。 御身は疲れさせ給ひて候ふ」と、瞬時に、一見矛盾する叱咤激励を使い分けながら、義仲の名誉ある最後を完うさせようと腐心する兼平の心遣い等、「天の逆賊を罰する、宜(よろ)しきかな」(『玉葉』)や叛臣伝に組み入れる『大日本史』とは異なる共感さえ『平家物語』に汲み取れます。 『平家物語』に描かれた最期談に感動した芭蕉は義仲を生涯追慕してやみません。遺言により、義仲敗死の古戦場義仲寺(大津市)の木曽塚の傍に葬られた芭蕉。今でも、義仲の祥月命日、正月二十日、義仲寺では義仲の追悼法要が営まれています。

  • 義仲寺 義仲寺
  • 義仲塚 義仲塚
  • 芭蕉塚 芭蕉塚

悲壮一の谷合戦命運を分けた「神戸決戦」

神戸を舞台に繰り広げられる凄絶な戦い。 数々の挿話を通して「平家」表現美の真骨頂を味わいます。

その一 義経の奇計 三草山合戦・鵯越合戦

義仲を討つや間をおかず、義経等は平氏追討のため西国へ発向-大手の大将軍範頼以下五万余騎、搦手の大将軍義経以下一万余騎、夫々の陣営の重立つ武将の人名列挙が続くなど、出立ちの晴れやかなさまが思いやられます。それにしても『平家物語』にあって、範頼は影の薄い存在、義経の活躍ぶりだけが目につくことです。
三草山合戦・鵯越合戦ともに義経の奇計により源氏方大勝利との設定、ただし『玉葉』の「定能卿来たり、合戦の子細を語る。一番に九郎(義経)の許より告げ申す。搦手なり。先づ丹波城を落し、次に一谷を落すと云々」の記事からは、『平家物語』に展開する合戦のさまの真偽の確認のしようがありません。
ちなみに、義経は、「播磨と丹波の境なる」三草山に資盛以下三千余騎で控える平家の油断を見透して夜襲、松明で野山に火を付けて蹴散らす云々、民家まで焼き払ったなどただごとではないが、これも義経の軍上手と言うことなのでしょう。(巻九「三草合戦」)。続いて、義経一行は、「一の谷の後、鵯越」の急坂を一気に馬で駆け下り、予期せぬ急襲で一の谷合戦の勝敗は決したとの設定(同「逆落」)のもと、数々の挿話を連ねています。

その二 生田の森合戦を彩る挿話(1)

寿永三年(1184年)二月七日の一の谷合戦とは、東の木戸口大手生田の森合戦と西の木戸口搦手一の谷合戦を総称しての謂い、源氏の武将に焦点当てて描く生田の森合戦の挿話、平家の武将に焦点当てて描く一の谷合戦の挿話と視点の相違が際立ちます。 西国流浪の後、屋島を拠点に兵力を調えて都への帰還をはかる平家ですが、一の谷合戦の戦いぶり、手強いものがありました。 ちなみに、生田の森合戦を彩る挿話-ともに範頼配下の河原兄弟、梶原父子にかかわる戦争美談が眼目です。小名なるが故、自ら手柄をあげずんば家名あげがたしと先陣試みるも討死した河原太郎高直・次郎盛直の武勇談(巻九「二度の懸」)。その意気を称えて、遺跡河原兄弟墓は現在、三宮神社(神戸市中央区)境内に河原霊社として祀られ、旧暦二月七日を新暦に当てはめて三月二十七日、河原霊社奉賛会により例祭が厳かに営まれています。 あげて判官びいきのなか、義経讒言の元凶梶原景時一族は悪評で塗り込められますが、『平家物語』巻九「二度之懸」には梶原一族の美談が展開するなども興味深いことです。

その二 生田の森合戦を彩る挿話(2)

範頼配下の梶原景時は河原兄弟討死と聞くや仇討ちとばかり一族諸共平家の陣営に駆け込むものの、逆襲にあい退却します。しかし、取り残された長男景季を案じ、再び平家の陣営に引き返して救出した云々-西の木戸口にあたる神戸栄光教会(神戸市中央区)前庭に、「魁石 梶原二度」と彫った大きな自然石が建っていました。あいにく教会は先の大震災で倒壊、目下再建工事中ですが、この「魁石」の行方いかがかと気がかりです。 流布本『平家物語』には載らないが、長門本『平家物語』等に載り、能『箙』でも知られる風流談-景時が救出にかけつけた時、追い詰められた景季は箙に梅の枝を差して奮戦のさなか、梅花は風に吹かれて散りかかり、あたり一面芳香がただよっていた云々は著名です。 生田神社(神戸市中央区)境内の箙の梅は、江戸時代の地誌『摂津名所図会』にも採録、紅梅と明記されていますが、現在、紅梅・白梅の二株が植えられています。箙の梅が紅白何れかで争いがおこってはまずいとの配慮による由(春木一夫『兵庫史の謎』神戸新聞出版センター刊)、面白い裏話があればあるものと感心させられます。

  • 魁石
  • 一枚刷り物「摂津国生田太神宮境内之絵図」

その二 生田の森合戦を彩る挿話(3)

箙の梅の花色は何色かとの疑問-話は長門本『平家物語』(巻十六)の表現、「片岡なる梅のまだ盛りなるを一枝折りて、箙に差し具して云々」に遡ります。古典和歌では梅花を詠んでその花色を賞でることは少なく、その香りを称えることこそ梅の表現美の典型と悟ってみると、確かに長門本『平家物語』は梅花の本意に則った表現であると言えます。 舞台芸能たる能『箙』では白梅、浄瑠璃『ひらがな盛衰記』では紅梅と分かれますが、色彩心理学を援用すると、沈着を示す白、勇敢を示す紅ということになります。悩み多き薫に白、行動的な匂宮に紅梅が配されている(『源氏物語』)等の指摘が思い合わされるところです。 ところで箙の梅は恰好の画題、江戸時代後期の錦絵でもよく眼にします。なかで、国芳画「生田森追手源平大合戦」は白梅、芳虎画「生田杜大合戦之図」は紅梅、重政画「子供遊び 梶原源太景季」は背景の一株の梅が紅白二つの花に咲き分かれているとの珍しい図様、小国政画「梶原源太生田森」は背景の梅の木は白、箙に差しているのは紅梅等多様な図様であるのは驚きです。絵画具象の世界、浮世絵師の当惑のさまが見てとれます。

  • 「生田杜大合戦之図」芳虎画
  • 「生田森追手源平大合戦」国芳画

その三 一の谷合戦を彩る挿話(1)

これぞ一の谷合戦の、いや『平家物語』前編のさわりと評されるのが、尋常小学唱歌「青葉の笛」(大和田建樹作詞)でおなじみの忠度最期談と敦盛最期談。 都落ちに際し歌人としての名誉を重んじる平忠度は、危険もかえりみず和歌の師俊成を訪ねて歌集を手渡し、『千載集』撰進再開の折にはぜひわが歌入集をと懇願した云々(巻七「忠度都落」)を受け継ぐ佳話が「忠度最期」(巻九)です。一の谷合戦で敗走する大将と覚しき華麗な軍装の武者一騎、源氏方岡部六野太が追い付き名告り求めるも応じません。やむなく敵を討ち取った六野太は、その亡骸の箙に付された短冊、「行き暮れて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし 忠度」を見出し、始めて自分の討ち取った相手が忠度であると分った云々。能『忠度』にも採用され歌人忠度にふさわしい最期談を形成しているのです。 江戸時代の地誌『播州名所巡覧図会』(巻三)にも載りますが、なぜか、一の谷を挟んで東西ほぼ等距離、神戸市長田区と明石市に、忠度ゆかりの遺跡、忠度腕塚と胴塚(神戸市)、忠度塚と腕塚神社(明石市)と二ケ所ずつ、今も大事に伝えられています。

  • 忠度腕塚(神戸市長田区)
  • 忠度胴塚(神戸市長田区)
  • 腕塚神社(明石市)

その三 一の谷合戦を彩る挿話(2)

無賃乗車とかけて薩摩守と解く、心は忠度(只乗り)とのしゃれが古くから興じられたように、忠度の挿話がもてはやされたことは事実。平敦盛もまた一躍『平家物語』のスターであるに違いありません。 源平一の谷合戦で敗走する平家の若武者一騎、名告り求められるも拒絶、勇将熊谷直実はやむなくその武士を討ち取ります。遺品横笛により持主は敦盛と判明、戦場の掟とは言え我が子と同年令の敦盛を討たねばならなかったことに苦しむ直実は出家した云々、能『敦盛』でも広く知られている挿話(巻九「敦盛最期」)です。 それにしても「忠度最期」と同様の展開-敗軍の将の軍装の克明な描写に始まり、敵の呼びかけにも応ぜずついに名告らずに討たれること、死後遺品により誰であるか判明、敵も味方も勇将の死を悼んだ云々とのきまりきった表現であるのは驚きです。今ではマンネリと酷評されかねない、忠度・敦盛最期談の意識した対の構成は、究極の古典の表現美たる型の完成、偉大なるマンネリと称えられるべきことなのでしょう。個性的な創造が課題である現代とは異なる文芸観、しかも、この『平家物語』が変わらず作品評価の頂点を占めているなど興味深いことです。

その三 一の谷合戦を彩る挿話(3)

