年 | 年齢 | 事項 |
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1904 | 0 | 6月1日、長崎市、祖母の弟田中梅太郎方で生まれる。本名イネ。実の父・田島正文(18歳)は旧制中学生。母・高柳ユキ(15歳)も女学生だった為、梅太郎方に行儀見習いにきていた山本マサの私生児として届けられる。 |
1905 | 1 | 2月、梅太郎とマサの結婚によって、戸籍上では同夫婦の長女となる。 |
1906 | 2 | 11月、弟・正人誕生。これを機に両親が婚姻届を提出。 |
1908 | 4 | 7月、実の両親の結婚により、田島正文・ユキの養女として入籍。 |
1911 | 7 | 4月、長崎市勝山尋常小学校に入学。8月、母・ユキ(22歳)肺結核で死去。 |
1915 | 11 | 10月、叔父・佐田秀美をたより一家をあげて上京。本所向島小梅町に住む。貧窮に陥ったため5年生の途中で通学をやめて、12月より和泉橋のキャラメル工場に通う。 |
1916 | 12 | 浅草の中華そば屋に目見得にでたあと、上野の料亭・清凌亭に奉公する。8月、叔父秀実心臓脚気で死去。 |
1918 | 14 | 兵庫県相生市の播磨造船所に再就職した父のもとに引き取られる。相生滞在中、「少女の友」や「女学世界」に田島イネ子の名で短文や短歌を投書、掲載されたこともある。 |
1919 | 15 | 料亭で芥川龍之介、菊池寛、久米正雄らと顔見知りになる。 |
1919 | 15 | 東京に残った祖母を助けるため、父のもとを離れて上京。上野の料亭・清凌亭の座敷女中となる。 |
1920 | 16 | 日本橋丸善書店洋品部の女店員となる。 |
1922 | 18 | 生田春月主宰の「詩と人生」の準同人となり、夜思美という筆名で詩を書く。 |
1924 | 20 | 4月、慶応大学の学生で資産家であった小堀槐三と結婚。蒲田に住む。 |
1925 | 21 | 2月、陰惨な結婚生活に疲れ、夫とともに自殺を計るが、一命をとりとめる。兵庫県相生町の父のもとにつれ戻され、6月長女葉子を出産。以後、小堀家には帰らず事実上離婚となる。 |
1926 | 22 | 1月、一家で上京。3月、本郷動坂のカフェ「紅縁」の女給となる。4月、「驢馬」創刊。「紅縁」に集まる同人の中野重治、堀辰雄、窪川鶴次郎、西沢隆二、宮本喜久雄等と邂逅。やがて鶴次郎と恋愛、7月頃事実上結婚。 |
1927 | 23 | 3月、「驢馬」十号に田島いね子の名で詩2編を発表。「紅縁」をやめ、筆耕などで働く。この頃より中野重治や夫鶴次郎等の影響のもとに左傾する。 |
1928 | 24 | 2月、『キャラメル工場から』を窪川いね子の名で「プロレタリア芸術」に発表。4月、全日本無産者芸術連盟(ナップ)に加盟。 |
1929 | 25 | 2月、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)に所属。5月、窪川に入籍。 |
1930 | 26 | 2月、長男健造誕生。12月、中条(宮本)百合子、湯浅芳子との交友がはじまる。 |
1931 | 27 | 11月、日本プロレタリア文化連盟(コップ)に加盟。同月、宮本百合子等と日本プロレタリア作家同盟婦人委員会、文化連盟婦人協議会の委員となり、連盟発行の「働く婦人」編集委員となる。 |
1932 | 28 | 3月、文化連盟への弾圧により、夫・鶴次郎は壷井繁治等とともに検挙される。4月、次女達枝誕生。同月、「働く婦人」の編集責任者となる。この頃日本共産党に入党。小林多喜二、宮本顕治、西沢隆二、杉本良吉、手塚英孝等と非合法の連絡をとり、文化連盟の活動に奔走。 |
1933 | 29 | 2月、小林多喜二が拷問により殺され。宮本百合子等とともに遺体と対面する。5月発行「大衆の友」最終号編集責任者となる。坂本署に一週間ほど留置される。 |
