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兵庫ゆかりの作家

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のさか あきゆき野坂 昭如

  • 昭和5~ (1930~)
  • ジャンル: 小説家、タレント
  • 出身:神奈川県鎌倉市

PROFILE

兵庫県神戸市に居住。兵庫県が舞台の作品に『火垂るの墓』『一九四五・夏・神戸』がある。 昭和5年(1930)、神奈川県鎌倉郡鎌倉町に生まれるが、実母が3ヶ月で死去したため、すぐに神戸市永手町の張満谷善三家の養子となる。養父は石油製品を扱う貿易会社の関西支配人、養母は生母ヌイの妹にあたる。昭和20年(1945)6月5日の神戸大空襲で灘区中郷町の家を全焼。17歳のとき、養母の実家を頼って上京。早稲田大学中退。放送作家、CMソング作詞などで活躍。昭和37年(1962)32歳でタカラジェンヌの藍葉子と結婚。翌年(1962)、『エロ事師たち』で小説デビュー。同年「おもちゃのチャチャチャ」でレコード大賞作詞賞受賞。昭和43年(1968)、戦争・占領体験を描いた『火垂るの墓』『アメリカひじき』で直木賞受賞。以来、著述活動や政治・文化に関わる発言を通じ、しばしば社会に重要なアンチテーゼを投げかける一方、歌手としても活躍、またTV等で発揮される飄々としたキャラクターは高い人気を獲得している。昭和60年(1985)『我が闘争 こけつまろびつ闇を撃て』で第1回講談社エッセイ賞受賞。平成9年(1997)『同心円』で吉川英治文学賞受賞。 『火垂るの墓』は神戸や西宮などが舞台。自身の戦争体験があらわされている。

