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富田 砕花

とみた さいか富田 砕花

  • 明治23~昭和59(1890~1984)
  • ジャンル: 詩人
  • 出身:岩手県盛岡市

作品名

木地屋のことども

概要

町村合併で現在は和田山町となった但馬朝来郡竹田は古い城あとやサクラで名の売れた立雲峡の所在地だが、むかしから、たんす・長持・膳椀など家具や木器類の製造で聞えたところだった。今からでは二百五十年もむかしになるが、宝永年間にはその製造に従事する家が百五十戸にも上っていたというから、現在のあの町からのすがたからかんがえてもその盛況は容易に推測される。桜井勉翁の校補但馬考の朝来郡の項に…
竹田、是より東丹波篠山へゆく道に、柳瀬と云処あり、爰ととくひして(按ずるに、とくひしとは蓋ひとしくしての誤ならん)絹を織事此所にかはらぬと也、丹後絹といひて諸国へ売出すも、おほくは但馬絹也、また此町にて、木椀の漆にてぬりたるをうる、其制麁栃なりといへども、其のあたひのやすきにめで、旅人是を買求て帰る者多し云々……
とある。
この柳瀬はもちろん旧山陰道の梁瀬、現在の山東町である。
あの辺一帯がこれも現在では和田山町だが、旧養父郡糸井村の谷筋と同様むかしから養蚕どころで、絹布を織ることがさかんだった。この事実は糸井の谷をつめていけば、出石の方につながり、やがて京都府中郡ざかいの資母地区中山を越えて峰山一帯の丹後ちりめん生産地にも糸をひくわけだが、今はそれには触れまい。
さて、この木工製品の盛業を見たということに関連して、中んずく膳椀の製造についてわたしの関心をそそのかすものがあるのだが、それはこの膳椀などの素製品、すなわち樸をどこから供給されたかということなのだが、いずれこの周辺でも相当数の入手の便があったことと想像されるのではあるが、糸井谷の途中から出石(旧室埴)へ抜ける郡境の堀場あたりは文字の示すように古く礦石を掘った跡だが、例の衣木カツラの大木のある近くに六郎屋敷と俚称されている一ところがある。西床尾(八四七メートル)東床尾(一八九・一メートル)鉄鈷(七一八・二メートル)の諸山に三方をかこまれた格構のところで、そこが木地師によっていつの日にか居住されたことを物語っている。養父町の、合併前の建屋村あたりは当然わたしの想像圏に入ってくる。さらに大屋市場あたりから入っていくいくつかの谷筋、それらももちろんそうであらねばならぬ(大屋市場に木地の小市場のあったことは柳田国男先生の史料としての伝説にも見えている)――これらの谷筋をつめていけばしょせん因幡、美作の方へもれんらくがつく。(竹田漆器はその技術を美作から移入されたと伝えられているそうだ。)しかし今はできるだけ話題の範囲をしぼることにして、旧朝来郡山口村佐嚢地区、円山川の支流、神子畑川の谷奥でできた木地素製品は馬背で、佐仲、内山、坪井、唐川などを経る山中を、いわば間道づたいにぬけて朝来川ぞいの生野の大往還を避けて運ばれたと想像できることから話をつづけよう。
県の広報課の仙賀松雄氏の郷里は神子畑なので、この正月休暇で帰省の際いろいろ調査をたのんだのだが、その土産話の一つにこんなのがあって驚喜させられた――
神子畑には近年までたしかに木地師の人たちのかせぎ場があった。仙賀母堂の話というのによれば、木地師たちは長そでといわれて、普通の百姓家より一だんと上?の階級として扱われていて、いつも刀を一本さしていたそうだ。だが、この人たちも里の人たちと全然交流がなかったというわけのものではなくて、いうなればエトランジェとして里の人たちが多少けむったい気持で木地師たちに接していたということもあろうし、また木地師の側にしてみれば、何らかの拠るべき理由のようなものがあって、見識とでもいうべきものをもち、孤高の境地をしつように護持していたことにも原因があろう。長そでというのは百姓など常民の服装がおそらくもじりだったことに対比すべきものではなかったろうか。仕事着がまさか長そでであるはずもなかろうから、里に下りてくるときの、いわば山着でないちょっとした外出着にそういうものがつかわれたものだった名残だろう。それに或る時代には怪しげな書付?をたてに諸国の山林を往来して勝手次第に振舞い、木地の製品を造り出してでもいただろう特権意識は、腰に一本の山刀をたばさんで里に出てくるくらいは彼らとしては当然の建前だったのだろう。こうして常民から隔絶し勝ちででもあったろう生活の木地師のあるものたちは、この国に多い平家落武者などという伝説をもちつづけたものもあったのではなかろうか。

『兵庫県文学読本 近代篇』のじぎく文庫 163〜166P

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