あかし かいじん明石 海人
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明治34~昭和14
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ジャンル:
歌人
- 出身:静岡県
PROFILE
兵庫県明石市に居住。明治34年(1901)静岡県生まれ。筆号は他に野田青明、明石無明などを用いた。沼津町立沼津商業学校、静岡師範学校を卒業後、小学校教諭として勤務。大正12年(1923)頃から作歌を始めるが、大正15年(1926)、ハンセン氏病と診断される。これにより、小学校教諭を退職させられ、昭和2年(1927)、明石第二楽生病院に入院した。その頃から、日記「明石病院時代の手記」を綴り始める。昭和6年(1931)の明石病院閉鎖後は岡山県邑久郡の長島愛生園に移って療養を続けたが、昭和7年(1932)頃には精神を病み、昭和11年(1936)には失明するなど、苦しい療養生活を強いられた。昭和9年(1934)から本格的に短歌、詩を雑誌に投稿し始め、「短歌研究」、「日本歌人」に次々と入選した。昭和13(1938)年に刊行された「新万葉集」には海人の歌が11首入選し、釈迢空、尾山篤次郎、吉井勇らの高い評価を受けた。翌年の昭和14(1939)年、歌集「白描」が刊行されるが、病には勝てず、同年6月9日に37歳の若さで死去した。
《 略年譜 》
年 | 年齢 | 事項 |
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1901 | 0 | 静岡県駿東郡片浜村(現・沼津市)に父浅次郎、母せいの三男として生まれる。 |
1907 | 6 | 片浜村立片浜尋常小学校入学。健康的で快活な少年時代を過ごした。 |
1913 | 12 | 沼津町立沼津商業学校予科に入学。 |
1915 | 14 | 沼津町立沼津商業学校本科に進学。 |
1918 | 17 | 沼津町立沼津商業学校卒業。静岡師範学校本科第2部入学。 |
1920 | 19 | 静岡師範学校本科第2部卒業。静岡県駿東郡原尋常小学校に勤務する。 |
1923 | 22 | 富士郡須津尋常小学校に転勤。同僚の清水慎一から短歌指導を受けた。 |
1924 | 23 | 古郡浅子と結婚。翌年(1925)長女みづほを儲ける。 |
1926 | 25 | ハンセン氏病と診断され、小学校教諭退職を命じられる。年末に次女和子誕生。 |
1927 | 26 | 6月、明石第二楽生病院に入院。「明石病院時代の手記」をつける。初夏に和歌山県の佐野病院に転院する。 |
1928 | 27 | 次女和子死去。 |
1929 | 28 | 離婚の話し合いのために帰郷。その後明石第二楽生病院に再入院。入院中の泉陽子と関係を持つ。 |
1930 | 29 | 明石病院を出て泉陽子と加古川で同棲。妻、浅子がこれを知って泉陽子は出奔した。病状が急速に悪化し始め、翌年明石病院再入院。 |
1932 | 31 | 精神的に非常に不安定な状態が続く。明石病院が経営難のため閉鎖され、国立療養所、長島愛生園に移される。 |
1933 | 32 | 妄想にかられ、自殺未遂を起こす。その後は精神的回復が進み、自殺を思い止まる。受洗を受け、キリスト教徒となる。 |
1934 | 33 | 「短歌研究」に積極的に短歌を投稿し始める。8月、病院内の短歌誌「愛生」に明石海人の筆号を初めて用いる。 |
1936 | 35 | 1月、激しい眼神経痛に襲われ、秋に失明。「日本歌人」誌上で将来を嘱望される。また、「日本歌人」の合同歌選出者に登場し、作品批評にも活動の枠を広げた。 |
1938 | 37 | 「新万葉集」巻一に海人の歌が11首掲載され、吉井勇、釈迢空、尾山篤次郎らの高い評価を受ける。 |
1939 | 38 | 歌集「白描」刊行。ベストセラーとなった。「白猫」の小説化を依頼される。4月、腸結核と判明。病状は回復せず、6月9日、腸結核のため死去した。その後、「白猫」の印税の一部は長島愛生園に寄付され、ハンセン氏病者の文芸功労者を表彰する「海人賞」を設立した。 |
- 逝去地
- 岡山県
- 兵庫県との関係
- 居住(明石)
代表作品
作品名 | 刊行年 | 版元 | 備考 |
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白描 | 1939 | 改造社 | |
海人遺稿 | 1939 | 改造社 | |
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