年 |
年齢 |
事項 |
1923 |
0 |
3月27日、東京市巣鴨で父・常久、母・郁(郁子)の次男として出生。2歳年上の兄正介との2人兄弟。 |
1926 |
3 |
父の転勤に従い満州関東州大連に移る。 |
1929 |
6 |
大連市の大広場小学校に入学。中国人の手伝いの少年から無垢な愛情で可愛がられる。 |
1932 |
9 |
父母が不和になる。優秀な兄に比べ成績は悪かったが、小学校3年の時、初めて作った詩が大連の新聞に掲載される。 |
1933 |
10 |
父母の離婚により、母に連れられて兄と共に帰国し、六甲小学校に転校。西宮市夙川に転居。カトリック信者の伯母の勧めで母と共に夙川カトリック教会に通う。 |
1935 |
12 |
六甲小学校卒業。秀才の兄と同じ私立灘中学校に入学。能力別クラス編成で1年はA組だったが、卒業前には最下位のD組に下がる。母受洗の後、兄と共に受洗。洗礼名ポール(パウロ)。 |
1940 |
17 |
映画狂で学業に身が入らず183人中141番で卒業。前年の中学4年時に三高を受験し失敗し、再度三高受験に失敗。仁川で浪人生活を送る。 |
1941 |
18 |
広島高校受験失敗。4月、上智大学予科に入学して籍を置くが、旧制高校を目指して仁川で受験勉強を続ける。2学期には上智大予科に通う。12月、校友会雑誌「上智」第一号に評論『形而上的神,宗教的神』を発表。 |
1942 |
19 |
2月、上智大学予科を退学。姫路、浪花、甲南の各高校受験失敗。この年、東大を卒業し逓信省へ入った兄と相談し、母に経済的負担をかけないため世田谷の経堂の父の家に移る。 |
1943 |
20 |
3年の浪人生活を経て慶応義塾大学文学部予科に入学するが、医学部を受験しなかったため父から勘当される。戦局の為、授業はなく勤労動員の工場で働く。カトリック哲学者の吉満義彦が舎監をしていた学生寮に入る。吉満、亀井勝一郎、堀辰雄らから文学的感化を受ける。 |
1945 |
22 |
佐藤朔が慶応大学仏文科の講師であったことから、仏文科進学を決め、フランス語を独習する。東京大空襲により寮を焼け出され、仁川に帰る。8月、後少しで入隊と言う時に終戦を迎える。その後、大学に戻り一学年上の安岡章太郎を知る。 |
1947 |
24 |
始めて書いたエッセイ『神々と神と』が神西清に認められ、角川書店刊行の「四季」に掲載される。また佐藤朔の推挙で評論『カトリック作家の問題』を「三田文学」に発表。 |
1948 |
25 |
3月、慶応義塾大学を卒業。映画俳優になる夢が捨て切れず、松竹の助監督試験を受けるが不採用。6月、鎌倉文庫の嘱託になり二十世紀外国文学辞典編纂を手伝うが、同社は翌年倒産。この頃「三田文学」の同人になる。 |
1949 |
26 |
ヘルツォーク神父が始めたカトリック・ダイジェスト社発行の雑誌で、逓信省に勤める兄も編集委員を務める「カトリック・ダイジェスト」の編集の仕事を手伝う。後に母郁も編集発行の仕事に携わる。常勤ではなく、父の家と「三田文学」の編集室に通う毎日を送る。 |
1950 |
27 |
6月、終戦最初の留学生として現代カトリック文学を勉強する為フランスへ。ルーアンの建築家ロビンヌ家に預けられ、その後、リヨン大学入学する。 |
1951 |
28 |
11月、「カトリック・ダイジェスト」に『赤ゲットの佛蘭西旅行』を翌年7月まで連載。 |
1952 |
29 |
体調を崩し吐血する。6月から8月までスイスとの国境近くのコンブルウの国際学生療養所で過ごす。12月、肺結核悪化で、パリの大学部にあるジュルダン病院に入院。 |
1953 |
30 |
1月、2年半の滞仏を終え、帰国の途につく。2月、帰国する。帰国後1年の間は体調が回復せず寝ていることが多かった。「カトリック・ダイジェスト」が12月号で終刊。『フランスの大学生』を処女出版。12月、母・郁、脳溢血で突然の死去。臨終に間に合わなかった。 |