狂言綺語の理、転じて法輪の縁となる-仏道第一にして、虚飾に満ちた芸道は修業の妨げ、されどこの芸道が出家の機縁ともなる摩訶不思議は「敦盛最期」を締め括る言葉です。 『須磨寺略縁起』にも記すように、敦盛を討ったことによる直実の出家云々は、須磨寺(神戸市須磨区)の布教にあたっての呼び物であったことは確か、源平合戦五百年にちなむ延宝八年(1680年)の須磨寺御開帳に当り、一の谷の敦盛石塔を終点とする道中案内『福原びんかがみ』が出版されています。 須磨寺境内には敦盛首塚、また、須磨浦公園の西端、須磨寺管理の敦盛石塔では、敦盛の命日旧暦二月七日の当日、平敦盛・源平勇士追悼御法要が営まれます。石塔前での読経、そして須磨ゆかりの一絃琴の演奏奉納と続く厳かなうちにも、あでやかな和服姿等華やかな儀式です。阪神大震災の前年の法要に参加しましたが、故小池義人須磨寺管長が法話のなかで、須磨寺蔵の古記録『当山歴代』に記す、慶長元年(1596年)京都大地震の際この石塔が崩れたことに触れ、地震に注意をと話されたことは忘れられません。先年の大震災でも輪が転がり落ちていましたが、法話の持つ凄みが感ぜられたことでした。

  • 敦盛石塔(神戸市須磨区)
  • 倒壊した敦盛石塔

その四 古戦場一の谷での芭蕉の感懐

須磨、一の谷の歴史地理を語り尽して、『笈の小文』は屈指の名文。
貞享五年(1688年)四月-今で言う五月二十日頃、芭蕉は上方の名所旧跡歴遊の果てに須磨・明石を訪れます。その折の紀行『笈の小文』の末、「かかる所の秋なりけりとかや」以下、『源氏物語』須磨巻を引いては光源氏の侘び住まいに思いを馳せ、在原行平と松風・村雨姉妹の故事を偲び、源平古戦場一の谷を眼下に平家敗亡のさまを追悼するくだりは忘れがたい行文です。 源平一の谷古戦場で芭蕉が弔ったのは忠度塚・敦盛塚・通盛塚など、河原兄弟塚を除いて、さながら平家鎮魂の態、なかでも、「敦盛の石塔にて泪を留め兼ね候。磯近き道の端、松風の寂しき陰に物ふりたる有様、生年拾六歳にして戦場に臨み、熊谷に組て厳めしき名を残し侍る、其日の哀れ、其時の悲しさ云々」(芭蕉書簡)ともっぱら敦盛最期が関心事、「須磨寺や吹かぬ笛きく木下闇」の句を残しています。 ただし、後で述べますが、『平家物語』に説く直実出家談が虚構であることは確か-たとえ狂言綺語たりとも、芭蕉のように騙され続けていたかったとの思いにかられます。

  • 一枚刷り物『摂州須磨浦十景』イメージ 一枚刷り物『摂州須磨浦十景』
  • 一枚刷り物『摂州須磨浦一ノ谷真景細見』 イメージ 一枚刷り物『摂州須磨浦一ノ谷真景細見』

一の谷合戦異聞史実と虚構のはざまで

「平家」の中でもとりわけ一の谷合戦をめぐっては、古来よりさまざまな論議が交わされてきました。 戦場となった三草山や鵯越の所在地、忠度・敦盛のエピソード、直実出家の真相など、 代表的な論争テーマを通じて、時代とともに変貌しつつ生きながらえてゆく物語の真実に迫ります。

その一 古戦場三草山・鵯越の所在(1)

義経率いる源氏と平家の対決緒戦の場として設定された「播磨と丹波の境なる三草山」の箇所に、『平家物語』注釈書はこぞって、現兵庫県加東郡社町の山との注解を施しています。しかし、西国流浪の末、ようやく兵力調え福原(現神戸市)に戻り拠点構えている平家追討のため、義経はなぜそのような遠回りをするのか、明治後期、吉田東伍『大日本地名辞書』以来の疑問でした。 今一つの三草山-兵庫県社町の三草山登山口の案内板に源平古戦場とあるほか、大阪府豊能郡能勢町の三草山西麓の峠の道標にも源平古戦場と記しているのは驚きです。たかが地元の身びいきなどと軽んずることなかれ、角川日本地名大辞典『兵庫県』と『大阪府』別個の三草山の項にともに源平合戦古戦場と記すなど、同一企画書としては不統一の謗まぬかれない考証の現状、『地図で訪ねる歴史の舞台 日本』(帝国書院)では能勢町の三草山だけを源平古戦場と割り切っています。 もともと『玉葉』に、「先づ丹波城を落し」としか記されていない一の谷合戦の前哨、その戦いの様いかばかりかはもちろん、肝心の三草山は何処か確定できないあたり、歴史地理学、一筋縄でいかぬことを痛感します。

  • 古戦場三草山・鵯越の所在(1)

その一 古戦場三草山・鵯越の所在(2)

平家の油断見透し背後の山から人馬もろとも一気に攻め下り、ために平家たちどころに敗走とは、一の谷合戦のハイライト、義経得意のさわりです。しかしこの場面、「一の谷のうしろ鵯越に打上がり、すでに落さんとし給ふに云々」も罪作りな設定、現在の地理、一の谷(神戸市須磨区)と鵯越(神戸市北区)は数キロも離れているのです。 芭蕉は「一の谷逆落し云々」と確かに一の谷派、錦絵「義経之軍兵一ノ谷逆落之図」(国芳画)も思い合わされます。しかし、鵯越の麓長田区の辺には平通盛や通盛を討った木村重章等の墓が散在するなど古戦場の様相を呈するあたり鵯越派も負けていません。 所詮史実ならざる物語と割り切れば楽ですが、物語をして歴史とつい錯覚、現実の地名をそれと当て込んでの郷土史家の論争は尽きません。劇作家木下順二は旧制高校馬術部主将の実績引き下けて、「その後地形がどう変わったか知らぬが、私は本文にあるような“坂落し”はなかったと推測する」(『古典を読む 平家物語』岩波書店刊)と断言していることです。ちなみに、吉川英治『新平家物語』は鵯越派、森村誠一『平家物語』・宮尾登美子『宮尾本平家物語』は一の谷派と読み取れます。

  • 「史跡鵯越」「源平史蹟 行く朝の濱」 「史跡鵯越」「源平史蹟 行く朝の濱」
  • 鉢伏山頂から見下ろす一の谷周辺 鉢伏山頂から見下ろす一の谷周辺

その二 書き換えによる表現美の完成

「忠度都落」(巻七)と「忠度最期」(巻九)に展開する佳話の数々-たとえ死後たりとも勅撰歌人の栄誉たまわらんと騒然とした都に戻り、和歌の師俊成に歌稿を托して懇願する忠度、俊成また朝敵とてためらうことなく快く対面、後年忠度の願いを聞き届けた云々。極めつけは、名告らず討たれた忠度は形見の和歌短冊によりその人と分かったなど歌人俊成・忠度の面目躍如の挿話です。 しかし、『平家物語』古写本では、俊成は面会をためらい門の所までしか出て来ず、やむなく忠度は屏越しに歌稿を投げ込んだ云々、そしてその最期の場面、辞世の和歌を残していた云々の感動的なシーンはそっくり見当りません。これでは歌人忠度像として形無し-書写しながら物語が流布する間、歌人忠度とあればこうでなくてはとばかり改編されたことは明らかです。著作権などありえない時代、作品が読者の力添えで名作に生まれかわるとはこのような現象-異本化と言います。 それにしても『平家物語』の合戦場面では血は一滴たりとも飛び散りません。血みどろな場面が散見される『太平記』等との表現意識の顕著な差です。

その三 歴史そのままと歴史ばなれ 敦盛最期談

「忠度最期」と対をなす「敦盛最期」(巻九)-どうしても名告らぬ若武者を討ち取った熊谷直実は遺品横笛により平敦盛と知り、戦いの酷さを嘆じて出家した云々とこれでもかとばかりの佳話の展開です。 確かに、後年直実が法然上人の高弟となったことは事実、ただし勅修御伝『法然上人行状絵図』には直実出家の理由を、父の遺領裁判の不利な判決で頼朝を恨んでのこととしか記しません。鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』記事そのままのまことにそっけない実情、江戸前期、水戸藩で試みた『平家物語』の史実考証『参考源平盛衰記』でもこの記事を拠り所に、『平家物語』の直実出家談をして虚構と断定しているところ、作りあげられた美談であることは明白です。 浄土宗総本山知恩院蔵勅修御伝に背馳するなどものかは、『蓮生山熊谷寺開創略縁起』(埼玉熊谷市)では敦盛討ち取りと遺領争いでの負けを直実出家(法名蓮生)の事由と掲げ、『摂州須磨寺略縁起』(神戸市須磨区)また敦盛所持の遺物(横笛)が寺宝と記すなど、『平家物語』に展開する敦盛最期・直実出家談をして善男善女の寺詣での呼び物としているあたり、興味深いことです。

