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兵庫ゆかりの作家

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よしや のぶこ吉屋 信子

  • 明治29~昭和48
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:新潟県庁官舎

PROFILE

兵庫県が舞台の作品に『ある女人像』『淡路島の歌碑』がある。 父・雄一、母・マサ(ともに両親は長州萩の藩士の出身)の男兄弟ばかりの中ひとり娘として明治29年(1896)1月に新潟県庁官舎で生まれた。当時父は新潟県警務課長をしていた。信子の上には4人の兄がおり、後、また弟2人が生まれた。女学校在学当時から「少女世界」や「少女界」などに投稿している。14歳の時、「少女界」の懸賞に応募した作品が1等に当選、賞金10円をもらった。信子は喜んだ。20歳の時、「少女画報」に『花物語』第1話「鈴蘭」を送ったところ採用され、7月号に掲載。当時の女学生からの大反響により、それからは少女画報社の依頼で次々と回を重る。23歳で大阪朝日新聞の長編懸賞小説の応募、一等をとり、新聞に掲載される。24歳で上京、27歳のとき門馬千代を知り、親しくなる。後に秘書や家事の仕事を手伝ってもらい、後年自分の籍に養子として入ってもらった。作品は、当時の男尊女卑の考えに対して、同じく不満を持った読者(大半が女性)に絶大な支持を受け、流行作家として活躍。 昭和27年(1952)短編『鬼火』により第4回女流文学者会賞受賞。昭和42年(1967)「半世紀にわたる読者と共に歩んだ衰えざる文学活動」をおこなったとして、菊池寛賞受賞。 伝記小説「『淡路島の歌碑』では、淡路島出身の歌人・川端千枝の劇的な生涯を描いている。

