企画展示

丹波・但馬のむかしばなし館

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丹波のむかしばなし

丹波のむかしばなし画像クリックで詳細をご覧いただけます。

篠山のむかしばなし画像クリックで詳細をご覧いただけます。

動画で見るむかしばなし

たんばのむかしばなしを動画で見られるよ
パネルシアター/語り/手遊び/紙芝居でお届けします!

パネルシアター「三尾山のてんぐ」

語り「豆を食いに出た絵馬」

手遊び「ひばり ひばり おまえのうちはどこぞ あの山 この山 ここぞ ここぞ」

紙芝居「本郷川の尻引きマント」

紙芝居「鹿ものがたり」

語り「永沢寺ものがたり」

むかしばなしマップむかしばなしに登場するいろいろな場所を見てみよう!

監修・協力一覧

監修者
「丹波(丹波篠山市・丹波市)のむかしばなし」編集委員会委員長 田中貞典
協力者
「丹波(丹波篠山市・丹波市)のむかしばなし」編集委員会副委員長 村上完二
「丹波(丹波篠山市・丹波市)のむかしばなし」編集委員のみなさん
財団法人 丹波の森協会
丹波の昔話 語り部クラブ
篠山市立城北小学校(以下アイウエオ順)
清陰寺
尊法寺
大師堂・千体地蔵尊
東窟寺
妙高山 神池寺  ほか

監修者から

丹波には、何百年もの昔から語りつがれ、伝承されてきた昔話があります。 昔話には、人が喜ぶこと、悲しみ、そして自然との関わりなど人間として大切なものが底流に流れています。 近年、そうした昔話の豊かな心を語り伝える人も少なくなってきた中で、私たち丹波(丹波篠山市・丹波市)のむかしばなし編集委員会は、丹波の遺産を風化させないため、丹波在住の民話や伝説に精通した方々のお力を結集して、「丹波(丹波篠山市・丹波市)のむかしばなし」((財)丹波の森協会発行)を編集、制作しています。 今回、そうした「丹波(丹波篠山市・丹波市)のむかしばなし」の世界を、いっそう子どもたちの心に届け、感じてもらう入口としてこの番組を制作しました。 この番組が、実際に「丹波(丹波篠山市・丹波市)のむかしばなし」を手にとって読んだり、また、昔話のゆかりの地を訪ねるなどのきっかけとなり、子どもたちの心を豊かにするこやしになれば幸いです。

< 丹波(丹波篠山市・丹波市)のむかしばなし 編集委員長  田中貞典 >

遠坂 神楽 佐治 芦田 西 和田 北 中央 南 小川 前山 三輪 船城 東 新井 竹田 吉見 春日部 黒井 崇広 久下 鴨圧 進修 上久下 大路 大山 西紀南 味間 今田 西紀 岡野 城北 篠山 城南 古市 畑 雲部 八上 村雲 日置 大芋 福住 後川 西紀北

丹波市 遠阪小校区
牛(うし)をたすけた 白(しろ)い石(いし)

日(ひ)でりつづきで年貢(ねんぐ)がおさめられない村人(む らびと)をたすけるために、孫兵衛(まごべえ)さんはじぶ んの牛(うし)をうりにむすめと亀山(かめやま)にむかい ました。しかしとちゅうで雪(ゆき)がふりつもり、さむ さもひどくなったので休(やす)むことにします。うとう ととねむっているとくろ雲(くも)の中(なか)から白(しろ) い石(いし)がとび出(だ)してきました・・・

丹波市 神楽小校区
お杉地蔵(すぎじぞう)

庄屋(しょうや)さんの家(いえ)にはたらきに出(で)ていたお杉 (すぎ)ちゃんは、お父(とう)さんがびょうきになったという 知らせをうけ、いそいで大稗村(おおびえむら)にかえろうと します。かえる道(みち)は三(み)つありましたが、いちばん 近道(ちかみち)の大稗峠(おおびえとうげ)をこえようとします。 しかし、雪(ゆき)はふぶきへと変(か)わり・・・

丹波市 佐治小校区
二(ふた)つの橋(はし)

佐治(さじ)の町(まち)においのりがとくいな「おがみやの 大原(おおはら)さん」がいました。とある夏(なつ)の日(ひ)、 大雨(おおあめ)が降(ふ)り続(つづ)き、橋(はし)を渡(わた) っていたお菊(きく)ちゃんとお花(はな)ちゃんは、増水(ぞ うすい)した川(かわ)に橋(はし)ごと流(なが)されてしまい、 大原(おおはら)さんが川(かわ)に飛(と) び込(こ)んで助(たす)けようとします・・・

丹波市 芦田小校区①
丸山(まるやま)の八助(はちすけ)ぎつね

芦田(あしだ)の人々(ひとびと)は阿利(あり)という やく人(にん)に教(おし)えてもらいながら、八助(は ちすけ)とおまつというきつねが行(い)もききするけ もの道(みち)に大川(おおかわ)から水(みず)をなが して田(た)に水(みず)をひこうとします。ところが その工事(こうじ)をじゃまするものがいました・・・

丹波市 芦田小校区②
雨(あめ)をふらせたありのはなし

水不足(みずぶそく)でこまっていた芦田(あしだ)の 村人(むらびと)は、神(かみ)さまに雨(あま)ごいを することにします。そこで見(み)つけたありのれつ をたどっていくと、小(ちい)さな水(みず)たまりに 行(い)きつきました。その池(いけ)のまわりにろう そくを立(た)ててさらにおいのりしていると「白(し ろ)いりゅう」があらわれたのです・・・

丹波市 西小校区
おわんをかくしとくんなはれ -達身寺(たっしんじ)と高座石(こうざいし)

清住(きよずみ)の里(さと)の達身寺(たっしんじ)のおく山(やま) に、高座石(こうざいし)とよばれる大(おお)きな岩(いわ)があ った。この岩(いわ)におわんをかしてほしいとおねがいをす ると、ふしぎなことにつぎの日(ひ)には、りっぱな木(き)の おわんがそろえておいてあった。ところが、あるとき・・・

丹波市 和田小校区
牧山(まきやま)の牛岩(うしいわ)さん

むかし、牧山(まきやま)という村(むら)の西(にし)の谷(たに) に、牛(うし)が寝(ね)ているような大(おお)きな岩(いわ)があ り、村(むら)の人(ひと)たちは「牛岩(うしいわ)さん」とあが めていました。ある日(ひ)、牧山(まきやま)の牛飼(うしか)い の子(こ)どもたちは、大人(おとな)たちにはないしょで秘密(ひ みつ)の相談(そうだん)をします・・・

丹波市 北小校区
独鈷(どっこ)のたき

独鈷(どっこ)のたきの下(した)の池(いけ)にはおそろしい大蛇 (だいじゃ)がすんでおり、村人(むらびと)はいつもこわいお もいをしていました。そこへ住吉(すみよし)だいみょうじん のおつげをきいた弘法大師(こうぼうたいし)が、大蛇(だいじ ゃ)たいじにやってきます。そして大蛇(だいじゃ)のいる池(い け)のまえでおきょうをとなえはじめました・・・

丹波市 中央小校区①
甲賀山(こうがやま)と犬岡山(いぬおかやま)(明治山(めいじやま))

成松(なりまつ)の茂作(もさく)じいさんは、甲賀山 (こうがやま)と犬岡山(いぬおかやま)ができたいわ れを話(はな)しはじめます。「むかし霧山(きりやま) に大五郎(だいごろう)ちゅう気(き)のええおにがす んどったそうな・・・

丹波市 中央小校区②
西中(にしなか)の 箱森神社(はこもりじんじゃ)さん

箱森神社(はこもりじんじゃ)の境内(けいだい)に、夫婦岩(めお といわ)という大(おお)きな岩(いわ)があり、その根(ね)もとか らは大(おお)きなふじの木(き)が生(は)えています。むかし、 西中(にしなか)の地方(ちほう)で大洪水(だいこうずい)があっ たときに、川上(かわかみ)から古(ふる)い木箱(きばこ)が流(な が)れてきました。驚(おどろ)いたことに、中(なか)に二(ふた) つの石(いし)の神(かみ)さまが入(はい)っていたのです・・・

丹波市 南小校区 
福田(ふくだ)の子安(こやす)じぞうさん

福田(ふくだ)の里(さと)に、和助(わすけ)さんとお福(ふく)さ んがなかよくくらしていました。ところが、なかなか赤(あか) ちゃんがさずからないので、毎日(まいにち)おまいりをして 祈(いの)っていました。それを見(み)た里人(さとびと)たちは、 子安(こやす)じぞうさんをつくっておまつりしようと提案(て いあん)したのです・・・

丹波市 小川小校区①
出合(であ)いのひごい

和田庄(わだしょう)のとのさまによろいびつを作(つ く)るように言(い)いつけられた柏原(かいばら)の 恵次郎(けいじろう)は、出合(であ)いにある大(おお) きなきりの木(き)を切(き)ることにします。すると 恵次郎(けいじろう)がうとうとしたとき、まくら元 (もと)に白(しろ)いひげのろう人(じん)があらわれ たのです・・・

丹波市 小川小校区②
井原(いばら)のあさねのもり

井原(いばら)の人(ひと)ははたらきもので、わかいおよめさ んもはたらきすぎて元気(げんき)がなく、生(う)まれる子(こ) どものかずも少(すく)ないのでした。たびのお坊(ぼう)さん がこの村(むら)にやってきたとき、ほっとくわけにはいかない、 と村人(むらびと)に解決(かいけつ)の方法(ほうほう)をおしえ ます・・・

丹波市 前山小校区
折杉神社(おりすぎじんじゃ)といんのどう

ふぶきのなか、りょうしの弥八(やはち)は、りょう犬(けん) のブチをつれてかりにでました。すると、ブチが雪(ゆき)の つもっていないふしぎな場所(ばしょ)をみつけました。そこ で一休(ひとやす)みしていると、地面(じめん)がゆれ動(うご) いて、体(からだ)じゅうに寒気(さむけ)をおぼえました・・・

丹波市 三輪小校区
長蛇(ちょうじゃ)の池(いけ)のものがたり

長者(ちょうじゃ)と村人(むらびと)は三輪明神(みわみょうじん) さまにおねがいして、村(むら)をおそう大蛇(だいじゃ)を七 本瀧(しちほんだき)のおくふかくにとじこめてもらいます。 しかしある年(とし)の大地(だいじ)しんで岩(いわ)のわれめか ら大蛇(だいじゃ)はにげだし、岩船(いわふね)の山(やま)にそ っとかくれていました。それを知(しら)らない長者(ちょうじ ゃ)のむすめお藤(ふじ)は岩船(いわふね)の山(やま)に行(い) ってしまったのです・・・

丹波市 船城小校区
船城田(ふなきた)んぼと金色(きんいろ)もの鯉(こい)

船城(ふなき)の里(さと)では田(た)やはたけが少な く、みずうみが田(た)もんぼにかわればなあ、と村人 (むらびと)はおもっていました。ある日(ひ)、真人 (まひと)がみずうみで大(おお)きな金色(きんいろ) の鯉(こい)をつかまえます。これをこのみずうみの ぬしだとおもった真人(まひと)は鯉(こい)におねが いすることにしました・・・

丹波市 東小校区①
本郷川(ほんごうがわ)の尻引(しりひ)きマント

尻引(しりひ)きマントがいるという本郷川(ほんご うがわ)で壮(そう)ちゃんはおよいでいました。壮(そ う)ちゃんはすりぬけの名人(めいじん)ですが、蔵(く ら)が渕(ふち)にさしかかったところできゅうにし ずんでしまいます。見(み)ていた子(こ)どもたちは 大(おお)あわてでたすけをよびに行(い)き、そして 壮(そう)ちゃんは・・・

丹波市 東小校区②
きつねの首(くび)

長者(ちょうじゃ)のやしきにあるやしろの中(なか)に、せと もののきつねがおいてありました。まい年(とし)春(はる)の まつりには、このきつねを夜中(よなか)の十二時(じゅうにじ) に古池(ふるいけ)できよめるならわしになっていて、ことし はあけみにきまります。あけみはていねいにあらいますが、 きつねの首(くび)がおれてしまいました・・・

丹波市 新井小校区
いぼとりふどうさん

村中(むらじゅう)にはあいちゃんをおよめにほしいという人(ひ と)がたくさんいますが、あいちゃんは体(からだ)にいぼがあ っておよめにいけないとかなしんでいました。そこで村人(む らびと)はあいちゃんのいぼとりのために大滝(おおたき)のお ふどうさんに千日(せんにち)まいりをすることにします・・・

丹波市 竹田小校区
鬼(おに)たいじの話(はなし)

大江山(おおえやま)の鬼(おに)は村人(むらびと)をおそったり はたけをあらしては人(ひと)びとをこまらせていました。麿 子親王(まろこしんのう)は一万人(いちまんにん)のけらいを ひきつれて鬼(おに)たいじにしゅっぱつします。やくしさま がくれたうまにのり、村人(むらびと)におしえられたけもの 道(みち)をのぼって鬼(おに)のいるところまでやってきまし た・・・

丹波市 吉見小校区①
川(かわ)ごえの話(はなし)

人々(ひとびと)をこまらせている大江山(おおえやま) の「土態(つちぐま)」「英胡(えいこ)」「迦楼夜叉 (かるやしゃ)」というおにをたいじするために、麻 呂子親王(まろこしんのう)は多(おお)くの家来(け らい)を引(ひ)きつれて都(みやこ)を出(しゅっ)ぱ つしますが、大(だい)こう水(ずい)で川(かわ)をわ たることができません。そこで・・・

丹波市 吉見小校区②
梶原(かじわら)の大(おお)いちょう

梶原(かじわら)の鴨神社(かもじんじゃ)には、りっぱな大(おお) いちょうがあります。今(いま)から1200年(ねん)ほどむかし のこと、法道仙人(ほうどうせんにん)というお坊(ぼう)さん が梶原(かじわら)にきて、おいのりをされていました。すると、 一人(ひとり)の童子(どうじ)が、白(しろ)い玉(たま)をもって あらわれたのです・・・

丹波市 春日部小校区
柏野(かしわの)の金(きん)のにわとり

ひとりぐらしの新助(しんすけ)じいさんは二羽(にわ) のにわとりをだいじにしていましたが、一羽(いちわ) のにわとりがきつねにとられてしまいます。新助(し んすけ)じいさんはむちゅうでおいかけ、山(やま) の中(なか)を二日間(ふつかかん)さがしまわりまし た。ところがその間(あいだ)にもう一匹(いっぴき) がしんでしまったのです・・・

丹波市 黒井小校区
黒井城(くろいじょう)ものがたり

今から450年(ねん)ほど前(まえ)の戦国時代(せんごくじだ い)、山(やま)の上(うえ)にある「黒井城(くろいじょう)」 に赤井悪右衛門直正(あかいあくうえもんなおまさ)という とのさまがすんでいました。とても強(つよ)いので「丹波(た んば)の赤鬼(あかおに)」と呼(よ)ばれ、おそれられていま した。その悪右衛門(あくうえもん)をほろぼそうと、明智 光秀(あけちみつひで)が大軍(たいぐん)で攻(せ)めてきた のです・・・

丹波市 崇広小校区①
本光(ほんこう)さん

大(おお)ひでりで田(た)がひびわれてこまっているお百(ひゃく) しょうさんたちをすくおうと、本光(ほんこう)さんは水(みず) をさがしに出(で)かけました。水(みず)がいっぱいある、く らがぶちを見つけ、一心(いっしん)にいのります。すると、 八大竜王(はちだいりゅうおう)という水神(すいじん)さんが あらわれて・・・