  • 蓮生山熊谷開創略縁起 蓮生山熊谷開創略縁起

その四 能登守教経最期の地

一ノ谷合戦を描いて、敦盛と直実、忠度と岡部六野太、教経と阿保遠江守(安田義定)の三組の取り合せは、錦絵「源平一之谷大戦高名之図」(貞秀画)などよく見る図様ですが、奇異の感しませんか。 敦盛と忠度はともかく、平教経は、後の屋島合戦や壇の浦合戦でこそ大働きしますが、こと一の谷合戦ではほとんど出番がありません。 神戸ならではの伝承、地誌『西摂大観』(仲彦三郎編。明治44年刊)に和田岬の「則経(教経)ノ塚」が載ります。確かに『吾妻鏡』に、教経は安田義定に討たれたと明記、錦絵「一ノ谷鵯越逆落 平家八嶋落之図」(貞秀画)にも「安田遠江守甥一條太能登守教経組討」の場面を描いています。 明治四十年代以降の神戸市地図にも、和田岬に、『太平記』でおなじみの本間孫四郎遠矢の松と並んで則経の塚を記載するものがあります。 現在、本間孫四郎遠矢の碑のみ伝わり、則経の墓の所在は定かでないこと、奧田雅人和田神社宮司に尋ねたところ、則経の墓があった等聞いたことはない由-遺跡の保存継承にあたり、『平家物語』の記述に反するものは承けられぬということでしょうか。史実にあらざる物語の浸透大なることが察せられます。

  • 一の谷鵯越逆落平家八嶋落之図 一の谷鵯越逆落平家八嶋落之図
  • 実測神戸市地図 実測神戸市地図

一の谷合戦、その後滅びゆく者たちの美学

熾烈を極めた一の谷合戦での大敗を契機に、平氏は滅亡への道を突き進んでゆきます。 屋島合戦を経て、幼い安徳天皇とともに壇の浦の波の下に散っていった最期。 そして静かに語られる戦いの後日譚…。 全編を貫く深い無常感と、壮大な滅びの物語がもたらす感動を、あらためて味わってみましょう。

その一 屋島合戦から壇の浦合戦へ(1)

一ノ谷合戦勝利の勢いそのまま、翌元暦二年(1185年)二月十八日の屋島合戦(高松市)、続く三月二十四日の壇の浦合戦(山口市)と追い詰めての平家撃破、全てこれ指揮官源義経の独壇場といった態です。 「嗣信最期」「那須与一」(巻十一)等勝利者源氏方武将の挿話中心の屋島合戦、「先帝身投」「能登殿最期」(同)等敗北者平家方の挿話中心の壇の浦合戦と『平家物語』の視点は分かれるが、一の谷合戦とともに絵になる場面の連続-源平合戦図屏風にはきまってこれら名場面が書き込まれています。 たとえば「那須与一」。沖の舟に源氏を挑発するかのように掲げられた扇、味方の期待を背に与一は、その「皆紅の扇の日出したる」(地紙が赤色で、日の丸の形を金箔で押した扇)の要際(かなめぎわ)を見事射切る。平家の旗印を象徴するかのような赤色、まさに落日平家の予言さながら扇は海面を漂った云々と『平家物語』の表現の工夫は細い。物語の絵画化は忠実に果されているか-「皆紅の日出したる」そのままに描くものも多いが、黒地に赤の日の丸、さらには、今の日の丸そのまま、白地に赤と『平家物語』の表現の工夫を裏切る図様を目にすることがあります。

  • 八嶋壇浦大合戦之図 八嶋壇浦大合戦之図

その一 屋島合戦から壇の浦合戦へ(2)

壇の浦合戦で敗北を覚悟、「見るべき程の事は見つ。今は自害せん」と潔く入水した平知盛と並んで、屋島合戦でも勇敢に戦い、続く壇の浦合戦で敵を両脇に抱えて入水する能登守教経は滅びゆく平家を最期まで支えた武士として好意的に描かれています。 教経一の谷討死説のあることは前節で紹介しましたが、これでは以後の合戦の感動が成り立ちません。奇想天外な短編筒井康隆『こちら一の谷』の一節、「「うるさいな。この小説は一の谷の話だけで、あとの話なんか知らないよ」源氏の武者たちは、あっさりと教経の首をはねてしまった」は笑わせてくれます。 『平家物語』の展開をよそに、真偽は知らず、『吾妻鏡』の記事通り、一の谷合戦にて教経討死にこだわる江戸時代の雑史・絵本・草双紙をよく目にします。教経が一の谷で安田義定等に討たれたとしながら、屋島合戦で義経の忠臣佐藤嗣信を射倒し、更に壇の浦合戦ではあわや義経を追い詰める等の摩訶不思議なからくり-討たれたのは実は別人であった云々、教経が討たれた後替玉を仕立てて教経と名告らせた云々と入り組んだ筋立の数々、歴史そのままと歴史ばなれ論議は尽きません。

その二 平家一門の滅亡(1)

友軍阿波民部重能の寝返り等総敗北は必至、一門の人々戦い尽きて入水するなか、平家の総帥(そうすい)宗盛・清宗親子も海に飛び込むものの救い上げられて鎌倉に護送、頼朝の尋問をうけた後、近江国篠原で斬られた云々-鎌倉の武士達は宗盛の卑屈な態度を嘲ったなど『平家物語』の宗盛評は手厳しい限りです。宗盛は清盛の三男にして重盛の弟、重盛や知盛・教経と対比して凡庸なさまを際立たせること-『平家物語』に顕著な筆法です。 平家滅亡の大切り、清盛の妻二位の尼が八歳の安徳帝を抱いて入水しようとする場面、「尼ぜ、我をば何方(いずち)へ具して行かんとするぞ」、「浪の下にも都のさぶらふぞ」等の応答は悲痛です。安徳帝の様子を「山鳩色の御衣にびんづら結はせ給ひ」と表現していますが、この「びんづら(髪を左右に束ねて両耳の辺に垂れかけたさま)」姿は『平家物語』にあって、神や神の使いの出現に際しての形容、「あたりも照り輝く云々」等、安徳帝の神神しさが強調されているのです。 清盛の娘にして高倉帝の中宮、安徳帝の母たる建礼門院は入水果せず海中から引き上げられ、都に移された後出家、大原寂光院での仏に仕える日々、安らかな往生を遂げます。

  • 源平矢嶋大合戦之図 源平矢嶋大合戦之図

その二 平家一門の滅亡(2)

壇の浦合戦後、源氏による平家の残党狩りは苛酷なものでした。清盛、重盛、維盛と続く平家の嫡流、維盛の遺児六代も都で捕らえられます。あわや斬られようとする時、文覚上人の頼みを容れた頼朝の許し状が届いて助かり、後出家、しかし建久九年(1198年)鎌倉で斬られたと伝えられます。 編年形式を守り、六代の死、「それよりしてこそ平家の子孫は長く絶えにけり」(巻十二「六代被斬」)で結ぶ『平家物語』の伝本もありますが、現在注釈が施されて広く流布しているものは、編年形式を壊し建礼門院の事跡だけを特立させた「灌頂巻」を巻十二巻末に付した伝本-建久二年(1191年)、地獄を見た建礼門院が寂光院の鐘を聞きながら安らかに往生された云々は、序章「祗園精舎」と呼応して感動の基となっていることが見てとれます。 平家討伐の立役者源義経が兄頼朝に嫉(そね)まれて逃亡先奥州平泉で悲惨な最期を遂げた云々-「夏草や兵どもが夢の跡」はこの地での詠、芭蕉の働哭(どうこく)です。頼朝また落馬がもとでの不審な死、平家を滅ぼしたはずの源氏政権も僅か三代で絶えます。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり云々-『平家物語』を前に、「盛者必衰の理」とは平家一門に止まらず、人の世の摂理と痛感されたはずです。

その三 小宰相の局の墓所

建礼門院を始め、権力者清盛に翻弄されながらも嵯峨野で出家、安らかな往生を遂げた祇王(巻二「祇王」)など仏道に導かれた女性の挿話が『平家物語』を彩ること-他の軍記物語にはないこの物語ならでは持質です。 「小宰相」(巻九)もその一環-一の谷合戦で夫平通盛を失った小宰相は、生き残った一門の人々と屋島へ落ちのびる途中、女房のすきを見て屋島の沖で入水して果てます。全てを事実談とする確証はありませんが、来世での夫との出会いを信じて身重の身で入水、しかも初七日の出来事と、手の込んだ展開です。 淡路島西淡町伊加利のお局塚は北斗七星をなぞった七塚、江戸期地誌に小宰相の亡骸漂着伝承が記載されていますが、大正末年、神戸の郷土史家福原潜次郎氏の強い後押しで整備、掃苔会を催したところ「期せずして集まるもの一千有余人満山人を以て埋む云々」(福原潜次郎著『お局塚の由来』大正13年刊)、現在も大事に伝えられています。また、願成寺(神戸市兵庫区)は、境内に通盛と小宰相の五輪塔の建つゆかりの寺院-寺宝『摂州烏原村願成寺地蔵尊縁起』には、小宰相の乳母呉葉が主の供養を思い立ち、願成寺開祖の兄住蓮法師を頼った云々の伝承を記しています。

  • お局塚 お局塚
  • 『摂州島原村願成寺地蔵縁起』 『摂州島原村願成寺地蔵縁起』
  • 通盛・小宰相の墓 通盛・小宰相の墓

その四 平家落人伝承

壇の浦で入水、しかし御遺骸が発見されることがなかったせいか、史料には行方不明と記されることもある安徳天皇。なかで、安徳帝死せずとばかり、その流離生存を伝える地が西日本を中心に散在しているのです。 源平合戦にからむ平家落人伝説と平家村の存在-兵庫県内にも、なぜこの人の伝承がと不審の感さえあるものが大事に伝えられています。『平家物語』によれば、平教盛・経盛兄弟、鎧の上に碇を背負って手を取り組み壇の浦にて入水のはずが(巻十一「能登殿最期」)、所こそ違え、ともに生存していたなど想像が付きますか。 日本海岬の突端、「史跡 平家村 御崎」の石碑が建つ香住町御崎(城崎郡)-教盛、その嫡子通盛の妻小宰相と子息道家等が壇の浦から逃れ来た云々の伝承(『但馬顕晦録』。原奧書は天和二年・1682年)があり、集落中央には、「門脇宰相平教盛卿之墓」「小宰相ノ局・門脇平通家墓」が祀られています。

