たいろ大魯
- 享保15~安永7
- ジャンル: 俳人
- 出身:徳島
PROFILE
【兵庫県との関係】
晩年、大坂を離れたのち、兵庫の地に移り住み、その地の俳人らと交流を持ち、その時期、師匠の蕪村や友人几董を迎えるなどして、俳諧活動を盛んにするも、わずか2年足らずで悲運の死をとげる。
【略歴】
初号、馬南、別号に月下庵・蘆陰舎・三遷居など。本姓吉分(吉別)氏。
阿波国徳島藩の家臣で、新蔵奉行として大坂に赴任するが、明和3年(1766)任地で遊女と駆け落ちして、致仕を余儀なくされる。その後上洛して、はじめ文誰に入門するも、明和7年、近隣に住む几董とともに蕪村に入門する。明和9年に一時西播磨に旅をする。安永2年(1773)夏、帰洛して、几董と両吟歌仙を巻き、『あけ鳥』の出版に協力する。そのころ薙髪して馬南から大魯へと号を改め、江戸に向けて出立するも、大坂に立ち寄ったところ、そのまま居着いて、俳諧活動を開始する。はじめは門人もふえ、出版をおこなうなど、順調だった活動だったが、安永5年ころから周囲とトラブルを生じるようになり、結局翌年5月に兵庫への移住という事態にいたる。同地の俳人とももめ事を起こしながらも、しばらくは俳諧に力を入れているうち、体調を崩して京で療養。そして、安永7年11月13日、京で逝去する。
人との折り合いがうまくいかないという破滅的性格ながら、他にはない独特の才能の持ち主で、師の蕪村は最期まで目を掛けていた。とくに、江戸俳諧にはめずらしく、おのれの境涯をよみこんで、句に悲痛な心のさけびが現れている。
――広沢はいかに敏馬(みぬめ)の月清し――(『蘆陰句選』)
- 逝去地
- 京都
- 兵庫県との関係
- 居住 兵庫
- もっと詳しく知るために
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俳人吉分大魯 杉山虹泉 1964 昭和39年 私家版
大魯(収録:『潁原退蔵著作集13』) 潁原退蔵 1979 昭和54年 中央公論社
近世阿波俳諧史 佐藤義勝 2000 平成12年 航標俳句会
代表作品
作品名 | 刊行年 | 版元 | 備考 |
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とら雄遺稿(追善集) | 1776 | 収録:『蕪村全集 8』 | |
蘆陰句選(俳諧句集) | 1779 | 収録:『古典俳文学大系 13』 |