1935 | 31 | 戸塚署に逮捕され、6月に保釈されるが、「働く婦人」の編集を理由に起訴される。この頃、作家の仕事と妻の立場の矛盾に苦しむ。夫・鶴次郎に女性関係が生じ、結婚生活の危機に陥る。 |
1936 | 32 | 4月、父・正文佐賀にて死去。この頃より予審のため検事局に通う。また、アメリカより帰国した田村俊子を知る。 |
1937 | 33 | 4月、公判が開かれる。5月、懲役2年執行猶予3年の判決を受ける。 |
1938 | 34 | この頃、夫・鶴次郎と田村俊子の情事発覚。夫婦間の信頼崩れる。12月6日、俊子上海に渡る。 |
1939 | 35 | 2月、菊池寛賞の選考委員となる。 |
1940 | 36 | 6月から7月にかけて朝鮮総督府鉄道局に招待され、壷井栄とともに朝鮮を旅行。帰路、25年ぶりに故郷長崎を訪れる。この頃より戦時体制への抵抗の意志は次第に薄れる。 |
1941 | 37 | 6月、満州日日新新聞社の招待により浜本浩、永井龍男とともに満州を旅行。帰路、浜本浩とともに再び朝鮮を旅行。9月、朝日新聞社より小説家慰問部隊の一員として大佛次郎、林芙美子、横山隆一等と満州各地の戦地を慰問。 |
1942 | 38 | 3月から4月にかけて,浜本浩,豊島与志雄と文芸講演会のため台湾を一周。5月から6月にかけて軍当局の計画により、新潮社班として作品を「日の出」に発表。8月、軍の徴用により林芙美子、小山いと子、水木洋子とともにシンガポール・スマトラを戦地慰問。 |
1943 | 39 | 2月、祖母・タカ死去。早春スマトラより帰国。8月、第2回大東亜文学者決戦大会に代議員として出席。 |
1944 | 40 | 夫・鶴次郎は上海に本社のある鉄道会社東京支店に勤め、別居生活に入る。家庭生活は形だけのものとなり、執筆も殆ど出来なくなる。隣組の割り当てで、工場へ弾丸の包装に出たり防空訓練に出たりする。 |
1945 | 41 | 4月、中野区に2人の子どもを連れて転居。まもなく継母・ヨツと葉子も同居する。5月、夫鶴次郎と正式に離婚。秋頃より筆名佐多稲子を使用。11月、婦人民主クラブの創立準備の活動に加わる。 |
1946 | 42 | 3月、婦人民主クラブ創立,網領を起草し、発起人の一人となる。4月、叔父・佐田秀実の籍を起こし、戸籍上佐田イネとなる。この頃、湯浅芳子等と田村俊子会をつくる。8月、「婦人民主新聞」創刊。10月、日本共産党に再入党。 |
1947 | 43 | 4月、中野区鷺宮1丁目に転居。3月、長女葉子結婚。中野重治の参議院議員全国立候補選挙応援のため福井、新潟へ行く。同月、国際婦人デー大会に婦人民主クラブ委員の一人として参加。4月、新日本文学会東京支部長となる。 |
1948 | 44 | 3月、小林多喜二記念文芸講演会に蔵原惟人、窪川鶴次郎、中野重治等と出席。8月、都下北多摩郡小平町に転居。暮、党活動の一環として北海道各地へ講演旅行。朝里で多喜二の母を訪ねる。 |
1949 | 45 | 5月、羽仁説子、壷井栄、宮本百合子、湯浅芳子等有志20名とともに、声明書「平和を守り教育を憂うる女性の皆様へ」を発表。 |
1950 | 46 | 6月、マッカーサー指令により、共産党中央委員24名が公職追放される。この年より共産党臨時指導部は婦人民主クラブに対して干渉を強める。稲子等婦人民主クラブ中央委員は、婦民の主体性を守るため党の方針に反対。12月党と婦人民主クラブの対立が表面化。 |
1951 | 47 | 宮本百合子死去、その葬儀委員となる。3月、婦人民主クラブに対する共産党指導部の干渉に反対した行為により、共産党から除名処分を受ける。4月、長男・健造は反戦活動により検挙され、アメリカの軍事裁判にかけられるが、稲子はその釈放運動に奔走。5月、無罪釈放となる。 |
1952 | 48 | 5月、メーデー流血事件。7月、共産党臨時指導部の呼びかけで党復帰のため上申書を提出。8月、新宿区柏木に転居。9月、選挙応援のため江東地区をまわる。同月、メーデー事件の公判を傍聴。 |