丹波市 崇広小校区②
法蓮寺(ほうれんじ)ぎつね

法蓮寺(ほうれんじ)にはわるさばかりするたぬきがすみ、広(ひ ろ)い田(た)んぼのむこうにはわるがしこいきつねがすんでい ましたが、きつねよりたぬきの方(ほう)が力(ちから)が強(つよ) くてきつねは手(て)も足(あし)もでません。そんなきつねが たぬきにばけくらべをもちかけます・・・

丹波市 久下小校区
大河(おおか)のよめがばし

大河(おおか)のはしのそばにすむきつねたちは、村(むら)の にわとりなどをぬすむので、村(むら)の子(こ)どもたちにす んでいるあなの入口(いりぐち)をふさがれてしまいます。そ こをまいにちとおるおみっちゃんに、きつねはたすけをもと めたのですが・・・

丹波市 鴨庄小校区
すまずの池(いけ)

池(いけ)のそばにかねをつきにいった神池寺(じん ちじ)のこぞうが、大蛇(だいじゃ)につぎつぎとた べられてしまいます。神池寺(じんちじ)のおぼうさ んやこぞうがあつまって、この大蛇(だいじゃ)をど うやってたいじしようかかんがえたところ、名案(め いあん)がうかびました・・・

丹波市 進修小校区
三尾山(みつおさん)のてんぐ

三尾山(みつおさん)のふもとにすんでいる庄助(し ょうすけ)じいさんは、てんぐがいつもすわってい たまつの木(き)をきってしまいました。おこったて んぐは庄助(しょうすけ)じいさんをたべようとしま す。庄助(しょうすけ)じいさんはなんとかたすかる ほうほうはないかとかんがえていいことをおもいつ きました・・・

丹波市 上久下小校区
あくさの石(いし)ぼとけ

あくさ村(むら)は日(ひ)でりがつづき村人(むらびと)はこまっ ていました。ある日(ひ)、たびのぼうさんたちが村(むら)に やってきて、ぼうさんをもてなした五(ご)へいさんに、水(み ず)がわき出(で)る石(いし)ぼとけをくれます。それをきいた べつの村人(むらびと)がこの石(いし)ぼとけをぬすんでしま いました・・・

丹波市 大路小校区①
大路(おおじ)の三(み)つ井戸(いど)

日(ひ)でりつづきでこまっていた大路(おおじ)の里 (さと)の村人(むらびと)は、村(むら)にある「浅井 (あさい)」「深井(ふかい)」「岩井(いわい)」の三 (み)っつの井戸(いど)のかみさまに雨(あま)ごいを することにしました・・・

丹波市 大路小校区②
げなげなばなし

大路(おおじ)の野瀬谷(のせだに)にある彦(ひこ)べえじいさん の家(いえ)に集(あつ)まってお話(はなし)を聞(き)くことは、子 (こ)どもたちのたのしみでした。いつもおもしろい話(はなし) をしてくれる彦(ひこ)べえじいさんですが、きょうは「げな げな ばなし」がはじまるようです・・・

篠山市 大山小校区①
鐘(かね)が坂(さか)のはなし

丹波(たんば)の山(やま)ざとのある村(むら)にはきれいな音(お と)がするつりがねがありました。それを山(やま)のむこうの 神(かみ)さまがかついでかえろうとします。鐘(かね)を守っ ていたこの村(むら)の神(かみ)さまはおどろいてそのあとを おいかけますが・・・

篠山市 大山小校区②
あずき三升(さんじょう)米三升(こめさんじょう)

井戸(いど)のない村(むら)にやってきたおぼうさんがの言(い) うとおりにほったところ、水(みず)がわいてきて井戸(いど) をつくりました。村(むら)の人(ひと)は大(おお)よろこびです が、この井戸(いど)の近(ちか)くではきみょうなことがおこ るようです・・・

篠山市 西紀南小校区
ふしぎなくろまめ

みちにたおれていたぼうさんをやさしい大臣(おとど)はいえ につれかえりかんびょうしました。ところが村人(むらびと)は、 日(ひ)でりがつづくのはそのぼうさんをとめているからだと いいだして、ぼうさんをおいだそうとします。ぼうさんはか んびょうしてもらったおれいに雨(あま)ごいをすることにし ました・・・

篠山市 味間小校区
古佐(こさ)の力(ちから)もち五十兵衛(いそべえ)さん

西古佐(にしこさ)という村(むら)にたいへん力(ちから)もちの 五十兵衛(いそべえ)さんがいました。五十兵衛(いそべえ)さ んの夢(ゆめ)は、もっともっと力(ちから)もちになってみこ しが一人(ひとり)でかつげるようになることでした。そこで 神(かみ)さまにお祈(いの)りしつづけていると、ある夜(よ)の こと、神(かみ)さまの声(こえ)が聞(き)こえて・・・

篠山市 今田小校区
はったいじゃ

今田(こんだ)の四斗谷(しとだに)のおく山(やま)にある蛇出(じ ゃで)の大蛇(だいじゃ)がわるさばかりするので、村(むら)の 入口(いりぐち)に「大蛇(だいじゃ)をたいじしたものに、ほ うびをたくさんだす。」というふだを立(た)てたところ、ど こかのぼうさんがやってきて、たいじするからはったいをた くさんつくってくれ、といいました・・・

篠山市 西紀小校区
竜女(りゅうにょ)がくれた三(さん)まいのうろこ

くりから峠(とうげ)のたきには竜女(りゅうにょ)がい て、人(ひと)びとをおそうとおそれられていました。 村人(むらびと)は福徳貴寺(ふくとくきじ)のお坊(ぼう) さんにたすけをもとめます。お坊(ぼう)さんが滝(たき) つぼでおきょうをあげると、長(なが)いかみのうつく しいむすめがあらわれ、お坊(ぼう)さんに言(い)いま した。「私(わたし)をたすけてください。」・・・

篠山市 岡野小校区
与惣九郎(よそくろう)の見(み)た大蛇(だいじゃ)

与惣九郎(よそくろう)が信濃(しなの)の国(くに)の諏訪神社(す わじんじゃ)から神(かみ)さまの霊(れい)をいただいて帰(かえ) るとちゅうに、諏訪神社(すわじんじゃ)の神霊(しんれい)だ という大蛇(だいじゃ)とはなしをします。与惣九郎(よそくろ う)はその大蛇(だいじゃ)のいうとおり、いただいた霊(れい) を七尾七谷(ななおななたに)におまつりしたところふしぎな ことがおこりました・・・

篠山市 城北小校区①
まめを食(く)いに出(で)た絵馬(えま)

春日神社(かすがじんじゃ)には狩野尚信(かのうな おのぶ)がかいたと言(い)われる絵馬(えま)があり ます。ある日(ひ)、田(た)のあぜに作(つく)ってい るまめが食(く)いあらされてしまいました。どろぼ うをつかまえようとあつまった村人(むらびと)に、 庄屋(しょうや)さんは、絵馬堂(えまどう)の馬(うま) がはんにんでは、と言(い)い出(だ)しました・・・

篠山市 城北小校区②
東福寺(とうくつじ)の大蛇(だいじゃ)

東窟寺(とうくつじ)にすむ大蛇(だいじゃ)に村(むら)の 人(ひと)はまい年(とし)いけにえとして子(こ)どもをさ しだしていました。ことしは長兵衛(ちょうべえ)さんの 娘(むすめ)みかちゃんがえらばれましたが、娘(むすめ) をいけにえにしたくない長兵衛(ちょうべえ)さんはかわ りの子(こ)どもをさがします。すると阿波(あわ)の国(く に)のつやちゃんがみがわりになる、といったのです・・・

篠山市 篠山小校区①
負けぎらいのお稲荷さん

篠山(ささやま)の青山忠裕(あおやまただやす)という とのさまが江戸(えど)にいるころ、まい年(とし)大(お お)ずもうがひらかれていました。篠山(ささやま)から きたおすもうさんははじめの五日間(いつかかん)は負(ま) けてばかり。ところが六日目(むいかめ)になって篠山(さ さやま)からきたというみょうなかっこうの十人(じゅ うにん)のすもうとりがあらわれたのです・・・

篠山市 篠山小校区②
負けぎらいのお稲荷さん

篠山(ささやま)の青山忠裕(あおやまただやす)という とのさまが江戸(えど)にいるころ、まい年(とし)大(お お)ずもうがひらかれていました。篠山(ささやま)から きたおすもうさんははじめの五日間(いつかかん)は負(ま) けてばかり。ところが六日目(むいかめ)になって篠山(さ さやま)からきたというみょうなかっこうの十人(じゅ うにん)のすもうとりがあらわれたのです・・・

篠山市 篠山小校区③
尊宝寺(そんぽうじ)の唐獅子(からじし)

今(いま)から二百年(にひゃくねん)ほど前(まえ)の こと、篠山城(ささやまじょう)の南(みなみ)ほりば たから火(ひ)の手(て)があがり、餌差町(えさしまち)、 下立町(しもたつまち)をやきつくしました。ところ がふしぎなことに尊宝寺(そんぽうじ)の山門(さん もん)だけがやけのこったのです・・・

篠山市 城南小校区
鼻(はな)の助太郎(すけたろう)

およめさんがぼたもちをかくしているのをしった助 太郎(すけたろう)は、「てんぐに何(なん)でも鼻(は な)でかぎあてるじゅつを教(おし)えてもらった」 とうそをつき、ぼたもちをおしいれから見(み)つけ 出(だ)します。そのうわさがひろまって、なくしも のをした人(ひと)がつぎつぎとたすけをもとめてや ってきました・・・

篠山市 古市小校区①
負(ま)けぎらいのお稲荷(いなり)さん

篠山(ささやま)の青山忠裕(あおやまただやす)という とのさまが江戸(えど)にいるころ、まい年(とし)大(お お)ずもうがひらかれていました。篠山(ささやま)から きたおすもうさんははじめの五日間(いつかかん)は負(ま) けてばかり。ところが六日目(むいかめ)になって篠山(さ さやま)からきたというみょうなかっこうの十人(じゅ うにん)のすもうとりがあらわれたのです・・・

篠山市 古市小校区②
鹿(しか)ものがたり

住山(すみやま)という谷(たに)ふかい山里(やまざと) にくらす与作(よさく)は時(とき)どき山(やま)でか りをします。その日(ひ)も二(に)とうの鹿(しか)を みつけ、与作(よさく)はてっぽうでめす鹿(じか)を うちました。しかしうったあとめす鹿(じか)は一(い っ)とうの子鹿(こじか)を生(う)みます。与作(よさ く)はかわいそうにおもい、子鹿(こじか)をそだて ることにしました・・・

篠山市 畑小校区
畑山(はたやま)のお坊(ぼう)さんたち

筱見(ささみ)の四十八滝(しじゅうはったき)の入口(いりぐち) にある清大寺(せいたいじ)の庭(にわ)には、朝早(あさはや)く からほら貝(がい)の音(おと)を合図(あいず)に、わらじをはい て、しゃくじょうを持(も)った大勢(おおぜい)のお坊(ぼう)さ んたちが続々(ぞくぞく)と集(あつ)まってきます。お坊(ぼう) さんたちは、これから修行(しゅぎょう)に出(で)かけるので す・・・

篠山市 雲部小校区
きつねの恩返(おんがえ)し

竜泉寺(りゅうせんじ)のうらの森(もり)にしっぽの先(さき)が 白(しろ)いきつねがすんでいました。村人(むらびと)はきつ ねにごはんをあげたりしてかわいがっていました。ある年(と し)お寺(てら)がやけてしまい、どうやってたてなおそうか村 人(むらびと)たちはなやんでいると、ふしぎなことがおこり ました・・・

篠山市 八上小校区①
負けぎらいのお稲荷さん

篠山(ささやま)の青山忠裕(あおやまただやす)という とのさまが江戸(えど)にいるころ、まい年(とし)大(お お)ずもうがひらかれていました。篠山(ささやま)から きたおすもうさんははじめの五日間(いつかかん)は負(ま) けてばかり。ところが六日目(むいかめ)になって篠山(さ さやま)からきたというみょうなかっこうの十人(じゅ うにん)のすもうとりがあらわれたのです・・・

篠山市 八上小校区②
八上城物語(やかみじょうものがたり)

今(いま)から四百五十年(よんひゃくごじゅうねん)ま えのこと、波田野秀治(はだのひではる)というおとの さまが「八上城(やかみじょう)」にすんでいました。 秀治(ひではる)には三人(さんにん)の女(おんな)の子 (こ)と二人(ふたり)の男(おとこ)の子(こ)がいました。 ところが、あるとき明智光秀(あけちみつひで)が八上 城(やかみじょう)をせめにやってきたのです・・・

篠山市 村雲小校区①
負けぎらいのお稲荷さん

篠山(ささやま)の青山忠裕(あおやまただやす)という とのさまが江戸(えど)にいるころ、まい年(とし)大(お お)ずもうがひらかれていました。篠山(ささやま)から きたおすもうさんははじめの五日間(いつかかん)は負(ま) けてばかり。ところが六日目(むいかめ)になって篠山(さ さやま)からきたというみょうなかっこうの十人(じゅ うにん)のすもうとりがあらわれたのです・・・

篠山市 村雲小校区②
きつねのお礼(れい)

出産(しゅっさん)のお手伝(てつだ)いをする医者(い しゃ)の坂部(さかべ)さんは、ある秋(あき)の晩(ば ん)、助(たす)けを求(もと)めてきた男(おとこ)の 人(ひと)に連(つ)れられて、山(やま)の中(なか)の 一軒家(いっけんや)に行きます。その三日後(みっ かご)、男(おとこ)がお礼(れい)のぼたもちとお金(か ね)を持(も)って、坂部(さかべ)さんを訪(たず)ね て来(き)ました。しかしそれは・・・

篠山市 村雲小校区③
合戦場(かせんば)の観音(かんのん)さん

筱見(ささみ)には大(おお)むかしに大(おお)ぜいの さむらいが死(し)んだばしょがあり、合戦場(かせ んば)とよばれています。そこには大(おお)きな観 音(かんのん)さまがたっていますが、それにはわけ があるのです・・・

篠山市 日置小校区
千体(せんたい)じぞうさん

たくさんのおじぞうさんがまつってあるおどうのま えで、ゆきのふるさむい日(ひ)でもまいにち「あか ちゃんができますように」とおいのりにくるおよめ さんがいました。ひとつきほどたったころ、「もし もし」とおよめさんにはなしかける声(こえ)がきこ えてきたのです・・・

篠山市 大芋小校区
蜘蛛退治(くもたいじ)

市野々(いちのの)のふかいほらあなには大(おお)き な土(つち)ぐもがすんでいて、村人(むらびと)は毎 年(まいとし)むすめをさし出(だ)していました。こ まった村人(むらびと)たちがなにかよいかんがえは ないかとそうだんしたところ、庄屋(しょうや)さん が、かわりに犬(いぬ)をさし出(だ)すことをおもい つきました・・・

篠山市 福住小校区
力(ちから)もちのみたらし

福住(ふくすみ)の新助(しんすけ)というわかものはすもうと りになり、体(からだ)も大(おお)きく力(ちから)もつよかった ので、まけたことがありませんでした。ところがきょうそう あいてのくろくもとのたいせんで左(ひだり)うでをいため、 すもうをとれなくなってしまったのですが・・・

篠山市 後川小校区
一峯和尚(いっぽうおしょう)さんのかご

清陰寺(せいいんじ)の一峯(いっぽう)さんはかごに のってとなり村(むら)まででかけます。篠山(ささ やま)のお城(しろ)のちかくまで来(き)たとき、お 城(しろ)のおとのさまはおこって一峯(いっぽう)さ んをよびつけました。お城(しろ)の下(した)をかご にのってとおることはいけないこととされていたの です・・・

