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田辺 聖子

たなべ せいこ田辺 聖子

  • 昭和3~(1928~)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:大阪市福島区

作品名

「わが街の歳月」神戸
『田辺聖子全集 第二十三巻』より抜粋

刊行年

2006

版元

集英社

概要

「わが街の歳月」神戸

類をもってあつまるというのか、類は友を呼ぶというのか、私の相棒も、気軽な町暮らしを好むほうだったので、仕事場兼住居は、神戸の下町にあった。湊川神社をさらに西へいき、ちょっと北へあがった通りで、神戸大医学部の大病院が近くにあるのに、このへん、医院が多い。それは人口の稠密度がたかいことで、小家が多いのである。
 家の前をずっとサガると(神戸は南の浜側へ向いていくことをサガるといい、北の山側へ向くことをアガるという。また、ウエ・シタとも表現する。「楠公さん〈楠正成〉のウエに住んでいます」というのは、湊川神社の二階に間借りしていることではなくて、神社の北側に家があることだ)、もとの赤線の福原のメーンストリート、柳筋である。
 さらに、その近くいったいに、大きい湊川市場があって、これも闇市が定着したものだが、ここも甚だ盛んな市場で、およそ、売ってないものはない、とわれる。誰だったか、素人芝居で使うので「キマタ」を買いにいったら、ちゃんとあった、といっていた。
 私は、ほんとうは神戸で住む気などなかったのだ。
 大阪っ子だから、、いま尼崎に住んでいてもいつか大阪へ帰ると、漠然と信じていたのだ。人間の運命というのは、全く一寸先もわからないものである。アマ(尼崎)から大阪へ帰るどころか、かえって西へ流れて神戸へ来てしまった。結婚した当初も、私はまだ神戸に抵抗があって、尼崎に住みつづけていたが、とうとうめんどうくさくなって神戸へやってきた。別居結婚というのは仕事を持っている女には便利なのだが、男の方は手数がかかってわずらわしいらしい。打ち合わせも連絡も電話でするのだが、仕事がいそがしいと電話すらかけていられない。ジーコンジーコンとダイヤルをまわす時間も待ち切れないので、ながいこと電話もせず抛ったらかし、一週間ぐらいすぐたつのであった。
 いろいろと不都合だというので、とうとう神戸で同居したが、私はまるで都落ちのような気がし、さらわれてきたお姫さまの気分でいたものだ。
 神戸というと港や異人館や元町、ハイカラでモダンなところと想像していたのに、下町にはそんな匂いも気配もなく、祗園さんの夏祭りには男たちはチヂミのシャツにステテコで参ったりしている。向かいの銭湯からパジャマ姿で出てくるオジサンもいたりして、異人館も港のエキゾチシズムも、どこの話かいなと思わせるのであった。
 つまり神戸の基盤は、こういうところにあるのだ。ざっくばらんな庶民文化が根にあって、それが神戸の風通しのいい気風をつくり、異人館もモダンも、その上に咲いた花、あるいはケーキの上にのせられている、クリームやらサクランボの飾り、といったものなのだ。
 神戸は新興の庶民都市なのである。そのぶんキメあらく、豪快なところがあり、フロンティア精神に富んでいる。うわべだけのハイカラ都市ではないのだ。


『田辺聖子全集 第二十三巻』より抜粋・P494?P495・「わが街の歳月」神戸/集英社

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