年 | 年齢 | 事項 |
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1867 | 0 | 2月9日、江戸牛込馬場下横町(現・新宿区牛込喜久井町)に、父・小兵衛直克、母・千枝の五男三女の末子として生まれる。 |
1872 | 5 | 諏訪町へ転居する。 |
1874 | 7 | 12月、第一大学区第五中学区八番小学(戸田学校)が浅草寿町に開校され、その下等小学第八級に入学。 |
1875 | 8 | 5月、成績優秀により、第八級、第七級を同時卒業し、11月、第六級、第五級も同時卒業。 |
1876 | 9 | 第一大学区第三中学区第四番小学(市谷学校)に転校。10月、同校を卒業する。 |
1877 | 10 | 5月、市谷学校の下等小学第二級を卒業。学業優秀で表彰される。11月、市谷学校の下等小学第一級を卒業。 |
1878 | 11 | 2月、「正成論」を友人との廻覧雑誌に発表。4月、神田猿楽町の第一大学区第四中学区第二番公立小学(錦華学校)の小学尋常科第二級後期入学。10月、同校同級を卒業。 |
1879 | 12 | 神田一ツ橋の東京府立第一中学校(現・東京都立日々谷高校)に入学。 |
1881 | 14 | 春頃、二松学舎に転校。漢学を学び始め、多くの漢書や小説を読み、文学に興味を持ち始める。 |
1883 | 16 | 9月、大学予備門受験のため、神田駿河台の成立学舎に入学。英語を学ぶ。 |
1884 | 17 | 小石川極楽(現・文京区竹早町)の新福寺の二階を借り、同級の橋本左五郎と自炊生活をするかたわら通学する。9月、成立学舎を卒業、大学予備門予科に入学。 |
1886 | 19 | 7月、病気のため学年試験が受けられず、落第。原級にとどまる。これが転機となって、以後は卒業まで首席を通す。また、自炊を決意し、中村是公とともに本所の江東義塾の教師となり、塾の寄宿舎に移る。 |
1888 | 21 | 7月、第一高等中学校予科を卒業。9月、本科英文科に進学する。 |
1889 | 22 | 1月、同級の正岡子規を知る。5月、病気療養中の子規を見舞う手紙に初めて俳句を記す。8月、学友と房総を旅行し、紀行漢詩文集「木屑録」を執筆。郷里松山で静養中の子規に送る。 |
1890 | 23 | 7月、第一高等中学校本科を卒業。8月から9月にかけて約20日間箱根に滞在し、漢詩十数首を作る。9月、東京帝国大学文科大学英文科に入学。 |
1891 | 24 | 7月、特待生となる。12月、J.M.ディクソン教授に頼まれ、「方丈記」を英訳する。 |
1892 | 25 | 5月、東京専門学校(後の早稲田大学)講師となる。松山で初めて高浜虚子に会う。 |
1893 | 26 | 7月、文科大学英文学科卒業、同大学大学院入学。10月、東京高等師範学校英語教授に就任する。 |
1895 | 28 | 4月、高等師範学校と東京専門学校を辞職、松山中学教諭となって赴任する。12月、上京。中根鏡子と見合いをし、婚約が成立。 |
1896 | 29 | 4月、松山中学を辞職し、第五高等学校講師となって赴任。6月、中根鏡子と結婚。7月、第五高等学校教授に就任。10月、「人生」を校友会誌に発表。 |
1897 | 30 | 6月、実父直克死去。7月、鏡子を伴って上京するが、滞在中に鏡子が流産、鎌倉に転地療養。9月、単身熊本に帰る。 |
1898 | 31 | 9月頃から寺田寅彦らに俳句を教え始める。 |
1899 | 32 | 5月、長女・筆子が誕生。6月、五高予科英語科主任を命ぜられる。 |
1900 | 33 | 4月、教頭心得となる。5月、文部省よりイギリス留学の命を受け、7月に上京し、9月には横浜を出帆した。10月、ロンドンに着き、76Cower Streetに下宿。 |
1901 | 34 | 1月、次女・恒子誕生。「文学論」執筆のため帰国までの1年半、下宿に閉じこもる。 |