篠山市 西紀北小校区
和泉式部(いずみしきぶ)と桑原(くわばら)

むかし、和泉式部(いずみしきぶ)という有名(ゆうめい)な歌 人(かじん)が旅(たび)の途中(とちゅう)、たんばの山里(やま ざと)に立(た)ちよりました。そこで嵐(あらし)にあって村(む ら)を出(で)ることができなくなった和泉式部(いずみしきぶ)は、 やさしい村人(むらびと)たちに助(たす)けられます。その恩 返(おんがえ)しをしたいと思(おも)った和泉式部(いずみしきぶ) は、いいことを思(おも)いつきました・・・

但馬のむかしばなし

但馬のむかしばなし画像クリックで詳細をご覧いただけます。

この但馬のむかしばなしは兵庫県立但馬文教府及び但馬文化協会の協力により制作しました。

1. 出典について

「但馬の民話 (1) むかしばなし・但馬の民話 (2) 伝説 」 著者加芝 輝子発行船田企画 企画・編集 但馬文化協会ブックス但馬企画編集委員会 昭和58年11月10日発行 上記の書籍は兵庫県立但馬文教府但馬文庫で閲覧、貸出しできます。
詳しくはHPをご覧ください。 https://www.tajimabunkyou.jp/

2. 挿絵について

平成17年度に兵庫県立但馬文教府及び但馬文化協会が実施した 『ネットミュージアム兵庫文学館「兵庫のむかしばなし-但馬編-」挿絵コンクール」 での公募作品の中から掲載しております。

動画で見るむかしばなし

但馬の民話(1)/但馬の民話(2)伝説より
著者:加茂輝子 発行:船田企画
企画・編集:但馬文化協会 ブックス但馬企画編集委員会
[ 昭和58年11月10日発行 ]

「おじぞうさまにもらった命」

「おりゅう柳」

「若宮さんと潮垣」

むかしばなしマップ

むかしばなしに登場するいろいろな場所を見てみよう!
右の作品名をクリックするとあらすじが見れます

監修・協力一覧

監修者
但馬史研究会長・元豊岡市文化財審議委員 小谷茂夫
協力者
但馬文教府・但馬文化協会
(以下アイウエオ順)
加芝祐子
豊岡市役所
豊岡女性交流会
船田猛志(船田企画)  ほか

監修者から

但馬の昔話は、戦後(一九四五年以降)だけでも『豊岡民話・耳ぶくろ』(豊岡市老人連合会・昭和五十年)や『但馬町の民話と伝説』(但東町教委・平成三年)などが発行されているが、それを総合したものが、加芝輝子先生(故人)の『但馬の民話(1)(2)』すなわち「むかしばなし」と「伝説」である(昭和五十八年十一月発行)。 今回、ネットミュージアム兵庫文学館の企画展示として、その『但馬の民話(1)(2)』からいくつかのお話をとりあげ、兵庫県立但馬文教委・但馬文化協会の協力でこの番組を制作した。「むかしばなし」は子供に夢を与え、「伝説」は郷土に誇りを持たせる。この番組が但馬各地に伝わる民話を知っていただき、ゆかりの場所をたずねていただければ幸いである。

< 但馬史研究会長・元豊岡市文化財審議委員  小谷茂夫 >

あまがえる

あるところに、かえるの親子(おやこ)がすんでいました。かえるの子は、やんちゃであまのじゃくだったので、親(おや)がえるは大変(たいへん)こまっていました。ところがあるとき、親(おや)がえるが重(おも)い病気(びょうき)にかかってしまったのです。助からないと思った親(おや)がえるは、子どもをよんで、「死(し)んだら、川のそばにいけてくれ」と頼(たの)みました。ほんとうは山にうめてほしかったのに、反対(はんたい)のことしかしないだろうと思ったのです。ところが、最後(さいご)だけは親(おや)のいいつけどおりにしようと思った子どもは、なくなく川べりにうめました。雨がふりそうになると、お墓(はか)が流(なが)れるかもしれないと心配(しんぱい)して、「カワカワカワ、川川川」となくのだそうです。

おじぞうさまにもらった命

むかしむかし、仲(なか)のよい夫婦(ふうふ)がくらしていました。ある大雪(おおゆき)の日に、おじいさんは、つららを下(さ)げて立(た)っていたお地蔵(じぞう)さまに自分(じぶん)の笠(かさ)をかぶせて帰(かえ)ってきました。おばあさんは、赤(あか)んぼうが生(う)まれる手伝(てつだ)いをする「とりあげばあさん」というしごともしていました。その夜(よる)お地蔵(じぞう)さまがやってきて、おばあさんがいま出産(しゅっさん)の手伝(てつだ)いをして生(う)まれてくる子(こ)は、七(なな)つまでの寿命(じゅみょう)しかない。七(なな)つの年(とし)の秋(あき)に、母親(ははおや)のさとのとのまつりにひとりで行くことになっていて、ひるまでに橋(はし)を渡(わた)ると命(いのち)がないのだ。とおじいさんに教(おし)えます。ただこのことは、決(けっ)して誰(だれ)にもしゃべってはいけない、といってお地蔵(じぞう)さまは帰(かえ)っていきました。 子どもが七(なな)つの秋(あき)をむかえ、川向(かわむこ)うのしんるいのところへ行(い)くために、大きな橋(はし)のそばまでいったとき、おじいさんにそら豆(まめ)がいっぱい入った袋(ふくろ)をわたされ、よくかんで食(た)べるように言(い)われます。それを食(た)べているあいだに、橋(はし)の上(うえ)を黒(くろ)い雲(くも)と水(みず)がどうっと流(なが)れるのが3回見えました。こうして、ぶじ子どもは助(たす)かったのです。

お寺のかね

むかし、ナメクジに襲(おそ)われて命(いのち)をおとしそうになっている1匹(ぴき)の蛇(へび)を助(たす)けた、びんぼうな百姓(ひゃくしょう)の若(わか)ものがいました。ある日、色(いろ)の白(しろ)いきれいな若(わか)い娘(むすめ)がやってきて、道(みち)にまよったのでやどをかしてほしいといいます。娘(むすめ)は父親(ちちおや)の看病(かんびょう)や仕事(しごと)の手伝(てつだ)いまで、いろいろと助(たす)けてくれました。父親(ちちおや)がなくなったあと、そのままお嫁(よめ)さんになり、あかんぼが生(う)まれることになりました。よめはあかんぼを産(う)むあいだ、どんなことがあってもへやの中を見ないようにと言いました。がまんできずにのぞいてみると、大きな大蛇(だいじゃ)がトグロをまいていたのです。正体(しょうたい)を知(し)られたよめは、大きな池(いけ)の主(ぬし)の竜王(りゅうおう)の娘(むすめ)であることと、恩返(おんがえ)しをしにきていたことを打(う)ち明(あ)けました。あかんぼが泣(な)いたらこの玉(たま)をしゃぶらせてください、と言い残(のこ)して帰(かえ)っていきました。その不思議(ふしぎ)な玉(たま)をとりあげられてしまい、あかんぼが泣(な)きやまず途方(とほう)にくれた若(わか)ものは、池(いけ)まで行きもう一つ玉(たま)をもらいます。実(じつ)はこの玉(たま)は、母親(ははおや)の目玉(めだま)だったのです。母親(ははおや)はもう見えないので昼(ひる)と夜(よる)の区別(くべつ)がつくようにしてほしいと頼(たの)み、山のお寺(てら)の鐘(かね)を朝(あさ)・昼(ひる)・晩(ばん)とつくようになったそうです。

ケーンケーン・バータバタ

むかし、正直(しょうじき)なじいさまとばあさまがいました。ある日(ひ)のこと、ばあさまがじいさまの仕事(しごと)を手伝(てつだ)いに、山(やま)をのぼっていると「ケーンケーン・バータバタ、ばあばのしりぃひっつきてえ。」という声(こえ)が聞(き)こえてきました。こわくなったばあさまは、じいさまのところへ走(はし)っていって相談(そうだん)しました。 じいさまはわらって、それは山のきじだ。かえりも鳴(な)いたら、「ひっつきたけりゃあ ひっつけ。」と言えばいいといいました。夕方(ゆうがた)になり、ばあさまが山をおりていくと、また「ケーンケーン・バータバタ…」となくので、「ひっつきたけりゃあ、ひっつけ。」とどなりました。すると、ドサドサドサーッと、大(おお)きな音(おと)がして、ばあさまのおしりが重(おも)くなり、たくさんの小判(こばん)がひっついていたのです。 となりのばあさまはそれがうらやましくてしかたありません。さっそく山にのぼりはじめると、「ケーンケーン・コートコト、ばあばのしりぃひっつきてえ。」と鳴いたので、ここだと思ってどなったら、松やにがひっついてとれなくなってしまいました。そして、たいへん困(こま)ったということです。

さるとひきがえる

むかしある山に、ひきがえるとさるがいました。お正月(しょうがつ)なので、おもちをついたのですが、さるは半分(はんぶん)ずつ分(わ)けるのがおしくなり、ひとりじめしようと考(かんが)えます。そして、「もちをうすといっしょに転(ころ)がして、先に見つけたほうが食べることにしよう」というが早(はや)いか転(ころ)がして、まっ先に追(お)いかけていきました。しかし、とちゅうでうすから飛(と)び出したもちを、先に見つけたのはひきがえるでした。そしてもちを全部(ぜんぶ)食べてしまったのでした。

ねずみとねこ

むかしむかし、かみさまが「あしたのあさ、はやくきたどうぶつからじゅんに12ばんめまでを、『えと』のなかまに入れることにする。入りたいものは、早(はや)くくるように。」といいました。そこで牛は、夜中(よなか)から出発(しゅっぱつ)することにしました。その牛のつのに乗(の)ってきたねずみが、かみさまのところについたとき最初(さいしょ)にあいさつをしたので、ねずみが1番、牛が2番の順(じゅん)になったそうです。 ところがまえのばん、ねずみが「ねこさん、えとをきめるのは、あさってだよ。」と言ったので、ねこは一日遅(おく)れて行きました。かみさまは「なにをねぼけておるのだ。よう顔(かお)をあらって出なおしてこい。」としかりました。それから、ねこはねずみを目のかたきにしてつかまえるようになり、一日に何度(なんど)も顔(かお)を洗(あら)うようになったそうです。

ねずみのじょうど

ある日(ひ)のこと、お昼(ひる)になったので、じいさまは山(やま)のはたけでお弁当(べんとう)のだんごを食(た)べようとしました。すると、だんごがころげおちて木(き)のかぶのよこのあなにすとんと落(お)ちてしまいました。だんごをさがしにあなに入(はい)っていくと、うたが聞(き)こえてきたのです。中(なか)ではねずみたちがもちをついていました。うたにあわせておどりはじめたねずみたちが楽(たの)しそうなので、じいさまもいっしょになっておどりました。ねずみたちは、だんごのお礼(れい)にごちそうをしてくれ、ごはんがふえるふしぎなしゃもじをおみやげにくれました。 これをうらやましく思(おも)ったとなりのじいさまは、まねをして、だんごをもってでかけました。同(おな)じようにころげただんごをおいかけて、あなのなかにはいると、ねずみが「ねこさえ、おらにゃあ…」とうたいながらもちつきをしていました。そこで「ニャオー」とねこのなきまねをしたとたん、ぱっとあかりがきえ、となりのじいさまは土(つち)にうまってしまったそうです。

ふくろうのそめものや

あるところに、たいへんはたらき者(もの)のそめものやがありました。ところが、そのうちのむすこはなまけものではたらかない困(こま)りものでした。ある日、おしろのさむらいが白(しろ)いきぬの布(ぬの)を持(も)ってきて、とのさまの黒(くろ)い紋(もん)つきのきものにそめておくようにといいました。ところが、ていねいにそめてほしてあったきものを、むすこが地面(じめん)におとしてよごしてしまい、それが理由(りゆう)で、父(ちち)おやはころされてしまったのです。泣(な)いているむすこを、きんじょの子どもたちがいじめたので、むすこはふくろうになり、ひるまはかくれていて、夜に人がいなくなると出て来るのだそうです。天気(てんき)がよくなりそうなときは「のりつけほうせ(糊(のり)付け干(ほ)せ)」と鳴(な)き、雨(あめ)がふりそうなときは「どろつけほうせ 泥(どろ)付(つ)け干(ほ)せ)」と鳴(な)くのだそうです。いじわるっ子は烏(からす)になってしまったということです。

わらべうた
ほたるさん

「ほう ほう ほたるさん…」で始(はじ)まるわらべうた。

わらべうた
なかのなかの

「なかの なかの こぼんさん…」ではじまり、最後(さいご)に「うしろ だあれ」と歌(うた)う、わらべうたです。遊(あそ)びかたは、かごめかごめと同(おな)じです。歌(うた)のことばは、まわりをまわる人(ひと)と中(なか)の鬼(おに)と、かけ合(あ)いでいいます。「もどしもどしと」で反対方向(はんたいほうこう)にまわり、「うしろだあれ」で鬼(おに)が名前(なかえ)を当(あ)てます。

わらべうた
ぞうりかくし

ぞうりをかくす遊(あそ)びのはじめに、おにをきめるための歌(うた)です。「ぞうりかくし…」と歌(うた)いはじめ、最後(さいご)に「ちゅっちゅくちゅ」とうたいます。ぞうりを片方(かたほう)ずつ出して円(えん)になるように置(お)いて、この歌(うた)に合(あ)わせて一つずつおさえ、さいごの言葉(ことば)でおさえたぞうりをのけていきます。そして、さいごにのこったぞうりの持(も)ち主(ぬし)が、鬼(おに)になります。

わらべうた
さるが三びき

「さるが三びき とおって…」ではじまって、「アーンアーン ないたげな」と歌(うた)うわらべうたです。遊(あそ)びかたは、「お月さんなんぼ」のふしで歌(うた)います。名前(なまえ)のところは、そこにいる人ぜんぶの名(な)を次々(つぎつぎ)に言います。

猿むこ

むかしむかし、娘(むすめ)を三人(さんにん)持(も)ったじいさんがいました。ある夏(なつ)の日、畑仕事(はたけしごと)をしていたおじいさんはついうっかり、この畑(はたけ)を打(う)ってくれる者(もの)があれば娘(むすめ)を嫁(よめ)にやる、とひとりごとを言(い)ってしまいます。それを聞(き)いていた猿(さる)が、見(み)る間(ま)に畑(はたけ)を耕(たがや)し、娘(むすめ)を嫁(よめ)にもらいに行(い)くと言(い)い出(だ)したのです。じいさんは悩(なや)みますが、末(すえ)の娘(むすめ)が嫁(よめ)に行(い)くと言ってくれます。ただ、大きなつぼをじょうぶな負(お)い子(こ)にくくりつけたものを用意(ようい)してくれというのです。末娘(すえむすめ)は、猿(さる)にそれを背負(せお)っていってくれとたのみます。丸木橋(まるきばし)を渡(わた)っているとき、娘がうしろからどんとぶつかったひょうしに、猿(さる)は川(かわ)へ落(お)ち、つぼに水(みず)が入って押(お)し流(なが)されて行(い)ってしまいました。

