つむら のぶお津村 信夫
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明治42~昭和19
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ジャンル:
詩人
- 出身:神戸市
PROFILE
兵庫県神戸市生まれ。明治42年(1909)神戸市葺合区生まれ。兄は映画評論家の津村秀夫。雲中尋常高等小学校を経て兵庫県立神戸一中を卒業。小中学校時代はスポーツに熱中した。昭和2年(1927)慶応義塾大学予科に入学。まもなく肋膜炎を患い、療養生活に入る。療養中、島木赤彦、斎藤茂吉の歌集を読み、「アララギ」に短歌を投稿するようになる。その後、関心は詩に移り、軽井沢に避暑のために滞在中、同じく軽井沢に滞在していた室生犀星を訪問。以後、犀星を生涯の師と仰いだ。昭和9年(1934)10月、堀辰雄、三好達治、丸山薫らの雑誌「四季」(第二次)に立原道造とともに参加。丸山薫とは特に親交を深くした。昭和10年(1935)3月、慶応義塾大卒業後は、父の勧めで東京海上火災保険株式会社に入社。同年11月には処女詩集『愛する神の歌』を四季社から自費出版する。だが、保険業務の不適性に煩悶する日々が続き、昭和13年(1938)8月、東京海上保険を退職。筆一本で立つ決意をする。その後は横浜にある日産自動車会社の青年学校教員を務めた。昭和18年(1943)7月アディスン氏病と診断され、闘病生活を続けるが、昭和19年(1944)6月27日、惜しまれながら35歳でこの世を去った。
《 略年譜 》
年 | 年齢 | 事項 |
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1909 | 0 | 1月5日、神戸市葺合区熊内通に父秀松、母久子の次男として生まれる。 |
1916 | 7 | 雲中尋常高等小学校に入学。テニス、相撲を好んだという。 |
1922 | 13 | 神戸第一中学校に入学。陸上競技部の選手をつとめた。 |
1926 | 17 | 夏、避暑先の軽井沢で、生涯の師となる室生犀星を見知る。 |
1927 | 18 | 神戸第一中学校卒業。慶應義塾大学経済学部予科に入学。まもなく肋膜炎を病み、二年間休学。鎌倉、別府に転地療養した。 |
1928 | 19 | 兄秀夫のすすめで白鳥省吾主宰の詩誌「自由楽園」同人となる。 |
1929 | 20 | 大学に復学。 |
1931 | 22 | 雑誌「あかでもす」に詩作を発表する。 |
1932 | 23 | 兄秀夫、植村敏夫、中村地平と共に同人雑誌「四人」を創刊。この頃、西洋音楽を好み、ショパンやドビュッシー等に心酔した。また、アテネ・フランセの夜学に通い、フランス語を学んだ。 |
1933 | 24 | 7月姉道子死去。 |
1934 | 25 | 詩誌「四季」が堀辰雄、丸山薫、三好達治の編集で創刊され、立原道造と共に同人に加わる。同人雑誌「青い花」に太宰治、壇一雄らと同人として参加。太宰治と交遊した。 |
1935 | 26 | 慶應義塾大学経済学部を卒業し、父のすすめで東京海上火災保険会社に勤務する。第一詩集『愛する神の歌』を自費出版。 |
1936 | 27 | 秋、茅野昌子と結婚。 |
1938 | 29 | 8月、父に無断で東京海上火災保険会社を依願退職し、筆一本で立つ決心をする。 |
1939 | 30 | 父秀松死去。 |
1940 | 31 | 散文集『戸隠の絵本』を刊行。この年の春、父秀松の遺稿随筆集『春秋箚記』を出版する。雑誌「四季」の編集事務を担当する。 |
1941 | 32 | 横浜市の日産自動車会社青年学校で教師をつとめる。 |
1943 | 34 | 体重が急激に減少し、アディスン氏病と診断され、入院する。 |
1944 | 35 | 詩集『ある遍歴から』刊行。病状は回復せず、6月27日、鎌倉で死去した。 |
- 逝去地
- 神奈川県鎌倉市
- 兵庫県との関係
- 生誕(神戸市) 神戸
代表作品
作品名 | 刊行年 | 版元 | 備考 |
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愛する神の歌 | 1935 | 四季社 | |
戸隠の絵本 | 1940 | ぐろりあ・そさえて | |
父のゐる庭 | 1942 | 臼井書房 | |
ある遍歴から | 1944 | 湯川弘文堂 | |
善光寺平(没後刊行) | 1947 | 国民図書刊行会 | |
さらば夏の光よ(没後刊行) | 1948 | 矢代書店 | |
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