こん とうこう今 東光
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明治31~昭和52
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ジャンル:
小説家
- 出身:横浜市
PROFILE
兵庫県神戸市と兵庫県豊岡市に居住。兵庫県が舞台の作品に『悪童』『悪太郎』『運命』がある。 明治31年(1898)横浜市の生まれ。父親が日本郵船の船長だったため、幼いころから各地を転々とし、奔放な性格から関西学院中学部・豊岡中学を退学処分となった。一度画家を目指し二科展に出品したが落選。文学へ転向する。川端康成を識り、第6次「新思潮」「文藝春秋」「文芸時代」の同人となり、“新感覚派”作家として世に出た。『軍艦』『痩せた花嫁』などの作品で作家としての地位を確立するが、まもなく菊池寛に反逆して文壇を離れ、32歳の時に出家。法名は春聴。昭和26年(1951)、大阪府河内郡八尾の天台院の住職となった。この河内での生活が縁で、執筆活動を再開し、河内地方の歴史、人情、風俗を素材として感性豊かで人間味溢れる『闘鶏』『悪名』など一連の“河内もの”を発表し、その多くが映画化され、流行作家として不動の地位を築く。昭和32年(1957)、59歳の時、歴史小説『お吟さま』が直木賞を受賞。文壇に復帰してから旺盛な筆力で『闘鶏』『河内風土記』等代表作を発表する一方、各地の天台寺院の復興に力を尽くし、大僧正にも任じられた。晩年、平泉中尊寺貫主、参議院議員などをつとめたが、昭和52年(1977)9月、結腸がんのため、千葉・国立下志津病院で死去。79歳で亡くなる。 作家の瀬戸内寂聴氏は今春聴大僧正の弟子。春聴大僧正のもとで出家し、聴をもらい、寂聴と法名をつけてもらった。 直木賞作家の今日出海は実弟。
《 略年譜 》
年 |
年齢 |
事項 |
1898 |
0 |
父・武平(当時満30歳)、母・綾(満29歳)の長男として横浜市伊勢町に生まれる。父は日本郵船の船長だったため、幼いころから各地を転々とした。 |
1907 |
9 |
函館、小樽、横浜と転々としたあと、神戸市中山手通に転居。大阪に住む叔父・木村一方に寄宿。陸軍軍人だった叔父の厳格な教育に反抗した。 |
1912 |
14 |
関西学院中学部入学。 |
1915 |
17 |
春、1学期に諭旨退学になる。学校関係者の娘と恋愛事件をおこしたため。秋、城崎郡豊岡町の県立豊岡中学3年に編入されるが放校処分になる。暮れ、上京。 |
1916 |
18 |
母の義兄の家に下宿し画塾に通う。家は小石川茗荷谷の津軽伯爵邸内にあったが、小間使いと恋愛関係になり、家を出され下宿生活に入る。 |
1917 |
19 |
友人の画家・関根正二の紹介で東郷青児と交わる。又、生田長江の紹介で佐藤春夫を知り、さらに生涯の師となる谷崎潤一郎と出会う。 |
1918 |
20 |
文学活動の中で川端康成と出会う。モグリ学生として一高の講議を受けていたのもこの頃。 |
1920 |
22 |
谷崎潤一郎が「大正活動写真会社」の顧問となり、その名目上の秘書として出入りする。 |
1921 |
23 |
川端康成らと第六次「新思潮」を創刊。 |
1923 |
25 |
菊池寛、川端康成らと「文藝春秋」を創刊。 |
1924 |
26 |
川端康成、横光利一らと「文芸時代」を創刊。これにより新感覚派を起こす。又、ドストエフスキー著「流人の家」を翻訳、春陽堂より刊行。 |
1925 |
27 |
『痩せた花嫁』(創作集)を刊行。新聞・文芸誌等で積極的に作品を発表する。 |
1926 |
28 |
「小泉八雲随筆集」を翻訳、人文会出版部より刊行。 |
1927 |
29 |
阪東妻三郎が個人プロダクション設立を機に阪妻プロ顧問となる。 |
1930 |
32 |
10月、東京・浅草寺伝法院で大森亮順大僧正を戒師に出家。法名は春聴。以後、昭和8年(1933)まで断続的に比叡山延暦寺に籠り修行。その後20余年文学から離れ、易学などの研究を行う。 |
1934 |
36 |
比叡山より下り茨城県安楽寺に入る。 |
1935 |
37 |
「僧兵」(政教書院)を発表。 |
1941 |
43 |
「今氏易学史」(紀元書房)を発表。 |
1946 |
48 |
11月、蜂谷きよと結婚。 |
1948 |
50 |
8月、法務省の外郭団体、刑務協会文化部長に就任。 |
1950 |
52 |
春日大社、四天王寺で易占講習会を始める。 |
1951 |
53 |
大阪府八尾市中野の天台院の住職になり、河内に移り天台院の復興にあたる。小説をまた再び書き出す。 |
1953 |
55 |
産経新聞記者だった司馬遼太郎を識る。 |
1956 |
58 |
1月、母・綾、死去。4月、帝塚山学院の講師に就任。 |
1957 |
59 |