牛が峯

牛(うし)が峯(みね)の山の上に、牛や馬(うま)の守(まも)り神(がみ)さんだといわれている小さなお宮さんがありますが、昔(むかし)はここに大きなお寺が建(た)っていて、水は遠(とお)くにある「日(ひ)の水(みず)」という泉(いずみ)にくみに行っていました。ところが、水をくみにいったこぞうが次々(つぎつぎ)と大蛇(だいじゃ)にたべられてしまいます。泉(いずみ)の水がくめないと寺ではくらせないので、大蛇(だいじゃ)をたいじしようと話(はな)し合(あ)っていると、一人のこぞうが、「腹(はら)にもぐさをつめて火をつけたわらにんぎょうを大蛇(だいじゃ)にのみこませたらどうでしょう」と言(い)い、やってみることにしました。泉(いずみ)のそばににんぎょうを立てて見ていると、大蛇(だいじゃ)が出てきてにんぎょうをひとのみにしたので、うまく行ったとみんなが大喜(おおよろこ)びしていましたが、山が鳴(な)り大地(だいち)がゆれ、大きな山くずれがおこったのです。そして山の下を流(なが)れていた小又川(こまたがわ)はせきとめられ、そばにいた村の人々は、おかの森ににげこみましたが、村はせきとめられた小又川(こまたがわ)の水の底(そこ)にしずみ、そこには大きな湖(みずうみ)ができて、このおかは湖(みずうみ)の中にうかぶ小島(こじま)のようになりましました。人々はこの小島(こじま)に家を建(た)て、助(たす)けられた森にお宮(みや)をつくり、村の名を湖(みずうみ)の上(かみ)、うみかみとしましたが、そのうち、湖上(うみがみ)を海上(うみがみ)と書くようになりました。何年もたったころ、栃谷(とちだに)いちばんの分限者(ぶげんしゃ)の家に七美(しつみ)の方から奉公(ほうこう)にきていた美(うつく)しい娘(むすめ)のうらないがよくあたると言(い)われており、六月(ろくがつ)十日(とおか)に大水がでるから村人はおかに集(あつ)まるように、とその娘(むすめ)が言(い)います。その日の朝(あさ)、村人がおかに集(あつ)まっていると、岸田川(きしだがわ)の上流(じょうりゅう)の方から山津波(やまつなみ)がきましたが、それはいつかの山くずれでできた湖(みずうみ)の水が、土手を破(やぶ)って出てきたのでした。今では小又川(こまたがわ)の上(かみ)の方に大きな湖(みずうみ)があったとは考(かんが)えられませんが、山の上の寺も豊臣秀吉(とよとみひでよし)のやきうちにあい、今は牛(うし)が嶺(みね)神社(じんじゃ)がいたんだ姿(すがた)でひっそりとたっているだけなので、長い年月の間(あいだ)には、またどんなに変(か)わるかわからないのです。
【注】 分限者・・・おかねもち 七美・・・美方郡の東部

蛇むこ入り

あるお金(かね)もちの主人(しゅじん)が、雨(あめ)を降(ふ)らせてくれたら自分(じぶん)の娘(むすめ)を嫁(よめ)にやるのに、とひとりごとをいいます。それを聞いていた白い蛇(へび)が雨を降(ふ)らせ、娘(むすめ)をむかえにきます。娘(むすめ)は、お母(かあ)さんの形見(かたみ)のかんざしと千成(せんな)りびょうたんを用意(ようい)してくれといいます。きれいな若者(わかもの)に化(ば)けて迎(むか)えにきた蛇(へび)は背中(せなか)にその千成(せんな)りびょうたんを結(むす)び、嫁(よめ)をつれて山の中の池(いけ)へと帰(かえ)っていきましたが、娘(むすめ)はかんざしを池(いけ)に投(な)げ入れ、蛇(へび)に拾(ひろ)ってもらっているあいだに逃(に)げます。その後(ご)、おばあさんにたすけられ、働(はたら)き口(ぐち)も頼(たの)んでもらいました。女中(じょちゅう)になり灰(はい)にまみれながらよく働(はたら)いたので、灰坊(はいぼう)とよばれかわいがられていました。ある日、その家(いえ)の若(わか)だんなが女中部屋(じょちゅうべや)をのぞき、きれいな若(わか)い娘(むすめ)を見かけ恋(こい)をします。そこで、若(わか)だんなの嫁(よめ)えらびが始(はじ)まり、その相手(あいて)が灰坊(はいぼう)だったことが分(わ)かります。娘(むすめ)はめでたく若(わか)だんなと結婚(けっこん)し、男の子も生まれたので里帰(さとがえ)りをし、みんな抱(だ)きあって喜(よろこ)んだということです。

大としの火

ある山(やま)おくに、りょうしんを病気(びょうき)で亡(な)くした女の子とそのおとうとが住(す)んでいました。小さいおとうとはしんるいのうちへ、女の子は奉公(ほうこう)にでていっしょうけんめい働(はたら)いていました。ある大みそかの夜、いろりの火をけさないようにと寝(ね)ずの番(ばん)をたのまれ、いっしょうけんめい火を守(まも)っていました。ところが、夢(ゆめ)を見たあと気がつくと、大事(だいじ)な火が消(き)えてしまっていたのです。火をさがしに外(そと)に出ると、雪野原(ゆきのはら)の遠(とお)くのほうから赤(あか)いものが近(ちか)づいてきました。それは、そうしきのぎょうれつの火でした。火をわけてくださいと頼(たの)むと、その代(かわ)りに正月(しょうがつ)までかんおけをあずかってくれというのです。女の子は火をもらいたいいっしんでかんおけをあずかり、もらった火だねでぶじに正月(しょうがつ)の朝をむかえました。ところが、いっこうにかんおけをとりにきません。とむらいをするためかんおけをうごかそうとひっぱると、いたが一まいはがれ、すきまから光(ひか)るものが見えました。なかみは金色(きんいろ)に光(ひか)るお金(かね)だったのです。そのお金(かね)で女の子の家(いえ)をなおし、おとうともよびかえして、なかよく暮(く)らせるようになったということです。

炭焼き長者

昔(むかし)から、出雲(いずも)の神(かみ)さんは、国中(くにじゅう)の縁結(えんむす)びのお願(ねが)いを聞(き)き毎日(まいにち)忙(いそが)しく働(はたら)いていました。その神(かみ)さんの娘(むすめ)が30歳(さい)になっても縁組(えんぐ)みが決(き)まらないので、ついにおとうさんから、縁組(えんぐ)みの相手(あいて)は遠(とお)い山(やま)の中(なか)で炭(すみ)やきをしているびんぼうな男だと聞(き)き出します。そして男の住(す)む所(ところ)をさがしあて、夫婦(みようと)となり暮(く)らし始(はじ)めました。 何日(なんにち)かして、お米(こめ)がなくなり、売(う)りに行(い)く炭(すみ)もまだできていなかったので、男(おとこ)はお米(こめ)が買(か)えず困(こま)ったことだと言(い)うと、嫁(よめ)さんが紙(かみ)につつんだ金(きん)の粒(つぶ)をとりだし、これでお米(こめ)でもなんでも買(か)えるといいました。お金(かね)を使(つか)ったことのない男(おとこ)は、とちゅうで金(きん)の粒(つぶ)をぜんぶ魚(さかな)にやってしまい、米(こめ)が買(か)えずにもどってきます。嫁(よめ)さんはがっかりしましたが、男(おとこ)はそんな物(もん)なら炭焼(すみや)きがまの横(よこ)にたくさんあるから取(と)ってきてやるといいます。なんと、そこは金(きん)の出(で)る山(やま)で、金(きん)の石(いし)や砂(すな)がごろごろざくざくあったのです。こうして、ふたりは幸(しあわ)せに暮(くら)すようになりました。

泡原の長者

牛(うし)が峯(みね)の山の上に、牛や馬(うま)の守(まも)り神(がみ)さんだといわれている小さなお宮さんがありますが、昔(むかし)はここに大きなお寺が建(た)っていて、水は遠(とお)くにある「日(ひ)の水(みず)」という泉(いずみ)にくみに行っていました。ところが、水をくみにいったこぞうが次々(つぎつぎ)と大蛇(だいじゃ)にたべられてしまいます。泉(いずみ)の水がくめないと寺ではくらせないので、大蛇(だいじゃ)をたいじしようと話(はな)し合(あ)っていると、一人のこぞうが、「腹(はら)にもぐさをつめて火をつけたわらにんぎょうを大蛇(だいじゃ)にのみこませたらどうでしょう」と言(い)い、やってみることにしました。泉(いずみ)のそばににんぎょうを立てて見ていると、大蛇(だいじゃ)が出てきてにんぎょうをひとのみにしたので、うまく行ったとみんなが大喜(おおよろこ)びしていましたが、山が鳴(な)り大地(だいち)がゆれ、大きな山くずれがおこったのです。そして山の下を流(なが)れていた小又川(こまたがわ)はせきとめられ、そばにいた村の人々は、おかの森ににげこみましたが、村はせきとめられた小又川(こまたがわ)の水の底(そこ)にしずみ、そこには大きな湖(みずうみ)ができて、このおかは湖(みずうみ)の中にうかぶ小島(こじま)のようになりましました。人々はこの小島(こじま)に家を建(た)て、助(たす)けられた森にお宮(みや)をつくり、村の名を湖(みずうみ)の上(かみ)、うみかみとしましたが、そのうち、湖上(うみがみ)を海上(うみがみ)と書くようになりました。何年もたったころ、栃谷(とちだに)いちばんの分限者(ぶげんしゃ)の家に七美(しつみ)の方から奉公(ほうこう)にきていた美(うつく)しい娘(むすめ)のうらないがよくあたると言(い)われており、六月(ろくがつ)十日(とおか)に大水がでるから村人はおかに集(あつ)まるように、とその娘(むすめ)が言(い)います。その日の朝(あさ)、村人がおかに集(あつ)まっていると、岸田川(きしだがわ)の上流(じょうりゅう)の方から山津波(やまつなみ)がきましたが、それはいつかの山くずれでできた湖(みずうみ)の水が、土手を破(やぶ)って出てきたのでした。今では小又川(こまたがわ)の上(かみ)の方に大きな湖(みずうみ)があったとは考(かんが)えられませんが、山の上の寺も豊臣秀吉(とよとみひでよし)のやきうちにあい、今は牛(うし)が嶺(みね)神社(じんじゃ)がいたんだ姿(すがた)でひっそりとたっているだけなので、長い年月の間(あいだ)には、またどんなに変(か)わるかわからないのです。
【注】 分限者・・・おかねもち 七美・・・美方郡の東部

和田の竜

村岡町和田(むらおかちょうわだ)のお宮(みや)さんのある所(ところ)は、昔(むかし)はいちめんの大(おお)きな池(いけ)で、まわりの森は大(おお)きな木(き)が茂(しげ)っていました。小代(おじろ)と射添(いそう)へ行くにはこの森の中のほそい一本道を通(とお)らなければなりませんが、この池(いけ)には竜(りゅう)がすんでいるといううわさが広(ひろ)がり、ある年の秋のはじめ、この森の小道(こみち)から旅人(たびびと)が手をふり上げ、わけのわからないことばをさけびながらかけ出してきて、「竜(りゅう)が…竜(りゅう)が…」と言(い)って息(いき)たえてしまったので、それからその池や森に近(ちか)づく者(もの)はいませんでした。何年かたったとき、この村を通(とお)りかかった旅(たび)の坊(ぼう)さまがこの話(はなし)を聞(き)いて、村人(むらびと)や旅人(たびびと)のなんぎを救(すく)ってやろうと考(かんが)え、たくさんのもぐさと針(はり)をつめた大きなわらにんぎょうを池のふちに立たせました。坊(ぼう)さまはお経をあげ、にんぎょうの中のもぐさに火をつけてどこへともなく姿(すがた)をけすと、竜(りゅう)があらわれ、にんぎょうをのみこみました。にんぎょうの中のもぐさに腹(はら)をやかれ、針(はり)でからだじゅうをさされ、力(ちから)つきた竜(りゅう)は池(いけ)の底(そこ)ふかくしずんでいったそうです。その後(のち)、村人(むらびと)も旅人(たびびと)も安心(あんしん)して森に行けるようになりましたが、村では火事(かじ)や病気(びょうき)などつぎつぎにさいなんが続(つづ)いたので、人々はそれを竜(りゅう)のたたりだと思(おも)って、池のほとりにこの池のはすの葉(は)を御神体(ごしんたい)とした小さなお宮(みや)をたてて竜神(りゅうじん)としてまつりました。今では池はほとんどたんぼになってしまっていますが、今でも男の子(こ)のせっくには、この池のしょうぶでしょうぶ綱(づな)を作(つく)ることがつたわっているそうです。

あまがえる

あるところに、かえるの親子(おやこ)がすんでいました。かえるの子は、やんちゃであまのじゃくだったので、親(おや)がえるは大変(たいへん)こまっていました。ところがあるとき、親(おや)がえるが重(おも)い病気(びょうき)にかかってしまったのです。助からないと思った親(おや)がえるは、子どもをよんで、「死(し)んだら、川のそばにいけてくれ」と頼(たの)みました。ほんとうは山にうめてほしかったのに、反対(はんたい)のことしかしないだろうと思ったのです。ところが、最後(さいご)だけは親(おや)のいいつけどおりにしようと思った子どもは、なくなく川べりにうめました。雨がふりそうになると、お墓(はか)が流(なが)れるかもしれないと心配(しんぱい)して、「カワカワカワ、川川川」となくのだそうです。

おじぞうさまにもらった命

むかしむかし、仲(なか)のよい夫婦(ふうふ)がくらしていました。ある大雪(おおゆき)の日に、おじいさんは、つららを下(さ)げて立(た)っていたお地蔵(じぞう)さまに自分(じぶん)の笠(かさ)をかぶせて帰(かえ)ってきました。おばあさんは、赤(あか)んぼうが生(う)まれる手伝(てつだ)いをする「とりあげばあさん」というしごともしていました。その夜(よる)お地蔵(じぞう)さまがやってきて、おばあさんがいま出産(しゅっさん)の手伝(てつだ)いをして生(う)まれてくる子(こ)は、七(なな)つまでの寿命(じゅみょう)しかない。七(なな)つの年(とし)の秋(あき)に、母親(ははおや)のさとのとのまつりにひとりで行くことになっていて、ひるまでに橋(はし)を渡(わた)ると命(いのち)がないのだ。とおじいさんに教(おし)えます。ただこのことは、決(けっ)して誰(だれ)にもしゃべってはいけない、といってお地蔵(じぞう)さまは帰(かえ)っていきました。 子どもが七(なな)つの秋(あき)をむかえ、川向(かわむこ)うのしんるいのところへ行(い)くために、大きな橋(はし)のそばまでいったとき、おじいさんにそら豆(まめ)がいっぱい入った袋(ふくろ)をわたされ、よくかんで食(た)べるように言(い)われます。それを食(た)べているあいだに、橋(はし)の上(うえ)を黒(くろ)い雲(くも)と水(みず)がどうっと流(なが)れるのが3回見えました。こうして、ぶじ子どもは助(たす)かったのです。