《 略年譜 》

年齢 事項
1896 0 1月12日、父・雄一、母・マサの長女として新潟県庁官舎で生まれた。両親は長洲萩の藩士の出身。当時父は新潟県警務課長をしており、信子の上には4人の兄がいた。
1898 2 春、父が行政畑に転じて佐渡郡長になり、佐渡相川町に移る。
1899 3 秋、父が新潟群北蒲原郡の郡長になり、新発田に移る。
1901 5 父が栃木県芳賀郡の郡長になり、真岡に移る。この頃からカタカナの絵本を読む。
1902 6 真岡小学校に入学。
1904 8 自分のために雑誌を初めて取ってもらう。
1908 12 栃木高女(現栃木女子高校)入学。学校の講演に来た新渡戸稲造の、旧来の良妻賢母主義よりも1人の人間としての完成を説いたのに感銘を受ける。
1910 14 14歳女学校3年の時、「少女界」の懸賞に応募した「鳴らずの太鼓」が図らずも1等に当選、賞金10円をもらった。信子は喜んだ。
1911 15 「文章世界」や「新潮」に投書を始める。
1912 16 栃木高女(4年制)卒業。父が上都賀郡長に転じ、一家は鹿沼に移った。
1913 17 鹿沼から程近い日光小学校の代用教員となって一時家を離れた。
1915 19 父が郡長を退職し、日本赤十字支部主事として宇都宮に転じたので一家も移転した。夏、宿願の上京を果たす。母の尽力で毛利邸内林氏方に下宿。自由に勉強を始めた。
1916 20 「少女画報」に『花物語』第1話「鈴蘭」を送ったところ採用され、7月号に掲載された。これがまた当時の女学生のうけるところとなり、それからは少女画報社の依頼で次々と回を重ね、大正14年(1925)ごろまでに52編を連載。
1917 21 兄・忠明が会社員となり、一人になった信子は四谷のバプテスト女子学寮に入舎し、玉成保母養成所に通学。
1918 22 バプテスト女子学寮を退寮し、神田の基督教女子青年会(YWCA)の寄宿舎に入った。
1919 23 YWCAの寄宿舎で同室の友菊池ゆきえが大阪朝日新聞の長編懸賞小説の応募を勧める。療養のため札幌に帰る菊池ゆきえに同行して北海道に渡り、3ヶ月かけて『地の果まで』を制作。7月脱稿直後、宇都宮の父危篤の報せに兄と急行したが31日死去。
1920 24 父の一周忌をすませて母や弟と共に上京、巣鴨にいた長兄貞一の家に合流。元旦から大阪朝日に『地の果て迄』が連載された。
1921 25 4月、兄・忠明が北海道から東京の本社に移り、大森西沼に居を構えて母や信子らを迎えた。この夏、岡本かの子に再開。かの子が信子の家を訪れたりして交際が始まった。
1922 26 夏、本郷林町の家に移り、兄・忠明夫妻,母,弟等と住んだ。前年の『海の極みまで』が初めて映画化され、舞台に上演され。このころ国民新聞社の婦人記者だった山高しげりと出会い親しく交わる。
1923 27 1月、山高しげりに門馬千代を紹介される。
1924 28 1月、千代がしばらく下関高女で教えることになり、信子も下関に同行、壇ノ浦のあたりなど見物。やがて信子は1人帰京。大森不入斗に母と家を持った。この頃同じ大森の馬込に尾崎士郎と住んでいた宇野千代と親しくなり往来した。
1925 29 1月、前年『花物語』を出版した交蘭社のすすめで個人雑誌「黒薔薇」を創刊。8月、8号まで続く。3月、千代帰京。「少女世界」以来旧知の沼田笠峰が校長をしていた頌栄高女に就職。
1926 30 春、バンガロー風の小さい家が下落合に完成。千代と共に住む。近所に住む片岡鉄兵,中河興一夫妻,林芙美子らと交際が始まる。
1928 32 新潮社の現代長編小説全集の1冊に「吉屋信子集」が入り、その印税(2万円)によって、9月25日、門馬千代を伴って渡欧した。2人は途中まで山高しげりらの鮮満視察団に同行。モスクワでは中條百合子,湯浅芳子と会い、ドイツ,ベルギーを経てパリに到着、約1年滞在した。
1929 33 年初渡仏した久米正雄夫妻と南仏ニースに滞在。3月、共にイタリアを旅行。パリに帰って5月、藤蔭静枝と英国に渡り、ロンドン,シェークスピアの生地その他を見学した。8月、アメリカに渡り、ハワイを経て9月末帰国。帰国の船中に「暴風雨の薔薇」のノートをまとめる。
1930 34 「主婦之友」連載の『暴風雨の薔薇』は好評を得、これ以後同誌を初め婦人雑誌その他の注文に追われることになる。
1931 35 外遊する夢二が開いた個展で若い日の思い出と感謝から1枚の絵を買った。信子の度々の要請と、そのあまりの忙しさを見かねて、千代は学校をやめて秘書兼家事を受け持つことになる。
1933 37 『女の友情』が新年より「婦人倶楽部」に連載される。全国の読者から編集部に投書が殺到し、好評で2年間の連載の後さらに続編執筆となり、信子の婦人雑誌連載小説では記念碑的な作品となる。
