常設展示

兵庫ゆかりの作家

  1. TOP
  2. 常設展示
  3. 兵庫ゆかりの作家
  4. 遠藤 周作

えんどう しゅうさく遠藤 周作

  • 大正12~平成8
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:東京都

PROFILE

兵庫県西宮市に居住。兵庫県が舞台の作品に『砂の城』『黄色い人』『口笛をふく時』がある。 東京市巣鴨で、父常久、母郁子の次男として生まれる。3歳で父の転勤に伴い満州大連に渡るが、10歳の時父母の離婚により帰国し、母と神戸の六甲の伯母の家に一夏同居した後、西宮市夙川、そして仁川と転居する。神戸の六甲小学校に転校し、灘中学校に入学。この時期に、伯母と母の影響により12歳でカトリックの洗礼を受け、以後、カトリックが彼の一貫した文学のテーマとなる。灘中学校卒業後、上智大予科中退、慶応大文学部予科に入学。肋膜炎を患い徴兵延期の間に兵庫県仁川で終戦を迎える。 慶大仏文科卒業後、27歳で渡仏し、リヨン大学に入学、この頃、カトリック文学を研究し、小説家になろうと決心する。帰国後発表した『白い人』で芥川賞を受賞。その2年後発表の『海と毒薬』が高い評価を得て、文壇的地位を確立。37歳で肺結核を患い2年半の入院生活を余儀なくされる。退院後、狐狸庵(こりあん)山人と雅号をつけ『狐狸庵日乗』と題した絵日記風な軽妙な随筆を著す。 小説家だけではなく『私が棄てた女』の映画化では浅丘ルリ子と共演したり、劇「ハムレット」での亡霊役、テレビドラマ「大変だァ」へのゲスト出演を果たした。熱心なカトリック信者であり、文筆・講演会活動、大阪万博の基督教館プロデューサー、ボランティアグループの結成などの活動により、ローマ法王庁からシベストリー勲章を受章、国際ダグ・ハマーショルド賞などを受賞した。晩年、腎臓病を患い入退院を繰り返しながらも執筆に情熱を燃やしていたが肺炎による呼吸不全のため慶応病院にて死亡した。享年73歳。  

