わつじ てつろう和辻 哲郎
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明治22~昭和35
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ジャンル:
哲学者
- 出身:姫路市仁豊野
PROFILE
兵庫県姫路市に生まれる。兵庫県ゆかりの作品に『自叙伝の試み』がある。詳しい内容は姫路文学館(姫路市山野井町84、0792-93-8228)に常設展示がある。和辻哲郎の人と業績について、原稿,写真,初版本,愛用品などをまじえて展示。和辻哲郎(1889-1960)明治22-昭和35 哲学者。兵庫県神崎郡砥堀村仁豊野(現在の姫路市仁豊野)生れ。東京帝国大学で哲学を学ぶ。在学中、第2次「新思潮」に参加、卒業後も漱石山房に出入りするなど文学者を志した。その一方で実存哲学研究に先駆的業績を挙げ、その後、文学史、倫理学と学者の方向に専心することになった。日本人としての立場から人間と文化への考察を進めて独創的な倫理学を完成。京都帝国大学文学部教授、東京帝国大学文学部教授を歴任。学士院会員。日本倫理学会を創立(1950)、文化勲章受章(1955)。著作は『ニイチェ研究』『ゼエレン・キェルケゴオル』『古寺巡礼』『風土』『日本古代文化』『原始仏教の実践哲学』『日本精神史研究』『鎖国』『倫理学』『日本倫理思想史』『桂離宮』『国民統合の象徴』など。このうち、特に有名なのは『古寺巡礼』(1919)、『風土』(1935)である。『古寺巡礼』は、奈良飛鳥の古寺の仏像の美しさをひろく世間に知らせ、今日の古寺めぐりブームのもとになった古典である。また『風土』は、東アジア、南アジア、西アジア、ヨーロッパ各地域の風土的特性と、それぞれの地域文化の伝統的特質の関係について哲学的に考察した著作。 (世界百科事典より引用、一部加筆。)
《 略年譜 》
年 | 年齢 | 事項 |
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1889 | 0 | 3月1日、兵庫県神崎郡砥堀村仁豊野(現在の姫路市仁豊野)の医家の次男として生まれる。祖父・見竜、父・瑞太郎、母・政、家業を継いだ兄・竜太郎、弟(夭折)、妹3人(1人は夭折)の家族。 |
1895 | 6 | 兵庫県神崎町砥堀尋常小学校に入学。神戸ではじめて歌舞伎をみる。この時見た「恋女房染分手綱」の印象は、晩年の「歌舞伎と操浄瑠璃」執筆のきっかけとなった。 |
1899 | 10 | 兵庫県加古郡鳩里村北在家刀田山鶴林寺内宝生院の加古高等小学校入学。預けられた親戚の家から1年あまり通学。 |
1900 | 11 | 姫路市城東尋常高等小学校へ転校。以後中学を通じて6年間、1里半余り(約6キロ)の道を徒歩通学。 |
1901 | 12 | 兵庫県立姫路中学校に入学。 |
1902 | 13 | 蘆花の『思出の記』を読み、以後小説、詩を読みふける。 |
1906 | 17 | 3月末、上京。魚住影雄(折蘆)を知る。9月、第一高等学校に入学。 |
1907 | 18 | 一高の「校友会雑誌」に創作「炎の柱」、論説「霊的本能主義」を発表。 |
1908 | 19 | 1月末より文芸部委員となる。論説「精神を失ひたる校風」。 |
1909 | 20 | 7月、第一高等学校を卒業。9月、東京帝国大学文科大学哲学科に入学。哲学・哲学史専攻。在学中は、大塚保治教授の「最近欧州文芸史」、岡倉天心講師の「秦東巧芸史」を聴講、感銘を受ける。谷崎潤一郎、小山内薫らと交流。文学・文芸に積極的にかかわる。 |
1911 | 22 | 秋、木村壮太にさそわれて浅草新片町に初めて島崎藤村を訪ねる。 |
1912 | 23 | 6月、高瀬照と結婚、大森に新家庭を営む。7月、東京帝国大学文科大学卒業。 |
1913 | 24 | 10月、帝国劇場の廊下で夏目漱石に紹介され、11月頃より漱石山房を訪ねるようになる。 |
1914 | 25 | 2月、長女京子誕生。秋の末ごろ、キルケゴールに関心を深める。 |
1915 | 26 | 6月、神奈川県藤沢町鵠沼に転居。 |
1918 | 29 | 6月、東京市芝区三田綱町に転居。 |
1920 | 31 | 5月、東洋大学教授就任。 |
1921 | 32 | 3月、東京市外千駄ヶ谷町に転居。6月、長男・夏彦誕生。このころより岩波書店の雑誌「思想」の編集に参加。また、数年間、露伴から俳諧の指導を受けた。 |
1922 | 33 | 4月より、法政大学,慶応義塾大学,女子英学塾(現:津田塾大学)でも教鞭をとる。 |
1924 | 35 | 3月、東京市外中野町桐ヶ谷に転居。4月、法政大学文学部主任教授就任。 |
