みやもと ゆりこ宮本 百合子
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明治32~昭和26
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ジャンル:
小説家・評論家
- 出身:東京市小石川区
PROFILE
兵庫県が舞台の作品に『播州平野』がある。 1899年2月13日、東京・文京区(現在)に生まれました。旧姓・中條。作家・思想家。 百合子は、十七歳のとき「貧しき人々の群」で文壇に鮮烈にデビューし、女性の自立を追求した作品「伸子」を発表した後、1928年新しい発展をもとめてソ連、ヨーロッパで生活。30年帰国するとまもなく、プロレタリア文学運動に参加し、31年10月には日本共産党に入党。侵略戦争と治安維持法が猛威をふるった暗黒の時代に「一九三二年の春」「刻々」「乳房」などを書きました。その後も、たびかさなる検挙、投獄、執筆禁止の迫害に抗して時局を批判する創作や発言をつづけ、また、夫宮本顕治の12年にわたる不屈の獄中闘争をささえました。そのたたかいは、野蛮な権力によっても打ちひしがれることのなかった理性と良心のあかしとなり、戦後の百合子の飛躍、発展を準備するものともなりました。 百合子は、戦後せきを切ったように執筆活動、発言を開始。民主主義文学運動・婦人運動の先頭に立ちました。そのなかで「播州平野」「風知草」「二つの庭」「道標」などの小説でだれよりも早く新しい世界と人々を描き、また女性の解放、平和のためのたたかいに献身しつづけました。 しかし、文学的にも人生の上でもこれからというとき、1951年1月21日、五十一歳で急逝しました。 百合子は、停滞ということを知らない人でした。戦前の半封建的な制度のもとでの女性にたいする抑圧に苦しみ、侵略戦争のもとでの野蛮な弾圧を受けながらも、正面からこれらに立ち向かい、人間として、作家として、思想家として絶えず成長し、発展していきました。彼女の生涯と文学 ― この新しい全集に収められた小説、評論、感想、日記、手紙などのすべては、いつも私たちを励まし“いかに生きるべきか”“何をなすべきか”を考えさせてくれます。 http://www.shinnihon-net.co.jp/profile/intro.html
《 略年譜 》
年 | 年齢 | 事項 |
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1899 | 0 | 2月13日、父中條精一郎、母葭江の長女として東京市小石川区小石川原町に生れた。本名ユリ。10月、父が札幌農学校の講師嘱託となったので両親と札幌にゆき、二年半暮した。 |
1908 | 9 | 父精一郎は文部省技師をやめて工学博士曽禰達蔵と「曽禰・中條建築事務所」を創立。 |
1911 | 12 | 東京市本郷区の誠之尋常小学校を卒業、お茶の水高等女学校に入学。 |
1916 | 17 | 「中央公論」9月号に「貧しき人々の群」を発表。この年お茶の水高等女学校を卒業し、日本女子大学英文科予科に入学したが、一学期で中退。 |
1917 | 18 | 「日は輝けり」「禰宜様宮田」を発表。『貧しき人々の群』刊行。 |
1918 | 19 | 5月、北海道にゆき父の知人の英国人バチェラー博士の家に滞在。8月までアイヌ村を歩き「風に乗って来るコロポックル」を執筆。9月、父とともにアメリカヘゆき、ニューヨークで第一次世界大戦終結をむかえる。 |
1919 | 20 | コロンビア大学聴講生となる。10月、ニューヨークで荒木茂(古代東洋語研究家)と結婚。「美しき月夜」「渋谷家の始祖」を執筆。12月単身帰国。 |
1920 | 21 | 4月、荒木茂帰国し、百合子の実家に同居す。9月、駒込片町に家をもつ。 |
1922 | 23 | 3月、野上弥生子をはじめて訪問。7月、ロシア飢饉救済婦人有志会の発起人となる。 |
