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兵庫ゆかりの文学

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浅見 淵

あさみ ふかし浅見 淵

  • 明治32~昭和48(1899~1973)
  • ジャンル: 評論家・小説家
  • 出身:兵庫県神戸市

作品名

概要



S丸がK港に入港した日の翌朝である。
OはK港の遊廓で一夜を明かした。目を覚ますと、もう相手の女は起きていた。そして、日は障子の一番上の桟を照らしていた。一匹の蝿が、その日溜りでぶぶぶぶと羽搏きしているのが、如何にも暖かそうだった。どっかで、だるいはたきの音がした。
Oは、中学時代の遠足の明くる日のようなすがすがしい気持で、蒲団の中でのうのうと欠呻をして背伸びした。それから、腹這いになって、ゆっくりウエストミンスタアを吸った。
枕許の障子の箝硝子には、洗ったような晴れた秋の空があった、油絵のような南米あたりの空とはちがって、如何にもしっとりしていた。それが、高等学校時代を田舎で暮したOに久振りで山を思い出さした。
同時に、海上や、町々の間から眺めた、K港の傾斜街の上に聳えている青い山脈を、Oは思い出した。
「いま山はいいだろうな。何時か出掛けてみるかな」
Oは思わず独語ちた。
左う云う彼の頭には、赤土のきりぎしに光る芒や、もくりもくりと長い山寺の石段を挟んだ暗い杉木立なぞが、懐しく浮んでいた。
「なにかご用?」
隣の部屋で、二の腕を出して赤い長襦袢一つで鏡台に向っていた女は、彼の声を聞きつけると、鳥渡片靨を見せて振返った。
「え?ひとり言を云ってたんだよ」
「どんなひとり言?ゆうべ、奥さんの夢でもごらんなすったの?」
「ひとりだって、ゆうべ云ったじゃないか」
「なあんて、お船の方はみなさん、お口がお上手ね」
「なにね」Oは起きて来て、長火鉢の前へ胡坐をかいた。
「あんまり天気がよすぎるだろう?そこへもってきて、なんしろ俺は、まいにち海ん中で暮してる人間と来てる。急に山に登りたくなってさ、ついひとり言を喋ったんだ」
「どうだか、――怪しいもんですわ」
直ぐ女も、箪笥の上へ鏡台を片附けるとやって来た。そして、たぎっている鉄瓶の湯を急須に移し乍ら、鳥渡真面目な顔をして、
「山って、ここじゃあどのへんにあたりますの?」と、訊ねた。
「なんだ、それを知らないのか?」
「ええ」
Oは、ゆうべ俥の上から眺めた、遊廓の辻々に迫っていた暗い山の姿と仄白い星空を思い浮べた。すると、なんだかこう女がお伽噺の主人公のように思えて来た。
「通りヘ出ると、鼻の先に見えるじゃないか?」
「あたしOからここへ鞍替えして来たのは夜でしたの。それに、たまに物干しへ登っても、遊廓でしょう。周りはうちのような三階の家ばかりで、空しか拝めないの」
「なるほどね」
「Oでは煙突の烟ばかり見て暮したし、こっちへ移ってからもそんな有様だし、――左うね、三年余りも山を見ませんわ」
女は、左う云うと、長煙管に莨を詰めて、一服うまそうに吸った。それから、吸口を口にあてて、上ずった眸をし乍ら、しみじみとこんな話をOにした。
あたしは山裾の桑畑の中で育ちました。丁度今頃は、お蚕さんが済んでお百姓は鳥渡ひまなんです。あたし、おぼえてますわ。今頃になると、お天気のいい日を選んで毎年のようにうち中のものが揃って、山奥のお宮にお参りしましたことをね。
なんでも、そのお宮はお蚕さんの神さまが祭ってあるとかで、黄いろい種紙の裏に馬を描いた絵馬が、たくさん上げてありました。お宮があるのは沼べりなんです。沼には菱の実が一杯浮いています。あたし達は茹栗のような味がする菱の実を採ったり、お午になってそこに一軒しかない掛茶屋で、川蝦の天ぷらでご飯を喰べたりするのが、子供の時分そりゃあ楽しみでした。
しかし、女は、そこまで話し続けて来た時、不図、余りに独白的になって来たのに、自分
で気が附いたのであろう。
「あなた、おかしか無い?笑っちゃいや」
かの女は寂しく頬笑んで、Oの顔を見守り乍ら云った。
「笑うどころか、感動して聞いてるよ」
「まぜかえすもんじゃありませんわ」
が、かの女はそのまま黙ってしまった。激しい感動が、幾年振りかで、かの女のこころを掻き乱したらしかった。そして、反照的に、現在の境遇が、一そう身に沁みて来たらしい。
Oは、睫毛を伏せた女が、涙を滲ましているのを、不図、一暼して、見てはならないものを見たような気がした。
(後略)

『浅見淵著作集第三巻』河出書房新社 P.15〜17

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