年 |
年齢 |
事項 |
1896 |
0 |
1月12日、父・雄一、母・マサの長女として新潟県庁官舎で生まれた。両親は長洲萩の藩士の出身。当時父は新潟県警務課長をしており、信子の上には4人の兄がいた。 |
1898 |
2 |
春、父が行政畑に転じて佐渡郡長になり、佐渡相川町に移る。 |
1899 |
3 |
秋、父が新潟群北蒲原郡の郡長になり、新発田に移る。 |
1901 |
5 |
父が栃木県芳賀郡の郡長になり、真岡に移る。この頃からカタカナの絵本を読む。 |
1902 |
6 |
真岡小学校に入学。 |
1904 |
8 |
自分のために雑誌を初めて取ってもらう。 |
1908 |
12 |
栃木高女(現栃木女子高校)入学。学校の講演に来た新渡戸稲造の、旧来の良妻賢母主義よりも1人の人間としての完成を説いたのに感銘を受ける。 |
1910 |
14 |
14歳女学校3年の時、「少女界」の懸賞に応募した「鳴らずの太鼓」が図らずも1等に当選、賞金10円をもらった。信子は喜んだ。 |
1911 |
15 |
「文章世界」や「新潮」に投書を始める。 |
1912 |
16 |
栃木高女(4年制)卒業。父が上都賀郡長に転じ、一家は鹿沼に移った。 |
1913 |
17 |
鹿沼から程近い日光小学校の代用教員となって一時家を離れた。 |
1915 |
19 |
父が郡長を退職し、日本赤十字支部主事として宇都宮に転じたので一家も移転した。夏、宿願の上京を果たす。母の尽力で毛利邸内林氏方に下宿。自由に勉強を始めた。 |
1916 |
20 |
「少女画報」に『花物語』第1話「鈴蘭」を送ったところ採用され、7月号に掲載された。これがまた当時の女学生のうけるところとなり、それからは少女画報社の依頼で次々と回を重ね、大正14年(1925)ごろまでに52編を連載。 |
1917 |
21 |
兄・忠明が会社員となり、一人になった信子は四谷のバプテスト女子学寮に入舎し、玉成保母養成所に通学。 |
1918 |
22 |
バプテスト女子学寮を退寮し、神田の基督教女子青年会(YWCA)の寄宿舎に入った。 |
1919 |
23 |
YWCAの寄宿舎で同室の友菊池ゆきえが大阪朝日新聞の長編懸賞小説の応募を勧める。療養のため札幌に帰る菊池ゆきえに同行して北海道に渡り、3ヶ月かけて『地の果まで』を制作。7月脱稿直後、宇都宮の父危篤の報せに兄と急行したが31日死去。 |
1920 |
24 |
父の一周忌をすませて母や弟と共に上京、巣鴨にいた長兄貞一の家に合流。元旦から大阪朝日に『地の果て迄』が連載された。 |
1921 |
25 |
4月、兄・忠明が北海道から東京の本社に移り、大森西沼に居を構えて母や信子らを迎えた。この夏、岡本かの子に再開。かの子が信子の家を訪れたりして交際が始まった。 |
1922 |
26 |
夏、本郷林町の家に移り、兄・忠明夫妻,母,弟等と住んだ。前年の『海の極みまで』が初めて映画化され、舞台に上演され。このころ国民新聞社の婦人記者だった山高しげりと出会い親しく交わる。 |
1923 |
27 |
1月、山高しげりに門馬千代を紹介される。 |
1924 |
28 |
1月、千代がしばらく下関高女で教えることになり、信子も下関に同行、壇ノ浦のあたりなど見物。やがて信子は1人帰京。大森不入斗に母と家を持った。この頃同じ大森の馬込に尾崎士郎と住んでいた宇野千代と親しくなり往来した。 |
1925 |
29 |
1月、前年『花物語』を出版した交蘭社のすすめで個人雑誌「黒薔薇」を創刊。8月、8号まで続く。3月、千代帰京。「少女世界」以来旧知の沼田笠峰が校長をしていた頌栄高女に就職。 |
1926 |
30 |
春、バンガロー風の小さい家が下落合に完成。千代と共に住む。近所に住む片岡鉄兵,中河興一夫妻,林芙美子らと交際が始まる。 |
1928 |
32 |
新潮社の現代長編小説全集の1冊に「吉屋信子集」が入り、その印税(2万円)によって、9月25日、門馬千代を伴って渡欧した。2人は途中まで山高しげりらの鮮満視察団に同行。モスクワでは中條百合子,湯浅芳子と会い、ドイツ,ベルギーを経てパリに到着、約1年滞在した。 |
1929 |
33 |
年初渡仏した久米正雄夫妻と南仏ニースに滞在。3月、共にイタリアを旅行。パリに帰って5月、藤蔭静枝と英国に渡り、ロンドン,シェークスピアの生地その他を見学した。8月、アメリカに渡り、ハワイを経て9月末帰国。帰国の船中に「暴風雨の薔薇」のノートをまとめる。 |
1930 |
34 |
「主婦之友」連載の『暴風雨の薔薇』は好評を得、これ以後同誌を初め婦人雑誌その他の注文に追われることになる。 |
1931 |
35 |
外遊する夢二が開いた個展で若い日の思い出と感謝から1枚の絵を買った。信子の度々の要請と、そのあまりの忙しさを見かねて、千代は学校をやめて秘書兼家事を受け持つことになる。 |