《 略年譜 》

年齢 事項
1923 0 3月27日、東京市巣鴨で父・常久、母・郁(郁子)の次男として出生。2歳年上の兄正介との2人兄弟。
1926 3 父の転勤に従い満州関東州大連に移る。
1929 6 大連市の大広場小学校に入学。中国人の手伝いの少年から無垢な愛情で可愛がられる。
1932 9 父母が不和になる。優秀な兄に比べ成績は悪かったが、小学校3年の時、初めて作った詩が大連の新聞に掲載される。
1933 10 父母の離婚により、母に連れられて兄と共に帰国し、六甲小学校に転校。西宮市夙川に転居。カトリック信者の伯母の勧めで母と共に夙川カトリック教会に通う。
1935 12 六甲小学校卒業。秀才の兄と同じ私立灘中学校に入学。能力別クラス編成で1年はA組だったが、卒業前には最下位のD組に下がる。母受洗の後、兄と共に受洗。洗礼名ポール(パウロ)。
1940 17 映画狂で学業に身が入らず183人中141番で卒業。前年の中学4年時に三高を受験し失敗し、再度三高受験に失敗。仁川で浪人生活を送る。
1941 18 広島高校受験失敗。4月、上智大学予科に入学して籍を置くが、旧制高校を目指して仁川で受験勉強を続ける。2学期には上智大予科に通う。12月、校友会雑誌「上智」第一号に評論『形而上的神,宗教的神』を発表。
1942 19 2月、上智大学予科を退学。姫路、浪花、甲南の各高校受験失敗。この年、東大を卒業し逓信省へ入った兄と相談し、母に経済的負担をかけないため世田谷の経堂の父の家に移る。
1943 20 3年の浪人生活を経て慶応義塾大学文学部予科に入学するが、医学部を受験しなかったため父から勘当される。戦局の為、授業はなく勤労動員の工場で働く。カトリック哲学者の吉満義彦が舎監をしていた学生寮に入る。吉満、亀井勝一郎、堀辰雄らから文学的感化を受ける。
1945 22 佐藤朔が慶応大学仏文科の講師であったことから、仏文科進学を決め、フランス語を独習する。東京大空襲により寮を焼け出され、仁川に帰る。8月、後少しで入隊と言う時に終戦を迎える。その後、大学に戻り一学年上の安岡章太郎を知る。
1947 24 始めて書いたエッセイ『神々と神と』が神西清に認められ、角川書店刊行の「四季」に掲載される。また佐藤朔の推挙で評論『カトリック作家の問題』を「三田文学」に発表。
1948 25 3月、慶応義塾大学を卒業。映画俳優になる夢が捨て切れず、松竹の助監督試験を受けるが不採用。6月、鎌倉文庫の嘱託になり二十世紀外国文学辞典編纂を手伝うが、同社は翌年倒産。この頃「三田文学」の同人になる。
1949 26 ヘルツォーク神父が始めたカトリック・ダイジェスト社発行の雑誌で、逓信省に勤める兄も編集委員を務める「カトリック・ダイジェスト」の編集の仕事を手伝う。後に母郁も編集発行の仕事に携わる。常勤ではなく、父の家と「三田文学」の編集室に通う毎日を送る。
1950 27 6月、終戦最初の留学生として現代カトリック文学を勉強する為フランスへ。ルーアンの建築家ロビンヌ家に預けられ、その後、リヨン大学入学する。
1951 28 11月、「カトリック・ダイジェスト」に『赤ゲットの佛蘭西旅行』を翌年7月まで連載。
1952 29 体調を崩し吐血する。6月から8月までスイスとの国境近くのコンブルウの国際学生療養所で過ごす。12月、肺結核悪化で、パリの大学部にあるジュルダン病院に入院。
1953 30 1月、2年半の滞仏を終え、帰国の途につく。2月、帰国する。帰国後1年の間は体調が回復せず寝ていることが多かった。「カトリック・ダイジェスト」が12月号で終刊。『フランスの大学生』を処女出版。12月、母・郁、脳溢血で突然の死去。臨終に間に合わなかった。
1954 31 「現代評論」に参加し『マルキ・ド・サド評伝』を発表。
1955 32 7月、『白い人』により第33回芥川賞を受賞。この前後の同賞受賞者である安岡章太郎、吉行淳之介、庄野潤三らと共に「第三の新人」と呼ばれる。9月、岡田幸三郎の長女で当時慶応大学仏文科に通う順子と結婚。12月、処女短編集『白い人・黄色い人』を刊行。
1957 34 6月、『海と毒薬』を「文学界」に発表。この作品が高い評価を得て、文壇的地位を確立する。この頃、ヘルツォーク神父還俗し、日本の女性と結婚。翌年には帰化。母と遠藤の精神的指導司祭だっただけに大きな衝撃を受ける。
1958 35 『海と毒薬』により第5回新潮社文学賞を受賞。
1959 36 2月、最初の切支丹小説『最後の殉教者』を発表。3月、最初のユーモア長編小説『おバカさん』を連載。サド研究の為、順子夫人を伴って渡仏。
1960 37 イギリス、スペイン、イタリア、ギリシャ、エルサレムを廻り、1月に帰国。4月、肺結核再発で入院し、あらゆる薬を投与するが病状は回復せず。6月、病床の中、ユーモア長編小説『ヘチマくん』を連載。
1961 38 肺の手術を受けるが病状は優れず、死と向き合う入院生活が続く。12月、危険率の高い手術を申し出る。手術の前日、神の踏み絵を見る。手術は一度は心臓が停止したが、成功する。
1962 39 2年半の入院生活を経て退院したが、この年は体力が回復せず短いエッセイを書くのみ。戯れに狐狸庵山人と雅号をつけ、「狐狸庵日乗」と題した絵日記を書きつづける。
1963 40 御殿場の神山復生病院を再訪し、ハンセン病の誤診の後も病院に残り、病人の看護に生きる井深八重を取材。1月、再起後最初の長編『わたしが・棄てた・女』を連載。後に二度の映画化とミュージカル化がされるなど遠藤の最も愛される作品の一つになる。3月、駒場から町田市玉川学園に転居。
