常設展示

兵庫ゆかりの作家

  1. TOP
  2. 常設展示
  3. 兵庫ゆかりの作家
  4. 与謝野 晶子

よさの あきこ与謝野 晶子

  • 明治11~昭和17
  • ジャンル: 歌人
  • 出身:大阪府堺市

PROFILE

兵庫県芦屋市を訪問。 明治11年(1878)、大阪府堺市の和菓子商に生まれる。本名・鳳志よう。少女時代から家業の店番をしながら文芸に親しむ。堺女学校を卒業後、河合酔茗の関係していた関西青年文学会機関誌「よしあし草」に、新体詩『春月』を発表。その詩が「明星」主宰の与謝野寛(鉄幹)に見出され、明治33年(1900)「明星」二号に短歌を発表し、以降「明星」終刊まで短歌を掲載し続けた。明治34年(1901)、与謝野寛と熱烈な恋愛関係に陥り、実家の反対を押し切って結婚。同年、歌集『みだれ髪』を鳳晶子の名で刊行する。自我を核に据えた情熱的な短歌を収めたこの歌集は発表当時さまざまな毀誉褒貶にさらされたが近代短歌の端緒を開いた歌集として現在では高く評価されている。寛との共著の他、山川登美子、増田雅子とも合著を刊行。寛との間には六男、六女をもうけるが、大正6年(1917)に誕生した六男・寸は生後2日で死去するなどの哀しみにも見舞われた。大正10年(1921)文化学院設立に寛とともに参加し、昭和5年(1930)には文化学院女学部長に就任するなど、婦人問題への言及をはじめ多岐に渉る活動を展開。また、旅行詠が多くなったのはこの頃からである。旅先ではたびたび狭心症の発作に見舞われ、入院生活を余儀なくされる。昭和10年(1935)与謝野寛が死去。その死から7年後の昭和17年(1942)に63年の生涯を終えた。

《 略年譜 》

年齢事項
1878012月7日、大阪府堺市の和菓子商駿河屋に生まれる。父・鳳宗七、母・つね。本名・志よう。
188810宿院尋常小学校卒業。堺女子校入学。
189113堺女子校卒業。
189921関西青年文学会機関誌「よしあし草」に鳳小舟の名で新体詩『春月』を発表。
190022与謝野寛に初めて会う。
190123歌集『みだれ髪』を鳳晶子の名で刊行。与謝野寛と結婚。
190426第二歌集『小扇』、寛と共著の第三歌集『毒草』刊行。
190527第四歌集『恋衣』を山川登美子、増田雅子と合著で刊行。
190628第五歌集『舞姫』、第六歌集『夢之華』刊行。
190830第七歌集『常夏』刊行。
190931第八歌集『佐保姫』刊行。
191133第九歌集『春泥集』刊行。寛、渡欧。
191234第十歌集『青海波』刊行。『新訳源氏物語』四冊本の刊行開始。5月に渡欧し、10月単身帰国。
191335寛、帰国。
191436第十一歌集『夏より秋へ』、『新訳栄華物語』刊行。
191537第十二歌集『さくら草』、自選歌集『与謝野晶子集』刊行。
191638小説『明るみへ』刊行。第十三歌集『朱葉集』、第十四歌集『舞ごろも』刊行。
191840自選歌集『明星抄』刊行。平塚らいてうと母性保護論争。
192143第十七歌集『太陽と薔薇』刊行。文化学院開校、学監に就任。
192547第二十歌集『瑠璃光』刊行。寛、正宗敦夫と共編の『日本古典全集』に着手。
193052文化学院女学部長に就任。
193456那須温泉で狭心症の発作を起こす。
1935573月、寛死去。
193961『新新訳源氏物語』完成。
194062脳溢血で倒れ、以後右半身不随の病床生活となる。
1942631月、狭心症の発作。5月29日、死去。享年63歳。
逝去地
東京
兵庫県との関係
舞台

代表作品

作品名刊行年版元備考
みだれ髪1901東京新詩社
小扇1904金尾文淵堂
恋衣1905本郷書院
舞姫1906如山堂書店
夢之華1906金尾文淵堂
常夏1908大倉書店
佐保姫1909日吉丸書店
春泥集1911金尾文淵堂
青海波1912有朋館
夏より秋へ1914金尾文淵堂
さくら草1915東雲堂書店
舞ごろも1916天弦堂書房
朱葉集1916金尾文淵堂
晶子新集1917阿蘭陀書房
火の鳥1919金尾文淵堂
太陽と薔薇1921アルス
草の夢1922日本評論社出版部
流星の道1924新潮社
瑠璃光1925アルス
心の遠景1928日本評論社
ページの先頭へ