たみや とらひこ田宮 虎彦
-
明治44~昭和63
-
ジャンル:
小説家
- 出身:東京
PROFILE
兵庫県姫路市や兵庫県神戸市に居住。兵庫県が舞台の作品に『五円札』『江上の一族』『父という観念』『バラスと石炭殻の広場』がある。明治45年(1911)8月5日、母の上京中に東京医科大学(東大医学部)付属病院で出生。船員だった父の転勤のため、姫路・神戸・高知間で移転を繰返しながら少年時代を過ごす。父は高知市、母は高知県香美郡香宗村(現・野市町)の出身で、高知へ帰ることも多く、土佐を題材とした作品も多い。17歳のとき、芥川龍之介を読み、同人誌に小説を書く。昭和5年(1930)、第三高等学校(京大)文科に入学、昭和8年(1933)3月卒業。同年4月東京帝国大学文学部国文学科入学、同人誌を創刊。昭和11年(1936)卒業後は都新聞社に入社したが、その後は国際映画協会、教師、編集者、公務員など職を転々とする。昭和23年(1948)より小説執筆に専念。『落城』『鷺』などの歴史小説の他『足摺岬』『絵本』『銀心中』『異端の子』『沖縄の手記』など多くの作品がある。亡き妻との往復書簡集『愛のかたみ』を発表したのは昭和32年(1957)であった。
《 略年譜 》
年 | 年齢 | 事項 |
---|
1911 | 0 | 8月5日、船員の父・昂之、母・鹿衛の次男として東京に生まれる。 |
1912 | 1 | 父の転勤により下関に移る。 |
1913 | 2 | 父の転勤で姫路に移り、その後父の勤務先変更に伴い、神戸に移る。 |
1917 | 6 | 私立城口幼稚園に入園。 |
1918 | 7 | 4月、神戸市立下山手小学校に入学。 |
1919 | 8 | 父が海外出張で不在となり、高知県香美郡香宗村の母型の祖父・山本喜之吉の家に移る。 |
1920 | 9 | 神戸に戻る。雲中小学校に転学。同級生に花森安治がいた。 |
1924 | 13 | 兵庫県立神戸第一中学校(現・県立神戸高等学校)に入学。 |
1929 | 18 | 京都の第三高等学校(現・京都大学)を受験し、合格するが、病気療養のため1年間休学する。 |
1930 | 19 | 第三高等学校文科甲類に入学。文芸部に入部した。 |
1933 | 22 | 東京帝国大学文学部国文科に入学。「東京帝国大学新聞」の編集に参加する。 |
1935 | 24 | 同人雑誌「日暦」に参加。 |
1936 | 25 | 東京帝国大学卒業。武田麟太郎主宰の「人民文庫」創刊とともに執筆者グループとして参加。「都新聞」に入社するも、無届集会のかどで検挙され、5ヶ月で退社。以降、女学校教師、拓務省拓北局、雑誌「文明」編集長など、様々な職を転々とする。 |
1938 | 27 | 平林千代と結婚。 |
1947 | 36 | 「霧の中」発表。出世作となる。 |
1948 | 37 | 作家生活に入り、執筆に専念する。 |
1949 | 38 | 『足摺岬』を雑誌「人間」に発表。 |
1950 | 39 | 『絵本』が第23回芥川賞候補作となるが、「芥川賞による新人推薦を必要としない作家」ということで受賞を見送られる。 |
1951 | 40 | 『絵本』により、毎日出版文化賞を受賞。 |
1953 | 42 | 『都会の樹蔭』が第30回直木賞候補となる。 |
1956 | 45 | 妻・千代、胃癌により死去。この年、『銀心中』が映画化される。 |
1957 | 46 | 『愛のかたみ』発表。平野謙による批判が発表され、原稿取り消しが相次ぎ、妻の死による精神的な打撃も相まって文壇から遠ざかるようになる。 |
1979 | 68 | 高知県足摺岬に文学碑が建てられ、現地を訪れる。 |
1988 | 76 | 1月2日、自宅で脳梗塞に倒れる。自宅療養中の4月9日、自宅マンションベランダから飛び降り、自らの命を断つ。 |
- 兵庫県との関係
- 居住 神戸
受賞歴
受賞年 | 受賞内容 | 受賞作品 |
---|
1951 | 第5回毎日出版文化賞 | 「絵本」 |
Copyright © Net Museum Hyogo Bungakukan All Rights Reserved.