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兵庫ゆかりの文学

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椎名 麟三

しいな りんぞう椎名 麟三

  • 明治44~昭和48(1911~1973)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:姫路市書写

作品名

概要

私は、小さいときよくその山に上つた。書写山と云つて、その頂上に円教寺という大きな伽藍があり、西国の札所の一つになつている。私の村は、その東の登り口にあたるので東坂本と呼ばれていたが、西坂よりもはるかに急であつた。九十九折の道というが、不器用な男が仕方なく針をもつた縫物の後の糸のように、三キロ近くも山肌をギクシャクと登つているのである。しかもその道は、いまでも殊のほか荒れていて、雨上りの後など全くひどい。
子供のころ登つたと云つても、殆んど山の仕事のためであつて、お寺参りはもちろんのこと、遊びのためですらなかつた。このあたりの山一帯は松茸で有名で、秋には松茸がりの客で賑う。私たち子供は、それらの繩張りの外の場所の松茸を探しに行くのだ。自分々々の家のおかずのためにである。初冬になると、落葉かきがはじまる。家ごとにその場所が割り当てられるのだ。もちろん高い場所ほど落葉は少く、しかもその上り下りはつらい。だが、どうしてもそんな場所のあたる不運なひとの出て来るのはやむを得ない。だが、私の母は、どうしてかクジ運がわるいと自分で諦めていたので、クジの方も気安く一番わるいのを与えられたようである。
だが、そう決ると、私の母は、病身のくせに気負い立つてしまうのだ。彼女は、やせた力のない身体でむりにその高い不便な場所に登つて行く。いつもの暗い陰気な彼女は、生々として嬉しそうにさえ見える。彼女は、いどみかかるように、常緑樹で日を遮つている山肌の落葉をガンジキといいならわしている熊手で掻(原本はてへんに蚤)く。私はもつぱら運ぶ役だ。ひとりで山で働いているなんていやだからである。母は、真暗になるまで懸命に働いている。そして最後は、私が危がるのにひとより倍も大きな荷物をせおつて、私と一緒に山を降りて来るのである。
だがこんな母の状態は、一日かせいぜい二日ほどしか続かない。彼女は、どつと寝込んでしまつて、自分の絶望でも見つめているような暗い陰気な顔になり、ものもいわなくなつてしまうからだ。するとその彼女の息子である小学生の私に、その山仕事の後始末がかかつて来るのである。
翌日学校から帰ると、今度は私ひとりで山に上つて行く。その私は、臆病と勇気が、それぞれはつきりした形で奇妙に混合している。私は、梢の葉ずれの音や茂みのそよぎにおびえながら、山襞の間を掻(原本はてへんに蚤)く。大きな喬木の根もとに母のつくつた落葉の荷を見つける。そのしばつた繩は、子供の私が見てもゆるいもので、背負つて帰つて行く間に、バラバラ抜け落ちそうである。私は、その繩のゆるさに弱り果てている母の身体を感ずる。私は、母のこしらえたそれより小さいがしつかりした荷にこしらえなおしはじめる。
あるとき、気がつくと突然夜になつていたのだ。私はあわてて、こしらえかけたままの荷を背負おうとした。だが、それは立ち上つた瞬間にバサッと背中から抜けてしまつたのである。私は、どうしていいかわからずに立ちすくんでしまつた。荷なしで帰るなんて、ヒステリックになつている母から気ちがいじみた小言をあびせられるにちがいなかつたからだ。だが、私は、荷をすてておいて、山の鋭い斜面を懸命に這いあがりはじめていた。母の小言より山の夜のほうがこわかつたからだ。
だが、いくら登つて行つても、あの坂道へは出て来ないのである。私は、きつねにだまされているのかと思つて、眉につばをつけ、頬をつねつた。その頬は、残念なことに涙でぬれていた。そして手足は、何かで傷が一杯できているらしく、いたるところがヒリヒリしていた。私は、バシバシ枯枝の音を立てながら、登りに登つた。そのとき私は、やつと巨大な岩のところへ出たのである。その岩には見覚えがあつた。弁慶の足跡のある岩の近くにあるそれだつた。私は、自分がとんでもない方向に登りすぎてしまつていることを感じた。
それでも私は、ほつとすべきだつたのだ。何故なら、その岩をぐるりとまわつて、道への崖のようなわずかな急斜面を這い上がればよかつたからだ。だが、私は、どうしてかここに立ちすくんでしまつていたのである。闇のなかに黒々と大きく空へ突き出ているその岩が、私の近づくことを拒絶しているように見えるばかりか、その私を敵意をもつてじつと見つめているようなのだつた。すると私に、友達とその岩の上から小便をしたことのあることが思い出されて来たのだ。その小便は、思つたより遠くへとばずに、岩の端へひつかかつて沫をあげたのだ。
(後略)

『兵庫県文学読本 近代篇』のじぎく文庫 190?193P


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