1925 | 36 | 3月、京都帝国大学文学部講師となる。京都市左京区鹿ヶ谷に転居、8月若王子に移る。7月、京都帝国大学助教授に就任、倫理学担当。 |
1927 | 38 | 1月、道徳思想史研究のため3年間の予定でドイツへ留学決定。2月17日出発。4月上旬、留学地のベルリン着。12月上旬、パリを出発。12日イタリアのジェノアに入る。 |
1928 | 39 | 1月から3月末まで、ローマ,ナポリ,シチリア,フィレンツェ,ボローニャ,ラヴェンナ,パドヴァ,ヴェネチアと旅行。7月初、予定より早く帰国。 |
1931 | 42 | 3月、京都帝国大学文学部教授に就任。 |
1932 | 43 | 7月、『原始仏教の実践哲学』を学位論文として博士号を得る。 |
1934 | 45 | 7月、東京帝国大学文学部教授に就任。本郷区駒込西片町に転居。 |
1938 | 49 | 12月、練馬の新居に移転。「相模の大山の麓」にあった田舎家を改造して建てた。この家が終生の住居となる。 |
1940 | 51 | 5月、高坂正顕,金子武蔵の協力を得て、岩波講座『倫理学』の編集にあたる。 |
1945 | 56 | 3月、山中謙二,金子武蔵,矢島羊吉,古川哲史,筧泰彦,勝部真長などをメンバーとして「近世というものを初めから考えなおしてみる」研究会を開始、19回目で終戦を迎えたが、翌年2月まで続行。 |
1947 | 58 | この年より1949年にかけて、佐々木惣一と国体変更論争を行なう。 |
1948 | 59 | 7月、生成会の創立に参加、機関誌「心」発刊とともに編集委員となる。 |
1949 | 60 | 3月、停年により東京大学教授を退任。11月、学士院会員となる。 |
1950 | 61 | 11月、倫理に関する研究およびその普及を図ることを目的とし、日本倫理学会成立。初代会長に推される。 |
1951 | 62 | 10月、『鎖国』に対して読売文芸賞。 |
1953 | 64 | 11月、『日本倫理思想史』に対して毎日出版文化賞。 |
1955 | 66 | 11月3日、文化勲章をうける。 |
1959 | 70 | 元旦の朝のNHKテレビに出演、安倍能成と対談。 |
1960 | 71 | 2月、心筋梗塞の発作。6月より10月ごろまで小康を保つが、12月26日、練馬の自宅で死去。 |
1961 | | 2月、北鎌倉の東慶寺にて納骨式が行われた。 |
- 逝去地
- 東京練馬の自宅
- 兵庫県との関係
- 生誕 兵庫県神崎郡砥堀村仁豊野(現在の姫路市仁豊野)
代表作品
作品名 | 刊行年 | 版元 | 備考 |
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ニイチェ研究 | 1913 | 内田老鶴圃 | |
ゼエレン・キェルケゴオル | 1915 | 内田老鶴圃 | |
偶像再興 | 1918 | 岩波書店 | |
古寺巡礼 | 1919 | 岩波書店 | |
日本古代文化 | 1920 | 岩波書店 | |
日本精神史研究 | 1926 | 岩波書店 | |
原始仏教の実践哲学 | 1927 | 岩波書店 | |
人間の学としての倫理学 | 1934 | 岩波書店 | |
風土―人間学的考察 | 1935 | 岩波書店 | |
続日本精神史研究 | 1935 | 岩波書店 | |
倫理学 上巻 | 1937 | 岩波書店 | |
面とペルソナ | 1937 | 岩波書店 | |
人格と人類性 | 1938 | 岩波書店 | |
倫理学 中巻 | 1942 | 岩波書店 | |
倫理学 下巻 | 1947 | 岩波書店 | |
国民統合の象徴 | 1948 | 勁草書房 | |
鎖国―日本の悲劇 | 1950 | 筑摩書房 | |
日本倫理思想史 上巻・下巻 | 1952 | 岩波書店 | |
日本芸術史研究 第一巻―歌舞伎と操浄瑠璃 | 1955 | 岩波書店 | |
桂離宮―製作過程の考察 | 1955 | 中央公論社 | |
自叙伝の試み | 1961 | 中央公論社 | |
関連情報
受賞歴
受賞年 | 受賞内容 | 受賞作品 |
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1950 | 第2回読売文学賞 文学研究賞 | 「鎖国」 |
1953 | 1953年度 毎日出版文化賞 | 「日本倫理思想史」 |
1955 | 文化勲章 | |
1960 | 従三位勲一等瑞宝章 | |
兵庫ゆかりの作品
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