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兵庫ゆかりの作家

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らい さんよう頼 山陽

  • 安永9~天保3
  • ジャンル: 儒学者
  • 出身:大坂

PROFILE

【兵庫県との関係】
 天明元年(1781)閏5月、生後大坂で育った山陽は、父春水が広島藩儒に任ぜられたため広島に帰省。山陽道を下る途中兵庫県を通過するが、まだ数え2歳のころであるから、記憶としては残っていない。
 天明3年(1783)8月、父春水の江戸詰めの間、母と大坂の母の生家に滞在することとなり、山陽道を上る。当時山陽は数えで4歳。翌々年(1785)の5月、春水の帰藩にしたがって、山陽道を下り広島に帰る。
 寛政9年(1797)、江戸遊学の許可が広島藩から下り、3月叔父の頼杏坪とともに出発、山陽道、東海道を経て、4月に江戸につく。途中楠正成の墓に参って詩を作る(3月23日)。
 寛政10年(1798)江戸遊学に成果が得られず、4月に叔父杏坪と広島に帰藩する。
 寛政12年(1800)9月に脱藩し、京都の福井新九郎方に潜んでいたが、11月、広島に連れ戻される。往復に山陽道を通る。
 文化8年(1811)閏2月、福山藩の神辺にある菅茶山の塾を出て、京都に行く。加古川では中谷環翠宅に一泊(13日)、姫路、明石などにて詩を作る。
 文化11年(1814)8月、脱藩後初めて広島に帰省。大坂から明石まで船で行き、あと山陽道をたどる。姫路の菅原専輔の家で詩を作る(13日)。帰京は11月。
 文化13年(1816)2月、父春水が死去し、広島に帰省する。
 文政元年(1818)2月、亡父春水の大祥忌のため帰省。そのまま九州遊歴の旅に出る。長崎で伊丹の銘酒「男山」を飲む(5月25日付け母静子宛書簡)。以後、伊丹の酒を愛し、坂上桐陰らの酒造家と親しく接する。また、広島の母や、師茶山をはじめ知己にしばしば伊丹の酒を送り届けている。
 文政2年(1819)九州遊歴を終えて、広島に帰着し、3月、母とともに京都の寓居に帰る。途中加古川では中谷環翠と曽根の松、石の宝殿を見物。尾上の鐘の茶店で小酌を楽しむ(4日)。明石では、大蔵谷の米屋に宿泊(5日)。舞子浜においても酒楼で小酌(6日)。
 文政6年4月、伊丹に遊ぶ。原老柳に導かれ、坂上、大塚あたりの酒造家を歴訪。
 文政7年(1824)上京していた母が広島に帰るのを送り、10月帰省。途中8日に西宮泊。9日楠公墓に参り、兵庫、舞子を経て、明石大蔵谷に泊。10日、野口にて昼食、加古川泊。12月帰京。途中加古川では中谷環翠宅に一泊。姫路では藩老河合隼之介(寸翁)に迎えられて、仁寿山学問所を訪う(18日)。また「戯れに摂州の歌を作る」と題する古詩を作って、伊丹の銘酒「剣菱」を歌う。
 文政8年(1825)8月、姫路藩老河合隼之介に請われて、仁寿山学問所において講義を行う。叔父の春風が亡くなったため、10月広島に帰省。帰京の途中、仁寿山督学菅野真斎を訪う(24日)。また深津藤石より送別の詩を送られ、自身も曽根天満宮の詩を作る。
 文政10年(1827)2月10日坂上桐陰のために「長古堂記」を作る。3月、母が上京し、5月にともに坂上家の酒蔵を見物(10日)、有馬に遊ぶ(12日まで滞在)。8月師菅茶山が没したため神辺に行く。帰途姫路の仁寿山に17日間滞在(9月2~18日)。
 文政12年(1829)2月、亡父春水の13回忌のため帰省。3月母とともに帰京、途中舞子浜で小酌を楽しむ(3月16日)。10月母を送って広島帰省、途中兵庫(24日)加古川(25日)に泊まる。姫路にて馬場元華を訪う(26日)。12月に帰京、途中、甲山を望んで詩を作る。
 天保元年(1830)6月、帰省。往路、姫路では馬場元華宅に泊す。室津より舟行(12日発)。
 天保2年(1831)9月帰省。往路、舞子浜にて小酌。明石人丸山にて詩を作る(「淡山歌」)。帰路、仁寿山に滞在し講義を行う(11月)。12月1日、一の谷にて詩を作る。尼崎より舟行。
【略歴】
 安永9年(1780)、後に広島藩儒となる頼春水と大坂の儒医飯岡義斎の娘静子との長男として大坂江戸堀北一丁目に生まれる。字は子賛のち子成。通称は久太郎、一時憐二、徳太郎。号は山陽の他、三十六峰外史。天明元年(1781)父母とともに広島に帰り、竹原の頼家に住むこととなる。早くから文才の片鱗を見せるとともに、精神的には必ずしも安定しない青春期を過ごし、寛政9年(1797)から足掛け二年の江戸遊学も実を結ばずに終わる。寛政12年(1800)9月、父の江戸在番中に勝手に脱藩し、連れ戻されて竹原の実家に幽閉される。享和3年(1803)幽閉を許され、文化6年(1809)父の旧友である漢詩人菅茶山より、その私塾である廉塾の都講として招かれ、福山神辺に行くが、上京の夢断ちがたく、文化8年(1811)閏2月に無理にも上京する。以後、京都で私塾を開き、文人として活躍し、名声を博する。天保

逝去地
京都
兵庫県との関係
来訪 山陽道の往来、姫路、有馬、伊丹ほか
もっと詳しく知るために
頼山陽全書 1932 昭和7年 昭和58年(1983)国書刊行会から復刻刊行
頼山陽とその時代 中村真一郎 1971 昭和46年 中央公論社

代表作品

作品名 刊行年 和暦 備考
日本外史 翻刻:岩波文庫
日本楽府 1830
山陽詩抄 1833 収録:新日本古典文学大系『江戸詩人選』(岩波書店)
日本政記 1838 収録:日本思想大系『頼山陽』(岩波書店)
山陽遺稿 1838 収録:新日本古典文学大系『江戸詩人選』(岩波書店)

文学碑

場所 碑文
伊丹市中央6丁目2地先 産業道路沿 紅楓相暎酔□慈顔侍得帰輿未遂遽還 今歳此遊堪圧尾 携将佳酒看佳山  送母西下過伊丹遂遊箕尾 山陽外史
加古川市野口町野口神社 近環松柏見威霊之森厳  遙面波涛知膏沢之弥満

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