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兵庫ゆかりの作家

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ともばやし みつひら伴林 光平

  • 文化10~文久4
  • ジャンル: 歌人・国学者
  • 出身:河内国志紀郡

PROFILE

【兵庫県との関係】
天保9年(1838)、26歳の折り、摂津国川辺郡入江に住み、伊丹の中村良臣に国学を学び、のち、無尽上人に国学を学んだ。約20年の後、中村良臣の子、中村良顕と再会し、一夜を語り明かし、贈答歌を交わした。
伊丹北村にて、二十年ばかり隔てて、蓼屋良顕に逢ひけり。そのかみ、まだ十ばかりの児なりしが、今はいといと大人びて、学の道にもたけたる様なり。夜一夜物語などして別れしが、あくる日良顕が許より、
竹馬も雀小弓もひきいでて昔がたりに小夜はふけにき
といひおこせければ、返し、
引き出でし昔がたりの竹馬にうかりしふしも語りそへてき(『光平歌集』伴林光平全集所収)
また、嘉永6年(1853)には、平岡武夫らとともに、ロシア軍艦との談判のため長崎に向かっていた川路聖謨(としあきら)を兵庫に訪ね、攘夷を論じた。
【略歴】
通称、六郎。号は八丘・笹の舎・蒿斎など。河内国志紀郡林村浄土宗尊光寺住職鈴木謙譲の第二子として出生。はやくに父母と死別。6歳で丹南郡野村真宗西願寺の養子となる。16歳のときに京都の西本願寺の学寮に入寮。大和で因明を研究するなど、僧として勉学した後、天保9年(1838)26歳のときに伊丹の中村良臣に、翌年夏には因幡の飯田秀雄に、国学・和歌を学んだ。同年冬には秀雄の紹介で和歌山の加納諸平に入門。天保11年(1840)江戸に下り、伴信友に入門し、翌年帰郷。信友の依頼で河内の山陵を調査し、『河内国陵墓図』を作成した。弘化2年(1845)33歳のときに八尾の真宗教恩寺の住職となり、以後16年間を過ごす。その間、和歌を教授し、また国学・歌学の著述を行い、陵墓の調査を進める。文久元年教恩寺を出て蓄髪、大和斑鳩村に住み、中宮寺宮の侍講となる。文久3年(1863)8月、攘夷過激派の天誅組の義挙に参加。敗走して捕らえられ、事の顛末を和歌を中心に綴った『南山踏雲録』を獄中で著したのち、京都で処刑された。

逝去地
京都
兵庫県との関係
訪問 伊丹
もっと詳しく知るために
伴林光平全集 佐佐木信綱編 1944 昭和19年 湯川弘文社

代表作品

作品名 刊行年 和暦 備考
南山踏雲録(歌日記) 収録:『伴林光平全集』(佐佐木信綱編、湯川弘文社)
稲木抄(歌学書) 1849 収録:『日本歌学大系9』
垣内七草(歌学書) 1850 収録:『日本歌学大系9』
楢の落葉物語(戯作) 1851 収録:『日本随筆大成(新装版)第1期第4巻』
歌道大意(歌学書) 1854 収録:『日本歌学大系9』
今村歌合集(歌集) 1856 収録:『増補改訂版 今村歌合集と伴林光平』堀井壽郎、2001年、ペリカン社
園の池水(歌学書) 1859 収録:『日本歌学大系9』

文学碑

場所 碑文
伊丹市寺本1丁目 寺本児童遊園地 分来てし 其の世は夢と 成りぬるを 何たとらるる 猪名のささ原     光平

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