1902 | 35 | 1月頃から「文学論」をまとめ始める。12月、ロンドンを発って帰途につく。出発直前に子規の訃報を知る。 |
1903 | 36 | 1月、東京に着き、妻子の住む中根家の離れに落ち着く。3月、本郷区駒込千駄木町(前・森鴎外の居宅。現・文京区千駄木)に転居。4月、第一高等学校講師兼東京帝国大学英文学科講師(前任者は小泉八雲)に就任。9月、東大で「文学論」を講じる。10月、三女・栄子誕生。 |
1904 | 37 | 12月、高浜虚子の勧めで創作の筆をとり、「我輩は猫である」(第一)を執筆。「山会」で朗読して好評を得る。 |
1905 | 38 | 1月「我輩は猫である」(第一)を「ホトトギス」に発表。たちまちその名を文壇に知らしめる。同月、「倫敦塔」を発表。2月より「我輩は猫である」の連載を開始する。10月、『我輩は猫である』上篇を服部書店(のち大倉書店)より刊行。20日間で初版が完売となる。12月、四女・愛子誕生。 |
1906 | 39 | 4月、「坊っちゃん」を「ホトトギス」に発表。9月、「草枕」を「新小説」に発表。10月中旬、鈴木三重吉の提案で毎週木曜日の午後3時以降を面会日と定め、これが後に「木曜会」と称されるようになる。11月、『我輩は猫である』中篇を大倉書店より刊行。 |
1907 | 40 | 1月、短編集『鶉籠』を春陽堂より発行。4月、朝日新聞に入社。6月23日から10月29日まで「虞美人草」を「朝日新聞」に連載。6月、長男・純一誕生。同月、『我輩は猫である』下篇を大倉書店より刊行。 |
1908 | 41 | 1月、春陽堂より『虞美人草』を刊行。1月1日から4月6日まで「坑夫」を「朝日新聞」に、6月13日から21日まで「文鳥」を、7月25日から8月5日まで「夢十夜」を、9月1日から12月29日まで「三四郎」を「朝日新聞」に連載。次男・伸六誕生。9月、『草枕』を春陽堂より刊行する。 |
1909 | 42 | 1月14日から2月14日まで「永日小品」を、6月27日から10月14日まで「それから」を「朝日新聞」に連載。9月、46日間の満韓旅行に出発する。10月、帰京。しばしば胃痛に苦しむ。3月、『文学評論』を、5月『三四郎』を春陽堂より刊行。 |
1910 | 43 | 3月1日から6月12日まで「門」を「朝日新聞」に連載。3月、五女・ひな子誕生。8月、転地療養のため伊豆修善寺へ赴くが、病状が悪化し、一時危篤に陥った。(修善寺大患と呼ばれる)10月、病状回復し、帰京。 |
1911 | 44 | 1月、『門』を春陽堂より刊行。2月、博士会から文学博士号授与の通知を受け、辞退を願うが受け入れられず、文部省との折衡が続く。8月13日、兵庫県明石市中崎公会堂の落成記念として「道楽と職業」と題して講演。その後、和歌山、堺、大阪でも講演会を行った。 |
1912 | 45 | 1月1日から4月29日まで「彼岸過迄」を「朝日新聞」に連載。9月、春陽堂より『彼岸過迄』を刊行。12月6日から「行人」を「朝日新聞」に連載。 |
1913 | 46 | 強度の神経衰弱と胃潰瘍に見舞われ、「行人」の連載が4月7日で中絶。その続稿として「塵労」を9月16日から11月5日まで連載。 |
1914 | 47 | 1月、大倉書店より『行人』を刊行。4月20日から8月11日まで「こころ」を「朝日新聞」に連載。これ以後、書画の世界に没入する。10月、大倉書店より『心』を刊行。11月、学習院で「私の個人主義」と題して講演。 |
1915 | 48 | 1月13日から2月23日まで「硝子戸の中」を「朝日新聞」に連載。4月、『硝子戸の中』を岩波書店より刊行。6月3日から9月10日まで「道草」を「朝日新聞」に連載。12月、芥川龍之介、久米正雄が門下生となる。 |
1916 | 49 | 1月、湯河原の中村是公のもとに転地。5月、胃の具合が悪くて寝込むが、26日から「明暗」を「朝日新聞」に連載。12月、病状が悪化し、9日死去。連載中の「明暗」は未完となった。 |