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兵庫ゆかりの作家

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おおた なんぽ大田 南畝

  • 寛延2~文政6
  • ジャンル: 狂歌・狂詩・洒落本・黄表紙作者
  • 出身:江戸牛込仲御徒町

PROFILE

【兵庫県との関係】
文化元年(1804)長崎奉行所勤務を命ぜられ、7月25日江戸を出発、9月10日長崎着。その間8月18日大坂から陸路尼崎に入り西行、21日室津から船に乗って瀬戸内海を岡山方面へ向かった。この時の紀行(大坂~小倉間)が『革令紀行』。翌年任期を終えて10月10日長崎をたち、11月19日江戸に帰ったが、この時は10月28日備前から梨ヶ原に入って東上、11月1日西宮から陸路大坂に着いた。この帰路の旅は『小春紀行』に記される。公用の旅であるが、途中名所旧跡など訪ねられる所には足を延ばし、道中の見聞を記録している。『小春紀行』では道中の詩歌を巻末に附録として集めている。
【略歴】
幕臣としては最下級に属する御徒(おかち)の子として生まれた。当時の制度では家柄による出世が望めないため、学問や詩文で身を立てようとして勉学、少年のころから優れた才能を発揮した。一方滑稽にも長じ、明和4年(1767)刊の狂詩集『寝惚先生文集』で一躍有名となる。以後安永、天明期には狂詩、狂歌、洒落本、黄表紙など当時の江戸で流行した俗文学のあらゆる分野で活躍し、特に狂歌では四方赤良(よものあから)の狂名で中心人物として重んじられ、「山の手の大先生」と呼ばれた。
寛政改革で人材登用の道が開かれると、学問吟味を受けて目見え以下の主席で及第。中級官吏として公務に精励した。かたわら詩文や一時廃した狂歌に遊び、文名は全国に聞こえた。享和元年(1801)大坂銅座勤務となった際、銅の異名「蜀山居士」にちなんで「蜀山人」と号する。この名が最も有名なものとなった。
                                  

逝去地
江戸駿河台
兵庫県との関係
訪問
もっと詳しく知るために
大田南畝全集 1985-2000 昭和60年?平成12年 岩波書店
寝惚先生文集 狂歌才蔵集 四方のあか(新日本古典文学大系84) 1993 平成5年 岩波書店
大田南畝 浜田義一郎/著 1963 昭和38年 吉川弘文館

代表作品

作品名刊行年版元備考
寝惚先生文集(狂詩集)1767
甲駅新話(洒落本)1775
万載狂歌集(狂歌撰集)1783
革令紀行(紀行文・自筆本)1804
小春紀行(紀行文・写本)1805
杏園詩集(漢詩集)1820
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