1924 | 25 | 春、湯浅芳子を知る。「伸子」をかきはじめる。秋、荒木と離婚。 |
1925 | 26 | 3月、小石川区高田老松町に湯浅とともに暮し「伸子」をかきつづける。 |
1927 | 28 | 前年の「一太と母」「小村淡彩」についで、この年「一本の花」を執筆。三年間かきつづけた『伸子』の推敲をおえて12月、湯浅とともにソヴェトにゆく。 |
1928 | 29 | 『伸子』刊行。8月1日故国で次弟英男自殺す。9月、ゴーリキーに会う。 |
1929 | 30 | 4月末から11月末までワルシャワ、ウィーン、ベルリン、パリ、ロンドン各地にゆく。7月、マルセーユで故国からの父母弟妹を迎えた。 |
1930 | 31 | 「モスクワ印象記」「ロンドン一九二九年」「子供・子供・子供のモスクワ」等執筆。11月湯浅とともに帰国。12月、日本プロレタリア作家同盟に加盟。 |
1931 | 32 | 2月『新しきシベリアを横切る』刊行。7月、作家同盟常任中央委員に選出さる。この夏宮本顕治を知る。10月、日本共産党に入党。11月、日本プロレタリア文化連盟創立と共にその中央協議会委員ならびに婦人協議会責任者、「働く婦人」編集責任者となる。 |
1932 | 33 | 2月、宮本顕治と結婚、本部区動坂町に家をもった。4月、文化団体弾圧のため駒込署に検挙され、顕治は地下活動に入る。6月末釈放された百合子は9月渋谷署に再び検挙さる。10月末、弟国男夫妻とともに四谷区東信濃町に移る。 |
1933 | 34 | 「刻々」等を執筆。12月、顕治麹町署に検挙さる。 |
1934 | 35 | 「小祝の一家」「鏡餅」「冬を越す蕾」等を執筆。1月、山口県の顕治の実家にはじめてゆき、顕治の母を伴って帰京し、顕治に面会させる。1月下旬駒込署に検挙。6月13日母葭江危篤のため釈放。15分後母死去。母の死後弟夫妻とともに実家に移ったが、11月淀橋区上落合に転居。12月、市ケ谷刑務所に送られた顕治と一年ぶりに対面す。同月末、宮本家に入籍。 |
1935 | 36 | 『冬を越す蕾』刊行。「乳房」発表後、5月淀橋署に検挙。10月市ケ谷刑務所に入獄。 |
1936 | 37 | 「鴎外・漱石・藤村など」「雑沓」執筆。1月末、父精一郎急死。葬儀のため五日間執行停止となる。3月下旬予審終結、健康悪化のため保釈出獄。6月公判、懲役二年執行猶予四年。 |
1937 | 38 | 「猫車」「山本有三氏の境地」「海流」「今日の文学の展望」「藤村の文学にうつる自然」「道づれ」等小説六篇、八十篇近い評論・感想の執筆とこの年精力的に仕事す。1月、豊島区目白へ移転。6月、巣鴨の東京拘置所に移された顕治が夏、腸結核を患う。10月17日の顕治誕生日にあたり筆名を宮本百合子に改める。 |
1938 | 39 | 1月から翌年春まで執筆禁止。翻訳の下請などをす。6月顕治の父死去。12月急性盲腸炎のため慶応病院で手術す。 |
1939 | 40 | 3月、「その年」をかいたが、内務省の検閲で発表できず。「杉垣」「おもかげ」「広場」等執筆。4月、顕治の弟出征。7月、顕治の公判始まったが、喀血したため公判分離さる。 |
1940 | 41 | 『明日への精神』『朝の風』『三月の第四日曜』刊行。「昔の火事」「昭和の十四年間」等、小説四篇と九十篇近い評論・感想を執筆。 |
1941 | 42 | 2月から再び執筆禁止。12月9日、太平洋戦争突入の翌日理由不明で駒込署に検挙。 |
1942 | 43 | 3月、検事拘留のまま東京拘置所に送られた。7月熱射病のため昏倒、人事不省のまま執行停止で出獄。三日後、少しずつ意識を回復したが、視力障害、言語障害がつづく。 |
1943 | 44 | 作品はひきつづき発表禁止。2月はじめて外出、4月顕治に面会、検事局の取調を受く。 |