  • 御崎 御崎
  • 小野豆 小野豆

兵庫「平家」マップ

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広域版 生田神社 [生田の森/箙(えびら)の梅] 河原霊社(三宮神社内) 河原兄弟塚(追谷墓園) 和田神社 史跡鵯越の碑 平忠度腕塚 平忠度胴塚 平盛俊塚 平盛俊の墓 源平勇士の碑 平知章の墓 堅物太郎の碑 忠度塚 腕塚神社 両馬川旧跡 須磨寺 [敦盛首塚/芭蕉句碑] 平重衡とらわれの遺跡 須磨浦公園 [敦盛塚/戦の浜/安徳帝の内裏跡/勢揃の松]
兵庫区域版 生田神社 [生田の森/箙(えびら)の梅] 河原霊社(三宮神社内) 河原兄弟塚(追谷墓園) 和田神社 史跡鵯越の碑 平忠度腕塚 平忠度胴塚 平盛俊塚 平盛俊の墓 源平勇士の碑 平知章の墓 堅物太郎の碑 忠度塚 腕塚神社 両馬川旧跡 須磨寺 [敦盛首塚/芭蕉句碑] 平重衡とらわれの遺跡 須磨浦公園 [敦盛塚/戦の浜/安徳帝の内裏跡/勢揃の松]

1生田神社 [生田の森/箙(えびら)の梅]

生田の森
平家は、かつては生田川のあたりまでの大森林であったこの森を東の城戸とし、生田川に逆茂木を並べて陣を張り、平知盛を大将として源範頼軍を迎え撃った。

箙(えびら)の梅
生田の森合戦で風流の武士の名を残した梶原景季が、咲き乱れる梅の枝を手折り、「吹く風を何いとひけん梅の花散り来る時ぞ香はまさりける」の古歌を偲び、梅一枝を箙にさして奮戦したと伝えられている。

参考文献:『源平と神戸 福原遷都から800年』
(神戸史談会編・神戸新聞出版センター)

生田神社 [生田の森/箙(えびら)の梅] イメージ

2河原霊社(三宮神社内)

河原兄弟は武蔵国の住人で、兄は太郎高直、弟は次郎盛直。生田の森の戦いで平家軍へ先陣かけて切り込んで兄弟ともに討ち死にしたが、その働きで源氏勢の志気を高め勝利に導いた。その功に報い源頼朝がこの近くに報恩寺を建て、菩提を弔ったといわれている。

参考文献:『源平と神戸 福原遷都から800年』
(神戸史談会編・神戸新聞出版センター)

河原霊社(三宮神社内) イメージ

3河原兄弟塚(追谷墓園)

河原兄弟塚は頼朝の建てた報恩寺が焼けたあと田んぼの中に取り残されていたが、後に追谷墓園に移された。

参考文献:『源平合戦ゆめのあと』
(神戸新聞社編・神戸新聞出版センター)

河原兄弟塚(追谷墓園) イメージ

4和田神社

当社は主神に天御中主大神を相殿には市柿嶋姫大神と蛭子大神をお祀りしております。特に天御中主大神は江戸時代の国学者、本居宜長が「天の真中に坐々て世ノ中の宇斯たる神」また平田篤胤は「天地萬物の主宰神」と解され信仰されたご祭神です。
元の神域は現在地の西南約八百米の海岸にあり「蛭子の森」と呼ばれ神代の昔に蛭子大神が淡路から本州に上陸された最初が和田岬で、大神が祀られた西摂最古の聖地です。時代は下り、承安三年に平清盛が兵庫津を築港した際、事業の無事と将来の繁栄を祈願し、安芸の宮島より市柿嶋姫大神を勧請しました。更に下り、万治元年に天御中主大神の坐す神輿がこの地に流着、種々の神異を現し、これを知った時の領主青山大膳亮幸利は、御社殿を大造営やがてこの神を主神に、お祀り申し上げました。この後は南濱総氏神と広く人々に親しまれ、その時の社務所は隣松院と呼ばれその庭園は天下の名林泉と称えられ江戸時代には西国大名が参勤交代の旅情を慰め、幕末には勝海舟、十四代将軍慶喜、また勤皇の志々の多くが参拝し、書院で休息、あるいは密議をこらすなど、明治維新の一舞台となったところでした。しかし風光明媚なこの地も国策による近代化の波が押し寄せ、造船所が建設、やむなく現在地に御移転したのは明治三十五年のことでした。

和田神社 イメージ

5史跡鵯越の碑

鵯越は、兵庫から播磨へ通る古道。一の谷合戦での義経の進路にはいろんな説があり、「逆落とし」でなく「坂落とし」で、義経はこの鵯越道を一気に中央突破したとの説もある。

参考文献:『源平と神戸 福原遷都から800年』
(神戸史談会編・神戸新聞出版センター)

史跡鵯越の碑 イメージ

6平忠度腕塚

市地域史跡に指定されています。
駒ヶ林の細い路地を入ったところにある小さなお堂です。忠度(ただのり)の最期の場所がどこであるのかについては何も書かれていませんが、長田区内の腕塚と胴塚とは別に、明石市にも忠度塚と腕塚神社があります。どちらが本当か決め手はありませんが、忠度の死を悼む心とここへ参れば腕・胴の痛みが治るという信仰があったことを物語っています。とにかく、忠度の墓と腕塚が一組になって、しかも二ヶ所にあるというのはおもしろいのではないでしょうか。

『ながた すこやかマイロード』より
発行:長田区民まちづくり会議・長田区役所
監修:神戸史談会

平忠度腕塚 イメージ

7平忠度胴塚

平忠度(たいらのただのり)は、平清盛の末弟で、文武ともに優れ、一の谷の合戦では西の手の大将軍でした。しかし、戦いに敗れ、武者百騎ほどを連れ落ちのびていたところ、源氏方の岡部六弥太忠純(ろくやたただすみ)に追いつかれ組み合いとなりました。力持ちの忠度は六弥太をつかんで首を落とそうとしたとき、六弥太の供の者が駆けつけ忠度の右腕を切り落としてしまいました。忠度はこれが最期と思ったか、座って念仏を唱え始め、六弥太は後ろから近よって忠度の首を落としました。その時はその侍の名はわかりませんでしたが、箙(えびら)に結びつけられていた文“旅宿(りょしゅく)の花”から薩摩守(さつまのかみ)忠度とわかったのです。忠度が討ち取られたと知って、敵味方とも涙を流さぬ者はいなかったと『平家物語』には書かれています。石碑(阪神淡路大震災により倒壊)には、「正四位薩摩守朝臣忠度墳」と書かれてありました。

『ながた すこやかマイロード』より
発行:長田区民まちづくり会議・長田区役所
監修:神戸史談会

平忠度胴塚 イメージ

8平盛俊塚

平盛俊(もりとし)は、北方鵯越(ひよどりごえ)から攻め寄せた源義経軍と戦い、この辺りで敗れて戦死した平家の武将です。剛勇の誉れ高い武将でしたが、猪俣小平六(いのまたこへいろく)と組み打ちして討たれました。
石垣をめぐらした約30㎡の數地内、古いクスノキの木陰に碑が建っています。盛俊を討った小平六の石碑は、村野工業高校の西側に建てられています。

『ながた すこやかマイロード』より
発行:長田区民まちづくり会議・長田区役所
監修:神戸史談会

平盛俊塚 イメージ

9平盛俊の墓

同じく平盛俊(もりとし)をまつった塚が名倉町にもありますが、どちらの場所が「盛俊最期の地」であるかは意見のわかれるところです。
「六七十人力」の豪傑ですが、気もやさしかった盛俊は、源氏の猪俣小平六則綱(いのまたこへいろくのりつな)を簡単に組み伏せたものの、小平六の必死の命乞いを聞き入れてしまい、その間に駆けつけた敵兵に気を取られた隙に小平六に討たれてしまったのです。

『ながた すこやかマイロード』より
発行:長田区民まちづくり会議・長田区役所
監修:神戸史談会

平盛俊の墓 イメージ

10源平勇士の碑

一の谷の合戦のとき、生田の森の大手を守っていた父の平知盛を助けようとして明泉寺の近くで戦死した知章(ともあきら)の碑を、もともとは明泉寺のほとりに塚印があったものを、孝子の墓は世の手本になるように人目につくところにということで、享保年間に西国街道筋にもたてたものです。
また、この付近で戦死したという平通盛(みちもり)や、源氏方の猪俣小平六(いのまたこへいろく)、木村源三則綱(のりつな)、平通盛と戦って相討ちで死んだといわれている木村源吾重章の碑が敵味方仲良く建てられています。

『ながた すこやかマイロード』より
発行:長田区民まちづくり会議・長田区役所
監修:神戸史談会

源平勇士の碑 イメージ

11平知章の墓

生田の森の大将、平知盛の嫡男であり、清盛の孫である平知章(ともあきら)の墓は明泉寺(大日寺)の境内にあります。まだ16歳の知章が父知盛を助けて討ち死にしたのは、この地の北の辺りといわれています。もとは藪の中にあった塚を境内に移し、五輪塔として祀っています。
また、供養碑は、村野工業高校西側にも建てられています。