おりゅう灯籠

今から七百年ほど前のこと、村の娘(むすめ)の憧(あこが)れの若様(わかさま)とおやしきに奉公(ほうこう)に上がっていたおりゅうは好(す)き合っていましたが、身分(みぶん)がちがうので許(ゆる)されず、おりゅうは家(いえ)に連(つ)れもどされてしまい、見張(みは)りがきびしいので、会うこともできませんでした。夏(なつ)になると、出石(いずし)から若様(わかさま)を隊長(たいちょう)とした何人かの若者(わかもの)が兵士(へいし)として筑紫(つくし)の国(くに)へ行くことになり、おりゅうはいそいで船(ふな)つき場(ば)に走(はし)りましたが、若様(わかさま)の船(ふね)はもう出たあとでした。そして秋(あき)の終(お)わり頃(ころ)、若様(わかさま)が戦(いくさ)で亡(な)くなった事(こと)が知(し)らされました。両親(りょうしん)はおりゅうが心得(こころえ)違(ちが)いをしないように昼(ひる)も夜(よる)も見張(みは)っていましたが、二三日あと、両親(りょうしん)が眠(ねむ)ったときに、おりゅうは外(そと)でよぶ若様(わかさま)の声に誘(さそ)われて出て行きました。若様(わかさま)を追(お)って歩(ある)いていくと、いつかの船(ふね)つき場(ば)につき、「おまえもつれていってやろう」という若様(わかさま)の声(こえ)がして、あくる朝(あさ)、おりゅうは出石川(いずしがわ)に浮(う)かんでいましたが、安(やす)らかな笑顔(えがお)をしていました。かわいそうなおりゅうのために、人々が祠(ほこら)を建(た)てて供養(くよう)したところ、そこに柳(やなぎ)が生え、船(ふな)つき場(ば)をおおう大木(たいぼく)になったので、このあたりを柳町(やなぎまち)というようになりました。何年(なんねん)か後(のち)、おやしきの欅(けやき)の古木(こぼく)が倒(たお)れ、この船(ふな)つき場(ば)に流(なが)れついたので、人々はその木(き)で灯籠(とうろう)をつくって船(ふな)つき場(ば)に据(す)え、その灯(あか)りは出石川(いずしがわ)を上(のぼ)り下(くだ)りする船(ふね)の船頭(せんどう)たちの道(みち)しるべになり、「おりゅう灯籠(どうろう)」とよばれるようになりました。

ケーンケーン・バータバタ

むかし、正直(しょうじき)なじいさまとばあさまがいました。ある日(ひ)のこと、ばあさまがじいさまの仕事(しごと)を手伝(てつだ)いに、山(やま)をのぼっていると「ケーンケーン・バータバタ、ばあばのしりぃひっつきてえ。」という声(こえ)が聞(き)こえてきました。こわくなったばあさまは、じいさまのところへ走(はし)っていって相談(そうだん)しました。 じいさまはわらって、それは山のきじだ。かえりも鳴(な)いたら、「ひっつきたけりゃあ ひっつけ。」と言えばいいといいました。夕方(ゆうがた)になり、ばあさまが山をおりていくと、また「ケーンケーン・バータバタ…」となくので、「ひっつきたけりゃあ、ひっつけ。」とどなりました。すると、ドサドサドサーッと、大(おお)きな音(おと)がして、ばあさまのおしりが重(おも)くなり、たくさんの小判(こばん)がひっついていたのです。 となりのばあさまはそれがうらやましくてしかたありません。さっそく山にのぼりはじめると、「ケーンケーン・コートコト、ばあばのしりぃひっつきてえ。」と鳴いたので、ここだと思ってどなったら、松やにがひっついてとれなくなってしまいました。そして、たいへん困(こま)ったということです。

さるとひきがえる

むかしある山に、ひきがえるとさるがいました。お正月(しょうがつ)なので、おもちをついたのですが、さるは半分(はんぶん)ずつ分(わ)けるのがおしくなり、ひとりじめしようと考(かんが)えます。そして、「もちをうすといっしょに転(ころ)がして、先に見つけたほうが食べることにしよう」というが早(はや)いか転(ころ)がして、まっ先に追(お)いかけていきました。しかし、とちゅうでうすから飛(と)び出したもちを、先に見つけたのはひきがえるでした。そしてもちを全部(ぜんぶ)食べてしまったのでした。

ねずみとねこ

むかしむかし、かみさまが「あしたのあさ、はやくきたどうぶつからじゅんに12ばんめまでを、『えと』のなかまに入れることにする。入りたいものは、早(はや)くくるように。」といいました。そこで牛は、夜中(よなか)から出発(しゅっぱつ)することにしました。その牛のつのに乗(の)ってきたねずみが、かみさまのところについたとき最初(さいしょ)にあいさつをしたので、ねずみが1番、牛が2番の順(じゅん)になったそうです。 ところがまえのばん、ねずみが「ねこさん、えとをきめるのは、あさってだよ。」と言ったので、ねこは一日遅(おく)れて行きました。かみさまは「なにをねぼけておるのだ。よう顔(かお)をあらって出なおしてこい。」としかりました。それから、ねこはねずみを目のかたきにしてつかまえるようになり、一日に何度(なんど)も顔(かお)を洗(あら)うようになったそうです。

ねずみのじょうど

ある日(ひ)のこと、お昼(ひる)になったので、じいさまは山(やま)のはたけでお弁当(べんとう)のだんごを食(た)べようとしました。すると、だんごがころげおちて木(き)のかぶのよこのあなにすとんと落(お)ちてしまいました。だんごをさがしにあなに入(はい)っていくと、うたが聞(き)こえてきたのです。中(なか)ではねずみたちがもちをついていました。うたにあわせておどりはじめたねずみたちが楽(たの)しそうなので、じいさまもいっしょになっておどりました。ねずみたちは、だんごのお礼(れい)にごちそうをしてくれ、ごはんがふえるふしぎなしゃもじをおみやげにくれました。 これをうらやましく思(おも)ったとなりのじいさまは、まねをして、だんごをもってでかけました。同(おな)じようにころげただんごをおいかけて、あなのなかにはいると、ねずみが「ねこさえ、おらにゃあ…」とうたいながらもちつきをしていました。そこで「ニャオー」とねこのなきまねをしたとたん、ぱっとあかりがきえ、となりのじいさまは土(つち)にうまってしまったそうです。

ばば焼き

但馬(たじま)の高岡(たかおか)の里(さと)にとらえられている雅成親王(まさなりしんのう)のお妃(きさき)の幸姫(さちひめ)は、子(こ)ができたことを知(し)らせるため、侍女(じじょ)の楓(かえで)をつれて但馬への旅(たび)に出(で)ます。そしてようやく気多郡伊福村(けたぐんいふくむら)松ノ岡(まつのおか)の里(さと)についたとき、円山川(まるやまがわ)で洗(あら)い物(もの)をしている老婆(ろうば)に高岡(たかおか)の里(さと)までの道(みち)のりをたずねたところ、老婆(ろうば)は「高屋(たかや)は知(し)っているが高岡(たかおか)というところは聞(き)いたことがない。高屋(たかや)までも二十日以上(はつかいじょう)かかる」と答(こた)えました。高岡(たかおか)は高屋(たかや)にあるのですが、旅(たび)につかれていた幸姫(さちひめ)はそれを聞(き)いて絶望(ぜつぼう)し、「死後(しご)かならず南風(みなみかぜ)となって高屋(たかや)へ達(たっ)しましょう」と川(かわ)にとびこみました。楓(かえで)はあわてて助(たす)けをもとめ、幸姫(さちひめ)は助(たす)け上(あ)げられましたが、御子(みこ)をうんですぐに息(いき)を引(ひ)きとりました。楓(かえで)は幸姫(さちひめ)の身(み)の上(うえ)や老婆(ろうば)のことなどを村人(むらびと)に語(かた)ります。そして、その夜中(よなか)すぎから南風(みなみかぜ)が強(つよ)くなり、大雨(おおあめ)が降(ふ)って、大水(おおみず)になった円山川(まるやまがわ)へ楓(かえで)もとびこみました。大雨(おおあめ)は何時間(なんじかん)も続(つづ)くので、村人(むらびと)は幸姫(さちひめ)のたたりをおそれて、うそをついた老婆(ろうば)を火(ひ)あぶりにして焼(や)き殺(ころ)し、幸姫(さちひめ)の御霊(みたま)を産土神(うぶすながみ)として十二所神社(じゅうにしょじんじゃ)にまつりました。十二所神社(じゅうにしょじんじゃ)は「若宮(わかみや)さま」ともよばれ、また、姫(ひめ)が大変(たいへん)美(うつく)しい髪(かみ)をしていたので「髪長(かみなが)さん」ともいわれて、女(おんな)の人(ひと)を守(まも)り、髪(かみ)を美(うつく)しくしてくれる神(かみ)さまとなっています。また、幸姫(さちひめ)の櫛(くし)が豊岡(とよおか)の光行寺(こうぎょうじ)の横(よこ)の川岸(かわぎし)に流(なが)れついたので、そこには櫛(くし)をまつる「幸(さち)の神(かみ)」があるそうです。それから、今(いま)でもこの日(ひ)にはふしぎに強(つよ)い南風(みなみかぜ)が吹(ふ)くといわれ、四月(がつ)十四日(か)の夕方(ゆうがた)には、このお宮(みや)でわらの老婆(ろうば)の人形(にんぎょう)を焼(や)いて幸姫(さちひめ)の霊(れい)をなぐさめる行事(ぎょうじ)が続(つづ)いているのです。
【注】 但馬の高岡の里・・・豊岡市高屋
気多郡伊福村松ノ岡・・・城崎郡日高町松岡
産土神・・・その土地を守る神さま

ふくろうのそめものや

あるところに、たいへんはたらき者(もの)のそめものやがありました。ところが、そのうちのむすこはなまけものではたらかない困(こま)りものでした。ある日、おしろのさむらいが白(しろ)いきぬの布(ぬの)を持(も)ってきて、とのさまの黒(くろ)い紋(もん)つきのきものにそめておくようにといいました。ところが、ていねいにそめてほしてあったきものを、むすこが地面(じめん)におとしてよごしてしまい、それが理由(りゆう)で、父(ちち)おやはころされてしまったのです。泣(な)いているむすこを、きんじょの子どもたちがいじめたので、むすこはふくろうになり、ひるまはかくれていて、夜に人がいなくなると出て来るのだそうです。天気(てんき)がよくなりそうなときは「のりつけほうせ(糊(のり)付け干(ほ)せ)」と鳴(な)き、雨(あめ)がふりそうなときは「どろつけほうせ 泥(どろ)付(つ)け干(ほ)せ)」と鳴(な)くのだそうです。いじわるっ子は烏(からす)になってしまったということです。

みそさざいのちえ

むかしむかし、とりのよりあいがあったとき、みそさざいは遅刻(ちこく)してしまいました。そのせいで、小さくて役(やく)に立たず、とみそさざいは他(ほか)のとりたちにばかにされてしまいました。くやしくて、なんとかして見返(みかえ)してやりたいと思ったみそさざいは、大きないのししをとってみせるから見(み)ているように、とみんなにいいます。すると、いのししはあばれまわってしんでしまいました。その耳(みみ)のなかから、みそさざいはぴょんととび出しました。これを見たみんなも感心(かんしん)して、もうみそさざいをばかにすることはなくなったそうです。

ものぐさ太郎とびんぼう神

むかし、あるところに、たいへんなまけものでびんぼうな、ものぐさ太郎(たろう)という男がいました。ある節分(せつぶん)の晩(ばん)、てんじょううらにかけたはしごがメキメキとなって、びんぼう神(がみ)がひょいっと降(お)りてきました。そして、長(なが)い間(あいだ)世話(せわ)になったお礼(れい)にいいことを教(おし)えてやろうといいました。あすの夜明(よあ)け前(まえ)に、宝物(たからもの)を積(つ)んだ馬(うま)が通(とお)るというのです。いちばん最初(さいしょ)の馬(うま)には金(きん)と銀(ぎん)が積(つ)んであり、2ばんめの馬(うま)はあやにしきのおり物(もの)、最後(さいご)の馬(うま)にはさんごやめのうが積(つ)んであるから、どの馬(うま)でもいいので、ぼうでなぐれば積(つ)んであるたからものは自分(じぶん)のものになるというのです。しかし、普段(ふだん)からのなまけぐせのせいでなかなか起(お)きることができず、一ばん先(さき)の馬(うま)は通(とお)りすぎでしまいます。それを知(し)らないものぐさ太郎(たろう)は、2ばんめの馬(うま)はぼうが長(なが)すぎてなぐれず、3ばんめの馬(うま)はぼうが短(みじ)かすぎてとどきませんでした。そのあとまた馬(うま)が走(はし)ってきたので、3ばんめの馬(うま)だと思(おも)ってなぐったら、ゆうべのびんぼう神(がみ)が「またおまえのところでせわになるか」と、おりてきたということです。

わらべうた
ほたるさん

「ほう ほう ほたるさん…」で始(はじ)まるわらべうた。

わらべうた
なかのなかの

「なかの なかの こぼんさん…」ではじまり、最後(さいご)に「うしろ だあれ」と歌(うた)う、わらべうたです。遊(あそ)びかたは、かごめかごめと同(おな)じです。歌(うた)のことばは、まわりをまわる人(ひと)と中(なか)の鬼(おに)と、かけ合(あ)いでいいます。「もどしもどしと」で反対方向(はんたいほうこう)にまわり、「うしろだあれ」で鬼(おに)が名前(なかえ)を当(あ)てます。

わらべうた
ぞうりかくし

ぞうりをかくす遊(あそ)びのはじめに、おにをきめるための歌(うた)です。「ぞうりかくし…」と歌(うた)いはじめ、最後(さいご)に「ちゅっちゅくちゅ」とうたいます。ぞうりを片方(かたほう)ずつ出して円(えん)になるように置(お)いて、この歌(うた)に合(あ)わせて一つずつおさえ、さいごの言葉(ことば)でおさえたぞうりをのけていきます。そして、さいごにのこったぞうりの持(も)ち主(ぬし)が、鬼(おに)になります。

わらべうた
さるが三びき

「さるが三びき とおって…」ではじまって、「アーンアーン ないたげな」と歌(うた)うわらべうたです。遊(あそ)びかたは、「お月さんなんぼ」のふしで歌(うた)います。名前(なまえ)のところは、そこにいる人ぜんぶの名(な)を次々(つぎつぎ)に言います。

円山川の話(お助け松)

春さきになってから雪(ゆき)が七日七晩(なのかななばん)ふり続(つづ)き、南風(みなみかぜ)が七日七晩(なのかななばん)吹(ふ)き荒(あ)れて、野山(のやま)の雪(ゆき)が一度(いちど)にとけて流(なが)れ出(だ)し、田畑(たはた)も川(かわ)も野(の)もいちめんの泥海(どろうみ)になってしまって、豊岡(とよおか)のおつねは家(いえ)といっしょに流(なが)されてしまいました。どんどん流(なが)されてもう助(たす)からないと思(おも)ったとき、泥海(どろうみ)の中(なか)から松(まつ)の木(き)のてっぺんが出(で)ていたので、おつねは必死(ひっし)でそれにとりすがりました。朝(あさ)が来(き)て、その土地(とち)の人(ひと)に見(み)つけてもらい、おつねは助(たす)かることができました。人々(ひとびと)はこの松(まつ)をお助(たす)け松(まつ)とよび、このあたりの土地(とち)の名(な)まえも「助(たす)け松(まつ)」というようになったそうです。

円山川の話(小判とねずみ)

大水(おおみず)で川(かわ)の底(そこ)になってしまった灘千軒(なだせんげん)はお金持(かねも)ちが多(おお)く、この町(まち)のあった所(ところ)のうしろの山(やま)の、「おなだもり」という木(き)の根(ね)もとに金(きん)のにわとりが埋(う)められていて、時(とき)おりそれが金(きん)の鈴(すず)のような声(こえ)で鳴(な)くといわれています。あるとき、百姓(ひゃくしょう)がこの灘(なだ)の岸(きし)に舟(ふね)をつないで居眠(いねむ)りをしていると、二(に)ひきのねずみが小判(こばん)をくわえて舟(ふね)の中(なか)に入(はい)り、小判(こばん)をおいていくので、舟(ふね)の中(なか)にはたくさんの小判(こばん)が積(つ)みこまれました。百姓(ひゃくしょう)はろの端(はし)が岸(きし)から少(すこ)し離(はな)れているのを見(み)て、ねずみがとび移(うつ)りやすいように舟(ふね)を岸(きし)に近(ちか)づけてやったところ、今度(こんど)は小判(こばん)を持(も)たずにきて、舟(ふね)の中(なか)の小判(こばん)をくわえて持(も)って帰(かえ)るのです。百姓(ひゃくしょう)は、せっかく積(つ)んである小判(こばん)を持(も)っていかれては大変(たいへん)だと思(おも)い、舟(ふね)を出(だ)そうとしましたが、からだがしびれて動(うご)けませんでした。そのうちにねずみがすっかり舟(ふね)の中(なか)の小判(こばん)を持(も)って帰(かえ)ってしまい、夜(よ)が明(あ)け、金(きん)のにわとりの美(うつく)しい声(こえ)が聞(き)こえていたということです。