1964 41 初夏に、長崎を旅して偶然、十六番館で黒い足指の痕のついた踏み絵を見る。
1965 42 1月、病床体験と長崎で見た踏み絵が結びついた長編小説『満潮の時刻』を「潮」に連載。取材の為、長崎、島原、平戸を三浦朱門らと共に旅し、長崎が次第に「心の故郷」となる。
1966 43 3月、『沈黙』を刊行。問題作としてセンセーションを巻き起こす。純文学作品としては珍しいほどのベストセラーとなるが、他方で転びを促すようにとれる「踏むがいい」という表現が誤解されて、キリスト教会の一部では禁書扱いになる。10月、『沈黙』により第2回谷崎潤一郎賞受賞。
1967 44 ポルトガルに招かれ、騎士勲章を受ける。リスボン、パリ、ローマを廻り、9月に帰国。
1968 45 四月、素人劇団「樹座」を結成し座長となり、紀伊国屋ホールで「ロミオとジュリエット」を上演、自らも熱演。映画「私が棄てた女」が封切り。遠藤は産婦人科医役となり、浅丘ルリ子と共演。原作『どっこいしょ』の映画化「日本の青春」が封切り。
1969 46 取材のためイスラエルに行って新約聖書の背景を辿る。「定本モラエス全集」編集により、大佛次郎、井上靖らと共にポルトガル大使からヘンリッケ勲章を受ける。
1970 47 テレビドラマ「大変だァ」に毎回ゲスト出演。カトリックとプロテスタント合同の初事業、大阪万博の基督教館のプロデューサーを阪田寛夫、三浦朱門と務める。
1971 48 11月、映画「沈黙」封切り。ローマ法王庁よりシベストリー勲章を受ける。
1972 49 3月、宣教番組「心のともしび」の出演から三浦朱門、曽野綾子らと共にローマ法王パウロ六世に謁見。法王から「日本の他宗教と協力して働いて欲しい」と言われる。
1973 50 3月、「遠藤周作氏と行くヨーロッパ演劇の旅」でロンドン、パリ、ミラノ、スペインのアンダルシア地方を廻り、4月に帰国。6月,、書き下ろし長編『死海のほとり』を刊行。10月、日本人につかめるイエス像を求めた長年の聖書研究の結実である『イエスの生涯』を新潮社より刊行。
1975 52 2月、『遠藤周作文学全集』(全11巻)を新潮社より刊行。日航の招待で北杜夫、阿川弘之と共にロンドン、フランクフルト、ブリュッセルで在留日本人に講演。同月帰国。
1977 54 4月、兄・正介死亡。仲のよい兄弟であっただけに激しいショックを受ける。
1978 55 6月、『イエスの生涯』により国際ダグ・ハマーショルド賞を受賞。
1979 56 2月、『キリストの誕生』により読売文学賞を受賞。「あけぼの」で連続対談開始。以後10年間に107回。遠藤は対談の名手で、刊行された対談集は20冊を超える。
1980 57 5月、劇団「樹座」、オペラ「カルメン」をニューヨーク公演。12月、『侍』により野間文芸賞を受賞。この頃、素人父親コーラス「コール・パパス」結成。冬、上顎癌の疑いで慶応病院に入院し手術。同じ頃、遠藤家のお手伝いの女性が骨髄癌で入院し、検査漬けで苦しんで死んだのがきっかけで、2年後に「心あたたかな医療」キャンペーンを始める。
1981 58 コルベ神父の取材に長崎に行き、神父らが仮住まいした大浦の修道院跡の保存を提言。後に聖コルベ記念室となる。原作『闇のよぶ声」』の映画化「真夜中の招待状」封切り。
1982 59 5月、持ち込み原稿「患者からの願い」が新聞に掲載され、大きな反響を呼ぶ。
1985 62 ロンドンのホテル・リッツで偶然にグレアム・グリーンと出会い語り合う。6月、日本ペンクラブの第10代会長に選任される。
1986 63 3月、書き下ろし長篇『スキャンダル』を刊行。5月、劇団「樹座」の第2回海外公演の為ロンドンへ渡り、ジャネッタ・コクラン劇場でオペラ「蝶々夫人」を上演。10月、映画「海と毒薬」封切り。
1987 64 加賀乙彦の受洗に際して代父となる。
1988 65 安岡章太郎の受洗に際して代父となる。8月、国際ペンクラブのソウル大会に日本ペンクラブ会長として出席。
1989 66 4月、日本ペンクラブ会長を辞任。12月、父・常久死去。
1990 67 10月、アメリカのキャンピオン賞を受賞。
1993 70 5月、順天堂大学病院に入院。腎臓病の為腹膜透析の手術。以後3年半、入退院を繰り返す闘病生活が続く。6月、書き下ろし長編『深い河』を刊行。11月、松村禎三作曲オペラ「沈黙」日生劇場で初演。
1994 71 1月、『深い河』により毎日芸術賞を受賞。4月、『深い河』英訳版刊行。翌年5月には「ニューヨークタイムズ」の書評で2頁に渡り取り上げられ 、「インデペンデント」新聞主催の外国小説賞の最終候補に残るなど世界で高い評価を得る。この頃より薬害による痒みに苛まれるが、「『ヨブ記』を書く」と言う決意から耐え抜く。
1995 72 3月、健康上の理由により新聞連載中止。映画「深い河」封切り。試写を見た遠藤は鳴咽する。9月、脳内出血で入院。以後、口が聞けない状態で順子夫人と手を握り合うことで意思を伝え合う。11月、文化勲章を受章。
1996 73 4月、腎臓病治療の為慶応病院に入院。奇跡的に一時よい状態になり、その間、絶筆となる『佐藤朔先生の思い出』を口述筆記。9月29日、肺炎による呼吸不全により死去。
逝去地
東京都
兵庫県との関係
居住(神戸市灘区・西宮市)  舞台  西宮市  芦屋市