『ながた すこやかマイロード』より
発行:長田区民まちづくり会議・長田区役所
監修:神戸史談会

平知章の墓 イメージ

12堅物太郎の碑

長田ビルと村野工業高校の間の路地を入ったところに、ひっそりとまつられている堅物(けんもつ)太郎は、平知盛の家臣で、寿永3年(1184年)、知盛の嫡男知章を救おうとして討ち死しました。
この碑は地元の人たちによって、大事に祀られています。

『ながた すこやかマイロード』より
発行:長田区民まちづくり会議・長田区役所
監修:神戸史談会

堅物太郎の碑 イメージ

13忠度塚

寿永三年(1184)一の谷の戦いに敗れた平氏の将、薩摩守忠度が両馬川まで来たところで源氏の将、武蔵国(埼玉)の岡部六弥太忠澄に討たれ、その亡骸を埋めたところと伝えられる。

忠度塚 イメージ

14腕塚神社

平忠度は平清盛の弟で腕力の強い武将として知られまたすぐれた歌人であった。平家都落ちのとき引返して和歌の師藤原俊成を訪れて詠草一巻を托したことは歴史に名高い。寿永三年(1184)二月七日一の谷の戦いに西軍の大将としてこの地を流れる両馬川で源氏の岡部忠澄主従と闘って負傷し忠澄に首を討たれた。時に四十一歳、箙に「行き暮れて木の下陰を宿とせば花やこよいのあるじならまし」とあったので忠度であると知られた。もとは塚であったが鉄道敷設のときに神社として祀られるようになった。

腕塚神社 イメージ

15両馬川旧跡

寿永三年二月一の谷の戦に敗れた平家軍の通過地である。
平忠度が岡部六弥太に追いつかれ二人の馬が川をはさんで戦ったので「両馬川」という名がついたと伝えられている。

両馬川旧跡 イメージ

16須磨寺

芭蕉句碑
須磨寺境内に、平敦盛ゆかりの青葉の笛を芭蕉がよんだ句碑「須磨寺や吹かぬ笛聞く木下闇」がある。

敦盛首塚
一の谷の戦いで、能谷直実に討たれた平敦盛の首が須磨寺に埋葬されたという説がある。

参考文献:『源平と神戸 福原遷都から800年』
(神戸史談会編・神戸新聞出版センター)

須磨寺 イメージ

17平重衡とらわれの遺跡

清盛の子・重衡は生田森を守っていたが、敗れて須磨に逃れ、源氏の庄四郎高家に捕えられた。その様子をみた土地の人が哀れに思い濁酒をすすめたところ、その情を喜び和歌を詠じたと伝えられている。

参考文献:『源平と神戸 福原遷都から800年』
(神戸史談会編・神戸新聞出版センター)

平重衡とらわれの遺跡 イメージ

18須磨浦公園

【敦盛塚】
清盛の弟経盛の末子・平敦盛は、寿永3年(1184)2月7日、16歳の若さで熊谷直実に浜辺で首を討たれた。その話が同情をさそい、供養のために建てた塔と伝えられてる。

敦盛塚 イメージ

【戦の浜】
一の谷をわたって西一帯は源平合戦の激戦地であったと伝えられ、戦の浜と呼ばれている。

戦の浜 イメージ

【安徳帝内裏跡】
寿永3年(1184年)正月、平家が屋島から福原に帰ってきたとき、一時ここに行宮をたてて安徳天皇を迎えたと伝えられている。

安徳帝内裏跡 イメージ

【勢揃の松】

勢揃の松 イメージ

参考文献:『源平と神戸 福原遷都から800年』
(神戸史談会編・神戸新聞出版センター)

兵庫区域版 ●の御所跡碑(薬仙寺) 厳島神社 湊川上温泉 平清盛●(能福寺) 清盛塚十三重塔・琵琶塚・平清盛像 熊野神社 松王丸入海の碑・墓(築島寺) 雪見御所旧跡(湊山小) 平通盛・小宰相の局五輪塔(願成寺) 七宮神社 平経俊五輪塔(鎮守稲荷神社) 金光寺 宝地院 恵林寺 時雨の松の碑(範国寺) 夢野八幡神社 安徳天皇行在所跡(荒田八幡神社) 平頼盛山荘跡 (荒田八幡神社) 福原遷都八百年記念の碑(荒田八幡神社) 東福寺 清盛橋 神明神社 平業盛塚(善光寺) 祇園神社
兵庫区域版 ●の御所跡碑(薬仙寺) 厳島神社 湊川上温泉 平清盛●(能福寺) 清盛塚十三重塔・琵琶塚・平清盛像 熊野神社 松王丸入海の碑・墓(築島寺) 雪見御所旧跡(湊山小) 平通盛・小宰相の局五輪塔(願成寺) 七宮神社 平経俊五輪塔(鎮守稲荷神社) 金光寺 宝地院 恵林寺 時雨の松の碑(範国寺) 夢野八幡神社 安徳天皇行在所跡(荒田八幡神社) 平頼盛山荘跡 (荒田八幡神社) 福原遷都八百年記念の碑(荒田八幡神社) 東福寺 清盛橋 神明神社 平業盛塚(善光寺) 祇園神社

1萱の御所跡碑(薬仙寺)

延宝8年(1680)年に記された『福原びんかがみ』によると「萱の御所」は「牢の御所」として記載されており、平清盛が御白河法皇を閉じこめていた場所と伝えられている。現在は碑が薬仙寺境内に立っている。

『知れば知るほど 兵庫区歴史花回道』より
文:田辺眞人(園田学園女子大学)
発行:兵庫区民まちづくり会議 兵庫区役所

萱の御所跡碑(薬仙寺) イメージ

2厳島神社

永沢町には平清盛ゆかりの「兵庫七弁天」の一つ、外弁天(厳島神社)がある。外弁天の“外”は兵庫津の域外にあったことを示している。この付近は昔「渦輪(うずわ)」と呼ばれて湊川の旧川筋にあたり、さらに地下水も湧出して渕のようになっていたといわれ、平清盛は治水のためこの神社を建立したとされる。

『知れば知るほど 兵庫区歴史花回道』より
文:田辺眞人(園田学園女子大学)
発行:兵庫区民まちづくり会議 兵庫区役所

厳島神社 イメージ

3湊川上温泉

平清盛が太政大臣を辞して隠居した「雪の御所」の近くに「湯屋」があったと、治承3(1179)年の『山槐記』には記されている。その推測地の一つである天王谷の「湊川上温泉」は、文禄5(1596)年の大地震で大被害を受けたが、正直屋寿閑に豊臣秀吉が湯坪取立の朱印状を与えて復興させた。

『知れば知るほど 兵庫区歴史花回道』より
文:田辺眞人(園田学園女子大学)
発行:兵庫区民まちづくり会議 兵庫区役所

湊川上温泉 イメージ

4平清盛廟(能福寺)

北逆瀬川町にある能福寺は平清盛ゆかりの寺である。養和元(1161)年に清盛が京都で没したおり、初代住職・円実法眼が清盛の遺言にのっとって遺骨を首にかけ、この地に持ち帰って法華堂に納めたと伝えられている。しかし遺骨の行方には諸説があり、所在地は確定されてはいない。

『知れば知るほど 兵庫区歴史花回道』より
文:田辺眞人(園田学園女子大学)
発行:兵庫区民まちづくり会議 兵庫区役所

平清盛廟(能福寺) イメージ

5清盛塚十三重塔・琵琶塚・平清盛像

切戸町にはかつて、清盛が魚供養のために設けたという「魚の御堂(称名寺)」があったという。町の南端の「清盛塚」と呼ばれる十三重石塔は、清盛の遺骨が納められているという説があるが、大正12年の調査で墳墓でないことが明らかになった。しかし弘安9(1286)年の銘を持つ整った形の塔であるため、県指定文化財に指定されている。かたわらの「琵琶塚」は、琵琶形で平経正の墓と伝えられる古墳があったことを示すもの。ともに市電の道路拡張工事で現在地に移され、昭和47年に平清盛像が立てられた。

『知れば知るほど 兵庫区歴史花回道』より
文:田辺眞人(園田学園女子大学)
発行:兵庫区民まちづくり会議 兵庫区役所

清盛塚十三重塔・琵琶塚・平清盛像 イメージ

6熊野神社

国生み神話の主人公、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の二神を祀る熊野神社は、平清盛が福原遷都にあたって王城鎮護のため紀州熊野権現を勧請したと伝えられている。なお、大正7年の調査ではこの付近の地下から、瓶に納められた貝の腕輪など古代の遺物が大量出土し、古代から人が住んでいた形跡がうかがえる。

『知れば知るほど 兵庫区歴史花回道』より
文:田辺眞人(園田学園女子大学)
発行:兵庫区民まちづくり会議 兵庫区役所

熊野神社 イメージ

7松王丸入海の碑・墓(築島寺)

島上町は承安年間(1171~75)に、平清盛が海を埋め立てて築かせた「経ケ島」の上にできた町。築島の目的は「大輪田の泊」の修築工事にあたり、東南の風を防ぐための工夫だった。難工事だったので17歳の松王丸が人柱となり、経文を記した石を沈めて基礎としたので経ヶ島と呼ばれたという。築島寺(来迎寺)には「松王小児入海」の碑と墓が残されている。

