ウェンセスラウ・デ・モラエスWenceslau de Moraes
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嘉永7~昭和4
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ジャンル:
日本文学研究家・海軍軍人
- 出身:リスボン
PROFILE
兵庫県神戸市に居住。兵庫県が舞台の作品に『おヨネとコハル』『尼さん』がある。 1854~1929。ポルトガル人で、明治から大正の日本文化を海外に紹介した文人。大正2年(1913)から死去するまでの16年間、徳島に住み庶民の中で日本式の生活を営んだ。主な代表作に『おヨネとコハル』『日本精神』などがあるモラエスは1854年、ポルトガルの首都リスボンに生まれ、海軍士官として東洋の植民地を転々とした後、45歳のとき神戸駐在の副領事として来日。ここで徳島出身の芸妓ヨネと結婚。ヨネの死後、軍籍を返上して徳島へ移住し、ヨネの姪(めい)コハルと結婚。しかしコハルも3年後に病死してしまい、以来孤独な生活の中、『おヨネとコハル』『徳島の盆踊り』『日本精神』などを書き残した。衣食住を和風で貫き、徳島をこよなく愛したモラエスは「ワタクシ ハ モシモ シニマシタラ トクシマデ ヤイテ クダサレ」と遺言を残し、75歳で生涯を終えた。
《 略年譜 》
年 | 年齢 | 事項 |
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1854 | 0 | 5月30日、ポルトガル・リスボンに生まれる。 |
1871 | 17 | 国立リスボン・リセ卒業,陸軍歩兵第5連隊に志願入隊。 |
1872 | 18 | 海軍特別見習い士官となる。 |
1873 | 19 | 海軍兵学校神学。この頃マリア・イザベル・ドス・サントスと知り合う。 |
1875 | 21 | 海軍兵学校卒業,海軍少尉任官。 |
1877 | 23 | モザンビーク勤務に就く。 |
1879 | 25 | 帰国。 |
1880 | 26 | 中尉昇進。 |
1881 | 27 | 再びモザンビーク勤務。 |
1883 | 29 | 帰国。 |
1885 | 31 | モザンビーク勤務後、砲艦「リオ・リマ」の副官として航海の途中、神経症が昂じ翌年帰国。 |
1886 | 32 | 帰国。大尉に昇進。モザンビーク勤務。 |
1888 | 34 | イザベルとの恋が破局。マカオ勤務、14歳の亜珍を引き取る。 |
1889 | 35 | 「リオ・リマ」で長崎入港。 |
1890 | 36 | 「テージョ」臨時艦長就任。 |
1891 | 37 | 亜珍との間に長男ジョゼが生まれる。マカオ港港務副司令官任命。少佐に昇進、阿片輸出入取締官となる。亜珍を身請け。 |
1893 | 39 | セミリオ・デ・サン・ジョゼの教授に任命。兵器購入のため日本出張。 |
1894 | 40 | 阿片輸出入取締官辞任。気性観測機器購入のため日本出張。 |
1895 | 41 | 『大日本』執筆取材のため来日。リスボンで処女作『極東遊記』出版。 |
1896 | 42 | 兵器購入のため日本出張。 |
1897 | 43 | 日本におけるポルトガル外交使節書記官になる。 |
1898 | 44 | 神戸大阪領事館臨時運営を命じられる。 |
1899 | 45 | 副領事就任、さらに神戸大阪領事となる。 |
1900 | 46 | 福本ヨネと結婚。 |
1902 | 48 | イタリア領事兼任。 |
1905 | 51 | 神戸で『茶の湯』自費出版。 |
1909 | 55 | 城崎温泉を訪れる。 |
1912 | 58 | ヨネ病死。神戸大阪総領事任命。 |
1913 | 59 | 公職を辞任し徳島に転居。斎藤コハルと同棲。 |
1916 | 62 | コハル死亡。 |
1929 | 75 | 7月1日、自宅土間で事故死。 |
- 逝去地
- 徳島県伊賀町
- 兵庫県との関係
- 居住 舞台
代表作品
作品名 | 刊行年 | 版元 | 備考 |
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日本通信 | 1583 | リスボン | |
極東遊記 | 1895 | リスボン | |
大日本 | 1897 | リスボン | |
茶の湯 | 1905 | 神戸:自費 | |
支那と日本の風景 | 1905 | リスボン | |
徳島の盆踊 | 1916 | リスボン | |
おヨネとコハル | 1923 | ポルト | |
日本夜話 | 1926 | リスボン | |
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