かじい もとじろう梶井 基次郎
- 明治34~昭和6(1901~1931)
- ジャンル: 小説家
- 出身:大阪市
作品名
伊丹稲野よりの手紙
概要
もう冬に向ふのに淋しい山中へ行つたものだ。しかし人の住むところなら君の身体は大丈夫だらう。仕事のあひ間には山の便りをくれ給へ。時候はづれの山は却てきつと君の詩嚢を肥やすだらう。
僕の部の厚い手紙読んでくれたか。あのなかに書いてゐた如く先月廿八日
兵庫県川辺郡稲野村千僧
といふところへ移つた。「稲野」は「有馬山いなの笹原」のいなのだ。君の記憶のために、読売でまた川端氏に讚められたこと非常に嬉しい。僕はずつと手紙を出してゐないが、僕は川端氏がもつと多作するやうにと云つてゐることに対し作品を黙つて書くことが一つの返事になると思つてなるべく多作を心がけてゐる。
僕の南縁からは広い空が見える。この辺は坦々たる平野でこの広い空に棚引くものは平野の雲だ、此頃非常に美しく思つてゐるものに広い空かけて真一文字に刷毛で刷いたやうな実に高い雲がある。
氷片のパーティクルで出来てゐるといふのはこの雲のことだらう。動かない、その質がとてもいい。絹のやうだ。日光でハレイションを起してゐるのもある。
例の空の一点から湧き出る雲はここでは見ない。あれは実際山のものなんだらうか。
僕最近改造社の日本文学全集のなかの現代短歌俳句集なるものをなぐさみに拾ひ読みしてゐるが、殊に俳句を読んで日本の現代にこれほど多くの自然詩人が生活してゐたのかと思つて実に変な気がした。これは変な感じだよ。僕は考へて見る必要があると思てゐる。
永くゐるやうだつたらいつか牛肉の粕漬を送らう。金は――と心配する勿れ、岩の凹みにも水は溜ることがある。 草 々
十月三日 基 次 郎
達 治 様
『兵庫県文学読本 近代篇』のじぎく文庫 99〜100P