『知れば知るほど 兵庫区歴史花回道』より
文:田辺眞人(園田学園女子大学)
発行:兵庫区民まちづくり会議 兵庫区役所

松王丸入海の碑・墓(築島寺) イメージ

8雪見御所旧跡(湊山小)

石井川と天王谷川の合流点に位置する雪御所町は、平清盛の「雪見御所」の跡といわれる。わずか半年とはいえ、400年続いた京の都を廃して安徳天皇とともに福原に都を遷した話は、平家の勢いを現代に伝えるエピソードである。明治41年に湊山小学校校庭から礎石や土器などが発掘され、「雪見御所旧跡」の記念碑が立てられた。

『知れば知るほど 兵庫区歴史花回道』より
文:田辺眞人(園田学園女子大学)
発行:兵庫区民まちづくり会議 兵庫区役所

雪見御所旧跡(湊山小) イメージ

9平通盛小宰相の局五輪塔(願成寺)

願成寺の墓地にある「住蓮の石塔」は、奈良東大寺の実編上人の子で法然上人の弟子だった住蓮上人を弔うもの。源平合戦で討ち死した越前三位・平通盛と夫人・小宰相の局、乳母・呉葉を供養する五輪の石塔と並んで立っている。もとは烏原村にあったが、烏原貯水池建設のため現在地に移された。

『ながた すこやかマイロード』より
発行:長田区民まちづくり会議・長田区役所
監修:神戸史談会

10七宮神社

『西摂大観』によると、羽坂通には平安時代まで塩槌山と呼ばれる小山があったが、平清盛が経ヶ島を築くため崩したという。塩槌山には大己貴命(おおなむちのみこと)が祀られ、神の怒りが風波を引き起こすと考えられたために、七宮神社を建立して島の完成と港の安全を祈願したとされる。

『知れば知るほど 兵庫区歴史花回道』より
文:田辺眞人(園田学園女子大学)
発行:兵庫区民まちづくり会議 兵庫区役所

七宮神社 イメージ

11平経俊五輪塔(鎮守稲荷神社)

平敦盛の兄・平経俊を供養する五輪塔がある西出町の「鎮守稲荷神社」は、「ちぢみ稲荷」と呼ばれ親しまれている。この塔に祈ると子供のカンの虫が治まるといわれ、祈願者から寄贈された真っ赤なよだれかけが結ばれている。

『知れば知るほど 兵庫区歴史花回道』より
文:田辺眞人(園田学園女子大学)
発行:兵庫区民まちづくり会議 兵庫区役所

平経俊五輪塔(鎮守稲荷神社) イメージ

12金光寺

「兵庫の薬師さん」の通称で知られる「金光寺」の名は、まばゆい光を放つ金の薬師如来にちなむもの。夢枕に立った童子のお告げにしたがって、平清盛が大輪田の海に網をおろさせたところ、海中より黄金の薬師如来が現われたという。それを本尊として創建されたと伝えられている。

『知れば知るほど 兵庫区歴史花回道』より
文:田辺眞人(園田学園女子大学)
発行:兵庫区民まちづくり会議 兵庫区役所

金光寺 イメージ

13宝地院

荒田町にある薬王山宝地院は、平清盛のすすめで福原に都を遷した安徳天皇の菩提を弔うため、弘安2(1279)年に建立されたと伝えられている。

『知れば知るほど 兵庫区歴史花回道』より
文:田辺眞人(園田学園女子大学)
発行:兵庫区民まちづくり会議 兵庫区役所

宝地院 イメージ

14恵林寺

十一面観世音菩薩を本尊とする恵林寺は、錦江省文禅師(きんこうしょうぶんぜんじ)が開基で、福原西国三十三ヶ所の第二十八番札所である。境内には、平清盛が経ヶ島を造ったときに困難や水難克服を祈願して建てられた弁財天社があり、兵庫津七弁天の一つ「波除(なみよけ)の弁天」と呼ばれていた。

『知れば知るほど 兵庫区歴史花回道』より
文:田辺眞人(園田学園女子大学)
発行:兵庫区民まちづくり会議 兵庫区役所

恵林寺 イメージ

15時雨の松の碑(範国寺)

釈迦如来を本尊とする臨済宗の範国寺は、永和2(1376)年に頑石曇生(がんせきどんしょう)禅師が開山したと伝えられている。この寺にはかつて平清盛が好んだ「時雨の松」があった。いまはその松はなく、碑だけが福海寺に残されている。

『知れば知るほど 兵庫区歴史花回道』より
文:田辺眞人(園田学園女子大学)
発行:兵庫区民まちづくり会議 兵庫区役所

時雨の松の碑(範国寺) イメージ

16夢野八幡神社

平清盛の福原新都造営にさきがけ、都の守護のため治承元(1177)年に創られたという夢野八幡神社。清盛は自分の所有する荘園・福原荘に新しい都を計画し、福原荘全域が展望できるこの神社の境内で“のろし”をあげることで、新都の位置を測定したと伝えられている。

『知れば知るほど 兵庫区歴史花回道』より
文:田辺眞人(園田学園女子大学)
発行:兵庫区民まちづくり会議 兵庫区役所

夢野八幡神社 イメージ

17安徳天皇行在所跡(荒田八幡神社)

荒田八幡神社が位置するのは、かつて平清盛の弟・池の大納言頼盛の山荘(別荘)があった場所。治承4(1180)年6月の福原遷都の際は、安徳天皇の行在所(行幸時の仮住まい)として使われたという。

『知れば知るほど 兵庫区歴史花回道』より
文:田辺眞人(園田学園女子大学)
発行:兵庫区民まちづくり会議 兵庫区役所

安徳天皇行在所跡(荒田八幡神社) イメージ

18平頼盛山荘跡(荒田八幡神社)

高倉上皇(安徳天皇の父)の御幸を記した源通親著『厳島御幸記』によると、「申の刻に福原に着かせ給う云々、あした(あらたの誤りと思われる)という頼盛の家にて、笠懸流鏑馬(馬で駆けながら矢で笠の的を射ること)など仕らせ御覧ぜられる」という記述が残っている。行在所跡とともに、平頼盛の山荘の広大な規模を伝える貴重な資料である。

『知れば知るほど 兵庫区歴史花回道』より
文:田辺眞人(園田学園女子大学)
発行:兵庫区民まちづくり会議 兵庫区役所

平頼盛山荘跡(荒田八幡神社) イメージ

19福原遷都八百年記念の碑(荒田八幡神社)

治承4(1180)年6月3日、三種の神器と文武百官を従えて安徳天皇は福原に着いた。それから800年後の昭和55(1980)年6月3日、安徳天皇の行在所跡である荒田八幡神社の境内に、「福原遷都八百年記念の碑」が神戸史談会によって立てられた。

『知れば知るほど 兵庫区歴史花回道』より
文:田辺眞人(園田学園女子大学)
発行:兵庫区民まちづくり会議 兵庫区役所

福原遷都八百年記念の碑(荒田八幡神社) イメージ

20東福寺

昭和51年に「神戸市民の木」に指定された槙柏の木が境内にあり、福原西国三十三ヶ所第十七番札所として知られる東福寺は、旧奥平野村で最も古いお寺。もとの名を上迦寺と称し、仁安年間(1166~1169)には平清盛の寄進によって七堂伽藍を構えていたが、元暦元(1184)年の源平合戦で焼失してしまった。

『知れば知るほど 兵庫区歴史花回道』より
文:田辺眞人(園田学園女子大学)
発行:兵庫区民まちづくり会議 兵庫区役所

東福寺 イメージ

21清盛橋

兵庫運河に架かる橋のうち、西端の高松橋から数えて5番目の橋。昭和62年12月に橋の拡張・架け替え工事が完成し、西から5番目を意味する「第5橋」の名前を一新。市民からの要望が多かった「清盛橋」に改名された。

『知れば知るほど 兵庫区歴史花回道』より
文:田辺眞人(園田学園女子大学)
発行:兵庫区民まちづくり会議 兵庫区役所

清盛橋 イメージ

22神明神社

伊勢神宮の天照大神を分霊した神明神社は、元禄5(1692)年の寺社改帳によると「神明の宮二社即ち一 東の方社外宮口 二 西の方社内宮」と記され、伊勢神宮と同じ形式の二社があったようである。

『知れば知るほど 兵庫区歴史花回道』より
文:田辺眞人(園田学園女子大学)
発行:兵庫区民まちづくり会議 兵庫区役所

神明神社 イメージ

23平業盛塚(善光寺)

平業盛塚は会下山町にある。鵯越道から押し寄せた義経軍にかき乱され、平氏の軍は浮き足立った。平清盛の弟、教盛の末子で17歳の若武者だった業盛は、この合戦において源氏方の泥屋四郎・五郎の兄弟を相手に組み討ちで戦い、討ちとられてこの地に葬られたと伝えられている。

『知れば知るほど 兵庫区歴史花回道』より
文:田辺眞人(園田学園女子大学)
発行:兵庫区民まちづくり会議 兵庫区役所

平業盛塚(善光寺) イメージ

24祇園神社

平野の祇園神社の祭神は牛頭天王(ごずてんのう=スサノオノミコト)である。『牛頭天王由来記』によると、貞観11(869)年にこの神様を播州広峰から京都の白川へ移すおり、ここで神輿(みこし)が一泊されたので、それを記念して社を建てたのが始まりだという。

