年 | 年齢 | 事項 |
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1930 | 0 | 10月10日、神奈川県鎌倉郡鎌倉町に父・相如(すけゆき)、母・ヌイの次男として生まれる 。父は当時東京府建設局の役人で、のちに新潟県副知事を務め、随筆家としても知られた。母は昭如を出産し、3ヶ月後に死去。 |
1931 | 1 | 4月、神戸市永手町の張満谷善三家の養子となる。養父は石油製品を扱う貿易会社の関西支配人、養母は生母・ヌイの妹にあたる。 |
1936 | 6 | 永手町から灘区へ引っ越す。 |
1937 | 7 | 4月、神戸市立成徳小学校入学。 |
1941 | 11 | 4月、養女紀久子が来るが、11月に病死。 |
1943 | 13 | 3月、成徳小学校卒業。4月、神戸市立第一中学校へ入学。秋、出征兵士留守宅の農家に動員される。 |
1944 | 14 | 3月、2人目の養女・恵子が来る。 |
1945 | 15 | 6月5日の神戸大空襲で、灘区中郷町の家を全焼。養父は死去、養母は重傷で入院。西宮市の親戚宅に寄寓する。8月、疎開先の福井県で終戦を迎える。養女・恵子は栄養失調の為死去。9月、養父の兄を頼り大阪府守口市北寺方へ。12月、大阪市立中学校に転校。 |
1947 | 17 | 3月、大阪市立中学校を4年修了後退学。10月、養母の実家を頼って上京。11月、窃盗罪により、多摩少年院中野出張所に入れられる。12月、実父に引き取られ新潟へ行く。野坂の姓にもどる。 |
1948 | 18 | 4月、旧制新潟高等学校文科乙類に入学。 |
1949 | 19 | 4月、学制改革により新潟大学教育学部(新発田分校)1年となるが、3日後に退学届を出す。 |
1950 | 20 | 4月、早稲田大学文学部仏文科に入学。実家からの送金を使い果たし、様々な職種のアルバイトに精を出す。 |
1953 | 23 | 11月、新潟へ戻る。 |
1954 | 24 | アルコール中毒治療の為、新潟大学付附属病院精神科に入院。退院後、新潟県下の専門僧堂大栄寺に入門。 |
1955 | 25 | 春、父の参議院議員補欠選挙立候補の応援をするが、父は落選。義母の援助を受けて上京。知人の紹介で写譜屋を始める。暮れから三木鶏郎音楽事務所の事務員となる。 |
1956 | 26 | 4月、音楽事務所が「冗談工房」となりマネージャーとなったが、11月、経理ミスにより馘となる。以後、阿木由起夫のペンネームでさかんにコントを書く。 |
1957 | 27 | 3月、授業料納入を停止して、早大仏文科を抹籍処分となる。10月、「TV工房」の責任者となる。この年からCMソングの作詞を始め、数多くのヒット曲を出す。 |
1959 | 29 | テレビ番組の台本を始め、放送作家としてラジオ18本、テレビ6本のレギュラー番組を担当。 |
1960 | 30 | 放送作家の危機を予見し、漫才,CMタレント,ファッションモデルを試みるが、いずれも不成功に終わる。 |
1961 | 31 | 1月、「週刊公論」のコラムを受け持つ。以後「週刊現代」「週刊文春」等のコラム欄も担当。 |
1962 | 32 | 8月、コラム集『現代野郎入門』(久保書店)を処女出版。12月、タカラジェンヌの藍葉子(本名・野村暘子)と結婚。 |
1963 | 33 | 12月、「おもちゃのチャチャチャ」レコード大賞作詞賞受賞。 |
1966 | 36 | 3月、初の長編小説『エロ事師たち』(講談社)刊行。今村昌平監督により『エロ事師たち』が「人類学入門」という題名で映画化。 |