代表作品

作品名 刊行年 版元 備考
白い人・黄色い人 1955 講談社
海と毒薬 1958 文藝春秋
おバカさん 1959 中央公論社
わたしが・棄てた・女 1964 文藝春秋新社
留学 1965 文藝春秋新社
哀歌 1965 新潮社
沈黙 1966 新潮社
影法師 1968 新潮社
母なるもの 1971 新潮社
死海のほとり 1973 新潮社
イエスの生涯 1973 新潮社
口笛をふく時 1975 講談社
砂の城 1976 主婦の友社
キリストの誕生 1978 新潮社
1980 新潮社
女の一生 1982 朝日新聞社
スキャンダル 1986 新潮社
深い河 1993 講談社
決戦の時 1994 講談社
「遠藤周作」とShusaku Endo 1994 春秋社
快女・快男・快話 1995 文藝春秋
イエス巡礼 1995 文藝春秋
人生の同伴者 1995 新潮社
万華鏡 1996 朝日新聞社
作家の日記 1996 ベネッセコーポレーション
最後の花時計 1997 文藝春秋
「深い河」をさぐる 1997 文藝春秋
異国の友人たちに 1997 小池書院
さやかに星はきらめき 1998 日本基督教団出版局 クリスマス・   エッセイ集
冠婚葬祭マナー事典 1999 旺文社 コンパクト版
年々歳々 1999 PHP研究所
遠藤周作文学全集 1999・2000 新潮社
『深い河』創作日記 2000 講談社
怪奇小説集 恐の巻 2000 講談社
生きる勇気が湧いてくる本 2002 祥伝社
遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子 2002 新潮社
ボクは好奇心のかたまり 2003 新潮社
友を偲ぶ 2004 光文社
恋することと愛すること 2005 新風舎
考えすぎ人間へ 2006 青春出版社
十頁だけ読んでごらんなさい。十頁たって飽いたらこの本を捨てて下さって宜しい。 2006 海竜社
対話の達人、遠藤周作 2006 女子パウロ会
堀辰雄覚書 2008 講談社
フランスの大学生 2008 ぶんか社
闇のよぶ声 2009 ぶんか社

関連情報

場所 説明 内容
灘中学校 校舎 戦前の昭和14年に、火災で焼失した旧校舎に代わって建てられた鉄筋4階建て校舎。遠藤周作も通学。現在も使用中。
灘中学校 本館 正門を入って正面。灘校開校の昭和3年に立てられ、文化財に指定されている。

受賞歴

受賞年 受賞内容 受賞作品
1955 第33回芥川龍之介賞 「白い人」
1958 第5回新潮社文学賞 「海と毒薬」
1958 第12回毎日出版文化賞 「海と毒薬」
1966 第2回谷崎潤一郎賞 「沈黙」
1978 第35回日本芸術院賞 文芸部門
1978 第30回読売文学賞 評論・伝記賞 「キリストの誕生」
1980 第33回野間文芸賞 「侍」
1994 第35回毎日芸術賞 「深い河」

兵庫ゆかりの作品

作品名 刊行年 版元
影法師 1968 新潮社
阪神の夏
灘中の頃
黄色い人
ページの先頭へ