1954 |
31 |
「現代評論」に参加し『マルキ・ド・サド評伝』を発表。 |
1955 |
32 |
7月、『白い人』により第33回芥川賞を受賞。この前後の同賞受賞者である安岡章太郎、吉行淳之介、庄野潤三らと共に「第三の新人」と呼ばれる。9月、岡田幸三郎の長女で当時慶応大学仏文科に通う順子と結婚。12月、処女短編集『白い人・黄色い人』を刊行。 |
1957 |
34 |
6月、『海と毒薬』を「文学界」に発表。この作品が高い評価を得て、文壇的地位を確立する。この頃、ヘルツォーク神父還俗し、日本の女性と結婚。翌年には帰化。母と遠藤の精神的指導司祭だっただけに大きな衝撃を受ける。 |
1958 |
35 |
『海と毒薬』により第5回新潮社文学賞を受賞。 |
1959 |
36 |
2月、最初の切支丹小説『最後の殉教者』を発表。3月、最初のユーモア長編小説『おバカさん』を連載。サド研究の為、順子夫人を伴って渡仏。 |
1960 |
37 |
イギリス、スペイン、イタリア、ギリシャ、エルサレムを廻り、1月に帰国。4月、肺結核再発で入院し、あらゆる薬を投与するが病状は回復せず。6月、病床の中、ユーモア長編小説『ヘチマくん』を連載。 |
1961 |
38 |
肺の手術を受けるが病状は優れず、死と向き合う入院生活が続く。12月、危険率の高い手術を申し出る。手術の前日、神の踏み絵を見る。手術は一度は心臓が停止したが、成功する。 |
1962 |
39 |
2年半の入院生活を経て退院したが、この年は体力が回復せず短いエッセイを書くのみ。戯れに狐狸庵山人と雅号をつけ、「狐狸庵日乗」と題した絵日記を書きつづける。 |
1963 |
40 |
御殿場の神山復生病院を再訪し、ハンセン病の誤診の後も病院に残り、病人の看護に生きる井深八重を取材。1月、再起後最初の長編『わたしが・棄てた・女』を連載。後に二度の映画化とミュージカル化がされるなど遠藤の最も愛される作品の一つになる。3月、駒場から町田市玉川学園に転居。 |
1964 |
41 |
初夏に、長崎を旅して偶然、十六番館で黒い足指の痕のついた踏み絵を見る。 |
1965 |
42 |
1月、病床体験と長崎で見た踏み絵が結びついた長編小説『満潮の時刻』を「潮」に連載。取材の為、長崎、島原、平戸を三浦朱門らと共に旅し、長崎が次第に「心の故郷」となる。 |
1966 |
43 |
3月、『沈黙』を刊行。問題作としてセンセーションを巻き起こす。純文学作品としては珍しいほどのベストセラーとなるが、他方で転びを促すようにとれる「踏むがいい」という表現が誤解されて、キリスト教会の一部では禁書扱いになる。10月、『沈黙』により第2回谷崎潤一郎賞受賞。 |
1967 |
44 |
ポルトガルに招かれ、騎士勲章を受ける。リスボン、パリ、ローマを廻り、9月に帰国。 |
1968 |
45 |
四月、素人劇団「樹座」を結成し座長となり、紀伊国屋ホールで「ロミオとジュリエット」を上演、自らも熱演。映画「私が棄てた女」が封切り。遠藤は産婦人科医役となり、浅丘ルリ子と共演。原作『どっこいしょ』の映画化「日本の青春」が封切り。 |
1969 |
46 |
取材のためイスラエルに行って新約聖書の背景を辿る。「定本モラエス全集」編集により、大佛次郎、井上靖らと共にポルトガル大使からヘンリッケ勲章を受ける。 |
1970 |
47 |
テレビドラマ「大変だァ」に毎回ゲスト出演。カトリックとプロテスタント合同の初事業、大阪万博の基督教館のプロデューサーを阪田寛夫、三浦朱門と務める。 |
1971 |
48 |
11月、映画「沈黙」封切り。ローマ法王庁よりシベストリー勲章を受ける。 |
1972 |
49 |
