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兵庫ゆかりの文学

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わつじ てつろう和辻 哲郎

  • 明治22~昭和35(1889~1960)
  • ジャンル: 哲学者
  • 出身:姫路市仁豊野

作品名

村の子

概要

(前略)
竹馬、ねッき、どんぐりの獨樂などのほかに、なほ自分たちで作つたおもちやがある。鞘から抜くことの出來る刀などもその一つである。松とか樫とかの若木で、芽立ちの勢がよく、一年の間に二尺位もすくすくと延びたのがある。最後に枝の岐れてゐるところを鯉口にし、そこから尖端までの二尺ほどの間の樹皮を、鞘に仕立てるのである。そのやり方は、この部分の樹皮を小石で靜かに柔かく万滿遍なく敲くのである。やがて樹皮と幹との間が緩んで來て、幹が皮の中で動くやうになる。それでも枝が途中で出てゐれば、それが邪魔になつて抜けないのであるが、この部分は最後の枝から先で、もはや枝は出てゐないのであるから、すつぽりと抜けることになる。そこで最初の枝の岐れ目より下二三寸のところをつかに仕立て、枝の岐れ目から尖端まで、今すつぽりと抜け出て來た部分を刀身として磨き上げるのである。この細工のためには松や樫の若木よりももつとやり易い木があつたやうに思ふが、今その名が思ひ出せない。
がさういふおもちゃの製作に劣らず子供の心を興奮させたのは、實際の用に供するための自然物の採集であつた。柏餠に使ふための柏の葉の採集などがその代表的なものであつた。
柏餠は元來端午の節物だといふことであるから、季節的には舊暦の五月の初め、即ち新暦の六月の初めと結びついてゐる。新暦の五月五日の頃には、柏は芽をふいたばかりで、いかにも美しくはあるが、その葉は餠を包む用には立たない。その葉がだんだんのびて、柏の葉らしく大きく開展してくるのは、新暦の六月の初めなのである。その頃には、櫟や柏などの雑木の山は、いかにも賑やかに、お祭のやうな氣分になる。春蝉もしきりに鳴いてくれる。その中へ入つて行つて、柏の木を探して、大きい柏の葉を籠一杯取つてくる時の楽しさは、年を取つてからの人生には、一寸見當らないほどのものである。
がわたくしの記憶には、柏の葉を自由に採集して來ることを控へなくてはならなくなつて、代りにやきもちばらの葉を集めて來たことがある。柏の葉だと中に包んだ餠にくつつかないが、やきもちばらの葉は餠にくつついてうまく取れない。その點からやきもちばらといふ名が起つたのだとすると、このばらの葉で餠を包むことも古くから行はれてゐたことになるが、わたくしの受けてゐる印象では、柏の葉を使ふのが本式で、ばらの葉はあくまでも代用に過ぎなかつたやうに思ふ。或はわたくしの子供の頃に、わたくしの村あたりで、櫟や柏の木が急に減つて行くといふ事情があつたのかも知れない。
柏の葉が餠を包むといふだけでそれほど魅力をもつたのであるから、わらび、つくし、茸などのやうに、實際に食用になる自然物の採集が、非常に楽しいものに思はれたのは、無理もないであらう。栗拾ひや椎の實拾ひなどが出來れば、それも同じやうに楽しかつたであらうが、わたくしの村には栗の樹の山や椎の樹の山はなかつた。わらびも、少し山をのぼるか、奥深く入るか、しなくてはならなかつたので、あまり度々取りには行かなかつたやうに思ふ。有頂天になつて沒頭したのは、春先のつくし取りと、秋の茸狩りとであつた。
つくしは村の周圍の土手とか畦とかで見つけてゐたので、一時に堪能するほど澤山取つたことはなかつたやうに思ふ。村から七八町離れた川原へ行くと、取り切れない位群生してゐる、といふことを發見したのは、數へ年十三歳の四月、中學の入學試驗に及第して、急に一週間ほど休暇がふえた時であつた。がその頃にはもうつくし取りにあまり熱心ではなくなつてゐた。熱心であつた頃には、夢中になつて探して歩いて、相當多量に取れたと思ふ時でも、歸つてから丹念にはかまを取つて、母親のところへ持つて行つて煮て貰ふと、お皿にしよぼしよぼとしかない位になつてしまつた。それだけにまた大切であつた。
つくしがやつと首を出し始めたのを見つけると、それからしばらくの間は、毎日のやうに見て廻つたやうに思ふ。初めは頭も固く、はかまとはかまとの間がくつついてゐるが、やがてすくすくとのびて、はかまとはかまとの間に淡紅色の莖がたつぷりと見えるやうになり、ついで頭部の暗緑色の龜甲形に並んでゐる胞子葉がほどけて來て、子嚢から胞子を散らせ、白つぽくかせたやうになる。かうなつても莖は固くなるわけではないが、しかしすくすくとのびた途端、頭部のまだ固いうちに取るのが最もよい。場所によつては恐ろしく長くのびることもある。さういふ丈の長いつくしの淡紅色の莖の柔かさは、特に強(原本は強の旧字体(強のつくりのムの代わりに口))く記憶に殘つてゐる。
秋の茸狩りは子供心を夢中にさせた點ではつくし取りの比ではなかつた。それは一つには、つくしを食品として取扱はない大人たちが、茸だけは立派な食品として認めてゐたせいであつたかも知れない。
(後略)

『自叙伝の試み』中央公論社 204?207P


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