『知れば知るほど 兵庫区歴史花回道』より
文:田辺眞人(園田学園女子大学)
発行:兵庫区民まちづくり会議 兵庫区役所

祇園神社 イメージ

平家文学への誘い

軍記物語でありながら、情緒あふれる描写や全編に漂う深い無常観など、「平家物語」ならではの文学的特質と魅力を紹介します。

1. 情緒あふれる異色の“軍記物”

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす
優れた古典文学として人の心を引き付けてやまないもの、その多くは冒頭の一節を以て記憶され続け、永く読み継がれてきました。 『平家物語』の冒頭もまた、釈迦が説法したという祗園精舎の鐘や、釈迦入滅に際しての沙羅双樹の奇跡に触れて、経典の一節「諸行無常」「盛者必衰」の具体例を流麗な対句仕立ての文章で展開するなど、合戦を題材とする軍記物語としては極めて異色といえます。同じくこの動乱の時期を生きた鴨長明も、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず云々」(『方丈記』)と人の世の営みのはかなさを慨嘆しているように、“諸行無常”“盛者必衰”は絵空事の理ではありませんでした。 ちなみに、平安末期、治承寿永年間の源平争乱が題材の『平家物語』に先行する、保元の乱を題材とする『保元物語』や平治の乱を題材とした『平治物語』の冒頭を比較すると、情趣あふれる『平家物語』の行文の持色は歴然としています。

2. 壮大な“滅び”の物語

2. 壮大な“滅び”の物語

永遠の摂理を説くことに始まる『平家物語』の序章は、その末尾「まぢかくは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人の有様、伝へ承るこそ、心も詞も及ばれね」に至って、ようやく、本題-平氏一門の滅びの過程に焦点をあてた歴史物語であり軍記物語であるとの全貌が明らかになる仕組みになっています。 もちろん、諸行無常・盛者必衰は、清盛以下平氏一門をのみ覆う道理ではありません。安徳天皇や宗盛等平家を西海へ追い落とし、いったんは都の覇者として君臨したはずの木曽義仲も、後白河法皇や同族頼朝の政治的野心に翻弄されたあげく、頼朝の異母弟で代官たる範頼や義経に追われて近江国粟津で戦死します。味方の軍勢も討たれ次第に孤立してゆくなかで、追い詰められた義仲と乳母子(めのとご)今井兼平とのしみじみとした心の通い合いの場を設定するなど、『平家物語』巻九「木曽最期」は義仲の無念の死を同情あふれる筆致で描いて屈指の章です。

3. 事実を超えて“無常”を描く

3. 事実を超えて“無常”を描く

盛者必衰の理(ことわり)はこれにとどまりません。一の谷合戦、屋島合戦を経て、壇の浦合戦で平家にとどめを刺した勝利者たる義経も、のち頼朝に追われる身となり奥州で殺され、範頼もまた疑われて放逐され伊豆で殺されたと伝えられています。あるいは、鎌倉に幕府を開いた頼朝も落馬がもとで頓死(とんし)、引き続く頼家や実朝も非業の死と源氏の正統はわずか三代で断絶しています。これら源氏の悲劇は『平家物語』が詳しく描くところではありませんが、鎌倉時代前期の成立とされるこの物語の読み手にとって当然踏まえられねばならぬ事実であったことは確かです。

しかし、『平家物語』の妙趣は、事実の重みにのみ寄り掛かって、事柄をあるがままの姿において描こうとするところにあるのではありません。むしろ、その序章にも明らかなように、時には事実を超えて、事柄をそれらしく描きながらもそこに無常が託されていることにこそ、この物語の持質がうかがえます。

平曲入門

中世・近世において『平家物語』は、琵琶の伴奏とともに語られる“語り物”の文学として発展しました。「平曲」あるいは「平家琵琶」と呼ばれるこの独特の表現形態を通じ、情緒あふれる物語世界が多くの人々の心に深く浸透していったのです。

「語り物」の文学

印刷本出現以前、書写本でしかかなわぬ物語類の享受は、ごく限られた人にしか許されない楽しみでした。物語類が整版本として印刷流布するのは、印刷術が進歩した江戸時代前期以降のことで、『保元物語』『平治物語』『平家物語』は、鎌倉時代以来、寺院の境内などで、盲目の琵琶法師が琵琶を演奏しながらこれら物語を語るのを聴き興じていたようです。

なかでも『平家物語』の琵琶語りは、鎌倉時代から江戸時代にかけて盛行した芸能の代表でした。書物を目で読むという享受に加え、平曲を耳で聴くという享受が重なることで『平家物語』は広く民衆へと浸透していきました。

平曲に用いられる琵琶は鎌倉時代初期に成立したと言われます。雅楽に使われる楽琵琶に比べやや小ぶりで撥面に銀・象牙または拓植で作られた月を貼りつけているのが特徴です

『職人歌合』に見る琵琶法師

室町時代に成立した『七十一番職人歌合』の第二十五番には、「琵琶法師」と題して、法師姿で琵琶を演奏する男性芸人が、「あまのたくものゆふけぶり、をのへのしかの暁のこゑ」と「福原落」(『平家物語』巻七)の一節を語る姿を描いています。『平家物語』を語る琵琶法師を描く際に、数ある章段のなかでも和歌的情趣豊かな「福原落」があえて取り上げられているところにも『平家物語』の持質があらわれていると言えます。

七十一番職人歌合』表紙と琵琶法師

現代の琵琶法師

現在、平家琵琶(平曲)伝承者で、盲目の琵琶法師の伝統を受け継ぐのは、名古屋在住の今井勉氏(1958年~)ただ一人。他に、名古屋には、井野川幸次氏(1904年~1985年)、三品正保氏(1920年~1987年)、土居崎正富氏(1920年~2000年)と三人の盲目の平家琵琶伝承者がおられましたがみな故人となってしまいました。

また、晴眼者で平曲譜本『平家正節(へいけまぶし)』をもとに『平家物語』を語った、弘前在住の館山甲午氏(1894年~1989年)も著名です。館山氏に伝授を受けたのが、東京在住の橋本敏江氏。盲目の平家琵琶伝承者が、伝授を受けた数章段を語りうるだけなのに対して、譜本をもとに語る橋本氏は『平家物語』全巻の通し語りを企画しているそうです。