3月、宣教番組「心のともしび」の出演から三浦朱門、曽野綾子らと共にローマ法王パウロ六世に謁見。法王から「日本の他宗教と協力して働いて欲しい」と言われる。 |
1973 |
50 |
3月、「遠藤周作氏と行くヨーロッパ演劇の旅」でロンドン、パリ、ミラノ、スペインのアンダルシア地方を廻り、4月に帰国。6月,、書き下ろし長編『死海のほとり』を刊行。10月、日本人につかめるイエス像を求めた長年の聖書研究の結実である『イエスの生涯』を新潮社より刊行。 |
1975 |
52 |
2月、『遠藤周作文学全集』(全11巻)を新潮社より刊行。日航の招待で北杜夫、阿川弘之と共にロンドン、フランクフルト、ブリュッセルで在留日本人に講演。同月帰国。 |
1977 |
54 |
4月、兄・正介死亡。仲のよい兄弟であっただけに激しいショックを受ける。 |
1978 |
55 |
6月、『イエスの生涯』により国際ダグ・ハマーショルド賞を受賞。 |
1979 |
56 |
2月、『キリストの誕生』により読売文学賞を受賞。「あけぼの」で連続対談開始。以後10年間に107回。遠藤は対談の名手で、刊行された対談集は20冊を超える。 |
1980 |
57 |
5月、劇団「樹座」、オペラ「カルメン」をニューヨーク公演。12月、『侍』により野間文芸賞を受賞。この頃、素人父親コーラス「コール・パパス」結成。冬、上顎癌の疑いで慶応病院に入院し手術。同じ頃、遠藤家のお手伝いの女性が骨髄癌で入院し、検査漬けで苦しんで死んだのがきっかけで、2年後に「心あたたかな医療」キャンペーンを始める。 |
1981 |
58 |
コルベ神父の取材に長崎に行き、神父らが仮住まいした大浦の修道院跡の保存を提言。後に聖コルベ記念室となる。原作『闇のよぶ声」』の映画化「真夜中の招待状」封切り。 |
1982 |
59 |
5月、持ち込み原稿「患者からの願い」が新聞に掲載され、大きな反響を呼ぶ。 |
1985 |
62 |
ロンドンのホテル・リッツで偶然にグレアム・グリーンと出会い語り合う。6月、日本ペンクラブの第10代会長に選任される。 |
1986 |
63 |
3月、書き下ろし長篇『スキャンダル』を刊行。5月、劇団「樹座」の第2回海外公演の為ロンドンへ渡り、ジャネッタ・コクラン劇場でオペラ「蝶々夫人」を上演。10月、映画「海と毒薬」封切り。 |
1987 |
64 |
加賀乙彦の受洗に際して代父となる。 |
1988 |
65 |
安岡章太郎の受洗に際して代父となる。8月、国際ペンクラブのソウル大会に日本ペンクラブ会長として出席。 |
1989 |
66 |
4月、日本ペンクラブ会長を辞任。12月、父・常久死去。 |
1990 |
67 |
10月、アメリカのキャンピオン賞を受賞。 |
1993 |
70 |
5月、順天堂大学病院に入院。腎臓病の為腹膜透析の手術。以後3年半、入退院を繰り返す闘病生活が続く。6月、書き下ろし長編『深い河』を刊行。11月、松村禎三作曲オペラ「沈黙」日生劇場で初演。 |
1994 |
71 |
1月、『深い河』により毎日芸術賞を受賞。4月、『深い河』英訳版刊行。翌年5月には「ニューヨークタイムズ」の書評で2頁に渡り取り上げられ 、「インデペンデント」新聞主催の外国小説賞の最終候補に残るなど世界で高い評価を得る。この頃より薬害による痒みに苛まれるが、「『ヨブ記』を書く」と言う決意から耐え抜く。 |
1995 |
72 |
3月、健康上の理由により新聞連載中止。映画「深い河」封切り。試写を見た遠藤は鳴咽する。9月、脳内出血で入院。以後、口が聞けない状態で順子夫人と手を握り合うことで意思を伝え合う。11月、文化勲章を受章。 |
1996 |
73 |
4月、腎臓病治療の為慶応病院に入院。奇跡的に一時よい状態になり、その間、絶筆となる『佐藤朔先生の思い出』を口述筆記。9月29日、肺炎による呼吸不全により死去。 |