1944 | 45 | 弟の家族疎開し、林町の弟の家を百合子があずかる。6月、顕治の公判始まり百合子傍聴をつづける。12月5日第一審無期懲役求刑。大審院に上告。 |
1945 | 46 | 5月、顕治の上告棄却され、6月網走刑務所におくられた。百合子網走で暮す決意し、7月福島県郡山の弟のところまで行ったがすでに青函連絡船は不通。8月15日郡山で終戦を迎える。顕治の弟広島の原爆で行方不明となる。9月百合子山口へゆき10月12日帰京。治安維持法撤廃で解放された顕治10月14日帰京。新日本文学会、婦人民主クラブ設立のため働く。 |
1946 | 47 | 「歌声よ、おこれ」「播州平野」「風知草」を発表。日本共産党第五回大会で中央委員候補となる。新日本文学会中央委員、婦人民主クラブ、日ソ文化連絡協会幹事、放送委員会常任委員、出版協会文化委員会委員(用紙割当委員会)をつとめ、日本著作家組合結成にもつくす。 |
1947 | 48 | 「二つの庭」を完結し「道標」を執筆。「播州平野」「風知草」毎日出版文化賞を受く。夏、過労のため身体をこわし千葉県長者町で静養す。 |
1948 | 49 | 「道標」をかきつづけながら反戦平和の筆陣をはる。12月25日新日本文学会の文芸講演会で「平和運動と文学者」を講演。その後医師より臥床、安静、面会の制限を課せらる。 |
1949 | 50 | 「道標」を執筆。6月より第三部をかきつぐ。自宅養生しながら平和への発言を強める。 |
1950 | 51 | 『十二年の手紙』その一刊行。2月、顕治九州に長期出張。6月日本共産党中央委員会に対し占領軍の公職追放令。10月「道標」第三部完結。12月8日東京大学戦没学生記念の集会に出席、講演。 |
1951 | 51 | 1月21日電撃性髄膜炎菌敗血症により死去。51歳であった。 |
1953 | | 1月、宮本百合子全集全十五巻(河出書房)完結。(大森寿恵子編) |
- 逝去地
- 東京
- 兵庫県との関係
- 舞台 『播州平野』
代表作品
作品名 | 刊行年 | 版元 | 備考 |
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貧しき人々の群 | 1917 | 玄文社 | |
一つの芽生(新進作家叢書11) | 1918 | 新潮社 | |
伸子 | 1928 | 改造社 | |
乳房 | 1937 | 竹村書房 | |
三月の第四日曜 | 1940 | 金星社 | |
朝の風 | 1940 | 河出書房 | |
おもかげ | 1943 | 新星社 | |
播州平野 | 1947 | 河出書房 | |
風知草 | 1947 | 文藝春秋新社 | |
二つの庭 | 1948 | 中央公論社 | |
道標 | 1958 | 筑摩書房 | |
関連情報
場所 | 説明 | 内容 |
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兵庫県姫路市岡町 | 「播州平野」文学碑碑陰不明 | 宮本百合子『播州平野』から抑揚の野白鷺城の壕に沿ってた大通りは、今朝も森閑として、長雨に洗い出されたかたい小石がちのひろい路が、清潔に寂しく通っている。遠く東に六甲あたりかと思はれる山並みが浮んでいる。空に軽い白雲が漂っていて、荷馬車にゆられながらそれを眺めているひろ子の心をしずめた。 播州平野1946・7・26 |
受賞歴
受賞年 | 受賞内容 | 受賞作品 |
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1947 | 毎日出版文化賞 | 「播州平野」「風知草」 |
兵庫ゆかりの作品
作品名 |
刊行年 |
版元 |
播州平野
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1947 |
河出書房 |
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