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兵庫ゆかりの作家

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ごみ やすすけ五味 康祐

  • 大正10~昭和55
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:大阪府

PROFILE

兵庫県神戸市に居住。兵庫県が舞台の作品に「麻薬3号」、兵庫県ゆかりの作品に「二人の武蔵」がある。 大正10年(1921)大阪生まれ。大阪府立八尾中学校卒業後、早稲田第二高等学院へ進むが、中退して昭和18年(1943)明治大学文芸科に入学。日本浪漫派に影響を受け、保田与重郎、亀井勝一郎に師事。昭和19年(1944)に応召して中国大陸で従軍する。戦後は出版社の担当委員、新潮社校正員等数々の職業を転々としたあと、短編「喪神」を発表。第28回芥川賞を受賞する。その後、『柳生連也斎』が好評を博し、剣豪作家として柴田錬三郎らとともに剣豪小説ブームを巻き起こし、『二人の武蔵』をはじめとする秀作を続々発表。歴史小説作家としての地位を確立した。多趣味で、豪放磊落な人柄でも知られ、『五味マージャン教室』をはじめ、麻雀に関する著作や野球小説『一刀斎は背番号6』などのプロ野球に材を取った著作も多く、『色の道教えます』に代表される艶笑ものにもすぐれた才能を発揮した。特にクラシック音楽について造詣深いことでも知られる。昭和55年(1980)4月1日、58歳で逝去。昭和24年(1949)から26年(1951)にかけて神戸市兵庫区にあった母親の家に居住していた。

《 略年譜 》

年齢事項
1921012月20日、父栄一、母寿子の長男として大阪市南区難波町で生まれる。この年、父が死去したため、母方の実家の祖父母に養育される。
19287祖父・山田楠次郎死去。祖母、母とともに京都下河原に移る。
19298京都市立安井尋常小学校に入学。
193110再び大阪に戻り、天王寺区高津町に住む。東平野第二小学校に転入。算数、図画を好み、国語作文は苦手だった。
1934133月、東平野第二小学校卒業。4月、大阪府立八尾中学校入学。病弱なため、文学書を読み耽り、将来を作家になろうと志した。
1939183月、八尾中学校卒業。4月、早稲田第二高等学院入学。学校にはほとんど行かなかった。
194221早稲田第二高等学院中退。大阪に帰る。日本浪漫派の文学運動に影響を受ける。
1943224月、明治大学文芸科に入学。学校には行かず、下宿で翻訳書を読み漁った。8月、教育召集で兵庫県篠山連隊に入隊。
194423第二補充兵として応召し、中国に渡る。
194524終戦後、南京近郊の謝雅店で捕虜生活を送る。
1946252月、復員。京都に下宿する。
194827岡本太郎、野間宏、佐々木基一、椎名麟三、安部公房らの「夜の会」に出席し、会計係をした。11月、亀井勝一郎に破門され、京都に戻る。
194928保田与重郎の媒酌で野沢千鶴子と結婚。神戸市兵庫区の母の実家に居住。
195029神戸の場末の街を徘徊し、強度の覚醒剤中毒となる。(この体験は後に小説「麻薬3号」となる)
195131覚醒剤中毒の根治のため、岡山県の病院へ入院。快復後、妻と元町で「甘党屋」を営むが2ヶ月で店を譲る。妻を実家に帰し、単身上京。流浪生活に入る。
195231新潮社から最初の原稿料をもらい、病床にいた母の医療費に充てた。新潮社社外校正員となる。12月、短編小説「喪神」発表。
195332「喪神」で第28回芥川賞受賞。編集者がすすめる剣豪小説を書く気になれず、生活が困窮する。
195534『一刀斎は背番号6』、『柳生連也斎』発表。
195635『二人の武蔵』を読売新聞夕刊に連載。剣豪小説作家として地位を確立。
19634210月4日、朝日新聞社後援の欧州ドライブ旅行に参加。
197655『五味オーディオ教室』『五味マージャン教室』刊行。
197756「小説 長嶋茂雄」を「別冊 小説新潮」に発表。
1980584月2日、肺ガンのため、東京都内の病院で死去。
逝去地
東京都
兵庫県との関係
居住(神戸市) 舞台(神戸市、姫路市)

代表作品

作品名刊行年版元備考
柳生連也斎1955新潮社
二人の武蔵1957新潮社
喪神1957文藝春秋新社

受賞歴

受賞年受賞内容受賞作品
1952第28回芥川賞「喪神」
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