1968 | 38 | 1月、「アメリカひじき」「火垂るの墓」により第58回直木賞受賞。エッセイ「プレイボーイの子守唄」により第6回「婦人公論」読者賞受賞。アメリカ民主党大会取材の為渡米。9月、アメリカのクノップ社より『エロ事師たち』の英訳が刊行。10月、再度アメリカ・ヨーロッパへ旅行。 |
1969 | 39 | 1月、野間宏ら60名とともに全共闘支持を表明。10月、CBSソニーよりレコードを発売、歌手デビュー。 |
1970 | 40 | 2月、キックボクシングをはじめる。春より、キャバレーの全国歌行脚が始まる。テレビ出演も多くなる。9月、家族とヨーロッパ旅行。 |
1971 | 41 | 6月より「名画劇場」の解説を担当。11月、日比谷公会堂で「野坂昭如リサイタル」を開催。12月、「砂絵呪縛後日怪談」で第4回小説現代ゴールデン読者賞受賞。 |
1972 | 42 | 6月、雑誌「面白半分」編集長を担当。7月号に掲載の「四畳半襖の下張」が猥褻文書販売等の疑いで東京地検に書類送検される。 |
1973 | 43 | 「四畳半襖の下張」掲載問題で東京地検に起訴される。9月、裁判第1回公判。12月、第2回公判で特別弁護人の丸谷才一が出廷。ラグビーチーム“アドリブ倶楽部”を結成。 |
1974 | 44 | 3月、第3回公判に五木寛之、井上ひさしが出廷。4月、第4回公判には吉行淳之介、開高健が出廷。7月、参院選挙東京地方区に無所属で立候補、次点で落選。10月、日本ペンクラブの体質改善を要求して、五木寛之らと集団入会。12月、日本ペンクラブ理事に就任。 |
1975 | 45 | 5月、埼玉県に“アドリブ農場”を主宰、田植えをする。10月、ヨーロッパへ3週間の取材旅行。 |
1976 | 46 | 4月、「4畳半」裁判は東京地裁で罰金刑の有罪判決を受け、上訴。 |
1977 | 47 | 2月、渋谷公会堂で「歌手引退リサイタル」。10月、日比谷公会堂で「歌手復活コンサート」。 |
1978 | 48 | 5月、胃潰瘍手術のため入院。8月、父・相如、死去。9月、アメリカ国務省の招待で米旅行。 |
1979 | 49 | 「4畳半」裁判第二審は一審の判決を支持、控訴を棄却。 |
1980 | 50 | 4月、新宿厚生年金会館でコンサート。11月、「4畳半」裁判、最高裁で有罪決定。 |
1982 | 52 | 2月、『坂口安吾選集』(全12巻)講談社刊の編集を担当。全巻に「解説」を執筆。 |
1983 | 53 | ビデオ映画「幻の女」を監督し、自らも出演。6月、参院選に二院クラブから比例代表で立候補し当選、議員に。11月、衆院選で金権政治を批判して議員辞職し、故田中角栄元首相の選挙区の新潟三区からの立候補を表明。12月、新潟県長岡市で遊説中、暴漢に襲われるが無事。選挙は落選。 |
1985 | 55 | 『我が闘争 こけつまろびつ闇を撃つ』、第1回講談社エッセイ賞受賞。 |
1987 | 57 | 4月、テレビでレポーターを始める。9月、新潮社が新設した山本周五郎賞の選考委員となる。12月、帝国ホテルで“野坂昭如・暘子ご夫妻の銀婚を祝う会”が開かれる。 |
1988 | 58 | 高畑勲監督により『火垂るの墓』、アニメとして映画化。フランス語訳の『火垂るの墓』刊行。5月、渡仏。 |
1989 | 59 | アニメ「火垂るの墓」の印税などをもとに現代日本文学、絵画、音楽などを紹介する目的で「東西南北縦横斜めの会」発足現在、海外で上梓された小説12種。 |
1997 | 67 | 『同心円』で第31回吉川英治文学賞受賞。 |
1999 | 69 | 『戦争童話集―忘れてはイケナイ物語り』全12話、映像化完成。 |
2001 | 71 | 7月、参院選で自由連合の比例代表候補として立候補、落選。公式ホームページ公開開始。 |