若宮さんと潮垣

赤石(あかいし)あたりでは、日照(ひで)りが続(つづ)くと潮(しお)が田(た)んぼに入(はい)ってしまって米(こめ)がとれず、村人(むらびと)は困(こま)っていました。そこで江戸(えど)から来(き)た浪人(ろうにん)は、潮垣(しおがき)を造(つく)ろうと言(い)いますが、費用(ひよう)を心配(しんぱい)した村人(むらびと)は反対(はんたい)します。そこで浪人(ろうにん)は、「私(わたし)は江戸(えど)の旗本(はたもと)の生まれで、兄(あに)が勘定奉行(かんじょうぶぎょう)に仕(つか)えているので、頼(たの)めばお金(かね)は送(おく)ってもらえる」と村人(むらびと)を説得(せっとく)しました。浪人(ろうにん)のことばに賛成(さんせい)した村人(むらびと)は一生懸命(いっしょうけんめい)働(はたら)き、次(つぎ)の春、潮垣(しおがき)はでき上(あ)がりました。ところがいつになっても江戸(えど)からのお金(かね)が来(こ)ないので、村人(むらびと)たちは浪人(ろうにん)に確(たし)かめに行(い)きます。すると浪人(ろうにん)は、自分(じぶん)が旗本(はたもと)の生まれであることも、江戸(えど)からお金(かね)がくることも、村(むら)のために潮垣(しおがき)を造(つく)るように説(と)くためのうそだったことをうちあけ、村人(むらびと)にうそをついたお詫(わ)びとして、命(いのち)を絶(た)ったのでした。次(つぎ)の年(とし)、潮垣(しおがき)のおかげで塩害(えんがい)を受(う)けることなく豊年(ほうねん)となり、村人(むらびと)はあらためて浪人(ろうにん)の恩恵(おんけい)を思(おも)い、浪人(ろうにん)を村(むら)の守(まも)り神(がみ)として若宮社(わかみやしゃ)を建(た)てておまつりしました。
【注】 赤石・・・玄武洞のある村の名 恩恵・・・おかげ

大としの火

ある山(やま)おくに、りょうしんを病気(びょうき)で亡(な)くした女の子とそのおとうとが住(す)んでいました。小さいおとうとはしんるいのうちへ、女の子は奉公(ほうこう)にでていっしょうけんめい働(はたら)いていました。ある大みそかの夜、いろりの火をけさないようにと寝(ね)ずの番(ばん)をたのまれ、いっしょうけんめい火を守(まも)っていました。ところが、夢(ゆめ)を見たあと気がつくと、大事(だいじ)な火が消(き)えてしまっていたのです。火をさがしに外(そと)に出ると、雪野原(ゆきのはら)の遠(とお)くのほうから赤(あか)いものが近(ちか)づいてきました。それは、そうしきのぎょうれつの火でした。火をわけてくださいと頼(たの)むと、その代(かわ)りに正月(しょうがつ)までかんおけをあずかってくれというのです。女の子は火をもらいたいいっしんでかんおけをあずかり、もらった火だねでぶじに正月(しょうがつ)の朝をむかえました。ところが、いっこうにかんおけをとりにきません。とむらいをするためかんおけをうごかそうとひっぱると、いたが一まいはがれ、すきまから光(ひか)るものが見えました。なかみは金色(きんいろ)に光(ひか)るお金(かね)だったのです。そのお金(かね)で女の子の家(いえ)をなおし、おとうともよびかえして、なかよく暮(く)らせるようになったということです。

炭焼き長者

昔(むかし)から、出雲(いずも)の神(かみ)さんは、国中(くにじゅう)の縁結(えんむす)びのお願(ねが)いを聞(き)き毎日(まいにち)忙(いそが)しく働(はたら)いていました。その神(かみ)さんの娘(むすめ)が30歳(さい)になっても縁組(えんぐ)みが決(き)まらないので、ついにおとうさんから、縁組(えんぐ)みの相手(あいて)は遠(とお)い山(やま)の中(なか)で炭(すみ)やきをしているびんぼうな男だと聞(き)き出します。そして男の住(す)む所(ところ)をさがしあて、夫婦(みようと)となり暮(く)らし始(はじ)めました。 何日(なんにち)かして、お米(こめ)がなくなり、売(う)りに行(い)く炭(すみ)もまだできていなかったので、男(おとこ)はお米(こめ)が買(か)えず困(こま)ったことだと言(い)うと、嫁(よめ)さんが紙(かみ)につつんだ金(きん)の粒(つぶ)をとりだし、これでお米(こめ)でもなんでも買(か)えるといいました。お金(かね)を使(つか)ったことのない男(おとこ)は、とちゅうで金(きん)の粒(つぶ)をぜんぶ魚(さかな)にやってしまい、米(こめ)が買(か)えずにもどってきます。嫁(よめ)さんはがっかりしましたが、男(おとこ)はそんな物(もん)なら炭焼(すみや)きがまの横(よこ)にたくさんあるから取(と)ってきてやるといいます。なんと、そこは金(きん)の出(で)る山(やま)で、金(きん)の石(いし)や砂(すな)がごろごろざくざくあったのです。こうして、ふたりは幸(しあわ)せに暮(くら)すようになりました。

朝寝坊の神さま

せまい境内(けいだい)に住(す)む神(かみ)さまの三木島(みきしま)さまは、天(てん)の神(かみ)さまからいただく境内(けいだい)の広(ひろ)さを定(き)める寄(よ)り合(あ)いで、一町一反(いっちょういったん)をもらおうと思(おも)っていましたが、寄(よ)り合(あ)いの日(ひ)に朝寝坊(あさねぼう)をしてしまいました。大(おお)あわてでかけつけた三木島(みきしま)さまは、天(てん)の神(かみ)さまに「いくら境内(けいだい)がいりますか」と聞(き)かれ、あわてて人(ひと)さし指(ゆび)を一本(いっぽん)立(た)てて、走(はし)りながら「一反(いったん)、一反(いったん)」と言(い)ってしまったので、三木島(みきしま)さまの境内(けいだい)は一反(いったん)になってしまいました。三木島(みきしま)さまはこれを朝寝坊(あさねぼう)の罰(ばつ)だと思(おも)い、村(むら)の子(こ)どもたちが朝寝坊(あさねぼう)をしないように守(まも)ることにしたので、村人(むらびと)は朝寝坊(あさねぼう)せずによく働(はたら)くようになり村(むら)は栄(さか)えていきました。その後(のち)、境内(けいだい)は小(ちい)さな森(もり)になり、「朝寝(あさね)が森(もり)」とよばれています。

鼻かけ地蔵

楽々浦(ささうら)の正直(しょうじき)で働(はたら)き者(もの)の漁師(りょうし)は、お地蔵様(じぞうさま)が楽々浦(ささうら)の水の底(そこ)に沈(しず)んでいて、苦(くる)しいので救(すく)い上げてくれと言(い)っている夢(ゆめ)を見(み)ました。次(つぎ)の日(ひ)漁師(りょうし)が川(かわ)へ出かけて網(あみ)を打(う)つと、一度目(いちどめ)も二度目(にどめ)もいつもの倍(ばい)ぐらい魚(さかな)が入り、三度目(さんどめ)はなんとお地蔵様(じぞうさま)が入っていました。夢(ゆめ)のお告(つ)げがほんとうだと知った漁師(りょうし)が、川のそばのたもの木の下にそのお地蔵様(じぞうさま)をおまつりしたところ、そのお地蔵様(じぞうさま)の鼻(はな)からお米がこぼれ出てきたので、漁師(りょうし)は喜(よろこ)んで村の人たちにもお米を分け、お地蔵様(じぞうさま)をたいせつにしていました。ところが、お米がもっとたくさん出(で)るようになれば働(はたら)かなくてもよいのに、と考(かんが)えた漁師(りょうし)が、のみとつちでお地蔵様(じぞうさま)の鼻(はな)の穴(あな)を大きくしようとしたら、手(て)もとが狂(くる)ってお地蔵様(じぞうさま)の鼻(はな)をのみでかいてしまい、一粒(ひとつぶ)のお米も出なくなってしまいました。それで、このお地蔵様(じぞうさま)には一つだけお願(ねが)いごとをするとかなえてくれるそうです。

万燈会と新田井せき

江戸時代(えどじだい)の末(すえ)の頃(ころ)、出石(いずし)の宮内(みやうち)から豊岡(とよおか)の新田(にった)や三江(みえ)にかけての田んぼに出石川(いずしがわ)の水を送(おく)るために井(い)せきをつくり、土俵(どひょう)をつんで水をため、昼(ひる)も夜(よる)もせき守(も)りが見張(みは)りをしていました。しかし川がせき止められると水かさが増(ま)すので、新田井(にったい)せきのすぐ川上(かわかみ)にある伊豆(いず)の村では、水が家(いえ)の中(なか)に入ってきたり稲が腐(くさ)ったりして、村人はたいへん難儀(なんぎ)をしていました。役人(やくにん)に頼(たの)んでも聞(き)き入れてもらえず、自分(じぶん)たちでせきをくだこうと思(おも)っても死罪(しざい)がこわくてできません。ある日、井(い)せきの番人(ばんにん)が見張(みは)っていると、さんだわらが流(なが)れて来(き)て、井(い)せきの土俵(どひょう)に当(あた)ったとたん、土俵(どひょう)がくずれました。番人(ばんにん)はびっくりして見(み)ていると、さんだわらが少しずつ川上(かわかみ)へ動(うご)いて行くのでおかしいと思(おも)い、さんだわらを追(お)いかけとび口をうちこんだところ、「ぎゃあっ!」と悲鳴(ひめい)が聞(き)こえ、さんだわらをかさのように頭(あたま)にくくりつけた百姓(ひゃくしょう)の死体(したい)が浮(う)き上(あ)がったのです。それはまじめでおとなしい甚五郎(じんごろう)でした。村人はそのことを聞(き)いて、川下(かわしも)へ流(なが)れたら助(たす)かったかも知(し)れないのにと、おいおい泣(な)いたそうです。この事(こと)があってから、出石藩(いずしはん)は新田井(にったい)せきを大分(だいぶん)川下(かわしも)へ移(うつ)し、村人は村のために死(し)んだ甚五郎(じんごろう)を手厚(てあつ)くとむらい、それから毎年(まいとし)、うら盆(ぼん)に万灯会(まんどうえ)をして霊(れい)を慰(なぐさ)めるようになり、それは今でも続(つづ)いています。万灯会(まんどうえ)の当日(とうじつ)には「甚五郎(じんごろう)」と書(か)いた松明(たいまつ)の灯(ひ)がともされ、それにつきそうように、その頃(ころ)の伊豆(いず)の村(むら)の戸数(こすう)である百二十(ひゃくにじゅう)の灯(ひ)がともされるのです。

おりゅう柳

栂山(とがやま)のふもとに何百年(なんびゃくねん)とたった大きな柳(やなぎ)の木があり、人々は大柳(おおやなぎ)とか高柳(たかやなぎ)といい、この木のあるあたりの土地(とち)のことも高柳(たかやなぎ)というようになりました。この高柳(たかやなぎ)に夫(おっと)と子(こ)どもと幸(しあわ)せに暮(く)らすおりゅうは黒(くろ)いつやつやとした長(なが)い髪(かみ)をしており、娘(むすめ)の頃(ころ)から、朝日(あさひ)がさす頃(ころ)、二階(にかい)の窓(まど)に腰(こし)をかけこの長(なが)い髪(かみ)をすくと、大柳(おおやなぎ)の枝(えだ)が風(かぜ)のない日でもサワサワとゆれるのでした。この頃(ころ)、京(きょう)の都(みやこ)では帝(みかど)の病気(びょうき)をなおすために三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)が建(た)てられることになり、この柳(やなぎ)をその棟木(むなぎ)にすることがきまりました。この柳(やなぎ)は根(ね)もとのまわりが太(ふと)く、一日かかっても少ししか切(き)ることができませんでしたが、あくる日になると、きのうの切(き)り口がなくなっていたので、きこりのうちの二人(ふたり)が毎晩(まいばん)寝(ね)ずの番(ばん)をすることにします。ところが真夜中(まよなか)を過(す)ぎると眠(ねむ)くなり、ついうとうとしているあいだに切(き)り口が消(き)えてしまう、ということがつづいて4、5日過(す)ぎた夜(よる)、番人(ばんにん)は、頭(あたま)にかずらで作(つく)った冠(かんむり)を着(つ)けた老人(ろうじん)が、この柳(やなぎ)の木はこのあたりの木の長老(ちょうろう)で、木の精(せい)が柳(やなぎ)の傷口(きずぐち)をふさいでいること、それをさせないためには切(き)り口から出た木屑(きくず)を焼(や)いてしまえばいいことを教(おし)えてくれる夢(ゆめ)を見(み)ました。この老人(ろうじん)は柳(やなぎ)にまきついているつたかずらで、木の精(せい)にばかにされたので、この秘密(ひみつ)を教(おし)える気になったのだというのです。そこであくる日、仕事(しごと)の終(お)わったあとに木屑(きくず)を焼(や)いてしまったところ、切(き)り口がふさがらず、それからは毎日(まいにち)切(き)り口が広がって行きました。ちょうどそのころ、おりゅうは元気(げんき)がなくなり、大柳(おおやなぎ)の切(き)り倒(たお)された日のその時刻(じこく)に息(いき)を引(ひ)きとったのです。そして切(き)り倒(たお)した大柳(おおやなぎ)を都(みやこ)に運(はこ)ぼうとしますが、引(ひ)っ張(ぱ)る人数(にんずう)を増(ふ)やしても少しも動(うご)かすことができません。ところがおりゅうの子のみどり丸(まる)が柳(やなぎ)によじのぼったとたん、柳(やなぎ)は動(うご)き始(はじ)め、7日かかって京都(きょうと)に運(はこ)ばれて行きました。
【注】 功徳・・・おかげ 長老・・・年をとった偉い人

お寺のかね

むかし、ナメクジに襲(おそ)われて命(いのち)をおとしそうになっている1匹(ぴき)の蛇(へび)を助(たす)けた、びんぼうな百姓(ひゃくしょう)の若(わか)ものがいました。ある日、色(いろ)の白(しろ)いきれいな若(わか)い娘(むすめ)がやってきて、道(みち)にまよったのでやどをかしてほしいといいます。娘(むすめ)は父親(ちちおや)の看病(かんびょう)や仕事(しごと)の手伝(てつだ)いまで、いろいろと助(たす)けてくれました。父親(ちちおや)がなくなったあと、そのままお嫁(よめ)さんになり、あかんぼが生(う)まれることになりました。よめはあかんぼを産(う)むあいだ、どんなことがあってもへやの中を見ないようにと言いました。がまんできずにのぞいてみると、大きな大蛇(だいじゃ)がトグロをまいていたのです。正体(しょうたい)を知(し)られたよめは、大きな池(いけ)の主(ぬし)の竜王(りゅうおう)の娘(むすめ)であることと、恩返(おんがえ)しをしにきていたことを打(う)ち明(あ)けました。あかんぼが泣(な)いたらこの玉(たま)をしゃぶらせてください、と言い残(のこ)して帰(かえ)っていきました。その不思議(ふしぎ)な玉(たま)をとりあげられてしまい、あかんぼが泣(な)きやまず途方(とほう)にくれた若(わか)ものは、池(いけ)まで行きもう一つ玉(たま)をもらいます。実(じつ)はこの玉(たま)は、母親(ははおや)の目玉(めだま)だったのです。母親(ははおや)はもう見えないので昼(ひる)と夜(よる)の区別(くべつ)がつくようにしてほしいと頼(たの)み、山のお寺(てら)の鐘(かね)を朝(あさ)・昼(ひる)・晩(ばん)とつくようになったそうです。