1935 39 牛込砂土原町の鍋島家跡の分譲地に家を新築、移転。この夏、胃痙攣の如き胆石の発作に苦しむ。
1936 40 クリスマスの夜、横浜港から上海・香港をへてマニラに至るフィリピン取材旅行に出立。
1938 42 8月、「主婦の友」特派員として満ソ国境へ。9月には情報局派遣従軍文士海軍班(団長菊池寛)の一員として揚子江溯江艦隊の旗艦安宅に乗って漢口に赴き、「主婦の友」にそれぞれ現地報告,従軍記を発表。
1939 43 春、鎌倉の大仏裏に晩年の母のため、また時々の休養のためをかねて家を建てた。
1940 44 9月、「主婦の友」特派員として満州開拓団見学。年末には蘭印(インドネシア)へ。
1941 45 2月帰国、現地報告を発表。10月、同じく「主婦の友」特派員として仏印(現ベトナム),タイに向かい、ハノイ,ユエ等を経てサイゴンに至り待機中、日米開戦を知る。
1942 46 5月、文学報国会発足。
1943 47 8月、国際文化協会による大東亜文学者決起大会には、日華文学者招待の紅一点関露女史を自宅に迎え、女流作家との小集会を持つ。2ヶ年滞在の予定で北京行を決意。渡航免状その他準備整ったが、12月1日発病、病臥するに至った。
1944 48 ついに北京行き断念。のびのびになった約束の講演旅行等を果たし、3月末入院、4月手術、5月鎌倉に疎開。
1945 49 3月10日、空襲で牛込の留守宅焼失。5月、久米正雄,川端康成,高見順ら鎌倉在住の文士が本を持ち寄って、八幡通りに貸本屋「鎌倉文庫」を開く。信子も加わった。鎌倉文庫は出版社鎌倉文庫として発足。
1950 54 1月14日、母・マサ、砂土原町の次兄の家にて死去。信子は棺を抱いて号泣した。年末、東京二番町の新居に入る。
1951 55 6月、取材のため山口県萩へ旅行、その途次秋芳洞の前で林芙美子の訃を知る。同夜宿舎で追悼文を書く。7月、保谷市滝ノ川学園見学。
1952 56 5月、前年執筆の短編『鬼火』により第4回女流文学者会賞受賞。
1954 58 戦前にもやったゴルフを再開。競馬も上京してから熱心に通い、クロカミ,イチモンジなどの馬を持つに至った。
1955 59 5月8日、持馬イチモンジNHK杯優勝。吉川英治の愛馬ケゴンと争って勝ったがダービーは失った。
1957 61 2月、長年共同生活した千代を養嗣とする。
1960 64 戦時中から折りにふれ調べていた中国のことが「西太后の壷」等の構想に結実し、翌年にかけて外地に題材をとった中短編をかきつづける。調べて書くことに興味を持ちはじめたのである。
1961 65 10月、騒音と公害にたえかねて、鎌倉に居を移そうと思い立つ。
1962 66 4月、鎌倉長谷の新居に移る。6月、山高しげりの参院選出馬を後援。
1966 70 3月、名古屋旅行、徳川美術館見学。10月10日、『徳川の夫人たち』擱筆。この間,短編随想みな断りまたは延期してこの作1本にしぼった。12月、直腸癌にあらずやとの心配きざして中山恒明博士に相談。
1967 71 1月、宮中歌会始に出席。11月、「半世紀にわたる読者と共に歩んだ衰えざる文学活動」をおこなったとして、菊池寛賞受賞。
1968 72 3月3日、「続徳川の夫人たち」擱筆。3年がかりの労作おわる。
1971 75 体調不良に悩みながらも「女人平家」執筆。
1972 76 4月、体調ややよく、八幡の桜、光則寺の海棠などを見に行く。7月~8月、恵風園入院、科学療法を受ける。中山博士も来診。秋より自宅療養に移る。
1973 77 5月、6月、徐々に衰弱。7月11日に恵風園病院にて死去。勲三等瑞宝章を受ける。鎌倉高徳院の墓地に葬る。紫雲院香誉信子大姉。
1974 千代の意志で(まわりの反対にもかかわらず)土地,邸宅,備品と、6千冊の蔵書,資料,原稿等鎌倉市に寄贈することになり、1月、兄・忠明ら立ち会い、養嗣子・吉屋千代から市長に目録,権利書を贈呈。市は遺宅を5月から「吉屋信子記念館」として婦人の福祉,教養の場に開放。
逝去地
鎌倉
兵庫県との関係
舞台  淡路島

関連情報

場所 説明 内容
洲本市宇原第二文学の森 句碑 この旅のおもかげに立つ千鳥かな
兵庫県洲本市宇原 文学の森 句碑/碑陰なし この旅のおもかげに立つ千鳥かな

受賞歴

受賞年 受賞内容 受賞作品
1919 「朝日新聞」懸賞小説 大朝創刊40周年記念文芸 「地の果まで」
1952 第4回女流文学者賞 「鬼火」
1967 第15回菊池寛賞
1984 第32回日本エッセイスト・クラブ賞 「どこまで演れば気がすむの」
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