《 略年譜 》

年齢事項
1930010月10日、神奈川県鎌倉郡鎌倉町に父・相如(すけゆき)、母・ヌイの次男として生まれる 。父は当時東京府建設局の役人で、のちに新潟県副知事を務め、随筆家としても知られた。母は昭如を出産し、3ヶ月後に死去。
193114月、神戸市永手町の張満谷善三家の養子となる。養父は石油製品を扱う貿易会社の関西支配人、養母は生母・ヌイの妹にあたる。
19366永手町から灘区へ引っ越す。
193774月、神戸市立成徳小学校入学。
1941114月、養女紀久子が来るが、11月に病死。
1943133月、成徳小学校卒業。4月、神戸市立第一中学校へ入学。秋、出征兵士留守宅の農家に動員される。
1944143月、2人目の養女・恵子が来る。
1945156月5日の神戸大空襲で、灘区中郷町の家を全焼。養父は死去、養母は重傷で入院。西宮市の親戚宅に寄寓する。8月、疎開先の福井県で終戦を迎える。養女・恵子は栄養失調の為死去。9月、養父の兄を頼り大阪府守口市北寺方へ。12月、大阪市立中学校に転校。
1947173月、大阪市立中学校を4年修了後退学。10月、養母の実家を頼って上京。11月、窃盗罪により、多摩少年院中野出張所に入れられる。12月、実父に引き取られ新潟へ行く。野坂の姓にもどる。
1948184月、旧制新潟高等学校文科乙類に入学。
1949194月、学制改革により新潟大学教育学部(新発田分校)1年となるが、3日後に退学届を出す。
1950204月、早稲田大学文学部仏文科に入学。実家からの送金を使い果たし、様々な職種のアルバイトに精を出す。
19532311月、新潟へ戻る。
195424アルコール中毒治療の為、新潟大学付附属病院精神科に入院。退院後、新潟県下の専門僧堂大栄寺に入門。
195525春、父の参議院議員補欠選挙立候補の応援をするが、父は落選。義母の援助を受けて上京。知人の紹介で写譜屋を始める。暮れから三木鶏郎音楽事務所の事務員となる。
1956264月、音楽事務所が「冗談工房」となりマネージャーとなったが、11月、経理ミスにより馘となる。以後、阿木由起夫のペンネームでさかんにコントを書く。
1957273月、授業料納入を停止して、早大仏文科を抹籍処分となる。10月、「TV工房」の責任者となる。この年からCMソングの作詞を始め、数多くのヒット曲を出す。
195929テレビ番組の台本を始め、放送作家としてラジオ18本、テレビ6本のレギュラー番組を担当。
196030放送作家の危機を予見し、漫才,CMタレント,ファッションモデルを試みるが、いずれも不成功に終わる。
1961311月、「週刊公論」のコラムを受け持つ。以後「週刊現代」「週刊文春」等のコラム欄も担当。
1962328月、コラム集『現代野郎入門』(久保書店)を処女出版。12月、タカラジェンヌの藍葉子(本名・野村暘子)と結婚。
19633312月、「おもちゃのチャチャチャ」レコード大賞作詞賞受賞。
1966363月、初の長編小説『エロ事師たち』(講談社)刊行。今村昌平監督により『エロ事師たち』が「人類学入門」という題名で映画化。
1968381月、「アメリカひじき」「火垂るの墓」により第58回直木賞受賞。エッセイ「プレイボーイの子守唄」により第6回「婦人公論」読者賞受賞。アメリカ民主党大会取材の為渡米。9月、アメリカのクノップ社より『エロ事師たち』の英訳が刊行。10月、再度アメリカ・ヨーロッパへ旅行。
1969391月、野間宏ら60名とともに全共闘支持を表明。10月、CBSソニーよりレコードを発売、歌手デビュー。
1970402月、キックボクシングをはじめる。春より、キャバレーの全国歌行脚が始まる。テレビ出演も多くなる。9月、家族とヨーロッパ旅行。
1971416月より「名画劇場」の解説を担当。11月、日比谷公会堂で「野坂昭如リサイタル」を開催。12月、「砂絵呪縛後日怪談」で第4回小説現代ゴールデン読者賞受賞。
1972426月、雑誌「面白半分」編集長を担当。7月号に掲載の「四畳半襖の下張」が猥褻文書販売等の疑いで東京地検に書類送検される。
197343「四畳半襖の下張」掲載問題で東京地検に起訴される。9月、裁判第1回公判。12月、第2回公判で特別弁護人の丸谷才一が出廷。ラグビーチーム“アドリブ倶楽部”を結成。
1974443月、第3回公判に五木寛之、井上ひさしが出廷。4月、第4回公判には吉行淳之介、開高健が出廷。7月、参院選挙東京地方区に無所属で立候補、次点で落選。10月、日本ペンクラブの体質改善を要求して、五木寛之らと集団入会。12月、日本ペンクラブ理事に就任。
1975455月、埼玉県に“アドリブ農場”を主宰、田植えをする。10月、ヨーロッパへ3週間の取材旅行。
1976464月、「4畳半」裁判は東京地裁で罰金刑の有罪判決を受け、上訴。
1977472月、渋谷公会堂で「歌手引退リサイタル」。10月、日比谷公会堂で「歌手復活コンサート」。
1978485月、胃潰瘍手術のため入院。8月、父・相如、死去。9月、アメリカ国務省の招待で米旅行。
197949「4畳半」裁判第二審は一審の判決を支持、控訴を棄却。
1980504月、新宿厚生年金会館でコンサート。11月、「4畳半」裁判、最高裁で有罪決定。
1982522月、『坂口安吾選集』(全12巻)講談社刊の編集を担当。全巻に「解説」を執筆。
198353ビデオ映画「幻の女」を監督し、自らも出演。6月、参院選に二院クラブから比例代表で立候補し当選、議員に。11月、衆院選で金権政治を批判して議員辞職し、故田中角栄元首相の選挙区の新潟三区からの立候補を表明。12月、新潟県長岡市で遊説中、暴漢に襲われるが無事。選挙は落選。
198555『我が闘争 こけつまろびつ闇を撃つ』、第1回講談社エッセイ賞受賞。
1987574月、テレビでレポーターを始める。9月、新潮社が新設した山本周五郎賞の選考委員となる。12月、帝国ホテルで“野坂昭如・暘子ご夫妻の銀婚を祝う会”が開かれる。
198858高畑勲監督により『火垂るの墓』、アニメとして映画化。フランス語訳の『火垂るの墓』刊行。5月、渡仏。
198959アニメ「火垂るの墓」の印税などをもとに現代日本文学、絵画、音楽などを紹介する目的で「東西南北縦横斜めの会」発足現在、海外で上梓された小説12種。
199767『同心円』で第31回吉川英治文学賞受賞。
199969『戦争童話集―忘れてはイケナイ物語り』全12話、映像化完成。
2001717月、参院選で自由連合の比例代表候補として立候補、落選。公式ホームページ公開開始。
兵庫県との関係
居住 舞台

代表作品

作品名刊行年版元備考
エロ事師たち1966講談社
アメリカひじき・火垂るの墓1968文藝春秋
戦争童話集1975中央公論社
一九四五・夏・神戸1976中央公論社
行き暮れて雪1984中央公論社
我が闘争 こけつまろびつ闇を撃て1985朝日新聞社
赫奕たる逆光竏虫ю焉E三島由紀夫1987文藝春秋
同心円1997講談社

受賞歴

受賞年受賞内容受賞作品
1967第58回直木三十五賞「アメリカひじき」「火垂るの墓」
1968第6回「婦人公論」読者賞「プレイボーイの子守歌」
1971第4回小説現代ゴールデン読者賞「砂絵呪縛後日怪談」
1985第1回講談社エッセイ賞「我が闘争こけつまろびつ闇を撃つ」
1997第31回吉川英治文学賞「同心円」
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