ケーンケーン・バータバタ

むかし、正直(しょうじき)なじいさまとばあさまがいました。ある日(ひ)のこと、ばあさまがじいさまの仕事(しごと)を手伝(てつだ)いに、山(やま)をのぼっていると「ケーンケーン・バータバタ、ばあばのしりぃひっつきてえ。」という声(こえ)が聞(き)こえてきました。こわくなったばあさまは、じいさまのところへ走(はし)っていって相談(そうだん)しました。 じいさまはわらって、それは山のきじだ。かえりも鳴(な)いたら、「ひっつきたけりゃあ ひっつけ。」と言えばいいといいました。夕方(ゆうがた)になり、ばあさまが山をおりていくと、また「ケーンケーン・バータバタ…」となくので、「ひっつきたけりゃあ、ひっつけ。」とどなりました。すると、ドサドサドサーッと、大(おお)きな音(おと)がして、ばあさまのおしりが重(おも)くなり、たくさんの小判(こばん)がひっついていたのです。 となりのばあさまはそれがうらやましくてしかたありません。さっそく山にのぼりはじめると、「ケーンケーン・コートコト、ばあばのしりぃひっつきてえ。」と鳴いたので、ここだと思ってどなったら、松やにがひっついてとれなくなってしまいました。そして、たいへん困(こま)ったということです。

さるとひきがえる

むかしある山に、ひきがえるとさるがいました。お正月(しょうがつ)なので、おもちをついたのですが、さるは半分(はんぶん)ずつ分(わ)けるのがおしくなり、ひとりじめしようと考(かんが)えます。そして、「もちをうすといっしょに転(ころ)がして、先に見つけたほうが食べることにしよう」というが早(はや)いか転(ころ)がして、まっ先に追(お)いかけていきました。しかし、とちゅうでうすから飛(と)び出したもちを、先に見つけたのはひきがえるでした。そしてもちを全部(ぜんぶ)食べてしまったのでした。

ねずみとねこ

むかしむかし、かみさまが「あしたのあさ、はやくきたどうぶつからじゅんに12ばんめまでを、『えと』のなかまに入れることにする。入りたいものは、早(はや)くくるように。」といいました。そこで牛は、夜中(よなか)から出発(しゅっぱつ)することにしました。その牛のつのに乗(の)ってきたねずみが、かみさまのところについたとき最初(さいしょ)にあいさつをしたので、ねずみが1番、牛が2番の順(じゅん)になったそうです。 ところがまえのばん、ねずみが「ねこさん、えとをきめるのは、あさってだよ。」と言ったので、ねこは一日遅(おく)れて行きました。かみさまは「なにをねぼけておるのだ。よう顔(かお)をあらって出なおしてこい。」としかりました。それから、ねこはねずみを目のかたきにしてつかまえるようになり、一日に何度(なんど)も顔(かお)を洗(あら)うようになったそうです。

ねずみのじょうど

ある日(ひ)のこと、お昼(ひる)になったので、じいさまは山(やま)のはたけでお弁当(べんとう)のだんごを食(た)べようとしました。すると、だんごがころげおちて木(き)のかぶのよこのあなにすとんと落(お)ちてしまいました。だんごをさがしにあなに入(はい)っていくと、うたが聞(き)こえてきたのです。中(なか)ではねずみたちがもちをついていました。うたにあわせておどりはじめたねずみたちが楽(たの)しそうなので、じいさまもいっしょになっておどりました。ねずみたちは、だんごのお礼(れい)にごちそうをしてくれ、ごはんがふえるふしぎなしゃもじをおみやげにくれました。 これをうらやましく思(おも)ったとなりのじいさまは、まねをして、だんごをもってでかけました。同(おな)じようにころげただんごをおいかけて、あなのなかにはいると、ねずみが「ねこさえ、おらにゃあ…」とうたいながらもちつきをしていました。そこで「ニャオー」とねこのなきまねをしたとたん、ぱっとあかりがきえ、となりのじいさまは土(つち)にうまってしまったそうです。

みそさざいのちえ

むかしむかし、とりのよりあいがあったとき、みそさざいは遅刻(ちこく)してしまいました。そのせいで、小さくて役(やく)に立たず、とみそさざいは他(ほか)のとりたちにばかにされてしまいました。くやしくて、なんとかして見返(みかえ)してやりたいと思ったみそさざいは、大きないのししをとってみせるから見(み)ているように、とみんなにいいます。すると、いのししはあばれまわってしんでしまいました。その耳(みみ)のなかから、みそさざいはぴょんととび出しました。これを見たみんなも感心(かんしん)して、もうみそさざいをばかにすることはなくなったそうです。

ものぐさ太郎とびんぼう神

むかし、あるところに、たいへんなまけものでびんぼうな、ものぐさ太郎(たろう)という男がいました。ある節分(せつぶん)の晩(ばん)、てんじょううらにかけたはしごがメキメキとなって、びんぼう神(がみ)がひょいっと降(お)りてきました。そして、長(なが)い間(あいだ)世話(せわ)になったお礼(れい)にいいことを教(おし)えてやろうといいました。あすの夜明(よあ)け前(まえ)に、宝物(たからもの)を積(つ)んだ馬(うま)が通(とお)るというのです。いちばん最初(さいしょ)の馬(うま)には金(きん)と銀(ぎん)が積(つ)んであり、2ばんめの馬(うま)はあやにしきのおり物(もの)、最後(さいご)の馬(うま)にはさんごやめのうが積(つ)んであるから、どの馬(うま)でもいいので、ぼうでなぐれば積(つ)んであるたからものは自分(じぶん)のものになるというのです。しかし、普段(ふだん)からのなまけぐせのせいでなかなか起(お)きることができず、一ばん先(さき)の馬(うま)は通(とお)りすぎでしまいます。それを知(し)らないものぐさ太郎(たろう)は、2ばんめの馬(うま)はぼうが長(なが)すぎてなぐれず、3ばんめの馬(うま)はぼうが短(みじ)かすぎてとどきませんでした。そのあとまた馬(うま)が走(はし)ってきたので、3ばんめの馬(うま)だと思(おも)ってなぐったら、ゆうべのびんぼう神(がみ)が「またおまえのところでせわになるか」と、おりてきたということです。

わらべうた
ほたるさん

「ほう ほう ほたるさん…」で始(はじ)まるわらべうた。

わらべうた
なかのなかの

「なかの なかの こぼんさん…」ではじまり、最後(さいご)に「うしろ だあれ」と歌(うた)う、わらべうたです。遊(あそ)びかたは、かごめかごめと同(おな)じです。歌(うた)のことばは、まわりをまわる人(ひと)と中(なか)の鬼(おに)と、かけ合(あ)いでいいます。「もどしもどしと」で反対方向(はんたいほうこう)にまわり、「うしろだあれ」で鬼(おに)が名前(なかえ)を当(あ)てます。

わらべうた
ぞうりかくし

ぞうりをかくす遊(あそ)びのはじめに、おにをきめるための歌(うた)です。「ぞうりかくし…」と歌(うた)いはじめ、最後(さいご)に「ちゅっちゅくちゅ」とうたいます。ぞうりを片方(かたほう)ずつ出して円(えん)になるように置(お)いて、この歌(うた)に合(あ)わせて一つずつおさえ、さいごの言葉(ことば)でおさえたぞうりをのけていきます。そして、さいごにのこったぞうりの持(も)ち主(ぬし)が、鬼(おに)になります。

わらべうた
さるが三びき

「さるが三びき とおって…」ではじまって、「アーンアーン ないたげな」と歌(うた)うわらべうたです。遊(あそ)びかたは、「お月さんなんぼ」のふしで歌(うた)います。名前(なまえ)のところは、そこにいる人ぜんぶの名(な)を次々(つぎつぎ)に言います。

猿むこ

むかしむかし、娘(むすめ)を三人(さんにん)持(も)ったじいさんがいました。ある夏(なつ)の日、畑仕事(はたけしごと)をしていたおじいさんはついうっかり、この畑(はたけ)を打(う)ってくれる者(もの)があれば娘(むすめ)を嫁(よめ)にやる、とひとりごとを言(い)ってしまいます。それを聞(き)いていた猿(さる)が、見(み)る間(ま)に畑(はたけ)を耕(たがや)し、娘(むすめ)を嫁(よめ)にもらいに行(い)くと言(い)い出(だ)したのです。じいさんは悩(なや)みますが、末(すえ)の娘(むすめ)が嫁(よめ)に行(い)くと言ってくれます。ただ、大きなつぼをじょうぶな負(お)い子(こ)にくくりつけたものを用意(ようい)してくれというのです。末娘(すえむすめ)は、猿(さる)にそれを背負(せお)っていってくれとたのみます。丸木橋(まるきばし)を渡(わた)っているとき、娘がうしろからどんとぶつかったひょうしに、猿(さる)は川(かわ)へ落(お)ち、つぼに水(みず)が入って押(お)し流(なが)されて行(い)ってしまいました。

蛇むこ入り

あるお金(かね)もちの主人(しゅじん)が、雨(あめ)を降(ふ)らせてくれたら自分(じぶん)の娘(むすめ)を嫁(よめ)にやるのに、とひとりごとをいいます。それを聞いていた白い蛇(へび)が雨を降(ふ)らせ、娘(むすめ)をむかえにきます。娘(むすめ)は、お母(かあ)さんの形見(かたみ)のかんざしと千成(せんな)りびょうたんを用意(ようい)してくれといいます。きれいな若者(わかもの)に化(ば)けて迎(むか)えにきた蛇(へび)は背中(せなか)にその千成(せんな)りびょうたんを結(むす)び、嫁(よめ)をつれて山の中の池(いけ)へと帰(かえ)っていきましたが、娘(むすめ)はかんざしを池(いけ)に投(な)げ入れ、蛇(へび)に拾(ひろ)ってもらっているあいだに逃(に)げます。その後(ご)、おばあさんにたすけられ、働(はたら)き口(ぐち)も頼(たの)んでもらいました。女中(じょちゅう)になり灰(はい)にまみれながらよく働(はたら)いたので、灰坊(はいぼう)とよばれかわいがられていました。ある日、その家(いえ)の若(わか)だんなが女中部屋(じょちゅうべや)をのぞき、きれいな若(わか)い娘(むすめ)を見かけ恋(こい)をします。そこで、若(わか)だんなの嫁(よめ)えらびが始(はじ)まり、その相手(あいて)が灰坊(はいぼう)だったことが分(わ)かります。娘(むすめ)はめでたく若(わか)だんなと結婚(けっこん)し、男の子も生まれたので里帰(さとがえ)りをし、みんな抱(だ)きあって喜(よろこ)んだということです。

炭焼き長者

昔(むかし)から、出雲(いずも)の神(かみ)さんは、国中(くにじゅう)の縁結(えんむす)びのお願(ねが)いを聞(き)き毎日(まいにち)忙(いそが)しく働(はたら)いていました。その神(かみ)さんの娘(むすめ)が30歳(さい)になっても縁組(えんぐ)みが決(き)まらないので、ついにおとうさんから、縁組(えんぐ)みの相手(あいて)は遠(とお)い山(やま)の中(なか)で炭(すみ)やきをしているびんぼうな男だと聞(き)き出します。そして男の住(す)む所(ところ)をさがしあて、夫婦(みようと)となり暮(く)らし始(はじ)めました。 何日(なんにち)かして、お米(こめ)がなくなり、売(う)りに行(い)く炭(すみ)もまだできていなかったので、男(おとこ)はお米(こめ)が買(か)えず困(こま)ったことだと言(い)うと、嫁(よめ)さんが紙(かみ)につつんだ金(きん)の粒(つぶ)をとりだし、これでお米(こめ)でもなんでも買(か)えるといいました。お金(かね)を使(つか)ったことのない男(おとこ)は、とちゅうで金(きん)の粒(つぶ)をぜんぶ魚(さかな)にやってしまい、米(こめ)が買(か)えずにもどってきます。嫁(よめ)さんはがっかりしましたが、男(おとこ)はそんな物(もん)なら炭焼(すみや)きがまの横(よこ)にたくさんあるから取(と)ってきてやるといいます。なんと、そこは金(きん)の出(で)る山(やま)で、金(きん)の石(いし)や砂(すな)がごろごろざくざくあったのです。こうして、ふたりは幸(しあわ)せに暮(くら)すようになりました。

お寺のかね

むかし、ナメクジに襲(おそ)われて命(いのち)をおとしそうになっている1匹(ぴき)の蛇(へび)を助(たす)けた、びんぼうな百姓(ひゃくしょう)の若(わか)ものがいました。ある日、色(いろ)の白(しろ)いきれいな若(わか)い娘(むすめ)がやってきて、道(みち)にまよったのでやどをかしてほしいといいます。娘(むすめ)は父親(ちちおや)の看病(かんびょう)や仕事(しごと)の手伝(てつだ)いまで、いろいろと助(たす)けてくれました。父親(ちちおや)がなくなったあと、そのままお嫁(よめ)さんになり、あかんぼが生(う)まれることになりました。よめはあかんぼを産(う)むあいだ、どんなことがあってもへやの中を見ないようにと言いました。がまんできずにのぞいてみると、大きな大蛇(だいじゃ)がトグロをまいていたのです。正体(しょうたい)を知(し)られたよめは、大きな池(いけ)の主(ぬし)の竜王(りゅうおう)の娘(むすめ)であることと、恩返(おんがえ)しをしにきていたことを打(う)ち明(あ)けました。あかんぼが泣(な)いたらこの玉(たま)をしゃぶらせてください、と言い残(のこ)して帰(かえ)っていきました。その不思議(ふしぎ)な玉(たま)をとりあげられてしまい、あかんぼが泣(な)きやまず途方(とほう)にくれた若(わか)ものは、池(いけ)まで行きもう一つ玉(たま)をもらいます。実(じつ)はこの玉(たま)は、母親(ははおや)の目玉(めだま)だったのです。母親(ははおや)はもう見えないので昼(ひる)と夜(よる)の区別(くべつ)がつくようにしてほしいと頼(たの)み、山のお寺(てら)の鐘(かね)を朝(あさ)・昼(ひる)・晩(ばん)とつくようになったそうです。

ケーンケーン・バータバタ

むかし、正直(しょうじき)なじいさまとばあさまがいました。ある日(ひ)のこと、ばあさまがじいさまの仕事(しごと)を手伝(てつだ)いに、山(やま)をのぼっていると「ケーンケーン・バータバタ、ばあばのしりぃひっつきてえ。」という声(こえ)が聞(き)こえてきました。こわくなったばあさまは、じいさまのところへ走(はし)っていって相談(そうだん)しました。 じいさまはわらって、それは山のきじだ。かえりも鳴(な)いたら、「ひっつきたけりゃあ ひっつけ。」と言えばいいといいました。夕方(ゆうがた)になり、ばあさまが山をおりていくと、また「ケーンケーン・バータバタ…」となくので、「ひっつきたけりゃあ、ひっつけ。」とどなりました。すると、ドサドサドサーッと、大(おお)きな音(おと)がして、ばあさまのおしりが重(おも)くなり、たくさんの小判(こばん)がひっついていたのです。 となりのばあさまはそれがうらやましくてしかたありません。さっそく山にのぼりはじめると、「ケーンケーン・コートコト、ばあばのしりぃひっつきてえ。」と鳴いたので、ここだと思ってどなったら、松やにがひっついてとれなくなってしまいました。そして、たいへん困(こま)ったということです。

