PROFILE
神戸市須磨区に居住。兵庫県ゆかりの作品に『大空』がある。明治18年(1885)鳥取生まれ。少年の頃から成績優秀で、明治30年(1897)鳥取尋常中学入学後、明治33年(1900)に先輩の坂本四方太主宰の俳句会「卯の花会」に刺激されて句作を始める。中学卒業後は第一高等学校文科に入り、一級上の先輩荻原井泉水の起こした一高俳句会で句作を続けた。一高を卒業後は東京帝国大学法学部に入学。しかし、法学よりも哲学、宗教に興味を示した。俳句では「芳哉」の号で「ホトトギス」や「国民新聞」に投句した。大学卒業後東洋生命保険会社に勤務するが、保険会社の仕事内容に反発を感じ、酒癖の悪さが昂じていった。その後、大正11年(1922)に朝鮮火災保険株式会社の支配人として赴任するが、赴任の条件だった禁酒の約束が守れず一年で退職させられる。一文無しになり、京都市左京区の一燈園に入って下男奉公の道を選んだ。しかし、酒癖の悪さは治らず、知恩院常称院の寺男になったとき、酒の失敗で寺を追い出されたりした。大正13年(1924)6月には須磨寺大師堂の堂主となったが、須磨寺の内紛のため寺を追われ、各地の寺を転々とする。大正14年(1925)8月、友人荻原井泉水の紹介で、小豆島の蓮華院西光寺奥ノ院南郷庵の庵主となるが、この年の末に急性気管支炎を患い、大正15年(1926)4月に死去した。
《 略年譜 》
年 | 年齢 | 事項 |
---|
1885 | 0 | 1月20日、鳥取県邑美郡吉方町に父信三、母なかの次男として生まれる。 |
1891 | 6 | 立志尋常小学校に入学 |
1895 | 10 | 鳥取高等小学校に進学 |
1897 | 12 | 鳥取尋常中学校(その後鳥取県第一中学校に校名変更)に進学。 |
1899 | 14 | この頃から俳句を作り始める。 |
1902 | 17 | 鳥取県立第一中学校卒業。第一高等学校文科に入学。 |
1903 | 18 | 一高俳句会に参加し、荻原井泉水を知る。 |
1905 | 20 | 9月東京帝国大学法学部に入学。 |
1906 | 21 | 2月「ホトトギス」に二句入選。4月、「国民俳壇」に一句入選。俳号は「芳哉」。この頃から法律よりも哲学、宗教に強い関心を示すようになる。 |
1907 | 22 | 俳号を「芳哉」から「放哉」に変える。 |
1908 | 23 | 10月、東京帝国大学政治学科卒業。 |
1910 | 25 | この年か翌年の初めに東洋生命保険会社に内勤員として就職。契約課に配属される。 |
1911 | 26 | 1月26日、坂根馨と結婚。 |
1914 | 29 | 東洋生命大阪支店次長として赴任。天王寺に住む。 |
1915 | 30 | 大阪から帰京。荻原井泉水の句誌「層雲」に初めて放哉の句が掲載される。 |
1921 | 36 | 東洋生命を退社。契約課長を罷免されたことが原因であったといわれる。 |
1922 | 37 | 鳥取に帰り、料亭に入り浸るようになる。禁酒を厳守することを条件に、朝鮮火災海上保険株式会社支配人の話が舞い込み、朝鮮に渡り、新会社発足のために奔走。 |
1923 | 38 | 禁酒が守れなかったことが原因で、朝鮮海上火災を退職させられる。7月末、満州に渡り、病を得て10月頃帰国。関東大震災のため東京に帰れず、長崎に身を寄せる。妻、馨とも別居し、12月23日、西田天香が主宰する京都市左京区の一燈園に入る。 |
1924 | 39 | 一燈園の過酷な労働に身体が続かず、知恩院常称院の寺男となるが、4月3日、荻原井泉水と久しぶりで会食した席上、酒の勢いで常称院住職を立腹させ、寺を追い出される。6月、神戸の須磨寺に入る。 |
1925 | 40 | 須磨寺の内紛のために須磨寺を去り、4月、一燈園に戻る。5月、福井県小浜町浅間の常高寺の寺男になるが、7月、常高寺破産のため去り、京都の龍岸寺に身を寄せる。しかし、肉体労働に耐え切れず、8月、荻原井泉水に見送られて小豆島に渡り、西光寺南郷庵に入る。10月、「左肋膜癒着」と診断される。 |
1926 | 41 | 3月、咽喉結核が進み、食事が喉を通らなくなる。荻原井泉水が京都の大学病院で診察を受けさせようとするが、放哉は拒絶する。4月7日に死去した。 |
- 逝去地
- 香川県小豆島
- 兵庫県との関係
- 居住(神戸市) 須磨
代表作品
関連情報
場所 | 説明 | 内容 |
---|
神戸市須磨区須磨寺町4須磨寺大師堂 | 句碑 | こんなよい月をひとりで見て寝る |
文学碑
Copyright © Net Museum Hyogo Bungakukan All Rights Reserved.