うつみ のぶゆき内海 信之
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明治17~昭和43
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ジャンル:
詩人
- 出身:龍野市
PROFILE
兵庫県龍野市に生まれる。明治17年(1884)兵庫県揖西郡桑原村(現龍野市)生まれ。他に「泡沫」「うたかた」「青潮」の号を用いた。はじめ漢詩を詠んだが、その後新体詩に親しむ。新聞記者を志すが、本人の志向と現実の隔たりを前に断念。明治35年(1902)与謝野鉄寛主宰の新詩社に参加し「明星」に作品を寄せた。また、そのころ盛岡にいた石川啄木と親交があり、「明星」の長編詩競作では啄木と首位を競った。雑誌「文庫」に「雛鶏守」等を発表し、新進詩人として注目される。明治37年(1904)同じく「文庫」に投稿していた有本芳水を知り生涯の友となる。同郷の三木露風、矢野勘治等との交友深まる。トルストイの「我が宗教」に感銘を受け、日露戦争中、反戦詩を作り発表したが、当時は全く問題にならなかった。昭和36年(1961)に作品集「硝煙」にまとめられ、改めて世に問われた。明治43年(1910)兵庫県相生海岸に転地療養中、第一詩集『淡影』を刊行。大正に入ってからは政治家犬養毅に傾倒し、大正デモクラシーのために奔走した。戦中から戦後にかけて推薦により止むなく揖西村長をつとめた。「花は人の心を知り、決して偽らない」と愛する“花”に胸中を託して美しくも哀しい叙情詩を数多く作った。「田園詩人」と呼ばれている。
《 略年譜 》
年 |
年齢 |
事項 |
1884 |
0 |
8月30日、兵庫県揖西郡桑原村に内海藤三郎忠義の長男として生まれる。 |
1893 |
9 |
兵庫県揖西郡伊水高等小学校入学。 |
1899 |
15 |
伊水高等小学校を卒業するが、虚弱のため進学できず、前田桃渓に漢詩を学んだ。 |
1900 |
16 |
一年間小学校の代用教員となる。「神戸新聞」の記者、斉藤弔花の名文に感動し、新聞記者になろうとしたが現実と本人の志向との隔たりを知り、断念。 |
1901 |
17 |
新体詩に関心を持つ。 |
1902 |
18 |
与謝野鉄幹の「新詩社」に参加。「明星」に本名の「信之」、他の雑誌に「うたかた」「泡沫」のペンネームで詩を発表する。 |
1903 |
19 |
この頃からトルストイに傾倒。大阪で開かれた「新詩社関西清和会」に出席。有本芳水を知る。 |
1904 |
20 |
「雛鳥」、「雛鶏守」など、雛鶏に関する詩で横瀬夜雨と並び称され、新進詩人として注目される。 |
1905 |
21 |
前田ひさのと結婚。 |
1906 |
22 |
「明星」の競争詩作で石川啄木と共に入選する。反戦詩を作る素因の一つとなった詩友大西伯寒の戦病死を悼み「断鴻哀歌」を「新声」に発表。 |
1910 |
26 |
肺結核を患い、相生海岸に転地療養する。詩集『淡影』刊行。 |
1912 |
28 |
政治家犬養毅に私淑し、憲政擁護運動に参加。詩を書きつづけながら政治活動に参加する(雅号に「青潮」を用いる)。「雄弁」等に政論や人物評を書き始めた。 |
1924 |
40 |
『高人犬養木堂』刊行。 |
1932 |
48 |
『木堂詩墨』復刻。 |
1942 |
58 |
揖西村村長に推薦され、止むなく就任。宴会政治を廃止する。 |
1946 |
62 |
揖西村村長退任。公職を追放される。 |
1950 |
66 |
「明星」「文庫」「新声」「新潮」「新文林」「音楽」「音楽会」等に掲載した作品を集めた詩集「花」を刊行。 |
1951 |
67 |
公職追放解除。 |
1952 |
68 |
龍野市長より「功労章」を贈られる。 |
1953 |
69 |
神戸地方法務局龍野支局「人権擁護委員」となる。 |
1959 |
75 |
龍野市名誉市民に推される。 |
1961 |
77 |
日露戦争当時の反戦詩を集めた詩集『硝煙』が刊行される。 |
1968 |
84 |
6月14日老衰のため死去。 |
- 逝去地
- 龍野市
- 兵庫県との関係
- 生誕(龍野市)
代表作品
作品名 |
刊行年 |
版元 |
備考 |
淡影 |
1910 |
三木操 |
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高人犬養木堂 |
1924 |
文正堂 |
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詩人河野鐵兜 |
1932 |
龍吟社 |
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花 |
1950 |
詩集花刊行会 |
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硝煙 |
1961 |
硝煙刊行会 |
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関連情報
場所 |
説明 |
内容 |
龍野市龍野町龍野公園白鷺山西北遊歩道高台 |
詩碑 |
「高嶺の花」より 何処より吹かれ来し一粒の種子か 雲を抽く高嶺の嶺 鮮紅燃ゆる駒草の花… |
兵庫ゆかりの作品
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