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兵庫ゆかりの作家

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山本 周五郎写真

やまもと しゅうごろう山本 周五郎

  • 明治36~昭和42
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:山梨県

PROFILE

兵庫県神戸市に一時居住し、兵庫県が舞台の作品に「須磨寺附近」「豹」「正体」がある。
明治36年(1903)、父・清水逸太郎、母・とくの長男として生まれる。小学校卒業後、東京・木挽町の質屋、山本周五郎商店に徒弟奉公し、店主から深い影響を受ける。関東大震災で山本商店は羅災し、一旦解散となる。その後、神戸市須磨区に住み、「夜の神戸社」へ編集記者として就職する。約5ヶ月の神戸生活ののち再上京し、神戸時代の体験にヒントをえた『須磨寺附近』が文壇出世作となる。昭和5年(1930)に宮城県出身の土生きよいと結婚、その後馬込に15年間住むことになる。昭和18年(1943)第17回直木賞に『日本婦道記』が推されるも、これを辞退。以後、「賞」と名の付くものは全て辞退し、孤高の作家として貫き通した。昭和20年(1945)に妻・きよいを病気で亡くす。翌年、吉村きんと結婚し、馬込から横浜に転居。昭和27年(1952)に『よじょう』を発表、翌年には『栄花物語』『正雪記』と力作をまとめる。昭和29年(1954)『樅ノ木は残った』を発表、この作品は山本周五郎の最高傑作として高い評価を受けた。同年、横浜市の自宅近くの旅館間門(まかど)園の別棟の独立家屋に移り、終生ここで仕事をする。昭和35年(1960)には『青べか物語』を「文藝春秋」に連載し、代表作のひとつとなる。昭和42年(1967)2月14日、間門園別棟で急逝した。

《 略年譜 》

年齢事項
190306月22日、山梨県北都留郡(現・大月市)に父・清水逸太郎、母・とくの長男として生まれる。
19074山津波により祖父母、叔父母を喪う。母に伴われ、東京府下王子町に上京中の父の許に合流。
19107豊島の豊川小学校に入学。同年秋から翌年春の間に、横浜市久保町の西戸部小学校へ転校。
19118学区の編成替えで、西前小学校へ転入。
191613西前小学校卒業。山本周五郎商店に徒弟として住み込む。
192320神戸市須磨区に住み、「夜の神戸社」へ編集記者として就職。
1923209月、関東大震災により山本商店は被災し、一旦解散となる。神戸市須磨区に住み、「夜の神戸社」へ編集記者として就職。
192421神戸生活を切り上げて再上京。
192623『須磨寺附近』が「文藝春秋」4月号に掲載され、文壇出世作となる。
192825会員雑誌「日本魂」の編集記者となる。夏、千葉県の浦安へ移る。
192926浦安から東京へ戻り、虎ノ門に下宿。
193027今井達夫との交友が始まる。11月、宮城県出身の土生きよいと結婚。神奈川県南腰越に住む。
193128東京の馬込に居を移す。
193431後年の代表作『青べか物語』の原形となる短編小説4編を発表(~1935)。
194340『日本婦道記』が第17回直木賞に推されるも辞退。
194542妻・きよい、死去。
194643吉村きんと結婚。馬込から横浜に転居。
194845間門町の旅館「間門園」を仕事場として使うようになる。
195249『よじょう』を「週刊朝日」陽春読物号に発表。
195451『樅ノ木は残った』を「日本経済新聞」に連載(~1958)。
196057『青べか物語』を「文藝春秋」に連載。
196461『ながい坂』を「週刊新潮」に連載(~1966)。
1966632月14日、間門園の仕事場で急逝。
逝去地
神奈川県
兵庫県との関係
居住(神戸市) 舞台(神戸市)

代表作品

作品名刊行年版元備考

関連情報

場所説明内容
神戸市須磨区須磨寺町4須磨寺正覚寺詩碑貧困と病気と絶望 に沈んでゐる人たちのために幸 ひと安息の恵まれるように
神戸市須磨区須磨寺町4須磨寺正覚寺詞碑「須磨寺附近」の一節刻

兵庫ゆかりの作品

作品名 刊行年 版元
須磨寺附近

文学碑

場所 碑文
神戸市須磨区須磨寺町4須磨寺正覚院 (表)  須磨は秋であった。…  ここが須磨寺だと康子が云った。池の水 には白鳥が群を作って遊んでいた。雨がその上 に静かに濺いでいた。池を廻って高い石段を 登ると寺があった。… 「あなた、生きている目的が分かりますか」 「目的ですか」 「生活の目的ではなく、生きている目的よ」                    山本周五郎 (裏) 貧困と病気と絶望 に沈んでゐる人たちのために幸 ひと安息の恵まれるように
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