1月、阪本勝(後の兵庫県知事)の推薦もあって宗教新聞・中外日報の社長になる。『お吟さま』を裏千家家元の機関誌「淡交」に連載。『お吟さま』により第36回直木賞を受賞。20数年ぶりの文壇復帰として話題を集めるとともに多数の連載を開始。 |
1958 |
60 |
四天王寺学園、相愛女子短大の講師を委嘱され、比較文学を講議。4月、中外日報に司馬遼太郎の連載小説「梟のいる都城」(後に「梟の城」に改題。直木賞受賞作)を掲載する。 |
1959 |
61 |
『みみずく説法』を中央公論社より刊行。 |
1960 |
62 |
11月、南米を歴訪。12月、大阪府貝塚市の天台宗水間寺貫主に就任。 |
1964 |
66 |
4月、欧米9ヵ国22都市を歴訪。バチカンではローマ法王パウロ6世と会見。 |
1965 |
67 |
7月、師・谷崎潤一郎が亡くなり、葬儀で導師を務める。 |
1966 |
68 |
5月、権大僧正として岩手県平泉の中尊寺貫主になる。 |
1968 |
70 |
7月、自民党より出馬し参議院議員になり1期つとめる。川端康成が選挙事務長を務めた。 |
1971 |
73 |
3月、大僧正に昇進。 |
1972 |
74 |
4月、親友・川端康成を失う。友人代表として弔辞を読む。11月、『今東光代表作選集』(全6巻)を読売新聞社より刊行。 |
1973 |
75 |
11月、中尊寺で瀬戸内晴美が得度剃髪。師僧として法名・寂聴を授ける。 |
1975 |
77 |
6月、千葉県に転居。9月、「極道辻説法」の連載スタート。12月、銀座でクロッキー展を開く。 |
1976 |
78 |
1月、岩手県・天台寺住職を兼務。8月、二科展に「裸婦」を出品、入選。 |
1977 |
79 |
9月、結腸がんのため千葉・国立下志津病院で死去。戒名は大文頴心院大僧正東光春聽大和尚 |
- 逝去地
- 千葉県
- 兵庫県との関係
- 居住 舞台 豊岡『悪太郎』 神戸『悪童』
代表作品
作品名 |
刊行年 |
版元 |
備考 |
お吟さま |
1957 |
淡交社 |
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闘鶏 |
1957 |
角川書店 |
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河内風土記 |
1960 |
新潮社 |
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こつまなんきん |
1960 |
講談社 |
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愛染時雨 |
1962 |
新潮社 |
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今氏・易学史 |
1966 |
紀元書房 |
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毒舌日本史 |
1972 |
文藝春秋 |
|
痩せた花嫁 |
1972 |
集英社 |
|
毒舌文壇史 |
1973 |
徳間書店 |
|
おゝ反逆の青春 |
1975 |
平河出版社 |
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極道辻説法 |
1976 |
集英社 |
|
青春放浪 |
1976 |
光文社 |
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悪太郎 |
1981 |
角川書店 |
|
河内カルメン |
1983 |
徳間書店 |
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河内ぞろ |
1984 |
徳間書店 |
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愛染地獄 |
1984 |
徳間書店 |
|
弓削道鏡 |
1985 |
徳間書店 |
|
武蔵望弁慶 1 |
1985 |
徳間書店 |
|
蒼き蝦夷の血. 2 |
1993 |
徳間書店 |
|
毒舌・仏教入門 |
1993 |
集英社 |
|
毒舌身の上相談 |
1994 |
集英社 |
|
乱世の勝者敗者 |
1994 |
講談社 |
戦国小説集 |
お吟さま |
1996 |
講談社 |
|
今東光 |
1998 |
リブリオ出版 |
|
東光金蘭帖 |
2005 |
中央公論新社 |
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受賞歴
受賞年 |
受賞内容 |
受賞作品 |
1956 |
第36回直木三十五賞 |
「お吟さま」 |
兵庫ゆかりの作品
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