東京美術学校に入学した小磯は洋画家の藤島武二に師事し、1926(大正15)年の第7回帝展(帝国美術院美術展覧会)に《T嬢の像》(当館蔵)で特選を受け、翌年同校を首席で卒業後、盟友の詩人竹中郁とともに1928(昭和3)年からヨーロッパに向かいます。 |
ヨーロッパから帰国した小磯は、日本における西洋絵画の正統な継承者をめざして、類いまれなデッサン力を駆使した珠玉の人物画を数多く描きました。しかしその高い技量は軍部の目に留まり、小磯はつごう4回にわたって従軍画家として戦地に赴き戦争画を手がけることとなりました。 |
敗戦後の日本では、荒廃した文化の復興に芸術家や文化人が総力を挙げて結集しました。小磯や吉原もともに、少年少女雑誌の表紙絵や挿絵、図画工作の教科書の監修、舞台美術の制作などに取り組みました。それと並行して小磯は、戦争画制作で培った群像表現に活路を見出し、高揚する戦後の復興の気分をみなぎらせた作品を多く創作します。一方の吉原は戦争で失った人間性を取り戻すかのように、デフォルメされた少女や鳥といったモチーフを集中的に描きます。 |
戦後の美術界は、旧来の伝統的な価値観が根底から覆され、美術の大きな潮流はフランスからアメリカへ、また具象絵画から抽象美術へと変化していきます。そんな中1950(昭和25)年から母校の東京藝術大学の講師となり、後進の育成につとめるようになった小磯は、新しい潮流を自作に取り入れるべく、従来の画風からは一変して、幾何学的な線描や原色を多く用いた絵画を制作しました。一方の吉原は、自宅を訪れる若き美術家を結集して1954(昭和29)年に具体美術協会という前衛美術グループを立ち上げますが、若き後輩たちが手がける、主に同時代に世界的に主流であった抽象表現主義やアンフォルメル(不定形絵画)を彷彿とさせる、むせ返るような抽象表現を前に、創作に苦しみます。 |
東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年頃を境に、ふたりの作品はそれぞれ新たな展開を迎えます。小磯は抽象的な画面構成を自作から徐々に駆逐し、生来の穏やかな描写を生かして、静謐な人物画や静物画を数多く手がけます。最終的には東京・赤坂の迎賓館の対幅壁画で当代の風俗を記念碑的画面に展開する偉業として結実させました。一方の吉原は、混沌とした画面に円環のフォルムを紡ぎだし、それらは一連の「円」を扱った大作で、簡潔な色彩のコントラストと大胆なフォルムが唯一無二の個性となって結実しました。 |