1953 | 49 | 3月、新日本文学会金沢支部が主宰した「多喜二・百合子を偲ぶ文学祭」に出席するため、中野重治とともに金沢に行く。11月、長男健造結婚。 |
1954 | 50 | 4月、新日本文学会中央委員として「原水爆禁止を訴う」の声明文を発表。 |
1955 | 51 | 1月、共産党の分裂にからむ新文学会内部の混乱に苦しみ、その第7回大会直後の幹事会で常任幹事を辞退する。7月、共産党が反対派との統一をめざして「六全協」の新方針を打ち出したことにより、党への無条件復帰が正式に認められる。 |
1956 | 52 | 8月、原水爆禁止世界大会に新日本文学会を代表して参加のため、長崎に行く。12月、次女達枝結婚。 |
1957 | 53 | 8月、松川事件現地調査団に加わり松川に行く。調査途中、吐血。帰京後直ちに会追う病院に入院(9月まで)。十二指腸潰瘍と診断される。11月、肝臓ジストマのため順天堂病院に入院。 |
1958 | 54 | 1月、順天堂病院退院。3月、松川事件対策協議会の副会長となる。8月、松川事件の集会とデモに参加。11月、文芸家協会等の有志による警職法反対デモに参加。 |
1960 | 56 | 5月、室生犀星を囲んで「驢馬」の集まりを持つ。中野重治、原泉、西沢隆二、宮木喜久雄、室生朝子、堀多恵子、窪川鶴次郎、伊藤信吉等が出席。同月、安保批判の会代表の一人として国会内で岸首相に面会し、抗議する。 |
1961 | 57 | 2月、「テロに抗議し民主主義を守る集会」に中野重治等とともに出席、発言。3月下旬より4月上旬にかけてアジア・アフリカ作家会議の東京大会及び大阪大会に日本代表副団長の1人として参加。4月、田村俊子賞が設定され選考委員の一人となる。 |
1962 | 58 | 3月、室生犀星死去。追悼文を書く。この年より「婦人公論」女流文学賞の選考委員を担当。同月、ガガーリン少佐、ワレンチーナ夫人とソビエト大使館にて会談。 |
1963 | 59 | 1月、『女の宿』を講談社より刊行。4月、同作品が女流文学賞受賞。 |
1964 | 60 | 9月、孫の連太,心臓病の手術を受ける。10月、国分一太郎等十名とともに日本共産党の政治的思想的方針を批判し、党より除名される。 |
1965 | 61 | 6月、ベトナム反戦デモに参加。 |
1966 | 62 | 7月、ソ連作家同盟の招待により国分一太郎、長男健造とソ連を訪れ、帰路欧州各地を旅行。9月帰国。 |
1967 | 63 | 6月、壷井栄死去。新日本文学会を代表して弔辞を読む。数編の追悼文を書く。 |
1970 | 66 | 6月、婦人民主クラブ委員長となる。9月、壷井栄文学碑除幕式に出席の為、中野重治等とともに小豆島に。 |
1972 | 68 | 4月、川端康成自殺。通夜に参列し、6月、「川端さんとの縁」を「群像」に発表。 |
1973 | 69 | 4月、芸術院恩賜賞内諾を求められたが辞退。同月、田村俊子賞選考委員を辞める。6月、中野重治とともに壷井栄賞の選者となる。 |
1974 | 70 | 6月、窪川鶴次郎死去。 |
1976 | 72 | 1月、周恩来首相告別の為、婦人民主クラブを代表して中国大使館へ弔問。6月、『時に佇つ(その十一)』により川端康成賞を受賞。10月、毛沢東追悼集会に出席。 |
1977 | 73 | 6月、次女達枝等とともに東欧を旅行。 |
1978 | 74 | 5月、文芸家協会理事を辞退。7月、十二指腸潰瘍の為、入院。同月退院。 |
1979 | 75 | 8月、中野重治死去。9月、中野重治の告別式において葬儀委員長をつとめる。 |
1983 | 79 | 1月、『夏の栞-中野重治をおくる-』により毎日芸術賞を受賞。 |
1985 | 81 | 婦人民主クラブ委員長を辞める。 |
1998 | 94 | 10月12日、敗血症で死去。13日、通夜。14日、密葬。23日、渋谷区青山でお別れの会。 |