1933 |
37 |
『女の友情』が新年より「婦人倶楽部」に連載される。全国の読者から編集部に投書が殺到し、好評で2年間の連載の後さらに続編執筆となり、信子の婦人雑誌連載小説では記念碑的な作品となる。 |
1935 |
39 |
牛込砂土原町の鍋島家跡の分譲地に家を新築、移転。この夏、胃痙攣の如き胆石の発作に苦しむ。 |
1936 |
40 |
クリスマスの夜、横浜港から上海・香港をへてマニラに至るフィリピン取材旅行に出立。 |
1938 |
42 |
8月、「主婦の友」特派員として満ソ国境へ。9月には情報局派遣従軍文士海軍班(団長菊池寛)の一員として揚子江溯江艦隊の旗艦安宅に乗って漢口に赴き、「主婦の友」にそれぞれ現地報告,従軍記を発表。 |
1939 |
43 |
春、鎌倉の大仏裏に晩年の母のため、また時々の休養のためをかねて家を建てた。 |
1940 |
44 |
9月、「主婦の友」特派員として満州開拓団見学。年末には蘭印(インドネシア)へ。 |
1941 |
45 |
2月帰国、現地報告を発表。10月、同じく「主婦の友」特派員として仏印(現ベトナム),タイに向かい、ハノイ,ユエ等を経てサイゴンに至り待機中、日米開戦を知る。 |
1942 |
46 |
5月、文学報国会発足。 |
1943 |
47 |
8月、国際文化協会による大東亜文学者決起大会には、日華文学者招待の紅一点関露女史を自宅に迎え、女流作家との小集会を持つ。2ヶ年滞在の予定で北京行を決意。渡航免状その他準備整ったが、12月1日発病、病臥するに至った。 |
1944 |
48 |
ついに北京行き断念。のびのびになった約束の講演旅行等を果たし、3月末入院、4月手術、5月鎌倉に疎開。 |
1945 |
49 |
3月10日、空襲で牛込の留守宅焼失。5月、久米正雄,川端康成,高見順ら鎌倉在住の文士が本を持ち寄って、八幡通りに貸本屋「鎌倉文庫」を開く。信子も加わった。鎌倉文庫は出版社鎌倉文庫として発足。 |
1950 |
54 |
1月14日、母・マサ、砂土原町の次兄の家にて死去。信子は棺を抱いて号泣した。年末、東京二番町の新居に入る。 |
1951 |
55 |
6月、取材のため山口県萩へ旅行、その途次秋芳洞の前で林芙美子の訃を知る。同夜宿舎で追悼文を書く。7月、保谷市滝ノ川学園見学。 |
1952 |
56 |
5月、前年執筆の短編『鬼火』により第4回女流文学者会賞受賞。 |
1954 |
58 |
戦前にもやったゴルフを再開。競馬も上京してから熱心に通い、クロカミ,イチモンジなどの馬を持つに至った。 |
1955 |
59 |
5月8日、持馬イチモンジNHK杯優勝。吉川英治の愛馬ケゴンと争って勝ったがダービーは失った。 |
1957 |
61 |
2月、長年共同生活した千代を養嗣とする。 |
1960 |
64 |
戦時中から折りにふれ調べていた中国のことが「西太后の壷」等の構想に結実し、翌年にかけて外地に題材をとった中短編をかきつづける。調べて書くことに興味を持ちはじめたのである。 |
1961 |
65 |
10月、騒音と公害にたえかねて、鎌倉に居を移そうと思い立つ。 |
1962 |
66 |
4月、鎌倉長谷の新居に移る。6月、山高しげりの参院選出馬を後援。 |
1966 |
70 |
3月、名古屋旅行、徳川美術館見学。10月10日、『徳川の夫人たち』擱筆。この間,短編随想みな断りまたは延期してこの作1本にしぼった。12月、直腸癌にあらずやとの心配きざして中山恒明博士に相談。 |
1967 |
71 |
1月、宮中歌会始に出席。11月、「半世紀にわたる読者と共に歩んだ衰えざる文学活動」をおこなったとして、菊池寛賞受賞。 |
1968 |
72 |
3月3日、「続徳川の夫人たち」擱筆。3年がかりの労作おわる。 |
1971 |
75 |
体調不良に悩みながらも「女人平家」執筆。 |
1972 |
76 |
4月、体調ややよく、八幡の桜、光則寺の海棠などを見に行く。7月~8月、恵風園入院、科学療法を受ける。中山博士も来診。秋より自宅療養に移る。 |
1973 |
77 |
5月、6月、徐々に衰弱。7月11日に恵風園病院にて死去。勲三等瑞宝章を受ける。鎌倉高徳院の墓地に葬る。紫雲院香誉信子大姉。 |
1974 |
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千代の意志で(まわりの反対にもかかわらず)土地,邸宅,備品と、6千冊の蔵書,資料,原稿等鎌倉市に寄贈することになり、1月、兄・忠明ら立ち会い、養嗣子・吉屋千代から市長に目録,権利書を贈呈。市は遺宅を5月から「吉屋信子記念館」として婦人の福祉,教養の場に開放。 |