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兵庫ゆかりの文学

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大岡 昇平

おおおか しょうへい大岡 昇平

  • 明治42~昭和63(1909~1988)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:東京

作品名

概要

昭和二十年十二月私が復員して落着いた妻の疎開先は、明石の西方一里半、山陽線に沿った大久保という田舎町である。大久保とは無論大きな窪地の意味であろう。駅から南へ神戸製鋼の分工場を迂廻すると、方三町ほどの大きな沼沢地があって、葦が繁り鮒が漁れる。しかし土地全体が海からかなり高いことは、さらに南へ十町行くと、突然切り立つような海蝕崖に出るのでわかる。正面には淡路島がおよそ島とも思えぬ堂々たる山容で控え、左は明石の瀬戸、右は瀬戸内海の東端を飾る小島の数々が、遠く影絵のように浮ぶ、平らな海が拡がっている。
大久保の町は駅から海と反対側に向う一つの通りを中心に開けている。開けているといっても、無論何ほどのこともない。まず駅から取っつきの両側に運送店と飲食店、それから八百屋、魚屋、時計屋、雑貨屋、古道具屋なぞ半町ばかりごたごた並んだ先が、阪神国道の延長である舗装された国道と交る十字路の四隅が、煙草屋、肉屋、旅館、交番で陣取られたあたりで終る。あとは、遥か二十町ばかり先の、土地の人が「山」と呼んでいる丘陵の連った麓まで一面の田地となって、そこここ集落の屋根がかたまっているだけとなる。

人口はどれほどあるか知らない。大久保宿が江戸時代から存在したのは、例えば伊沢蘭軒の旅日記によっても確められるが、現在の駅を中心に店舗が軒を並べているのは、主として戦争中から附近に殖えた阪神の工場の分工場のためである。
大久保は平地に載った町であるが、前述のように海面よりかなり高いので水の便は至って悪い。田圃へ入れる水は「山」の谷を何段にも堰いて作った溜池から引く。その年の九月の豪雨で池の堰が切れて二十町の田畠が流された。だからいくら田舎とはいえ、この土地には今年は米はないのである。
国道が駅の東方で一つの川を渡る橋も落ちた。夜、妻と寝ているとゴロゴロと遠雷のような音が聞えて来る。
「あれ、何や」
「進駐軍が架けた橋を車が通る音。一晩で架けてしもうたよ」
姫路の米軍工兵隊は鋼索で框を吊り、鉄板を並べたのである。
わが家はその川が平地を開析した狭い流域に東面している。川は幅一間ばかり、水は石を伝って渡れるほど少いが、これはむろん山で上流を堰いているからで、農民の手が干渉しなかった頃の側浸蝕作用を示した凹形の河谷がかなり広く発達している。岸は萱が連っているが、冬その枯れた葉は農家にとっていろいろ用途のあるもので、刈取権は集落別に厳密にきまっている。
萱の列の外側は田圃である。こちら側へは約十間で終り、三間ばかりの段丘となってわが家の縁先に到っているが、向う側は半町以上も田圃が続いて、やっと同じく三間の崖となって終る。二つの道がそれぞれ段丘の裾を伝って下流に向う。
向う側の段丘の上の平坦地を横にまた一つ道があるらしく、自転車へ乗った人の上体が見える。この辺の道はすべて国道と直角に交って、丘に向っている。丘は高さは五十尺ばかり、第三紀層に属し、雨水に浸蝕されて処々悪土の形相を呈しているところもあるが、大部分松に蔽われて、附近の農民に薪木を供し、また秋は松茸を附ける。戦前は多少山気のある農家が、その松茸山の採取権を買い取り、神戸市民に宣伝して、一日採り放題いくらの遊楽を売りつけたこともある。
東に遠く長く単調なコンクリートの塀を廻らしたのは刑務所である。四隅に監視櫓があり、サイレンのラッパが外方に向いているのが見える。私がここで暮した二年の間に、サイレンは一度だけ鳴ったことがある。流行の強盗殺人犯人が逃走したのであった。我々は大いに怖れ、自警団を組織したりしたが、犯人は案外あっさりと山の松林で縊死していた。「無期懲役はいやだ」と鼻紙に鉛筆で書き残してあった。
復員二日目に見た新聞紙の地方欄が、この刑務所の待遇について報じていたのは、俘虜として一年を過して来た私には、何となく皮肉に感じられた。二人の痩せた囚人の写真が載っていた。スパナーのように関節ばかり太くなった痩せた手足を曲げ、肋骨の数えられる胸を突き出していた。記者はむろん民主的論調をもって大いに刑吏の苛酷を非難していた。しかしその後たまに駅に到着して、旧態依然たる深編笠に腰縄で護送されて行く囚人の姿を見ては、どうも民主的改革なぞまだまだとしか思われなかった。
私の入っていた比島の収容所はパシフィック一の模範収容所だそうで、給与その他至れり尽せりであった。
我々は囚人として甚だ中途半端な存在であった。だから私はむしろそれら痩せた囚人を羨んだのである。
刑務所の右に遠く六甲山塊が低く見えた。さらに右へ廻って、国道が白く野を貫いた南に、淡路の山々が連なっている。
大久保は宮本百合子女史の名作『播州平野』の末段、出獄した夫君との再会の期待に胸をふくらませた女史が、かたり、ことり、荷馬車に揺られて行ったあたりである。
しかし海より五十尺高い大久保の平地は本来の播州平野ではない。山陽線が大久保駅からさらに二里西行し、鉄路に迫った丘陵の裾を迂廻して加古川の流域に下りる、そこからが奈良朝以来、いつも豊かに朝廷に米を捲き上げられていた播州平野である。
(後略)

『大岡昇平全集 3』筑摩書房 380?382P

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