館山甲午「平家琵琶の世界」レコードジャケット

平家物語年表

西暦(年号) 事項 平家物語巻
1118(元永元) 平清盛、誕生 巻一「祇園精舎」
1131(天承元) 3 平忠盛、昇殿許される 巻一 「殿上闇討」
  12 忠盛、殿上で闇討ちされるのを未然に防ぐ 巻一「殿上闇討」
1146(久安2) 2 清盛、安芸守となる  
1153(仁平3) 忠盛、死去(58歳)  
1156(保元元 ) 7 保元の乱起こる。清盛、播磨守となる  
1158(保元3) 8 二条天皇即位、後白河、上皇となる  
1159(平治元 ) 12 平治の乱起こる  
1160(永暦元 ) 3 源頼朝、伊豆へ配流  
1161(応保元 ) 平滋子、のちの高倉天皇を出産  
1165(永万元 ) 比叡山の僧兵により清水寺が焼かれる 巻一「清水炎上」
1167(仁安2 ) 2 清盛、太政大臣従一位となる 巻一「祇園精舎」
1168(仁安3 ) 11 清盛、病の為出家。法名浄海。 巻一「禿童」
1171(承安元 ) 俊寛ら鹿谷で平家打倒謀議を始める 巻一「鹿谷」
  12 平徳子、入内 巻一、吾身栄華
1172(承安2 ) 2 平徳子、高倉天皇の中宮となる 巻一「吾身栄華」
1177(治承元 ) 5 鹿谷平家打倒謀議、密告される 巻ニ「西光被斬」
  6 清盛、西光を処刑、俊寛ら三人を鬼界ケ島に配流 巻ニ「大納言死去」
  8 藤原成親、流罪のち殺害される 巻ニ「大納言流罪」
1178(治承2 ) 7 中宮安産祈願大赦で俊寛以外赦免、召還される 巻三「赦文」
  11 中宮徳子、安徳天皇を産む 巻三「御産」
1179(治承3) 俊寛、鬼界ケ島で死去 巻三「僧都死去」
  11 清盛、関白以下43人の官職を解き後白河法皇を鳥羽殿に幽閉 巻三「大臣流罪」・「後白河法皇被流」
1180(治承4 ) 2 安徳天皇三歳で即位 巻四「厳島御幸」
  5 以仁王、平家追討の令旨を出す 巻四「源氏揃」
  5 宇治川の戦いにて以仁王討死、源頼政自害 巻四「橋合戦」
  5 平重衝、忠度、三井寺を焼く 巻四「三井寺炎上」
  6 清盛、安徳天皇を奉じ、福原へ遷都を強行 巻五「都遷」
  8 源頼朝、伊豆で挙兵 巻五「早馬」
  9 木曾義仲、信濃で挙兵 巻六「廻文」
  9 維盛、忠度ら、頼朝追討のため福原出発 巻五「富士川」
  10 平氏、富士川にて水鳥の羽音に驚き敗走 巻五「富士川」
  11 福原の内裏造営成り天皇還幸 巻五「五節之沙汰」
  12 福原より都を京に戻す 巻五「都帰」
  12 重衡、通盛ら、東大寺・興福寺を焼く 巻五「奈良炎上」
1181(養和元) 1 高倉上皇崩御(21歳)清閑寺に埋葬 巻六「新院崩御」
  閏2 清盛熱病の為死去(享年64歳) 巻六「入道死去」
1182(寿永元 ) 9 義仲、横田河原合戦で城長茂軍を破る 巻六「横田河原合戦」
1183(寿永2 ) 3 頼朝、義仲、不和になる 巻七「清水冠者」
  4 維盛以下十万騎、義仲討伐へ 巻七「北国下向」
  5 平氏、倶梨迦羅谷で義仲に敗れる 巻七「倶梨迦羅落」
  7 義仲・行家上洛、平家追討の宣旨を蒙る 巻七「主上都落」
  7 宗盛、安徳天皇・女院を奉じて西海へ。維盛ら平家一門都落ち 巻七「主上都落」・「維盛都落」
  8 義仲、「朝日将軍」の院宣を受ける 巻八「名虎」
  8 平家一門大宰府に着く 巻八「名虎」
  8 後鳥羽天皇、即位  
  閏10 平家、備中水島にて義仲の軍を破る 巻八「水島合」戦
  11 義仲、後白河法皇と対立、法住寺を襲撃 巻八「法住寺合戦」
1184(元暦元 ) 1 宇治にて義経、範義ら、義仲軍を破る。義仲は近江の粟津で戦死 巻九 「宇治川先陣」・「木曾最期」
  2 範頼、義経平氏討伐のため京都を出発 巻九「三草勢揃」
  2 鵯越の坂落しで平家大敗。忠度、敦盛ら討死、重衡捕えられる。他の一門は屋島へ退く 巻九「坂落」、巻十「海道下」
  3 維盛、高野山に登り、滝口入道に導かれ出家後、那智の沖で入水(27歳) 巻十「維盛出家」・「維盛入水」
  9 範頼軍、平氏を屋島へ退かせる 巻十「藤戸」
1185(文治元 ) 2 那須与市、屋島で扇の的を射る 巻十一「那須与市」
  平家、讃岐国志度ノ浦へ退く 巻十一「志度合戦」
  3 壇ノ浦海上で源平合戦、平家敗退 巻十一「壇ノ浦」
  4 宗盛、時忠ら、生け捕りの人々、都大路渡し 巻十一「内侍所都入」
  5 建礼門院、長楽寺で出家する 灌「女院出家」
  6 義経、頼朝に追い返され、腰越で書状を送る 巻十一「腰越」
  6 宗盛父子、鎌倉へ下った帰りに斬られる 巻十一「副将被斬」
  9 時忠らは諸国へ流される 巻十一「平大納言被流」
  11 義経追討の院宣下る。義経は都を出る 巻十二「判官都落」
1186(文治2) 4 後白河法皇、大原寂光院の建礼門院を訪問 灌「大原御幸」
1189(文治5 ) 義経平泉で戦死  
1190(建久元 ) 11 頼朝上洛、正二位大納言、右大将となる 巻十二「六代被斬」
1191(建久2 ) 2 建礼門院崩御 灌「女院死去」
1192(建久3 ) 3 後白河法皇崩御(享年66歳) 巻十二「六代被斬」
  7 頼朝、征夷大将軍になる  
1198(建久9 ) 2 六代、ついに斬られ、平家の子孫は絶滅 巻十二「六代被斬」
1199(建久10 ) 1 頼朝、死去(享年53歳) 巻十二「六代被斬」

平家資料館 源氏・平氏の系図

源氏・平氏の系図

資料・協力

協力

協力者一覧

信太 周

神戸松蔭女子学院大学図書館‥‥神戸市立博物館
柳原義達‥‥神戸海洋博物館
平岡徳太郎 ‥‥福岡市博物館
宮内庁三の丸尚蔵館‥‥兵庫区役所
田辺眞人‥‥館山宣昭
薬仙寺‥‥厳島神社
天王温泉‥‥能福寺
熊野神社‥‥来迎寺
願成寺‥‥七宮神社
鎮守稲荷神社‥‥金光寺(こんこうじ)
浄土宗薬王山寶地院‥‥恵林寺(えいりんじ)
福海寺‥‥荒田八幡神社
東福寺‥‥神明神社
神戸市立湊山小学校‥‥祇園神社
湊山温泉‥‥清荒神清澄寺
神戸市建設局‥‥宝塚市
神戸新聞社 ‥‥神戸新聞総合出版センター
須磨琴保存会‥‥念仏寺
社団法人有馬温泉観光協会‥‥神戸市民祭協会
社団法人温故学会‥‥学研
神戸市教育委員会 文化財課‥‥兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所
生田神社‥‥東京都立中央図書館
奥中むらづくり協議会‥‥尾浜八幡神社
教信寺‥‥神戸市
淡路市‥‥ほか

神戸松蔭女子学院大学資料

オープニング‥‥『七十一番職人歌合』琵琶法師の絵
トップページ‥‥源平一の谷大合戦之図

専横 平清盛の巻


沙羅の花を愛でる

「釈迦涅槃図」‥‥釈迦涅槃図


「平家」文学への誘い

「平家」文学への誘いTOP‥‥絵入り版本『平家物語』巻一 延宝五(1677)年刊

情趣あふれる異色の”軍記物”‥‥絵入り版本『平家物語』巻一 延宝五(1677)年刊


清盛入道

忠盛の出世‥‥絵入り版本『平家物語』巻一 延宝五(1677)年刊

殿下の乗合事件‥‥絵入り版本『平家物語』巻一 延宝五(1677)年刊

鹿の谷の密議‥‥絵入り版本『平家物語』巻一 延宝五(1677)年刊

清盛・重盛それぞれの死‥‥絵入り版本『平家物語』巻六 延宝五(1677)年刊

清盛・重盛それぞれの死‥‥『平家物語図会』前編六 高井蘭山作・有坂蹄斎画 文政十二(1829)年刊

清盛出生秘話‥‥清荒神清澄寺蔵『冥途蘇生記』

清盛評価の変遷 表現の皮肉 2)「観念的な聖人」重盛‥‥絵入り版本『平家物語』巻一 延宝五(1677)年刊

「みなとの祭」と清盛‥‥『みなとの祭写真帖』


福原京懐古

福原京懐古TOP‥‥応斎年方画「平家福原棧敷殿ニテ管絃之図」(明治18年)

遷都の経緯 2)重盛の死と遷都決行‥‥絵入り版本『平家物語』巻五 延宝五(1677)年刊

通親・長明の見た福原‥‥絵入り版本『平家物語』巻五 延宝五(1677)年刊

月見‥‥応斎年方画「平家福原棧敷殿ニテ管絃之図」(明治18年)

都還り‥‥応斎年方画「平家福原棧敷殿ニテ管絃之図」(明治18年)

福原落‥‥絵入り版本『平家物語』巻七 延宝五(1677)年刊

福原京関連遺跡の現在‥‥『摂津名所図会』巻八「八部郡(やたべごおり)上」秋里籬島著・竹原春朝斎等画 寛政八(1796)年刊

八幡神社の福原遷都祭‥‥荒田八幡神社の福原遷都祭 写真


和田岬かいわい

和田岬かいわいTOP‥‥『摂津名所図会』巻八「八部郡(やたべごおり)上」秋里籬島著・竹原春朝斎等画 寛政八(1796)年刊

清盛塚周辺‥‥『摂津名所図会』巻八「八部郡(やたべごおり)上」秋里籬島著・竹原春朝斎等画 寛政八(1796)年刊

松王丸伝説‥‥『摂津名所図会』巻八「八部郡(やたべごおり)上」秋里籬島著・竹原春朝斎等画 寛政八(1796)年刊

松王丸伝説‥‥『築島山来迎寺寺記』


平曲入門

平曲入門TOP‥‥館山甲牛『平家琵琶の世界』

「語り物」の文学‥‥館山甲牛『平家琵琶の世界』

『職人歌合』に見る琵琶法師‥‥『七十一番職人歌合』琵琶法師の絵

現代の琵琶法師‥‥館山甲牛『平家琵琶の世界』

平家マップ 19.福原遷都八百年記念の碑(荒田八幡神社)‥‥福原遷都八百年記念の碑 写真

神戸市立博物館資料

※該当ページ‥‥図版名で表記しています

オープニング‥‥平清盛像
トップページ‥‥平清盛像/芳年武者無類/平相国清盛/月岡芳年画/明治前期

【専横 平清盛の巻】

専横 平清盛の巻TOP‥‥芳年武者無類、平相国清盛、月岡芳年画、明治前期
<「平家」文学への誘い>
壮大な“滅び”の物語‥‥寿永二年五月六日加賀国砥並山倶利伽羅谷合戦図/歌川芳員画 嘉永6年(1853年)
<清盛入道>
清盛入道TOP‥‥新形三十六怪撰 清盛福原数百の人頭を見る図/月岡芳年画 明治22年(1889)
清盛・重盛 親子の対照‥‥新容六怪撰 福原殿舎怪異之図(無題)/月岡芳年画 明治15年(1882)
平家の興隆‥‥福原殿舎怪異之図/葛飾北為画 天保14年~弘化4年(1843~47)
俊寛の悲劇‥‥俊寛僧都於鬼界嶋遇康頼之放免羨望帰都之図/月岡芳年画 明治前期
清盛評価の変遷 表現の皮肉 1)人間清盛の魅力‥‥清盛入道布引滝遊覧 悪源太義平霊討難波次郎/歌川国芳画 文化12年~天保13年(1815~42)

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