じんざい きよし神西 清
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明治36~昭和32
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ジャンル:
小説家・評論家・翻訳家
- 出身:東京都
PROFILE
兵庫県ゆかりの作品に『垂水』がある。明治36年(1903)東京生まれ。幼児期は各地を転々として育つ。父の死去に伴い、母と共に上京するが、母が再婚したため叔母に育てられた。東京府立四中に入り、竹山道雄を、一高理科に入って堀辰雄を知った。堀辰雄のもっとも良き理解者であり、無二の親友であった。文学への興味を次第に深め、一高を中退して東京外語学校露文科に転学。同人雑誌「虹」や「山繭」の同人となった。昭和3年(1928)外語学校卒業後、北海道大学図書館に勤め、札幌に住み、処女作「恢復期」を書いた。昭和4年(1929)から昭和7年(1932)までソ連通商部に勤めた後、文筆生活に入る。チェーホフ、ツルゲーネフらのロシア文学、ジイド、バルザックのフランス文学の翻訳を手がけるほか、小説では「垂水」を発表。戦争中も作品を発表しつづけたが、戦後は「批評」同人となり、評論家として名を成した。昭和12年(1937)第3回池谷信三郎賞、昭和26年(1951)芸術選奨文部大臣賞を受賞した。
《 略年譜 》
年 | 年齢 | 事項 |
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1903 | 0 | 11月15日、東京市牛込区袋町に父由太郎、母止(しずか)の長男として生まれる。父が内務省の官吏だったため、幼少期は香川、長野、島根などを転々として育った。 |
1910 | 7 | 東京麹町の番町小学校に入学。 |
1912 | 9 | 父の転勤に伴い、台湾台北に移る。祖母を失い、父も死去した。 |
1913 | 10 | 台湾から父の郷里の山口に移ったのち、母の実家の東京に戻り、下六番町小学校に転入。 |
1916 | 13 | 3月、下六番町小学校卒業。4月、府立第四中学校に入学。竹山道雄を知る。永井荷風や萩原朔太郎、シェキェヴィチなどを読んで文学に親しむ。 |
1920 | 17 | 3月、府立第四中学校修了。9月、第一高等学校理科甲類に入学。寮生活で堀辰雄を知る。入学当時は建築家を志望するが、理科の勉強に興味を失い、フランス象徴詩派の作品を読み、フランス語の独習を始める。 |
1925 | 22 | 2月、第一高等学校を中退。4月、東京外国語学校露語文科に入学。 |
1926 | 23 | 竹山道雄、堀辰雄らと同人雑誌「虹」を創刊。 |
1928 | 25 | 3月、東京外国語学校卒業。5月、北海道大学図書館に嘱託として勤務する。 |
1929 | 26 | 北海道大学図書館を辞職。4月、東京電気日報に勤務。10月、ソ連通商部に勤務。 |
1931 | 28 | 3月、田辺百合と結婚。東京渋谷区に新居を構える。 |
1932 | 29 | ソ連通商部を退職。文筆生活に入った。 |
1935 | 32 | 招聘されて再びソ連通商部に勤務。(翌年(1936)夏まで) |
1937 | 34 | 9月から企画院に勤務する。 |
1938 | 35 | ガルシンなどの翻訳業績で第3回池谷信三郎賞を受賞。 |
1939 | 36 | 4月、企画院を辞職。9月、東亜研究所に入る。 |
1942 | 39 | 9月、短編集『垂水』を山本書店から刊行。 |
1945 | 42 | 8月、敗戦とともに鎌倉に移り、文筆生活に入る。 |
1946 | 43 | この年、季刊「四季」の編集を担当する。 |
1951 | 48 | 「ワーニャ伯父さん」の舞台脚本としての翻訳で芸術選奨文部大臣賞受賞。 |
1953 | 50 | 友人堀辰雄の死に会い、心身ともに疲弊する。堀辰雄全集刊行委員会を作り、その仕事に携わる。 |
1957 | 54 | 3月11日逝去。鎌倉東慶寺に葬られた。 |
- 逝去地
- 鎌倉市
- 兵庫県との関係
- 舞台(神戸市)
代表作品
作品名 | 刊行年 | 版元 | 備考 |
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垂水 | 1932 | 山本書店 | |
恢復期 | 1947 | 角川書店 | |
少年 | 1955 | 講談社 | |
ドストエーフスキ読本 | 1955 | 河出書房 | |
灰色の眼の女 | 1957 | 中央公論社 | 神西清作品集 |
散文の運命 | 1957 | 講談社 | |
チェーホフ戯曲集 | 1958 | 中央公論社 | |
受賞歴
受賞年 | 受賞内容 | 受賞作品 |
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1937 | 第3回池谷信三郎賞 | 翻訳業績 |
1951 | 第2回芸術選奨文部大臣賞 | 「ワーニャ伯父さん」の舞台脚本としての翻訳 |
兵庫ゆかりの作品
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