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兵庫ゆかりの文学

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こん とうこう今 東光

  • 明治31~昭和52(1898~1977)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:横浜市

作品名

運命

概要

母校を訪ねて

雨に打たれる山桜を車窓に眺めたかと思うと、兵庫県豊岡市の駅についた。ニッポン放送の小幡駿吉君が後輩として同行してくれた。駅には旧友戸田卓治君が迎えてくれた。雨の市内をゆるゆると車をやりながら、かつて僕の住んだあたりを通り、豊岡高校へ行く。四月二十日、今日は同窓会の達徳会の総会で話をする約束だが、僕の頭の中は四十年の昔に還っていた。
僕は冒頭、こんな風に語りはじめた。
「今から四十年前、学生にあるまじい非行のため放校処分となって、不名誉な烙印を押された一人の学生が、四十年後の今日、愛情と善意によって迎えられ、かつての母校の壇上に立つことを許されたことは、歴史にまれな美談だと思うのであります。この美談は、私の側にあるのではなく、皆様こそ美談の主であります。数々の不幸を重ねた私の母が、もし生きてこの盛儀をながめたならば、汚辱のわが子のために泣いた母は、もう一度、声を放って嬉し泣きに泣くでありましょう」
そう言いながら不覚にも僕は胸が迫った。
西垣会長はじめ、泣いておられた方を少なからず拝見した。実際、四十余年の長い歳月を教師として奉職された福徳先生(旧名井坂先生)だけが唯一人、僕を知って下さる方だった。
大正四年の夏だった。神戸の郊外・原田村にあった関西学院中学部を諭旨退学になった僕は、飄然とこの但馬国の豊岡という円山川に臨んだ小さな町に着き、海士屋という宿に落ちついた。海士屋の宿の欄干にもたれてながめると、脚下を水量ゆたかな円山川が流れ、白帆の行方を見ると、はるか玄武洞、城崎温泉、日和山とつづいて、このうらぶれた北国の風光は、失意の少年の胸を旅愁でかきむしるのであった。
城崎温泉につれていくという母の甘言に釣られて、学校をやめさせられた劣等生のくせに、欣々然として十八歳の僕は汽車に乗ったが、この田舎町で降ろされると、欺されて近藤英也校長のところに預けられて仕舞った。奥州南部産の校長は、色あくまで白く、唇あくまで赤く、髭あくまで濃く、まさに典型的アイヌ人種だ。

転学試験

転学試験の日、僕は、ほんの近くなのに人力車に乗って行った。教師や学生が歩いているのを追い越しながら、ざま見ろ、と思ったな。僕は母に欺されたのが忌々しいから、覚えていろと猛り立って出かけて行ったのだ。
玄関を入って左が校長室、右が薄暗い応接室で、突き当りが教員室、その右が五段ほどの階段になって、その下に小使部屋があった。小使室に僕を入れて三人の学生が待たされた。ガラス越しにたくさんの坊主頭と目玉が並んでいる。水族館でも見てるつもりなんだろう。僕は自分がながめられていると意識すると、むらむら反抗心が起った。その時、鐘が鳴った。
僕は袂から敷島を一本とりだすと、すぱすぱ吸いはじめた。小使と二人の学生は、目玉を開けるだけ見開いて見ている。
試験場は応接間だった。三人の目の前に図画を教えていた野口先生が試験答案をくばった。二人の学生は左の腕で袖屏風をつくって書きはじめた。僕がのぞくと思ったのであろうか。ケチな野郎だと腹が立った。僕は、いきなりどの問題にも○を書いて、ぽいと放り出した。野口先生はそれを持つと、
「ちょっと待ってなよ」
と言いながら、廊下ひとつへだてた校長室へ行った。入れちがいに近藤校長ははいって来るなり、
「どれも出来んのかね、一つとして」
「出来ません」
「そうか。お前は零点だったら落第だから、この次は東京へ行けると思っとるんだろうが、そうは問屋がおろさんぞ。お前は三年を志望したが、学力未熟につき三年は落第だが、二年に入学を許可する。人生は永いんだから、まあ、ゆっくりやるサ」
校長は顎鬚をじゃりじゃりと掻きながら楽しそうに笑った。これには驚いたな。こんな計算はしていなかった。こんな田舎町に島流しになって、もう一年余分にやるんじゃたまらない。アイヌに負けたと思った。
(後略)

『兵庫県文学読本 近代篇』 のじぎく文庫 130?133P

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