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兵庫ゆかりの文学

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庄野 潤三

しょうの じゅんぞう庄野 潤三

  • 大正10~平成21(1921~2009)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:大阪府

作品名

早春

刊行年

1982

版元

中央公論社

概要



「さあ、神戸やったらどこから話したらええやろか」
すると叔母が、神戸の港が栄えたのはすぐうしろに六甲という素晴しい山があったからではないかという意見を持ち出した。
「そやないやろ。神戸は輸入港やったから」
叔父はあっさり否定した。それでも叔母は、こんなに沢山の外人が神戸に住み着いたというのは六甲のお蔭じゃありませんかと粘る。
「いや、輸入港やったから外人がようけ来たんやろ」
ここで叔父が、横浜は輸出が多かったんよ、神戸は反対に輸入が多かった、私らの子供の時分にはといった時、庭で鋭い鳥の鳴き声が聞えた。
「百舌や。百舌が来た」
急に声を低くした叔父は、縁側の硝子越しに庭を見つめたままいった。椿の枝が揺れている。
「ひよどりみたいですね」
関東の多摩丘陵に住むようになって二十年近く、庭へ来る烏の常連ともいうべきひよどりとは馴染だから、多分、間違いはないだろう。叔父もすぐに分って、ひよや、ひよですわといったが、鳥はすぐにいなくなった。
「神戸は輸入港ですわ」
ともう一度いってから、叔父は、どこから話したらええやろかなあと考えた。私らが中学へ入った時分は、まだ居留地のあとが残ってました。いまの大丸のところから東へ、ずうっと海岸通までが居留地やったんです、あの一角が。
「地図あるでしょう、神戸の地図が。あったら見せて頂戴」
はいと返事して妻が神戸区分地図を取り出す。生田区だ、生田区とこちらは教える。叔父は地図を受け取って、
「これですか」
これ生田区ですと私。
「これが元町通。これが阪神。阪神はあの時分、大阪の出入橋から出てたんです。私、芦屋の叔父のところへ月給運ぶのにいつも阪神で行くことにしてました。おりてからちょっと歩かんならんのですけど」
あまりに細かいので、叔父は生田区の地図から居留地のあとを指し示すのを諦めた。
「とにかく大丸から三宮駅へかけて、それから南がそうです。いまのオリエンタルホテルのあたりが中心でね」
市役所の南側に遊園地が残ってます。前はもっと広い遊園地でね、そこに外人のクリケット・クラブがあるんです。そのクリケット・クラブと一中の野球部がよく試合をして、私ら応援に行ったもんです。向うは年の行った人もみな入ってました。その時分には早や山手の北野町とか山本通のあの辺に外人の屋敷が沢山ありました。ハンターとかハッサム。外人はみんな家と店とを別にしていました。あの辺はもう全部、外人の居宅やった。テレビで有名になった風見鶏の家なんかもありました。あれはドイツ人が建てたんですわ。すると、三月になったら一遍見に行きましょう、私、まだ見てないのと叔母。
「そして居留地には店だけでした。私ね、思い出したら、ちょっちょっと書いてみたんですけど」
叔父はメモ用紙を取り出してめくりながら、
「ハッサム、ハンター。これは有名ですわ。それから布引炭酸いうのをやってた人があるんです、外人でね」
それも居留地に店を持って、北野町に家があった。これ、布引炭酸の家やいうてよう見たもんです。名前忘れたんですけどと残念そうな口ぶり。
「それからラムネね。十八番いうのはラムネを製造したところです。球入れたラムネあったでしょう、昔。いまもありますけど。あれを日本で初めて製造したのが十八番の家です。十八番のラムネいうてこれも居留地にあったんです」
外国人の女の人は見かけましたか。見ましたよ。外人の女の人はみな帽子かぶって、ここへ網みたいなのを、あれ、何ちゅうんです。ベールですかと妻。ベールかけて、長いスカートはいてね、手をつないで元町よう歩いてました。さすが神戸やな思って、珍しいもんやから私ら、立ち止って見たもんです。そのうちに馴れてしまって、もうそんな失礼なことせんようになりましたけど。
叔母が、三宮から異人館めぐりの観光バスが出ているから、あれに一回乗ってみましょうというと、叔父は、あれ、AコースとかBコースとあってね、市内ぐるっとまわって六甲の方へ行くのとか、須磨まで連れて行ってくれるのとか、いくつかあるんです。船に乗って港から神戸見るのとかね。二つか三つくらいあるんです。それはよろしいですねと私たち。一遍聞いときましょう、時間を。あったかくなったらご一緒に乗ってもよろしいですなあ。そうですね。今度、時間聞いときますわ。叔母が、私まだ見てないの、風見鶏といった時、
「あら、えらい雪が降って来た」
叔父の声に驚いてみんな縁側の方を振り向くと、庭先に明るく雪が舞っている。
「初雪や。芦屋の初雪ですわ」
日が当ってきれいですねと妻。
「まあ、初雪が降って来た。珍しい。これまた俳句になりますわ。風花」
呟くようにもう一度、ええ、風花でと叔父は庭を見つめたままいうと、ひとつ鼻をすすった。
(後略)


『早春』中央公論社 P.78?82

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