ねずみのじょうど

ある日(ひ)のこと、お昼(ひる)になったので、じいさまは山(やま)のはたけでお弁当(べんとう)のだんごを食(た)べようとしました。すると、だんごがころげおちて木(き)のかぶのよこのあなにすとんと落(お)ちてしまいました。だんごをさがしにあなに入(はい)っていくと、うたが聞(き)こえてきたのです。中(なか)ではねずみたちがもちをついていました。うたにあわせておどりはじめたねずみたちが楽(たの)しそうなので、じいさまもいっしょになっておどりました。ねずみたちは、だんごのお礼(れい)にごちそうをしてくれ、ごはんがふえるふしぎなしゃもじをおみやげにくれました。 これをうらやましく思(おも)ったとなりのじいさまは、まねをして、だんごをもってでかけました。同(おな)じようにころげただんごをおいかけて、あなのなかにはいると、ねずみが「ねこさえ、おらにゃあ…」とうたいながらもちつきをしていました。そこで「ニャオー」とねこのなきまねをしたとたん、ぱっとあかりがきえ、となりのじいさまは土(つち)にうまってしまったそうです。

わらべうた
ほたるさん

「ほう ほう ほたるさん…」で始(はじ)まるわらべうた。

わらべうた
なかのなかの

「なかの なかの こぼんさん…」ではじまり、最後(さいご)に「うしろ だあれ」と歌(うた)う、わらべうたです。遊(あそ)びかたは、かごめかごめと同(おな)じです。歌(うた)のことばは、まわりをまわる人(ひと)と中(なか)の鬼(おに)と、かけ合(あ)いでいいます。「もどしもどしと」で反対方向(はんたいほうこう)にまわり、「うしろだあれ」で鬼(おに)が名前(なかえ)を当(あ)てます。

わらべうた
ぞうりかくし

ぞうりをかくす遊(あそ)びのはじめに、おにをきめるための歌(うた)です。「ぞうりかくし…」と歌(うた)いはじめ、最後(さいご)に「ちゅっちゅくちゅ」とうたいます。ぞうりを片方(かたほう)ずつ出して円(えん)になるように置(お)いて、この歌(うた)に合(あ)わせて一つずつおさえ、さいごの言葉(ことば)でおさえたぞうりをのけていきます。そして、さいごにのこったぞうりの持(も)ち主(ぬし)が、鬼(おに)になります。

わらべうた
さるが三びき

「さるが三びき とおって…」ではじまって、「アーンアーン ないたげな」と歌(うた)うわらべうたです。遊(あそ)びかたは、「お月さんなんぼ」のふしで歌(うた)います。名前(なまえ)のところは、そこにいる人ぜんぶの名(な)を次々(つぎつぎ)に言います。

猿むこ

むかしむかし、娘(むすめ)を三人(さんにん)持(も)ったじいさんがいました。ある夏(なつ)の日、畑仕事(はたけしごと)をしていたおじいさんはついうっかり、この畑(はたけ)を打(う)ってくれる者(もの)があれば娘(むすめ)を嫁(よめ)にやる、とひとりごとを言(い)ってしまいます。それを聞(き)いていた猿(さる)が、見(み)る間(ま)に畑(はたけ)を耕(たがや)し、娘(むすめ)を嫁(よめ)にもらいに行(い)くと言(い)い出(だ)したのです。じいさんは悩(なや)みますが、末(すえ)の娘(むすめ)が嫁(よめ)に行(い)くと言ってくれます。ただ、大きなつぼをじょうぶな負(お)い子(こ)にくくりつけたものを用意(ようい)してくれというのです。末娘(すえむすめ)は、猿(さる)にそれを背負(せお)っていってくれとたのみます。丸木橋(まるきばし)を渡(わた)っているとき、娘がうしろからどんとぶつかったひょうしに、猿(さる)は川(かわ)へ落(お)ち、つぼに水(みず)が入って押(お)し流(なが)されて行(い)ってしまいました。

助九郎松

桑市(くわいち)と立脇(たちわき)は、釣阪(つりさか)山をはさんでとなりあって、なかよくくらしていましたが、釣阪(つりさか)山にどちらの村も草や木を刈(か)りにゆくので境(さかい)をめぐる争(あらそ)いが起(お)きました。何回も話し合(あ)いましたが解決(かいけつ)せず、とうとう生野(いくの)の奉行所(ぶぎょうしょ)に訴(うった)えられることになり、裁判(さいばん)で桑市(くわいち)の勝(か)ちになりました。立脇(たちわき)では、自分(じぶん)たちの方が正(ただ)しいのに、桑市(くわいち)の庄屋(しょうや)助九郎(すけくろう)がいいように言(い)って、役人(やくにん)に信(しん)じさせたからだと言(い)っていると、助九郎(すけくろう)はある夜、何者(もの)かに殺(ころ)されてしまいました。桑市(くわいち)の人々は、裁判(さいばん)のことをうらんだ立脇(たちわき)の者(もの)がやったにちがいないと思い、助九郎(すけくろう)の墓(はか)のそばに植(う)えた松(まつ)の木の生きつづけるかぎり、立脇(たちわき)の者(もの)とは縁組(えんぐ)みをしないとちかい合(あ)いました。百年あまりたったころ、立脇(たちわき)のきたと桑市(くわいち)の甚六(じんろく)が近(ちか)くの村の庄屋(しょうや)へ奉公(ほうこう)に来ており、二人は結婚(けっこん)を約束(やくそく)していましたが、これを知ったきたの父親(ちちおや)は、きたを家につれもどし、結婚(けっこん)をあきらめるように甚六(じんろく)の家に手紙(てがみ)を出します。すると甚六(じんろく)の父親(ちちおや)は、甚六(じんろく)に嫁(よめ)がきまったと返事(へんじ)をしてきたので、これを聞いたきたは、食事(しょくじ)もあまり取(と)らず、床(とこ)につく日が多くなり、しばらくして死(し)んでしまいました。そして元気(げんき)をなくした甚六(じんろく)もある嵐(あらし)の夜、村を出て二度と帰(かえ)ってきませんでした。その夜が明けたとき、助九郎松(すけくろうまつ)が風にたおされていたので、ふたつの村の人たちはきたと甚(じん)六のことをあわれに思い、「庄屋(しょうや)さんも『そんなきまりをいつまでも守(まも)っておるな』と、あの松(まつ)をたおしたのだろう」と、なかのよい村にもどったそうです。

竹田城物語(一)千石岩

人と牛や馬(うま)の力だけしかなかった時代(じだい)に、三百メートルもの山上(さんじょう)に城(しろ)を築(きず)くということはたいへんなことで、竹田(たけだ)や和田山(わだやま)だけでなく、但馬(たじま)、鳥取(とっとり)や岡山(おかやま)からさえ人々を集(あつ)めたり、つらくても逃(に)げないように「夜逃(よに)げをした者は、一家(いっか)一族(いちぞく)死罪(しざい)にする。」というおふれを出したりして、竹田川原(たけだがわら)から石(いし)を集(あつ)めて山の上に運(はこ)ぶ仕事、山の上を削(けず)って平(たい)らにする仕事(しごと)、山の上で石垣(いしがき)を積(つ)んだり、土塁(どるい)を築(きず)いたり堀(ほり)を掘(ほ)ったりする仕事(しごと)などを人々にさせていました。城(しろ)の門(もん)をつくるのに大きな岩(いわ)がいるということで、竹田川原(たけだがわら)から大きな岩(いわ)を引き上げることになったのだそうですが、いろいろとやり方を変(か)えてみても、山の中腹(ちゅうふく)より先には上げることができず、築城奉行(ちくじょうぶぎょう)も諦(あきら)めてその石をその場(ば)に置(お)き捨(す)てにしたことがありました。この石をここまで引き上げるのに使(つか)ったお金を米にかえて計算(けいさん)すると千石(せんごく)にもなるというので「千石岩(せんごくいわ)」と名が付ついたそうです。

竹田城物語(二)みつばうつぎのなぞ

竹田城(たけだじょう)は高い山の上にあり、この山の上に水のわき出る所はありません。この竹田城(たけだじょう)の西裏(にしうら)にある大路山(おおじやま)の滝谷(たきだに)という所によい水のわく所がみつかり、そこから竹筒(たけづつ)をつないで水を送(おく)っていました。そしてこの水源(すいげん)や竹筒(たけづつ)を敵(てき)の目からかくすために、ここに今でも跡(あと)が残(のこ)る千願寺(せんがんじ)(後(のち)に千眼寺(せんがんじ)と書(か)くようになった)という寺を建(た)てました。「黄金千両(おうごんせんりょう) 銀千両(ぎんせんりょう) 城(しろ)のまわりを七まわり また七まわり七もどり 三つ葉(ば)うつぎのその下の 六三がやどの下にある」というなぞの歌(うた)が今に伝わっていて、これはきっと城(しろ)が落(お)ちたとき、金銀(きんぎん)や宝物(たからもの)を埋(う)めた場所(ばしょ)を教(おし)える暗号(あんごう)に違(ちが)いないと考えた人もあったそうですが、これは多分(たぶん)黄金(おうごん)にも銀(ぎん)にも代(か)えられないたいせつな水源(すいげん)や竹筒(たけづつ)のいとぐちのあり場所(ばしょ)を教(おし)えた暗号(あんごう)の歌(うた)だろうと考えられています。

竹田城物語 三谷が渕の白蛇

竹田城主(たけだじょうしゅ)太田垣氏(おおたがきし)の主君(しゅくん)である、出石城主(いずしじょうしゅ)の山名氏(やまなし)からの使者(ししゃ)が、ある日突然(とつぜん)やってきました。使者(ししゃ)をもてなした中にいた、奥方(おくがた)づきの絹巻(きぬまき)という娘(むすめ)が使者(ししゃ)の目にとまり、「あの娘(むすめ)をわたしどもの主(あるじ)の許(もと)へお譲(ゆず)り頂(いただ)けないか」と殿様(とのさま)に言い、殿様(とのさま)は早速(さっそく)絹巻(きぬまき)をよんで出石(いずし)へ行くように言い聞かせました。城(しろ)に住(す)む人との別(わか)れはつらく、また慕(した)っている城の若侍(わかざむらい)がいたのですが、殿様(とのさま)のいいつけはきかなければならないし、その若侍(わかざむらい)が自分(じぶん)を伴侶(はんりょ)としてくれるかどうかもわからず、絹巻(きぬまき)の胸(むね)のうちは乱(みだ)れていました。その夜はたいへんな嵐(あらし)になり、明け方嵐(あらし)はやみましたが、三谷(みたに)が渕(ふち)には絹巻(きぬまき)のかわいそうな姿(すがた)が浮(う)いていました。人々は絹巻(きぬまき)をあわれんで小さな祠(ほこら)をつくりその霊(れい)をとむらいました。その後(のち)この渕(ふち)に時おり白い蛇(へび)が姿(すがた)を見せるようになり、人々(ひとびと)はこの白い蛇(へび)を絹巻(きぬまき)の変身(へんしん)だとうわさしていました。ある夏、ひでりが続(つづ)いたので三谷(みたに)が渕(ふち)の水(みず)を取(と)ることになったとき、黒雲(くろくも)がわき起(お)こり大雨になりました。人々は、「絹巻(きぬまき)の白蛇(へび)が、三谷(みたに)が渕(ふち)の水(みず)がなくなって自分(じぶん)の姿(すがた)をさらすことを恥(は)ずかしく思って大雨を降らせてくれたのだ」と喜(よろこ)び、この祠(ほこら)を三谷神社(みたにじんじゃ)としてまつるようになりました。

竹田城物語(四)姫と竹やぶ

竹田城(たけだじょう)が攻(せ)められた時、殿様(とのさま)は娘(むすめ)の香津姫(かつひめ)に、宝物(たからもの)や立派(りっぱ)な衣装(いしょう)などを持(も)たせて、家老(かろう)の柳生氏(やぎうし)の所へ送(おく)り出しましたが、柳生氏(やぎうし)は姫(ひめ)の持(も)っていた宝物(たからもの)を横取(よこど)りし、窓(まど)から竹やぶしか見(み)ることができない土蔵(どぞう)の中へ姫(ひめ)を押(お)しこめ、さらに「城(しろ)が落(お)ちて殿様(とのさま)は行方(ゆくえ)知(し)れず、奥方(おくがた)も命(いのち)を落(お)とした」といううわさを聞(き)くと、姫(ひめ)の持(も)ち物(もの)をすべてはぎ取(と)り、ろくに食物(たべもの)も与(あた)えなくなりました。姫(ひめ)は「これまでの恩(おん)を忘(わす)れ、このような目(め)に合(あ)わせた罪(つみ)は許(ゆる)さない。この竹やぶの竹は、わたしの恨(うら)みによって一本一本枯(か)れて行(い)き、柳生(やぎう)家もそのように絶(た)やしてみせるぞ」と言(い)って自害(じがい)したのでした。その後(のち)、姫(ひめ)のことば通(どお)り、竹が一本枯(か)れるたび、柳生(やぎう)の家(いえ)では水死(すいし)、落馬(らくば)、病(やまい)、と一人ずつ死(し)んで行き、竹が最後(さいご)の一本になったとき、柳生(やぎう)家の最後(さいご)の一人は狂(くる)い死(じ)にして柳生(やぎう)家は絶(た)えてしまいました。村人は山根(やまね)の里(さと)に墓(はか)をつくって香津姫(かつひめ)をとむらい、今は虎御前(とらごぜん)とよばれる女の神様(かみさま)とされています。

竹田城物語(五)最後の殿様

竹田城の最後(さいご)の城主は赤松広秀(あかまつひろひで)といって、播州竜野(ばんしゅうたつの)の城主(じょうしゅ)赤松政秀(あかまつまさひで)の次男(じなん)でした。秀吉(ひでよし)のもとで手がらをあげた広秀(ひろひで)は、天正十三年(1585)二十四才で竹田城主(たけだじょうしゅ)となり二万二千石(ごく)を与(あた)えられました。竹田城主(たけだじょうしゅ)であったのは十五年間でしたが、学問(がくもん)を好(この)み、その頃(ころ)国内第一(こくないだいいち)の学者(がくしゃ)といわれていた藤原惺窩(ふじわらのせいか)と親友(しんゆう)でした。また、凶作(きょうさく)の時には年貢(ねんぐ)を三年間免除(めんじょ)したり、養蚕(ようさん)や絹織物(きぬおりもの)を奨励(しょうれい)するなど、よい政治(せいじ)をして領民(りょうみん)に慕(した)われていました。しかし関ヶ原(せきがはら)の合戦(かっせん)の時、広秀(ひろひで)は石田三成(いしだみつなり)に味方(みかた)をしたので徳川家康(とくがわいえやす)に憎(にく)まれて、そのあと家康(いえやす)が鳥取城(とっとりじょう)を攻(せ)めたとき、広秀(ひろひで)も鳥取攻(とっとりぜ)めに加(くわ)わって戦(たたか)いましたが、火攻(ひぜ)めをしたというぬれぎぬをきせられて切腹(せっぷく)し、三十九才という若(わか)さで亡(な)くなりました。今、赤松広秀(あかまつひろひで)は虎臥大明神(とらふすだいみょうじん)として祭(まつ)られ、毎年(まいとし)四月二十八日に例祭(れいさい)、五十年毎(ごと)に大祭(おおまつり)が行(おこ)なわれます。竹田辺(たけだへん)の人たちは、親(した)しみをこめて「赤松(あかまつ)さん」とよんでいます。

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