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兵庫ゆかりの文学

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山本 周五郎

やまもと しゅうごろう山本 周五郎

  • 明治36~昭和42(1903~1967)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:山梨県

作品名

須磨寺附近

概要



清三は青木に迎えられて須磨に来た。
青木は須磨寺の近くに、嫂と二人で、米国の支店詰になって出張している兄の留守を預かっていた、で、精神的にかなり手甚い打撃を受けていた清三は、その静かな友の生活の蔭に慰を求めたのであった。
須磨は秋であった。
青木の嫂の康子はひじょうに優れて美貌だった。彼女については青木がまだ東京にいた時分よく彼によって語られていたのでおおかたのことを清三は識っていた。
「君なら一眼で恋着するだろうなあ」
青木は話の出るたびにかならずそう云ったものである、従って打明けて云えば、青木の暗示的な言葉は、彼女の写真を見たり性情を聞いたりすることに救けられて清三の心の中でいつのまにか育っていた。
月見山の家に着いた夜、清三のために風呂が焚かれ、食膳には康子の手料理が並べられた。
「東京の人には何を差上げても不味いのでね」
康子が云った。
「でも牛肉だけは自慢できますわ」
清三は微笑しながら肉の煮えたつ鍋を見下ろしていた。今晩だけは特別だと云って、康子の手で麦酒が開けられた、清三も青木も顔の赫くなるほど飲んだ、清三はまたかねがね聞かされていた神戸の牛肉の美味さに頻繁に箸を鍋に運んだ。
「遠慮なぞしないで、ゆっくり遊んで行ってくださいね、二人きりで寂しいんですから」

飯が終ると康子は女にしては鋭い瞳を動かせながら云った、清三はその瞳に威圧されるような気がした。康子は林檎をむいてくれた、清三は白い長い指が巧みに働くのと、果実の肌と刃物の触れ合う微妙な音を聞きながら、温かい幸福な気持にひたっていた。
茶がすんでから、康子が月が佳いから浜へ行こうと云い出した。麦酒でぼうとなっていた清三はすぐ応じた、青木も立った。
浜には波がなく、淡い霧が下りて寂然としていた、三人の息は月の光を含んで白く氷った、青木は、月見頃になるとこの浜一面に藻潮を焚いて酒の宴を開く習慣があると話した、ことにそうしたとき、男たちよりも、女たちのほうがよけい騒ぐので、かなり婉めいた月見の戯が浜いっぱいに開かれるのだそうである、藻潮を焚いて月を待つという、歌めいた習慣に清三はなにか雅致のある懐かしさを感じさせられた。
「おい相撲をとろう」
足の甲までさらさら没してしまう深い砂地に出たとき、清三はそう云って青木の手を取った、二人は踏応えのない砂の上で揉み合った、康子は微笑しながら見て立っていた、二人は勝負のつかぬ先に労れてしまった。
「おい離せ離せ、息が切れて耐らん」
青木はそう云うと砂の上に腰をおとした。
「弱い人たち」
康子が月を背にして清三の顔を見下ろしていた、清三は手を腋の下にやった、そこが大きく綻びていた。
「ひどいやつだなあ」
青木も腋の下を視たが異常はなかった。二人は大きな声を立てて笑った。静かに淀んでいた夜霧が、二人の笑声でゆらゆらと揺れて流れた、康子もやがて二人のあいだに坐って足を投出した。
「御覧なさい、淡路島の灯が見えます」
康子の指示した遠い海の夜の帷のかなたに、ほとんど見えるか見えぬか分らないほどの灯がちらちらと揺れている、清三はほのかな気持で、ひっそりした海の上を見やった。青木はふいと立って、黙って汀のほうへ歩いて行った、清三も康子も無言のままその後を見送る、間もなく水の鳴る音がし始めた、青木が石を投げるのであった。清三は眼を閉じて、侘しい水の音をじっと耳で味わった。
「いつごろまでいてくだすって」
呟くような康子の声が起こった、清三は眼を開いて康子を見た、康子の面は月光を浴びて彫像のように崇高に見えた。そのときの彼女の顔から人間のものを求めたら、きらきら輝く瞳だけであったろう。――清三はふっと顔の熱くなるのを覚えながら、さあと云ったまま返辞に窮して眼の前にある康子の白い足袋を履いた小柄な足を見ていた。
「お正月まで?」
康子が云った、清三はただ笑って答えた。康子の表情が月光の下でちょっと変った、が清三はその変化の解釈がつかなかった。
青木が汀で野蛮な声を張上げて詩を吟じ始めた、それを合図のように康子はすっと立上った、清三も続いて砂から尻をあげた。
清三は温かい幸福なものを抱いて寝た、夜晩くまで階下で康子の咳く声がしていた。


『花杖記』(新潮文庫)新潮社 P.338〜341

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