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やまが そこう山鹿 素行

  • 元和8~貞享2
  • ジャンル: 儒学者・軍学者
  • 出身:会津若松

PROFILE

【兵庫県との関係・略歴】
幼名左太郎のち文三郎、字は子敬、通称甚五左衛門。素行は号。別号は播陽隠士・播叟・潜夫など。元和8年(1622)会津若松に生まれ、6歳で江戸に移住。9歳にして林羅山に儒学を学ぶ。さらに小幡景憲と北条氏長に甲州流軍学、広田担斎に歌学と忌部神道、高野按察院光宥に両部習合神道を学ぶ。儒学は既に18歳の時『四書諺解』を完成し、また同年神道を光宥より伝授され、兵学においては寛永19年(1642)21歳の時景憲より印可を受け、『兵法神武雄備集』を著し、これにより兵学者として名声を高めた。正保3年(1646)には桑名藩主松平越中守定綱が素行の兵学に信服して弟子となり、また浅野内匠頭長直はじめ列侯諸士が素行に学んだ。承応元年(1652)31歳で赤穂藩主浅野長直に仕えて千石、赤穂城の縄張改め、江戸藩邸での兵学教授となり、『聖教要録』『治教要録』『武教要録』『兵法或問』などを著し、朱子学を奉じて聖学・実学を説いた。万治三年には禄を辞した。寛文2年(1662)には朱子学から古学への転向が遂げられ、寛文5年『山鹿語類』成る。翌寛文6年、45歳の時、素行の著書『聖教要録』が不届きなる書物として弾圧され赤穂に配流された。これは保科正之の個人的意向によるもので、正之没後三年半足らずで延宝3年(1675)赦免され、江戸に帰着。その後は平戸松浦家の援助をうけ、貞享2年(1685)64歳で病没した。
山鹿素行と大石内蔵助らの吉良邸討入りとのかかわりであるが、討ち入りに際し、大石は山鹿流の陣太鼓を打ち鳴らしたとの巷説が流布しているばかりでなく、太宰春台『赤穂四十六士論』には「初め山鹿氏、兵法を談ずるを以て、赤穂侯に事ふ。良雄之れに従て学ぶ。吉良子を殺すを謀るに及んで、悉く其の法を用ふ。」とあり、佐藤直方『復讐論』にも、「内匠家、素より山鹿氏が軍法を尊み、大石を初、此教を学ぶ。」とあるように、当時の学者も赤穂浪士の討入りを素行の教育・学説の影響によるものと見なしていたのである。しかし、そのような史実は確認されず、否定すべきであるという(堀勇雄『山鹿素行』)。

逝去地
江戸
兵庫県との関係
居住 赤穗
もっと詳しく知るために
日本思想大系・山鹿素行 田原嗣郎・守本順一郎 1970 昭和45年 岩波書店
人物叢書・山鹿素行 堀勇雄 1958 昭和33年 吉川弘文館
山鹿素行全集思想篇 広瀬豊 1940-1942 昭和15年 岩波書店

代表作品

作品名刊行年版元備考
兵法神武雄備集(兵法書)1642収録:『山鹿素行全集思想篇』
聖教要録(儒学)1665収録:『日本思想大系・山鹿素行』
山鹿語類(儒学)1665収録:『山鹿素行全集思想篇』
中朝事実(儒学)1669収録:『山鹿素行全集思想篇』
武家事紀(士道論)1673収録:『山鹿素行全集思想篇』
配所残筆(自叙伝)1675収録:『日本思想大系・山鹿素行』

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